故郷を想う

2019年11月 5日 (火)

幼友だちと浦野の山をめぐりました  大法寺三重塔、東昌寺、馬脊神社西之宮、皇大神宮、馬脊神社東之宮

      このブログに掲載する写真選びや準備で投稿が今日になりました。
台風19号で千曲川が氾濫し堤防が決壊し、必死で立ち向かっている長野、上田のみなさんに心から応援のエールを送ります。

 
   浦里小学校・中学校(1955年、1958年卒)の同年会が12年(2007年11月)ぶりに10月6日・7日と青木村田沢温泉富士屋ホテルで開催され出席しました。中学卒業以来61年ぶりに再会した友だちもいて、楽しく有意義な同年会となりました。

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 同年会開催の連絡をもらい、帰郷の機会を生かし浦野の山を歩きたいと思いました。
事前に、小・中と同級生だった浦野のS・Tくんに電話で「案内してもらえないだろうか」とお願いしたところ「歩くのは難しいが車で案内するのなら」と快く引き受けてくれました。
 同年会の2日目の10月17日、解散になったあとS・Tくんの運転で浦野の山めぐりをしました。

幼いころの思い出がたくさんある浦野の山の名所を久しぶりに訪ねてみたかったのです。
希望した場所は次の6ヶ所でした。
〇青木村当郷大法寺三重塔(以下、上田市浦野)〇東昌寺〇馬脊神社西之宮〇皇大神宮〇馬脊神社東之宮〇浦野古墳と浦野古城跡。

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① 国宝大法寺三重塔
 

   
青木村当郷天台宗境内
「見返りの塔」とよばれる国宝で、私の生家から歩いても行ける上田市と青木村の境に位置しています。中学3年の時に分村で当郷は青木村と合併しました。子どもの頃から何回も訪ねている忘れられない場所で、訪ねる度に新たな感銘を覚えます。
三重塔は1333年(鎌倉幕府の終わり)に建立されました。
 今回、新たな発見がありました。

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前日、ホテルに行く途中で、青木村殿戸(とのど)に在る長野県宝に指定されている日吉神社を訪ねることができました。日吉神社は比叡山延暦寺と縁の深い神社で、天台宗の大法寺とも深い縁があり、日吉神社を取り囲む木々や住宅の空間から三重塔を望むことができました。私には、遠くから大法寺三重塔を眺めるのは初めてで、なかなかの展望でした。
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(長野県宝 日吉神社で)

大法寺で何枚もの写真を撮りました

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(相輪をアップしました)
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一層にこの塔の特徴の一つ蟇股があります   
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② 東昌寺
  
曹洞宗 鐘楼と浦野氏宝篋印塔(ほうきょういんとう

 〇 鐘 楼

 東昌寺の鐘楼は1841年(江戸・天保12)に建てられたもので上田市の文化財に指定されています。梵鐘は文化勲章を授与された香取秀真(ほつま)が製作。1953年9月に梵鐘が納められ、香取は坂道を駕籠で登ったことを私は覚えています。長野県でも有数の鐘楼だそうです。

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(前日、阿鳥川から望む東昌寺)
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〇 浦野氏6氏の宝篋印塔(供養塔・墓碑塔)

実名はわからないそうですが、宝篋印塔に向かって右端の塔に「光桂宗玉」、天正10年(1582)8月6日と刻まれていて、頭主と思はれ、この人は「浦野源一郎」と小泉家文書にある人と推定されています。

浦野氏は平安時代末期の1150年頃に祢津氏から分かれ、浦野字前沖内堀・下前沖など土地を開発し、阿鳥川から水を引いて開田し、開発所領としました。

鎌倉時代初頭1190年頃には「浦野」を名乗り、幕府の御家人になり、日古社領浦野庄の「地頭」になりました。南北朝時代から室町時代に浦野の谷の各地(上田市浦野から青木村)に分族が発展。戦国時代に入ると、浦野は1541年に村上氏の攻撃を受け、1553年には武田氏の配下となる変転がありました。1582年、武田氏の滅亡後は分族のそれぞれが400年余にわたる発祥の地浦野を離れました。
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(「光桂宗玉」、天正10年(1582)8月6日と刻まれていて、頭主と思はれ、この人は「浦野源一郎」と推測される)

③ 馬脊神社西之宮

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△ 途中で浦野上水場跡(1926年2月に竣工し963人に給水を行った)があり立ち寄りました。

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前日、阿鳥川から浦野の山を眺める
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前日、阿鳥川と子檀嶺岳
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前日、馬脊神社西之宮を望む

 「浦野」は大宝年間(700年代初頭)都から浦野を通って陸奥へと開削された「東山道」の「浦野駅」(青木村)が置かれ、既に通用していた地名で、三方を山に囲まれた野原でした。

馬脊郷、馬脊神社、馬越村・・・馬脊神社の周辺でみな浦野の山の地でのことです。

1600年代、徳川が天下をにぎった頃に浦野宿が開設されました。

 東昌寺の下の方は馬越(まごせ)とよばれていて、子どもの頃に桑つみなど農作業を手伝い帰りに沢で沢蟹を獲って帰り、鉄板で塩えりして食べたことを思い出します。
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馬脊神社西之宮
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神楽殿
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西之宮本殿

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夫神岳
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眼下に生家と阿鳥川が 懐かしい眺め

 馬脊神社西之宮には神楽殿があり、祭りになるとこの舞台でいろいろな出し物が行われ楽しんだ思い出があります。振り向くと阿鳥川、私の生家が眼下に、右には夫神岳が見えました。

 友だちは最近、浦野の山に鹿が表れるようになり、リンゴ畑を荒らして困っているいると話していました。昔には考えられない出来事で驚きました。なぜ鹿が?

△ 薬師堂、万葉歌碑、浦里小学校

 子どもの頃「尻つみ薬師」と呼んで縁日には楽しんだ薬師堂も懐かしい。
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薬師堂 (尻つみ薬師とよんだ)
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東昌寺の仁王門
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万葉歌碑
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そして万葉仮名で刻まれた万葉歌碑です。 

可能古呂等宿受夜

奈里奈牟波太須酒

伎宇良野乃夜麻爾

都久可多興留母

<彼の児ろと寝ずやなりなむはた薄

宇良野の山に月片寄るも>

 この宇良野は浦野を指すと言われています。

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焼死前の2011年10月に私が撮った浦里小学校全景(丸の部分の2棟が全焼した)
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焼失した140年の歴史を伝えてきた浦里小学校校舎

 創立140周年の浦里小学校が2012年9月5日に不審火で焼け落ちて涙しましたが、それ以来初めて浦野の山から眺めました。


④ 皇大神宮

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鳥居をS.Tくんが請け負った
 
案内してくれたS・Tくんが「この鳥居はおれが建て替えの仕事したんだよ」と教えてくれました。境内の杉の木を使って鳥居を造ったそうです。私は「すごいね、宮大工だね」と労をねぎらいました。

 街並みをみてこれが浦野宿の跡なんだと思い、ここには何人もの幼友だちの家があったなあと思いながら通りました。S・Tくんが「あれ○○さんの家」と教えてくれました。


⑤ 馬脊神社東之宮

 この東之宮は、私の記憶には全く蘇らないのです。私は東之宮にはほとんど行かなかったのではないでしょうか。
S・Tくんに「さっぱり思い出せないんだ」と正直に言いました。東之宮はS・Tくんの近くで、彼は「西之宮と同じ高さの場所に造られているんだって」と教えてくれました。
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東之宮の鳥居 S.Tくんが請け負って建て替えた
この日の山めぐりで一番苦しい山道登りでした。
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東之宮本殿
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本殿 S.Tくんが精魂こめて造った本殿

 神社の鳥居に着くとS・Tくんが「この鳥居と、本殿の改修を私がやったんだ」と教えてくれました。神社3ヵ所の改修を行ったのです。
そういう事なので注意して本殿を見たのですが屋根に覆われていて良くは見れませんでした。
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戦争を伝える松
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 鳥居から本殿までの間に「戦争を伝える松」という告示板が設地され1本の松がありました。戦争中に松の脂採りをした歴史を振り返っていました。「戦争遺跡」として後世に伝えたいと書かれていました。


 次に浦野古墳・浦野古城跡を訪ねることになりましたが、S・Tくんが指さして「いま行ってきた
東之宮よりさらに山を登らなければならないよ」と説明。これまでの行動でけっこう疲れていることもあり、無理はしないことにし、古墳と古城跡行きは取りやめることにしました。又の機会に訪ねたいと思います。

△ 浦野高札場跡を見ました

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😃 浦野の山をめぐって本当によかったと思いました。S・Tくんには「本当に来てよかったよ」と感謝の気持ちを伝え上田駅まで送ってもらい別れました。
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上田駅前で

😃 この浦野の山めぐりを文章化する中で、浦野宿の街並みを記録に納めることをすっかり忘れていたことに気づきました。浦野の山と浦野宿は一体のものだったのに。これから先、機会を作って実現したいと思います。

😃 行動してみると新しい発見がいくつもあり、人々の営みも感じました。

 

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