小林多喜二から学ぶこと

2017年2月20日 (月)

忘れません 小林多喜二が虐殺されてから84年の今日を

潮 流   しんぶん 赤 旗   2017年2月20日 

  万国の労働者や民衆のたたかいの場で歌われてきた「インターナショナル」。この革命歌が日本語に訳されて国内で初めて歌われたのは、日本共産党創立の年と同じ、1922年の秋でした▼当時の左翼文芸団体がロシア10月革命を記念する前夜祭を代々木の農家で開き、そこに集まった人たちで歌ったのが最初だといわれます。そのとき、フランス語の歌詞を訳したのが佐々木孝丸でした▼戦前のプロレタリア演劇の草分けだった佐々木は戦後も俳優として長く活躍しました。プロレタリア作家の小林多喜二とも交遊があり、多喜二が築地署で特高の拷問にあって殺されたときも築地小劇場から駆けつけています▼葬儀にも参列し、多喜二の母セキの悲しみと憤りをじっとこらえる姿や最後の別れのときの慟哭を、胸に刻み込んだといいます。
 「どんなに、どんなに水が飲みたかったやら…何の罪があって! 鬼! 畜生!」▼反戦を訴え、人びとを搾取する社会からの転換を求めた多喜
二の信念に、苦悩しながらも寄り添おうとしたセキ。彼女の半生を描いた三浦綾子さんの小説が、映画「母 小林多喜二の母の物語」になって順次上映されています▼84年前のきょう、多喜二は国民の思想と良心を弾圧した治安維持法によって殺されました。いままた、その現代版と呼ばれる共謀罪が安倍政権によって国会に提出されようとしています。権力の横暴に声を上げる人たちを処罰しようと。いまこそ、立つとき。♪いざ闘わん いざ奮いたて゛いざ―



 
2月20日がめぐってきました。
毎年この日の前後に小林多喜二のことについて考えたり学んだりします。
私は、多喜二が築地署で拷問により虐殺されたときの歳が29歳だったということに、いつも驚きを感じるのです。29歳で、あれだけの小説を書き続け、闘い続けたということに敬意の気持ちでいっぱいになります。

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2016年3月 3日 (木)

小林多喜二忌 歩く 麻布十番地~築地  2月20日

 83回目の小林多喜二忌

多喜二は今も私たちの心の中に生き続けている

 この2月20日に何かしたいと思っていた時に、「しんぶん赤旗」2月7日の読者の広場欄で千葉県柏市在住の藤田廣登さんが多喜二忌歩きを呼びかけられました。
 私にとってグットタイミングで、「これだ」と思い参加することを決めました。

 2月20日が近づくと、2013年2月26日のブログ記事「小林多喜二虐殺80周年から学ぶ③にアクセスが急増しました。そして、その記事を読み返してみて、藤田廣登さんはあの時に多喜二の最後について詳しく説明してくれた方だということを思い出しました。

 2月中にアクセス数は2万を超えました。
私にとっては驚きでした。藤田廣登さんの説明をまじめに整理したことが、力を持ったのではないのでしょうか。

rock 2月20日(土)午後1時地下鉄麻布十番駅集合

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 天気予報通りに1時には雨が降り出し、雨脚は強くなりました。
全国で取り組まれている多喜二祭と連帯しての行動で、藤田さんが出発のあいさつで「雨が降ろうが何が降ろうが身体がゆるす限り続けたい」と言われていたことが印象に残りました。

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(出発にあたって、藤田さんがあいさつ)

eye 称名寺  港区麻布十番1-6-31

 多喜二が上京したのが1930年4月。
麻布十番での生活と活動は1932年4月~1933年2月で、非公然活動に入っていた。反戦活動に取り組みながら、執筆活動も行い「地区の人々」の作品を実名で発表。1932年4月に伊藤ふじ子と結婚し、称名寺の境内にあった二階建てアパートの1階に住んだ。

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eye 雨の中の朗読された「麻布の坂道」の詩が、多喜二の麻布での活動と生活を簡明に伝えていて胸に迫りました。

 この日知ったことも合わせ、小林多喜二って、29歳という若さで、共産党の活動でも文化活動でも、生活でも、明るく前向きに、展望を持って精力的に生きていたように感じました。今、多喜二から学ばなければならないことではないでしょうか。

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 麻布の坂道   土井大助

小林多喜二生誕100年(10月13日)によせて
               2003年10月11日

麻布の街は あちこちに 長い坂 急な坂。
どの坂も 小林多喜二が 歩いた道だ。
丈夫な足で、たいていは下駄ばきで、
雨の日は、喜んで傘をさしたりして、
いつも つま先を 自重させ、
両のかかとを、緊張させて歩いた道だ。

戦争の暗雲が広がる東京の空の下、
春から夏、 夏から秋へと 吹きつのる風を切って
時代の悪と対決するペンに渾身の力を込めた作家多喜二の
そのたぎる闘志が 心新たな仕事場に選んだ 麻布の街。

街角では ふと遠い小樽と思いくらべてみたり、
小樽の通学路の坂を思えば 何のことはない傾斜でも、
ここは どこに何が待ち構えているか きわどい坂道。
横丁辺りでは、 しきりに杉並に残した母親の心が案じられたが、
母親と息子を別け隔てる勾配は さすがにきつかった。

ときおり気に入ったフルーツパーラーで、
盟友と連れ立って 棒になった脚を休めたり、
たまには 小樽そっくりのウナギ屋の二階に、
ふたりで腰をすえ 栄養不足を補って 身体を横たえたり。

歩くたびに 愛着の深まっていく道なのに、
ある日 ゾロゾロ散歩している人ごみのなかで
街角では突然 全く散歩というものをもたぬ自分に 気がついた。
気を緩めて 愛妻と歩くなど 確実に危ない道だった。

不意を突かれ 鍵付きの大型トランク一つ抱えて抜け出た道。
中身は 気迫こめた小説や小論など書きかけの原稿にくわえ
愛読の文学書や 焚書扱いの古典でいっぱいだった。
3回も にわかに住居を変えねばならなかった麻布の街。

どこも 由緒ある名と歴史を持つ坂だが、
これらの坂を、誰もが自由に気楽に散歩ができるような
そういう 新しい平和な世の中を ひたすらにめざして、
多喜二が 細心に大胆に しのぎ歩いた道だ。

この道は、ひそかに一度だけ 母親が、
息子の明るい顔を とくと見おさめて 下って行った坂。
多喜二が全生涯的感情をこめて
母親に きっぱりと 心やさしく別れを告げた道。

こうした後 朝から夜まで 12、3回もの連絡をこなし
1日を28時間に働く活動に再び立ち戻って行った坂。

どの坂とて 気の抜ける道ではなかったが、
むしろ 未来につながる 光射す道筋だと思えば、
けっして 気の重い暗い道ではなかった。
肚のなかに 怒りと闘志を溜めてしか歩けない道だった。
麻布の道は 風雪の生涯の 最後の10ヵ月
小林多喜二が いのちがけで 上り下りした坂道だ。



eye 山中屋フルーツパーラー 麻布十番1-8-10番

 活動家との連絡場所であり、家族との会食の場であり、執筆の場でもあった。
現在は当時の面影を伝える物として豆源本店の建物が残っている。

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◆ ここから地下鉄で中央区築地まで移動

築地本願寺茶房で一息休憩



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築地本願寺(つきじほんがんじ)は、東京都中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。東京都内における代表的な寺院の一つで、京都市にある西本願寺の直轄寺院で、仏教界の「9条の会」の拠点になっているそうです。

 休憩時間中に隣同士の話になり、5人が「しんぶん赤旗」で読んで初めて参加しましたということで、愛知からの人も。すばらしい出会でした。

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休憩中に、伊藤ふじ子さんの姿を知らせる写真も紹介され、あまり語られない伊藤ふじ子さんに思いが及びました。

eye 築地小劇場跡  築地2-11-13

多喜二も何回かプロレタリア作家同盟大会などで築地小劇場にきていました。

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eye 前田医院  築地1-3-6

多喜二が築地署の拷問で瀕死の状況にされ運び込まれたのが、前田医院でした。
母親のセキさんは前田医院にかけつけ、看護婦から聞いた話で15分は生きていたということがわかっています。
小林多喜二の死亡は午後7時45分頃でした。
29歳3ヵ月余の生涯を閉じました。

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(前田医院に入る母親のセキ)

eye 築地警察署   築地1-6-1

 歩いてみて、築地署と前田医院はすぐ近くで、築地小劇場も目と鼻のさきだったことを実感しました。

 『築地警察署史』(100年記念史・1973年発行)では、昭和初期の高揚する人民のたたかい、共産主義運動弾圧の事例にについて列挙いるが、小林多喜二虐殺については一言も触れられていない。
 この国家権力の暴虐行為は時代は去っても決して忘れ去られるものではありません。


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2015年2月20日 (金)

小林多喜二は今も私たちの心に  2月20日

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= 小林多喜二「地区の人々」より =

 

 美都は、街では「それをやっている」女だったが、「裏」では近所の娘たちよりも穏しい内気な女だった。

 ある夜更、その日はお客はなく彼女は一人で帰ってきたが、入ってきた彼女の両頬は上気していた。彼女はショールを取ると、まだ寝ずに子供のボロを縫っていた「ハマの家の」お母アに。

 「街は千人針で大変な騒ぎよ!」と、云って知らせた。

 その日は街角には何人という女が「千人針」の布巾れと針と糸をもって立っていた。上品な奥様のような女や、そうかと思うと背中に子供をくくりつけた「裏」のお母アそっくりの女まで、側を通る一人一人の女を呼んで一針ずつ縫ってもらっている。女学生が縫って行く。お嬢さん風の女が心持ち顔を赤らめながら、それでも縫って行く。寒い日だった。美都は角巻で鼻の下を抑え、それらを見ながら、同じところを二度も三度も往復した。一度、奥様風の女が彼女を見付け、呼んだ。が、彼女は自分でもおかしい程赤くなり、周章てて逃げ出した。二度目に彼女は、ムキ出しのまま赤子を背中にくくりつけている貧相な女に、「ねえさん、お願いします!」と云われた。見ると、その女は出面取りの女らしく、稼ぎの帰りに其処へ立っているらしかった。腰に弁当箱の風呂敷包みゆわえつけていた。髪のボサボサした四十位のやつれた顔をしていた。その眼は半分泣いているような、しかし血走った真剣さをアリアリとみせていた。

 「おやじさんなの? 息子さん?」

 と、「美都」が訊いた。

 「おどオですよ!」

 と、今にも泣きそうになった。

 彼女は針と糸を受取りながら、だが、ためらった。

 「私でもいいの?…………」

 と、ちらッと相手を見た。

 おかみさんは、吃驚したように彼女を見たが、直ぐそれと分ったらしかった。

 「あ―ア、何云うだんべ! 心一つです。誰だって勿体なくいただきますだよ!」

 美都はそのことを「ハマの家の」お母アに話しながら、また赤くなった。彼女は、自分のような女でも国のためになれたことを考えながら、帰り道、何んべんも興奮してきたのだった。

「日露戦争のときも、街はそんだ。だけ、」と、お母アが云った―「んでも、あン時は千人針でも真綿でも、みんな死んだッけが……。」

 お母アはボロ切れから顔をあげた。

 次の夜、美都が同じ盛り場を歩いていると、又街角に昨日の出面取の女が、赤子をくくりつけて立っているのを見た。見ていると、他の同じ千人針の女の人だちとちかって、その女だけはまるで大道商人か何かのように、懸命に前を通る女の人を呼んでいた。時々、道の真ん中まで馳け出して行って、その人の前に立ちふさがって、「泣くように」ぺこぺこ頭をさげ、頼んでいた。が、その横にいる女の人などは、よそ行きの身綺麗な恰好をして立っていた。そして千人針のために其処に立っていることが、何か嬉しい、上品なことのような面持をしていた。それで出面取の女が、一層気でも狂いかけているように見えた。

 美都が街を往き来しているうちに、― その出面取りの女にまた彼女が見付けられたらしかった。女は寒さのために涙で汚れた顔を向けた。

 「あ―!」

 と云った。

 そして底の切れた「デンプン靴」をパクパクさせて、(女はそれを素足のまま履いていた)馳け寄ってきた。美都は戸迷って、立ち澱んだ。どうして、この女だけが気狂い染みているのだろうと思った。

 「お願いします!」

 然し、それより早く彼女の胸のところへ布切れと針をつき出していた。美都はびっくりして、「同じ人が何度もやったら、千人針にならないでしょう……」

 と、きいた。

 「そ、そんなこと―」と、相手は思わず吃った、「そんなこと云ってられないんです」そして、ぐすりと水ッぽい鼻汁をすすり上げた。「うちの人は、あ、あした行ぐんです!」

 「まア、明日!」

 彼女は側を通ってゆく人が、思わず振りかえるような声を出した。然し出面取りの女は何も耳に入らないように、幾針でもいいから縫ってくれるように頼んだ。美都は角巻の襟を顎に力を入れて抑えながら、縫い出した。

 「まだまだ三百針も残っているんで……」

 美都のせッせと動く手先を見つめながら、オロオロな声を出した。

 「これがハア、明日の朝まで問に合わなかったらハア、どうしたらええべ! 暮しの出来るところでは鉄砲が当って死んだって、片輪になったって、国のためだからあきらめもしようが、― わしらどこの家じゃ、弾丸一発でも当たってもらったら、一家じゅう野垂死だしっ」

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小林多喜二は「地区の人々」を一九九三年一月に書きあげました。

一九三三年二月二十日、小林多喜二と今村恒夫とともに特高警察に捕らえられ、小林多喜二は拷問によってその日の夜亡くなりました。忘れることのできない2月20日です。
「地区の人々」のこの部分を読んでいて、安倍自公政権の「世界で戦争をする国」への動きと重なって考えさせられてしまいます。

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(蟹工船を書いた1928年頃の小林多喜二)
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(兄弟と母を愛し続けた小林多喜二)

解 説 西沢舜一 「地区の人々」より

 

「地区の人々」は小林多喜二の絶筆である。掲載誌『改造』一九三三年三月号の発売が作者の死の二日前だったことはすでにのべた。

 

 舞台は小樽を思わせる北日本の港町Y市の労働者居住地区である。階級的労働組合運動の伝統に輝くこの地区も、長年の弾圧で火の消えたような状態だった。ところが、「満州事変」がはじまって、在郷軍人会なども動員してのファツショ的な抑圧がいよいよつのり、生活の破壊がはげしく進行すると、それに抗して「地区魂」がふたたび頭をもたげてくる。かつての「闘士」たちの勇気をふるっての働きかけにこたえて、鉄工所の労働者やバスの女車掌の中から新しい働き手が育ち、苦闘のすえに中央の組織との結びつきもやっと再確立できるというところまでこぎつける。

  「満州事変」下の農村を「沼尻村」で、軍需工場を「党生活者」で描いた小林多喜二が三たび筆をとって、こんどは労働者居住地区全体の戦時下の動向を概観し、革命的伝統の再生を描いたのがこの作品だった。

 ここでも小林多喜二の帝国主義戦争告発は、概念ではなく、生きた人物形象を登場させることによって、抑止のきいた、それだけきびしいものになっている。夫を戦場に奪われる妻たちのはかない千人針づくりをしっとりと描いているのもその一例だろう。出面取り(日傭)の女人夫のさし出す千人針の布を、おずおずと手にするのは、街角に立って男の袖をひく以外に生きるすべのない不幸な女だった。

 

「私でもいいの?」

  とためらう赤い角巻きの女にたいして、髪のボサボサした四十くらいのやつれた女
出面取りは叫ぶように言うのだった。

 「あ―ア、何云うだんべ! 心一つです。誰だって勿体なくいただきますだよ!」

  貧しくしいたげられた不幸な人びとへの共感から出発した小林多喜二の創作は、その初心を絶筆まで失うことがなかった。

 

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2013年2月26日 (火)

小林多喜二虐殺80周年から学ぶ③  2月20日

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(1933年2月20日=君の2月を忘れないコーナー)
clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 このコーナーで、藤田廣登さんの展示物の解説を聞きながら展示物を見ました。
私にとっては、2月20から2月21日にかけての詳しい説明を受けるのは初めてで、少し詳しく知ることができ、多喜二やお母さんのセキさんへ哀悼の気持ちを強めました。
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(説明される藤田廣登さん)

藤田廣登さんの解説から

最期の小説「地区の人々 ― 火を継ぐもの ―」

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(「蟹工船」と共に「地区の人々」)
 
小樽市の手宮という地域は労働運動の盛んなところだったが、3.15と4.16で大弾圧を受けて沈んでいき、それを再建する運動が起きてくる。その段階で多喜二は後継者づくりに関心を持って書いた。それが「地区の人々 副題 火を継ぐもの」となった。

人民には公然と、権力には非公然で

「改造」や「中央公論」に実名で書くわけですから、地下にもぐった多喜二は健在で、日本中の読者はみんなこれを読んで、多喜二が地下にもぐっているけれど先頭に立ってがんばっているということを知るわけですよ。それで、励まされて、たたかいに立ちあがっていくわけでしょう。だから特高警察は許しておくわけにいかないんですよ。なんとしても多喜二を捕えなければいけない。ところが、どんどん、どんどん逃げ回るわけですよ。
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(1931年日本共産党入党の頃の多喜二)
 権力に対しては非公然、だけど人民の前に対しては公然と活動を展開したということが特徴だと思いますね。その点がすばらしい活動家だったと思います。だから、最後まで、物書きではなくて、実践家として、ビラもまき、そしてビラはりもやり、そして選挙活動もやり、作家の活動もやりという活動をずうっとやっていた。そういう点では徹底的なすばらしい活動家、マルキストな活動家だったと思います。
 当時、弾圧に次ぐ弾圧ですから転向したり、日和ったり、物書くことやめちゃったり、物書きだけに専念したり、宮本百合子のように執筆禁止になったりして物が書けない時代ですから。

スパイを使って手引き

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(多喜二と今村が拷問された築地署付近)
 
この段階で、なんとしても多喜二を捕まえなければいけない。神出鬼没で、あちこち出張ってくるわけですね。それで捕まえるために、スパイ三船留吉という共産青年同盟にもぐりこんでいた築地署のスパイを使って教えを請うた。

2月20日 赤坂で格闘の末逮捕される

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(赤坂の逮捕された場所と今村恒夫)
 
正午ごろ到着するわけですね。ところがその場所に行ってみたら、目つきの良くないのが、たむろしている。「しまった」ということで、この道を必死で逃げるわけですね。その時、多喜二は着物と下駄だった。いっしょにいた今村恒夫は洋服で革靴だった。彼の方が早く逃げられたんだけど、「ドロボウ、ドロボウ」と叫ばれた。一般の人たちが出てきて捕まえやすい。逃げる前を遮られちゃった。それで警官に追いつかれ、そこで格闘になった。今村恒夫は20㍍ぐらい先を走っていたのですけど、多喜二が捕まりそうだからと戻って、なぐりかかって奪還しようとしたのだけれども、いっしょに捕まってしまった。そして築地署に連れて行かれた。築地署は一階が留置場、二階が演武場で、三階が拷問場所。

黙秘で闘いぬく

 
多喜二は4時頃までは山野次郎だと偽名を使っていた。
築地署の特高は多喜二の顔を知らないから半信半疑だった。そこへ警視庁の中川成夫(しげお)という特高課長が来たもんだから、多喜二と顔見知りですから、やむなく、観念し闘うしかないと今村恒夫と覚悟してやろうと言って黙秘を通すわけです。これが特高には気にいらない。 テロ係というのは血しぶきをうけてもいいように、女性が使うエプロンを用意していた。

多喜二にペンを持たせないことが至上命令

 特高警察にとっては、多喜二の口をふさぐことと、ペンを持たせないようにすることが至上命令だった。だから殺した。

多喜二の遺体は拷問の残虐さを告発

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(この写真が特高の残虐な拷問をなによりも証明しています)
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(藤田さんが多喜二の右手首を指示し「骨折、人差指も完全に折れ曲がっていた」と)

 安田徳太郎医師(博士)
両足はすごい内出血で触れば血が出るような状態で内臓も内出血。
5寸釘のような大きなキリで突いたような跡が15ヶ所
こめかみに打撲
首に索条痕があり、つぶしてしまおうとした。
右手首を締め付けた跡があり、骨折。右手の人差指は完全に折れ曲がっていた。

火を継いだ者がいた

「時事新報」の笹本寅はカメラマンの前川を連れて行って、阿佐ヶ谷に帰ってきた多喜二の遺体の写真を撮って、公表できないものですから、そのままフィルムを土瓶の中に隠して地中に埋めて戦中をしのいだのですよ。戦後になってこの写真を公表してくれたわけです。

特高は戦後責任を問われず要職に

 
特高の中川成夫は戦後、北区の教育委員長まで上り詰めた。特高の残党を戦後処罰できなかった。戦後、一旦、戦争反対の追及になったけれど、すぐに釈放しているんです。彼等はみんな要職に付く。ほとんど野放しだった。これが日本の民主化をやっぱり遅らせる要因の一つになったといえます。
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(展示会場=みなさんが熱心に閲覧していました)

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2013年2月24日 (日)

小林多喜二虐殺80周年から学ぶ②  2月20日

happy01  私は多喜二虐殺の際に、魯迅、ロマン・ロラン、志賀直哉などが抗議と哀惜の念を示したという事は知っていましたが、薄い内容の言葉だけでしかありませんでした。今回、荻野富士夫先生の話を聞いて、展示資料を藤田廣登さんの説明を聞きながら見たことで、29歳で不当にも殺された小林多喜二に関することで知らないでいた事がたくさんあって驚きでした。ブログ記事を書くのに、時間がかかっています。わからない事があってネットで一生懸命に探し、新たな認識を得たことがいくつもありました。物事の真実を知る喜びを感じました。

 フランスで当時、多喜二の小説が読まれ、評価されていてたことに驚き、そして、フランス共産党機関紙ユマニテが一面を使って多喜二の虐殺に抗議していることにも深い連帯の熱い気持ち、ロマン・ロランの熱い呼びかけに感銘を受けました。
clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

【荻野富士夫先生の講演から続き】


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Aページにヒトラーの似顔絵が。フランスのプロレタリア文学運動の小さな機関紙の創刊号フイュルージュにヒトラーの似顔絵とヒトラーの顔にかぶるようにカギ十字が、ハーケンクロスがある。カギ十字の下の文章をよく読みとって翻訳されたものがBの文章になります。私の同僚の高橋純先生が翻訳され拝借するわけですが、ロマン・ロランが非常に痛烈な抗議を上げているということです。「褐色ベストは・・・・・引用 われわれの抗議の声に唱和せんことを」 フイュ ルージュ1933年3月2日付でロマン・ロランは呼びかけている。

ロマン・ロラン
       Feuille Rouge 第1号 1933年3月6日 掲載
     (フイュ ルージュ)(フランスのプロレタリア文学運動の小雑誌の創刊号)

 褐色ぺストは一挙に黒色ぺストを凌駕(りょうが)してしまった。ヒトラーのファシズムはわずか4週間に、その師とも範とも仰いだイタリアファシズムが過去10年間に振るった卑劣な暴力を凌(しの)ぐ暴虐を恣(ほしいまま)にしたのだ。彼らは先の国会議事堂炎上を稚拙(ちせつ)にもおのれの暴虐の正当化のために利用せんと謀っているが、これこそ警察の手による下劣な挑発行為だったのであり、ヨーロッパ人誰一人としてこれに欺かれはしない。
 我々はここに彼らの犯した侵害と虚偽を世論の前に暴き出す、 ―彼らは暴力的な一反動政党にすべての公の武力を掌握させてしまった、―彼らの政府は殺人に行き着く犯罪行為まで合法化してしまった、―彼等は言論と思想の自由をことごとく扼殺(やくさつ)してしまった、一彼らは傲(ごう)然(ぜん)とアカデミーの世界にまで政治介入し、自説を枉(ま)げぬ勇気を示した稀有(けう)な作家芸術家を追放してしまった、―彼らは革命政党のみならず社会主義者やブルジョワ自由主義者の中からさえ、人望ある人々を逮捕してしまった、―彼らはドイツ全土を戒厳令下に置いてしまった、―彼らはあらゆる現代文明の礎である基本的自由および権利を停止させてしまったのである。
我々は訴える、人および市民の尊厳を陵辱(りょうじょく)する卑劣な犯罪行為への怒りと、そして、こうした臆面も歯止めもない犯罪に走るテロリズムと戦う者を結束させる連帯の意志とを我々と分かち合うかぎり、いかなる党派に属そうとも、ヨーロッパもアメリカも問わず、すべての作家、すべての世論の代弁者が、我々の抗議の声に唱和せんことを。
                       1933年3月2日

☆ 注
褐色ぺスト ナチスドイツ親衛隊の制服の色から生れた表現。ナチスの暴力的支配をペストの猛威に例えている。従来ペストは「黒死病」と称される。「黒シャツ隊」と呼ばれたイタリアファシスト党武装行動隊に重ねてイタリアファシズムを象徴している。

 こういうこういう時代状況の中で多喜二の虐殺、あるいは2.4事件があったということです。
 さて、国家の方は、いままでは特高であるとか、思想検事であるとか、文部省であるとか、独自のそれぞれの対策、自分たちの守備範囲の独自の対策を進めていたわけですけど、内閣そのものが一丸となってこの事態に対処しなければならない。この時期、流行語として出るのが“非常時”という言葉です。非常時ということに対抗するため5.15事件の後の内閣、斉藤誠内閣ですけど、そこには思想対策協議委員会、内閣の直属にできました。それぞれの各省の次官であるとか局長クラスをメンバーにした実務的なトップクラスが集まって、各省庁の対策を持ち寄って、内閣としての取締策、あるいはカッコつきの善後策を作りあげていく。それはその後の、取締であり、特に教育の面における統制などは、そこでプランがラインが出来た物をなぞっていく。そいう意味でも1933年というのは大きな意味があっただろうと思います。

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 同僚のフランス文学の高橋純先生がこの事実を明らかにしたわけですけれど、実は多喜二は殺されて、たとえば、有名なところでは魯迅が、それに対して非常に哀切な追悼の言葉を寄せてくれた。魯迅だけではなく、中国のプロレタリア作家の郁達夫も多喜二の虐殺に抗議したという非常に国際的な反応を呼ぶわけですが、その一つの大きなものがロマン・ロランを核としたフランスということになります。
 資料をご覧いただきたいのですが、Aの所にフランス共産党機関紙ユマニテです。

革命作家小林(KOBAYASCHI)日本軍国主義の手により東京にて殺害さる
               1933年3月14日付 ユマニテ掲載記事

 小林多喜二が東京で殺害された!・・・
 この犯罪の噂はわずか数日前にフランスにも伝わってきていた。
このニュースは―記憶に新しいところだが―
A.E.A.R(命的作家芸術家協会)の猛烈な非難を呼び、ロマン・ロランの呼びかけに応じてこの犯罪に対する無数の抗議の声が湧き起ったのだった。
 いまやこのニュースは確証された事実である!
 小林!… その名は世界を駆け巡った!
 帝国主義戦争への反対闘争を熱烈に支持するすべての者から彼は認められ、愛されていた。
小林は若かった。1903年に北日本の小村に生れ、非常に若くして社会問題に関心を寄せ、ほどなくして革命的知識人および労働者の前衛として戦うようになった。
 彼は共産党機関紙と協同し「戦旗」には、日本共産党の闘争を描いた『1928年3月15日』次いで『蟹工船』や農民ストを語る『不在地主』といった傑作をつぎつぎに発表したのだった。彼は続いて他の作品も発表したが、そのいずれもが労働者階級とわれらが共産党の闘争にささげられたものだった。彼は革命的作家中央委員会メンバーであった。
 警察の手で殺害
 過去数ヶ月間に彼は決然として、極東における帝国主義的侵略戦争および反革命闘争に抗する運動の先頭に立ち続けていたのだった。
彼の不屈の革命活動は日本帝国主義の脅威となっていた。
われらが同志は威嚇にも脅迫にもひるむことなく、その立ち位置を変えることはなかった。
 去る2月20日、小林は「反軍国主義活動」の廉で逮捕された。
 その1時間後、彼は警察暑で死体となっていた!小林は殺されたのだ!
 全世界のプロレタリアは日本軍国主義のこの新たなる犯罪に対して結束して立ち上がる。
この犯罪は、日本の人民大衆の戦いの意志を掻き立てずにはいないのである。

 (高橋純「多喜二生前の国際的評価:1932年に見られるその一端」)
       (2012小樽小林多喜二国際シンポジウム予稿集)

3月14日の記事ですけれども、真ん中のところに「KOBAYASCHI」「革命作家小林日本軍国主義の手により東京にて殺害さる」、こういう記事が3月14日に出ます。

「この犯罪の噂わフランスにも伝わってきていた・・・・」 多喜二が殺されたのが2月20日、それが「東京朝日」の記事にあるように、新聞に報道されたのは、その1日か2日後ということになります。そこで公表されて、それがパリまで行くというのは3週間も経たないわけですね。今でこそインターネットですぐ情報は世界を飛び交うわけですけど、当時においては、人、物ということではシベリア鉄道が一番早いわけですが、どれども2ヶ月近くかかるわけですね。しかも、この場合、電信、電報で受け渡しをして伝わって行ったことになりますけれど、この記事の意味するところは、高橋純先生の分析によれば、多喜二が殺されたということだけが衝撃ではなくて、実はその前に多喜二は既にフランスで紹介されていて、日本の代表的なプロレタリア作家であるということが実は前の年に紹介をされていて、そして日本文学の夕べのような集まりが開かれて多喜二の作品が朗読されている、そういう前提があって、それは一部の人ですけど、一部の関心を持つ人には、そういう多喜二の存在というものは十分既に知られていた。そいう前提があって〝あの多喜二が殺された〟たんに、日本の作家が殺されたではなくて、我々のところにも十分文学的価値が伝わってきている、何が日本文学の夕べで朗読されたかはわからないわけですけれど。多喜二という名前は既にフランスのプロレタリア文化に関心を持つ人々の中には十分知られていたわけですね。その人が殺されたという二重の衝撃でこの記事の意味があるというのが高橋純先生の分析です。まさにその通りだろうというふうに思います。

 そういう意味での多喜二の国際性ということですね。単に殺されたということだけではなくて、その文学に対する理解も実は十分に、もちろん、魯迅や郁達夫という中国の方にも多喜二の「蟹工船」などは既に翻訳されて中国の中でも読まれ始めているわけですね。もちろんそれは中国の国民党政権下で発禁になったりするわけですけども、でも日本の状況と同じように地下を通じて、そういう物は読まれつつあったわけですので、単に殺されたというショッキングな出来事だけの反応ではなくて、文学・思想というものが弾圧されたという、そういうところまで及んでいるということが、まず今日お話しをしたかったわけです。

 じゃあ、それにふさわしい多喜二は、本当に文学の買いかぶりじゃないかということではなくて、実はそれにふさわしい反戦文学を展開していたというふうに思います。
 これからすぐに、「蟹工船」のもう一つの読み方とうお話をしますけど、そこでは軍隊の事がもうすこしエピソード的で出てくるわけですけども、多喜二はその後のいくつかの作品では正面切って軍隊、戦争という問題は取り上げなかったわけですけれど、満州事変が起こった後、多喜二の作品を貫く太い柱は反戦のための文学にあったというふうに思います。

 多喜二はいくつかの短編を書いた後、「沼尻村」という中編の小説を東京に来てから書くわけですが、沼尻村とう北海道の農村を舞台にした作品ですが、そこでは、こんなふうに登場人物に言わせているわけですね。全農の支部長、山館、「今は、時期が時期で、日本の軍隊が極寒の満州で苦戦しているとき、我々国民としては内でこのような騒ぎを起こしている時ではないと思う」というふうに言わせる。農民組合、全国農民組合の村の支部長である山館という人物がこんなことを言うのは、あれなんですけど、「だら幹」ということになるわけですけど、「内でこのような騒ぎ」というのは小作争議を起こしているということです。そういうことで国内がバラバラに分裂している状況では今はないんだ、今は日本は海外的に満州という所で戦っているので、これを全国民上げて支持しなければいけないわけで、こんな小作争議をやっている場合じゃないんだということで組合の支部長が抑えにかかっている、そういう場面を多喜二は設定しているわけです。

 それから小樽を舞台にした作品で「地区の人々」、これが最期の作品になりますけれど、ここでも取り上げているのは戦争の問題が背景にあるわけです。
 それから、今日の展示にありますのでご覧いただければと思いますけれど、「党生活者」これは藤倉工業、現在も有りますけれど藤倉工業の毒ガスマスク製造工場労働者の反戦活動を舞台に描いているわけです。多喜二はやはりこの時期の主要な課題、何を、優先順位からいって何を最初にやるべきかというと、戦争に反対する、戦争の問題を考えるということを、これを非常に重点を置いたというふうに思います。

 そしてそれは単に小説だけでなくて、多喜二はこの時期、プロレタリア文学同盟の書記長のような立場になってきますので、社会評論、文学評論もたくさん書いています。もっとこの評論が多喜二の文学として評価されなければと思いますけれども、タイトルだけ上げますが、「暴圧の意義及びそれに対する逆襲を我々はいかに組織すべきか」32年6月の「プロレタリア文学」に発表されていますし、同じ8月号には「8月1日に準備せよ!」という評論を書いています。8月1日というのは国際反戦デーと言われている日ですけれども、その中で多喜二は的確に観察するわけです。「帝国主義戦争強行のための、又国内に於ける経済的、政治的危機の克服のための(即ちファシズム的支配強行のための)弾圧」つまり多喜二は我々に加えられている、多喜二自身、この時期、地下にもぐっているわけですね。次々に多喜二の仲間たちは検挙されていく。なぜそんな弾圧が今、我々に集中するのか考えた場合に、やはり、それは戦争を強行するために、反対の運動をつぶす、そういうものなんだ。単にこれは警察だけでなく憲兵のこと、社会教育の分野のことも言います。「軍事的=警察的反動支配」という言葉を多喜二は使いますけど、まとめてトータルに全的に把握しているところに多喜二の卓越さ的確さがあるというふうに思います。

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2013年2月21日 (木)

小林多喜二虐殺80周年から学ぶ①  2月20日

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(小林多喜二没後80年 第3回多喜二祭in所沢)

clover 写真の画面をくりっくすると大きくして見れます。

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(小林多喜二のデスマスク=展示室で)

 2月20日、1933年2月20日に小林多喜二が東京築地署で虐殺されてから80周年をむかえました。
 小林多喜二の生き方からは、くめどなく学ぶことが多くあり、学ぶたびに生きる力を与えてもらっています。
 国内の何ヶ所もで毎年多喜二祭や集いが行われいることは知っていましたが、参加するまでの気持ちがありませんでした。
 今年は多喜二虐殺80周年ということもあり、昨年読んだ「母の語る小林多喜二」の影響もあって、2月19日(月)に所沢市で開催された「小林多喜二没後80年第3回多喜二祭in所沢」に参加させてもらいました。
 所沢市を訪ねるのは初めてでしたが、有意義な感慨深い多喜二祭で主催者のみなさんに感謝いたします。
 何回かにして学んだり感じたことを書こうと思います。

 メインテーマとして「多喜二虐殺80周年の意味」が小樽商科大学教授 荻野富士夫さんの講演で行われました。
 多喜二が虐殺された1933年とはどういう年で1930年代とはどういう時代だったのかがよくわかり、今の時代に生かさなければならない事も明らかにされたのではないでしょうか。
 講演が始まってから、「母の語る小林多喜二」の解説をしていたのが荻野富士夫さんだということを認識しました。名前は頭になかくなっていたのです。そんな事もあってぐうっと親しみを感じることができました。

● 1933年の年に日本と世界で何が起きていて、日本社会の前向きな前進のために国民がどう生きていたのかについて的を得た話の内容で一番わかりやすように思い、荻原富士夫先生の講演の内容を紹介させていただきます。
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(講演する荻野富士夫小樽商科大学教授)

「 1933年という年はどんな年だったのかということを簡単にそこから触れていきたいと思っております。

 今から80年前ということですので1933年ということになります。
多喜二の虐殺は2月20日ですけれども、それを前後して大きな意味では思想的事件がたくさん起こっております。それはたんに国内だけではなくて世界史的にみても大きな1933年という年だったと思います。

 日本の近代史の中で考えれば、大正デモクラシーからファッシズムに大きく転換をしていく年になります。日本の近現代史、ペリーが来航して開国という段階から現在まで150年ぐらいあまりになりますけど、いくつかの節目で大きな画期を切ることができると思いますが、まずは明治維新。明治維新、どこからどこにとるかというのはありますけど、まず明治維新。それから、明治の終わりのところで1910年大きな節目になると思います。それは、日清、日露という大きな対外戦争(注 日清戦争=1894年、日露戦争=1904年)を日本は行って、その結果として朝鮮半島に植民地を獲得することになるわけですね。いわゆる、韓国併合というのが1910年という年です。そして実は、1910年という年は大逆事件が起こった年であります。そういう意味で1910年は大きな画期だと思いますけど、その後は、1945年の敗戦というところが画期になりますけど、その間をどこにとるかといった場合に1910年から1945年までの間をどこで区切るかといった場合に1931年というのが節目になる。これは満州事変の年です。そして翌年は満州国が(かいらい国家の満州国)建国される年ですけど、31年のところで非常に排外主義がマスコミを通じて喧伝(けんでん)されて急速にデモクラティックな気分が消えてしまって、あっというまに消えてしまってファシズムの段階に移っていく。ちょうどその過渡期に33年もあるわけです。それには当然満州事変に対しては後で述べますように、多喜二は反戦運動を展開しようとするわけですけれど、それを押さえつける国家の動きが強まってきます。

 少し多喜二のところからさかのぼっていくと、前の年から1月にかけてですけれど、「司法官の赤化事件」と呼ばれるものがありました。司法官。裁判官、判事等、裁判所の事務官、この中にやはり共産主義思想を持つ人々がでてきた。これが検挙される事件です。さっき、教員赤化事件というお話をしましたけど、教員赤化という国家の根幹にかかわる教員のこと、それから、司法の部分というところに共産主義思想、赤化思想というものが入ってくるということに国家の側は非常に危機感を持って赤化事件ということを大きく宣伝して行くことになるわけです。それから、1月には川上肇も検挙される、そういう段階です。そして長野県の2.4事件、それから小林多喜二の虐殺、3月には滝川事件と連なってきますし、その少し後には佐野学、鍋山貞親の転向(1933年7月)という大きな事態が起きてくる。そういう1933年の特に前半のところをみていても非常に大きな事件があいつで起きるということになります。

 ただ、それは、さっきちょっと申し上げましたように、たんに国内だけでなく国際的にみても世界史的にみても大きな転換の年でした。つまり、1月にヒットラーが政権を奪取するという段階です。そして、国会の放火事件を口実にデッチあげることによって共産党の大弾圧がすすめられていく、そういう段階です。

 資料の後ろの方の、一番後ろの新聞記事をごらんください。
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(1933年2月22日=東京朝日新聞)

 これは1933年2月22日の「東京朝日」新聞の紙面ですけど、左側の方に「老母半狂乱、病院で涙の対面、母思いだった小林」右のところに見出しで「あいつぐ急死事件、左翼に大衝動、小林多喜二問題に作家同盟、警察側に抗議せん」と見出し。子どもをおんぶしている写真が母親のセキさん。上には病院を出る遺骸という写真。
 ここで初めて多喜二の虐殺ということが新聞で報道される。ただ、警察はそれは心臓麻痺であったと言い弁明するわけです。

 実はこの記事が左側にあるとともに、右の所に、さきほど述べています長野県教員赤化事件が報道されているわけです。2月4日の直後から新聞ではずうっと報道されます。特に長野県の地元紙の「信濃毎日」では連日のように報道されるわけですけれども、中央の「東京朝日」でも報道されています。「宛ら(さながら)赤化『第三期』長野県の小学校 童心惑乱・教壇から連行 中に6名の女教員」「検挙 訓導既に68名」という見出し。

 つまり、いままでは、私は、小林多喜二の虐殺という事を見る場合にはお母さんのこの記事だけ注目して、これだけにしか焦点が合っていなかったわけです。もう少しよく見ると全体にこの日の「東京朝日」は二つの大きな事件を並べているという紙面になっているとうことです。

 そして、この前後を見ていくとヒットラーのこともたくさん出てくる。もうひとつ、ここでは出てきませんけども、日本が国際連盟を脱退するという事態に至るのが、ちょうどこの前後の時期です。ですから教員赤化事件の動きを追っていくとか、多喜二の葬儀が妨害されるという記事を新聞で追っていくとなると、よく目をこらしていくとヒットラーのことがあったり、あるいは日本が国際連盟を脱退する、通告するという事態になります。国際連盟の脱退はもちろん満州国をかいらい国家として創った、それに対して日本調査団が報告書を出して日本側に圧倒的に不利な日本だけが反対して大部分が報告書を承認するという形で日本が脱退通告をする。松岡洋介が全権代表団として演説をし、そして会場から退場するというそういう場面がちょうどこの時期、2月から3月にかけて起こってくるわけです。松岡はそのあと日本に帰ってくると英雄のように国民から称賛されるわけです。

 ヒトラー、日本の国連脱退がちょうどこの時期に重なっている。逆に言えば、多喜二の虐殺、教員赤化事件というのも、そうい状況だからこそこのタイミングで起こったということが言えると思います。」

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2012年2月20日 (月)

小林多喜二が虐殺されて79年目の2月20日  

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   (新日本出版社)

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      (新日本出版社発行)

 数年前、医院の待合室で偶然目にしたのが上記の小林セキの文章でした。
小林セキさんの多喜二への思いが熱く伝わり、私の母とがダブってしまい、涙が止まりませんでした。
 それから、小林セキさんに関する記事には注意するようになりました。
「母の語る小林多喜二」が出版されたことを知り、早く読もうと思いつつ今頃になり、2月14日に読み終わりました。
1933年年2月20日に小林多喜二が東京築地で拷問で虐殺されてから79年目を迎えました。

すばらしい知性と感性を持った人

 私の読後感を一言でいえば、小林セキさんって、すばらしい知性と感性を持った人だったんだということでした。
 私は、小林多喜二について小説をいくつか読んで、舞台劇などを見て多喜二について知ったような気持ちでいましたが、この本で小林多喜二の全体像を初めて知ったように思いました。

● 小林セキさんの略歴(本の中から整理)

1873年8月 秋田県大館市(現)釈迦内村で生まれる。(旧姓は木村)
15歳で小林末松と結婚(数え年?)(大館市川口)。
Image00111903年10月13日次男として多喜二生まれる。
1907年12月 北海道小樽市に家族で転居。
セキには6人の子どもがいた(長男が死亡)。
1930年3月 小林多喜二上京。
1931年   多喜二、セキ、弟の三吾3人での東京杉並区での生活が始まる。
(治安維持法下で多喜二は検挙・投獄・地下生活とたたかいの最中であった)
1933年2月20日 小林多喜二 築地署で拷問により虐殺される。多喜二は29歳だった。
1933年2月21日 母親のセキに多喜二が死亡したと警察から連絡。
セキは果敢に弾圧に抗して多喜二の知人たちの力を借りて、事件の真相究明や葬儀にとりくむ。
1933年3月  セキは多喜二の遺骨を抱いて小樽に帰り葬る。長女のちま子夫婦と暮らす。
日本の敗戦後、各地で行われた「多喜二を偲ぶ会」や「多喜二追悼記念会」などに出席しあいさつなどをする。
1946年2月20日、多喜二の13周忌の後に「母の語る 小林多喜二」の出版めざし、小林廣さんによる聞きとりの原稿作りが始められた。第一次原稿、第二次原稿まで作られたが、この本は出版されないままになった。
1960年10月    小林セキ 日本共産党に入党
1961年5月10日  小林セキ 87歳9ヶ月の人生を全うした。
2011年7月新日本出版から「母の語る小林多喜二」がようやく出版される。


小林多喜二、1903年6月24日警視庁に検挙され
治安維持法違反の容疑で起訴され、豊多摩刑務所の未決監に収容され、931年1月保釈

 「然し、私としては多喜二の思想がどうあろうと、多喜二は私にとって切っても切れぬ骨肉、かけがえのない相続人なのです。それが今捕えられて冷たい刑務所に日の光も浴びずにいるかと思うと、可哀そうで可哀そうで、羽があったら飛んで行って抱きしめたい衝動にかられ、居ても立ってもいられないほどです。あの親思いの多喜二のこと、私がこんなに心配しているのと同じく、多喜二も屹度私達のことを心配して、毎日毎日淋しい独房の中で呻吟(しんぎん)していることでしょう。どうぞ一日も早く娑婆へ出られますようにと、唯神仏におすがりするより外なく、その頃の私は一夜として満足に眠れたことはありません。
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(小林多喜二の兄妹)
 その内に漸々秋も近づいて来ました。海鳴りの音を聞いても、電線にひゅうひゅうと秋風が鳴っているのを聞いても、すぐ心に浮かぶのは多喜二のこと、今頃はどうしているか、風邪でも引かぬか、誰か差入れでもしてくれているのか、火の気のない独房の寒さ、それらのことを思うと矢も楯もたまらず夜なべをしながら厚く綿を入れた布団を作り、それを三吾に持って行って貰うことにしたのです。三吾が上京したのは十月下旬、十一月の初めに多喜二と会うことが出来て、その差人物が多喜二の手に届いたのは私の思いが叶ったと云うもの、その当時改造社の佐藤績さんに宛てた手紙が、その佐藤さんから頂いて私の手元にありますので、お目にかけましょう。」

(注)三吾が上京したのは十月下旬と記されているが、九月中旬に上京し豊多摩刑務所で多喜二と面会している。

小林多喜二の佐藤績宛て獄中書簡より

ぼくは此処を出てゆくまでに、実にものしりになっているようです。バルザックと佐々本邦がごっちゃになったり、コルビュジエと物価指数の統計と隣りあったり、経済史とチェホフが仲よく笑ったり、終いにどうなるのか、自分でさえも分らなくなります。ぼくはまだ生れてから、この位たて続けに、本を貪(むさぼ)
ったことを知りません。

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(あり日の多喜二)
 忙しいでしょう。文壇の様子でもハガキでお知らせ下さい。

 此処では、ぼくは毎日古田松陰のように坐っています。
夜、寝ると、然し、ぼくは自由に小樽の街を散歩したり、あなた達と議論したりします。これは、ぼくをこの上もなく幸福にします。北の国に残してきた年老いた母は、それに、厚い、巾の広い蒲団を送ってくれたので、ぼくは何時でも夜を待っています。

 

(この手紙は二十日間かゝつてあなたの手に入ります。そして、それに対して、若しあなたがお返事を直ぐ下すっても、それは、又二十日かゝつて、ぼくの手に入るのです。面白いでしょう

            十一月二十二目


  私にも「ふとん」には忘れられぬ思い出が
1962年、私の就職が決まり上京する時に、母が「なにがほしい」というので「ふとんを作って」とたのみ作ってもらいました。私の生活には欠かせぬ大切な物でした。結婚してから、ふとんの裏打ちに出したのですが、後で、布団屋さんが「綿をうっていたら手紙らしき紙がはいっていたんです」ということでしたが、その手紙は私には戻りませんでした。残念でなりませんでした。しばらく経ってから母に「手紙に何を書いてあったのか教えて」とたのみましたが、母は笑っていただけで教えてくれませんでした
 その「ふとん」がセキさんと母をダブらせてしまうのです。

=通夜のセキの姿=
 窪川いね子さんの「大衆の友」からの一文から

「お母さんは小林の苦痛のあと、敵の迫害の跡を探すように力を入れて撫でた。
 絶えず口を衝いて出るお母さんの悲憤は、また並居る我々の感情であった。が、お母さんの声は我々の胸をしめつけた。
 お母さんは襟をかき合せてやり、今度は額を撫で、髪の毛をかき上げて、その小林の額を抱えて『それ、もう一度立たぬか、みんなのためもう一度立たぬか』

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(通夜の席の同志たち)
  そう言って自分の頬を小林の頬に押しつけてこすった。自分で生んで、自分で育てた母親の愛情で同志小林の死顔を抱えて率直に頬をすり合せた。
 押しあぐる息で、お母さんは苦しそうに胸を弱って、はつツ、おつツと声を上げっづけた。」


多喜二の思想について

「多喜二の小説はそうした社会政策を20年も前に実施しなければならぬと叫んだ内容と思うのですが、それが時の政府の反感を買ったのですから、今思えば変なものです。今日になって多喜二の考え方は正しいものであったとはっきり認識せられます。

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(治安維持法下の社会でも小林多喜二全集は発行された)
 何もかも多喜二の思っていた通りの世の中になったと私は心ひそかに喜んでいるのです。
 前にも申し上げました通り、私はいたって楽天家で、あまり物事にあまり屈託しない方であり、多喜二没後以来随分と世間に対し肩身の狭い思いをしてきたのですが、そうかと云って、それがために卑屈になるような考えは毛頭なく、いつも呑気に、そして「天は自ら助くるものを助く」という恪言を信じて、平安な気持ちで今日まで過して来たのです。ですから私は、世間の御隠居さまのように年をとったら安楽に、美味いものを食べて絹布にくるまって、厚い座布団に座ってお茶を飲んだり、女中に脚腰を揉ませたりするような欲望は更になく、人間というものは死ぬまで働くものだという信条の下に、斯うして毎日モンペを穿いて宵掻きもすれば、煙突掃除も手伝うことを苦にしないのでございます。春になると畑へ出るのが何よりの楽しみ
で、南瓜や馬鈴薯や、野菜なぞ、私が先頭になって作るのです。これは私は若い時から色々と苦労したお蔭で、従ってまずいものでも有難く頂き、辛い仕事も辛いと思わないで体を動かしているのです。
 佐藤夫婦ヽ幸田夫婦の外、数年前には末子のゆき子も、三吾もそれぞれ結婚し、孫の数も大分殖えましたっ娘のお産の干伝にも次から次へと廻っています」

太陽は総てのものを平等に照らす

「私はむつかしいことは知りませんが、世間の人が幸福になって自分も幸福を受け、他人の喜ぶ顔を見るときは本当に自分も心から嬉しくなるものだということを信じているのです。
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(小林多喜二文学館)
太陽は、総てのものを平等に照らして下さいます。多喜二達同志の士義も新しく生れ変った日本で、色々と国民の問に研究して頂いていると云うことは有難いことです。その主義を好む、好まないは人様の自由ですから、嫌いなものを強いる必要はありませんが、お上の弾圧もなく自由に論議され、研究される世の中になったことは結構なことだと存じます。これからの日本人は屹度良い方へ、良い方へと延びていくことでしょう」

                        

  =小林セキの詩=

当初、口絵として用いられる予定だったセキの詩は、次のようにルーズリーフに毛筆で丹
念に書かれている。

  あーまたこの二月の月かきた     ああ、またこの二月の月が来た。

  ほんとうにこの二月とゆ月か      本当にこの二月という月が

  いやな月 こいをいパいに        嫌な月、声を一杯に

  なきたい どこいいてもなかれ     泣きたい どこへ行っても泣かれない。

  ない あー てもラチオで        ああ でもラジオで

  しこすたしかる                少し助かる

  あーなみたかてる              ああ涙が出る

  めかねかくもる                 眼鏡がくもる


豊多摩刑務所に入っている多喜二に手紙を出すために独学でいろはを手習いしたセキは、毎年「二月」をつらい気持で迎えていた。母としての愛情と悲しみ・怒りの深さが伝わるこの詩はセキの死後、遺品のなかからチマが発見したもので、セキの亡くなる二、三年前に書かれたものと推測されていたが、「第一次原稿」に付されていたことからすると、すでに1946年4月以前に作られていたことになる。
 

 

 

 

 

 

 

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