琉球朝日放送が伝えた オスプレイ墜落から1ヵ月
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NHK スペシャル 「沖縄戦 全記録」が2015年6月14日放送されました。
明日、6月23日 戦後70年沖縄全戦没者追悼式が行われます。
「平和の礎」に今年新たに87人の戦没者が刻銘され、合わせて241,336人になりました。
放送の冒頭で紹介されたいくつかの映像にドッキとさせられ、昨年の8月13日に放送された「狂気の戦場ペリリュー~忘れられた島の記録~」が重なって思い出されました。
戦争の狂気性が映像から胸に突き刺さってきました。あらためて、「戦争は絶対ダメ」「戦争は人間を狂気にさせる殺し合い」とう思いを強くしました。
沖縄について少しは勉強しているのですが、「沖縄戦 全記録」を見て、ペリリューと変わらない狂気が行われていたことに、ショックを受け、戦争を引き起こした政府指導部に強い憤りを持ちました。
今、国会で論議されている「安全保障法案」は政府がいろいろ言い作ろうとも「戦争法案」でしかありません。憲法9条を解釈で破壊しつくそうとしています。「戦争」に対する認識があまりにもいいかげんで、過去の教訓から学ぼうとしていません。直ちに廃案にすべきです。
沖縄県民に押し付けている苦渋を解決しなければなりません。
辺野古への新基地建設は到底許されることではありません。
「平和の礎」には名前がわからずに、●●さんの何男、何女とか刻銘されている人が327人にもなるというのです。これが、国の誤りによって行われた戦争の結果です。
思いを伝えたくて、「沖縄戦 全記録」をここに書き起こすことにしました。
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(沖縄のガマで=伊江島)
【語り 田中泯】
亜熱帯の森に分け入るとそこは戦場だった。
沖縄に点在するガマと呼ばれる洞窟
「骨が今そこ」
人間の骨が次々に見つかった。
70年前の沖縄戦の犠牲者だ
(遺骨収集の女性の涙声)
「70年も暗い壕の中に耐えて」
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)沖縄で日本軍とアメリカ軍が激しい戦いをくり広げた。死者は軍民合わせて20万人。沖縄県民だけで少なくとも12万人にのぼる。
住民の犠牲は地上戦としては国内最大のものとなった。しかし、一家全滅も相次ぎ被害が甚大だったため、その正確な全体像はわかっていない。
今回、被害の全貌を知るための重要な手掛かりを入手した。
(こちらです 整理表)沖縄県が非公開としている戦没者の調査記録。
亡くなった日付や場所が特定されている住民82,074人の記録を解析した。
すると、住民の死がどのように積みあがったのかその詳細な推移が浮かび上がった。わずか1日で全犠牲者の半数が命を落とした小さな島。日米の戦闘が事実上決着した後、46、000人もの住民が亡くなっていたこともわかった。
なぜ住民の犠牲は拡大したのか。
深刻な兵力不足に落ちいっていた日本が戦場に駆り出されたのは住民だった。
(元日本兵の証言)
● 一番危ない仕事をしていた。
なんぼそれが理不尽であろうが何であろうが。
アメリカ軍の攻撃も住民を巻き込み、しだいに無差別化していった。
(元アメリカ海兵隊員の証言)
●現場はパニックになり、私も機関銃を手にして撃ちまくりました。翌朝見に行くとすべてが住民の死体だったのです。(涙声)
住民の肉声を記録した千本にのぼる証言テープ。死の実態が生々しく語られていた。
●みんな戦死。最後の斬り込みで、みんな子どもをおんぶして、弾あたって背中で亡くなっ
て。
●赤ちゃんが泣くもんだから、「子どもを泣かすな」と。もう殺すしかないですから、泣かすなってのは。口の中におしめを押し込んだ。それで窒息させた。
ようやく全貌が浮かび上がってきた沖縄戦
70年目の記録である
沖 縄 戦 全 記 録
サンゴ礁に囲まれた美しい島、沖縄
今から70年前、この海を1000を越えるアメリカの艦船が埋め尽くした。
アメリカ軍が撮影した膨大なフィルムが残されていた。その全ての映像を専門家と検証し、日付や場所を特定した。
アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦を開始した1945年4月1日。撮影は夜明け前からはじまっていた。
太平洋戦争中、最大の上陸作戦。開発されたばかりの最新の兵器も投入された。総勢54万という圧倒的な兵力で迫る様子が映し出されていた。
太平洋戦争の当初、広大な地域に進出した日本軍。しかし、アメリカを中心とする連合国軍はアジア太平洋の島を次々に制圧。日本の絶対国防圏を突破し日本本土に迫った。
日本軍は沖縄に10万の兵を集め、本土への進行を食い止めようとした。
天皇直属の最高統帥機関大本営。その作戦計画には、「皇土防衛のための前縁は沖縄本島。極力敵の出血消耗をはかる」とある。つまり、沖縄を本土防衛の最前線と位置付け現地の32軍に1日でも時間を稼ぐ持久戦を求めたのだ。
4月1日、10万発をこす艦砲射撃の援護の下、午前8時半アメリカ軍は沖縄本島に上陸。のちにあらゆる耳目を集めたと形容された壮絶な戦いの始まりだった。進行するアメリカ軍の先にいたのは日本軍だけではなかった。そこには50万もの住民が残っていた。
上陸作戦を指揮したアメリカ軍のサイモン・バックナー司令官。その側近として沖縄戦を記録した人物がいる。ジェームズ・バーンズ曹長。今回の取材でアメリカ軍の機密扱いとなっていた陣中日誌が見つかった(オキナワダイアリー)。
● 住民の死体の山が放置されている
戦闘の詳細を書き記す中に、繰り返し登場するのは「住民」という言葉だ。
● 殺害した4、700人のうち、2,000人が沖縄の住民だった。
おびただしい数の住民の死。
【語り 守本奈実】
沖縄戦は国内の地上戦で住民の犠牲が最大となりました。しかし、被害があまりにも大きかったため、正確な全体像はわかっていません。
【糸満市役所】
今回、NHKはそれを知るための重要な手掛かりを入手しました。沖縄県が戦後唯一全世帯を対象に行った戦没者の調査の記録。個人情報が多く非公開となっています。入手したのは、いつ、どこで亡くなったのか、個人名を除いたデーターです。その膨大なデーターをコンピューターで解析しました。死亡日や場所が特定されていない住民、そして徴兵された軍人を除く82,074人分を抽出。
住民の死がどのように積みあがっていったのか1日ごとの死者数の推移が初めて浮かび上がりました。
4月1日、本島に上陸したアメリカ軍は2つの飛行場を制圧。日本軍の司令部がある首里をめがけて南下します。上陸地点で死亡した住民は292人。疎開計画は思うように進んでおらず、戦場に住民の多くが残っていました。日本軍はこの周辺にはほとんど兵力を展開していませんでした。
沖縄の32軍は大本営から持久戦を求められたため、限られた兵力を司令部中心に固めるしかなかったのです。
4月20日、北部の小さな島で死者数が突出していました。わずか1日で島の全犠牲者の半数を占める781人が亡くなっていました。そこには戦闘に巻き込まれただけではない死の理由がありました。
この島に70年前、アメリカ軍が陸、海、空の全方位から攻撃を浴びせた。
4月16日の映像には上陸の様子が記録されていた。アメリカ軍のねらいは、伊江島にある巨大な飛行場。日本本土への攻撃拠点の1つにしようとしていた。32軍は飛行場を自ら破壊。
伊江島を守る十分な兵力はなかった。島の命運は残留部隊と残った住民3,000人にゆだねられていた。32軍のナンバー2、長勇参謀長は戦争の直前、県民にこう呼びかけていた。「全県民が兵隊になることだ。即ち1人10殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」
今回の取材で専門家が保管していた千本の貴重なテープの存在がわかった。40年前沖縄の本土復帰直後に初めて戦争体験を語り始めた人たちの証言が納められている。鮮明な記憶を生々しく語っていた。
● 女性当時17歳 私は指揮班の人なんかと“切り込み”に出たかったわけ。20日の夜みんな飲んでね、恩腸の(天皇から賜った)酒と言って、1人でもアメリカを殺しながら死のうとねと。
もう最後はみんな子どもをおんぶして弾あたって子どもに。おっぱいあげようとして下ろしたら背中で亡くなって、みんな戦死。最後の斬り込みで。靖国神社にみんな兵隊と一緒に祀られるからと言って、もう全部死なないといかんと思うから何でもないですよ。あの時はうれしいんじゃなかったかね。
切り込みとは、手製の爆弾などを抱えて敵に突っ込む捨て身の攻撃だ。
日本軍の残留部隊が最後の攻撃をかけた4月20日、島の女性たちも切り込みを行っていた。同じような証言は他にも見つかった。
● 女性当時16歳 天皇のために死になさい、国のために命を捧げるのは当然だと、捕虜になることは一番恥ずべき行為だと、小さい時から言い聞かされ、そういう教えしか分からなかった。
(天皇陛下万歳、万歳の映像)
戦争末期、1億玉砕をかかげた日本。
天皇を中心とする国家を守るため軍人だけでなく一般の国民も命を顧みないという考えが広まっていた。
伊江島では、いわゆる集団自決も起きていた。
当時9歳だった大城安信さん(79歳)
アメリカ軍の攻撃で家を失い、このガマに両親とともに逃れた。
● この石に私の親父が、この辺にいたと思います。
もうみんな死を覚悟しているから、何も思い残すことなく死んだと思います。
ただ生き残って良かったと今思っているわけです。
投降を呼びかけるアメリカ兵がガマの入口にやってきた。大城さんは、その時の様子を絵に残していた。母親にだかれていた大城さん。周りには、親戚や近所の人たち26人がいた。軍に召集されていた親戚の1人が「今から死ぬ」と叫び、持っていた爆弾を爆発させた。
気がついたとき、大城さんが目にしたのは、よく見知った人たちの変わり果てた姿だった。
生き残ったのは4人だけだった。
伊江島では、残っていた住民3,000人のうち、1,500人が命を落とした。逃げる場所もない
小さな島。1億玉砕が刷り込まれた住民たちにとって、生き延びるという選択肢はなかった。
【語り 守本奈実】
4月終わりから5月にかけて本島では、沖縄戦最大の攻防が繰り広げられていました。日本軍の司令部があった首里をめぐる戦いです。5月10日、映像にはこの時期からアメリカ軍が投入した新型兵器が映し出されていました。100メートル先まで焼きつくすことができる火炎放射機を搭載した装甲車です。
アメリカ軍は激しい抵抗にあいながらも、しだいに日本の防衛線を突破して行きます。
アメリカ軍は戦場に残った住民の被害を極力抑える方針でした。司令官の側近バーンズ曹長の陣中日誌には、住民30万人も収容できる施設を造り、食糧を準備していたことが記されています。
「住民たちにもっと食糧を」「我々の敵は沖縄の住民ではない。日本軍だ」
しかし、住民の死のデーターを見ると4月下旬までで13,800人。首里をめぐる攻防の1ヶ月間ではさらに増え、21,600人が犠牲となっていました。その多くが沖縄戦の直前軍に動員されていました。
「防衛召集」という制度で集められた沖縄の人たちです。「防衛召集」とは戦時に現地の人たちを軍に組み込み兵力を補う制度です。最終的には14歳以上の男子中学生も対象とされました。沖縄では22,000人以上が防衛召集されました。
これは本島に展開した兵力の2割に当たります。
根こそぎ動員とも呼ばれるこの方針。背景にあったのは、大本営のある決定です。沖縄戦の半年前、大本営は第32軍から本島の3つの師団のうち1つを除き台湾の防衛にまわすことを命じます。深刻な兵力不足に陥った32軍。防衛召集によって兵力を補っていったのです。軍・官・民共生共死の一体化。沖縄全体で軍民一体化が推し進められました。
首里の防衛線があった場所に今も残る日本軍の地下壕(浦添市)アメリカ軍の圧倒的火力を避けるため地下に隠れ敵を待ち受ける作戦をとりました。こうした地下壕で軍民が混在する状況が生れ、住民の犠牲がさらにふくらんでいったのです。
【語り 田中泯】
防衛召集の実態をまじかで見ていた元日本兵がいる。
首里の防衛線で戦った濱本俊則元上等兵(92歳)部隊は9割以上が戦死した。
防衛召集者たちは装備も不十分なまま戦場に送りだされていたという。
● 軍事訓練なんて知りませんよ(防衛召集者の)間に合うわけない、そんな暇ない。その日から実践ですから、そういう意味ではかわいそうだったよね。一番危ない仕事をしている。弾がいつくるかわからない、そこへ出ていけば危ないんですから。出されれば危険にさらされるわけですよね。
住民の肉声を記録した千本のテープ。
最前線に送られたという防衛召集者の証言があった。
● 男性 当時29歳 もう日が暮れてから、“切り込み”出されて、だいたい沖縄の人。鉄砲もない、竹やりと手りゅう弾くらい。爆破するときはだいていって、戦車の下に入ってから爆発させる。もう死にに行くわけさ。
今回、防衛召集の実体を記した資料も新たに入手した。
戦闘が激しくなる中、住民が次々防衛召集され、切り込みを命じられた例がいくつも確認された。一度に40人近くが切り込みを命じられていたことも記されていた。
防衛召集以外にも戦場に駆り出された住民たちがいた。
老人や子ども女性の一部は県内外に疎開させるはずだった。しかし、実際は戦場に残り軍に組み込まれた人もいた。
● 女性 弾薬は何回も運んでますからね。夜は地雷埋めなんかしてましたから
● 近所の女性たちと共に首里攻防戦の最前線を転々とした。軍と共に地下壕に身を潜め危険にさらされながら作業を手伝わされていた渡慶次ミツ子(当時18歳)
おにぎり握ったり壕の入口で(炊事を)やった。すぐ直撃(砲弾が)後ろにポコッとみんなにあたった。女の人が2、3名首がなくなったり、体が切れたり
住民の犠牲を避けるという考えは当時なかったのか。
今回、首里の最前線で戦った元日本軍の将校が取材に応じた。
第32連隊の大隊長だった伊東孝一元大尉(当時24歳)部隊は兵士どころか弾薬も食料も全てが不足していたという。
● 戦をするだけの能力を持っていなかったんですよ。なんとかうまく住民をもっと避難させる努力をしなければなんなかったんじゃいか。戦うだけに頭がいっぱいで、軍としては住民のことまで考えるゆとりがなかったかもしれませんね。
軍民一体のかけ声の下、兵力不足を補った日本軍。本土防衛のための戦いは兵士だけでなく住民の命と引き換えに続けられていた。
【語り 守本奈実】
5月14日、アメリカ軍が日本軍司令部の目前に迫りました。シュガーローフと呼ばれる丘をめぐっては11回も攻守が入れ替わる激しい戦いが繰り広げられました。アメリカ軍の報告書によれば、海兵隊の死亡者は4,000人にのぼりました。この頃の映像には精神に異常を来す兵士の姿が映し出されていました。
● ハーンズ陣中日誌より
この36時間で戦闘神経症の兵士が231人も出た
首里攻防戦の1ヶ月で命を落とした住民21,600人。その死には無差別化して行くアメリカ軍の攻撃も影響していました。
【語り 田中 泯】
シュガーローフの周辺で撮影された映像を専門家と検証すると衝撃的な場面が見つかった。
アメリカ兵が銃撃を浴びせるその先に住民らしき人影が写っている。狙われやすい場所を移動するのは兵士ではありえないと専門家は言う。
(山内榮さん)
あそこに取り残された住民たち結構多くて、住民の可能性もある。この距離だったら、民間人か肉眼で見てたらわかるはずですよ。
人影は狙い撃ちにされ、次々に倒れていった。住民だつたとすれば、なぜ撃ったのか。
シュガーローフの戦いを生き延びた元海兵隊員が見つかった。
(アメリカ ボストン)
所属した第6海兵師団の旗が今も掲げられていた。ジョー・ドラゴ元伍長(89歳)が沖縄に送り込まれたのは、19歳の時だった。
当時日本兵と沖縄の住民を見分けることは難しく、常に疑心暗鬼の状態だったという。
● 自分が先にやらなければ、こちらが殺されます。だから先に撃つしかないのです。
ドラゴ元伍長の部隊はある晩、住民らしき集団が移動しているのを見かけた。
● その中の1人が突然走りだし、それを見た仲間が銃を発射しました。現場はパニックになり、私も機関銃を撃ちまくりました。泣き叫ぶ声が響き渡り大混乱に陥りました。翌朝、見に行くと全て住民の死体でした。
アメリカ軍の疑心暗鬼をさらに深める事態も起きていた。
(インテリジェンス公報=アメリカ陸軍情報部作成)
沖縄戦の最中、アメリカ軍が日本軍の戦術を分析した報告。日本兵が着物をまとい住民に偽装している写真が掲載されている。日本軍の内部文書を(英訳日本軍第44旅団の戦闘実施要項)英訳した資料。「住民の服を着用するように」という命令が下されていた。日本軍の一部は住民を隠れ蓑にしていた。第32連隊の大隊長だった伊東孝一元大尉。自分自身は命令を下していないが、部下の中に住民に偽装する者がいたと証言した。
● 沖縄人の服を着て行った。だけど、その時私はとがめなかったですよ。せっかくここまでしてやろうと思った気持ちをそぐわけにもいかないから、どっちにしたって死ぬんだから思うようにやらしてやろうと、こういうような気持ちね」
アメリカ軍の無差別攻撃は更に常軌を逸したものになっていく。地下壕を見つけ出しては逃げ道を断ち、火炎放射機で中を焼き尽くす攻撃を繰り返した。しかし、その中には住民たちも居た。
● 150㍍前に来たらその戦車砲で(洞窟の)入り口をぶち壊すの。火炎放射機というのもまかれたんですよ、壕の中で。おじさんがもう生きておって焼けるの、パチパチして。もう何十名こんなにして、みんな戦死なさって。
この証言をテープに残した伊智万里子さん(91歳)
狂気をおびたアメリカ兵の姿が今も頭から離れないという。
● 攻撃しながら片手はビール持ってるのよ。飲みながら、だから酔って寝る人もいるわけさ。それがアメリカなの。だから、“機械”が戦争しているんだって、自分が激戦に行ってみて、初めて、ああ、戦争というのは同じ人でも殺し合いだね。そう思った。
5月31日、首里の日本軍司令部が陥落
日米の激しい戦いは事実上の決着が付いた。バーンズ曹長は兵士や多数の住民の死を目の当たりにした。
バーンズ陣中日誌
● 丘の斜面にはアメリカ人だけでなく日本人の死体が投げ出されている。死体はバラバラで黒く焼け焦げている。それは沖縄で見た光景の中で最も凄惨なものだった。
【語り 守本奈実】
82,074人の住民の死のデーター
首里が陥落した後6月以降を見てみると46,000人以上が犠牲となっていました。事実上の決着がついていたにもかかわらず、全体の6割近くが命を落としていたのです。特に、日本軍の組織的戦闘が終わる6月23日までの1週間、わずか1日で5,502人が亡くなった日もありました。
なぜ戦闘は継続したのか。
32軍では首里で最後の決戦に臨むか、それとも南部に撤退し持久戦を継続するか意見が分かれていました。司令官の牛島満中将は少しでも時間を稼ぐため南部で戦う決断をします。
沖縄最南端に司令部を移した32軍。防衛召集などで動員された人たちや、行き場を失った住民たちも南部に殺到。ひしめき合う状態が生れていました。南部に逃れた大勢の住民をどうするか。アメリカ軍の作戦会議で意見が交わされていたことがバーンズ曹長の陣中日誌からわかりました。
● 南部には13万人とも見られる住民がいるようだ。一時休戦を申し入れ住民を保護すべきではないか。
しかし、この計画は実現することはありませんでした。
6月、アメリカ軍は南部で掃討戦を開始。沖縄戦は最終局面に入りました。海からも南部を包囲し艦砲射撃を浴びせるアメリカ軍。犠牲が急激に拡大していきます。
【語り 田中泯】
梅雨の降りしきる雨の中、逃げ惑う住民たち。その頭上にアメリカ軍のたえまない砲弾が降り注いだ。
身を守るのには地下壕やガマと呼ばれる洞窟に逃げ込むしかなかった。
地下壕とガマは現在、南部の糸満市で確認されているだけでも240か所。そのうち92か所は軍が作戦に使っていたため、住民は残りの地下壕やガマに避難場所を求めた。アメリカ軍の南下にともなって身を隠す場所はさらに限られていく。
住民を地下壕から追い出そうとする日本兵もいた。
● 男性 当時33歳 日本の兵隊が来まして「おばさん連中はみんな出ていけ」と。あんた方今来て出ろと言ってもね、外は弾が降ってるじゃないかと。出ろというのはその場ですぐ死ぬじゃないかと言ったら「何、貴様」と言う。「何、言っているんだ」とすぐに拳銃出して撃とうとしたんですよ
兵士も追い詰められていた。
首里攻防戦の最前線で戦った濱本元上等兵。負傷したため、戦場に置き去りにされたが自力で南部の地下壕にたどりついた。もはや軍隊の定をなしていなかったという。
● (壕の奥にいる)我々の中に(住民を)入れておくわけにはいかないんですよ。そうかといって私らが離れて入り口に住むわけにはいかない、お前さんらはアメリカ兵に見つかっても殺されないだろうと。だけど実際は兵隊は、自分の身を守るだけでやっとこ。そういうことからいくとね、分からないね。案外(住民を)利用したかもわからない
ガマの中で人間性がしだいに失われていった。
● 子どもが泣いたらね「弾がこっちに来る。皆の迷惑だから出ていけ」って言うでしょ。人間ってそんなんかねと思ったね。だから、赤ちゃんいる人は泣いたら外に出ていく
いくつもの悲劇が起きた
● 6つくらいの男の子が「かあーちゃんよ~」と泣いたから、この子のためにと親も前にして(祖父母が)口を塞いで、圧迫して死んだと。もう怖くなって、みんな震えて
最南端のガマには首里から逃れてきた人たちの姿があった。
3か月近く軍と共に最前線を転々としてきた渡慶次ミツ子さん(当時18歳)は衰弱しガマの中で寝込んでいた。
渡慶次さんのために2歳上の姉が水を汲みに外に出た時、砲弾が炸裂した。
● もう半狂乱。顔もきれいに、手を触ったら穴が空いているんですよね。動かないし、まだあったかいけど、どうしていいかわからない、何を考えたか
(渡慶次ミツ子さん)
今年、88歳になる。70年経った今も苦しんでいた。
● もう思い出したくもないですよ。いやですよ。あのことは。思い出すと夜も眠れませんね。
もう少し早く戦争をやめる決断ができなかったのか
● なぜ私たちは、しかも沖縄の人間はなぜこんなに・・・どうしようもないですけど。国のした業だから。でも悔しいですね。姉といっしょに亡くなっておれば、一生こんな苦しみをしなくてもよかったのに。しまいには、ただ、なぜとしか
アメリカ軍はついに最南端に到達
日本軍の組織的戦闘が終わる3日前、住民の死のデーターは高い値を示していた。
沖縄最南端の喜屋武半島では逃げ場を失った住民たちが次々に断崖から身を投げた。
● あれは地獄でした。
南部の掃討戦に従事したグレン・ニュート元伍長。その時の光景が今も脳裏に焼き付いて離れない。
● 衝撃的でした。
一番つらかったのは、身を投げて死んだ子どもの無残な姿を見たことです。
私は神に祈りました。どうか戦争を終わらせて下さいと。
投降するチャンスはあったはずだったのに、なぜ。帰る場所も家族もなかったのでしょうか。
6月23日、最後まで戦えという命令を残し、32軍司令官 牛島満中将が自決。日本軍の組織的戦闘は終わった。
伊東孝一元大尉はその後も南部の地下壕に隠れゲリラ戦を続けた。アメリカ軍に投降したのは終戦後の8月末だった。
何のために自分は戦ったのか
(伊東孝一元大尉)
● 国民を守れなくちゃ軍隊の役目の一つを果たしていないことなんだ。だからたくさんの人を戦場に巻き込んで亡くなったってことは、軍隊の務めの一部を守れなかった。つらいですよ本当に。軍としては。沖縄戦はずっと進めていけば日本軍の愚かな戦争に到達する。それだけのことです。うん。
陣中日誌を記したアメリカ軍のジェームス・バーンズ曹長
沖縄戦は太平洋戦争中最大の戦死者を出した戦いとなった。
バーンズ元曹長は去年95歳でこの世を去っていた。戦後、作家となりピューリッアー賞も受賞した。しかし、沖縄戦については生涯、書くことがなかった。
● (バーンズさんの元妻ジャネットさん)夫は毎晩悪夢にうなされていました。目を覚ましては、部屋をうろつき、泣き叫ぶ、その繰り返しでした。
陣中日誌の最後は、こうしめくられている
「戦場のすべてを見た。もう十分だ」
あの戦争から70年。沖縄戦の戦没者20万人を刻む平和の礎。遺骨さえ見つかっていない人は、今も3,000人以上にのぼるとされる。
(平和の礎で肉親の名を捜す人)
「これ」
父親を亡くした女性
いつどこで亡くなったのか。生きていた証しはこの名前だけだ(玉城蒲吉)
「はい。いっぱいあがってね(お酒を)。きょう、娘が晩酌しますよ」
今年も100体近い遺骨が見つかった。
本土防衛のため、国家が遂行した沖縄戦。ひとたび戦争が起きれば、一人の命がいかに軽いものか。
20万の死者たちが突きつけている。
コーディネーター 野口修司
編 集 高橋寛二
リサーチャー 柳原緑
ディレクター 小川海緒
酒井有華子
成清洸太
制作統括 中村直文
吉田好克
佐藤稔彦
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戦後70年止めよう辺野古新基地建設 沖縄県民大会に参集された3万人の皆様に心から御礼申し上げます。ありがとうございます。
今、司会のりなさんが紹介してくれましたように、沖縄戦を体験した私はどうしてもここで皆さんに思いをぶつけたいために参りました。よろしくお願いします。
私は70年前の沖縄戦で陸軍の野戦病院で補助看護婦として傷病兵の看護にあたった一人ですが、当時、軍命によって県民総出でお国のためと軍事基地づくりをしたことが思い出されます。その結果、沖縄県はかけがいのない20万人余の尊い命を失い、大切な郷土の自然と文化遺産もすべて失って初めて戦争は人類にとって最も不幸な忌むべき行為だということを思い知らされました。
私は沖縄戦で22名の白梅学徒の仲間を失いました。私の生涯の悲しみです。
先の大戦の反省から戦後の日本は平和憲法の下、命と人権の平等そして不戦の誓いを掲げて歩んできたはずです。現政権は国民の命を守るためと称して74%もの膨大な米軍基地を抱えるこの沖縄に、またもや辺野古への新基地建設をごり押しに進めております。
軍事基地は戦争につながるばかりでなく、人権侵害の最たるものであることは沖縄戦で得た教訓です。二度と沖縄が戦場になる危険を取り除かなければなりません。
沖縄県民は昨年の名護市長選、県知事選、衆議院選挙の全てで辺野古基地建設反対の民意を示しました。それから基地の整理縮小、日米地位協定も改定に係わるたび重なる県民大会を持ちました。みなさん覚えておられますでしょう。それにもかかわらず、そういうことを無視して辺野古新基地をゴリ押しに進める政権。これでも民主主義国家ですか。なぜ米軍基地沖縄なんですか。私は日本国民のみなさんにこの理不尽さをわかっていただきたいと思います。
私は凄惨な沖縄戦の記憶を長い間、封印してきました。語りませんでした。しかし平和逆行の不安な情勢を感じて、次世代の人々に私のような戦争のある人生を歩ませてはならないとの思いで20年ほど前から沖縄戦の語り部の活動を進めております。
戦争を知らないみなさんに、基地が戦争に直結するということを伝えたいためなんです。軍事基地強化は抑止力ではなく、むしろ他国を刺激している現状をみなさんご存じでしょう。
命どう宝(命こそ宝)です。
平和が一番です。ですけど、そのために武力を使わない。武力が伴わない平和が一番なんです。戦争を知らない皆さんどうぞわかってください。基地を強化して戦争がなくなるわけではありません。
一昨日、祖国復帰43年の日を迎えましたが私たちの望んだ日ではありません。基地の集中で沖縄独自の発展が妨げられている今日です。現在も危険な劣悪な生活を余儀なくされています。
本日の大会は日米両政府をはじめ全国民に、他の国の方々でも沖縄県民の思いを訴える大会です。すぐには結果を得られなくて、もねばり強く取り組んでまいりましょう。行動しなければ基地を黙認したことになります。要求解決までがんばることを私も決意しお話を終わります。ありがとうございました。 5月17日(日)沖縄セルラースタジアムで開催された「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設! 沖縄県民大会」が開催され3万5千人が結集しました。
県民大会の発言の中から中山きく(86歳)さんのお話を紹介させていただきます。
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今日、翁長沖縄知事と安倍首相の会談が初めて行われます。
そんなこともあって、4月2日に、クローズアップ現代で「最後の同期会 沖縄戦・“ひめゆり”たちの70年」が印象深く記憶にあったので掲載することにしました。
ひめゆり平和祈念資料館館長の島袋淑子さんが国谷さんのインタビューに答えていたのが印象に残りました。私も2回ひめゆり平和祈念資料館を訪ねていて特別の思いで話を聞きました。
安倍首相は沖縄県民の「戦争は二度と起こしてはならない」という願いに真摯に応えてほしいのです。
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クローズアップ現代
「最後の同期会 沖縄戦・“ひめゆり”たちの70年」
チャンネル:総合放送日時:
2015年4月2日(木)
午後7:30~午後7:56(26分)
出演者 島袋 淑子(よしこ) (ひめゆり平和祈念資料館 館長)
キャスター 国谷裕子(くにやひろこ)
日本人およそ18万人、うち12万人の沖縄県民が犠牲になったとされる沖縄戦から70年。沖縄戦の象徴とも言われてきた「ひめゆり学徒隊」に動員された沖縄県立第一高等女学校の“最後の同期会”が先月開かれた。集まったのは、当時4年生だった38人。16歳だった少女たちは、いま86歳になった。戦場で助けを求めてきた親子を置きざりにした体験を、戦後、教師として子どもたちに伝えてきた女性。疎開して学徒隊に同行せず、自分だけが生き残ったことに思い悩んできた女性。生きていく術として米軍基地関連の商売を続けてきた女性。彼女たちは、同級生たちの遺影が並ぶ資料館や、自決があった海岸で何を思うのか…。番組では「ひめゆり学徒隊」の“最後の同期会”に密着。“沖縄の痛み”を抱えながら戦後を生きてきた同期生たちの70年を見つめる。
◆ 島袋淑子さんへのインタビューから
1945年4月1日 米軍が沖縄本島に上陸
ひめゆり平和祈念資料館 館長 島袋淑子さん
17歳の時に学徒として動員される。
戦後資料館づくりに携わり語り部として体験を伝えてきた。
《島袋》
3月23日、艦砲射撃がはじまった日に学校も戦場へと出発しまして、1週間ぐらいしたら勝ち戦で学校に戻れると思ったんです。戦争がはじまったとわかったのが、4月5日ぐらいでした。で、私たちも戦争が終わったと思ったら、そこへ血まみれで泥まみれの兵士が突然、各壕に運ばれてきましたもので、本当にガタガタ震えていましたね。それから毎日、はじめ血を見ただけでガタガタ震えて「戦場だぞこんな弱虫では役に立たない」と衛星兵達におこられますと段々、涙を流しながら泣きながらも「はい、はい、」と言って軍隊式になっていって
《国谷》
私たちが取材した渡具知美代子さんがおっしゃっているんですけど、はじめは非常に怖いとか恐れみたいなものがあったけれども、しばらくすると、亡くなった方を見ても、かわいそうとも思えなくなったと
《島袋》
あたりまえになってしまうんです。本当に考えられなくなりますね。あの麻痺するとういのかね「戦場なんだよ。しっかりして、しっかりして」と、おこられているうちに、もう毎日何名の兵隊さんが死んでいっても平気になりましたね。だから自分で自分が怖くなりますね。戦争って。でも、一番つらかったのは解散命令の後です。(1945年6月18日、日本軍による学徒隊への解散命令が出た)歩けない友だちを残して私たちは出て行ったんです。それは今でも・・あの暗い壕の中で、誰にも看取られることもなく、水がほしくても水を飲ましてくれる人もいなかっただろうとか、いろんなことを考えて、今何年経ってもそれだけが、生きるも死ぬもいっしょ、みんなこの壕に残って死んだ方がいいですって言ったんですけど「それはだめだ」って軍が許さないんですね。「この壕に残れる者は傷を負った者と病人だけだ。はってでも歩いて出ていくんだ。なに言ってるんだ」と言って、もう追い立てるものですから・・・
《国谷》
この資料館ていうのは、生き残った方々の思いが詰まった場所だと思うんですけども、一番この資料館に込められた思いと言うのはなんですか。
《島袋》
やっぱり、私、知らないということは恐ろしいことだと戦争終わってから思いました。あの頃はいつも負けていても勝っている勝っているとか。他国で戦争していたときは何も感じなかったんですね。ただ勝っている、勝ってる。だけど目の前で友だちを亡くして、助けてあげられなかった、あのたくさんの兵隊さんを置き去りにしてみんなそこの壕で死んでるわけですから。戦争ほど恐ろしいもの、戦争ほど・・言葉で表現で出来ないくらい憎いもんです。もう戦争起こした人は許せないという気持ちがあります。戦争を知ってしまった私たちは、だから絶対戦争は、どんなことがあっても戦争はだめだということ。私の思いはこんなにたくさんの友だち…亡くなって、もう二度と戻ってこない友だち。家族もそうですけど。戦争は人災なんです。必ず人が起こすんです。だから止められます。戦争は止めることができるんです。人間が起こすから。だから、準備が始まったら止められないよっていいます。
《国谷》
危機感を感じていらっしゃる一つの要因となっているのが、この資料館に来られた方々が書き残してるコメント。
《島袋》
はい。そう。戦争は仕方ないとか、じゃ攻めてこられたらどうするのかとか、そういう本当に戦争を知らない方のご意見です。遠いところから、なんか少しずつ戦争への足音が聞こえるような気がして、体験したから、そう思うんでしょうかね。今なら止められると思って、声を大にして、若いみなさんに〝戦争はだめです〟と言ってくださいって。人間の犯す最大の過ちだからね、これは始まったら止められないから今だよって。
《国谷》
島袋さんやみなさんが体験した凄惨な体験、その痛みの原点とずうっと沖縄が、こう負ってきた安全保障の、いわば要という役割、歴史からずうっと連続して見たときに、何が一番沖縄の人々の心に刺さっているのかなあ、今。
《島袋》
20万近くの命が失われているのに、まだ基地もある、さらに基地も作るって、そういう何で沖縄っていうか、宿命っていうんですかねえ。だからそこで生れた私たち、そこで育って戦争体験した私たちが、やっぱり最後の最後まで声を大にして戦争の恐ろしさ、命の大事なことを伝えなければいけないと、がんばってはいるんですけど、なかなかうまく戦争知らない人が多くなりましたので、それが伝わりにくくなっています。この4、5年前からそういう気持ちでおりますね。50年、60年までは、もう絶対戦争はないと思ってますけど、あれ、また戦争の準備が始まるんじゃないかねという不安がありますので、今一番大事な時だと思っています。みんな少しでも、沖縄の苦しみか、今ある沖縄を少しでもわかってほしいと思ってますね。
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3月30日、農林水産省が不当な決定で、沖縄県知事の作業停止指示の効力を一時停止するという民主主義に反する暴挙がありました。 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。
この日、私が知る限りのテレビニュースでは
NHKニュースウオッチ9が4分、テレビ朝日の報道ステーションは14分の関連放送を行いました。
報道ステーションとNHKでは内容に雲泥の差がありました。報道ステーションには案件の問題に迫ろうとする真剣さが感じられました。それも、単発でなく継続して辺野古新基地問題を追跡していていて注目しています。
農水省が今回知事の指示を無効とした根拠は行政不服審査法
第一条にあるこの法律の目的は国民の権利利益の救済をするためのもので、沖縄県側は「国民ではなく国が権利の救済を求めることは制度上予定されていない」と反論していた。
行政訴訟法に詳しい武田真一郎成蹊大学法科大学院教授
「行政との間で紛争が起こったときに、国民を守るために作られた制度なんですね。国が国民と同じ立場に立って不服申し立てをすることは出来ないのではないか。私はそういうふうに考えています。行政不服審査請求は大臣が判断をするわけですから国にとって有利な判断を迅速に受けることができると、そういうふうに期待をして審査請求をしたのではないかとみることが出来ると思うんですね」 沖縄県民の声を聞いて!!
辺野古移設反対の人
「戦争の苦しみを知らない人間だけが政治を執っているから、そういうふうになるわけ」
「県民の意思はいくら言っても届かないんですよねえ。それを知事がまるで悪者みたいにして法律違反しているような感じで、しゃくにさわりますね」
辺野古移設容認の人も国の進め方に違和感
「普天間基地は危ないので負担が少ない辺野古の方に移った方がいいのかなと。やり方はへんと感じるところはありますね。沖縄県の人の話をもう少し聞いた方がいいのかなと自分は思う」
「一番苦労している人の意見を聞いてほしいと思います。一番苦労しているのは県民だと思うので、そこの人の気持ちを汲んでやってほしいなと」
■ 木村草太 首都大学東京准教授から
憲法95条を生かす提起が
(古舘) 地元新聞社の招きで明日沖縄に入られるんですね。
(木村) そうです。辺野古にも行く予定になっています。
(古舘) 普天間にも行かれるんですか。
この流れを見ていてどうですか
(木村草太准教授)
このニュースを見ていて、ちょっとこれまでと違う角度になると思いますが、感じているのは国会が首相や官房長官に責任を押しつけすぎではないかという風に感じています。どういうことかというと、今、国会がですね、普天間基地設置法とか横須賀基地設置法という法律を個別に作っているわけでないんですね。どういう法律を作っているかというと、大ざっぱにいうと、内閣が米軍基地の立地は決めて下さい、そういう法律になっています。ただこのような形ですと、ここに作るという責任が全部内閣、あるいは首相や内閣官房長官の判断に行ってしまうわけですよね。そうなってしまうと、国民の代表である国会がきちんと責任をとったのか、ここに疑問が生じてくるわけです。ですから米軍基地の立地のような非常に重要な事項は、たとえば辺野古新基地設置法のような形で国会が責任をもって法律の形式で決めるべきではないか。これが、むしろ憲法の要請なのではないかというふうに私は解釈しております。
(古舘伊知郎)
憲法の立場から見ていけば内閣に偏りすぎているその権限をもう一度立法の国会で、きちっとやるべきだと。そうすると具体的に憲法の中でどういうことがいえるんですか。
(木村草太)
はい。立法というのは、もちろん法律を作るっていう意味もあるんですけど、大事な事項、国民と国家の関わりに関する大事な事項を決める、そのための形式なんですね。ですから、辺野古新基地設置法のようなものをまず作ってから国会全体で責任を負うべきだと、そして、ただ、そうすると地元の声はどうなってしまうのかということなんですけれども、憲法95条という条文があって、どういうことかと言えば、たとえば辺野古新基地設置法のような法律を作ると、これは特定の地方公共団体だけに適用される特別法ということになるわけですね。これは実は国会だけではなくて地元の地方公共団体の住民投票で過半数の同意を得ないと制定できません、有効になりません、こういう仕組みが用意されているんですね。これを迂回しようとしてしまったために、今、このような非常に反発の強い中で内閣が強行に推し進めようとしている構図ができてしまったんではないかと私は思っています。
(古舘伊知郎)
第95条をよおく吟味して住民投票の、今回にかんしては重要さにかんがみて、それをやって国会の機能がもっとこれに関しては回付される。
(木村草太)
全くその通りなんです。いままでに住民投票はやったことはあるんですが、この95条の住民投票はやったことがないし、これが必要だという前提なら、もっと同意が得られる場所がないか、一生懸命政府や国会が探さなければいけなくなる。このような不幸な衝突は起きにくくなるのではないか。それが憲法の要請だということですね。
(古舘伊知郎)
当面は法廷闘争うんぬんということではなくて、やはり顔突き合わせて、こういうことも含めて話し合う。
(木村草太)
そうです。手続きが大事ということです。
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サンデーモーニング 3月29日 から
翁長沖縄知事の工事中止指示についても論議されましたが、軽部健介さんと姜尚中さんの発言を紹介させていただきます。
軽部謙介氏
時事通信社解説委員長・ワシントン支局長など歴任
いま沖縄をめぐる日本の言説のなかに、今度の基地建設というのは日本全体のために安全保障のために必要なんだから沖縄がまんしなさいという趣旨の言説があるんですね。ですけど、私はその言説を聞いていて、いつも思うんですけれども、ようするに全体のために個が犠牲になれと言っているように聞こえるんですね。民主主義というのは全体のために個が犠牲にならないためにはどうすればいいかということの知恵をしぼるというシステムだと思っていますので、やはり今回の問題というのは、かなり疑問の残る措置だと思うんです。で、同時にもう一つ、県と国の対立という観点でいえば、私は実は沖縄県の初第の県知事、琉球政府最後の行政主席だった屋良朝苗さんていう方を思い出すんですね。屋良朝苗さんと当時の政権は佐藤栄作首相、沖縄問題の担当は山中貞則さんという鹿児島出身の代議士でしたが、この方たちがいろんな難しい問題、毒ガス、核の撤去、円ドル交換とか、次から次と吹き出すいろんな問題を、話し合いを通じて最善の道をつくろうということで、非常に強い信頼関係を持って話し合っていたんですね。もちろん、沖縄県には復帰そのものの中身に対しての反対、屋良さんに対する反対もあるんですけれども、やはり、そういう信頼関係をつくりあげることが一番だろうと、で、実は佐藤さんがそいう信頼関係を作りあげた上でも、なおかつ1970年12月に起こったゴザ騒動(沖縄の言い方ですが)ゴザ暴動事件の時にですね、佐藤さんが言ったんですが「県民の気持ちはわかっているつもりだったと、だけど本当はわかっていないのかも知れない。理解するように努めなければいけない」という言葉を残されているんですね。やはり、こういう謙虚というか内省、知性というか、そういう姿勢というのが、やはり今のこの問題にも求められているんじゃないかという気が致します。
姜尚中氏
政治学者・東京大学名誉教
瑕疵(かし)がないとか執行停止とか行政訴訟とか、結局、政治が動いてないんですよね。つまり完全に法の問題に移り変わっているといいことは、今おっしゃった通り政治が機能不全状態。これはなぜかというと、命令か服従かという、こういう手法しかないから、でこれである限りは大の虫を生かすためには小の虫は犠牲になっていいよ、だから問答無用の命令服従型の統治方式というのはいかにこういう矛盾をつくりだすかってことなので、本来、政治家が政治の役割をしていないということだと思います。ですから行政府はもう一回自分たちが国の代表である前に政治家であると、政治ってのは結局、法の問題ではなくてあらゆる領域を包み込んで柔軟にやらなきゃいけないので、まず話し合いを。今、政治家失格だっていうことを政府は理解すべきだと思いますね。
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野中広務さんの訃報に接し、思想信条の違いを超えて、生前に発しておられた良心の声を大切に生かさなければと感じています。
心から哀悼の気持ちを申し上げます。
2018年1月27日
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2015年2月15日(日)、TBSの 時事放談
一部しか見ていないのですが、沖縄にふれての野中広務氏の発言がすごく印象に残り紹介させていただきます。 画像の画面をクリックすると大きくして見れます。
司会は、御厨 貴(みくりや・たかし)キヤスター
野中広務(のなか・ひろむ) 元内閣官房長官
古 賀 誠 (こが・まこと) 自民党元幹事長
のお二人がゲスト出演でした。
《アナウンサーが沖縄関連の解説》
沖縄知事上京。総理、閣僚また面会拒否。
翁長雄志沖縄知事は2月5日、沖縄基地問題に関する要望のため上京。安倍総理や関係閣僚へ面会を要請したということでしたが面会できませんでした。
これまではこちら。翁長知事だから会わないの?
上京したのに政府、自民冷遇。
辺野古移設反対を掲げ、去年末の沖縄県知事選で自民党推薦の候補を破り当選した翁長知事ですが、新年度予算などの要請などで上京した際も関係閣僚との面会や党の会合への出席が実現しませんでした。そして沖縄予算、5年ぶり減額。辺野古移設費は増。新年度予算案で沖縄振興予算は5年ぶりの減額、そして辺野古調査作業再開。
抗議300人「沖縄の宝を埋めるな」
このほど再開された基地移設に向けた辺野古沖の海底調査に対し、反対する市民300人が警察ともみあいになるなどの事態になっています。
ここにきて、サンゴ礁を傷つけている作業のコンクリートブロックも投じられています。
辺野古移設にかんして安倍総理は「この問題の原点は市街地の真ん中にある普天間の危険性の除去だ。辺野古移設が唯一の解決策だ」としています。
《御厨貴キャスター》
野中さんずばり、これは、どうお考えでしょう
《野中広務氏》
今、亡くなられた山中(山中貞則(さだのり)鹿児島県出身の自民党衆院議員)先生がね、私に『沖縄は琉球処分以来、日本に差別をされてきたんだ。おれは衆院議長の話もあったけれども、そういうものを断って、なんとか鹿児島の出身者として、沖縄の差別をなくするように、沖縄が少しでも経済的に復旧してくれるように、基地が少なくなるように、おれはがんばって命がけでやってきたんだ。野中くん、君は1972年に沖縄に行っ
て、いまの普天間基地のそばで京都の慰霊塔を建てたというじゃないか。その君がこれから、沖縄の問題についておれの気持ちをつないでくれ』と言われたのを今も忘れることができませんし、私も、それぞれの政治家としての要路にありましたときに、ずうっと沖縄を自分の故郷のように必ず一年に数回は訪問して、そして沖縄がいかにして、この山中先生のおっしゃったように、平和でかつ日本が差別をするようなことがないようにと思って政治生命をかけてきた一人として、まったく今回の翁長知事に対する態度を、沖縄県民に対する態度というのは絶対に許すことのできない、私にとっては本当に悔しい、死んでも死にきれないような、今の官邸の姿であり、自民党がどうしてこんなにも沖縄を現在の窮状のなかから差別をするのかということを本当に残念に思っておりますし、橋本首相の時に名護の市長であった比嘉鉄也さん(1997年12月25日辞表)が辺野古を受け入れるという決断を自分がそのポストをやめることによって決断してくださいました。そのことを知っておる私としては、今日までいかにして平和に辺野古を代替基地として、うまく沖縄の特に名護のみなさんの理解が得られるようにとこう思って、いくつかの問題についていささか努力してきた一人として、本当に翁長知事に対する官邸の処置は全く理解もできませんし、現在のこの世代においてどうして沖縄に対するこのような差別が繰り返し、繰り返し行われるのかと思うと残念で、残念でなりません。絶対に許すことができない、沖縄に対する大変な差別をやっておると、そういう理解をしてくれなかったら沖縄は長年に亘って基地を支えてきた、そういう県民の痛みがわからない政治だと思って強く憤慨をしております。
《御厨貴キャスター》
古賀さんいかがでしょう
《古賀誠氏》
もう沖縄に全てを愛情を注がれた野中先生の発言は本当に重いなあと。総理も官邸も、いまの野中先生のご発言をしっかり汲み取るべきだと思いますね。もう本当にお話合いすることですよ。そして、いい方向を見いだす努力をやるべきですね。この国のために沖縄県民のために、純粋な真摯な話し合いがあっていいじゃないですか。 私には驚きでした。
野中広務さんがこんな思いで沖縄と向き合ってきていた人だということが。
画面の野中広務さんの表情と発言が胸に迫ってくるものがありました。
相方の古賀誠さんも、野中さんの話に胸せまるものがあったようでした。
野中広務さんの発言を検証しようとネットで調べてみました。
そうしたら、1997年国会での野中広務さんの行動の一端が書かれていて、今回の時事放談の発言に一貫性があったことを知りました。 安倍晋三首相の憲法9条改憲にも厳しく発言を続けられました
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Wednesday, January 08, 2014(2014年1月8日)
世界の識者と文化人による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明: オリバー・ストーン、ノーム・チョムスキー、ジョン・ダワーら
報道は最後にまとめています。英語版はこちら。For English version of the statement by 29 scholars, peace advocates and artists opposing the new marine base in Okinawa, see HERE.
プレス・リリース
世界の識者と文化人による、沖縄の海兵隊基地建設にむけての合意への非難声明
2014年1月7日
即日発表
問い合わせ、取材先は
Joseph Gerson:(ジョセフ・ガーソン) : 1-617-661-6130/JGeson@afsc.org
Peter Kuznick(ピーター・カズニック):1-202-885-2408/ pkuznick@aol.com
Gavan McCormack(ガバン・マコーマック): 61-2-6125-3164/
gavan.mccormack@anu.edu.au (マコーマック氏は日本語による取材可能)
米国、カナダ、欧州、オーストラリアの識者と文化人は本日付で、添付した書類にあるように、沖縄・宜野湾市の中央に位置する普天間海兵隊飛行場の代替施設として日米政府が計画している辺野古の米海兵隊新基地の建設に反対する声明を発表した。この声明は「沖縄の人々による平和と尊厳、人権と環境保護のための非暴力のたたかいを支持する」と呼びかけている。
呼びかけ人として、言語学者ノーム・チョムスキー、アカデミー賞受賞映画監督のオリバー・ストーンとマイケル・ムーア、ノーベル平和賞受賞者マイレッド・マグワイア、歴史学者ジョン・ダワー、元陸軍大佐・外交官のアン・ライト、国連のパレスチナ問題特別報告者リチャード・フォーク等が連名している。(声明文にある呼びかけ人全員のリストを参照。今後も賛同を募る。)
呼びかけ人を代表して、アメリカン・フレンズ・サービス委員会のジョセフ・ガーソン氏(沖縄で基地に反対する人々と連携し、少女暴行事件を受けて1996年に「激怒と痛恨の声明」を発表した)は、今回の声明の意図は「沖縄の人々による、70年にも及ぶ軍事植民地化を終わらせ、自らの尊厳と人権を守り、平和と環境保護を確保するための、勇気づけられる大切な非暴力運動への国際的支援を集める」ことであると述べた。
『語られない米国史』(邦題『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』)をオリバー・ストーン監督と共著したアメリカン大学のピーター・カズニック教授は、仲井真弘多沖縄県知事による沖縄の有権者の裏切りを非難した。「選挙運動時、仲井真氏は普天間基地の県外移設に取り組むと約束した。今回の知事の決定について、世論調査では72.4%の県民が『公約違反』と言っている」とカズニック氏は語った。「米国と、日本の安倍晋三首相の強い要請により取引が行われた。オバマの『アジア回帰』を前進させるために沖縄の人々の権利を踏みにじるものである。」
この声明は沖縄の迫害と搾取の歴史を振り返る。最初は日本による侵攻と併合、その後は米国の太平洋における覇権的利益を支えるためであった。国土の1%にも満たない土地に日本の米軍専用基地の73.8%が集中するという不当性を指摘する。署名者たちはまた、沖縄の人々が70年にもわたって「米国独立宣言が糾弾する『権力の濫用や強奪』に苦しめられ続けて」おり、「その例として同宣言が指摘する『議会による同意なしの常備軍の駐留』」があると指摘している。
『抵抗する島々:沖縄は日本と米国に立ち向かう』(邦題『沖縄の〈怒〉‐日米への抵抗』)を乗松聡子と共著したオーストラリア国立大学のガバン・マコーマック教授は、「基地に起因する事故、性暴行を含む数々の犯罪、それらに対し米軍が十分に責任を問われないこと、耐え難い軍用機の騒音、化学物質による環境汚染」など、沖縄の人々の命と生活、健康を脅かす基地被害について語った。「長年の軍事占領にようやく終止符を打ち、本当の安全を享受するための沖縄の人々の勇敢でたゆまぬたたかいは、世界の人々の支持を受けるに値するものである。」
(この後声明が続く)
声 明
私たちは沖縄県内の新基地建設に反対し、平和と尊厳、人権と環境保護のためにたたかう沖縄の人々を支持します。
私たち署名者一同は、2013年末に安倍晋三首相と仲井真弘多沖縄県知事の間でかわされた、人間と環境を犠牲にして沖縄の軍事植民地状態を深化し拡大させるための取り決めに反対します。安倍首相は経済振興をエサに、軍港をともなう大型の海兵隊航空基地を作るために沖縄北東部の辺野古沿岸を埋め立てる承認を仲井真知事から引き出しました。
辺野古に基地を作る計画は1960年代からありました。それが1996年に掘り起こされ、前年に起こった少女暴行事件もあり当時沖縄で最高潮に達していた反米軍基地感情を鎮めるために、日米政府は、宜野湾市の真ん中にある普天間基地を閉鎖して、辺野古の新基地にその機能を移転させようと計画しました。辺野古は稀に見る生物多様性を抱え、絶滅の危機にある海洋哺乳動物、ジュゴンが棲息する地域です。
仲井真知事の埋め立て承認は沖縄県民の民意を反映したものではありません。知事は2010年の知事選直前に、それまでの新基地容認姿勢を変更し、「普天間基地移設は県外に求める」と言って、新基地反対で一貫していた候補を破って当選しました。近年の世論調査では県民の辺野古新基地への反対は7割から9割に上っていました。今回の仲井真知事埋め立て承認直後の世論調査では、沖縄県民の72.4%が知事の決定を「公約違反」と言っています。埋め立て承認は沖縄県民に対する裏切りだったのです。
在日米軍専用基地面積の73.8%は日本国全体の面積の0.6%しかない沖縄県に置かれ、沖縄本島の18.3%は米軍に占拠されています。普天間基地はそもそも1945年の沖縄戦のさ中、米軍が本土決戦に備え、住民の土地を奪って作りました。終戦後返還されるべきであったのに、戦後70年近く経っても米軍は保持したままです。したがって、返還に条件がつくことは本来的に許されないことなのです。
今回の合意は長年の沖縄の人々の苦しみを恒久化させることにもつながります。沖縄は、日本による17世紀初の侵略に始まり、19世紀末の日本国への強制併合を経て、1944年には、米軍の襲撃を控え、天皇制を守るための時間稼ぎの要塞とされました。沖縄戦では10万人以上、住民の4分の1にあたる人々が殺されました。戦後、米軍政下において基地はさらに増えました。沖縄は1972年に日本に「返還」されたものの、基地がなくなるとの沖縄住民の希望は打ち砕かれました。そして今日も、沖縄県民は基地の存在によってひき起こされる犯罪、事件、デシベル数の高い航空機の騒音や、環境汚染による被害を受け続けています。戦後ずっと、沖縄の人々は米国独立宣言が糾弾する「権力の濫用や強奪」に苦しめられ続けています。その例として同宣言が指摘する「われわれの議会による同意なしの常備軍の駐留」もあてはまります。
沖縄の人々は、米国の20世紀における公民権運動に見られたように、軍事植民地状態を終わらせるために非暴力のたたかいを続けてきました。生活を脅かす実弾砲撃訓練に対し演習場に突入して阻止したり、米軍基地のまわりに人間の鎖を作って抵抗を表現したりしました。大規模なデモが時折持たれ、約10万人-人口の10分の1にもあたる人々が参加してきています。80代の人たちが辺野古基地建設を阻止するために立ち上がり、座り込みは何年も続いています。県議会は辺野古基地反対の決議を通し、2013年1月には全41市町村首長が、オスプレイ配備撤回と県内移設基地の建設を断念するよう政府に求める建白書に署名しました。
私たちは、沖縄の人々による平和と尊厳、人権と環境保護のための非暴力のたたかいを支持します。辺野古の海兵隊基地建設は中止すべきであり、普天間は沖縄の人々に直ちに返すべきです。
2014年1月
ノーマン・バーンボーム: ジョージタウン大学名誉教授
ハーバート・ビクス: ニューヨーク州立大ビンガムトン校歴史学・社会学名誉教授
ライナー・ブラウン: 国際平和ビューロー(IPB)共同代表、国際反核兵器法律家協会(IALANA)事務局長
ノーム・チョムスキー: マサチューセッツ工科大学言語学名誉教授
ジョン・W・ダワー: マサチューセッツ工科大学歴史学名誉教授
アレクシス・ダデン: コネチカット大学歴史学教授
ダニエル・エルズバーグ: 核時代平和財団(Nuclear Age Peace Foundation)上級研究員、元国防総省・国務省職員
ジョン・フェファー : 政策研究所(IPS)「フォーリン・ポリシー・イン・フォーカス」(fpif.org) 共同代表
ブルース・ギャグノン: 「宇宙への兵器と核エネルギーの配備に反対する地球ネット」コーディネーター
ジョセフ・ガーソン: 「アメリカン・フレンズ・サービス委員会」平和と経済の安全保障プログラム部長、政治学・国際安全保障学博士
リチャード・フォーク: プリンストン大学国際法名誉教授
ノーマ・フィールド: シカゴ大学東アジア言語文明学部名誉教授
ケイト・ハドソン: 核軍縮キャンペーン事務局長
キャサリン・ルッツ: ブラウン大学人類学・国際問題学教授
ナオミ・クライン: 著述家、ジャーナリスト
ジョイ・コガワ: 作家、『オバサン』(和訳『失われた祖国』)著者
ピーター・カズニック: アメリカン大学歴史学教授
マイレッド・マグワイア: ノーベル平和賞受賞者
ケビン・マーティン: 「ピース・アクション」事務局長
ガバン・マコーマック: オーストラリア国立大学名誉教授
キョー・マクレア: 作家、児童文学者
マイケル・ムーア: 映画監督
スティーブ・ラブソン: ブラウン大学名誉教授・米陸軍退役軍人(沖縄・辺野古にて1967-68年駐留)
マーク・セルダン: コーネル大学東アジアプログラム上級研究員
オリバー・ストーン: 映画監督
デイビッド・バイン: アメリカン大学人類学部准教授
ロイス・ウィルソン: 世界教会協議会前総会議長
ローレンス・ウィットナー: ニューヨーク州立大学アルバニー校歴史学名誉教授
アン・ライト : 元米陸軍大佐、元米国外交官
(苗字のアルファベット順、2014年1月7日現在)
日本語による報道
東京新聞(8日夕刊)
私はこの声明の呼びかけを読みながら涙がとまりませんでした。
久しく味わったことのない感動でした。
世界の正義と真理を求め続ける人たちがたくさんいることに・・・・・
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元名護市長 渡具知裕徳(84歳)
40年以上前から計画 「代替」ではない
新基地は、米軍が長年欲しかったものであり、単なる「代替施設」ではありません。
1970年に誕生した名護市の初代市長に就任した頃、基地司令官に図面まで見せられ、飛行場と軍港をつくる構想を示されたこともあります。
埋め立て地は海面から10㍍もの高さになります。
見上げるような巨大なコンクリートの塊が青く澄んだ海にできあがるなんて・・・・
海と陸が遮断されて景色が一変してしまう。もう、ここで初日の出を見ることもできない。そして名護市内には、オスプレイが飛び交うことになります。
辺野古の美しい海を子や孫に残せば、全国に誇れる観光資源になるでしょう。オスプレイと米軍艦船の拠点基地にするか、人々が憩う一大観光地にするのか。名護市長選挙にかかっています。 「海にも陸にも新たな基地をつくらせない」という稲嶺ススム市長に、ぜひ頑張ってほしい。
10㌧トラックで350万台分の土砂
名護市辺野古沿岸部を埋め立てて建設される新基地は、きわめて巨大です。
まず、その面積は約205㌶。同市にある名護市営球場の約132倍、東京ドームの約44個分にあたります。
このうち海面を埋め立てるのは約153㌶。埋め立てに使う土砂は、約2100万立方㍍。10㌧トラックで約350万台分にも。
県内だけでは足りず、九州や瀬戸内からも調達します。
海面からの高さは、約10㍍(左図)。辺野古の美しい青い海に、巨大な基地の壁がそそり立つことになります。
機能の大幅強化
税金で最新基地
新基地は、米海兵隊普天間基地(宜野湾市)を返還する代わりの基地とされています。しかし、その機能は「代替」をはるかに超えて、大幅に強化されます。
建設予定地近くには、隣接するキャンプ・シュワブのほか、北部訓練場、キャンプ・ハンセンなど海兵隊基地が集中しています。
新基地は、これら基地群の最新鋭拠点に。
その耐用年数について、米側は当初200年に及ぶとまで想定していました。(1997年の国防総省報告書)現在、普天間基地に配備されている24機のオスプレイが、新基地では100機体制に強化される可能性も指摘されています。(森本敏前防衛相、『普天間の謎』)。しかも、強襲揚陸艦ボノム・リシャール(長崎県の米軍佐世保基地配備)が接岸できる護岸までつくられます。
新基地には、同艦に収容するエアクッション型揚陸艇(LCAC)が上陸できる施設(斜路)もつくられます。LCACが現在配備されている長崎県では、環境基準以上の80デシベル超の騒音が記録されています。市民は、オスプレイだけでなく、LCACの爆音被害にも襲われることになります。
建設費用は埋め立てだけで約2300億円。全体では、さらに大きくふくらみます。
米軍は〝移設〟の名で、はるかに使い勝手のいい最新基地を、日本国民の税金でつくってもらえるのです。
ジュゴン生息域
サンゴやカメも
建設予定地周辺の海域では、国の天然記念物に指定されているジュゴンが生息しています。えさ場となる海草藻場があるからです。
このほかにも、サンゴをはじめ貴重な生物が多く残されています。ウミガメが上陸して産卵する砂浜もあります。それが丸ごと埋め立てられ、基地になります。
県外から持ち込まれる多量の埋め立て土砂には、運搬などが禁止されている特定外来生物アルゼンチンアリが混入する可能性も指摘されています。生態系に影響を与える危険もあります。
(「しんぶん赤旗」日曜版 1月19日号から引用させていただきました) 名護市長選挙は自分のこととして心配でなりません。
前市長の稲嶺ススムさんの4年間の実績を調べてみて、基地に依存しない地域振興に精力をかたむけている姿に、ちょっと感動しました。
そして、「陸にも海にも新しい基地をつくらせない」という、日本国憲法の基本原理を沖縄でたたかいぬいている姿にも感動します。
どうしても勝利しなければと、私にすぐできることとして、わずかばかですが募金をしました。
1月10日の沖縄県議会の意見書と決議が沖縄県民と国民の良識ある思いのように思いました。 米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去と辺野古移設断念を求める意見書
沖縄県議会は、これまで政府に対し、米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去、県内移設反対と国外・県外への移設、オスプレイ配備の撤回を全会一致で求めてきた。昨年1月には、全41市町村長・議長の署名とともに、これらの要求を盛り込んだ「建白書」を安倍首相にじかに提出したところである。
戦後68年、復帰後41年、国土面積の0.6%に過ぎない本県に米軍専用施設の74%を集中させている現状は異常である。返還合意からとうに17年が経過してなお、市民、県民の命を危険にさらし、オスプレイを追加配備までして放置された普天間飛行場の現状は、見通しのない、硬直した日米合意に執着する政府の不作為と思考停止がもたらした「固定化」というほかない。
それにもかかわらず、政府はなお、普天間飛行場の移設先について、「辺野古が唯一の解決策」であり、さもなければ「固定化だ」と、恫喝と受け取らざるを得ない姿勢で辺野古移設を推し進めている。加えて、「普天間飛行場の危険性除去、負担軽減、沖縄振興をパッケージで行いたい」とする菅官房長官発言に見られるように、これまで否定してきた基地と振興を引きかえる手法を露骨に持ち出すなど、言語道断で許されるものではない。
情報隠し、後出しなど、手続上もその不当性が指摘され、環境保全上の懸念が払拭されない中、提出された埋立申請書は公有水面埋立法の基準要件を満たさず、承認に値するものではないことは明白である。この上、圧倒的県民の声を封殺し、今後さらに長期にわたって米軍基地を押しつける辺野古移設を進めれば、政府に対する県民の不信と失望ははかり知れず、民意を踏みにじる政府への怒りは頂点に達し、日米安保の基盤を決定的に揺るがすこととなる。
よって、政府におかれては、辺野古移設を断念し、普天間飛行場の閉鎖・撤去を速やかに実現するよう強く要請する。
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。
平成26年1月10日
沖縄県議会
(あて先)
内閣総理大臣
外務大臣
防衛大臣
沖縄及び北方対策担当大臣
仲井眞弘多沖縄県知事の公約違反に抗議し、辞任を求める決議
仲井眞知事は去る12月27日、国が提出した辺野古埋立申請を承認した。これは、選挙で「県外移設」を掲げた政治家としての公約違反であり、県議会が重ねて全会一致で求めてきた「県内移設反対、普天間基地は国外・県外移設」とする決議を決定的に踏みにじるものである。
療養のため欠席した県議会がまだ開会している中、上京し、政府首脳との会談で本県議会に何らの説明を行わないまま「承認の4条件」と称されるような要請を唐突に行うなど、その手続は議会軽視であり、許されない。また、「驚くべき立派な内容」「140万県民を代表して感謝する」などと県民を代表して謝意を述べ、米軍基地と振興策を進んで取り引きするような姿がメディアを通じて全国に発信されたことは屈辱的ですらあり、県民に大きな失望と苦痛を与えた。
加えて、埋立承認によって米軍基地建設のための辺野古の埋め立てにみずから道を開きながら「県外移設の公約を変えていない」とその非を認めず、開き直る態度は不誠実の極みであり、県民への冒瀆というほかない。
かつて、これほどまでに政府につき従い、民意に背を向けた県知事はいない。戦後69年、復帰後42年を迎えようとする中、昨年1月の県民総意の「建白書」に込めた決意を否定し、県民の中に対立を持ち込むもので、言語道断である。
沖縄の自立を遠ざける方向へ後戻りを始めた仲井眞知事にもはや県民代表の資格はないと断ぜざるを得ない。知事は、公約違反の責を認め、その任を辞して県民に信を問うよう求める。
以上、決議する。
平成26年1月10日
沖縄県議会
沖縄県知事 宛て
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11月22日に沖縄県名護市議会で議決された「普天間飛行場代替施設建設事業公有水面埋立承認願書に対する名護市長意見」の冒頭と結びの抜粋を紹介します。
(「しんぶん赤旗」2013年11月23日より)
普天間飛行場代替施設建設事業公有水面埋立承認願書に対する
名 護 市 長 意 見
1966年、橋本・モンデール会談により普天間飛行場の返還が合意されました。しかしそれは、県内移設という条件付きであり、多くの県民を落胆させました。
移設候補先となった名護市では、住民投票で半数以上の市民が反対する中、普天間飛行場の代替施設受入れ表明に始まり、七つの条件の提示、V字案での基本合意など、長きにわたりこの問題に大きく翻弄(ほんろう)され、市民が建設反対・容認で二分され続けてきました。
あれから17年、この状況に終止符を打つべく、私は「辺野古の海にも陸にも新たな基地は造らせない」という公約を掲げ、2010年1月、市民の負託を得て市長に当選いたしました。これは沖縄県における民意の転換点であったと自負しております。時期を同じくして、「最低でも県外」を掲げた民主党が政権を担い、多くの県民が普天間飛行場返還の実現に大きな期待を抱くとともに時代の転換を確信しました。しかし、その公約も「辺野古移設回帰」という形で、もろくも崩れ落ち、県民は再度失意のどん底に突き落とされることとなりました。
この「辺野古回帰」は逆に県内移設反対への大きなうねりとなり、沖縄県議会の「国外・県外を求める超党派の意見書」全会一致の決議や名護市議会議員選
挙による与党多数、参議院議員選挙、そして沖縄県知事選挙と、沖縄県民の民意となって現れることとなりました。また、「オスプレイの配備撤回と米軍普天間飛行場の県内移設断念を求める『建白書』」を安倍晋三首相に手渡した2013年1月の東京行動には、沖縄県内全41市町村長が参加し、いまや普天聞飛行場の県外移設は県民の総意となっています。
本意見書作成にあたり、市民生活への影響について、行政組織として調査するとともに市民の声を直接聴取いたしました。これらを総合的に判断した結果、新たな負担を強いる基地の建設を認めるわけにはいかない、ということを確信いたしました。
普天間飛行場代替施設建設事業に係る公有水面埋立について、事業者である国は「環境保全への配慮は適正であり、環境保全の基準又は目標との整合性も図られていると判断した」としていますが、環境保全に重大な問題があり、沖縄県知事意見における指摘のとおり、事業実施区域周辺域の生活環境及び自然環境の保全を図ることは不可能であると考え、本事業の実施については強く反対いたします。
〈むすびに〉
名護市では平成25年9月に「名護市環境基本条例」が議決されました。その中で「誰もが先人たちから受け継いできた豊かな環境によってもたらされる恩恵を享受し、良好な環境の中で生活を営む権利を有しているとともに、自然環境の保全及び生活環境の創造によって、良好な環境を次世代へと継承する責務 がある」と「環境権」があることを宣言しています。名護市民はその「環境権」のもと、良好な環境の中で生活する権利を有し、それを次世代に継承する責務があります。
私たち県民は、68年にも及ぶ米軍基地及び軍人・軍属による事件・事故等の危険・不安にさらされ、人権をも脅かされる生活を強いられてきました。これらの不合理・不条理さは既に我慢の限界を超え、異常事態と言わねばなりません。いくら国防と言えども、一地域に犠牲を押し付け、地域住民の声を無視し、蹊踊(じゅうりん)することがあってはなりません。
よって、市民生活の安心・安全、市の財産である自然環境の保全、未来を生きる子どもたちのため、そして私たち名護市民の誇りをかけて、「普天間飛行場の辺野古移設」に断固反対する、これが名護市民の強い決意であります。
≪解 説≫
沖縄県名護市議会は22日、米軍普天間基地(宜野湾市)に替わる新基地建設のための名護市辺野古沿岸部の埋め立てに強く反対し、県知事に承認しないよう求める市長意見を賛成多数(賛成14、反対9、退席2)で可決しました。
A4判23ページに及ぶ市長意見は、危険なオスプレイが環境影響評価の手続きもないまま安全だとして強行配備されたことなどを指摘。埋め立て事業は▽公有水面埋立法の定める環境保全、災害防止への配慮義務を満たしていない▽ジュゴン、ウミガメの生育環境を脅かす事実の隠ぺいをはじめ事業そのものが不適切―の2点を挙げ「埋め立て周辺域の生活環境、自然環境の保全を図ることは不可能」と強調しています。
市長意見には、市が文案作成にあたって8~10月、市民から募った意見約2500件のうち特徴的なものを6ページにわたり紹介。「辺野古のキレイでジュゴンがいる海がなくなるのは、いやです」など、子どもから高齢者まで圧倒的多数を占めた新基地建設反対、十数件にとどまった賛成の市民意見を盛り込み、市長意見を裏付けました。
稲嶺ススム市長は、提案に際して意見の冒頭と結びを読み上げ、「名護市民の誇りにかけて『普天間飛行場の辺野古移設』には断固反対する、市民の強い決意です」と締めくくると、傍聴席に入りきれないほど駆け付けた市民の中には涙ぐむ姿もありました。
稲嶺市長は議会後、記者団に「市長の意見というだけでなく議会の承認を得たことで大きな重みがある」とのべ、埋め立ての可否を判断する仲井真弘多(ひろかず)知事に意見を尊重するよう求めました。
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