基地のない平和な沖縄を

2016年9月18日 (日)

沖縄県民の気持ちを踏みにじる、国に偏った判断

 沖縄県の翁長雄志知事が違法確認訴訟の高裁判決を受けて発表したコメント全文(9月16日)は次のとおりです。

辺野古新基地 違法確認訴訟判決
  翁長雄志知事のコメント

Img_ad1c711c3315ebdcabc213ae2e27e_3 本日、地方自治法251条の7第1項に基づく不作為の違法確認請求事件の判決が、福岡高等裁判所那覇支部において言い渡され、国土交通相が行った是正の指示に沖縄県知事が従わないことは違法である、との判断が示されました。

 判決は、「普天間飛行場の被害を除去するには、本件新施設等を建設する以外にはない。言い換えると、本件新施設等の建設をやめるには普天間飛行場による被害を継続するしかない」と述べるなど、辺野古が唯一との国の主張を追認するかのような内容となっており、地方自治制度を軽視し、沖縄県民の気持ちを踏みにじる、あまりにも国に偏った判断となっております。
 判決では、公有水面埋立法第4条第1項第1号、2号要件など全面的に国の主張を受け入れており、ことごとく県の主張を退けております。
 例えば、1号要件に関しては、本来であれば緻密に比較衡量を行ったうえで判断しなければならないところ、一方では埋め立ての必要性の中で軍事的な面について踏み込んだ判断を行い、他方では自然環境面については一切考慮しないなど、裁判所がこのような偏頗(へんぱ)な判断を行ったことについては、驚きを禁じ得ません。
 さらに、国地方係争処理委員会についても、「国地方係争処理委員会の決定は和解において具体的には想定しない内容であったとはいえ、元々和解において決定内容には意味がないものとしており」と述べ、地方自治法に定める係争処理制度を軽視するなど、平成11年に国と地方公共団体は対等・協力であるべきとして行われた地方自治法改正の趣旨からもほど遠いものとなっています。

 このような判決は、憲法や地方自治法、公有水面埋立法の解釈を誤ったものであり、到底受け入れられるものではありません。
 裁判所には、法の番人としての役割を期待していましたが、政府の追認機関であることが明らかになり、大変失望しております。
 埋立承認取り消しは、公有水面埋立法が求める要件を丁寧に検証した上で行ったものであり、国土交通相から是正の指示を受けるいわれは全くありません。

 今日までの歴史的な状況を含めて、何故、沖縄県だけが他の都道府県と異なる形で物事が処理されるのか、一地方自治体の自由・平等・人権・民主主義・民意が、一顧だにされないということが、今日、他の都道府県であり得るのか、大変疑問に思います。
 国と地方公共団体が対等・協力の関係であることを定めた地方自治法においては、国の関与は最小限度でなければならないという基本原則があり、地方自治体の自主性と自立性は尊重されなければなりません。
 このような判決は、沖縄県だけの問題にとどまらず、これからの日本の地方自治・民主主義のあり方に困難をもたらすのではないかと、大変、危惧しております。

 今後、最高裁判所に上告及び上告受理の申立てを行い、不当な高裁判決の破棄を求めるとともに、憲法で認められた地方自治が本来の役割を果たすことが出来るよう、力の限りを尽くして訴えてまいりたいと考えております。

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2016年8月23日 (火)

「戦わないために、今、闘っているの」  最後の証言

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「沖縄戦 最後の証言」
おじい・おばあが米軍基地建設に抵抗する理由
 森住卓 著 フォトドキュメント
新日本出版社発行

 ふと目に留まり購入しました。

辺野古新基地建設反対、東村高江へのヘリパット建設は許さないと、闘いに参加している8人のおじい・おばあが自らの沖縄戦の体験をインタビューで紹介しています。

 どの証言にも涙しながら読み進みました。
一人でも多くの人たちに読んでほしいと願って一部を紹介させていただきます。


沖縄戦悲劇の始まり、サイパン島を生き延びて

     横田チヨ子さん(87歳)

〝戦わないために、今、闘っているの〟

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(中略)

 捕虜となる

 二晩ほど山の中を彷徨(さまよ)った。
 父、兄を失い、母は行方不明。自分ひとりで姉のお産が来たらどうしようという不安があった。母が父のいるところに戻ってくるんじゃないかという気がして、結局、父たちの遺体から離れて遠くに逃げることができなかった。
 「日本人は全滅した、自分たち二人しか生き残っていない」と思いつめたチヨ子さんは、海に入って死のうと兄嫁を誘った。しかし、兄嫁は「お父さんは死ぬなと言ったよ」と、海に入るのをいやがる。それでも、自分が先になって海に入っていった。現在バンザイクリフと呼ばれている崖の近くにある遠浅の海だった。
 何時間か海水につかっていたが、死にきれなかった。びしよ濡れで海から上がり、壕を見つけた。逃げ込んだ壕には住民がたくさん隠れていた。生き残ったのは自分たちだけだと思っていたチヨ子さんたちにとって、たくさんの住民がいたことは心強かった。
 そこで知り合った女の子と、近くのスイカ畑にスイカを取りに行くことにした。
 のどの渇きを潤すスイカに夢中で、畑の向こうの丘に米兵が立っているのが見えなかった。すぐに米兵の射撃が始まった。怖くてスイカを抱えたまま俯せていた。銀バエが体中にたかって、払いのけても、払いのけても、体中にたかってきた。周りには死体がごろごろ転かっていた。何時間もじっと動かず、死んだふりをしていた。暗くなって顔を上げると、チヨ子さんを死んでいると思った米兵が去って行くのがわかった。
 スイカを抱えて兄嫁のいる壕に戻った。やられたと思っていた兄嫁はチヨ子さんの姿を見て泣いた。
 翌日から米軍が「戦争は終わった。デテコイ、デテコイ」と、拡声器を使って投降を呼びかけてきた。その二日後に手榴弾が投げ込まれた。出口近くにいた人たちが負傷し、そして捕虜になっていった。
 捕虜になった人が収容所で、チヨ子さんの恩師・半田先生にチヨ子さんたちが壕に隠れていることを告げたらしい。半田先生が8月24日か25日ころ、隠れているチヨ子さんのところにやって来て、捕虜になるよう説得した。近くのアダンの木の下や壕に隠れていた住民たちに、チヨ子さんは「私の先生が迎えに来ているので、みなさん出ましょう」と訴えた。この呼びかけに応えて、二(名が出て行った。
 収容所でも、チヨ子さんは軍国少女のマインドコントロールから解放されなかった。
 「敵からの食べ物はもらわない」と言って何も食べないでいると、「国と国の戦争だから、あなた方には関係ないこと。敵悔心をもたないで」と、日系米兵に言われた。そのことを今も鮮明に思い出すという。

 サイパンで止めておけば……

 「いろんな本を読んでわかってきたことだけど、サイパンで戦争を止めておけば東京大空襲もなかったし、沖縄戦にもならなかったし、広島、長崎に原爆も落とされなかったし、満州の悲劇もなかった」とチヨ子さんは強く思っている。
 「『日本は勝つ。神の国だ』と洗脳されていたことが恐ろしい。だから今、戦争反対の運動にのめり込んで、平和のために語り部になっているの」
 今、チヨ子さんは米海兵隊普天間基地の近くに住んでいる。オスプレイが配備され、昼夜を問わず激しい訓練が行なわれている。「オスプレイの音が、サイパンで聞いた米軍の戦車の音と重なって、夜寝られなくなるの」と顔をゆがめた。
 「辺野古に新しい基地を作って、戦争になったらここが攻撃されるのよ。沖縄の人たちがみな、やられるのよ。二度と私と同じような目に遭ってほしくない。だから座り込んでいるの。戦わないために、今、闘っているの」
 と、元気に座り込むチヨ子さんの隣で、沖縄戦を体験した島袋文子さん(87歳)が黙ってうなずいていた。

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2016年6月23日 (木)

平和な世界ぬどぅ大切 沖縄慰霊の日に  6月23日

沖縄は71年目の「慰霊の日」を迎えました。心から哀悼の意を表します。

今年、沖縄県内69人、県外15人の名が新たに平和の礎に刻銘され刻銘者総数は24万1414人になりました。 沖縄では今も、年に100体を超える遺骨が見つかっていますが、身元が判明しないという状況が続いています。
〝どんなことがあっても戦争はだめ〟
まず犠牲になるのは子どもや女性や弱者です。そして、子どもまで戦闘に動員され、はかり知れない犠牲と苦しみが続くのです。

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 元海兵隊員の凶悪な犯罪により、20歳の未来ある女性の命が奪われました。日米両政府は、事件・事故が起きるたびに、「綱紀粛正」、「再発防止」を徹底すると釈明してきたが実行されたためしはない。このような犯罪などを防止するには、もはや「基地をなくすべきだ」との県民の怒りの声はおさまりません。
 戦後71年にわたって米軍が存在している結果、復帰後だけでも、米軍の犯罪事件が5910件発生し、そのうち凶悪事件は575件にのぼる異常事態です。6月19日に開かれた沖縄県民大会では3つのことが決議され、日米両政府に強く要求されました。①日米両政府は、遺族及び県民に対して改めて謝罪し完全な補償を行うこと。②在沖米海兵隊の撤退及び米軍基地の大幅な整理・縮小、県内移設によらない普天間飛行場の閉鎖・撤去を行うこと。③日米地位協定の抜本的改定を行うこと。

 日米両政府はこの沖縄県民と日本国民の声を真摯に受け入れることを求めます。

  翁長雄志知事の平和宣言

      沖縄全戦没者追悼式  

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 太平洋戦争最後の地上戦の行われた沖縄に、71年目の夏が巡ってまいりました。沖縄を襲った、史上まれに見る、熾烈な戦火は、島々の穏やかで緑豊かな風景を一変させ、貴重な文化遺産のほとんどを破壊し、20数万人あまりの尊い命を奪い去りました。私たち県民が身をもって体験した、想像を絶する戦争の不条理と残酷さは、時を経た今でも忘れられるもので はありません。この悲惨な戦争の体験こそが平和を希求する沖縄の心の原点であります。

 戦後、私たちはこの沖縄の心を拠り所に、県民が安心して生活できる経済基盤を作り、復興と発展の道を懸命に歩んでまいりました。
しかしながら、戦後71年が経過をしても依然として広大な米軍基地が横たわり、国土面積の0.6%に過ぎない本県に、米軍専用施設の約74%が集中しています。広大な米軍基地があるがゆえに、長年に渡り、事件・事故が繰り返されてまいりました。

 今回の非人間的で凶悪な事件に対し、県民は大きな衝撃を受け、不安と強い憤りを感じています。沖縄の米軍基地問題は我が国の安全保障の問題であり、日米安全保障体制の負担は、国民全体で負うべきであります。日米安全保障体制と日米地位協定の間で生活せざるを得ない沖縄県民に、日本国憲法が国民に保障する自由・平等・人権、そして民主主義は等しく保障されているのでしょうか。

 真の意味で平和の礎を築くためにも、日米両政府に対し、日米地位協定の抜本的な見直しとともに、海兵隊員の削減を含む米軍基地の整備縮小など、過重な基地負担の削減を、直ちに実現するよう強く求めます。
特に普天間飛行場の辺野古への移設は、県民の理解は得られず、これを唯一の解決策とする考えは到底許容できるものではありません。

 一方、世界の国々では貧困・飢餓・差別・抑圧など、人命と基本的人権を脅かす多くの深刻な課題が存在しています。このような課題を解決し、恒久平和を実現するためには世界の国々、そしてそこに暮らす私たち一人一人が一層協調し、平和の創造と維持に取り組んでいくことが重要であります。

 私たちは万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘に刻まれている通り、かつてアジアや日本との公益で活躍した先人たちの精神を受け継ぎ、アジア・太平洋地域と日本の架け橋となり、人的・文化的・経済的交流を積極的に行うよう、一層努めてまいります。

 戦争の経験が息づく沖縄に暮らす私たちは、過去をしっかりと次の世代に継承し、平和の実現に向けて貢献を果たす上で、大きな役割を担っているのです。

 本日、慰霊の日にあたり、犠牲になった方々に心から哀悼の誠を捧げるとともに、平和を希求してやまない沖縄の心を礎として、未来を担う子や孫に残すため、誇りある豊かさを作り上げ、沖縄が恒久平和に取り組んでいく決意を、ここに宣言いたします。


平和ぬ世界どぅ大切
ふぃーわ ぬ しけー どぅ てーしち

  金武町立金武小学校 6年 仲間 里咲

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「ミーンミーン」
今年も蝉の鳴く季節が来た
夏の蝉の鳴き声は
戦没者たちの魂のように
悲しみを訴えているということを
耳にしたような気がする
戦争で帰らぬ人となった人の魂が
蝉にやどりついているのだろうか
「ミーンミーン」
今年も鳴き続けることだろう

「おじぃどうしたの?」
左うでをおさえる祖父に問う
祖父の視線を追う私
テレビでは、戦争の映像が流れている
しばらく沈黙のあと
祖父が重たい口を開いた
「おじぃは海軍にいたんだよ」
おどろく私をよそに
「空からの弾が左うでに当たってしまったんだよ」
ひとりごとのようにつぶやく祖父の姿を
今でも覚えている
戦争のことを思い出すと痛むらしい
ズキンズキンと・・・
祖父の心の中では
戦争がまだ続いているのか

今は亡き祖父
この蝉の鳴き声を
空のかなたで聞いているのか
死者の魂のように思っているのだろうか
しかし私は思う
戦没者の悲しみを鳴き叫ぶ蝉の声ではないと
平和を願い鳴き続けている蝉の声だと
大きな空に向かって飛び
平和の素晴らしさ尊さを
私達に知らせているのだと

 人は空に手をのばし
希望を込めた平和の願いを蝉とともに叫ぼう
「ミーンミーン」
「平和(ふい-わ)ぬ世界(しけ-)どぅ大切(て-しち)」

movie
 動画もご覧ください
https://www.youtube.com/embed/l5Tx-W4QOoQ"

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2016年6月20日 (月)

被害者を追悼し、海兵隊の撤退を求める県民大会  

 6月19日、沖縄県那覇市奥武山公園陸上競技場で、オール沖縄会議が主催する「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」が開催され6万5千人が参加しました。

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  大会で採択された決議は次の通りです。

 元海兵隊員の凶悪な犯罪により、20歳の未来ある女性のいのちが奪われた。これは米軍基地あるが故の事件であり、断じて許されるものではない。
 繰り返される米軍人・軍属による事件や事故に対し、県民の怒りと悲しみは限界を超えた。
 私たちは遺族とともに、被害者を追悼し、2度と繰り返させないために、この県民大会に結集した。
 日米両政府は、事件・事故が起きるたびに、「綱紀粛正」、「再発防止」を徹底すると釈明してきたが実行されたためしはない。このような犯罪などを防止するには、もはや「基地をなくすべきだ」との県民の怒りの声はおさまらない。
 戦後71年にわたって米軍が存在している結果、復帰後だけでも、米軍の犯罪事件が5910件発生し、そのうち凶悪事件は575件にのぼる異常事態である。
 県民の人権といのちを守るためには、米軍基地の大幅な整理、縮小、なかでも海兵隊の撤退は急務である。
 私たちは、今県民大会において、以下決議し、日米両政府に対し、強く要求する。

        記

1 日米両政府は、遺族及び県民に対して改めて謝罪し完全な補償を行うこと。
2 在沖米海兵隊の撤退及び米軍基地の大幅な整理・縮小、県内移設によらない普天間飛行場の閉鎖・撤去を行うこと。
3 日米地位協定の抜本的改定を行うこと。

宛先  内閣総理大臣  外務大臣  防衛大臣沖縄及び北方対策担当大臣  米国大統領  駐日米国大使

2016年6月19日
元米海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾! 被害者を追悼し、海兵隊の撤退を求める県民大会

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

 沖縄では何回、こうした県民大会が開催されてきたでしょうか。
私は、そのたびに、若者が沖縄県民の声を代弁し、未来への希望と勇気あるメッセージを発信し続けているように思えるのです。すばらしいことだと感銘しています。
 今回も若者たちが県民大会成功に大きな役割を果たしていたように思います。

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happy02 オール沖縄会議共同代表の玉城愛さん(21)のスピーチも強く胸をうちました。

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 被害に遭われた女性へ。

絶対に忘れないでください。あなたのことを思い、多くの県民が涙し、怒り、悲しみ、言葉にならない重くのしかかるものを抱いていることを絶対に忘れないでください。

 あなたと面識のない私が発言することによって、あなたやあなたがこれまで大切にされてきた人々を傷つけていないかと日々葛藤しながら、しかし黙りたくない。そういう思いを持っています。どうぞお許しください。あなたとあなたのご家族、あなたの大切な人々に平安と慰めが永遠にありますように、私も祈り続けます。

 安倍晋三さん。日本本土にお住まいのみなさん。今回の事件の「第二の加害者」は、あなたたちです。しっかり、沖縄に向き合っていただけませんか。いつまで私たち沖縄県民は、ばかにされるのでしょうか。パトカーを増やして護身術を学べば、私たちの命は安全になるのか。ばかにしないでください。

 軍隊の本質は人間の命を奪うことだと、大学で学びました。再発防止や綱紀粛正などという使い古された幼稚で安易な提案は意味を持たず、軍隊の本質から目をそらす貧相なもので、何の意味もありません。

 バラク・オバマさん。アメリカから日本を解放してください。そうでなければ、沖縄に自由とか民主主義が存在しないんです。私たちは奴隷ではなくて、あなたや米国市民と同じ人間です。オバマさん、米国に住む市民のみなさん、被害者とウチナーンチュ(沖縄の人)に真剣に向き合って、謝ってください。

 自分の国が一番と誇るということは結構なんですが、人間の命の価値が分からない国、人殺しの国だと言われていることを、ご存じですか。軍隊や戦争に対する本質的な部分を、アメリカが自らアメリカに住む市民の一人として問い直すべきだと、私は思います。

 会場にお集まりのウチナーンチュのみなさん・・・・・

(つまる声と声援)幸せに生きるって何なんでしょうか・・・

一人一人が大切にされる社会とは、どんな形をしているのでしょうか。大切な人が隣にいる幸せ、人間の命こそ宝なのだという沖縄の精神、私はウチナーンチュであることに誇りを持っています。

 私自身は、どんな沖縄で生きていきたいのか、私が守るべき、私が生きる意味を考えるということは何なのか、日々重くのしかかるものを抱えながら現在生きています。

 私の幸せな生活は、県民一人一人の幸せにつながる、県民みんなの幸せが私の幸せである沖縄の社会。私は、家族や私のことを大切にしてくれる方たちと一緒に今、生きてはいるのですが、全く幸せではありません。

 同じ世代の女性の命が奪われる。もしかしたら、私だったかもしれない。私の友人だったかもしれない。信頼している社会に裏切られる。何かわからないものが私をつぶそうとしている感覚は、絶対に忘れません。

 生きる尊厳と生きる時間が、軍隊によって否定される。命を奪うことが正当化される。こんなばかばかしい社会を、誰が作ったんだって。このような問いをもって日々を過ごし、深く考えれば考えるほど、私に責任がある、私が当事者だという思いが、日に日に増していきます。

 彼女が奪われた生きる時間の分、私たちはウチナーンチュとして、一人の市民として、誇り高く責任を持って生きていきませんか。(大きな拍手)

もう絶対に繰り返さない。沖縄から人間の生きる時間、人間の生きる時間の価値、命には深くて誇るべき価値があるんだという沖縄の精神を、声高々と上げていきましょう。(大きな拍手)

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2015年12月29日 (火)

脈々と続くたたかい 米軍基地はいらない 12月29日

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 一気に読み切り、沖縄のながい闘いの歴史を一人でも多くの方に読んでいただきたいと感じました。私も知らないでいたことをたくさん学び、現在の「辺野古新基地は造らせない」闘いに受け継がれていることを強く感じました。

 嬉野京子さんの人柄がにじみ出るような、沖縄の人々と深く寄り添った、いっしょに行動している姿が全編にあふれていて私は感銘を受けました。

 私が特に感銘を受けたヵ所を引用し紹介させていただきます。

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◆1965年初めて沖縄へ

 祖国復帰行進に参加-少女轢殺写真を撮ることに

  沖縄への渡航が制限されていた当時、観光ポスターの需要がどれくらいあったか知るはずもなかったし、望遠レンズ五、六本とボディ三台が入ったカメラバッグだから、わかる人間から見たら私の目的が花や魚の撮影ではないとわかっただろう。税関の係官は、「いや―こんなカメラでは……」「どうしてですか、きれいなポスター作っちゃダメなの?」と押し問答である。
係官は、良心的な人だったのかもしれない。やがて、「事情はわかる。だけど、これ持ってたら、あなた命ないですよ」と言われた。だが私も必死で押し問答を続け、やがて相手が根負けした。「わかった。今回に限って通してあげるけどね、あなた気をつけなさい。こんなカメラ持ってるだけで米軍に逮捕され命の保証ないですから。このカバンを開ける時は、周りをよく見て、アメリカ関係者が、米兵がいないかどうか、よく見てから開けるんだよ」。
 それで何とか通されたが、税関から出た那覇の町は米兵だらけ、米軍車両だらけで、まるで那覇市民よりアメリカ兵の方が多いようにさえ見えた。税関のおじさんの言葉を思い出しながら、私は強い恐怖心をおぼえた。一九六五年の四月といえば、米軍がベトナムでトンキン湾事件(一九六四年八月)を起こし北ベトナムへの空爆(いわゆる「北爆」、一九六五年二月~)を開始した直後で、沖縄はその前線基地として騒然とし始めた時期だった。

  私は祖国復帰行進に参加、摩文仁の丘を出てずっと歩いて那覇に着き、次は中部。中部は米軍基地だらけのエリアで、基地と基地の間に小さな集落がある。那覇を出発する時、行進団から「嬉野さん、申し訳ないけどカメラを預からせてください」と言われた。米軍に見つかれば行進そのものが弾圧されるからである。

 ここは戦場につながっている

 その年の行進は沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が主催した初の統一した行進だった。復帰協は、祖国復帰を掲げる非常に広範な団体が、それぞれの主張の違いを脇に置き、「祖国復帰」という一点で共同した団体である。沖縄人民党、社会党、社会大衆党などに加え、保守系の会派も参加していた。労働組合も入っていたし、県内各地域の青年団や婦人連合会、そのほか宗教者の組織なども含め幅広い団体が参加していた。

 それらの政党や団体は、それぞれに祖国復帰を掲げていたが、団体ごと、それぞれの主張や事情があって、それまで必ずしも行動を共にしていたわけではなかった。一九六〇年に復帰協ができて以降は、統一した行動の担い手となり、後に一九六八年、それまでの任命制から公選制になった初代行政府主席・屋良朝苗さんを誕生させた。
 ただ前年の六四年、沖縄で初めて祖国復帰行進が行われたのだが、それは復帰協としてのコンセンサスはとれず、沖縄人民党だけがとりくんだ。その結果として、行進は米軍の弾圧を受けズタズタにされた。それを見ていた県民の間から、「祖国復帰の思いは共通。行進に取り組むなら、やはり統一してやるべきだ」という声が強まり、私か参加した六五年にそれが実現したのである。
 その行進は、本土のデモなどと同様に米国民政府の警察に許可を申請し、一応、許可もとっていた。不許可にできないような世論が盛り上がっていたのである。
 米軍基地が並ぶエリアを、カメラを持って歩けば、その統一した運動への弾圧の口実を与えることになる。私は那覇港の税関の時とは違って、素直にカメラバッグを行進団に預けた。


4月20日、少女轢殺(れきさつ)
      事件に遭遇


 今の名護市の南側にある宜野座村の小学校で行進団が休憩していた時だった。

 「嬉野さん、事故だよ!」

「アカハタ」(現在の「しんぶん赤旗」の前身)記事1965429日付け 
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 通常そういう事故では警察がすぐ規制線を引き近づけないが、なぜかその時は警察も来ていなかった。「あそこにいる米兵と比べたらこっちの行進団の方が大数多いじゃないですか」。だから撮影させてくれと私は言った。「こういうことが本土には伝わってないから、本土の大たちに沖縄の話をしても、『いやあ、そりゃ話だけでしょ』 つてことになってしまうの」。行進団の人に、私の「命がなくなってしまう」と言われたので、「命と引き換えでもいいです、シャッター切らせてください」と言った。「行進団が弾圧を受ける」とも言われ、それは私も反論できないけれど、でも撮影しなくてはダメなんだと押し問答になった。
 埓(らち)が明かないので、行進団の責任者たちがみんなで話をして、全司法の腕章を巻いた人が、「わかりました。あの米兵たちに気づかれないようにシャッター切ってください。一枚だけです。撮影したフイルムは僕に渡すこと。いいですね、約束です。さあ、僕の肩越しに撮ってください」と言われた。私か撮った写真の右端に写りこんでいる白いものはその人の肩だ。写真家にとって撮影済みのフイルムは命より大事なもので、他人に渡したりしないものである。でも、有無を言わせぬ彼の(というより行進団の)指示に従い、撮影したフイルムは彼に預けることにした。
 写真の中央には変わり果てたNちゃんの遺体があり、右に米兵がいる。左側には行進団の人がいる。)よく見ると、その人が何か米兵に話しかけている様子で、米兵の注意はその人に向けられている。行進団の人たちは、私が撮影しているのを米兵に気づかれないように、そういうシフトをつくってくれたのだ。沖縄の実情を告発する写真として、本土へ、全世界へ発信されたこの写真は、沖縄の人たちが撮ったものであり、私はシャッターを押しただけなのである。


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◆1967年 11月二度目の沖縄

 伊江島で米軍に拘束された時のこと


 何かの時にととっておいた100ドル紙幣を渡し、足らなかったらあとで送金するので、申し訳ないけれど漁船をチャーターしてくださいと頼んだ。
 阿波根さんの指示を受けた若者が、漁船をチャーターしてきてくれたが、帰ってきた時に彼はガタガタ震えて、「阿波根さん、もう港に米軍の警備艇が入ってます。嬉野さんを港から出すわけにいきません」と言う。だから漁船が漁に出る感じで港を出て、どこどこの入り江につけて、そこで私を乗せたらいいということまで段取りしてくれていた。
 ほどなく、阿波根さんの家の玄関前に軽トラが横付けされ、荷台の上に無造作に載っていた幌の中に隠れるよう言われた。案内してくれる青年と一緒にそれに乗って、とある入り江に行き、ジーパンをたくしあげて海に浸かりながら漁船に乗り込んだ。船内では魚を入れる船倉に隠れた。
 漁船が本島に着き、青年が知ってる人のうちへ案内してくれることになっていたが、本島の港(本部港)にも、アメリカの警備艇が入っていた。上陸できるところがほかにないので困っていたが、運良く定期船が入ってきて、警備艇の手前に入るとすぐその陰で接岸することができた。定期船によって警備艇から隠れる形で本島に上陸し青年の後をついて、周りから見つからないように姿勢をかがめて小走りで移動した。タクシーをチャーターしてもらって、青年の知人の方の家に逃げ込むことができた。
 電話もすべて盗聴されているから、伊江島にいることになっている私はそのお宅から外部に連絡することはできなかったが、そのお宅の方の協力を得て那覇に移動することができた。那覇でもある方のお宅にお世話になったが、そこに届いた夕刊を見て震えが止まらなかった。米軍発表の記事で、「伊江島で米軍と農民との間にささいないさかいがあった。工事現場で彼らは目的不明の写真撮影者を伴っていた。そのうち一人は警備隊員一人に対する暴行のかどで起訴する(中略)なお警備隊員が六人に銃口をつきつけ連行した事実はない」という新聞報道である。
 翌日、伊江島から連絡があって、米軍が私を山狩りして探しているという情報が入ってきた。
伊江島では、兵たちに私の行方を問われた村の人が、「さっきまで、しつこく私の写真撮っていたけど、どこ行ったかね」などととぼけてくれたりしたようだ。
 向こうが伊江島を探している問に逃げようと判断し、協力してくれる弁護士の方に、急邁、密かに会った。か逮捕されてもすぐ弁護を引き受けてもらえるよう頼み、書類を交わした。飛行機に乗るため席を取らなくてはいけなかったが、私か頼めば足がつく。その弁護士の人に、「ぼくが東京にどうしても急いで行かなくちゃいけなくて、席を取りたいんだけど」と言ってもらって席を予約し、情を知る人民党の人が、主だった復帰協の構成団体や労働組合の委員長、書記長クラスを十数人同行させてくれて空港に向かった。その同行してくれた人々は、いわば当時の沖縄では誰もが知っている人々である。那覇空港の出入国管理の窓口係官は沖縄の人から私に同行している人たちを見て、「この人は逃がさなくちゃいけない人なんだな」と理解でき、もし後日その係官が責任を追及されたとしたら、彼をそこにいる人たちが守ってくれると理解できる、そんな面々だったのだ。はたして、出入国管理係の人は、窓口に来た私と十数人の人々を見て、私を通してくれた。それ一つとってもすごいことである。当時の沖縄の人々の状況を表している。
 いろいろな意味で、沖縄の人々とそのたたかいのおかげにより、私は飛行機に乗ることができた。離陸し、沖縄が見えなくなるまで、怖いのと恥ずかしいのとで私は泣いていた。米軍が制空権を持っている沖縄上空を脱するまでは、米軍の指令一つで戻らなくてはならない。北緯二七度線を越えるまでは恐ろしかった。そして、自分はこうして逃げ帰ればいいわけだが、沖縄でたたかっている人たちには文字通り逃げ場はない  それを頭ではわかっているつもりだったが、皮膚感覚では意識できていなかった自分か恥ずかしかったのだ。

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2015年12月 3日 (木)

翁長雄志沖縄知事の冒頭意見陳述   12月2日

 12月2日、福岡高裁那覇 執行訴訟の第1回口頭弁論での翁長雄志知事の冒頭意見陳述(全文)は以下の通りです。

沖縄・辺野古代執行訴訟 
翁長雄志知事の冒頭意見陳述  

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 沖縄県知事の翁長雄志でございます。
 本日は、本法廷において意見陳述する機会を与えていただきましたことに、心から感謝申し上げます。  私は、昨年の県知事選挙で「オール沖縄」「イデオロギーよりアイデンティティ―」をスローガンに、保守・革新の対立を乗り越えて当選を致しました。 本件訴訟の口頭弁論にあたり、私の意見を申し上げます。     
    ◇  ◇
 歴史的にも現在においても沖縄県民は自由・平等・人権・自己決定権をないがしろにされてまいりました。私はこのことを「魂の飢餓感」と表現しています。政府との間には多くの課題がありますが、「魂の飢餓感」への理解がなければ、それぞれの課題の解決は大変困難であります。  簡単に沖縄の歴史をお話ししますと、沖縄は約500年に及ぶ琉球王国の時代がありました。日本と中国・朝鮮・東南アジアを駆け巡って大交易時代を謳歌(おうか)しました。琉球は1879年、今から136年前に日本に併合されました。これは琉球が強く抵抗したため、日本政府は琉球処分という名目で軍隊を伴って行われたのです。 併合後に待ち受けていたのが70年前の第2次世界大戦、国内唯一の軍隊と民間人が混在しての凄惨(せいさん)な地上戦が行われました。沖縄県民約10万人を含む約20万の人々が犠牲になりました。  戦後は、ほとんどの県民が収容所に収容され、その間に強制的に土地を接収され、収容所からふるさとに帰ってみると普天間飛行場をはじめ米軍基地に変わっていました。その後も、住宅や人が住んでいても「銃剣とブルドーザ上で土地を強制的に接収されました。1952年、サンフランシスコ講和条約による日本の独立と引き換えに、沖縄は米軍の施政権下に置かれ、日本国民でもアメリカ国民でもない無国籍人となり、当然日本国憲法の適用もなく、県民を代表する国会議員を一人も国会に送ったことはありませんでした。 犯罪を犯した米兵がそのまま帰国することすらあった治外法権ともいえる時代でした。ベトナム戦争の時は沖縄からB52爆撃機の出撃をはじめいろいろな作戦が展開されており、沖縄は日米安保体制と、日本の平和と高度経済成長を陰で支えてきたわけです。  しかし、政府は一昨年、サンフランシスコ講和条約が発効した4月28日を「主権回復の日」として式典を開催し、そこでは万歳三唱まで行われたのです。沖縄にとっては悲しい、やるせない式典でした。まったく別々の人生を歩んできたような気がします。  1956年、米軍の施政権下で沖縄の政治史に残ることが起きました。 プライス勧告といって、銃剣とブルドーザーで強制接収した土地を、実質的な強制買い上げをするという勧告が出されました。当時、沖縄は大変貧しかったので喉から手が出るほどお金が欲しかったはずですが、県民は心を一つにしてそれを撤回させました。これによって、基地のあり方に、沖縄の自己決定権を主張できる素地がつくられ、私たちに受け継がれているのです。  沖縄が米軍に自ら土地を提供したことは一度もありません。そして戦後70年、あろうことか、今度は日本政府によって、海上での銃剣とブルドーザーを彷彿(ほうふつ)させる行為で美しい海を埋め立て、私たちの自己決定権の及ばない国有地となり、そして、普天間基地にはない軍港機能や弾薬庫が加わり、機能強化化され、耐用年数200年ともいわれる基地が造られようとしています。 今沖縄には日本国憲法が適用され、昨年のすべての選挙で辺野古新基地反対の民意が出たにもかかわらず、政府は建設を強行しようとしています。 米軍基地に関してだけは、米軍施政権下と何ら変わりありません。  米軍施政権下、ギャラウェイ高等弁務官は沖縄の自治は神話であると言いましたが、今の状況は、国内外から日本の真の独立は神話であると思われているのではないでしょうか。  辺野古新基地は、完成するまで順調にいっても約10年、場合によっては15年、20年かかります。 その期間、普天間基地が動かず、危険性が放置される状況は固定化そのものではないでしょうか?  本当に宜野湾市民のことを考えているならば、前知事の埋め立て承認に際して、総理と官房長官の最大の約束であった普天間基地の5年以内の運用停止を承認後着実に前に進めるべきではなかったでしょうか。しかし、米国からは当初からそんな約束はしていない、話 も聞いたこともないと言われ、前知事との約束は、埋め立て承認をするための空手形ではなかったのか、それを双方承知の上で埋め立て承認がなされたのではないか、いろいろな疑問が湧いてきます。  日本政府に改めて問いたい。普天間飛行場は世界一危険だと、政府は同じ言葉を繰り返しているが、辺野古新基地ができない場合、本当に普天間基地は固定化できるのでしょうか。
      ◇  ◇
 次に基地経済と沖縄振興策について述べたいと思います。  一般の国民もそうですが、多くの政治家も、「沖縄は基地で食べているんでしょう。だから基地を預かって振興策をもらったらいいですよ」と沖縄に投げかけます。この言葉は、「沖縄に過重な基地負担を強いていることへの免罪符」と「沖縄は振興策をもらっておきながら基地に反対する、沖縄は甘えるな」と言わんばかりです。これくらい真実と違い沖縄県民を傷つける言葉はありません。  米軍基地関連収入は、終戦直後にはGDPの約50%。基地で働くしか仕方がない時代でした。日本復帰時には約15%、最近は約5%で推移しています。  経済の面では、米軍基地の存在は今や沖縄経済発展の最大の阻害要因になっています。  例えば、那覇市の新都心地区、米軍の住宅地跡で215㌶ありますが、25年前に返還され、当時は軍用地料等の経済効果が52億円ありました。私が那覇市長になって15年前から区画整理を始め、現在の街ができました。 経済効果としては52億円から1634億円と32倍、雇用は170名程度でしたが、今は1万6千名、約100倍です。税収は6億から199億円と33倍に増えています。 沖縄は基地経済で成り立っているというような話は今や過去のものとなり完全な誤解であります。  沖縄は他県に比べて莫大(ばくだい)な予算を政府からもらっている、だから基地は我慢しろという話もよく言われます。年末にマスコミ報道で沖縄の振興予算3千億円とか言われるため、多くの国民は47都道府県が一様に国から予算をもらったところに沖縄だけさらに3千億円上乗せをしてもらっていると勘違いをしてしまっているのです。  沖縄はサンフランシスコ講和条約で日本から切り離され、27年間、各省庁と予算折衝を行うこともありませんでした。ですから日本復帰に際して沖縄開発庁が創設され、その後内閣府に引き継がれ、沖縄県と各省庁の間に立って調整を行い沖縄振興に必要な予算を確保するという、予算の一括計上方式が導入されたのです。沖縄県分は年末にその総額が発表されるのに対し、他の都道府県は、独自で予算折衝の末、数千億円という予算を確保していますが、各省庁ごとの計上のため、沖縄のように発表されることがないのです。  実際に、補助金等の配分額でみると沖縄県が突出しているわけではありません。例えば、地方交付税と国庫支出金等の県民1人あたりの額で比較しますと沖縄県は全国で6位、地方交付税だけでみると17位です。  都道府県で国に甘えているとか甘えていないとかと、いわれるような場所があるでしょうか。残念ながら私は改めて問うていきたいと思います。 沖縄が日本に甘えているのでしょうか。日本が沖縄に甘えているのでしょうか。ここを無視してこれからの沖縄問題の解決、あるいは日本を取り戻すことなど、できないと断言します。  沖縄の将来あるべき姿は、万国津梁(ばんこくしんりょう)の精神を発揮し、日本とアジアの架け橋となること、ゆくゆくはアジア・太平洋地域の平和の緩衝地帯となること。そのことこそ、私の願いであります。
      ◇ ◇
 この裁判で問われているのは、単に公有水面卸立法に基づく承認取り消しの是非だけではありません。  戦後70年を経たにもかかわらず、国土面積のわずか0.6%しかない沖縄県に、73・8%もの米軍専用施設を集中させ続け、今また22世紀まで利用可能な基地建設が強行されようとしています。  日本には、本当に地方自治や民主主義は存在するのでしょうか。冲縄県にのみ負担を強いる今の日米安保体制は正常といえるのでしようか、国民の皆さますべてに問いかけたいと思います。  沖縄、そして日本の未来を切り拓(ひら)く判断をお願いします。

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2015年11月24日 (火)

歌劇 沖縄 を聞いて胸ゆすぶられる  11月23日

happy02 11月22日の「しんぶん赤旗」で沖縄県伊江島の米軍基地の拡張が進められていることを知りました。
 強襲揚陸艦への着陸訓練を行う訓練場(LHDデッキ)です。
この記事を読んで、今年の3月17日のテレビ朝日で伊江島米軍基地の訓練状況が特集されました。米兵の銃口がこちらを向いたり、降下訓練などとともに、F35Bステレス戦闘機の訓練もできる訓練場も紹介されていたことを思い出したのです。

 そして、なぜか、「歌劇 沖縄」は伊江島を舞台にした歌劇だったなあと、思い浮かび、何十年もレコード収納箱に入っていたレコードを取り出し時間をかけて全部聞きました。

 時代は変化していますが、胸迫る迫力のあるすばらしい演奏で胸ゆすぶられました。
日本のうたごえ運動の金字塔のように思いました。
沖縄の日本復帰前から45年前のたたかいが今に引き継がれていることに感動しました。

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。


レコードは1970年10月19日、20日、21日に埼玉会館大ホールで収録されたものでした。

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Photo

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歌劇 沖縄の中から、時々自然と沖縄のことを考える時に、歌詞の端々を口ずさむことがあるのです・・・・

・・・ねむれ正輝・・・

土地は万年 金は一時
他国を侵し 栄えた国はない
他国を侵し 栄えた国はない
この島はわしらの島だ わしらの土だ 島中を耕やし
土地は万年 金は一時 他国を侵し 栄えた国はない
わしらの
この島を沖縄一の村にしよう

歌劇 沖縄 エピローグの大合唱

豊かに波うつ黒潮よ 雄々しくそびえたつ立(たっ)頂(ちゅう)よ
とどろく海鳴り かわらぬ心つげる

ふみ荒らされた ふるさとの土に
しあわせな明日 築いて行こう
怒りをたたかいに 心をあわせ
沖縄をこの手に 沖縄をこの手に

ふみ荒らされた ふるさとの土に
みどりもえたつ勝利の朝を
怒りをたたかいに 心をあわせ
沖縄をこの手に 沖縄をこの手に
祖国の独立 勝利を 勝利を この手に
喜びの日を ともに迎えよう 祖国の夜明け


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  驚いたことには、レコードを聞くまでは全く知りませんでした、聞いた後に「しんぶん赤旗」の広告欄に音楽センターがCD2枚組を発行していることを知りました。

参考=「しんぶん赤旗記事」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-11-22/2015112201_01_1.html

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2015年6月23日 (火)

今の沖縄は果たして平和でしょうか   6月23日

『みるく世(ゆ)がやゆら』
与勝高校3年 知念 捷  2015年6月23日

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みるく世がやゆら

平和を願った 古の琉球人が詠んだ琉歌が わたしへ訴える

「戦世(いくさゆ)や済(し)まち みるく世(ゆ)ややがて 

嘆(なじ)くなよ臣下(しんか) 命(ぬち)ど宝(たから)」

70年前のあの日と同じように

今年もまたせみの鳴き声が梅雨の終わりを告げる

70年目の慰霊の日

大地の恵みを受け 大きく育ったクワディーサーの木々の間を

夏至南風(かーちーべー)の 湿った潮風が吹き抜ける

せみの声は微かに 風の中へと消えて行く

クワディーサーの木々に触れ せみの声に耳を澄ます

「今は平和でしょうか」と 私は風に問う



花を愛し 踊りを愛し 私を孫のように愛してくれた 祖父の姉

戦後70年 再婚をせず戦争未亡人として生き抜いた祖父の姉

九十歳を超え 彼女の体は折れ曲がり ベッドへと横臥する

1945年 沖縄戦 彼女は愛する夫を失った

一人 妻と乳飲み子を残し 22歳の若い死

南部の戦跡へと 礎へと

夫の足跡を 夫のぬくもりを 求め探し回った

彼女のもとには 戦死を報せる紙一枚

亀甲墓に納められた骨壺には 彼女が拾った小さな石



戦後70年を前にして 彼女は認知症を患った

愛する夫のことを 若い夫婦の幸せを奪った あの戦争を

すべての記憶が 漆黒の闇へと消えゆくのを前にして 彼女は歌う

愛する夫と戦争の記憶を呼び止めるかのように

あなたが笑ってお戻りになられることをお待ちしていますと

軍人節の歌に込め 何十回 何百回と

しだいに途切れ途切れになる 彼女の歌声

無慈悲にも自然の摂理は 彼女の記憶を風の中へと消していく

70年の時を経て 彼女の哀しみが 刻まれた頬を涙がつたう

蒼天に飛び立つ鳩を 平和の象徴と言うのなら

彼女が戦争の惨めさと戦争の風化の現状を 私へ物語る



みるく世がやゆら

彼女の夫の名が 二十四万もの犠牲者の名が

刻まれた礎に 私は問う

みるく世がやゆら

頭上を飛び交う戦闘機 クワディーサーの葉のたゆたい

六月二十三日の世界に 私は問う

みるく世がやゆら

戦争の恐ろしさを知らぬ私に 私は問う

気が重い 一層 戦争のことは風に流してしまいたい

しかし忘れてはならぬ 彼女の記憶を 戦争の惨めさを

伝えねばならぬ 彼女の哀しさを 平和の尊さを



みるく世がやゆら

せみよ 大きく鳴け 思うがままに

クワディーサーよ 大きく育て 燦々と注ぐ光を浴びて

古のあの琉歌(うた)よ 時を超え今 世界中を駆け巡れ

今が平和で これからも平和であり続けるために

みるく世がやゆら

潮風に吹かれ 私は彼女の記憶を心に留める

みるく世の素晴らしさを 未来へと繋ぐ

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平和宣言 戦後70年沖縄全戦没者追悼式  6月23日

平 和 宣 言
戦後70年沖縄全戦没者追悼式 2015年6月23日

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70年目の6月23日を迎えました。

私たちの郷土沖縄では、かつて、史上稀(まれ)に見る熾烈(しれつ)な地上戦が行われました。20万人余りの尊い命が犠牲となり、家族や友人など愛する人々を失った悲しみを、私たちは永遠に忘れることができません。

 それは、私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。
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 戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。

 しかしながら、国土面積の0・6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発に様々な影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0・7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。

 沖縄の米軍基地問題は、我が国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。

 特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。

 そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、「その危険性除去のため辺野古に移設する」「嫌なら沖縄が代替案を出しなさい」との考えは、到底県民には許容できるものではありません。

 国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎を築くことはできないのであります。
 政府においては、固定観念に縛られず、普天間基地を辺野古へ移設する作業の中止を決断され、沖縄の基地負担を軽減する政策を再度見直されることを強く求めます。

 一方、私たちを取り巻く世界情勢は、地域紛争やテロ、差別や貧困がもととなり、多くの人が命を落としたり、人間としての尊厳が蹂躙(じゅうりん)されるなど悲劇が今なお繰り返されています。

 このような現実にしっかりと向き合い、平和を脅かす様々な問題を解決するには、一人一人が積極的に平和を求める強い意志を持つことが重要であります。

 戦後70年を迎え、アジアの国々をつなぐ架け橋として活躍した先人達の「万国津梁(しんりょう)」の精神を胸に刻み、これからも私たちは、アジア・太平洋地域の発展と、平和の実現に向けて努力してまいります。

 未来を担う子や孫のために、誇りある豊かさを創りあげ、時を超えて、いつまでも子ども達の笑顔が絶えない豊かな沖縄を目指します。

 慰霊の日に当たり、戦没者のみ霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、沖縄が恒久平和の発信地として輝かしい未来の構築に向けて、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。

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