東日本大震災

2011年8月11日 (木)

東日本大震災発生から5ヵ月が  8月11日

 振り返ると5ヵ月が経っています。被災地の皆さんの身になって考えると苦しくなってきます。東京電力福島原発事故の放射能被害は広がるばかりです。でも、各地で諦めずに、力を合わせ立ちあがっている人たちがいます。、一歩一歩、確実に前に進みたいと思うのです。

死亡者-15,689名 
行方不明者-4,744名  (8月10日 現在)


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 心に残った「しんぶん赤旗」と「毎日新聞」の今日のトップ記事を紹介させていただきます。

■ 「しんぶん赤旗」から

東日本大震災5カ月、8万7000人避難生活
生活再建支援いっそう切実

 東日本大震災発生から11日で5カ月を迎えました。死者・行方不明者は計2万人以上に上っています。被災者の暮らしの場は仮設住宅へと移りつつありますが、いまなお全国各地で約8万7000人が避難生活を強いられています。さらに東京電力福島第1原発事故による放射能汚染被害が、福島県はもとより岩手、宮城両県にも広がり、被災地に二重三重の苦しみとなってのしかかっています。それだけに生活再建・復興のための国の支援を求める声は、いっそう切実です。
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(ガッツポーズで雄勝の復興を誓った「OHガッツ」のメンバーら-10日、宮城県石巻市雄勝町水浜)
 住まいの確保は、被災者の生活の基盤となる重要課題です。その中心となる仮設住宅は各県によると、岩手県は目標に近い1万3833戸が完成(10日現在)。1万戸以上が入居済みです。宮城県は必要数2万2054戸のうち1万7276戸(3日現在)が完成。福島県は必要数1万4200戸で1万2801戸(9日現在)ができています。
 しかし、仮設住宅は、軒が短いなど設備が貧弱。設置場所も交通の便が悪い所が多く、買い物にも困る状況です。さらに避難所で受けていた食料支援も受けられなくなるケースが大半です。
 岩手県山田町の仮設住宅に脳梗塞で体の不自由な妻と入居した男性(74)は「仮設敷地の砂利道は転びそうで危険だ。早く舗装して。生活も義援金では1年持つかどうか」と語ります。
 避難所暮らしが続く被災者も3県で1万人以上にのぼります。
 放射能汚染問題は被災地に追い打ちをかけています。内閣府によると福島県から県外に避難した人は4万8903人(7月28日現在)。その数は増える一方です。
 同県では農水産業全般に出荷停止や風評被害が拡大。内陸部でも局地的に放射線量が高い地域があり、目に見えない放射能の広がりに、市民らは不安を抱えています。
 岩手、宮城両県でも一部の肉牛や稲わらから国の暫定規制値を超える放射性セシウムが検出され出荷停止の事態となり、農民運動全国連合会などが、東京電力に損害賠償を請求。日本共産党は、国や県に出荷停止解除のための安全管理体制の整備や補償などを求めています。 (森近茂樹)

■ 「毎日新聞」から

東日本大震災:取り残される被災者…11日で5カ月

 東日本大震災から11日で5カ月--。東北の沿岸部では、避難所が閉鎖されて仮設住宅への入居が進む一方、取り残されている被災者がいる。福島では放射線におびえながらも動けない家族がいる。「これからの生活は……」「いつまでも家族と一緒にいたい」。生活再建に向けた苦悩と足踏みが続き、猛暑の被災地はいつもと違うお盆を迎える。

 ◇避難所閉鎖「これからが大変」…陸前高田

 岩手県陸前高田市はピーク時62カ所に約1万6000人が避難した。震災5カ月となる11日、市は最後に完成した仮設住宅の鍵を配り、12日には全避難所を閉鎖する予定だ。一時1000人近い人々が避難した市立第一中では10日朝、がらんとした体育館で残された約40人が最後の支援物資を受け取った。
 「とにかく長かった」。仮設住宅のガスの開栓を待ち、11日に引っ越すという中村一也さん(52)は振り返った。行方不明の母の遺体は見つからず、知的障害を持つ弟(49)と2人で暮らすことになる。苦笑して言う。
 「当たった仮設住宅を何度もキャンセルした人が先に入ったり、納得できないことも多かった。高齢者や障害者は優先と聞いていたのに、最後の最後になってしまうとは」
 千葉武晴さん(50)は「これからが大変」と話す。同居していた母と妹が行方不明、妹の娘は死亡し、一人になった。入居する仮設住宅は急勾配の坂の上にあり、キャンセルが相次いだ“物件”だ。鍵は7月末に受け取ったが、車が津波で流され、友人に引っ越し用トラックを融通してもらうのに時間がかかった。勤めていた石材店は会社ごと流されて倒産し、仕事も探さなくてはならない。
 「(知り合いがいない)仮設で一人になったら、酒におぼれるのではと不安だった。同じ仮設に仲間がいるから何とかなる」
 准看護師の女性(40)は、市内で最後に完成した仮設住宅に11、12日の2日間で引っ越す。看護師国家試験を受けるため、震災後も病院勤めの後、専門学校に通う生活を続けてきた。避難所に戻るのは夜遅く、足音を立てないよう気を使った。
 「そういう生活もやっと終わる。でも、共用のパソコンや空気清浄機がさっさと片付けられてしまい、最後は寂しいですね」【市川明代】

 ◇「生き残ったけれど…もう限界」…石巻

 震災から5カ月たっても避難所から出られない被災者も多い。
 「避難所暮らしはもう限界。早く仮設住宅に移りたい」。宮城県石巻市湊町の梶原ふみ子さん(67)は自宅から数百メートルの市立湊小で避難生活を送る。自宅は津波で壊れた。
 校舎3階の12畳ほどの「相談室」で、長女ひろみさん(45)ら女性3人が寝起きする。防虫のため夜は窓を閉め切り、室温は30度近くになる日もある。
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(避難所生活を続ける梶原ふみ子さん。時間がたつのが早いからと夫仲一さんの遺影の横で手芸をする。後ろは長女ひろみさん=宮城県石巻市の湊小学校で2011年8月8日、岸達也撮影)
 04年に心臓に人工弁を付ける手術をした。以来、不整脈や血圧を抑えたりする薬が欠かせない。今年4月中旬には、せきが止まらなくなり、気管支炎で約2週間入院した。
 震災直後は17人がすし詰めで、風邪を引いたり肺炎になったりする被災者もいた。室内で用を足すお年寄りもいて衛生状態も悪い。医師は、避難所に戻ることを止めた。「でも、ほかに行くところがない」
 湊小には簡易浴場があるが感染症が怖い。数キロ離れた親類宅で入浴させてもらうが、タクシーで片道2000円以上かかり、週1、2回が限界だ。普段はウエットティッシュで体を拭いている。
 仮設住宅に入りたくて、4月ごろから何度も抽選に参加したが当たらない。湊小の避難所は9月末で閉鎖される予定で、先行きに不安が募る。
 今年1月17日、約45年間連れ添った夫仲一(ちゅういち)さん(当時73歳)をがんで亡くした。震災は四十九日を終えた直後のことだった。
 「生き残ったけれど本当に大変」。お盆を前に自宅から持ち出した仲一さんの遺影に語りかけている。【岸達也】

 ◇ホットスポットに自宅…伊達

 「家族がばらばらになってしまう。また一緒に暮らせる日が来るのでしょうか」。放射線量が局地的に高い「ホットスポット」にあたるとして自宅が特定避難勧奨地点に指定された福島県伊達市の主婦、佐藤かおりさん(24)は思い悩む。
 指定当日の6月30日に長女凛(りん)ちゃんが生まれたばかり。今月7日にようやく、夫利昭さん(28)と凛ちゃんの3人で暮らせるアパートが福島市内で見つかった。だが、一家には寝たきりの祖母と、脳性まひの妹がいる。家族そろって避難できる場所は、まだ見つからない。
 佐藤さん一家は、両親と祖母里子さん(84)、妹ゆかりさん(21)、利昭さん、凛ちゃんの計7人とペットの犬猫4匹。ゆかりさんは施設に入居し、週末だけ帰宅する。
 佐藤さんは出産の2日後に自宅がホットスポットにあることを知った。凛ちゃんへの放射線の影響を心配し、市の調査には「避難を希望する」と答えた。足が不自由な里子さんやゆかりさんの介護のため、平屋またはアパート1階を希望。一家全員が近くに住む必要があると書き込んだ。
 しかし、市から紹介された避難先はどこも狭く、ペットの同居は不可。途方に暮れる佐藤さんに、両親は「生まれたばかりの子がいるのだから」と、凛ちゃんを連れて夫婦で避難するよう勧め、福島市のアパートも母景子さん(59)が探してきた。早ければ9月から入居できるが、佐藤さんの気持ちは晴れない。「他の家族を残して自分たちだけ避難していいのか」
 日中仕事に出る両親が里子さんの面倒をみるには限界がある。里子さんは1日おきにデイサービスを利用するが、タクシー運転手の父正光さん(61)の仕事は深夜に及ぶこともある。佐藤さんは「ばあちゃんが一人になる時間が必ず出てしまう。もし、何かあったら」と心配する。
 「子供を家族みんなの元で育てたかった。いつまでこんな状態が続くのか。この子が大きくなる頃には安心できるのでしょうか」。佐藤さんは胸に抱いた凛ちゃんを見つめた。【石山絵歩】

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2011年4月28日 (木)

田中好子さん最後まで被災者への想い強く  4月25日


こんにちは。田中好子です。

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きょうは3月29日、東日本大震災から2週間経ちました。

被災された皆様のことを思うと心が破裂するような、破裂

するように痛み、ただただ亡くなられた方々のご冥福をお

祈りするばかりです。

私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負け

てしまうかもしれません。

でもそのときは、必ず天国で被災された方のお役に立ち

たいと思います。それが私の勤めと思っています。

 キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世

話になりました。幸せな、幸せな人生でした(涙ぐむ)。

特に蘭さん、美樹さん、ありがとう。2人が大好きでした。

 映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。

もっともっと女優を続けたかった。

お礼の言葉をいつまでもいつまでも伝えたいのですが、

息苦しくなってきました。

いつの日か、妹、夏目雅子のように、支えて下さったみ

なさまに、社会に、少しでも恩返しができるように復活し

たいと思います。

かずさん、よろしくね。その日まで、さようなら。



★ 上記の文章は4月25日の告別式で全参加者に紹介された、田中好子さんの生前最後の録音によるメッセージの内容です。謹んで哀悼の意を表します。 

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2011年4月27日 (水)

東電は農民の怒りに真摯に答えよ  4月26日

チェルノブイリ事故から25年目の4月26日
福島原発事故で被害を受けた東北・関東の農民が怒りの行動

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 26日、ニュースで農民が東京の東電本社に怒りの抗議行動をしたことを知りました。
これまで、農民が原発事故を起こした東電に怒りを抑えに抑えてきましたが、もうがまんできず抗議行動となりました。
Img_4616 Img_4622  私はこの行動をすばらしいと思いました。
よくニュースを聞いてみると、主催者は農民連(農民運動全国連合会)で、原発事故で被害を受けた東北・関東地域から乳牛もふくめ約400人の参加したそうです。
本当に怒りをこうした行動で示すことが今必要だと思うのです。
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(これが農民の願っていること)
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 東電の会長や社長の国会やその他での発言を聞いていて、福島原発事故を起こした責任を一度も明確にしていないのではないでしょうか。
まず東電が事故を起こした責任を国民の前に明確にし、原発事故による全ての被害の責任をとることが求められます。

私も出身は農家の子
乳牛を育て乳搾りまでやったことがあります


 子どもの頃、子牛の出産も手伝い乳を搾り、草を刈り集め、生牛乳を家庭に届ける分担をしたこともありました。
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(乳牛も抗議行動に参加)
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(捨てなければならない元乳)
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(出荷できない牛乳、野菜を東電に突き付けました)
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(行動に参加し東電の態度に余計に怒りが)
 原発事故で酪農家が乳牛を飢え死にさせたり、搾乳した乳牛を捨てている姿に何回涙を流したかしれません。農家の怒り悲しみは測り知れません。
 先日も、家畜を人を救出すると同じように救出すべきだと書きましたが、ニュースの中で私と同じ主張をしている方がいました。
 状況をわかっていながら見過ごすほど酷なことはありません。全ての家畜を救出するために最善をつくしてほしい。政府がその先頭に立つべきです。

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2011年4月15日 (金)

東日本大震災、力を合わせ乗り越えよう  4月15日

家畜の置かれた実態に憤りと悲しさが
                 こみあげました
こんなことが許されていていいのだろうか
動物を大切にしない社会では
            人間も大切にされない
人の救助と同じように家畜を救出してほしい
人間が創りだした人災で家畜を
             犠牲にしてはならない


     

桜は咲く          前田 新

大震災から1ヵ月が過ぎた 
  
福島第一原発の遠景がゆらゆらと

今日も春陽に揺らいでテレビに映っている

そこから半径30キロに引かれた

 「死の国」の境界線はいまも消されない

こともなげに地図の上に線を引いて

何度も〝直ちには影響はない〟

 〝冷静な行動を〟と、言う

誰もがすぐに帰れると思って家を出た

残されたのは老いた弱者と
        
夥しい数の家畜たち

その哀しい泣き声が

幾日か夜の闇のなかに響いた

そしてか細くなって消えた

わずか1000頭の牛が移されて助けられたが

大方は繋がれたまま餓死していった

見えない恐怖に汚染される「死の国」
  

そこに立ち入ることは誰もできない

音も立てずに侵されていく大地と海

〝直ぐには健康に影響はない″と言いながら

出荷停止から摂取規制へと進む野菜

か、と思えば、計測の間違いだったと

その翌日に説明もなしに規制が取り消される

その訂正記事のとなりに 

絶望した野菜農家の抗議の自殺が載る

2011年のいまは春

わたしは恐ろしい人災のさなかにいる

絶望の闇の向うに、まだ希望の光は見えない

いつわりの「安全神話」に騙された

原発による町づくりは、跡かたもなく消えた

国策のあやまりで、いつも追われ

いのちを奪われるのは、何の罪もない

貧しくつつましく暮らす無告の民

その乾かぬ涙で、この国の美しい桜は咲く

まえだ・あらた1937年福島県生まれ、会津美里町在住。日本現代詩人会、日本農民文学会などに所属。詩集:『貧農記-わが鎮魂』『秋霖のあと』『前田新詩集』、小説『彼岸獅子舞の村』(農民文学賞)など多数。
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(10キロ圏内-被災地から第一原発の鉄塔が見えます)
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(海辺を逃げまどう牛たち)

私は初めて前田新さんの
詩を読んで感銘と同時にハッとさせられる点がありました。

私は漠然としていたのですが、福島第一原発事故で家畜はどうしているのだろうというわだかまりをずうっと持っていました。
この「桜は咲く」の「大方は繋がれたまま餓死していった」の部分にガクゼンとしました。
 それから、すぐにネットでいろいろと検索して、なんとか家畜の状況についての情報を知ることができました。NHKのテレビでも10キロ圏内避難地で海辺を牛が4、5頭ほどが走っている姿が写されていました。
 読んだときには本当に餓死などしているんだろうか?と疑問がわいたのですが、調べていくうちに言い表せないショックでした。涙が出てしまいました。

● ネットで見つけた記事を掲載させていただきます。

★ 福島民報より  2011年4月8日付

「牛、いずれ全滅」 生産者、悲痛な声 
 福島第一原発事故により屋内退避区域となった原発から20~30キロ圏内の家畜牛の取り扱いについて国が方針を示さず、福島県や関係団体が対応に苦慮している。圏外に避難している生産者らは「餌を与えるのにも支障が出ており、いずれ牛は全滅する」と悲痛な声を上げている。
 県によると屋内退避区域内には乳牛・肉用肥育牛約1万頭(昨年10月現在)が確認されており、被ばくを避けるため畜舎内で飼われているとみられる。県は3月下旬、他地域への移動や競りにかけることへの可否などについて農林水産省に見解を求めたが、いまだ返答はない。
 避難した農家は数日置きに自宅に戻り、餌を与える不自由な生活を続けている。4日には栃木県の福田富一知事が佐藤雄平知事を訪問し、肉用肥育牛約150頭の受け入れを表明したが、隣県の「善意」に応えることのできない状況だ。
 繁殖用和牛8頭を飼育している浪江町の男性(67)は、「牛にも命がある。国と県が責任を持って対応を決めてほしい」と訴える。
 県畜産振興協会は、早期の移動など対応策が決まらない状況が続けば、県産牛に対する風評被害が加速すると指摘。「飼育に関するコスト、今後の移動費用を補償の対象にしてほしい」と強く求めている。
 一方、県は「間もなく国の判断が出るだろう」とみている。しかし、農水省畜産振興課は「伝染病に対するノウハウはあるが、放射能対策は初めて。情報を集めるので精いっぱい…」と頭を抱えている。

★ ロケットニュース24より  2011年4月11日

【原発10キロ圏内取材】見捨てられ鳴き叫ぶ牛たちの悲しき末路

2011年4月上旬、福島県双葉郡浪江町を徹底取材。浪江町付近に詳しい人たちに同行し実状を探った。数回に分けて、福島第一原子力発電所5~10キロ圏内の実状をお伝えしたいと思う。

今回お伝えするのは、福島第一原発から10キロ圏内にある浪江町の農場。当然ながらそこには人の姿はなく、飢えに苦しむ牛たちの悲痛な鳴き声が響き渡っていた。その農場では半数以上の牛が死亡しており、死体と同じ柵内(牛舎)で牛たちが叫び声をあげている

4月11日現在、この農場は政府が避難指示を出す半径20キロ圏内にあるため、放射能濃度が他の地域に比べると極めて高くなる場合があるとされている。それゆえ、この農場の主はこの場から離れ、牛たちにちエサや水を与えない状態が続いていると思われる。
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(人災で犠牲になっている悲しい乳牛の姿です・・・)
牛たちの死因は餓死や衰弱死ではないかと推測できるが、明確な死因は不明である。放射性物質や放射線被曝が恐ろしくエサを与えに行けないのは理解できるし、逃げざるを得ないのも理解できるが、悲痛な叫び声をあげる牛たちがあまりにも悲惨すぎる。

本来は、牛が水飲み場のペダルを鼻先で押すと水が出て飲めるようになっているのだが、水道が止められているのか、水が出ることはなかった。

偶然、取材の場で居合わせた浪江町の住民が理由を知り、水とわずかなエサを用意してくれたが、疎開するためこの日限りとのこと。すでに避難しており、この日は家に荷物を取りに戻る途中だったという。

定期的にエサと水を与えてくれる動物保護団体がいればいいのだが……。このままではあと数日で牛たちが餓死してしまう。

この実状を知ってもらうため、カメラマンが撮影した牛たちの悲惨な姿をあえて掲載することにする。農家を責めるつもりはないし、人間が優先なのもわかる。しかし、人間たちの影響で本来とは違う、悲惨な末路を迎える見捨てられた動物たちがいることを忘れてはならない。

牛たちはこうしている今も、飢えながら死体が転がる農場で人間が帰ってくるのを待っている。それは、ペットとして飼われていた犬や猫も同様である。

happy01  私からの応援歌です。(クリックして) “届きますか”<iframe title="YouTube video player" width="480" height="390" src="http://www.youtube.com/embed/zjSkoWRWduU" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

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2011年4月 8日 (金)

東日本大震災、力を合わせ乗り越えよう  4月8日

福島原発事故は想定内だった
福島第一原子力発電所事故に広がる不安


<寺坂委員長> 現実に、指摘のような事態が発生した。当時の認識に甘さがあったことは深く反省している。

<鈴木理事長> 国民に大変な心配、心労、迷惑をかけていることを大変申し訳ないと思っており、痛恨の極みだ。

<海江田万里経済産業相>想定を超えるものが現実の問題として起こったわけだから、(想定外というのは)使うべきではない
     (衆議院産業経済委員会集中審議から)

 4月6日、衆議院産業経済委員会で福島第一原発事故発生以来初めて集中審議が行われたことを6日の夕方に知りました。
 翌日「しんぶん赤旗」でその詳しい内容を知りました。特に、吉井英勝議員(共産党)の質問が重大な内容を持っていることを知り驚きました。
 7日に他の一般紙では、重大な内容のあった審議の模様を伝えていないことに「どうなっているんだろう」大手新聞の報道に疑問を持ちました。ただ「朝日コム」の記事を一つ見つけることができただけでした。

今日、吉井英勝さんの委員会での質問ビデオを全部見て、この記事を書かなければと思いつき書いています。日本の原子力行政を安全最優先に転換しなければいけないのではないでしょうか。放射能の拡散でどれだけ日本国民と世界の人たちが不安にさらされているかしれません。
 原子爆弾によって広島、長崎の人たちが世界中で核実験や原発事故でどれだけ多くの人たちが放射能によって苦しめられているか。原発推進会社と政府はそのことを絶対に忘れないで!!!

(2011年4月7日(木)「しんぶん赤旗」から委員会の質疑について引用させていただきます)

原発事故集中審議  吉井英勝議員質問

 福島第1原発事故発生後、初めて集中審議が行われた6日の衆院経済産業委員会で、同事故を取り上げた日本共産党の吉井英勝議員。未曽有の事故を引き起こした責任の所在と、危機打開の道筋が鮮明になりました。
★集中審議のビデオ録画を掲載します。(クリックして)
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(写真)質問する吉井英勝議員=4月6日、衆院経済産業委

警告が現実になった
Yoshii_face 吉井氏は昨年5月26日の同委員会で、地震や津波による「電源喪失」が招く炉心溶融の危険性を指摘。これに対し経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は「論理的には考えうる」と述べ、現実には起こらないと答弁していました。

<吉井議員> “理論的な話”ではなく、現実のものとなったのではないか。
<寺坂院長> 現実に、指摘のような事態が発生した。当時の認識に甘さがあったことは深く反省している。

 2006年3月1日の衆院予算委員会で、当時の原子力安全委員長だった鈴木篤之氏(現・日本原子力研究開発機構理事長)は吉井氏に、外部電源やディーゼル発電機、蓄電池など多重、多様な電源設備があり、他の原発からの電力“融通”も可能だから「大丈夫だ」と答えていました。
<吉井> 設計上“大丈夫”だという話だったが、全ての電源が喪失したのではないか。
<鈴木理事長> 国民に大変な心配、心労、迷惑をかけていることを大変申し訳ないと思っており、痛恨の極みだ。

 今回の事故について、菅直人首相や東京電力の清水正孝社長は、「想定外」としています。吉井氏は、日本の原子力安全基盤機構(JNES)の研究報告でも、全電源喪失で0・6時間後に核燃料が落下、1・8時間後に圧力容器が破損、16・5時間後には格納容器が過温で破損すると警告されていたと述べました。
<吉井> 全電源喪失を考えて、いかなる場合にも今回のような事態を起こさせないというのが、原子力安全行政であり、原子力安全委員会の使命ではないか。
<班目(まだらめ)春樹原子力安全委員長> おっしゃる通りだ。今回の事故を深く反省し、二度とこのようなことが起きないよう指導してまいりたい。
<海江田万里経済産業相>も、「想定を超えるものが現実の問題として起こったわけだから、(想定外というのは)使うべきではない」と答えました。

10時間以上 対応に空白

 大地震発生から約1時間後の3月11日午後3時42分、原子力安全・保安院はすでに全電源喪失による炉心溶融の可能性を認めていました。ところが、原子炉格納容器からのベント(蒸気排出)などの緊急措置が行われたのは翌12日の午前10時以降。
<吉井> なぜ早い時点で東電を指導しなかったのか。あるいは、東電が指示に従わなかったのか。
<海江田> 法律にもとづく命令というのは、日をまたいでのことだった。
<吉井> 班目委員長と寺坂安全・保安院長は、危機感を持って臨んだのか。
<班目> どれぐらい緊急を要しているのか把握していなかった。

 官邸の対応はどうだったか

<吉井> 炉心溶融から危険な事態にすすみうることを認識して、はっきり東電に圧力容器の蒸気(を出して圧力)を下げろ、海水を含めて冷却水を入れろといわれたのか。
<枝野> 電力が回復しない、ベントもなされない、水も入れない状況が一定時間続いて、急がないといけないということを午前1時半の段階で行った。
 こうした甘い認識によって、結局、実際に1号機でベントが行われたのはそれから9時間後の午前10時17分。東電が最初の海水注入を実行したのはさらに10時間後の午後8時20分でした。
 それもそのはず、そういう措置を判断する重大局面だったはずの12日午前6時すぎ、菅直人首相と班目委員長はヘリコプターで福島第1原発に向かい、原子力災害対策本部を4時間半も離れてしまったのです。吉井氏はさらに、原子力緊急事態宣言を出した12日午前7時45分から同日の午後8時5分に経産相が東電に海水注入を命令するまで、なんの対応もみられない“空白の10時間”があったと指摘。
 「東電がやらなかったら、やらせなきゃいけない。総理と原子力安全委員長が4時間半空白をつくっただけじゃなく、12日の7時45分(原子力緊急事態宣言)から空白の10時間がある。これだけ深刻なものだということが明らかになっているのに、きちんと対応しなかった責任はきわめて大きなものがある」と吉井氏はただしました。

危機脱却へ英知総結集を

官房長官「提言踏まえ相談したい」
 吉井氏は、原発危機から脱却するために積極的な提案をしたいとして、全国の研究者や技術者が情報不足で提言したくてもできないという声があがっていることを紹介し、「研究者番号を伝えて意見を聞かせてもらえる受付部門をつくり、原発危機からの脱却へ日本の英知を総結集すべきだ」と提起しました。
 枝野官房長官は、「おっしゃる通り、さまざまな専門家の英知を結集することが大事だ。ご提言も踏まえて関係当局と相談したい」と応じました。
 吉井氏は「国も電力会社も原子力安全委員会もみんな『原発安全神話』を信仰し、“原発利益共同体”を築き、情報公開しないで、国民の安全より企業利益第一に走った。思い込みと秘密主義こそが重大な事態をもたらした要因だ」と締めくくりました。

■ 対策を怠った政府の責任は重大 原発事故直後の動き
《3月11日》
 14時46分 地震発生
 15時42分 第1原発1、2、3号機・全電源喪失(経産相に通報=以下同じ)
 16時45分、18時08分 同1号機など注水不能、原子炉冷却材漏えい
 19時03分 第1原発に原子力緊急事態宣言
 21時23分 第1原発半径3キロ圏避難、10キロ圏屋内退避指示
 22時00分 原子力安全・保安院「2号機炉心露出か燃料棒被覆管破損」の予測発表
《3月12日》
 1時20分 第1原発1号機・格納容器圧力異常上昇
 1時30分 枝野官房長官がベント(蒸気排出)指示
 2時30分ごろ 首相が福島原発視察を決定
 5時54分 第2原発1、2号機・圧力抑制機能喪失
 6時00分すぎ 枝野官房長官が東電に「どうしてベントがすすんでいないのか」
 6時14分 菅首相が原発視察にヘリ出発
 ★首相、安全保安委員長が不在に
 6時50分 経産相が東電に第1原発1、2号機原子炉格納容器内の圧力抑制を命令
 7時45分 第2原発に原子力緊急事態宣言。避難・屋内退避指示
 ★10時間以上東電に命令せず
 10時17分 1号機ベント開始
 10時47分 首相がヘリで官邸帰着
 15時36分 1号機で水蒸気爆発
 17時16分 第1原発・敷地境界線放射線量異常上昇
 17時39分 第2原発10キロ圏内住民に避難指示
 18時25分 第1原発20キロ圏内避難指示
 20時05分 経産相が東電に海水注入などを命令
 20時20分 1号機に海水注入開始

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2011年3月31日 (木)

東日本大震災、力を合わせ乗り越えよう  3月31日

卒業生のみなさん、先生、父兄のみなさん
釜石市東中学校卒業式ができてよかったですね


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 今朝、早く目が覚めテレビをつけると、釜石東中学校で卒業式を行うことができたと、時間もとって放送していて嬉しくなりました。7時のニュースでももう一度伝えていて全部見ることができました。
 整髪をしにいったお店でもそのことが話題になって、みんなで喜びあいました。
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(卒業証書を受け取る男子生徒)
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(卒業証書を受け取る女子生徒)
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(道標=みちを歌う卒業生たち)
前回、東中の「てんでこ」の方言から津波に対する対応を初めて知ったのですが、その後、「しんぶん赤旗」日曜版で陸前高田市で津波で九死に一生を得た、山下文男さんの「身にしむ『津軽てんでこ』」の寄稿文を読んで、津波に対する避難の大切さをあらためて感じました。
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(使えない東中学校)
 残念だったのは病気で学校を休み病院からの帰りに津波にあい、犠牲となられた優さんのことでした。先生が、優さんのアルバムに寄せ書きをしょうとよびかけ、みんなが熱心に書いている姿を見てちょっと救われました。
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(亡き優さんへメッセージを書く)
 卒業生たちも初めての苦しい経験を乗り越えて、卒業を迎えられたことは生涯忘れることのできない生きる力になると思うのです。
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(福岡に転居することになった狐鼻若菜さん)
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(一生思い出に残る卒業式)
 先生方が、卒業式は難しいのではという状況を知恵と力を合わせ切り開いた姿もすごく感動的でした。
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(先生方が卒業式に必要な物を用意しました)
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(先生たちがピアノも用意しました)
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(道標=みちを歌う卒業生)
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(この子たちは大丈夫だと思いました。平野美代子先生)

みなさんに心からの連帯の気持ちをお伝えします。

happy01 日本中のみんながいっしょだよ。
3月29日、サッカーチャリティーマッチが大阪で開催され、日本代表チームとJリーグ選抜が被災されたみなさんに熱いエールを送りました。その模様の一部を動画で紹介します。
クリックして見て下さい。<iframe title="YouTube video player" width="480" height="390" src="http://www.youtube.com/embed/dJR0Z3CRRuE" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

★ 被災地支援サッカーマッチのダイジェスト版が見れます。
<iframe title="YouTube video player" width="480" height="390" src="http://www.youtube.com/embed/NyQJ8ESb5Z8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

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2011年3月24日 (木)

東日本大震災、力を合わせ乗り越えよう  3月24日

君たちを応援している大人の一人で

いつづけたいから

勇気と希望をもって、さらにもう一歩

踏み出してほしいと思う。


              旅立つ君たちに贈る言葉

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 釜石東中学校は海から近い位置にあり、隣には鵜住小学校もあります。
学校は大震災で使えなくなっていて、今は別の中学校に間借りしています。
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 (津波で使えない東中学校)
 岩手県釜石市は今回の大震災で567名が亡くなり、630名が行方不明になっています(23日午後3時)。

 釜石市東中学校では日頃から防災について学習してきました。その一環として、岩手地方の方言「てんでんこ」(てんでバラバラという意味)を使って津波防災啓発DVDも作りました。私は、今回ネット検索で初めて知り見ました。要約すれば、津波は英語でも「ツナミ」とう言葉で使われていることや、津波には①自分の命を守る②津波がいつ来てもいいように準備しておく③家族で津波の時の避難場所を決めておくという内容です。
 学校ではそれだけでなく、「助けられる人から助ける人になろう」と全校防災学習を行ってきたそうです。
 埼玉の意識水準が全く違うことを感じました。

23日、3年生が使えなくなった学校に

震災後初めて集まる


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 生徒たちを迎える中川和哉先生)
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 生徒たちがやってきます
 生徒の中には親しい友人が行方不明のままの人もいます。堀合悠斗くんもその一人ですが、級友が「お前生きろよ、何人分も生きなきゃ」と声をかけました。
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 堀合悠斗くんを励ます
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 お互いにVサイン

中川和哉先生から卒業生に贈る言葉

 中川和哉先生は「みんなが集まるのは今日が最後だと思うので、最後になるかもしれないからこそ、言いたいことを伝えておきたいことがある」と決意して生徒たちを迎えていました。

先生は、君たちのそばにいられなかった
救われたよ、君たちの笑顔が見られて。私以上につらい思い、経験をしてきたのに。
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 中川和哉先生
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 中川和哉先生
君たちを応援している大人の一人で
いつづけたいから
勇気と希望をもって、さらにもう一歩
踏み出してほしいと思う


 中川和哉先生の言葉に拍手が起き涙を流している生徒もいました。
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 期せずして拍手が
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 涙の生徒
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 連帯のタッチ
堀合悠斗くんは「こういう災害があったけど、負けないようにがんばって生きていきたい」と言葉をかみしめていました。
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 堀合悠斗くん

 私は、今年の3月で卒業することになっている「3年B組金八先生」とダブらせながら東中の放送を見ていました。
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  武田鉄也さん
 
私もみんなを応援しているよ。あきらめず、力を合わせ、前に進もう。

 

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2011年3月23日 (水)

東日本大震災、力を合わせ乗り越えよう  3月23日

犠牲者の埋葬の悲しいニュースが続きます
犠牲者とその人に繋がる人たちのことを思うと悔し涙が流れます


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 心から哀悼の気持ちをお伝えします
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「それでも、私たちは天を恨まず、助けあって生きていこうと思います」
                 気仙沼市階上中学校卒業式
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2011年3月22日 (火)

東日本大震災、力を合わせ乗り越えよう  3月22日

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 被災地のみなさんが、がんばり過ぎていないだろうかと心配になります。人間、そんなに緊張が続くものではありません。専門家の話では、心の問題が起きるのはこれからなのだそうです。
以前、「『がんばって』て言うけれど『今までガンバッ来ているのに、これ以上ガンバレって言うの』」と言われ本当にそうだと思いました。それ以来、「ガンバレ」の言葉に気をつけるようになったのです。

「外見は弱々しそうですが、精神は意外にタフ。華奢(きゃしゃ)な体で困難な問題に立ち向かい、勝利をおさめます。その気迫があるかぎり、たいていの問題は切り抜けられます。」 春 蘭(しゅんらん)の花ことば

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 我が家の庭で19日に春蘭が咲き始めたことを妻が気づきました。昨年、株分けをしてもらって大きな鉢に植えてあったのです。
 今年は、草花の開花が全体的に遅れていました。この時期に咲いた春蘭。私はすぐに花言葉はなんだろう。よい意味なら、各地で苦しみに耐えて立ち上がろうとしている人たちに写真を見てもらおうと思ったのです。それが上記の内容でした。

■ 大分から被災地にボランティアに入った方の言葉が印象に残りました。
「がんばらないでいい。私たちに甘えて下さい」

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(大分からボランティアに入った人の言葉)

● テレビで、避難所で手伝いをしながら、行方不明の両親を待つ小学1年と3年の
兄弟の姿が伝えられました。この兄弟の健気な姿に涙が流れてしまいました。こうした少年たちの心のケアをはじめ、多くの心を痛めている人たちの心のケアが大切になっているのではないでしょうか。


■ 二つの学校の卒業式

● 福島県大熊町小学校
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大熊町は福島第一原発事故で避難地域の町になり、あちこちに子どもたちが行っています。避難先の田村市で大熊町(小学校2校)と他の地域の小学生の「卒業の集い」が行われました。
● 岩手県大船渡市大船渡中学
教師たちが被害にあった学校の中から卒業証書を見つけ出し、3月11日の記憶が刻まれた卒業証書が教室で卒業生に手渡されました。
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(傷ついた卒業証書)
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(卒業証書が手渡されます)
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(体育館で「ふるさと」を歌う)
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(涙の父母たち・・・)
その後、避難所になっている体育館で「故郷」を歌いました。「うさぎ追いしかの山・・・・」父母たちの顔には涙が流れていました。子どもたちの成長した姿と故郷の姿がダブったのではないでしょうか。

 大熊町の小学生も、大船渡中学の生徒も犠牲になった子どもはいなかったのです。故郷復興の一翼を担って行くのは君たちです。前に前に進んで下さい。卒業おめでとう。

■ 「口数はすくないけど、前から大したやつだと感心していたので」
                      父の明さん
地震発生から10日目に救出された阿部任くんとおばあさんの寿美さん。100㍍も流された家の二階で生き延びたのです。
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 任くんは高校1年生。
救出を求めた第一声は「中に80歳のおばあちゃんがいるので先に助けて下さい」だったといいます。
お父さんの明さんがマスコミ関係者に言った「口数はすくないけど、前から大したやつだと感心していたので」の一言が、親子の信頼関係を強くしめしていました。

   

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2011年3月21日 (月)

東日本大震災、力を合わせ乗り越えよう  3月21日

世界中から支援と激励
117の国と地域、29の国際機関から


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東日本大震災に対し世界の国々、地域、国際機関と個人をふくめ支援と激励の声が寄せられています。
 世界中のみなさんの熱い思いに感謝の気持ちでいっぱいになります。
そして、日本から海外留学中の学生、スポーツ選手、外国在住の人たちが、外国の友人や現地の人たちと協力し支援と連帯の声を寄せてくれていることを嬉しく思います。
中国・胡錦濤国家主席が自ら日本大使館を訪ね見舞いの記帳をしたことも極めて異例のことでした。

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(スペインのサッカーチームで日本の選手はいませんが、こうした大きな看板で日本への連帯の意思を示しました)
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(イタリアでもインテルとバイエルソミュンヘンの試合前に震災で犠牲になった人々への黙とうをしました)
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(イタリアサッカーチームインテルのレオナルド監督も連帯のメッセージを寄せました)

● 留学生が世界の人と協力し

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(フランスのレンヌは仙台市と姉妹都市の関係に)
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(留学生が中心に募金の訴え)
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(折りヅルも作りました)
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(みなさんが良く協力してくれます)

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