NNNドキュメント
「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」
放送日時 2015年3月23日 午前0:50~1:45
☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:* ☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*
私は、NHKが2013年3月8日に放送した「それでも私は生きたい~いま明かされる戦争孤児の実像~」に強い衝撃を受けました。それまで、そうした事実の一部は知っていても、自らのこととし受け止めきれていなかったのではと思えたからです。
自らの反省もこめて、日本社会に知ってほしいと3月11日ブログで「東京大空襲から68年-戦争孤児の実像」を書きました。この記事にはアクセスが途絶えることなく続いていて、関心がもたれているんだと感じています。
戦後70年、安倍自・公政治は憲法9条を破壊し「戦争法」まで作ろうと動きを強めています。NHK朝ドラ「マッサン」は製作者たちの良心を気高く示し、それを見た私や多くの国民に希望と勇気を与えてくれました。
3月6日には「ふたたび この国を 火の海にさせないために!戦後70年・戦争被害のすべての解決を!大集会」に参加し、東京大空襲、名古屋、大阪、長崎、沖縄など空襲による被害者が国に対し「空襲被害者等援護法(仮称)」制定を求めて闘っている人たちと心を一つにしました。
日本テレビが、2015、戦後70年シリーズで3月23日
「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」を放送しました。
これは、どうしても知ってほしいと、放送の全内容を再現させてもらうことにしました。
前回から2年の経過があり、私自身、少しは勉強もし理解を発展させるこができたように思います。
☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:* ☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*
ナレーター 余貴美子



お父さん お母さん
どうして私をおいて死んでしまったの
「戦争孤児」 世間はそう言って、私たちにさげすみの目を向けた
親を亡くした戦争孤児はおよそ12万人。戦争が終われば平和が訪れると思っていた。だの
に、終戦は地獄の始まりだった。

ほんとうに野良犬って言われていたから、どけってなもので。痛さもがまん、食べたさもがまん、全てがまんで通ってました。

なんでこんな傷があるんだろうと思ってた時、思いだしたんです。土瓶をぶつけられた時の
傷だって。
だれが戦争孤児にしたの
親を返せ
人生を返せ
戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年
戦争孤児の金田茉莉さん(79歳)
スカイツリーがそびえる東京下町生れ。
故郷の街を見下ろすのはこの日が初めて(スカイツリー展望台)


「わあ~すごい
本当に今、信じられない思いですよね、こういうの見ると。ああいうことがあったのかって」
今から70年前、1945年3月10日未明の東京大空襲
アメリカの大型爆撃機B29およそ300機が下町を襲った。大量に投下された焼夷弾。木造の家が密集していた下町一帯に火の手が上がった。強風が吹き荒れる夜、炎は風にあおられ、またたくまに街をのみこんだ。橋の上は逃げ惑う人が押し寄せ、悲鳴、怒号、叫び・・・
爆撃は深夜0時8分から2時間半に及んだ。一夜にして推定10万人が命を落とした。



焼け死んだ人は炭のように黒く硬直し男女の区別さえわからない。東京下町一帯は焼け野原と化した。
金田さんの家族は、みな行方不明に。3ヶ月後、母(花江)と姉(嘉子)の遺体は隅田川から見つかった。妹(百合子)はいまも行方不明のまま。幼いころに父も亡くしていた金田さんは孤児になり親戚に引き取られた。


「もう川を見るとね、母たちのこと思い出しちゃうんですよね」
金田さんだけ一人助かったにはわけがあった。
当時、大都市の子どもたちは空襲をさけるため、国の方針で学童疎開をしていた。9歳だった金田さんは疎開で親元を離れ、大空襲の難を逃れた。しかし、

「一日も生きていてよかった思ったことないですね。私も母といっしょに死んでた方がよかったってどれだけ思ったかわからないですよね。何で残していったんだろうって」
孤児になってからの70年。
金田さんは「戦争孤児のその後の人生なんて考えたことないでしょう」と言い堰を切ったように話しはじめた。

「おまえはやしなってもらってるんだ、じゃまものだ、ここに置いてもらってるだけ、ありがたく思え。おれの言うことが聞けねえのか、とパチパチ。もう、あの召使、奴隷、お前は野良犬だって」
疎開で生きながらえた金田さんを待ち受けていたのは死にたいほどの苦痛。
53歳のとき、過去を振り返るため学童疎開の研究会に入会。
すると、


「私は戦争孤児は自分一人だけだと思っていたのが、あの人も孤児で、この人も孤児だって、こんなにねえ、学童疎開中に孤児が大勢出たんだなあって」
他の戦争孤児はその後どんな人生を送ったのか、金田さんは独自に調査をはじめた。しかし、孤児たちを探し出し話を聞くのは簡単なことではなかった。
「これが孤児の住所録なんですよ。思い出したくありませんとか、しゃべれませんとか、そういう人ばっかしなんですよ」

金田さんは2年かけて、文通や電話で関係をきづいた40人にアンケート調査を試みた。応じてくれたのはおよそ半数の22人。22人中18人が死を考えたことがあると回答。


青酸カリを持ち歩いていた
橋までよく行って死のうとした
壮絶な過去を閉ざしてきた孤児たちの声が聞こえてきた。
「私よりもっともっとひどい、つらい思いをしてきたんだなってことが、はじめてアンケートからわかりましたね」
調査をはじめて5年、金田さんは眠っていた貴重な資料にたどりついた。それは終戦から3年後に当時の厚生省が行った「全国孤児一斉調査結果」


「全国戦災史実調査報告書」1982年度 厚生省発行
3月10日の東京大空襲から日本全国で激しさを増した米軍の空襲、そして原爆投下。当時沖縄を除く全国の孤児の数は合わせて12万3千人。
「12万3千人の孤児がいてね、どうしてね、どこに消えちゃって、訳がまだわかんない。なんとかしてこれを調べてみようと」

終戦後、食糧や物資が不足し混乱していた日本。人々が群がる闇市に飢えをしのぼうと集まる戦争孤児の姿があった。親がなく、家もなく、保護してくれる人もない孤児たち。彼らは〝浮浪児〟と呼ばれた。

日本中から〝浮浪児〟がめざした場所がある。それは闇市で賑わう交通の要、上野駅。
調査で出会った金子トミさん(84歳)は当時15歳。親戚をたよって家族で疎開した山形で空襲に遭った。両親を亡くし、幼い妹と弟を連れて、上野駅の地下道にたどり着いた。

「こちらの方にずうっと・・孤児がここでこうして寝たってことです。ずうっと居ました」
毎晩、足の踏み場もないほどに人が集まり、寝床となった地下道。その中には幼い〝浮浪児〟たちの姿があった。
「あ~あの子居ないなと思うと、中には亡くなった子もいました。人に恵んでくれるという方もいませんし。ただただ、国はどうしてこんなに冷たいんだろうって、それしか思いませんでした」

3ヶ月暮らした上野の地下道
「やっぱり思いだしますね・・・なんか・・・」(上野の地下道に立って)
朝が来ると兄妹3人は日が沈むまで上野公園で過ごした。

「ここがね、朝からずうっと陽があたるんですよ。だからその辺にいたんですね。(上野公園で)その辺で3人でいたんです。弟いる前で涙は流せませんしね。がまんして、弟だけその辺に行ってくるとか、二人で手をつないで行ったときには一人でそこでよく泣きましたね」
23歳で結婚。夫は春になると毎年『上野に桜を見に行こう』と誘った。でも金子さんは『もう見たから』と断り続けた。〝浮浪児〟だった過去は夫に最後まで明かせなかった。
神戸大空襲で両親を亡くし、10歳で「浮浪児」になった山田清一郎さん(79歳)も上野駅で生活した。

「当時、我々孤児に対して本当にやさしい言葉をかけたり、物をくれたり、親切にしてくれた人なんか、どこにもいなかった。本当にいなかった。水ひっかけられたり、本当に野良犬って言われていたからね。どけってなもんでね、きたないってね。それが私たち戦争孤児。私、絶対忘れないですよ。ずうっと、23年ぐらいまで日本人がいかに戦争孤児に冷たく扱っていたか。
金庫の中で暮らしたこともあるという。残飯をあさる毎日。
「犬を見て犬に教えられたんですよ。残飯食べる時、犬は上えの方から上手に食べるんですよ。我々は持ってつかんで、下から持ってくるから、下の方が痛んでるから、どうしても痛んでる方、食っちゃうんだよね。本当の犬はりこうだから上の方だけ食べる。それをまねして上の方だけを食べたけで、それでも腹痛はしじゅうやってました」

残飯をあさる他、「浮浪児」が生きていく手段は物乞いをすること。中には、靴磨きの商売を始める子どももいた。新聞を仕入れて路上で売る少女たちも。自らの力でたくましく生きた浮浪児たち。その一方で、スリ等の犯罪に手を染める子も。街にあふれる浮浪児は不良少年という目で見られ、世間からきらわれていった。
行政は強制手段に出た。



街にあふれる浮浪児に対し、強制手段に出た。それは〝刈り込み〟浮浪児を街から根絶せよと、いやがる子どもをつかまえ、脱げないよう服をぬがせ、いっせい収容した。これは東京都養育院に入れられた浮浪児たち。栄養失調でお腹かがふくれ、あばら骨が浮き出るほどにやせ細った姿。
自由を奪われた彼らは職員の目をぬすみ脱走を繰り返した。

ボランティアで収容された子どもたちを慰問した森田みどりさん(87歳)
「覚えているのは子どもたちの顔だけなんです。土色の顔をして、とにかく笑いもしないし、しゃべりもしない、にらみつけているような子どもたち。その顔はとても印象的で」
山田清一郎さん
「つれてかれると全部裸。おまえら黴菌の塊だなんて言って、寒くてもなんでも水道の水をじゃーじゃーかけて、きれいにして。もう暴力は当たり前って感じだよね。運悪く捕まる、連れて行かれる、ほうりこまれる。なにしろまた飛び出して逃げてくる。そんな繰り返しがあったね」

刈り込みの目的は街の浄化と犯罪の防止
職員はいやがる子どもたちを捕え連行した
戦後、5年が経過し働ける歳になると浮浪児たちは少しずつ街から消えていった。
同じ戦争孤児でありながら、知らなかった浮浪児の存在。
金田さんは思いを強くした。
「学童疎開は子どもたちの命を守ったかってね、私たちは言いたいわけですよ、孤児にされた者たちにとっては。私たちは親たちと死んでいたほうがよかったんですよ。一人生き残されるぐらいだったら、命を助けたってことにならないんですよね」

浮浪児にならずとも、いじめや差別を受けた孤児も多い。
画家の狩野光男(かのうてるお)さん(84歳)
東京大空襲の体験を元にこれまでに100点近く空襲と戦争孤児の絵を描いてきた。当時14歳。空襲を逃げ延びたが両親を亡くし親戚に引き取られた。
(日本刀を抜く)これです。

狩野さんは転校先の学校で同級生を殺そうとしたことがある
「『親が死んだぐらいでなんだ。あまったれんじゃない』って言われたんで、むかーっときて言い返したら、『こいつなまいきだ』ってんで、5~6人でよってたかってなぐるけるの暴行をうけたわけですね」
その翌日、家から日本刀を持ち出し暴行した同級生に襲いかかった。学校は退学になった。
「普通の時だったら考えられないようなことをやっちゃうんですね。別に一人二人死んだってどういうことないって」
(そう思ってたんですか)
「そうだったから。だから戦争は人間をめちゃくちゃにしてしまうということですね」
国は戦争孤児たちをどう保護したのか。
終戦の一ヶ月後に国は保護対策要綱を発表。対策の中心は親戚など個人家庭の保護委託と養子縁組の斡旋だった。

わずか3歳で両親を亡くし親戚に預けられた吉田由美子さん(当時3歳)
「両親の顔を3つですから記憶に残せていないんです。もちろん、声も記憶に残せてません。でも心の中では『お父さんお母さんどうして私を置いていったの、なんで私だけ置いて
いっちゃったの』って」
当時、両親と暮らした場所をたどると
「わかりました。ここだ。ここです」
今は立体駐車場に。
両親と妹の遺体は70年経った今も見つかっていない。
吉田さんは妹の戸籍謄本の写しを大切に持っている。


「次女恵津子、拾番地にて出生。昭和和20年3月10日、空襲により死亡。これが全く妹の生れたのと死んだのと、残っているのはこれだけ。その間たったの3ヶ月。3ヶ月の命だった。これがなかったら、この人、生れたのも死んだのも、人知れずわからなかったと思います。写真1枚この世に残しておりませんから」
当時、避難所になっていた小学校。戸籍では両親と妹がここで死亡したと書かれている。
「これが業平小学校」
孤児になった吉田さんは、やっかい者扱いされ親戚をタライ回しにされたと話す。
「もう情がないですから、私は仏壇に上げるご飯を盛る、そのご飯が、いつも私の食べものでしたよ。冬は乾燥してカリカリになりますよね。お湯をかけてちょっとやわらかくなりますでしょ。それを食べる」
おねしょをしてしまった朝のこと
「雪の積もっている外に出されて、外に凍りついている水を、バケツで私の身体めがけてざぶーんざぶーんとかけるわけ。寒さと冷たさとそしてお腹の痛さと耐えられなかったんです。迷惑掛けているという後ろめたさに、子どもながらになんにも言えなかったの。やれるがままに、『おばさんごめんなさい』って言うしかなかった。
当時、9歳だった永田郁子さんも東京大空襲で孤児になり、親戚の家に預けられたという。

「親戚というのは、本当に罵倒されるかそのくらいだから、親戚なんかいらないと思って。親戚頼るより赤の他人の方がずうっと親切です。物がちょっとみつからなくなったらしんですよ、箪笥のなかで、そしたら、『おまえが盗ったのか』と怒られて、私知りませんよ、そんなの。泥棒扱いされたのがすごくいやで、それでその時いっしょに『おまえは畳の部屋へ行っちゃいかん』と言われたんです。ですから、いつも土間から板の間に居て、寝るのも板の間。それ以外は奥に入るなって言われましたからね」
当時の永田さんを支えたのは、両親と3人の姉たちが亡くなる前に疎開先に送っていてくれた手紙だった。それは家族から愛されていたかけがえのない証し。

「結局ね、なにがつらかったかというと、お金がないとか、空腹とか、それはそれでありますけど、それよりも、自分の気持ちをだれかに伝えるってことができないんですよね。嬉しいとか悲しいとか全部自分の中に閉じ込めなければならないから。そういう時に手紙を開いて、元気をつけてもらったという感じですね」
空襲の被害が大きかった墨田区の資料館には、戦争孤児の星野光代さん(81歳)が描いた絵日記が展示されている。
星野さんも11歳のとき、学童疎開中に東京大空襲で両親を亡くした。幼い妹と弟との3人が孤児になり取り残された。親戚の家を転々としたという。不安にかられた星野さんたち兄妹は


「おばの家から逃げたんですよね。当時は親のいない子なんか、じゃまものだったんですよ。みんな親戚の血が繋がっている子どもだろうとなんだろうと、もう、どっかに消しちゃいたかったのね。このまま、ここにいたら危ないぞと分かった。どうして私たちだけ残して死んじゃったのって言ってね、みんなで声をあげて泣いて・・。大人になってからの苦労よりも、この時が苦しかった。
こういう子がいっぱいいたんですよ。戦争中」
東京大空襲で孤児となった当時9歳だった草野和子さん(79歳)は親戚の家で言われた言葉が忘れられない。

「家には泥棒猫が3匹もいるのよ」って。ああ、やっぱり、私たちが泥棒猫だって思ってたんだってね、それこそ本当は帰りたくなるような猫ですよね。悔しいのと悲しいのとでね。もう生きていたくない」

とっさに家を飛び出し近所の踏切まで走った。
列車に飛び込む寸前、おぶっていた赤ん坊が泣きだし、はっとわれに返った。
「心に氷が張りつめているような毎日でした。もう本当にね。だからそういう状態の中で聞いた“泥棒猫”がすごくこたえたんだと思うんですねえ」
親戚の顔色ばかりうかがう日々
学校の健康診断で結核と診断された時も、言い出せなかった。後に妊娠にも影響をおよぼすとは夢にも思わない。
「妊娠したんですね。それが子宮外妊娠になっちゃって。その子宮外妊娠っていうのが結核性腹膜炎による癒着が元なんです。まさか子どもが産めなくなっちゃうなんて思えませんからね。ちゃんと病院に行って治していればね、そんなことなかったんですけどね。だから一人も子どもがいないんですよ。本当は自分の子ども何人もほしかったんですけどね」
養子に出された孤児もまた過酷な生活を強いられた。
米川琴さんは親戚の家を追われ12歳の時、児童相談所から千葉の農家に養子に出された。

「私の顔見るなり、『なんだ、もっと大きいの拾ってくればよかったのに』って。拾うっていう言葉があんまりにもね、なんかずしんときましたけどね。学校にはぜんぜん行かせてくれないんですよ。約束が守ってもらえなくて。朝から晩まで赤ん坊おぶりっぱなし、時々おろしてオムツ取り替えて、それで赤ちゃんが寝ているときに、掃除、洗濯。私はなんのために、こんな千葉の田舎の方まで来たのかしらと思って」
児島武さん(当時11歳)は東京大空襲で両親を亡くし、預けられた親戚の家から12歳の時に養子に出された。

「そっから始まったんですよ、私の人生のどん底ともいうか、奴隷と同じだよね。力仕事、マキ割り、水汲み、そんなの当たり前で、私が食べざかりですから、ご飯って茶碗を出すと、『お茶か水か』って言うんですもの『ご飯か』って聞かないですもの。だから、う~ん水ってなっちゃうんですよ」
15歳で働きに出ると、給料はすべて家に入れ、帰宅後は毎晩、養父母のマッサージだったと話す。
「首から足の先まで、お父さんのやるわけですよ、終わったら次お母さんの足まで。11時頃になるとね、私も眠くなっちゃう、すると促される。自分という性格を殺していっしょに家族といないと生きていけないもの」
その頃、親戚の家に預けられた1歳下の弟から助けを求める手紙がたびたび届くようになった。弟は身体がボロボロになるほど働かされ、馬小屋で寝る毎日だと言う。
「『武くん小生の就職を探してください。お願い致します。田舎はだめです』」

東京で探してほしいと懇願する手紙。弟は疲れ果てていた。手紙には悲痛な思いが並ぶ。『両足を沼の中にでも引き込まれるようで、何かにぎろうと思うが、まるで雲を握るよう』
しかし、児島さん自身も奴隷のような毎日。弟をどうしてやることもできなかった。弟はその後行方不明になった。
「戦争の話を思い出すのがいやでしなかったんです。あの~戦争中のことは私もそのまんま受け止めますけどね、戦後のこの大変なことを、だれかには伝えたいなあと思っている」
意を決してつらい過去を明かした孤児たち。
一方で親戚や養子先にも事情があった。
戦後の食糧難、よその子を食べさせる余裕はなかった。
戦争で男手を失いどこも労働力が不足していた。
孤児たちは生きるために心を殺すしかなかったのだ。
引き取りのない孤児たちはどうなったのか。集団疎開先に残された孤児たちは国が保護するとした。

東京都では多摩地区の寺を中心に8ヶ所の孤児学寮を設置。東京都の記録では集団疎開先に残された1169人のうち345人を保護したとされている。 孤児学寮の一つ、東光寮で3年ほど生活した山崎格(いたる)さん。


「ぼくんちは代々江戸っ子だから、親戚はみな東京だったから、みんなやられ、僕一人が残った。だから文部省はよくやったと思うよ。最低限の食べる、寝る、疎開の延長ですから。それはなれてますよね。学校行って、3時頃帰ってくるんですね。野球やるんなら、最低の道具は集めてくれたり、寄付が多かったんですね。又は畑を教えられて、自分たちの生活のためですよ」
20年以上、戦争孤児の生の声を聞いてきた金田さん。
「国が、施設で教育したっていうのは、ほんのわずか」
ある結論に行きついた
「孤児は国から捨てられたということ。国に対しても社会に対しても、なんか恨みを持って
死んで行くんじゃないのかなあという気持ちがしますね」
私たちは、すきで孤児になったわけじゃない。
一夜にして推定10万人の命を奪った東京大空襲。軍関係者とその遺族には国から補償がある一方、民間の被害者や遺族に対しては保証がない。
2007年3月東京大空襲の被害者と遺族は国に損害賠償と謝罪を求めて集団訴訟を起こした。最終的な原告は131人。そのおよそ半数が戦争孤児だった。金田さんも原告に加わった。国がはじめた戦争に人生を狂わされた共通の怒りが終結した。しかし、2009年の一審判決は請求棄却。判決は「国民のほとんどが何らかの形で戦争被害を負っており裁判所が救済の対象を選別するのは困難」というもの。

原告で戦争孤児の草野和子さん
「司法というのはこんなに冷たいものなのかと。本当に人間として扱われなかった孤児たちの思いを私はこれからも訴え続けていくつもりです」


高裁も最高裁も敗訴。戦争孤児や空襲被害者の訴えは届かなかった。
ふたたびこの国を 火の海にしないために!戦後70年・戦争犠牲のすべて解決を!アピール 「15.03.6.docx」をダウンロード
国からの保証はない、謝罪もない。
それならせめてきちんと慰霊してほしい。
東京都が建立した空襲犠牲者を追悼する碑。内部には犠牲者名簿が納められている。戦後50年以上経って遺族からの強い要望で作成がはじまった。(1999年から)記載される名前は遺族の申し出に基づいたもの。その数およそ8万人(2015年3月現在8万324人)。しかし、プライバシー保護ということで公開されていない。

慰霊堂の裏にある納骨堂。特別に許可を得て中に入ると、遺骨が納められた陶器が天井まで6段、所狭しと並ぶ。一つの陶器に納められているのは身元が判明していない200~250人の遺骨。全部でおよそ10万5000人の遺骨。しかし、ここはもともと震災祈念堂。すぐ隣に関東大震災の犠牲者およそ5万8000人の遺骨が眠っていた。
終戦から3年経ち空襲犠牲者もいっしょに納めることになり、その後、東京都慰霊堂と名前を変えた。金田さんは複雑な思いを抱いている。

「間借りしてるわけですよ。他人の墓に入れているわけですよ。だから別にしてほしいということを言って、自分たちが安心して手を合わせる、安らかに眠ってほしいって手を合わせる所がほしいんですよ。それを、いまだにここに置いてある。空襲の歴史やら無くなっちゃう」
独立した追悼の場を、その思いは届いていない。
金田さんが今、心から手を合わせられる場所は一人の戦争孤児が建てたこの慰霊碑の前だけだという。その孤児とは。エッセイストの海老名香葉子さん(81歳)疎開をしていたとき、東京大空襲で両親が行方不明になり、その後親戚の家を転々とした。

「国からおにぎり一つ乾パン一つ、なんにももらっていない。で、あの戦後の時期、小学校5年生6年生ですよね。あの時期を過ごしてきたその本当の遺族ですよね」
「本当にいっしょに死ねばよかったとつくづく思いますよね」
「どうしてみんなと死ななかったのかなあと思いました。70年経っても母はまだ生きているようで、夢みます」

独立した慰霊の場がほしい。思いが重なる。
2015年3月9日、毎年、海老名さんは独自に空襲犠牲者の供養式を開いている。慰霊碑は10年前に私財を投じて建立した。40年以上、国や都に追悼の場を求め続けてきたが納得のいくものは造られず、自ら立ち上がった。金田さんは毎年欠かさず参加している。

「東京大空襲があり、みんな、いなくなってしまいました。もっともっと偉い人たち、大人が追及して考えて、慰霊して、納めてくれないのかなあ。これからも本当にみなさん元気でがんばって100年、ご供養続けていきましょう」
その翌日、東京大空襲から70年目の3月10日。東京都慰霊堂では第法要が行われた。関東大震災の犠牲者と合同の法要。この日は納骨堂の扉が開かれる。
「ねえちゃんまた来るからね」

平和が訪れる。戦争を知らない世代が増え、あの浅草の浅草寺が3月10日の空襲で焼かれたことを知る人がどれだけいるだろうか。

境内の片隅にたたずむ御神木のイチョウ。いっけん元気そうに見えても、中は・・・空襲の焦げ跡が今も残る。70年の月日を経ても癒えることのない内なる傷。
● 戦争孤児の心の叫びを聞いてほしい

「どん底ばかりじゃないよ、がんばれよなんて、簡単に言うなってことを言いたいわけ。一人で生きてきたわけ。戦争孤児は私だけじゃなくてね、本当に一人なんですよ」

「戦争のおかげで一生のうちに方向が大分狂わされたんだなあって」

「疎開行かないで死んじゃった方がよかったのにというのは何べんも思いましたね」

「神も仏もいないんだと・・いうことは、山歩いてどなって歩いていたことあるよ」

「国から国への謝罪はあっても、私たちには一言もすみませんもなかったですからね」

「お国がなんか、こうしてやるよということもないし、だから私に言わせれば戦争続いているようなもん」

「一番かわいそうなのは子どもですよね。子どもはどうすることもできないから、自分の力じゃ生活できないから」

「自分が死ぬには弟、妹を殺さなきゃならないでしょ。そうすると、それも罪だし、どうしたらいいだろう。いろんなことを考えたりして日を送りましたね」

「あんな悲惨なことを子どもたちが味わうことは、決して許されないんじゃないかな」

「歴史認識って言うんだったらば、そういうことも含めて、ちゃんと残さないと、後世の人が間違っちゃうと思うんですよね」

「世の中が戦争へ戦争へとなっていくような風潮があるじゃありませんか。もう絶対こりごり。もうこりごりですよ」

「世界中どっかで戦争が起きてるのね。いつもテレビ見ながら、とてもつらい思いでいますね」

金田さんは今も調査を続ける。
「もう昔のことは思い出したくないからお断りします」という人も。
地獄を生きた戦争孤児たちの遺言
最近のコメント