東日本大震災関連

2017年3月 9日 (木)

国・東電の責任を明らかにし、住民に寄り添った施策を

 東日本大震災から6年を迎える今、原発事故への対応について、現状をどう認識し対応すればよいのだろうか指針がほしいと思っていました。3月8日原発事故と人権ネットワークが緊急提言を行ったことを知りました。
 早速、全文と要旨をよんで総合的な指針が示されているように思いました。
要旨を紹介させていただきます。

 原発事故と人権ネットワークは、原発事故被害の賠償訴訟の弁護団や、法律家、科学者、ジャーナリストなどの11団体で構成されています。

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「国・東電の責任を明らかにし、住民に寄り添った施策を― 原発事故6年を経過するにあたって、私たちの緊急提言」の「要旨」は次の通りです。

                                    2017年 3月 8日
                                     原発と人権ネットワーク

1:あらゆる政策について、行政区画による官僚的、画一的な対応を改め、実態に即した対応をすること。

政府の施策の最大の問題は、地域や生活の実態を詳細に見ることなく、住民を行政区画や地域で分断し、一方的に、補償など復興施策や帰還政策の「線引き」を行っていることです。この姿勢を改め、被災者ひとりひとりの実態を直視した対応が求められています。 今回の事故に対する政府・東電の対応は、端的に言って、「差別」と「分断」です。原発による放射能汚染状況は、エリアと自然状況で、区別されることはあっても、それ以外で違いが出てくるものではありません。
ところが政府の対策は、自治体やその中の「字」の違いで、避難についても補償についても「差別」し、住民の中に亀裂を生みました。道一つ隔てて、あるいは、入り組んでいても、地域的なコミュニティが形成されていても、一切お構いなしで、行政区画による官僚的な「対策」が進められました。その結果、住民の間に深刻な溝ができ、被災者の中に「差別」が生まれています。

2:帰還政策では、指定解除、住民帰還と補償を結びつける考え方を捨て、現実に被災者の生活が成り立ち、事故前と同様な生活が可能になるよう、生活補償を継続、拡充すること。

国は、「除染」を実施し、「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」について「安全が回復された」として一方的に「安全」を押しつけ、帰還を強制しています。
しかし、この政策は不合理で、著しく住民を苦しめています。なによりも、指定を解除し「帰還可能」とすることと、補償の打ち切りを結びつけることで避難者に「帰還」を強制しています。しかも、この強制が上記1の「線引き」を前提に、画一的に推し進められていることが更に被災者を苦しめることとなっています。
こうした「帰還」を強制する政策は直ちに中止し、全ての被災者に、その必要性と実態に合った補償を継続・徹底すべきです。

3:指定区域外の避難者(「自主避難者」)への住宅供給措置の打ち切りを中止し、これまで通り住居を確保、生活を保障すること。

原発事故で、避難の指定を受けた地域以外からも、多数の避難者が全国に避難しています。「自主避難者」と呼ばれ、あたかも自分たちで勝手に住居を移したような見方さえされています。これらの人たちにも、住宅支援などがされていますが、政府、東電はこの3月、この住宅支援を打ち切ろうとしています。
家を失うことは、生活が破綻するということであり、人間の「生きる権利」を奪うものです。国と東電は、被災の実態を見ずに人々の住居を一方的に奪うことをやめ、その責任において被災者の「生きる権利」の保障に向かうべきです。

4:営業損害賠償にも、さらに積極的に対応をすること

営業損害賠償についても、「原発事故との相当因果関係が必要だ」との主張から、要求があっても支払われなかったり、減額されたり、打ち切られる例も広がっています。
原発事故が事業に与えた打撃が明らかである限り、無条件の賠償がされるべきです。

5-1:健康対策については、行政区画による住民への選別、差別をやめ、予防原則に沿って、地域の放射能汚染調査と住民の健康調査を徹底させ、生活支援、医療費の無償供与などを実施すること

原発事故による放射能汚染は、政府、東電の調査による地域だけでなく、福島県全域、あるいは近接各都県のホットスポットの存在など広範に広がっています。政府、東電は、行政区画による住民の差別、選別をやめるとともに、その被害が後日どんな形で現れてくるかわからないことを前提にして、予防原則に沿って、対策を進めるべきです。
政府は、まず、自治体の協力を得て、福島にとどまらず、環境省の放射能汚染状況重点調査地域の全てを含め、地域のモニターを増やしてデータを蓄積していくべきです。必要な地域全域、全戸の汚染状況を調査し、全住民の健康調査を実施し、これからの被害対策に役立てていくべきです。
また、甲状腺がん、呼吸器疾患などについて、科学的な因果関係が十分証明されない状況でも、十分な対応が必要です。

5-2:健康手帳の配布、それを活用できる体制の整備につとめること

健康調査をどこでも誰でも、無料で受けられる制度と体制を作り、被害が明らかになった場合には、十分な手当がなされるようにすべきです。
そのためには、被災の可能性が出ている全域にわたって、健康手帳を配布し、活用できる体制を整えるべきだと考えます。
健康調査の実行にあたっては、これまでも、住民個人に調査内容を伝えなかったり、客観的データを公表しなかったり、地域や各住居の調査が方法は曖昧だったり、問題が指摘されています。こうしたことがないよう、積極的な対応が求められています。

6:住民の被害について、単なる経済的な積み上げだけでない調査を徹底すること。指定区域外からの避難者も含め、改めて被害の実態を調べ、責任を持って対応すること

原発事故の被害は、単にこれまでの住居や生活を奪われるということではなく、被災者の人生、そして地域の人々のつながりや自然とのかかわり、祖先や古くからの伝統とのつながりなど、ふるさとの文化そのものを破壊しました。
避難した住民は、指示された人も、されなかった人も、事故がなければ自らの責任でそれぞれが希望を持って生活していたはずです。何の理由もなくその生活を奪われた被災者は、いくら賠償金を積まれても満足できません。「謝れ、償え、原発をなくせ」という要求は、こんなことが世界中、どこでも再び起きない確約で初めて癒されるでしょう。
破壊されたのは、ふるさとの文化であり、金銭に換えられるものはわずかです。国、東電は、そのことに思いを致し、経済的な積み上げでははかれないこうした被害の実態に正面から向き合い、責任を持って対応すべきです。

7:被災者については、指定区域内、指定区域外からの避難であることにとらわれず、今後の生活設計での自主的選択を尊重し、選別、差別なく対応すること

既に「差別」の問題を指摘したように、原発事故が引き起こした大きな問題のひとつは、住民の中に、避難した人、残った人の生活上の事情や、区域の線引きによる補償などによって、感情的な齟齬が生まれたことです。政府、東電はこれを利用して責任を回避する姿勢を続けています。事故を受けて、10数万の県民が避難し、190万の人は避難はしませんでした。しかし、どちらの場合も健康不安やコミュニティの破壊、喪失、そして変質、変容に直面し、苦しんでいることに変わりはありません。
原発被害はいまなお継続、拡大しており、被害は回復していません。しかし例えば、仮に被害回復の方策が見つかり、十分の補償がされたとしたとしても、新しい土地での生活を発展させるか、帰還して生活を再建するかの選択は、被災者個々が自主的に判断するべきであり、国、東電の対応策は、このことを尊重したものでなくてはなりません。
事故から既に6年、被災者の事情も、周囲の環境も変化しています。この観点に立って、国と東電は、被災者ひとりひとり、個々の事情を丁寧に聞き、対応策を講じるべきです。

8:住宅地のほか、農地、山林、動植物の汚染についても、正確な調査をし、必要な対策を講ずること

福島県内の「除染」作業は、住宅の周辺、道路、公共施設などを中心に進められ、一定の効果を上げているとみることができます。しかし、「除染」は、20ミリシーベルトを基準として行われていますが、「除染」した地域でも、放射能汚染は残り、生活条件は整備されていません。その土地で、元の生活を営む条件が整ったとはとても言えません。
にもかかわらず、国は「除染」によって安全が回復された、と一方的に「安全」を押しつけ、帰還を強制しています。
もともと事故によって、放射性物質がどう飛散し、地域がどう汚染されたかについて、継続的なきちんとした調査行われていません。例えば、各地で記録されている線量計のデータにしても、地表や違う高さについてはわかりませんし、一層きめ細かく記録され、継続的に住民に知らされることが必要です。
「放射性物質は無主物」(なのだから東電として責任を負わなくて良い)などといった詭弁を弄することなく、法的責任の上に立って、徹底的な継続調査を実施し、その上で対策を講ずべきです。
「里山除染」「フォローアップ除染」などはどうしても必要ですし、新しい技術開発も必要でしょう。除染が届かない農地や山林の汚染、自然界に生息する動物たちの汚染に対応した管理体制も必要です。

9:中間貯蔵施設の設置については、あくまでも住民の意思を尊重し、正確な情報をもとに丁寧な合意形成に努めること、

現在、福島県内の各所では、フレコンバックに詰め込まれた放射性廃棄物が住居に隣接する農地などいたる所に仮置きされています。一部で中間貯蔵施設の建設が急がれていますが、設置に当たっては、住民の意見に十分耳を傾け、住民同士の合意形成を最大限尊重しながら、進めるべきです。
中間貯蔵施設については、搬入から30年以内に県外で最終処分するとされていますが、その点に住民は極めて大きな不安を持っています。正確な情報をもとにした丁寧な合意形成に努めるべきです。
また、「安全が回復された」として避難指示解除準備区域及び居住制限区域を解除し、帰還を強制しようとする政策は、廃棄物を現状のままにしては、帰還者に放射性廃棄物とともに生活することを強いるに等しいもので、はなはだしい人権侵害と言わなければなりません。少なくとも中間貯蔵設備の設置が現実化し仮置場が解消するまでは帰還を事実上強制するような政策は採るべきではありません。

10:国と東電は、福島第一原発の事故収束、廃炉作業の方針について、少なくとも100年―200年単位の長期的見通しを持って、冷静に解決策を検討し、住民の理解を得つつ、放射能の飛散がこれ以上ないよう、事故炉を遮蔽、隔離する方策も検討すること

昨年3月、福島大学で開催した第3回「原発と人権」全国研究・交流集会では、破壊された事故炉の活動をどう収束させ、廃炉にするかについての「中長期ロードマップ」について深刻な疑問が出されました。燃料の取り出しから廃炉作業を経て更地にするという道筋はとても、30-40年で達成できるものではないと指摘され、「環境への放射性物質放出と被曝労働、費用を最小にするには、当面放射能を隔離・管理する作業をし、燃料取り出しは100-200年後に行うべきではないか」という意見も出されました。
被災住民からすればそのような意見を容易に受け入れられないことは当然ですが、核燃料がメルトダウンし、炉を破壊する事態になっている現在、私たちの世代で「福島原発事故」を解決できないことは明らかです。
事故を起こした私たちの世代で、この問題が解決できないこと、結局、事故現場の周辺の住民に世代を超えた負担を負わせることになることは、非常に残念なことです。しかし、私たちはこの事実を事実として受け止め、こうした処理の方法も冷静かつ真摯に検討すべきであり、周辺の住民の生活再建についても、事故の収束、廃炉作業の見通しを前提に検討しなくてはなりません。原発をどうしていくか、の議論を深めていくためにも、この方策について、国民的な論議を起こしていくべきだと考えます。

11:自治体は国の施策に追従するのではなく、主体的に住民の要求を組み上げ、住民の立場に立って国と東電に対応策を要求すること

今回大きな被害を受けた自治体は、これまで原発を地域開発の重要な施策と位置づけ、国策に沿った形で原発を推進してきました。しかし、その政策が誤りだったことが明らかになったいま、国や東電の無責任な姿勢を住民の立場から糾し、地域と住民の要求を実現するため先頭に立って努力することが求められています。具体的な施策について、自治体は国の施策をこなして住民に伝える姿勢ではなく、住民の要求から出発した施策を国や東電に求める姿勢に転換すべきです。例えば、福島県内の自治体は、全県民の要求である「福島全原発の廃炉と自然エネルギーへの転換」の運動の先頭に立つべきです。
地震、津波から原発の破壊に至った事故発生のメカニズム、原因も依然、明らかではありません。廃棄物処理、残土処理の長期的見通しもあいまいです。自治体はこれらについて、情報公開を徹底し、国や東電に積極的に働きかけていくことが求められています。

12-1:原発労働の中間搾取などの違法な実態を改め、労働者の健康管理を徹底すること。

原発労働については、事故直後こそさまざまに語られましたが、その後は忘れられたように放置されてきています。しかし、ますます危険になりかねない労働が、幾重にも積み重ねられた下請け構造の中で、作業費も中間搾取されている状況は変わっていません。
政府は原発労働者の契約関係と作業実態について、労働法規に基づいて調査し、違法状態を改めるとともに、除染労働者について健康管理を徹底すべきです。これは急務です。

12-2:除染労働についても、同様に作業と健康の管理を徹底すること

除染に当たる労働者の契約、作業形態、被曝状況についても、ほとんど明らかにされないまま行われ、健康についても十分管理されていない状況があります。原発労働者と同様に線量計の携帯による対応策、健康管理の徹底が必要です。

13:問題解決のための費用負担について、十分な情報公開の下で、道筋を明確にし、国民合意の中で進める方針を確立し、議論を始めること。

原発事故の被害については、原子力賠償責任法で措置することが決められ、50億円からスタートしましたが、既に1961年には原子力産業会議は、最大3兆7300億円と計算していました。現在の事故の損害額は21兆5000億円とも25兆円とも言われています。この費用を最終的にどこが負担するか。東電を破産させて国が補償しても、また電気料金に上乗せすることにしても、どちらの場合も、国民が負担しなければならないことは間違いありません。このことを明確にし、国と東電は法的責任を認め、その上で、国民的な議論を起こし、民主的な解決策を示すべきです。
さらに、国は原発再稼働を推進していますが、新たな原発事故が起きた際の備えをほとんどしていません。たとえ再稼働していなくとも、核燃料がある限り事故の可能性はあり、早急に資金的な賠償の備えを強化すべきです。

pencil 原発と人権ネッワークのホームページは
http://genpatsu-jinken.net/

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2016年12月25日 (日)

木村汐凪(ゆうな)ちゃんの遺骨一部みつかる 12月25日

 木村紀夫さんは、妻の深雪さん次女の汐凪(ゆうな)ちゃん(当時7歳)お父さんの王太郎(わたろう)さんの3人が東日本大震災で行へ不明になり深雪さん王太郎さんは発見されましたが汐凪ちゃんだけはみつからず、ずうっと探し続けてきました。

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 私は木村紀夫さん家族のことは忘れないできました。
今朝、テレビをつけると木村汐凪ちゃんの遺骨の一部が9日に発見され、DNA検査で本人であることが22日にわかったそうです。
 一部でもようやく見つかってよかったと思いました。ご冥福をお祈りします。

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木村紀夫さんは「全部見つかるまでやりとげたい」と決意を述べていました。

私が忘れられない木村さんの言葉があります

2011年5月半ばに東電が謝罪と補償の説明会を行いました。
その席で木村紀夫さんは
「大熊町で行方不明者が全く捜査されていません。東電で経営に携わっていた方々に、原発近くの夫沢地区の捜査にはいっていただきた。これは要望でも何でもなく我々の命令だと思って下さい。検討する余地はないと思います」

 今も依然として原発事故の原因は究明されず、避難解除が次々と強行され、被災者の生業、生活はないがしろにされており、東電と国は最後まで責任をとるよう求めます。

 

 

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2016年3月15日 (火)

もう一度あの場所に家族の家を建てるんだ  3月15日

大震災から5年が経ち、3月11日NHKのおはよう日本で、鈴木堅一さんのその後が放送されました。
 私も心に残り、2011年3月20日と、2013年3月21日にブログに掲載しました。

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 鈴木堅一さんは釜石で、妻の信子さん息子の健幸さんおよめさんの奈津子さん、まご娘の理子さん4人の家族が大震災で犠牲となりました。

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48年活動してきた消防団を退団

 あの日から5年、消防団の活動で家族を守れなかったという思いが頭から離れることはありませんでした。

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消防団辞めていれば助けたのかなあ。みんな逃げたのか思ったりね。

あれだけの災害を目のあたりにして、どっちさ行ったら正しかったのか、わかんねえな。

震災後も消防団を続けてきた鈴木さん。活動の度に家族を思う心の痛みが強くなっていました。

 

鈴木さんはある決断をしました。消防団を辞めることにしたのです。

住宅再建が見え始めていま、残りの人生を家族だけのために使いたいと区切りをつけることにしました。

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退団届を3月になって書く

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最後の出初式
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あの場所に家族の家を建てるんだ

再建すると誓った我が家。変わらぬ家族への思いが鈴木さんの人生を後押ししています

家があった場所でした。
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大切に持っているのは、妻の信子さんが一番好きだった花の種。
家を建てたら花でいっぱいにして、家族を喜ばせたいと考えています。

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シラネアオイ
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花咲くまでに3年かかるから、今がんばって、これを大事にして

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仮設住宅には理子さんのランドセルが

楽しみながらね、くよくよしたって、もう、どうにもなんねえから

まあ、がんばりますよ
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happy01 鈴木堅一さん、夢が実現するまで応援していますから。










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2016年3月14日 (月)

忘れていないよ、長野県栄村のこと  3月14日

栄村のみなさん、あの日から5年が経ちましたね。
 
 私は長野県上田市で生まれ育ちました。故郷の出来事にはいつも気をくばるようにしていて、12年12月11日のブログに栄村へのエールの気持ちを書きました。
決して忘れることはないけれど、時間とともに記憶が薄れていくのが現実です。それでも節々に記憶を新たに、新しく進んでいることを知らなければと思います。

 3月13日(日)NHKの放送で、震災から満5年の栄村の事を伝えました。

それを見て、聞きながら、各地の被災地や被災者のみなさんが今も、様々な苦難と立ち向かいながら生活していることに思いを寄せました。

 それでも栄村のみなさんは、力を合わせ復興への道を進んでいる、そう感じました。
NPO法人栄村ネットワーク 栄村復興への歩みが、次のように書いています。

「震災から満5年、真の復興への住民の力が底の底から湧き出てきたと言って過言ではないだろうと強く感じました。」

と。そういう息吹を感じるのです。

これからも、応援します。

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2016年3月11日 (金)

被災者の願いを正面から受け止め、寄り添っていきたい

 2011年3月11日、午後2時46分、生まれては初めての大きな地震に唖然としました。

 あれから5年が経ち節目の年となりました。あらためて、犠牲になられたみなさんに心からの哀悼の意を表明いたします。

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(仙台市若林区)
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(南三陸町防災センター前)

あの日
何回も大きな揺れがきました。外に出ると道路に自転車の女性が座り込んでいました。声をかけ励まし、揺れの収まるのを待ちました。側の東武線の架線が大きく揺れていました。

 揺れがやんだので家に入り、テレビを付けました。そして、宮城県東松島市に住んでいる兄のことが心配になり電話を何回もかけなおしましたが通じませんでした。その後、いろいろのつてを通じて何とか元気にやっているらしい、ということはわかりましたが、連絡はとれませんでした。3月21日、東松島市の市議会議員に連絡が取れ、兄の家を訪ねてもらい、兄が1人で元気にやっていることが確認できました。そして、3月28日にようやく電話で兄と話をすることができました。
 この経過で、私の兄弟、兄の子どもたちが、かつてなかったことですが、みんなで協力し合い兄の無事を確認できたのでした。

 私の小さな経験からしても、東北地方や震災と原発事故に遭われたみなさんの、苦難は計り知れないものだったと思います。5年経った今日、そう感じています。

 昨夜、安倍首相の震災5年を前にしての記者会見がありましたが、「○○○計画」なるものをいくつも挙げられていましたが、空疎に感じました。記者の質問にもまともに答えていませんでした。現被災者が置かれている現実を理解していない。これで、被災者のみなさんの本当の願いを真剣に受け止めているのだろうか。怒りさえわいてきました。もっと真剣に被災者の声を正面から聞いて、寄り添った政治をすすめてほしい。強く思いました。

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2015年9月11日 (金)

東日本大震災4年半、忘れてはいけないこと  9月11日

記録的大雨で茨城県常総市の鬼怒川堤防が決壊する大惨事になっています。

 私の記憶ではこんな気象現象に出会ったのは初めてのような気がします。原因は〝線状降水帯〟という気候現象からのようです。我が家から9日の夕方には西の空が夕焼けに染まっていました。これで山を越えたかと思っていたら、とんでもない。驚くようなすごい音をたててて集中雨、それがやみ、しばらくすると、集中雨、なんど繰り返したでしょうか。
201509105201509103心配したように、茨城県常総市で鬼怒川が決壊する大災害になりました。常総市議会では堤防の危険性がわかっていて、国に改修の要望を出していた最中だといいます。

 根本的問題として地球の温暖化対策は待ったなしの危急の問題になっているのではないでしょうか。
 この異常気象が、東日本大震災から4年半の直前に発生し、テレビ、ラジオで放送される映像を見たり聞いたりして、多くの方が思い起こしたではないでしょうか。私は、東日本大震災で今も大変な状況下に置かれた人々のことと重なって思われました。

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eye  9月13日付の「しんぶん赤旗」日曜版が届き、読んでいくと私の眼を止めた記事がありました。

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そして、もうひとつ福島原発事故と立ち向かっている人たちの記事でした。

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 女子中学生の母への思いを読んで、私の中にもある意識とダブったのです。

 大震災当時のような被災地への思いはうすれていってしまうということでした。忘れることは決してありませんが、意識していないと、記憶がうすれていってしまうように思うのです。

 政府が進めようとしているのは、被災者が置かれた現状に全く合わない政策方針ばかりが押し付けられようとしているではないでしょうか。
 原発事故の原因究明もしないまま、除染もあいまい、保障は中途半端で打ち切る、原発再稼働は強引にすすめる。こんなことはどうしても許せません。

 今回の自然災害から、東日本大震災の教訓から真剣に学び生かさないといけないと強く思うのです。

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2015年3月12日 (木)

しっかり前を向いて生きていきたい  3月11日

菅原彩加(さやか)さん(19)のことば

東日本大震災4周年政府主催追悼式

2015年3月11日


 
私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。

150311_2 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。

 

あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

 

  しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

 

  そんな体験から今日で4年。

 

  あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今もまだ夢の様です。

 

  しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。

 

 震災で失った物はもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。

 

  最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。

 

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2015年3月11日 (水)

これからも被災者のみなさんによりそって  3月11日

生活と生業再建に公的支援をしっかりと続けてほしい

東日本大震災と福島原発事故から4年となりました。

1万5891人が亡くなり、いまだ2,584名が行方不明です。
犠牲になられた方々と遺族のみんさんには追悼の気持ちでいっぱいです。

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避難者は全国で22万9000人。
福島では東電第一原発事故が終息せず、汚染水の流出は止まりません。県外に4万7219人、県内に7万1755人合わせると12万人近くの人々が避難生活をよぎなくさせられています。

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表からは見えない深刻な実態が明らかに


 NHKが3月8日に放送した東日本大震災「震災4年 被災者1万人の声」を見ました。NHKと早稲田大学が共同して、岩手、宮城、福島で5万5千人にアンケートを配布し1万人から回答をえたそうです。
 

「先が見えない。いつまで続くのか。出口がない。何も変わらない」という声。

● 経済状況
 とても困っている  21%
 少し困っている   47%
 あまり困っていない 26%
 全く困っていない   3%

● 住まい
 非常に不満     22%
 多少不満      36%
 まあ満足      29%
   満足       3%

● 持病が悪化   はい 35% いいえ 65%            
● 新たに病気に  はい 40% いいえ 60%
      (この調査は仮設住宅住民が対象)

 この数字はアンケート結果からの一部ですが、これが、圧倒的多くの被災地の皆さんの実態なのではないでしょうか。
 被災者の生活再建まで、継続した公的支援がいまこそ求められていると思います。
一人も残さずにです。100人いば、100通りの問題をかかえているわけで、よりそうことが必要だと思います。

 私も、努力を続けるつもりです。


happy02 日本共産党の志位和夫委員長が「〝すべての被災者の生活と生業の再建〟に国が全力をあげることを求めます」の談話を出しました。私たちの思いに応えてくれる内容です。どうぞお読みください。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-03-11/2015031102_01_0.html
 

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2014年9月30日 (火)

福島・原発避難自殺訴訟判決の意義  9月30日

福島・原発避難自殺訴訟判決の意義
  原告弁護団共同代表  広田次男さん

 原発再稼働に突き進む安倍内閣に痛打を与える司法の判断が再び下りました。原発事故による避難と自殺の因果関係を認めた福島地裁判決(8月26日)です。被告の東京電力も9月5日に控訴を断念しました。原告弁護団の共同代表・広田次男さんに、判決の意義と今後のたたかいについて聞きました。
             (聞き手 阿部活士)
    「しんぶん赤旗」2014年9月8日付 「焦点・論点」より

Fukushimahanketsu1

東電事故責任を明確に断罪
原発差し止め訴訟にも影響

―問い― 判決は仮設住宅などの
被災者を励ます明るいニュースでした。 

私たちは、川俣町山木屋で生まれ、子らを育てあげた渡辺はま子さん(当時58歳)が「被告(東京電力)の福島原発で発生した放射性物質放出事故により避難を余儀なくされたことなどが原因で自死した」と主張しました。

    丁寧に検証

 判決は、労災認定に活用するストレス評価表を用いながら、丁寧に検証しています。山木屋地区が計画的避難地域に設定されたため、生まれ育った地域を離れたストレス。仕事(養鶏場)もなくなったストレス。子どもらと別居し住環境の違うアパート住まいのストレス。いずれも人生のなかでまれにしか経験しない強度のストレスだったと指摘しています。
 その出来事に「予期なく、かつ短期間に次々と遭遇することが余儀なくされた」「自死と本件事故との間には、相当因果関係がある」と、明確に東電の責任を断罪しました。東電が放射性物質放出事故を犯した行為は重いと判定したわけです。

―問い― 脱原発の運動にも影響を与えるとも。

 とくに、判決が次のように踏み込んだことを評価しています。
「被告(東電)は、原発が仮に事故を起こせば、核燃料物質等が広範囲に飛散し、当該地域の居住者が避難を余儀なくされる可能性があることを予見することが可能であった」
「避難者が様々なストレスを受け、そのなかにはうつ病をはじめとする精神障 害を発病する者、さらには自死に至る者が出現するであろうことについても、予見することが可能であった」
 この予見可能な対策をとらないかぎり、原発の再稼働はできないし、設置もできないとクギをさしたのです。一つの損害賠償裁判の、判決にとどまらず、原発差し止め訴訟まで大きな影響を与えます。

   被害者目線

基礎的な判決の姿勢として大事なのは、被害者の立場に寄り添っていることです。被害者の目線からの判決。たとえば、最後の部分には次のようにあります。「58年余の間生まれ育った地で自ら死を選択することとした精神的苦痛は、容易に想像しがたく、極めて大きなものであったことが推認できる」と。

―問い― 血の通った判決に
       東電も判決に服することになりました。

 彼(夫で原告の幹夫さん)は、自殺から半年後に私のところに訪ねてきまし
た。〝おれはいったいどうしたらいいんだ〟と、心の整理がつかなくて、迷いに迷っていました。
 何回も話を重ねました。私は、彼の気持ちをくんだ長い手紙を東電に書きました。しかし、答えは1枚限り。「要求にはいっさい応じられません」というもの。東電はソロバン勘定だけの冷たい対応でした。
〝では、明るい女房がなんで自殺したのか〟。彼は悔しい思いで裁判に踏み切りました。
人の死は、もっとも尊厳をもって扱われなければならないことでしょう。たとえば社長がお線香をあげる、墓前に行く。いわば、彼の閉ざされた心を人間の心として開くような行動が東電にあったら、こんなことにはならなかったでしょう。
 石原伸晃環境相(当時)が「金目でしょ」と発言したように、国も東電もわかっていないです。被害者の気持ちが。問うているのは、「金目」の話ではない
のです。
 彼は、「どんな判決文になっても、はま子はもどってこない」と私にいいました。どの災害とも違う原発事故の本質をつく言葉です。原発でひとたび事故を起こせば、古里も地域社会も〝もどってこない〟。幹夫さんに限らず、被災者だれもが日々思う喪失感です。

   完全救済を

 東電は、その加害者なんです。今回、この判決に従ったことは一定評価しますが、被災者は渡辺さんひとりではありません。私たち弁護団は、「控訴断念」について声明を発表し、東電にたいし「判決を真摯にうけとめ、原発事故がもたらした被害の実相を正しく埋解し、すべての被害者の完全な救済を果たすこと」。を求めました。今後の東電の動きを注視したいですね。

―問い― 判決を力に原発ノーのたたかいを広げたいですね。

 B型肝炎、薬害など被害者が弁護団とともに裁判に立ち上がり、判決を積み重ねるなかで解決方式を生み出してきました。原発被害者も、この方式をとるべきです。
 原発事故は史上最大級で最悪の被害をもたらした公害です。国家権力が起こした公害犯罪にたいし、私たち在野法曹の視点から起こした訴訟を通じて、賠償でも原状回復でも、その基準が確立されるべきです。
 自殺や関連死であれば、裁判所が一定の基準金額を決めて、被害者が訴え出ればそれが自動的に出る形をつくる。これが方向性です。今回の利決は、一つの基準ができたともいえます。
 原発ノーのたたかいでは、意識的に廃炉の訴訟だけはやらないんです。被害地・福島の責任として、世論で廃炉をかちとる超党派の運動をつくらなければ、恥ずかしいと思っているからです。共産党が提唱している「一点共闘」ですよ。
 元福島県知事の佐藤栄佐久氏、作家の玄侑宗久氏らが呼びかけ人になって「県内の全原発の廃炉を求める会」結成されました。その活助を無党派市民の方々まで広げたいですね。

―問い― 多忙ななか精力的な活動を支える源は。

安全神話とダーティーマネーで築いた巨大な利権構造とブラック企業の体質―。東電・原発問題は、いまの社会のすべての矛肩が集約されています。そこにとどう立ち向かうのか。社会正義を実現する弁護士として当然の仕事です。
 私の個人的な思いもあります。全学連を再建させた世代です。原発事故以来、大字で学生運動をした活動仲間が、いわき市内にある事務所で毎年激励会を開いてくれています。ありがたいものです。その友情を誇りに、青春に恥じない、負けられない一戦なのです。


happy02 私は9月8日の「しんぶん赤旗」に掲載された広田次男さんの記事に感銘をうけました。この内容を一人でも多くの人に知ってほしいと思い掲載させてもらうことにしました。

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2014年3月22日 (土)

地震、津波、原発事故に今も立ち向かう人たち 3月22日

Fukushima1

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

coldsweats01 旅は3月9日から11までの3日間でしたが、私は10日の朝から体調が崩れ、必死の思いで旅を続けましたが、浪江町の「希望の牧場」でリタイアし、帰途につかざるを得ない状況になりました。11日の相馬市「野馬土」の農民連直売所、大野台の仮設住宅での交流、南相馬市の追悼式に参加することが叶わず残念で残念でなりませんでした。
 それでも、福島の現場に一度行ってみたいと願ってきた私にとって、初めて被災地の現場に入って、自分の目で見て、聞いて、感じることのできたすばらしい旅でした。
 なによりも、感動したのは、地震、津波、そして人災である原発事故という三重苦に、明るく果敢に諦めずに、立ち向かっている人たちと出会うことができたことです。
 この地域にこそ政治の温かい援助が一人々の実情にあった形で全ての人に届けられなければならないのではと強く感じました。


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(浪江町で初めて見えてきた福島第一原発の姿です)
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(これが浪江町の現実=右側遠くに請戸小学校。犠牲になられたみなさんに哀悼の気持ちをお伝えします)

   被災地の最前線に立って
 福島原発事故はいまだ炉心溶融の原因も解明されず、放射能汚染水漏れは続き非常事態が続いています。除染は進まず、14万人もの人々が故郷を追われ避難生活を強いられ、震災関連死が地震・津波の直接被害で亡くなった人を上回るという、先の見えないつらい現実です。そこに政府の上からの線引きで格差を持ちこみ、住民の分断と幕引きをはかろうとする動きが強まっているように感じます。空間的にも、時間的にも、社会的にも被害が広がり続けるという「異質な危険」があるということを、あらためて強く感じました。「即時原発ゼロ」の政治決断をし、福島の復興に国をあげてとりくむべきではないでしょうか。

3月10日(月)

午後からバスの3号車に
農民連(農民運動全国連合会)・農事組合法人浜通り農産物供給センター、MPO法人野馬土(のまど)代表理事 三浦広志さんと石田さんが同乗し、三浦広志さんが説明をし案内してくれました。

《原発事故被災地の区域は、○避難指示解除準備区域 ○居住制限区域 ○帰還困難区域の3つに分けられている》

 昨日、兵庫県神戸の原発ゼロをめざす学習会があって講師として参加し、今朝帰ってきました。
現場の現在を話してくれと言われるけれど、話してもわからないから来て下さいとお願いしている。ですから、今回のような企画が一番、我々にとっては現場を見て実態を知ってもらうという点では大事な企画だと思っています。

201403101317092

 私は農民連で活動していますが、もともと専業農家です。

 南相馬市の小高区、浪江町は20㌔圏内なので人が住んでいません。昼は入れるんですが夜は宿泊してはいけないことになっています。
 私も南相馬市小高区というところで農業をやっておりまして、今は新地町(相馬郡)、原発から50㌔ぐらいの所の仮設住宅に住んでいます。
 小高区にいたころは6㌶の米と50㌃ぐらいの野菜、ネギ、ホウレンソウ。それから鶏を300羽ほど飼いヤギを1頭、アイガモを飼って楽しく農業をやっていました。50過ぎたら本腰入れて農業やろうと思っていたので、鶏も増やしビニールハウスを建て増しして準備万端整えて51歳を迎えたのですが、それが跡形もなく津波で流されてしまいました。

 今は新地町で田んぼ約3㌶を借りて、50㌃は買ったんですけど。家を建てているところなんです。そこを拠点にして前の規模くらいの農業を再開したいなというふうに思っています。小高区に戻るという選択肢は私の中にはないんです。うちの集落はみんな戻らないと決めています。一人一人確認したら津波もあったので、原発から12㌔の所なので、だれも戻らないということで確認できましたので、戻らないで生活が成り立つような施策なりをやってくださいという陳情書を市長に提出し、国にはたらきかけをしてもらっています。

なかなか大変ですが、戻らないと決断すると楽になります。先に進めるので。

 でも、この辺の人たちは戻るか戻らないか悩んでいます。2016年4月に元の警戒区域(住んではいけないよ)を解除することになっている。その時点で、どれだけの人が戻るようになるのか、その時点で国が除染をやっているのかとか、それはまだ全然わかっていません。まだ手つかずといってもいいくらいですので、あと2年でできるのかなあとういうのが疑問ですよね。

 浪江町は6号線から入るのに許可を出していたのですが、今は許可を出していません。視察目的であるとか、そういう人には許可を出していません。なぜかというと、今、4号炉の燃料棒を取り出し始めたので何が起こるかわからない。その時に浪江町が許可を出していれば、浪江町の責任にされてしまうんではないかというふうに怖がっています。ですから昨年の11月までは許可を出していたんですが、燃料棒取り出しと同時に許可を出すのをやめました。で、今日はちょっと強行突破をしてみます。

 この釣り具屋さんから20㌔圏内です。ここから先は住んでいる人もいません。田んぼも20㌔の外は作ってもいいことになったんですが、ここは試験栽培となっていて限定的に作ってみるという形で耕作しています。
一部を借り取ってこのデーターを作っている。
 おととしより去年の米の方がベクレル数があがったんです。ちょっと特殊の地域になります。国の穀物課長さんが毎月来て実験データ―を採ってくれていますけど、なぜだかわからない。

 ここが私がやっていた精米所で、大阪に送るはずだったお米が津波でやられてそのままになっている。やっとかたずけが始まりました。仮置き場が大分できてきたので捨てることもできるようになったからです。ここも、分別、がれきを11年の3月、4月でかき集めた物を、それぞれ木は木、焼却できるものは焼却できるもの、コンクリート、埋めるものは埋めるもので分別して、それぞれの仮置き場、焼却場に持っていく準備をしています。

 あそこは堤防と松林があって海が見えるはずがなかった所ですけれど、今は、こんなにきれいに見える。こんなに海が近かったんだと不思議。

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(無人のガソリンスタンド)

 ここは20キロ圏内で元の原町区で、正月とかお盆に3日とか4日とか宿泊させました。
20㌔圏の外は市町村が管理で除染とか復興を担う。20㌔圏内は国が復興や除染を責任もってやることになっていますが、国はあまりやらない。

 草がないですけれど、これは、地域の住民が復興組合というものを作りまして、国から10㌃当たり3万5千円のお金が出ていて失業対策として草刈をしています。予算が切れて先週終わっているそうです。

201403101328245

 ガス水道は通っています。ガスはプロパンガスなので。電気は東北電力が「そこに行くよ」というと電気を通してくれます。水道も復旧していますから(この地域はほとんどが井戸水)水は飲めます。

小高区に入りました。

 ここは平成の大合併で8年前に小高町と原町市と鹿島町の3つが合併し南相馬市になりました。この3つがなじんでいない内にこういう事故が起きて、小高が全部20㌔圏内、原町は20㌔から30㌔。で、鹿島は30㌔より外なんです。
 これが、賠償が20㌔圏内が手厚くて、その人たちが30㌔圏外の仮設に住んでいるという条件があって、もらえる人と、もらえない人がいるわけです。これがなかなか大変なんです。

 「賠償金いっぱいもらえていいね」とよく言われます。

 これでも大分かたずいたんですが、まだ車や船とか道路の両側にあります。

 田んぼの真ん中に家がありますが、あれも流れてきた家です。

201403101319524_3 

 こんもりした山が見えますけど、あすこは村上という集落で、館の山というんですけど、昔、館があったらしくて。周りに80戸ほどの集落なんですけど、上にかけ上がった人は助かりました。車で逃げようとした人は、道路が壊れていたりしたものですから逃げられなくて、亡くなった方がいっぱいいます。80戸の集落で60人以上が亡くなりました。

 固めてあるのが復興組合の人たちがガレキをかき集めたもので、そこから先にはまだ行っていません。

 ここは20㌔圏内なので環境省が壊す係です。ですから私たちが勝手に壊してはだめなんです。

 私の家は家だけは残っているんですけど、そのうちにソーラー並べようと思っているので、壊すの、急いでくれといっているんですけど、1,500万円です。1年に300軒しか処理できないといっていますが、急ぐようにと働きかけています。

 家が住んでいないと朽ちてくるんですよ。本当にぐずぐずに、帰るたびに程度がひどくなってますね。

 ここは(前)農協だった所で今は除染のステーションになっています。

(道路で、地震での割れ目がそのままの場所も)
舗装し直すのはしなおすんですけど、こういう本格的なのは手つかずという状況で放置されています。

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 3月6日にNHKの「あさイチ」の番組で8分ほど私たちの映像が流れました。私が浪江まで案内しました。(私、見ましたという声)志野山くんとしゃべりながら。あの日は大雪の日だったんですよ。やめようと言ったんですけど、もう後、予定がとれないということで大変な行程でした。
  「あさイチ」のテレビでパトカーに先導されているように映っていましたが、あれはたんに、前を走っていただけです。その後、私は職務質問されました。

201403101328242

 山の上に鉄塔が見えてきましたけれど、あれが東北電力の浪江・小高原発の予定地でした。40年ほど反対運動をやっていて、炉心の所の土地を持っていた方が震災の2年前に亡くなったんです。それでいろいろやっていたんですけど、浪江町は本格的に原発を造るということを決め、馬場町長はそのために町長になってきたという町長さんなんですけど。114号も拡張して原発を造る、やる気満々でした。あの震災があったおかげで、それも無し。40年かけて造るんだ、造るんだといやがらせをしてきた東北電力も諦めざるをえなくなって計画白紙という、日本で唯一の白紙に戻ったということです。

お地蔵さんを山形県のNPOのみなさんが造られれました。

20131222_odaka
(2013年12月22日 小高区海老沢にお地蔵さんが=福島民報よる)

 私より一つ年上の人が、娘さんが双葉厚生病院に勤めていて、出産のために帰ってきていた。地震があって迎えに来て、手をつないだところで津波が来てバーンと来て、その人だけ助かった。家族5人全員亡くなっちゃった。避難所で「その額の傷どうしたの」と聞いたら、生き残った人が、すごく、とめどなく私にしゃべりかけてきて、これは聞かなくちゃいけないと、聞きました。

 あすこが私の家なんですけど。神社の所。あそこが私の家なんです。
このルートなら見れるなとこっちのルートにしました。
 (声は明るかったが、三浦さんの思いが伝わってきた)

 ここも60戸ぐらいの家がありまして、基礎が残っているのは良い方で、えぐり取られましたから。ほとんどの家が津波にザブンと。

(大型バス1台、中型バス1台、JRバス1台で、どの道を行くかで運転手さんは苦労していました)

 山の上に仮の焼却炉を設置してそこで燃やすような計画は持っているようです。
焼却炉を造るというと、「そんな物そこに造るな」という人たちもいるので、なかなか進まないですね。「風はどっちから吹くかわからないんだから」とか。それもそうなんですけれど、何も進まないのも困るんですよね。

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(仮置き場)
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 それぞれの集落で一つずつ仮置き場を作りましょうということで、地権者の問題とかいろいろ出てきます。
 それが合意できないうちは仮置き場が出来ないということです。(同じガレキでも宮城とは違うよね、放射能で。という声)

浪江町に入ります。

 スイミングスクールです。

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(浪江町のボーリング場)

ボーリング場の向かい側がスクリーニング場になっています。足の裏だけ放射線量を計ります。
 最初は20㌔圏内に入るときには上から下まで全部防護服を付けさせられ、スクリーニングされましたが、今はそういうことはありません。

 この間、東電の職員と通りましたらイノシシがぴょこぴょこ飛びだしてきました。イノシシもいればイノブタもいっぱいいます。

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(浪江町役場とカモメのオブジェ)

 これが浪江町の庁舎です。
もともとは21,000人ぐらいの町でした。
原発誘致が決まって、これからは金回りがよくなるということで、造った庁舎で、あの上にカモメのオブジェがありますが、あれが2,000万円。一時、有名になりましたよ。「成り金かよ、お前らは」と。

検問所で交渉し通過させてもらう

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(通行の許可を折衝する三浦さん)

経過の説明。許可がおりていなかった。
法的には拘束力はないので入ってもいいですねということで入れてもらいました。

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(請戸漁港=3.11の地震・津波の後、原発事故で救助もできませんでした)

請戸(うけど)地域、漁港の街で11月ごろはサケがそじょうしてくるので、毎週土、日はサケ料理を出したり海産物など毎週お祭りのようでした。去年の11月はサケがのぼってきました。

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 ここずうっと家が建っていたんですが何もありません。

 ここは干拓地なのでポンプを造っています。この前、30億円のポンプがつぶれたので、おそらく50億か60億円の強力なポンプを造るといっていました。

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(テトタポット)

 テトラポット(消波ブロック)流れてますよね。ずうっと向こうに行ってます。堤防の外にあったテトラポットが運ばれてあっちまで行きました。

 これが仮置き場です。ここに放射性物質とかそういう物を搬入します。放射性物質と思われる物ですね。

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 両側がきれいな田んぼでしたが、今はこうした荒れた状態になっています。
セイタカアワダチソウが茂っていた時には何も見えなかったんですけど、枯れて来ると、流された車とか農機具とかが、そのままの状態で置いてあります。

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(マリンパークとプラネタリューム)

 あそこの建物はマリンパークといいまして子どもたちの遊び場というか、黒いのがプラネタリュームです。そこにバーベキューハウスとかもあって、人造の川があって、そこで魚を放したりして、みんなでそれを手づかみするなどしました。外側が海になっているので、ぼくらPTA役員は子どもたちを連れて地曳網を引かせてもらったり、楽しい場所でした。

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(バスの揺れる窓から浪江町に入って初めてみた東電第一原発)

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(場所によって第一原発の見え方は違いました)

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(ゴミの漂流物や船、慰霊碑の遠くに第一原発が見えました)

 正面に福島第一原発で見えてきました。
(初めて見る第一原発で、排気筒、クレーン、建物などが見え、ちょっと緊張)

右側の方にまだ船が転がっています。

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 そこが請戸漁港だったので、そこに停泊していた船が津波でみんなこっちに流されてきてしまいました。命からがら津波を乗り越えた船もあったんですけど、それは相馬の漁港に全部鎖でつながれ停めてあります。漁にも出られない。ここに入ることが出来ないので。福島県の海はご存じのように漁ができませんので。

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(流されてきた家と右側に請戸小学校)

 大きな建物がありますよね。あれが請戸小学校です。(進行左側)
ここは小学校があったくらい、家があったんです。
 子どもたちは、あの前の日も震度5の地震があったので、午前中に地震が来たらどうしよう、津波が来たらどうしようと先生方の間で話をしていたそうです。地震が来てすぐに、こっちの山まで走って逃げて、そこから大型ダンプカーに乗せられて浪江町役場に連れて行かれ、だれも亡くなっていません。

 (外に出て見たいとの声で短時間外に出ることに)

 第一原発まで4㌔ぐらいの地点。線量は0.18μシーベルト。

Image0016
(2011年3月15日のSPEEDIの記録で最初隠されていた)

 放射線量は距離には関係なく風向きで変わってくる。
SPEEDIの図を見るとわかりますよね。ここは風向きで外れた場所でした。山の方に向かって風が吹いたので、そっちの方が線量が高くなった。114号線沿いに放射能は移動した。放射能もちゃんと国道を走ったんですね(みな笑い)

はい、ここまでしか入れません。
ここから先は急激に線量が上がるんですよ。
帰還困難区域になり、1年間で50㍉シーベルト以上の地域。
正面に見えるのが双葉町です(帰還困難区域内)。

ここで下車

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(帰還困難区域の双葉町と第一原発が遠くに=これ以上入れない)

Dsc006881
(海を望みました)
Dsc006911
(林の方を見る)
Dsc006921
(農機具がそのままに)

 外はけっこう風が吹いていました。
みな立ち入り禁止の標識がある場所まで行き、双葉町方面と、小さく頭の方だけ見える福島第一原発を見ていました。振り返ると、右側は海で、左側には農機具など流れ着いた異物が何ヶ所にも溜まっていました。

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(心の中で犠牲者を追悼しました)

201403101342382
(仮置き場の脇を通りました)
201403101349162
(昔は海だった所で干拓して開拓してきた田んぼ=太平洋に)
201403101349161

 あそこに縄文の遺跡がみつかって縄文公園になる予定でした。
縄文時代あの高台に人が住んでお魚獲って生活していたんですね。
先祖は代々田んぼにしたわけですよ。私のひいじいさんは大正時代に、ここで魚獲ってくらしていたそうです。(遠くの高台の説明)

(海岸に向かって、整理されていた田んぼが津波にやられて何も残っていなかった。所々に津波で運ばれてきた舟がそのままだった)

20140310134519_4
(三浦広志さんの家が遠くに=三浦さんの思いが涙が出るほどわかりました)

 また、私の家が見えてきました。
この集落でまともに残っているのは3軒だけ。津波によって30人近く亡くなっている。その後、逃げる途中で、家の父も千葉県に避難して亡くなりましたけど。
ここの道を真っすぐ行ったところが私の家です。「あさいち」では雪で入れなくて望遠で撮っていました。

 あの新築の家がまもなく引き渡しだったんですけど、45度傾いているんですよ。津波で家が回ったんですね。海から1㌔ぐらいの場所。津波は3㌔ぐらいまで押し寄せました。

 先週は水がたまって白鳥とカモがいっぱいいました。

 300㌶ぐらいあるんですけれど、父は逃げずに「水を汲め、水を汲め」と言ってました。前に水利組合の組合長をやっていて河川改修工事をずうっとやっていたものですから、手をつけられなかったのが悲しかったみたいです。「入れないから水なんか汲めないんだよ」と言ったんですが、それ以来、あまり食べなくなってしまいました。

 3月11日、家に戻ってかたずけなどをしていた人が亡くなっています。あれだけの地震でしから、震度6強で6分間揺れ続けましたからね。

 福島大学の先生たちが地震堆積物の調査に来たことがあって、私の田んぼだけずうっと調べたんです。
津波堆積物だけがきれいに上と下の砂の層の間にきれいにある。これが何百年かに一遍くるんだけれど、ここは全部海だからねと言われました。
 私は地震の時に相馬にいて、自宅にいなかったんですけれど、妻は地震の終わる前から必死で逃げたそうです。ほとんどの人が避難所だった裏山の神社に集まってきていて、津波で人が流されたり、家が流されたりする状況をずうっと見ていたそうです。
あまり見ないほうがいいです。

 あそこは行津(なめづ)という集落で、行方(なめかた)郡の港で、千葉県の行方からの移民ですから。ここは港だったんです。

 どこでも神社はちょっと高台にあり、そこまで逃げれば大丈夫だったんですね。

 私は2011年3月19日に東京の小金井市に避難し、そこから池袋に農民連の本部があったのでそこに通い、農水省交渉を設定してもらい、3月24日に最初の交渉、31日に第2回目の交渉を行いました。
 3月24日に、ともかく南相馬に来て地震と津波と原発事故の最前線だから公務員がそこに来てそこで対策をたててほしいというお願いをしました。
 その時に言われた言葉が「私たち国家公務員は福島のような危険な所には行ってはいけないことになっている」(失笑)ですから、ここがこの状態なのもわかるじゃないですか。こういう風になってしまえば危機管理能力がないんですよ。

 やはり、その直後には入っていた国家公務員の人も、中通りの人もみな引き揚げたそうです。その時期は。ですから福島はその時一旦見捨てられたんです。

常磐線の電車は通っていません。

JR浪江駅をめざす
無人の街をバスで走る。
黄色いテープは環境省のテープです。危ないので近寄るなという印です。ですから環境省が壊すのは怖くない。

浪江町駅に向かうも、駅の近くでガードマンにストップをかけられる。
NHKが浪江駅前で撮影を予定していて、撮影用のワイヤーが張られていてバスにひっかかってしまうために、駅まで行けずに断念しました。(3月11日の夜、NHKの放送で浪江駅前から放送。町営のバスが今にも発車するような感じで置かれたままの状況の映像が流れていた)

 コンビニに板はってありますね。みんなはってあるんです。
2012年4月15日に警戒区域解除になった次の日とその次の日に全部破られました。割られちゃった。
 ここはよく来たスーパーマーケットです。私の生活圏だったんです。

 30年ローンが残っています。こんどこれの賠償金が出るんですけど、建てたらいいものなのか、どうか。妻は今、実家に避難してるんですよ。お母さんと。震災の最中にお父さんが亡くなっちゃたんですよ。お父さんをみとるのに避難しなかったんです。ここは0.3μシーベルトぐらいで避難先は0.6~0.7ぐらいあるんです。それも悩みの種でね。本当にこれでよかったのだろうかと思っています。
 訴訟とかも訴訟団に入っても、今後の子どものことも考えてちゃんとけじめをつけないと、国の責任とか、そういうものをきっちりと認めさせないと今後、福島がどうなるかわからないので、そのためにはがんばってやるということで、いま訴訟団の中心の一人になってがんばっています。

 ここにも仮置き場を作って、仮置き場を除染して又仮置き場を作ってそこに持ってくると。仮置き場は除染はいらないじゃないかと思うんですが。除染するんだそうです。

 これから行くのが「希望の牧場」です。

Dsc006941
(希望の牧場)
Dsc00695

 家畜の命を救う「希望の牧場」(有)エム牧場で、吉沢正巳さんが代表。
“決死救命・団結 そして希望へ”の掲示板を掲げていた。
330頭ほどの肉牛がいて3.11から飼い続けていて、売れない肉牛です。
吉沢さんは避難していないで、無許可でここに居ますから、月10万円の賠償金がもらえないそうです。

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