原発からの撤退を

2016年3月10日 (木)

原発事故は人と環境を破壊し取り戻せない  3月10日

       声 明       2016年3月9日

 大津地裁高浜3、4号機運転禁止仮処分申立事件申立人団、弁護団一同

 本日、大津地裁は、関西電力高浜原発3、4号機の運転を禁止する画期的な仮処分決 定をした。高浜原発3、4号機は、既に原子力規制委員会の設置変更許可その他再稼働 に必要な手続を済ませ、4号機はトラブルによって停止中であるが、3号機は、現に営 業運転中である。現に運転中の原発に対して運転を禁止する仮処分決定が出されるのは 史上初めてである。そして、関西電力株式会社は、この仮処分決定よって、4号機を起 動せることができなくなっただけでなく、3号機の運転を直ちに停止しなければならな くなった。

 福島第一原発事故は膨大な人々に筆舌に尽くしがたい苦痛を与えたが、それでも事故 の規模は奇跡的に小さくて済んだ。最悪の事態を辿れば、日本という国家は崩壊しかね なかったのである。大多数の市民が、電力需要が賄える限り、可能な限り原発依存をな くしたいと考えたのは当然であった。そして、その後の時間の経過は、原発が1ワット の電気を発電しなくても、この国の電力供給に何ら支障がないことを明らかにした。も はや、速やかに原発ゼロを実現することは市民の大多数の意思である。

 しかるに、政府は、着々と原発復帰路線を進めてきた。まだ、福島第一原発事故の原 因すら判っておらず、10万人もの人が避難生活を続けているのにもかかわらずである。  そして、原発復帰路線の象徴が高浜3、4号機である。ここでは、危険なプルサーマ ル発電が行われている。もし高浜原発で過酷事故が生じれば、近畿1400万人の水甕(みずがめ)である琵琶湖が汚染され、日本人の誇りである千年の都京都を放棄しなければならない 事態すら想定される。市民がこの政治の暴走を止めるためには、司法の力に依拠するし かなかった。そして、本日、大津地裁は、福島原発事故の原因を津波と決めつけ再稼働 に邁進しようとする関西電力の姿勢に疑問を示し、避難計画を審査しない新規制基準の 合理性を否定し、避難計画を基準に取り込むことは国家の「信義則上の義務」であると 明確に述べるなど、公平、冷静に賢明な判断を示した。市民は、今晩から、いつ大地震 が高浜原発を襲うか、いつ高浜原発がテロの対象になるかと脅えなければならない生活 から解放される。担当した裁判官3名(山本善彦裁判長、小川紀代子裁判官、平瀬弘子 裁判官)に対し、深い敬意を表する次第である。

 関西電力に対しては、仮処分異議や執行停止の申立てをすることなく、直ちに高浜3 号機の運転を停止させることを求める。関西電力をはじめとする原子力事業者に対して は、目先の利益にとらわれることなく、この美しい匿七をこれ以上汚染することなく将 来の世代に残していくために、もう一度、営業政策を見直すことを求める。私たちは、 既に、将来の世代に対して、高レベル放射性廃棄物の10万年もの保管という負担を押 し付けている。これ以上、負担を増やしてはならない。そして、原子力規制委員会は、 今回の決定の趣旨を真摯に受け止め、新規制基準の見直し作業に着手すべきである。ま た、政府は、2030年に原発による発電を20~22パーセントとする等という現行 のエネルギー政策を根本から見直して、原発ゼロ政策に舵を切るべきである。
                            以上

 原告と弁護団のみなさんに感謝の気持ちがいっぱいになります。私の声を代弁し行動してくれているのですから。そして、勇気ある3人の裁判官にも。

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2016年3月 8日 (火)

福島第一原発事故から学び、原発から撤退を 3月8日

 2月29日に高浜原発4号機が緊急停止しましたが、その日のテレビ報道には各社の違いが明らかで驚くほどでした。私はNHKのニュースの後、報道STATIONを見て、この事故が報道陣に公開された下での事故だったことを知りました。(もし、MHKしか見なかったら、真実を知らないままになっかも)
 古舘伊知郎さんと中島岳志さんの凛とした姿勢にエールを送りたいと思いました。

2016年2月29日(月)報道STATIONより

● 高浜4号機?緊急停止〟 再稼働で、報道陣を招き入れ公開の目前で  制御室に鳴り響いた警報音 福島第一原発事故
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● 東電元幹部3人を強制起訴
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2月29日(月) 関西電力は発電機と送電設備をつなぎ、出力を上げていくことになっていた。そのため、関西電力は中央制御室に報道陣を招き入れ、再稼働で発電した電気が送電される瞬間を紹介してもらおうと、はれの舞台を用意した。その目の前で、異常が起きた。  警報を発していたのは「主変・発電機」と「変圧器」だという。発電機と原子炉はすぐに自動停止した。その段階で撮影のストップがかかった。

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≪古舘伊知郎氏と中島岳志氏のやりとりから≫

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 古舘伊知郎 メインキャスター

ようするに大丈夫だと思っていたということですよね。異口同音に。これこそが神話だったということがわかったわけですね。いずれにしてもこの刑事裁判の結果がどうあれ、着々と原発の再稼働は進んでいく状況です。中島さんどうなんですかね~

 中島岳志 東京工業大学教授(政治学・歴史学)

そうですね 高浜の4号機の原発のトラブルの問題に戻って少し考えたいんですけれども、これ世界で最も厳しい安全基準に合格したはずなんですよね。ここでトラブルが相次いでいるということは、この安全基準が本当に正しいのか、不十分なんじゃないのかっていうふうに思って当然だと思うんですよね。  
 この高浜の3号機4号機についてはVTRにもありましたけれども、福井地裁で再稼働についての差し止めってのが出たわけですね。その時に判決で「新しい規制の基準は緩やか過ぎるのでこれを適合しても原発が安全性はこれは確保できない」って書かれているんすね。 判決の方が正しいんじゃない、それを立証しているように、今日のトラブルというのは見えてしまう。


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2015年4月14日

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2015年12月24日、逆転判決

 古舘伊知郎

規制委員会の委員長も、安全かどうかというのでなくて、規制の新しい基準なんだとその定義は前々から言ってるんですよ。 (そうなんですよね  中島)

 中島岳志

それで昨今起きている、数日の間に起きたことなんですけれども、たとえば福島で原発事故が起きた当時メルトダウウンについての定義ですね、これについてのマニュアルが存在しないというふうに言われていたんですが、いや、ありましたという話が突然出てきましたね。それが発表されました。もし、これが当時ちゃんとマニュアルがあったとしたら、そしてそれに従っていればですね、これは事故から3日後にはメルトダウンだというふうに判断できたっていうふうに言われています。しかしですね、東電はメルトダウンという言葉は使わずに長い間ですね、炉心損傷というあいまいな言葉を使い続けていましたですね。こういうものが、なにかほとぼりが冷めてきたような5年後に突然出てくるってのは、さらに、不信感をドンドンどんどん加速させるように私には見えてしまいます。

 こういうような問題が次々にまだ出てきている、にもかかわらず、たとえば高浜の1号機2号機についてはですね、これは原則原発は40年で廃炉ですけれども、さらに20年延長する。そんなことが申請されているわけですね。政府が例外中の例外としてきたものですけれども、こういうことが次々に常態化してくるとですね、日本の原発はおおよそ稼働30年前後のものが多いんですけど、もうこれはさらに全部で60年、トータルでやることになると、あと30年続くと、さらに新しいものはもっと続くという話になってきますね。これは、もっと国民が怒ってしかるべき、そんな事態なんじゃないかと思いますね

 古舘伊知郎 
 
 その通りですね。 安全優先と言っていながら安全優先じゃなくて、予定優先とそういう流れが見えているのも事実なのでね。このあたりは本当に立ち止まるべきではないかと思いますね。

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2015年4月15日 (水)

再稼働はやめ原発からの撤退に踏み出そう  4月15日

 14日に高浜原発の再稼働差止仮処分がの決定があることを知らずにいました。
なにげなくテレビを点けたら、「司法が再稼働を止める」「司法はやっぱり生きていた!!」の幕が飛びこんできたので“おう”と驚きの声が出てしまいました。すごいと思いました。

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 関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町9の再稼働差し止めを求めた仮処分申請で、福井地裁が4月14日に関西電力に運転差し止めを命じた決定の主文と理由の要旨は次の通り。     2015年4月14日

平成26年(ヨ)第31号 高浜原発3、4号機運転差止仮処分命令申立事件

主文

1 債務者(関西電力)は、福井県大飯郡高浜町田ノ浦1において、高浜発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。

2 申立費用は債務者の負担とする。

理由の要旨

1 基準地震動である700ガルを超える地震について

基準地震動は原発に到来することが想定できる最大の地震動であり、基準地震動を適切に策定することは、原発の耐震安全性確保の基礎であり、基準地震動を超える地震はあってはならないはずである。

しかし、全国で20箇所にも満たない原発のうち4つの原発に5回にわたり想定した地震動を超える地震が平成17年以後10年足らずの問に到来している。本件原発の地震想定が基本的には上記4つの原発におけるのと同様、過去における地震の記録と周辺の活断層の調査分析という手法に基づいてなされ、活断層の評価方法にも大きな違いがないにもかかわらず債務者の本件原発の地震想定だけが信頼に値するという根拠は見い出せない。

加えて、活断層の状況から地震動の強さを推定する方式の提言者である入倉孝次郎教授は、新聞記者の取材に応じて、「基準地震動は計算で出た一番大きな揺れの値のように思われることがあるが、そうではない。」「私は科学的な式を使って計算方法を提案してきたが、平均からずれた地震はいくらでもあり、観測そのものが間違っていることもある。」と答えている。地震の平均像を基礎として万一の事故に備えなければならない原子力発電所の基準地震動を策定することに合理性は見い出し難いから、基準地震動はその実績のみならず理論面でも信頼性を失っていることになる。

基準地震動を超える地震が到来すれば、施設が破損するおそれがあり、その場合、事態の把握の困難性や時間的な制約の下、収束を図るには多くの困難が伴い、炉心損傷に至る危険が認められる。

2 基準地震動である700ガル未満の地震について

本件原発の運転開始時の基準地震動は370ガルであったところ、安全余裕があるとの理由で根本的な耐震補強工事がなされることがないまま、550ガルに引き上げられ、更に新規制基準の実施を機に700ガルにまで引き上げられた。原発の耐震安全性確保の基礎となるべき基準地震動の数値だけを引き上げるという対応は社会的に許容できることではないし、債務者のいう安全設計思想と相容れないものと思われる。

基準地震動である700ガルを下回る地震によって外部電源が断たれ、かつ主給水ポンプが破損し主給水が断たれるおそれがあることは債務者においてこれを自認しているところである。外部電源と主給水によって冷却機能を維持するのが原子炉の本来の姿である。安全確保の上で不可欠な役割を第1次的に担う設備はこれを安全上重要な設備であるとして、その役割にふさわしい耐震性を求めるのが健全な社会通念であると考えられる。このような設備を安全上重要な設備でないとする債務者の主張は理解に苦しむ。債務者は本件原発の安全設備は多重防護の考えに基づき安全性を確保する設計となっていると主張しているところ、多重防護とは堅固な第1陣が突破されたとしてもなお第2陣、第3陣が控えているという備えの在り方を指すと解されるのであって、第1陣の備えが貧弱なため、いきなり背水の陣となるような備えの在り方は多重防護の意義からはずれるものと思われる。

基準地震動である700ガル未満の地震によっても冷却機能喪失による炉心損傷に至る危険が認められる。

3 冷却機能の維持についての小括

日本列島は4つのプレートの境目に位置しており、全世界の地震の1割が我が国の国土で発生し、日本国内に地震の空白地帯は存在しない。債務者は基準地震動を超える地震が到来してしまった他の原発敷地についての地域的特性や高浜原発との地域差を強調しているが、これらはそれ自体確たるものではないし、我が国全体が置かれている上記のような厳然たる事実の前では大きな意味を持つこともないと考えられる。各地の原発敷地外に幾たびか到来した激しい地震や各地の原発敷地に5回にわたり到来した基準地震動を超える地震が高浜原発には到来しないというのは根拠に乏しい楽観的見通しにしかすぎない上、基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、そこでの危険は、万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険である。

4 使用済み核燃料について

使用済み核燃料は我が国の存続に関わるほどの被害を及ぼす可能性があるのに、格納容器のような堅固な施設によって閉じ込められていない。使用済み核燃料を閉じ込めておくための堅固な設備を設けるためには膨大な費用を要するということに加え、国民の安全が何よりも優先されるべきであるとの見識に立つのではなく、深刻な事故はめったに起きないだろうという見通しのもとにかような対応が成り立っているといわざるを得ない。また、使用済み核燃料プールの給水設備の耐震性もBクラスである。

5 被保全債権について

本件原発の脆弱性は、①基準地震動の策定基準を見直し、基準地震動を大幅に引き上げ、それに応じた根本的な耐震工事を実施する、②外部電源と主給水の双方について基準地震動に耐えられるように耐震性をSクラスにする、③使用済み核燃料を堅固な施設で囲い込む、④使用済み核燃料プールの給水設備の耐震性をSクラスにするという各方策がとられることによってしか解消できない。また、地震の際の事態の把握の困難性は使用済み核燃料プールに係る計測装置がSクラスであることの必要性を基礎付けるものであるし、中央制御室へ放射性物質が及ぶ危険性は耐震性及び放射性物質に対する防御機能が高い免震重要棟の設置の必要性を裏付けるものといえるのに、原子力規制委員会が策定した新規制基準は上記のいずれの点についても規制の対象としていない。免震重要棟についてはその設置が予定されてはいるものの、猶予期間が設けられているところ、地震が人間の計画、意図とは全く無関係に起こるものである以上、かような規制方法に合理性がないことは自明である。

原子力規制委員会が設置変更許可をするためには、申請に係る原子炉施設が新規制基準に適合するとの専門技術的な見地からする合理的な審査を経なければならないし、新規制基準自体も合理的なものでなければならないが、その趣旨は、当該原子炉施設の周辺住民の生命、身体に重大な危害を及ぼす等の深刻な災害が万が一にも起こらないようにするため、原発設備の安全性につき十分な審査を行わせることにある(最高裁判所平成4年10月29日第一小法廷判決、伊方最高裁判決)。そうすると、新規制基準に求められるべき合理性とは、原発の設備が基準に適合すれば深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもないといえるような厳格な内容を備えていることであると解すべきことになる。しかるに、新規制基準は上記のとおり、緩やかにすぎ、これに適合しても本件原発の安全性は確保されていない。新規制基準は合理性を欠くものである。そうである以上、その新規制基準に本件原発施設が適合するか否かについて判断するまでもなく債権者らが人格権を侵害される具体的危険性即ち被保全債権の存在が認められる。

6 保全の必要性について

本件原発の事故によって債権者らは取り返しのつかない損害を被るおそれが生じることになり、本案訴訟の結論を待つ余裕がなく、また、原子力規制委員会の設置変更許可がなされた現時点においては、保全の必要性も認められる。

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2013年10月27日 (日)

三宅泰雄著 「死の灰と闘う科学者」   10月27日 

happy01 9月28日のNHKEテレで放送された「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸~」を見て、現実に進んでいる東電福島第一原発の危機的状況と重ね合わせ大変感銘をうけました。
 放送の中に出てきた三宅泰雄さんの名前に、わずかに記憶があるような気はするのですが、どういう人だったのだろうかと関心がわきました。それで、「三宅泰雄著=死の灰と闘う科学者」を読んでみようと思い立ち購入し、10月11日~27日までかけて読み切りました。

読んで大変感銘を受け、いろいろなことを考えさせられました。

この本を多くの人にぜひ読んでほしいと思いました。

 1954年3月、ビキニ環礁のアメリカの水爆実験で、第五福竜丸が被ばくし、9月には久保山愛吉さんが亡くなりました。この本では1950年代の日本と世界の動きもやさしく、ていねいに書かれていて、科学者はどうあるべきかを原点から繰り返し書かれています。わたしのような素人に納得できる、わかりやすい内容でした。

表紙カバーにあるように、2011年10月から岩波新書から復刊されたようです。

本の「はじめに」を紹介させていただきます。
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     は じ め に

 長いあいだ自然科学の一部の研究にたずさわってきた私にとっては、研究とは何か、研究は何のためのものか、という問は日常の伴侶であり、また苦痛でもある。このような問は、世界とは何か、人間とは何かというような根元的な問とひとしく、けっきょく満足な答えはえられないものかもしれない。
 しかし、研究者がいつも、これらの問とともに生きていることは事実であり、これらの問とはなれては、研究も研究者も存在しないにちがいない。
 このような根本問題はいちおうおくとしても、科学がどのようにして発展し、また退廃するかということも、研究者にとってたいせつな問の一つである。科学の発展の論理を知ることは、科学の根本問題をとくかぎにもなるであろう。
 いまの私たちの日常生活は、そのすみずみまで、科学(人文・社会・自然科学の研究とその応用)ときりはなせないものになっている。科学の進歩が、人々にゆたかな生活をもたらしたことを否定する人はいない。しかし、私たちは、科学のすべてがよいとはかぎらないこともよく知っている。科学の本質のなかに、創造と破壊、進歩と退廃など矛盾した要素が内在しているのである。
 とにかく、科学が国民の生活、経済、軍事などに、ますます大きい役割をはたすようになったことから、どこの国でも、年ごとに科学と政治とのかかわりあいがふかまっている。それにつれて、科学が国の投資に大きく依存するようになってきた。しかし、そのかかわりあいや依存の仕方が大きい問題である。それによって、科学は国民のしあわせにもなり、ふしあわせにもなる。
 科学が創造をひらき、人々に平和と福祉をもたらす基盤は、科学者の自主性と、学問、思想の自由である。これはたんなる理念上の要請ではない。むしろ、歴史がしめしている現実というべきものである。私たちが、数多くのにがい経験をもっているように、科学が自主性をうしない、利己的な政治・経済の道具としてもちいられるかぎり、科学の恩恵は保証されないばかりか、科学の諸悪からまぬがれることもできない。
 戦後のわが国に、日本学術会議がもうけられたのは、まさに科学と政治を、たがいに正しい座標軸におくためであった。科学における潜在的な政治性と、現代政治に要求されている高い科学性の相互認識が、それを可能にする前提であった。
 もし、日本学術会議が、創立以来二十数年間、その設立の目的にそって機能していたら、わが国の科学は、いまとはかなりちがう路線をあゆんでいたであろう。人文・社会・自然の諸科学、あるいは巨大科学と一般科学のあいだの調和のとれた発展、大学・研究所間の自由な人事交流、平等・互恵を原則とする国際協力など、とおのむかしに実現していたにちがいない。しかし、現実はそうではなかった。日本学術会議が発足してから、五、六年もたたないうちに、その設立の理想から、大きく後退してしまったのである。それとともに、わが国の科学は、いまだに混迷の道をさまよいつづげている。
 私がここに書いたのは、わが国の科学のある分野が、どのようにしてうまれ、うまれてからの数年間をどのように歩き、それが日本の科学にどのような影響をもたらしたか、という歴史的な記録である。その分野とは、放射線影響と原子力の研究の分野のことである。がんらい、これら二つの分野は、広義の原子力研究に属し、原子力平和利用における車の両輪の役目をはたすべきものである。しかし、わが国では別々のものとして発足した。
 この二つの分野は、時をおなじくし、一九五四年(昭和二九)がその発端の年であった。すなわち、この年におきたビキニ水爆被災事件と、原子力予算の国会通過がそれである。とくに、後者が始反応となり、わが国の科学と科学行政の、世界には例のない混乱へと連鎖反応がすすんでゆくのである。
 この記録には、よいにつけ、わるいにつけ、日本の政治、社会、科学のもつ、さまざまな側面がしるされている。それは同時に、また、日本人自身の歴史の一こまともいえるであろう。
 私はこの書を科学を専門にする人たちだけではなく、もっとひろい範囲の方たちにも、読んでいただきたいとのぞんでいる。高等学校や、大学教養課程の〝自然科学概論〟の教科書として、つかっていただければ、さらにうれしいことである。
 ここに書かれているいろいろな歴史的事実から、読者はおのずから、科学の発展の論理、ひいては、国民や民族の精神の発展の論理について、自分自身の考えをいだかれるにちがいない。
それは、現代に生きる、すべての人にとって必要なことであるとおもう。
 なお、本文では科学技術上の用語や、人名については、くわしい説明をはぶいた。くわしいことは、すべて巻末の用語解説にゆずる。解説の大部分は、私自身が監修した『化学小事典』(三省堂)によっている。
 
        一九七二年七月
                            三 宅 泰 雄

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2013年10月 2日 (水)

福島原発危機打開に生かそう!59年前の経験 10月2日


海の放射能に立ち向かった

日本人

 ~ビキニ事件と俊鶻丸~

 

     NHK Eテレ 2013928日放送

                       語り  濱中博久

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

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「港湾内の海水は1号機から4号機の取水路北側でトリチウム濃度が2300ベクレル/Lまで上昇している。深くお詫びしたいと思います」(2013722日の東電が汚染水の漏洩について発表)
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(2013年8月22日-タンクから汚染水が大量に漏出)

今年
7月、東京電力は福島第一原発の汚染水が今も海に流出していることを認めました。さらに8月には高濃度の汚染水がタンクから大量に漏れ出していたことも発覚。その一部は海へ流れ出た恐れがでています。

 

漁業者の声

 

「試験操業さ、一歩踏み出そうかなという矢先にね、こういう話だから、怒りしか出てこないですよ、不満とかね」

 

「お先真っ暗だね。何年かかるか分からないね もうね」

 

漁業に深刻な打撃を与え、人々を不安に陥れる海の放射能汚染。

こうした事態に私たちが直面するのは、今回が初めてではありません。

1954年3月1日
アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行います


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この時、爆心地からおよそ160キロの地点で操業していた日本のマグロはえ縄漁船が被曝しました。静岡県焼津を母港とする第五福竜丸です。乗組員23人は空から降ってきた大量の死の灰を浴び、急性の放射線障害に苦しみます。

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(死の灰を浴び放射線障害にくるしめられる乗組員)
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 被害は水産物にも及びます。日本各地の港で放射性物質に汚染されたマグロが相次いで水揚げされたのです。

 しかし、核実験を行ったアメリカは放射性物質は水で薄まるため無害になると主張します。

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 こうした中、22人の若き科学者を乗せた海洋調査船がビキニの実験場に向けて出港します。船の名は「俊鶻丸」(しゅんこつまる)。

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(1954年5月15日出港する俊鶻丸)

(映像)「東京の竹橋桟橋は見送りの人たちで埋まり、五色のテープも華やかに、遠くビキニに向かう「俊鶻丸」に大きな期待を託しました」

 

 海の汚染の実態は当のアメリカも把握していませんでした。

 

日本人の手で事実を明らかにしようとしたのです。

 

●俊鶻丸に乗った科学者の証言

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「ビキニの近くに行ったら海水の汚染が非常に、あに図らんや5000カウントとか、船内では非常にそのとき緊迫した、緊張しましたですね」

 2ヶ月に渡る調査の結果、海の汚染は容易に薄まらず、放射性物質がマグロの体内に蓄積されることが初めて明らかになりました。

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「海洋汚染というのは、こうやって測るんだよということを俊鶻丸が世界に広めたわけですね」

 いまから59年前、世界に先駆けて海の放射能汚染に立ち向かい、その実態を解明した日本の科学者たち。私たちはそこから何を学ぶことができるのでしょうか。

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静岡県焼津港

全国有数のマグロの水揚げを誇ります。世界の海から年間5万トンが水揚げされます。

いまから59年前、そのマグロが水爆実験により大きな被害を受けました。

太平洋で獲れたマグロから強い放射線が検出されたのです。

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汚染のレベルを調べるため港ではガイガーカウンターという放射線検知器を使って検査が行われるようになりました。計っていたのは表面の汚染です。マグロの体から10センチ離して1分間に100カウントであれば出荷できます。この基準を超えたマグロは廃棄することが義務付けられました。

 

 2ヶ月もの命懸けの漁で獲ってきたマグロを漁師自身の手で海に捨てにいかなければなりませんでした。

 

● 静岡県焼津市の市場で働いていた
  北原茂治さん。

 

 当時港には漁師のやるせない顔があふれていたといいます。「船員もやけくそ、 かってにしやがれ 口じゃそう思ったって、釣ってきたものに情けなく思っていたと思うよ。ちきしょう、これもだめか。自分の財産を削られるようなものだもの」

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 魚屋の売り上げも激減しました。人々はマグロを買い控えたのです。

 

放射能とは何なのか。十分な情報が無い中で、人々は目に見えない放射能におびえていました。

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(当時のニュース映像から)「うっかり原爆マグロを食べたらしいと病院に駆けつける人々も。豊橋をはじめ各地に見られるなど、日本中が時ならぬ大恐慌に見舞われました」

 

 日本中が放射能汚染に揺れていた時、水爆実験を行ったアメリカは「実験の影響は少ない」と主張していました。放射性物質は海流によって拡散され5キロも離れれば無害となる、そして、800キロ先では完全に検出できなくなる。海水の汚染や魚への影響を否定したのです。

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 当時アメリカは日本から、マグロの缶詰を大量に輸入していました。アメリカは海の汚染を否定する一方で、日本の汚染されたマグロが輸入され国内に流通することを恐れていました。

 

 東京のアメリカ大使館から本国に送られた報告書です。

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「マグロの輸出について日本の当局と話しあった。放射線が検出されないマグロ以外はアメリカへの輸出を認めないという合意に達した」

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 来日したアメリカ原子力委員会のメルリ・アイゼンバッド博士はアメリカ向けに輸出するマグロの検査を視察。エラや腹の中に3秒以上測定器を入れて計測するよう指示しました。

 

 核実験による大きな被害を受けたにもかかわらず、日本政府はアメリカの責任を追及しようとはしませんでした。外務大臣の岡崎勝男は国会で厳しい質問を受けます。(映像)「場合によっては国際司法裁判所にも提起するというくらいの腹をもって外交方針を立ててもらいたい」(岡崎)「お説のような国際司法裁判所などというところまで行かずに私は解決するものと確信しております」

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 岡崎外務大臣は日米の交流団体が主催したパーティーで、駐日大使などを前に次のように発言します。「われわれは米国に核実験を停止するように求めません。核実験は米国だけでなく日本を含む自由主義諸国の安全のために必要だと認識しているからです」

 

 汚染されたマグロが水揚げされる港は静岡県だけでなく宮城県の塩釜や神奈川県の三崎などにも広がっていきました。マグロを廃棄する漁船の数は増え続け被害は拡大していきました。

 

 汚染の原因として強く疑われたのは放射性物質を含む死の灰です。空から降り注いだ死の灰が、どのようにして海中のマグロを汚染するのか、そのメカニズムはまだよくわかっていませんでした。

 

 日本政府の中でマグロの汚染に対して強い危機感を持ったのが水産庁でした。

 

水産庁長官が外務省に送った文書です。

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マグロ汚染の実態を明らかにするため、生物学、海洋学、気象学など異なる分野から究明するべく調査船を派遣すると述べています。

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 水産庁の要請で調査の計画を立案する科学者のグループ、いわゆる顧問団が組織されました。集まったのは生物学者、海洋学者、水産学者など海や魚を研究する第一線の科学者たち。そして、物理や化学の分野から放射線に詳しい研究者が選ばれました。中でも、中心的役割を担ったのが気象研究所の三宅泰雄さんでした。大気や海水の化学分析を専門とし、放射性物質の分析にも通じていました。

 

三宅さんと40年近い交流のあった
 物理学者の川崎昭一郎さんです

 

川崎さんはビキニの放射能汚染に立ち向かう三宅さんの姿を見て以来、師と仰いできました。科学者は研究室に閉じこもることなく、社会に関わることが大事だと度々聞かされてきたといいます。

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「核兵器を造ったのは科学者であるし、やっぱりそれが社会的に悪い影響を与えないようにするために、努力する特別の責任が科学者にあるんだということを強調されたたですね。科学と社会の関わりというか、科学者の社会的責任といいますか、その点は最初から強調されておられました」

 

顧問団は、解決しなければならない問題をいくつも抱えていました。

 

「海水の放射能を計るにもまだ測定の方法がなかった。気象研究所から参加した杉浦吉雄博士と亀田和久の両氏は東京大学の木村研究室の協力を得、ビキニ灰を使って何度か実験を繰り返し、海水から核分裂生成物を分ける方法を考え出した。水産業界の大損失に対する補償をアメリカに請求するにしても実地調査で動かぬ証拠を突き付けることが不可欠であった。」

 

 派遣する船は俊鶻丸、588トン。当時、船員などを養成する学校で練習船として使われていました。そして顧問団は俊鶻丸に乗り込む若手科学者22人を選びました。

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(俊鶻丸の調査団)

 気象班2人、海洋班3人、計測班3人など研究者として将来を嘱望された20代、30代の若者たちが中心でした。

 

 その中の1人、岡野眞治さん当時27歳(現86歳)岡野さんは放射能測定の専門家として乗組員を被曝から守る放射線防護の役割を担いました。俊鶻丸が向かうビキニ環礁ではアメリカがまだ核実験を継続していたからです。被曝した第五福竜丸の展示館に岡野さんが俊鶻丸で使った放射線測定器が保管されています。「これは当時としては最先端の測定器ですね」

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 この測定器を船に積み込むことで乗組員の被曝線量を刻々と知ることができます。岡野さんが部品を一つ一つ集め手作りした当時としては画期的な装置でした。

 

「あの頃はね、秋葉原にジャンク屋があってね、アメリカが放出した部品がずいぶんあったんですね。そういう物を集めて、われわれが欲しい真空管なんかも、その中から拾ってこなきゃいけないですからね」「こわれてはいないようですね。ちゃんと整備すれば使えるのかもしれませんね」

 

 岡野さんたちが向かう海域は1946年以来アメリカが核実験を繰り返してきた場所でした。

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 寄せ書きのうちわも残っていた。そこには、モルモットの絵と“実験動物になるな”などとも書かれている。「ネバタでの核実験でもけっこう実験動物を使ってますからね。大量の実験動物を使ってますからね。へたすると、沈められてしまうんじゃないかという噂もあったくらいですからね。俊鶻丸がですね。向こうが都合が悪いとね。第五福竜丸も見つかっていたら、おそらく沈められていた。証拠隠滅ですよ。あれが、情報をいっぱい持っているわけですからね」

 

● 第五福竜丸の被曝から2カ月余り

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(映像)「昭和29年5月15日、水産省調査船俊鶻丸は、このごうごうたる、全日本の不安とこの科学的真相究明への要望を担って物理、気象、海洋など各方面の専門科学者を載せ東京芝浦を出発した」

 

 俊鶻丸顧問団の三宅泰雄さんは後に当時をこう振り返っています。

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「予算について言えば水産庁は3000万円を要求したのだったが、大蔵省はこれを1400万円に削減した。顧問団がとくに強く要求していた危険手当もけずられてしまった。予算が削られたため、放射能灰をかぶったとき、船を自動的に洗う装置などもつけることができなかった。

 放射能に対する恐怖、国際緊張の谷間になげだされていることの不安などが、俊鶻丸調査団に悲壮感をあたえたことは否めなかった。」(三宅泰雄著「死の灰と闘う科学者」より)

 

 俊鶻丸が出発する2日前、アメリカはこの年の核実験が終了したことを宣言しました。しかい、核実験場の周辺は危険区域に指定されたままでした。

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 船上では採取した水や魚の分析が行われました。汚染の度合いを調べながら船は南へ進みます。

 

(映像から)「黒潮の流れを進むにつれて船内は30度の暑さ、蚕だなとよばれる狭いベッドに身体を横たえる調査団員たちにとっては苦しい船内生活の明け暮れです。」(映画「俊鶻丸ビキニ調査報告」=新理研映画製作)

 

 海の汚染の解明には、専門を越えた科学者たちの協力が不可欠です。異なる分野への理解を深めるため、日替わりで講師となり、毎晩のように勉強会を開きました。

 

当初、科学者たちは漁で獲れたマグロが船の上で死の灰をかぶり、汚染されたと考えていました。そのため、海水の汚染は重視していなかったといいます。

 

「空気、空気ですよね。空気を気にしていますよね。降ってきますからねえ。実験中は。海の汚染はある程度、出てきてもしょうがないけれど、あまり、出て来ることはないだろうという見方をしていますからね」

 

 マグロの生態の専門家で解剖などを担当していた水産学者の本間操さん(84歳)です。

 

実験から2ヶ月経っていれば、放射性物質は海中で十分に拡散しているはずだと思っていました。

 

「船が出る前はですね、海水の汚染なんていうのは、日本のある有名な学者がですね、『琵琶湖にインクを一滴落としたような事だろうから海域が広いんだ、だから汚染なんてあまり考えなくていいだろう』というようなことを、だれも調査員は思っていたんです。実際も」

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 その年の実験予定を終えたアメリカは俊鶻丸が出発して8日目、危険区域を解除。俊鶻丸はビキニ環礁により近づくことにしました。そして出発から2週間あまりたった5月31日、乗組員に緊張がはしりました。

 

 後にまとめられた報告書です。(放射能影響調査)

 

当時の観測記録を見ると、それまでゼロカウントだった汚染レベルが5月31日に突如450カウントまで跳ね上がっています。爆心地から800㌔㍍も離れた地点でした。

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「船内では非常にその時緊迫しました緊張しましたね」(本間さん)

 

「これはけっこう汚染しているなあという気がしましたね」「もう一つはね、段々上がってくると一旦引き返さなければいけないのか、もっと行っていいのかって判断しなければいけないわけですよ。立場上ね」(岡野さん)

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 ビキニ環礁から遠く離れた場所で、しかも実験から2カ月以上も経って海水の汚染がキャッチされたことは、驚きをもって日本に伝えられました。

 

 海水の放射線のレベルが上がると乗組員の被曝が問題になりました。

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(映像から)「船内では雨に当たらぬようにとの心得が出された」

 

「甲板にはあまり出るなと、もし必要な時には鉛の入った雨合羽を着ろと。レントゲン技師が鉛のカッパを着るのと同じようなカッパですね」(本間さん)

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 そして6月12日、俊鶻丸はビキニ環礁に最も近づきました。爆心地から180㌔の所です。乗組員の緊張もピークに達します。その時の海水の放射線量の数値。1分間に5000カウントを超えました。現在の単位に換算すると1200ベクレル/リットルになります。

 

● 俊鶻丸が明らかにした汚染の広がりです

 

ビキニ環礁から1500㌔以上離れても爆心地近くの15分の1程度と高い濃度を示しました。海の汚染は簡単に薄まらなかったのです。

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「べらぼうに大きいですからね。あんなに汚れるとは、だれも思ってなかったですね。特に一番あれなのは、ビキニから流れた海水が、かなり広範囲に流れて帯状になって存在していたということは非常に驚きしたね」(岡野さん)

 

 俊鶻丸は海水だけでなくマグロを捕獲しその汚染を詳しく調べました。マグロを解体し体の部位ごとに放射線の量を計り汚染の程度を調べます。その結果は科学者たちを驚かせました。

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「内臓、特に胃内容部とか肝臓、腎臓、膵臓、脾臓そういった内臓にはついては非常に放射能が高いんですけど、肉にはあまりないんですね」(本間さん)

 

 マグロの身体の部位によって放射線の値は大きく異なりました。脾臓や肝臓などの値はきわめて高く、食用にする筋肉の部分は比較的、低いことなどがわかってきました。海水に接している皮やその下にある筋肉ではなく、なぜ内臓から高いレベルの放射線が検出されるのか、科学者たちが注目したのはマグロなどの餌にする、マグロが好んで食べるイカや小魚、さらに、その餌のプランクトンの汚染を調べました。

 

 その結果、海水中の放射性物質がプランクトンに獲り込まれる段階で大幅に濃縮され、それがイカやマグロに移行していることがわかりました。

 

 食物連鎖を通じてマグロが汚染されていたことが明らかになったのです

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濃縮された主な物質は亜鉛(Zn65)であることもわかりました。亜鉛は生物にとって不可欠の元素の一つで、生体の中に取り込まれます。その亜鉛が水爆を覆う金属に含まれていたのです。爆発によって亜鉛が放射能を帯び、プランクトンやイカに取り込まれたと考えられます。

 

繰り返される核実験がいかに海を汚染し、その環境を破壊するのか、未解明だった海の放射能汚染の実態に初めて光を当てたのが俊鶻丸でした。

 

「太平洋に限らず核実験をやると環境汚染をするということに対する一つの警鐘ですよね。海洋汚染というのはこうやって測るんだよ、ということを俊鶻丸が世界に広めたんですね」(岡野さん)

 

(映像から)「こうして全世界注目のうちに51日間に渡るビキニ海域の調査を終えた俊鶻丸は貴重な調査資料2000余点を乗せて懐かしの東京港に到着しました。1954年7月4日」

 

(注)19547月 7日 衆議院水産委員会で調査報告

 

(注)1954923日 久保山愛吉さんが死亡

 

 俊鶻丸が帰国した時の三宅泰雄さんの言葉です。

 

「この調査の特徴は単に水産学だけでなく、放射能学、気象学、海洋学、医学などの広い分野の協力によってなされたことである。水爆実験に対するこれほど有力な批判はかつて存在しなかったわけであり、こんご須獏実験を強行する国があるとしても、俊鶻丸の資料を無視して行うことは、ほとんど不可能ではないかと思われる」

 

 俊鶻丸が帰国した7月、日本で水揚げされるマグロの汚染は依然として深刻なものでした。静岡県藤枝市に住む郷土史家枝村三郎さんです。

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 枝村さんは焼津港に水揚げされた魚のうち、汚染された魚がいつどこで獲られたのかを調べてきました。枝村さんが調べた汚染の水位です。3月と4月、汚染された魚はビキニ環礁に近い所で獲れたものでした。それが5月以降には小笠原諸島やその周辺に表れ、日本近海に広がっていきます。そして、マグロ漁が本格化する12月になると汚染の数と広がりが最大となります。

 

「黒潮の流れに乗って汚染が拡大する予想もだいたいしていたけれど、その通り、こういうふうに汚染が拡大していくことがわかった。そういうことなのかな。海洋汚染というのは海洋全体が汚染されていく。そういうのがわかっていくということでね」

 

 深刻な汚染マグロ問題が続く中、東京で日米の科学者たちが会議を開きました。目的は放射線についての情報を交換することです。放射性物質の影響と利用に関する日米会議(1954年11月15日~19日)

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(日米科学者会議)

 日本側は三宅泰雄さんをはじめとする、俊鶻丸顧問団のメンバーが中心です。そしてアメリカ側は核兵器の開発を担う原子力委員会の科学者たちが出席しました。会議ではウィリス・ボス博士が核兵器関連施設の排水が流れ込むアメリカのホワイト・オーク・レイクという湖の放射能汚染の実例について報告しました。この後に発表したのが三宅泰雄さんです。三宅さんは俊鶻丸の調査結果をアメリカ側に示しました。

「私は、ビキニ海域の汚染は、いまボス博士の御報告にあったホワイト・オークレイクの汚染より大きかったとのべ、ビキニ環礁付近の放射能の分布を図でしめした。アメリカの科学者たちは、真剣な面持ちで、たがいに顔を見合わせた。私の話の真偽のほどをたしかめあっているかのようだった。驚いたアイゼンバット博士は私の報告原稿をひったくるようにして持っていった。」

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 一方、アメリカ側からは放射性物質の人体への影響をどのように考えているのか説明がありました。そこで示されたのは、最大許容量という概念です。最大許容量とは核兵器関連施設の労働者や周辺の住民に対して、どこまでの被曝なら許容できるかの限度量を定めたものです。その値はアメリカの科学者団体が定めています。空気や水の中に含まれる放射性物質について、どこまでの量ならリスクを無視できるか、物質の種類ごとにその値が決められています。安全性はこの値にもとづいて議論すべきだというのがアメリカ側の立場でした。

 

 この会議の1ヶ月後、日本の厚生省は突如、港でのマグロの放射能汚染の検査を中止するという通達を出します。その根拠として挙げられたのが日米会議で議論された最大許容量という考え方でした。マグロを解体し筋肉の汚染をあらためて分析したところ最大許容量を超えないのでリスクを気にしなくてよいという判断です。

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(検査中止の厚生省通達)
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(科学者27人が公開質問状)

 マグロの汚染が続いている中で、なぜ検査をやめるのか、日本の科学者27人が公開質問状を厚生省に出しました。「最大許容量は職業的に放射線を受ける人たちを対象に作られたものであり一般市民には、はるかに厳しい安全基準を考えるべきだ。さらに人体に対して、どこまでの被曝なら絶対に安全だという限界はいまだ明らかになっていない」と主張しました。

 

●物理学者の武谷三男さんは核実験による被曝にはなんのメリットがない以上許容量ではなく、がまん量と呼ぶべきだと主張しています。

 

「放射能というものは、それ自身有害だけど、医療放射線の場合には、自分が他のもっと恐ろしい病気で死ぬよりも、その比率が少なくなる治療などの手が打てることになる。つまりそういうのが許容量という量であります。放射能の汚染というものは、自分が必要としたものでもなければ、好んでいることでもなければ、全く一方的な迷惑な話ということになるわけです。」

 

● 突然、中止されたマグロの検査。検査をやめたことによって、何が失われたのか。今こそ問い直すべきだと考える人がいます。

 

 当時、国立の水産研究所でマグロの生態について研究し、俊鶻丸の調査にも注目していた水産学者の川崎健(つよし)さんです

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「やめるべきでなかったと思いますよ。だって、それ以降の状態が全くわからなくなっちゃうんですね。今の状態を考えてみるとわかるけれども、もう、宮城、福島、茨木沖で獲った魚をずうっと調べてますよね。すると、どのように放射能が減って行くかもわかるし、汚染された魚の分布範囲がどう変わるかもわかるし、そういう貴重なデーターがなにも無くなってしまうんですね。測定しないと」

 

 マグロの検査中止から4日後(195514日)日本政府とアメリカ政府は覚書を交わし、第五福竜丸の被曝に始まる被害と汚染の問題について決着をはかります。

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 アメリカは日本に200万ドルを支払うが法的責任をいっさい負わないという内容です。支払われるのは被害に対する賠償金ではなく見舞金でした。

 

日米間の政治決着。そこに至るアメリカの思惑を外交文書から読み解こうとしている歴史学者がいます。

 

「日本が放射線防護の問題に向き合ったのは福島が初めてではない。」アメリカの大学で研究を続ける、歴史学者樋口敏広さんです。樋口敏広さんが注目するのは、第五福竜丸が被曝してまもなく、東京のアメリカ大使館が本国にあてて送った文書です。

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「直接的な被爆ではなく、漁業関係者への間接的な被害の方が重要だ。これが、拡大すれば見舞金ではすまなくなるだろう。そうなれば、核実験に対するアメリカの幅広い法的責任を問う声が国際社会に広がりかねない」

 

「ビキニ事件はまさに水爆競争の渦中であった。その中で、アメリカが海洋汚染のために、過大な法的責任を負って、損害賠償責任を負うということは、水爆競争で遅れをとることになるわけですね。核実験が困難になるということを恐れた」(樋口敏広さん)

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(俊鶻丸の調査報告書)

米ソ冷戦のさなか、核実験による海洋汚染を初めて明らかにした俊鶻丸。その貴重なデーターは調査の翌年、報告書にまとめられました。これをどのように生かすのかは、後世に託されたのです。

 

ビキニの核実験の後、核開発競争はされに激化。核実験が繰り返されます。

イギリスの核実験 1957年クリスマス島、アメリカの核実験 1957年ネバタ州

その影響は、世界各地で顕在化してきました。

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アメリカでは核実験により放出されたストロンチウムが小麦やミルクなどの食品を汚染しました。

 

 世界各地で核実験の停止を求める運動が広がっていきます。こうした中で、1957年、科学者たちも立ちあがりました。全ての核兵器の廃絶をめざし、カナダのパグウォッシュで一堂に会したのです。会議で科学者たちが発表した声明です。

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「核実験の影響は地球規模であらゆる国の市民が被害を受ける。したがって、一定の被害なら許容しうるという従来の基準は適用できない。」

 

 気象研究所の三宅泰雄さんは俊鶻丸の調査の後も、核実験への警告を発し続けていました。海外の研究者とも協力しながら、海の放射能汚染の調査を続けていたのです。ビキニ実験の後も、太平洋全体に汚染は広がっていることを論文で示し、世界に発信していました。

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(映像から)「アメリカは地上50Km以上ならば問題ないと言っていますが?」の問いに「50Km以上で実験しても、放射性落下物がすべて大気外に逃げるということは考えられないですね。結局は地球上に落ちて来る。というわけで、われわれとしてはですね、50Km以上で実験することもやめてほしいというのが、偽りのないわれわれの考えなんです」(三宅泰雄さん)

 

 科学的データ―の蓄積と国際世論の高まりを受け、アメリカ、イギリス、ソビィエット3カ国は部分的核実験禁止条約を締結(1963年)。大気圏、宇宙空間そして水中での核実験が禁止されました。

 

 1966年、日本で初めての商業用原発、東海発電所が運転を始めました。

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その翌年、将来の日本のエネルギーの軌軸を原子力と定め、原発の建設や核燃料サイクルの推進を国策とする長期計画が策定されました。(原子力開発利用長期計画)

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 これにより、全国各地で原子力発電所の建設が進みます。

 

この急速な展開に危機感を抱いたのが三宅泰雄さんでした。

 

「放射能との出あいは、人類にとっては、ほとんど初めての経験である。これにどのように対処し、それをどのように防護するかによって、原子力利用の成否がきまる。研究の成果が現場の技術としてとりあげられ、それぞれの原子力施設に応じた防護集団が講じられなければならない。とくに、ひろく周辺の環境や、水産物などに影響をおよぼすものについては、もっとも慎重な対策がたてられなければならない。」

 

 三宅さんを中心に日本学術会議の科学者たちは、政府にある勧告文を提出します。放射性物質の環境への影響を研究する専門機関、環境放射能研究所を作ることを求めたのです。

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 それは原子力発電所で大事故が起き、大量の放射性物質が出た時にも対処できることをめざしたものでした。

 

 物理学、化学、生物学、医学、など専門分野を越えた科学者が集まり、総合的に環境の放射能汚染を研究しようという構想です。この構想づくりに加わった放射能測定の専門家の阿部史朗さんです。

 

 阿部さんはこの施設を共同研究の拠点として、多くの研究者が利用できるようにしたいと考えました。

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「動植物だの完全な環境の問題とか、そういうものが一貫して、つまり、エコロジー的な一貫性をもって仕事をやれる、そういう体制をとりたいと、そういう人たちの育成にも役立つものをつくろうじゃないかと」

 

ところが、国はこのとき、勧告を受けた研究所の設立に動くことはありませんでした。

 

日本学術会議のメンバーとして原子力政策のありかたについて国と議論していた物理学者の小沼通二(おぬまみちじ)さんです。

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「核兵器と違って爆発などは起きない。事故などは起きない。むしろ漏れないようにやるんだ。それが基本でしたね。放射能は出ないようにやるんだ。学術会議は放射能の研究ってとても大事だっていうことを、研究所設立以外にも繰り返し、繰り返し発言しているんですよ。それが取り上げられなかった。残念ながら」

 

1970年代に入ると全国各地で原発建設は加速します。1971年には福島第一原子力発電所が運転開始します。

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国は原発周辺の海で海水や海底の泥、魚を定期的にモニタリングするよう定めました。原発周辺の海で漁をする漁業者の不安に応えるためです。さらに、1975年には海の生物への影響を調べる研究所も設置します。「放射線医学総合研究所」しかし、大事故の際に科学者たちが連携する体制は整えられませんでした。

 

俊鶻丸の経験を生かしたい。その願いがかなわないまま三宅泰雄さんは1990年にこの世を去りました。

 

20113月、東日本大震災でメルトダウンを起こした福島第一原発。海に流れ出した汚染水の影響を当初国は軽視していました。

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「海水中に放出された放射線物質は上流に流されて拡散していきますので、実際に魚とか海藻などの海洋生物に取り込まれるまでには相当程度薄まると考えられます」(原子力安全・保安院が会見20113月)

 

ところが、4月に入り、茨木や福島で獲れた小魚のコウナゴから暫定基準値を超える放射性物質が検出され水産物の汚染が問題化します。

 

こうした事態を受けて国は福島の原発海域のモニタリングの場所と回数を増やし沖合での調査も始めました。しかし、水産物への影響を総合的に調査する体制は組まれませんでした。

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海の汚染の実態がわからないなか、福島や茨木の漁師たちは漁を自粛せざるをえなくなりました。漁師の不安に応えるため、水産物の調査を始めたのが福島県水産試験場でした。放射能を測定するための自前の設備や人材がないため、集めた魚や水のサンプルを外部の分析機関に送りデーターを集めました。

 

「漁師さんたちはね、当然なんですけれども、調べてくれという要望がすごくあったんですよ。魚を獲るその海が今どうなってるのか知らないと不安ですよね」(福島県水産試験場・場長(当時)五十嵐敏さん)

 

 原発事故の後、海はどうなっているのか。国の対策が後手に回るなか、20115月、海洋研究専門家たちからなる日本海洋学会は国に提言書を出しました。

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指摘したのは、観測体制が不十分であること。大学や研究所機関が持っている調査船を協調して投入し、連携して観測する体制を構築すべきだと訴えました。

 

提言書の作成に加わった一人、東京海洋大学特任教授の石丸隆さんです。

 

海洋生物学を研究している石丸さんは、国が海洋調査全体の司令塔役を担ってくれることを期待していました。

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「海の場合は、たとえば海水は文科省がモニターするとか、原発の周りは東電がいろいろ調べたりしていましたし、それから魚は水産庁の方で扱っていましたし、測定する、サンプルを取る場所っていうのが必ずしも一貫していなかったわけですよね。どこが要請してどういうふうに進めるかというのが、きちっとできていれば、もっと初めからいろいろの情報が取れたと思うんです。それがちょっとなかったんじゃないかと感じていました」

 

 事故の4ヶ月後、石丸さんは大学の調査船を出し、ボランティアで調査を始めました。福島の水産試験場と連携し、漁師の協力も得ながら汚染実態の解明をめざしました。

 

 ビキニの水爆実験の後、俊鶻丸に乗り込んだ岡野眞治さん。岡野さんも原発事故の後再び、海の調査にのりだしました。

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「この前のビキニの事件と大きな違いは、対応する、いわゆる組織の顧問団的なものが今度は無いわけですね。学界とか、そういう人たちが集まって対応をどうするかという、そういう組織ができなかったというか、作りそこなったというか、それがないのが大きな違いですね。本当言うと国がそういう事故に備えてどうするかという組織を持たなければいけないですね」

 

 俊鶻丸の調査から59年、かつて三宅泰雄さんがいた気象研究所です。ここで海の汚染を研究し続けている、青山道夫さんです。青山さんは、今回の原発事故の前に太平洋全体の放射性物質の動きに関する重要な事実を発見していました。青山さんは他の研究機関の助けを借りながら、6年をかけて太平洋の全域から海水のサンプルを回収。ビキニなど半世紀以上前に行われた核実験による汚染のその後を追跡したのです。

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 青山さんはまず、太平洋の6つのコースに沿ってサンプルを集め、半世紀前の放射性セシウムの行方を調べました。深さを変えながら、その濃度を測定しました。その結果、深さ500㍍付近に赤で示した濃度の高い部分がありました。1㍑当たり2.5㍉ベクレルと汚染レベルは低いものの、海の表面より濃度が高い部分が見つかったのです。さらに分析を進めると、その部分はドーナツ状につながっていることがわかりました。これはもともと知られていた太平洋上の大きな海水の循環と一致します。1周にかかる時間は、およそ30年、場所によって深さを変えて流れています。日本の沖合では表面近くを流れ、その後、水深600㍍まで沈み込んでいます。

 

「さすがに、それは驚きでした。世界中の人は表面が高くて、深くなればどんどん下がっていくんだというふうに、みんな思っていたわけですから、それが違うということ」(青山道夫さん)

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 福島第一原発の事故が起きると青山さんは再び調査・分析を開始しました。さまざまな海域に向かう船に海水のサンプルの収集を依頼したのです。原発から新たに放出されたセシウムの動きを調べるためでした。

 日本の沖合、2100キロ。太平洋の南北を横切るラインのデーターです。すると、深さ300㍍付近に周囲より濃度の高い所がありました。

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「表面だけを見ててはダメで、海洋内部に、どのように分布しているかということを知っておかないと、これからどうなるかということがわからない。外気はどんどん風に吹かれて東へ行くんですけど、アメリカまで行っちゃうんですが、セシウム137のように水に溶けて存在している物は、このようにもぐってしまって風の影響を受けなくなっているということはちゃんと見ておく必要はあります」(青山道夫さん)

 気象研究所では、かつて10人が放射能汚染の研究をしていました。今は、青山さんを入れて2人、青山さんは来年3月に定年退職となります。この研究がどう引き継がれるのか、まだ決まっていません。

 

「事故があって、海洋に出た放射性物質がどうなるかっていうことを、ちゃんと記録を残し記述することは、将来にわたっても大事なことなので、今を知ることは明日を知ることだから」(青山道夫さん)

 

 今から59年前、ビキニ水爆実験による放射能汚染に果敢に立ち向かった俊鶻丸。かつて練習船として所属していた水産大学校のキャンパスに今、その碇だけが残されています。

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 三宅泰雄さんと顧問団、そして22人の若き科学者たち。今、その業績を思い起こす人は少なくなっています。

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「水爆実験にともなった、多くの研究や観測がなされているであろうが、これらはすべて、いかにうまく水爆を使うかというための研究である。俊鶻丸のみが世界でただ一つ、いかにして人類を水爆の危険から守るか、というヒューマニズムに立脚した研究を行ったのである」(三宅泰雄「死の灰と闘う科学者」より)

 

 

 

 

 

 

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2013年7月13日 (土)

原発技術者の良心を感じた名嘉 幸照さん  7月13日

 技術者が見る原発事故 
名嘉(なか)幸(ゆき)照(てる)さん

「作業員を原発に送り出す時は記念撮影をした。本気と冗談がないまぜだった」 
                               =福島県いわき市
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 沖縄で生まれ、移り住んだ福島を終(つい)のすみかとした名嘉(なか)幸(ゆき)照(てる)さんは原発技術者の草分けだ。東京電力福島第一原発の事故から2年余りたっても廃炉作業、避難民への対応、地域復興は遅々として進まない。にもかかわらず、現政権は原発の再稼働や海外輸出に歩を進める。福島原発に40年関わってきた名嘉さんは訴える。「それでいいのか」
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(訴える名嘉幸照さん)

【問 い】 事務所の窓から、公園で遊ぶ子どもたちの声が聞こえます。

《名 嘉》 いわき市は比較的、放射線量が少ないからね。この子たちを安全に育てなくてはと思うよ。一方で放射能を逃れ、いまも遠くに避難する子たちを思うと、ほんとに心が痛む。

【問 い】 双葉郡の町村では住民の帰還が進んでいるところもありますが。

《名 嘉》 戻るのはお年寄りばかり。子どもや孫が来ない町に戻っても、生きがいがないという声も出ている。廃炉作業も先は長い。政府のいまの動きは信じられないよ。かつての原子力ムラは壊れたが、早くも第二の原子力ムラができたのですかね。

【問 い】 ただ、名嘉さんも原子力ムラの側にいたわけですよね。

《名 嘉》 そうです。福島で40年間、原発と共生してきた。だが絶対に守らねばならない安全を守りきれず、大切なふるさとを壊し、国民に迷惑をかけた。その責任は強く感じている。

【問 い】 なぜ、原発の技術者に。

《名 嘉》 俺は小さな島の漁師の子。高校まで沖縄にいたが、米国の統治に反発して学生運動をしたせいで東京に行かざるを得なくなった。その後、船の機関士の免許を取り、貨物船で世界を回った。そこで同僚だった原子力潜水艦の経験がある米国人に米ゼネラル・エレクトリック(GE)に誘われた。原子力は入社してから猛勉強したよ。福島で採用されたBWR(沸騰水型炉)のオペレーターの免許もとった。GEの教科書を日本語に訳し、東電のBWR訓練センターの最初の教科書になったんだ。

 福島第一の2号機が試運転、6号機が建設準備中だった1973年に福島県に来た。以来、原発建設のアドバイス、システムの保守・管理など、原発技術者として働いた。世界を見て回り、資源が乏しい日本には原子力しかないと信じていた。仕事には誇りを持っていたよ。

【問 い】 原発を危険な存在だとは思わなかったのですか。

《名 嘉》 リスクは常に感じていた。GEの設計ミスも含め、幾つかの異常な事態も経験した。なかでも、88年の暮れに第二原発3号機の再循環ポンプのインペラー(回転翼)が壊れ、炉心に金属片が入った事故は忘れられない。ポンプやモーターの異常な震動を感知し、出力を下げるよう東電に進言したが、『年末で無理』と言われ、夜も寝られなかったよ。1カ月、しつこく言い続け、発電を止めた時はホッとした。高速の破片が、炉心に直結する配管を破断するのを恐れたんだ。格納容器の破壊につながるからだ。

 BWRは、事故があると相当熟練していないと対応できない設計だ。五感を研ぎ澄ませ、現場をパトロールする必要がある。配管に触れ、震動や温度に異常がないか、確かめることもあった。

     ■     ■

【問 い】 3・11の事故では、現場の熟練度が足りなかった印象です。

《名 嘉》 第一原発の吉田昌郎所長ら東電社員は事故直後、一生懸命やったと思うし、現在も頑張っている。ただ現場に精通した社員が少なくなっていたのは確かだ。70年代は現場で仕事をした東電の技術スタッフが多くいた。後に副社長になり、プラントを愛した最後のドンといわれた池亀亮さんは、よく現場にいた。いいけんか相手だったよ。でも80年代以降、経営効率ばかりに目がいくようになったのか、現場は業者やメーカーに任せきり。大事故が起きると警告し続けたが、力足らずで……。

【問 い】 大震災のときは、どこに?

《名 嘉》 富岡町の会社にいた。第二原発にいた社員に電話をしたら、なんとか電源は確保できると。だが第一原発は海水ポンプが『5円玉(標高5メートル)』にあり、津波でアウトだと思った。重要免震棟にいた社員からの電話で『冷却設備、全滅!』と聞いたときは、絶望的な心境だった。

【問 い】 第一原発はしばらく危機的状況が続きました。

《名 嘉》 格納容器が破壊されなかったのは幸運以外ない。原発は安全という自信過剰。事故を隠し、国民からのプレッシャーを受けずにすんだことによる甘え。我々はそのつけを一気に払わされたんだ。東電や政府の事故後の危機管理には失望している。

 事故後すぐ、GEの原子力本部にメールを送った。日本は一度に浴びる放射線量が管理されているが、米国は個人が了解すれば高線量の放射線を浴びても構わない。だから高線量下で作業をするプロが多い。放射線への対応が日本よりシビアなんだ。そんなプロを送ってくれと頼み、GEも対応してくれたが、東電や政府とうまくつながらなかった。

【問 い】 事故直後は政府も東電も混乱していましたからね。

《名 嘉》 うちの社員も東電社員と一緒に事故に対応した。危険で過酷な作業に送るのはつらかったが、社員たちが『行かせて』と言うんだ。みんな地元の子で、『ふるさとを見捨てられない』と。涙が出たよ。

【問 い】 第一原発の現状は。

《名 嘉》 原子炉は仮設システムで冷温の状態を維持している。仮設配管の少々の水漏れは織り込み済みだと思うが、建屋内への地下水流入と汚染水処理にはてこずり、廃炉作業に入れないでいる。うちの会社も廃炉を助ける技術の提供はしているが、先行きの見通しは立たない。

     ■     ■

【問 い】 政府は経済成長のため原発を輸出するといいます。

《名 嘉》 原因究明も含め、事故の後始末はまだ途中。なのに原発を再稼働、あるいは輸出するなんて、あり得ない。原発は、放射性廃棄物や使用済み燃料をどう処理するかが大切だ。国によってはテロ対策も重要になる。国内でもそれが満足にできないのに、輸出するのは理解できない。

 それより廃炉だ。世界中の原発はいずれ廃炉に向かう。そのための技術を確立すれば、商機は十分にある。福島原発は廃炉技術を磨く場。優秀な技術者を集め、過酷な状況にある原子炉で世界一の廃炉技術を身につけるべきだ。日本では原子力を学ぶ学生が減っていると聞くが、今後、原発技術で日本を救おうという若者にぜひ、出てきて欲しい。

【問 い】 福島以外では、原発事故への関心が薄れている気がします。

《名 嘉》 一地方に過ぎない福島県に力を注いでも、政治家や行政にとって大した得点にならないのは分かる。国民から同情の気持ちが薄まるのも仕方ない。でも同じ日本人として、関心は持ち続けてほしいと思う。

 この5月、双葉郡の首長に双葉郡アイランド構築計画という構想を示した。第一原発沖に汚染土壌やがれきで巨大な人工島を造り、廃炉のための施設、がれき処理・研究の施設を設ける。大量の土をかぶせるので島の上で線量はない。海に影響が出ないよう万全も期す。除染は最小限にとどめ、国家予算を復興策に使う。また県内の汚染土壌やがれきは、すべて双葉地方に仮置きする。

【問 い】 除染は最小限、汚染土壌は受け入れ。反発が出ませんか。

《名 嘉》 汚染土壌やがれきが分散して置かれていることが問題だ。国が計画する中間貯蔵施設を人工島を造るまでの仮保管場所にして、そこに集めればいい。福島全体の復興のために、あえてそうする。代わりに人工島などで国に助けてもらう。

【問 い】 人工島は荒唐無稽では。

《名 嘉》 地元から議論を起こさないと、関心を持ってもらえない。廃屋だらけの場所に企業が来る? 後継者もなくて農業は再生できる? 国のやり方は現実的でない。地元が声を上げ、双葉郡のイメージを大胆に変え、若い人が来たくなる地域づくりが必要だ。アイランド構想は廃炉や地元の復興に寄与するはず。専門家に実現可能性を検討してほしい。

     ■     ■

【問 い】 そもそも日本は原発を持ってよかったのでしょうか。

《名 嘉》 原爆を体験した日本人ほど核物質に敏感な国民はいない。だが原発については、核物質を生み、負の遺産になることを考えずにきた。原発は経済成長を支えたが、経済を優先するあまり、負の側面に鈍感過ぎたと思う。原発を自由に討議できない雰囲気をつくったのも問題だ。

 原発と共生してきた私に原発の是非を語る資格はない。ただ言いたいのは、命にかかわる原子力について、国民は正しい情報を知る権利があるということだ。再稼働するにしても、それが大前提だよ。

【問 い】 福島にはこれからもずっと?

《名 嘉》 ここで結婚し、家を建て、墓もつくった。第二のふるさと、永住の地だ。いまは住めない富岡町の自宅から、第二原発がはっきり見えた。『監視小屋だよ』と言ったら、近所の人が『名嘉さんがいてくれるなら安心だ』って。地震後、避難所で再会したとき、『監視小屋、役に立たなかったね』と。切なくてね。

 かつて沖縄で、『俺たちは日本人ですか』と本土の人によく言った。同じ言葉を福島の人に言わせたくない。福島を見捨てられた地にしたくない。この地で原発と共に生きた技術者の、それが最後の願いなんだ。

 (聞き手・吉田貴文)  2013年7月12日「朝日新聞」より

     *

 なかゆきてる 41年生まれ。GE技術者として福島に。プラントの設計・保守・点検に携わる。80年、東電の協力会社、東北エンタープライズ設立。現会長。


delicious 7月12日の「朝日新聞」記事を最初は半信半疑で読みはじめましたが、名嘉幸照さんの原発技術者としての良心に引き付けられ感銘しました。
 この声を原発推進・再稼働を進めている安倍内閣と推進しようとしている政党に着きつけたい。

 もうひとつ、沖縄生まれの名嘉さんの「かつて沖縄で、『俺たちは日本人ですか』と本土の人によく言った。同じ言葉を福島の人に言わせたくない。福島を見捨てられた地にしたくない。この地で原発と共に生きた技術者の、それが最後の願いなんだ」 という最期の言葉です。胸に突き刺さります。平和な基地のない沖縄をめざす日本の良心がここにあると感じました。

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2012年7月17日 (火)

さようなら原発10万人集会  7月16日

政府は主権者国民の声を聞け

代々木公園に17万人が結集

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。
 

 3.11東画像日本大震災以降、なくせ原発の集会では最高規模となりました。この日、日本全国から様々な形で参加者が結集しました。Img_4192

 私は集会に参加できませんでしたが、集会の事がずうっと気になって仕方ありませんでした。ネットで情報を追いました。

「報道ヘリの会」がヘリをチャーター

 「放送ヘリの会」がカンパを募って取材ヘリを飛ばし、代々木公園上空から集会の模様を中継していました。最初に見たのはこの中継でした。集会の熱気が伝わってきました。機長の話でこの日、9機のヘリが代々木周辺を飛んでいることを知りました。
 どうマスメディアがこの集会を伝えるか問われました。
 この後、多くの人が様々な形で録画をロードアップし集会の模様を伝えていることにも感嘆しました。思いが伝わってきますよね。

参加者の声から

Img_4262
(福島の女性が思いを)
Img_4254
(高揚した気持ちを伝える参加者)
Img_4233_4
(いても立ってもいられないで参加)
Img_4230
(家でくやしい思いをしていてもしょうがないから)
Img_4210
(デモに飛び入りで初参加)
Img_4199
(大学生が家族と参加)
Img_4196
(私たちの声をしっかり聞いて)
Img_4193
(意思表示をじかにしなければの思いで参加)

「さよなら原発集会」
呼びかけ人7氏が訴え


作家の瀬戸内寂聴さん
音楽家の坂本龍一さん
経済評論家の内橋克人さん
作家の大江健三郎さん
作家の落合恵子さん
作家の澤地久枝さん
ルポライターの鎌田慧さん

Img_4249
(瀬戸内寂聴さん 90歳です)
Img_4202
(坂本龍一さん)
Img_4207
(大江健三郎さん)


いままでになく
多くのテレビ局が集会を伝える


 テレビ報道に注意しましたが、いままでになく多くのテレビ局が報道し、一定の時間をあてていました。
 これまでの、集会を無視し、首相官邸要請行動も伝えなかったメディアが、「なぜ伝えないの」という視聴者の声を無視できなくなってのことではないでしょうか。
NHK、日本テレビ、テレビ朝日、TBSテレビの集会報道については直接視聴することができました。(報道の姿勢は様々で、これからもジャーナリズムの公正、公平、独立という根本精神を発揮するよう見守る必要があるように思います)


 

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さようなら原発10万人集会  7月16日

政府は主権者国民の声を聞け

代々木公園に17万人が結集

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。
 

 3.11東画像日本大震災以降、なくせ原発の集会では最高規模となりました。この日、日本全国から様々な形で参加者が結集しました。Img_4192

 私は集会に参加できませんでしたが、集会の事がずうっと気になって仕方ありませんでした。ネットで情報を追いました。

「報道ヘリの会」がヘリをチャーター

 「放送ヘリの会」がカンパを募って取材ヘリを飛ばし、代々木公園上空から集会の模様を中継していました。最初に見たのはこの中継でした。集会の熱気が伝わってきました。機長の話でこの日、9機のヘリが代々木周辺を飛んでいることを知りました。
 どうマスメディアがこの集会を伝えるか問われました。
 この後、多くの人が様々な形で録画をロードアップし集会の模様を伝えていることにも感嘆しました。思いが伝わってきますよね。

参加者の声から

Img_4262
(福島の女性が思いを)
Img_4254
(高揚した気持ちを伝える参加者)
Img_4233_4
(いても立ってもいられないで参加)
Img_4230
(家でくやしい思いをしていてもしょうがないから)
Img_4210
(デモに飛び入りで初参加)
Img_4199
(大学生が家族と参加)
Img_4196
(私たちの声をしっかり聞いて)
Img_4193
(意思表示をじかにしなければの思いで参加)

「さよなら原発集会」
呼びかけ人7氏が訴え


作家の瀬戸内寂聴さん
音楽家の坂本龍一さん
経済評論家の内橋克人さん
作家の大江健三郎さん
作家の落合恵子さん
作家の澤地久枝さん
ルポライターの鎌田慧さん

Img_4249
(瀬戸内寂聴さん 90歳です)
Img_4202
(坂本龍一さん)
Img_4207
(大江健三郎さん)


いままでになく
多くのテレビ局が集会を伝える


 テレビ報道に注意しましたが、いままでになく多くのテレビ局が報道し、一定の時間をあてていました。
 これまでの、集会を無視し、首相官邸要請行動も伝えなかったメディアが、「なぜ伝えないの」という視聴者の声を無視できなくなってのことではないでしょうか。
NHK、日本テレビ、テレビ朝日、TBSテレビの集会報道については直接視聴することができました。(報道の姿勢は様々で、これからもジャーナリズムの公正、公平、独立という根本精神を発揮するよう見守る必要があるように思います)


 

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2011年11月 7日 (月)

なくせ!原発10・30大集会inふくしま-5  10月30日

子どもたちの大声大会
放射能被害から子どもたちを守ろう!!

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

Uvs149
 10・30集会で印象に残った一つに、放射能被害から子どもたちを守ろうという熱い思いがあふれていたことでした。
 子どもたちの大声大会には3才から11才までの子どもたちが参加し、自分たちの願いを訴え、会場も声援で応え一体になっていました。
連帯の息吹が会場をつつんでいました。
 お母さんたちも、子どもたちを放射能被害から守ろうと署名行動を起こし、すでに51,807筆集まり、10トントラックに署名を積んで国会に要請行動する決意を表明していました。

happy01   子どもたちの大声大会
ビデオでも見れます。ご覧ください。<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/6doF7XyFBR8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

  子どもたちの大声大会から

Uvs147

●(11才-男の子) もっと外で遊びたかった~

 (7才-女の子)  もっとプールで遊びた~い

 ●(5才-男の子)  しゅんくん福島で待ってるよ!

Uvs152


●(8才-女の子)  放射能の汚染で仙台の従兄のはるちゃんが遊びにこないでさびしいです。

 (5才-女の子)  幼稚園の外の遊具で遊びたいです

Uvs156


●(9才-女の子)  外であそびた~い

 (3才-男の子)   外でかくれんぼしたい

 

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2011年11月 6日 (日)

なくせ!原発10・30大集会inふくしま-4  10月30日

腹がたって、悔しくて、憎らしくって
ふるさとは、まさに、そこにいて慈しむもの

 飯館村村長  菅野典雄さんあいさつ


clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

Article29
(震災前の飯館村風景から)
W618
(大切な生活を壊してしまった福島原発事故)

飯館村村長 菅野典雄さんあいさつ(全文)
happy01 ビデオでも紹介していますのでご覧ください。
<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/YBFclTbPtf8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

ただいまご紹介いただきました飯館村長の菅野であります。
Dsc000091
 みんなでつくりあげてきた村が原発事故によって全村避難を余議なくされてしまいました。

腹がたって、悔しくって、憎らしくって、しょうがありません。
全く、これは、この避難生活の苦しさは避難した者でないとわからないんじゃないかぐらい大変つらい思いをしてますが、しかし、ぐちっても残念ながら解決はしないので、必死に、今、ふるさとを戻すためにがんばっているところであります。

 そういう思いを、こうして全国から多くの応援に来ていただいたみなさんに感謝をしながらみなさん方に訴えたいことがあります。
 それは、戦後一貫して、大量生産、大量消費、大量破棄で日本は回ってきましたけど、そろそろ、私たちの暮らし方をもう一度考えてみる必要があるんではないかという時代に来ているということです。
 さらに、世界に誇れる我々日本人の国民性は、「とらさん、くまさん、醤油かしてよ、みそなくなったのよ」という世界なのに、いつのまにか自分さえよければ、他人はどうなってもいい、という話になっているという話であります。ですから、まさに、そういうものを、もう一度考えてみる、その機会に我々は遭遇したのではないかなという気がします。
 つまり、いままでどうしても、足し算の中に豊さを求めてきたものを、引き算の中に、本当の豊かさや、あるいは幸せをみつけていく、そういう時代に来ている。それは、我々のこの苦しみだけではどうにもなりません。
 是非こうしてみな様方が集まってきていただいた、みな様方一人々がこの大変なとこをどういう風に考え、どういう風に行動し、どういう風に過ごしていけばいいのかということをみんなで考えていただく機会にして、30年、50年先の私たちの次の世代が「あ~、あの人たちのおかげでいい日本ができたな」というふうに是非みなさん方にしていただきたい。そのように思っております。

 「ふるさとは遠くにありて思うもの」という有名な言葉がありますが、避難してみると、やっぱり「ふるさとは、まさにそこにいて慈しむもの」とそういう思いでいっぱいであります。

是非、私たちにもう一度ふるさとに戻る、その応援をみなさん方に心からお願いして私からのごあいさつにさせていただきます。よろしくお願いします。
ありがとうございます。

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