戦争と平和

戦争と平和

2017年10月17日 (火)

「戦争に近づかない」ために 丹羽宇一郎 赤旗・焦点・論点

Img_00031

Img_00032

 今回の本で言いたかったことは、「国民のみなさん、戦争に近づかないようにしよう」ということです。戦争をやるにしても、やらないにしても、政治家はそれらしい理屈をつけます。
 北朝鮮問題で安倍政権は「対話と圧力」と言い続けてきました。私はどんな対話をしてきたのか教えてもらいたいです。対話は〝有言不実行〟ではないのか。金正恩(キムジョンウン)委員長との首脳会談はゼロ。安倍首相はいまでは、「対話のための対話は意味がない」と言っています。
 北朝鮮が正しいとは思いませんが、あの国が全面降伏するとも思いません。圧力一辺倒は外交上の愚策。やり続けたら戦争しかなくなる危険な道です。日米中韓ロプラス北朝鮮の6者協議の再開に踏み出すことが唯一の道です。
 最近の反中、嫌韓の世論も気になります。相手をバカにし、敵意を持てば、相手も同じ感情を持ちます。人は自分の鏡です。いくら相手をバカにしても、それで自分が立派になることはありません。一時的に留飲は下がりますが、自分自身の尊厳も下げます。
 お互いに共通することだけでなく、違っていることを認め受け入れることが基本です。敵意や戦意をあおるのは、平和友好を説くよりもずっと簡単で、国民の感情的な支持は得やすいものです。現在の日本でも、北朝鮮や韓国、中国に対し、強硬な議員の方が支持を得やすいでしょう。
 日本人に限らず、外国と対立すると、国民は強硬論を好む傾向にあります。慎重論は弱腰とされ、政府の政策が強硬になるとメディアも自由を失い、強硬論以外は排除されていきます。戦前のメディアがまさにそうで、いままた同じ過ちを繰り返そうとしています。

 私か著書でもう一つ訴えかかったことは、戦争を知らない時代に生まれた者がまず第一にできることは戦争の真実を知ることです。戦争を知らず、知ろうともせず、安易に戦争を口にすることは無責任です。結局、国家、国民、そして自らを害することになります。
 私は今回、この本を書くにあたって、戦争体験者に取材し、戦場の真実を聞きました。フィリピンに出征したある元日本兵は、敗戦近くでは「こちらが一発撃つうちに敵はそれ以上撃ってくる。とても応戦などできるものでない。逃げるのに精いっぱいだった」と証言しました。反撃手段すらなかったのです。
 他にもさまざまな証言を聞きました。「曹長は主計中尉とその部下を殺して食料を奪った」「現地での婦女子への強姦も横行した。自分もやった。どうせ死ぬのだから何をやってもよいと思った」
 極限状況に置かれた人の集団は、たやすく鬼畜になるのです。これが戦争の真実です。日本人としては記述の筆が鈍りますが、こうした事実から目をそむけては、戦争の真実には迫れません。
「安全保障とは防衛力」と思い込んでいる日本人が多いと感じます。国会議員でも安全保障の議論をすると、中国や北朝鮮からの攻撃をどう防ぐか、どう反撃するかばかり話す人がいます。
 敵をつくらないことが目的の安全保障に対して、敵がいないことには成り立たないのが防衛計画です。仮想敵国を定め作戦を練るわけです。安全にとって最も大事なことは、敵をつくらない政策だと思っています。
 私は日米安保条約を全面否定するつもりはありません。ただ、アメリカに依存して、日本の安全保障を正面から考えようとしない日本の思考停止状態にこそ問題があると思います。
 仮に尖閣諸島で日中が軍事衝突したとします。アメリカが本国から遠く離れた無人島のために、自国の若者の血を流す決定をしますか。中国との経済関係を反故にして日本を助けますか。大統領が、「アメリカ第一」を公言する国ですよ。
 アメリカにとって必要ならば、曰本に関係なく米軍を動員します。在日米軍は日本を守るより、アメリカの極東戦略、西太平洋の制海権を確保するために存在していると思います。だから、軍事同盟というのは、日本とは無関係な戦争に日本が巻き込まれる危険もあるのです。

 日本が目指すべきは世界中から尊敬される国です。尊敬される国とは世界を屈服させる国ではなく、世界が感服し、見本となる国です。平和的手段で問題を解決するというのは当たり前のことです。
 歴史は勝者がつくるものといわれます。日本が目指すべきは「敗者の歴史」を冷静に検証する国です。
 相手にいかに非があっても、武力で正す方法は避けなければいけません。戦争による解決は選んではいけないのです。
 まもなく総選挙の投票日です。立候補者には、「当選することだけを目的にせず、自分たちの主張を明確にしなさい。民主主義は民が主人で、党が主人ではない。自らの党のために主張を変えた人は国民に説明しなければならない」と言いたいです。私は主張が明確な候補者に投票するつもりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月13日 (火)

祖父、父から今に受け継ぐ朝鮮人殺害の歴史を聞く

 NHK ETV特集「関東大震災と朝鮮人―悲劇はなぜ起きたか」が2016年9月3日に放送されました。
 この番組のプロローグに、私が昔お世話になった高橋隆亮(たかはしたかすけ)さんが登場したので「あれ隆亮さんじゃないか」と驚きました。すぐに高橋さんとわかりました。番組は日韓関係で様々な問題がある中で、一部制約されていて不十分さを感じる点もありましたが、前向きに関東大震災での朝鮮人迫害に迫り、震災が多発する日本で二度とこうしたことを繰り返してはいけないというメッセージを発信したすばらしい内容だったと思います。
 放送を視聴してから、高橋さんを訪ねてお話も聞き、姜大興(カンデフン)さんのお墓まいりもしたいと考えました。すぐには実行できませんでしたが、10月15日、高橋隆亮さんを訪ね、懐かしくお会いもでき話も聞いて、お墓参りもすることができ充実した日となりました。
 お聞きして、私が知らないでいた、いくつもの事を知ることができました。高橋さんからお聞きしたことを記録に残すことにしました。

Img_4349

 問答形式でお聞きした内容をまとめました。

Q、なぜ高橋さんのところにNHKの取材がくるようになったのですか。

A、1923年9月1日に関東大震災が発生しました。
当時、おじいさん(高橋吉三郎)は片柳村第三区染谷の区長で親父(高橋武男)は学生だった。
小学生の頃から、常泉寺(曹洞宗 瑞谷山)の家の墓のすぐそばに姜大興(カンデフン)さんの墓があり、「朝鮮人の墓だから、線香上げろ」と言われてたんだよ。(姜大興さんの命日は9月4日)
 そういうこともあって毎年9月4日に線香をあげ、追悼式をやるようになって今年で10回になる。
 NHKから日朝協会埼玉県連の関原正裕さんに取材の話が入って、「代々朝鮮人の墓に線香あげている人がいるよ。」との紹介で15年12月頃に話が回ってきた。
だんだん親父の話が出たり、おじいさんの話が出たり、そうこうしているうちに、撮影が始まったのは今年の6月頃。お盆過ぎまで放送することも全然わからなかった。日朝協会の方に放送の骨子が来てやることがわかった。
去年の夏に古い机(簿記台)の引き出しに、おじいさんが持っていた染谷の事件に関わる書面が出てきた。いまは関原正裕先生の所にいってしまっているけど。次々に出てきたんだ。
要するに、国、県、村、軍隊が全部通達出してきているわけだよね。埼玉県にもそういう文書が古文書館にあるんだよ。通達が出してあったということがわかる。だけど、受け取った側の書類なんてどこにもないんだ、93年も経ってんだから。それが出てきてしまったんだ。
吉三郎殿で来てるわけ。第三区長だから。片柳村に13の区があって染谷はその三番目。それでこういう文書が出てきて確かに来ていたということで証拠になった。それで、NHKが来るようになったわけだよ。

Q NHKはいつごろから企画していたんですか
A わかんない。なかなかできなかったみたい。

Q 1923年9月3日の夜から4日の未明、2時か3時ごろに集団的な殺害事件が起きたわけですよね

A 震災の中で姜大興(カンデフン24歳)さんは偶然に迷い込んできてこの事件になったのでは。まわりの雰囲気と社会状況の中で。
自警団作っていたから。浦和方面からきたんじゃないかという。浦和岩槻県道で東新井に来ないうちに山という所があって崖になっていて、飛び降りたときにショウガ畑とサツマ畑のつるに足とられて、捕えられてめった切りされ瀕死の状態で、生きていたんで、戸板に乗せられて医者に連れていく途中で亡くなった。即死ではなかった。

Q 裁判に訴えられましたよね。最初は不問にしようとしたんでしょう。

A 最初は逆なんだよ。不逞朝鮮人をやったんだから手柄だよ。
ほうびもらえると「おれがやりました」「おれがやりました」と、みな手柄話で警察に行ったという。ところが3日ぐらい経って殺人事件で捜査が始まったら、「おら知らねえ」「おらしらねえ」と変わった。

Q 国会でも取り上げられ問題になって国の対応が変わった

A おじいさんが区長で、みんなでやっちゃたんだから代表で若い人と経験者と5人代表作って、この人たちが中心にやったんだというのを出して、逮捕された。その後、村のためにやってもらったんだから嘆願しようじゃないかと。井戸に毒を入れたとか、流言飛語にまどわされて、やっちゃったんだから罪はないんだという意識で嘆願運動をやったんだ、おじいさんたちが。軍隊帰りの軍人が2人いて、その人たちがやったんじゃないかという話も。〇〇〇とか、△△△とか名前出てるから。「かくされていた歴史」という本があるんだ。(本を持ってくる)この中で染谷の事も取り上げられていて、作次郎さん(67歳)の証言と親父(武男)の証言が書いてある。作次郎さんはおやじより年上だからその場に加わっていたんだね。

Q 姜大興さんを墓に埋葬したのはいつなの
A わからない。推測するしかない。その年のうちに埋葬したのはたしか。

Q でもその当時としては本当によくやりましたよね

A 墓建てるのにお金もかかるしね。墓石といっしょに御影石で碑文が書いてあるのは、2004年ワールドカップが日韓合同開催された際にお寺の坊さんが自費で作った。韓国の人にすると骨がほしいんだよな。埋葬はされているが骨はない。これまでに3回、お墓の区画整理があって移ってしまっている。家の墓の前にあったのが、移動し、さらに移動し今の場所に。だから、親父に聞いたけれど、いつ建てたかまでは学生の時でわからなかった。おじいさんに聞いていればわかったかもしれないが。おじいさんは自分が高校生の時に亡くなっているから。
 9月3日の夜から追い回されて4日に亡くなっている。名前がどうしてわかったかは持ち物か何かに書いてあったんじゃないかという。
 墓石に染谷一般って書いてあるんだよな。だから染谷の人が墓建てたんだということはわかるんだけど、虐殺とか殺しちゃったということは一言も、虐殺まではいかないけれども、暴行加えてね死亡したってそういうことは書いてないんだから。死亡って書いてあるんだ。死亡じゃ病気だって死亡だって、撮影の時に、ここで、そういう話をしたんだけど、その部分は放送されたね。
 NHKが取材で繰り返し言ったのは、朝鮮の人が亡くなっていて、それを、お墓参りしたりするってことは、村の人から染谷の古き傷を掘り出してと攻撃はないのかという心配だった。
でも、おれにそういうこと言う人一人もいねえよね。
追悼式に何人かは参加するんだけれども、ずうっと参加する人いないんだよ。戦後、婦人会があって、婦人会は戦没者と朝鮮人の墓が、どうしてだかいっしょになっちゃって、春の彼岸とお盆と秋の彼岸に、なにもわからないんだけども、墓参りしていたんだよな。
 今は話しできる人いないんだよね。もう年とっちゃって。おれがおじいさんや親父から聴いた話をやってるんだけど、それだけなんだ、地元は。
 追悼式は日朝協会埼玉県連合会主催で毎年9月4日に常泉寺の本堂を借りて行われていて、今年も56人が参加した。今年は、9月4日が日曜日で「広島・長崎の火」を囲む集いと重なったため勉強会はコミセンでやった。

Q 朝鮮人殺害に焦点あてたのだからしょうがないけど、亀戸事件には全然ふれなかったよね。ちょっと残念

A そうだよ、おれ言ったんだよ。
川合義虎が殺されているし、当時の労働運動の先進的な人たち10人が殺されてるからね。それはおれ言っているんだけど、カットされたよ。
 実際はおれなんかがしゃべったことでもけっこう削られてしまっている。日朝協会が中心に調べた「かくされていた歴史」(87年に発行 関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会と日朝協会埼玉連合会が共同で発行)では埼玉で朝鮮人が240人殺されている。本庄、深谷など県北の方が激しかった。大宮は1人だった。放送では当時の司法省資料が使われ全体で231名、埼玉では94名となっている。神奈川なんか何千人って死んでるかわかんないんだそうだ。資料では神奈川では2人しか死んでいないことになっている。そんなばかな話ないっていうんだよ。
 あの放送では国の言い分はこうだけれども、民間で調べた段階で6600人とか(一番多いんだけど)、あと2500人とかいろいろ説があるんだよね。日本会議なんかはそういう数が定まらないんだから、なかったって言うわけだよね。だからそういうところは全然放送されない。

Q 放送後の反響はどうですか

A けっこうきているよ。
終わってからは、NHKには日本会議などからガンガンなんだって。激しいんだって。メール、ファックス、電話など。おれの家にも当然来るだろうと思っていたんだけど全然こないんだ。別にきたってさあ、歴史的事実のそれしかないんだから。NHKは大変だったんだろうな。
 県会議員も訪ねてきて案内と説明をしたよ。

Q プロローグで高橋さんが出てきたんで「隆亮さんじゃないか!!」って驚いたんだ

A すぐにわかった?

Q わかったよ。わからないはずないじゃない。
A お互い年とったけれどな
Q だから、10月に入っちゃったけれど、直接できるだけ早く高橋さん訪ねてね、墓にも行って説明も聞かせてもらおうと思っていたんだ。話を聞いて、さすが高橋さんだね。NHKがいろいろカットしたとしてもさ、高橋さんの短い言葉の中に思いが込められていて、ああいう事件を見過ごさないで、我々の朝鮮の人に対する加害責任や植民地支配の歴史の反省がないとだめなんだとあらためて思ったね。

A そうそう

Q 今日は本当にありがとうございました。

Img_4331
姜大興の名前が刻まれている
Img_4344
大正12年9月4日
空 朝 露 如 幻 禅 定 門 位
  関東地方大震災ノ節当字ニ於テ死亡
        施主 染谷  一般      と刻印

.。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。.         

〇 朝鮮人の犠牲者数
政府がこの事件を隠そうとしたこともあって定かな数は出されていない。
自主的・民主的学者、活動家が研究を続けている。

20161029_3

161020

《国側》
①  当時の司法省資料に記されている数は
231名  埼玉では94名となっている。
362名が起訴されている。判決は2~3年で執行猶予付き
②  内閣府の中央防災会議の朝鮮人迫害についての報告の中で朝鮮総督府が1923年6月に832名が死亡・行方不明とし1人200円の弔慰金を支給したと記している。

《「かくされていた歴史」埼玉より》
223名~240名  1973年調査 実行委員会調査
2613名   1922年12月15日の衆議院本会議で永井柳太郎議員が政府を追及した中で報告している。
 このなかで、埼玉県の合計数は551名(9ヵ所)となっている。

《独立新聞社特派員報告》 大韓民国暦5年―1923年11月28日
この報告では死亡者数が6,661人と記されている。

「かくされていた歴史」 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件
   増補保存版 1987年7月1日発行   
 関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会と日朝協会埼玉連合会が共同で発行
第一部は関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が1973年10月の編集
第二部は関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会・日朝協会埼玉県連合会が増補部分となっている。   1987年7月1日で発行された。

常泉禅寺(じょうせんぜんじ) 外の額の文字  

(注)戒厳令は1923年9月2日、地域限定で公布された。
 東京市、荏原郡(えばら)、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡

☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*

《証言記録から》


関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が1973年に発行した「かくされていた歴史」の中から埼玉の事件の記載のなかから引用します。

 
 戒厳令下だから、朝鮮人を捕えれば
    勲章が貰えると思っていた
     大宮市片柳  小 泉 作次郎 六十七歳

 九月一日昼すこし前、大きな地震があり家が極度にゆれた。しかしこの地域一帯の土地がよかった為、家はダメにならずにすんだ。夜は東京方面が真赤であった。
 ニュースは停車場から人によって伝えられたが、何日頃だったか、「鮮人が火災場所に油を注ぎ火事を大きくしている」「鮮人が井戸に毒を入れている」といった話が伝えられた。私は同じ日本人がそんなことをするはずがないと疑問をもったが、これで頭にきた村の消防団員、青年団員が自警団を組織し、竹やり、オノ、ピストル、刀などを持ち出し、合い言葉、合図のピストルまで考え、万一に備える準備をした。
 そのうちに停車場の方からまた情報が入った。朝鮮人が大勢東京方面から護送されてきて、そのうち一部あぶれた者がいてそれがこっちの方にいるらしい、というのだ。みんな警戒を厳重にした。
 九月四日、午前三時か四時頃、家のすぐ西わきの方で一人の朝鮮人が発見され、ピストルで合図された。林の中に隠れようとしたらしいが、すぐ出て全力で逃げまわり、私の家へ入ろうとしたがはいらず、家の斜め、南東方向の道に全力で逃げた。しかしすぐT字路にぶつかり、どちらへ逃げようかとまよった末、元来た道を引き返そうとした時、一人の自警団に左胸を竹やりで突かれてしまった。
 この傷にもかかわらず、T字路を越えてさつまいも畑の中に入り、さらに逃げようとしたが、つるなどでうまく走れず、必死だった為だろう、片足を溝に突込み、倒れる所をもう一人の自警団の刀で腰の所を切られ動かなくなってしまった。
  村の自警団はこの朝鮮人を、岩槻に行く途中に住んでいた軍医の鈴木大尉の所へ運び、注射など応急の手当をしてもらった。そして軍医の指示で大宮警察署に運び、その指示を受けようとした。当時大宮警察署は岩槻新道にあり、その途中の通称おかま坂を登る途中で息を引きとってしまった。
 この朝鮮人は日本語がわからず、ただ〝ミズ〟といって水を求めた。負傷者に水を飲ませると死ぬことを知っていたのでどうしようかと迷ったが、死にそうなのでどうせ死ぬなら本人の希望を入れて飲ませてやろうではないかということになり、途中の石井という家から水を貰い飲ませてやった。
 墓は、事件の関係者が責任を感じ、また同情してたてたのだ。墓に被害者の名前として姜大興(カンデフン-24歳)とあるのは、持物からでもわかったのだと思うが、そのへんはよくわからない。
 当時、村の人たちはみな戒厳令下だから、朝鮮人を捕えれば金鶏勲章を貰えると思いこんでいた。


  村の者が総出でやっちゃった
     大宮市片柳  高 橋 武 男 六十六歳 (隆亮さんのお父さん)

 私が中学の四年のときでした。古いことなのでうろ覚えですけれど。
うちの村としてはずいぶん丁寧にとむらい、墓まで作ってあります。寺でも無縁仏にせずお盆の時には供養しています。
 発端は、あれはデマですね。片柳村といっていた時代で、駐在所にさえ電話がなかった当時で、いわゆる流言ヒ語ですね。どっからどうやってでてきたものですか、何かいたずらをすると言うんですね。全国的にそうだった、ということですが、とにかく無政府状態、混乱状態でね。
 片柳では一人だけでした。
どういう風な経路で逃げてきたか、まぎれ込んできたかわかりません。当時は村の者総出でやっちゃったわけなんですが、俺がやった、と名乗りでる人がいないと困るので、強制したわけしやありませんが、五人ばかり犯人をだしまして、裁判にもなりましたけれどね。その五人の人たちも今は全部亡くなっちゃいまして……。丁度私のオヤジが自治会長をやってまして、ずい分未決の時、さし入れなどして大さわぎしました。私のオヤジの同級生だった官崎ハジメさんに弁護をお願いしたりして、結局、刑が確定したのは、懲役三年、執行猶予二年か三年ついたと思います。
 とにかく私ども中学の上級生は大宮の駅に出て乗客の整理をしました。中で特に困っていたのは女工さんで、ほとんど東北方面から来まして自分の行き先がわからないんです。東北線で帰るものやら、高崎線で帰るものやらわからないで行先をきいて、区分けして汽車に乗せてやったんです。窓からおし込んでやってね。
 中学も九月十七、八日まで臨時休校で授業になんなかったです。それで下級生は大宮小学校の庭で女子青年団や女学生たちと一緒に玄米のたきだしをしたんです。それを駅までもっていくのに、みんな中仙道で徒歩でくだってくる避難民に横取りされちゃうんで、一、二年生は竹ん棒もってね、護衛です。駅まで。
 村には自警団も出来まして、私の方の部落に入ってきちゃいけないというんで、辻々、要所要所に、丁度軍隊の歩哨のような形で自警団の本部をおいて、それで何時間交代と、軍隊式にやりました。誰に教わったわけじゃないんですけど自然にそうなりました。四、五ヵ所肝心の所をおさえておいて、村に入って来る者を検問したわけですね。
 朝鮮人はそこでつかまったわけじゃないんです。どっから来たんですか、浦和か北浦和加、野となく山となく逃げて来たんですね。片柳の字染谷という所で、常泉寺の真裏あたり約二百米北で、朝鮮人をおそっちゃったんです。ですけど絶命したわけじゃないんで、切傷や突き傷が多くて、戸板へ乗せて病院に収容しようとして大宮に持っていったんです。それで今の開成高校のあがった所に坂がありますけど、あの坂をおりた所あたりで息をひきとったと聞いています。
 槍ももち出すし、刀をもち出した入もいるし、棍棒から竹槍をもち出したり、それは色々でしたよ。まあ、めちゃくちゃだったですね。とにかく傷が多くって、出血多量で死んだわけでしょうね。
 やったあとで、大変なことになっちゃいました。それは大変でしたね。それで私がやりましたと名乗り出た五人の人達がいたんですが、そういう人達をくどきおとして犠牲者にして、村全休が協議でもやって、お前たち、まあごくろうだけど背負ってくれないかと、そうし向けたんじゃないかとうたがわれまして、警察あたりが、うちのオヤジが当時の区長をやってましたんで、夜なんか家のまわりを刑事がまわってあるいたようなことを聞きましたね。五人は別に役付じゃなかったんです。若い者が二人、中年の人が三人でしたね。ほかにもやった人が沢山あるんだと思うんですけどね。だれがどうやったか見当つきません。朝鮮人だとどうしてわかったのか、私にはわかりませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年8月15日 (月)

侵略戦争・植民地支配の誤りを直視し憲法を生かしたい

西南学院創立百周年に当たっての平和宣言

    ―西南学院の戦争責任・戦後責任の告白を踏まえて―

西南学院は、創立百周年を迎えるに当たって次の百年を展望し、「西南よ、キリストに忠実なれ」という創立者C・K・ドージャーの言葉を改めて心に刻みます。また、それゆえに、キリスト教学校としてのこれまでの学院の歩みを振り返り、過去に対する責任を強く覚えずにはいられません。西南学院はイエス・キリストの福音に基づいて平和と人権を大切にする学校であるにもかかわらず、先のアジア・太平洋戦争ではこれに加担し、韓国(朝鮮)、中国などの諸外国の人々をはじめ多くの人々に多大な苦しみを与えてしまいました。また、その責任については、戦後の歩みの中においても公に表明してきませんでした。今、私たちは建学の精神を守ることができなかったことを神と隣人の前に告白し、キリストに忠実に歩んで来なかったことを心から謝罪し、悔い改めます。

イエス・キリストは、「あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・29~31)と語り、さらに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5・44)と言われました。また、「主なる神」は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの奴隷の地から導き出した神である」(出エジプト20・2)と語ります。聖書が語る神は、あらゆる抑圧から私たちを解放し、この世界に存在する特定の価値に、それが、キリスト教会であれ、家族、民族、宗教、国、富であれ、支配されることから私たちを解き放つ神です。また、キリストは、その十字架を通して、「二つのものを一つにし、(中略)敵意という隔ての壁を取り壊し」、「わたしたちの平和」となられました(エフェソ2・14~22)。そして、彼に従う者たちに、「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ五・九)と言われました。敵対する異質な他者にさえ、しっかりと向き合い、問い合い、愛し合うことこそが人としての普遍的価値であると、私たちは信じます。

西南学院は、このように語る聖書の教えに忠実に従い歩む学校であるべきでした。しかし、先の戦時下を振り返ると、当時の軍国主義体制下、天皇皇后の「御真影ごしんえい」の「下賜かし」(下げ渡し)を願い出、その後、募金活動を行って「御真影」と教育勅語を納めた「奉安殿」を建設し、式典においては、宮城きゅうじょう遥拝ようはい(皇居に向かって最敬礼すること)、君が代斉唱、教育勅語の「奉読」などを導入しました。また、配属将校の圧力の下で、体育教育を「軍事教練」の場とし、学院の名で学生を出陣させ、彼らのいのちを死に至らしめ、他国の人々を殺すことを是認したのでした。さらに、同じキャンパスに生活していた宣教師たちが敵国人として帰米を余儀なくされた時にも、その方々の苦悩・悲しみを十分に共有することができませんでした。当時の状況下にあってキリストに忠実であり続けることが非常に困難であったことは容易に推察できますが、そのことをもって過去に対する責任を免れることはできないのです。

戦時下の問題ばかりではありません。戦後の歩みの中にあってもこのような罪責を告白し、それを公に問うことをしませんでした。戦争による自国の被害者の苦しみに共感できなかっただけでなく、天皇の名による侵略戦争によって傷つき、殺された人々への「加害責任」を心に刻み、民族や国境を越えて、戦争による負傷者や遺族たちの怒り、苦しみ、悲しみを受け止めることも十分にできていませんでした。
私たちは、創立百周年のこの時に、そのような過去と将来に想いを馳せ、自国本位の価値観を絶対視し、武力・暴力の行使によって人々の尊厳を抑圧するという過ちを二度と繰り返すことのないよう、西南学院に学ぶ者たちや教職員が目をさまして行動し、国際社会の真の一員となり、「平和を実現する人々」の祝福の中に生きる者となるよう、今その志への決意をここに表明します。

2016年4月1日
                      学校法人西南学院

clover
画像画面をクリックすると大きくして見れます。

 Img_0002_2

Img_0001

happy02 今日は侵略戦争と植民地支配を拡大する中で、アジア太平洋戦争に敗戦してから71年目の終戦記念日です。
 今朝の「しんぶん赤旗」を開いて目に入ってきたのが西南学院の「平和宣言」でした。
私は無神論者ですが、信教の自由は大切に守らなければいけないと思っています。そして宗教者の発言には「なるほど」と学ばされることがたくさんあり、多くの宗教者が平和な世界を実現するために具体的行動を起こしていることに敬意の気持ちを持っています。

 私が西南学院の「平和宣言」に注目したのは、戦争の加害責任を直視していることでで感銘を受けました。宗教的立場の違いはありますが、「平和宣言」全文を掲載致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年8月 9日 (火)

長崎平和祈念式典 平和宣言、平和への誓い 8月9日

   長崎平和宣言

20160809_167

 核兵器は人間を壊す残酷な兵器です。
1945年8月9日午前11時2分、米軍機が投下した一発の原子爆弾が、上空でさく裂した瞬間、長崎の街に猛烈な爆風と熱線が襲いかかりました。あとには、黒焦げの亡骸、全身が焼けただれた人、内臓が飛び出した人、無数のガラス片が体に刺さり苦しむ人があふれ、長崎は地獄と化しました。
原爆から放たれた放射線は人々の体を貫き、そのために引き起こされる病気や障害は、辛うじて生き残った人たちを今も苦しめています。
核兵器は人間を壊し続ける残酷な兵器なのです。
今年5月、アメリカの現職大統領として初めて、オバマ大統領が被爆地・広島を訪問しました。大統領は、その行動によって、自分の目と、耳と、心で感じることの大切さを世界に示しました。
核兵器保有国をはじめとする各国のリーダーの皆さん、そして世界中の皆さん。長崎や広島に来てください。原子雲の下で人間に何が起きたのかを知ってください。事実を知ること、それこそが核兵器のない未来を考えるスタートラインです。

20160809_68

 今年、ジュネーブの国連欧州本部で、核軍縮交渉を前進させる法的な枠組みについて話し合う会議が開かれています。法的な議論を行う場ができたことは、大きな前進です。しかし、まもなく結果がまとめられるこの会議に、核兵器保有国は出席していません。そして、会議の中では、核兵器の抑止力に依存する国々と、核兵器禁止の交渉開始を主張する国々との対立が続いています。このままでは、核兵器廃絶への道筋を示すことができないまま、会議が閉会してしまいます。
核兵器保有国のリーダーの皆さん、今からでも遅くはありません。この会議に出席し、議論に参加してください。
国連、各国政府及び国会、NGOを含む市民社会に訴えます。核兵器廃絶に向けて、法的な議論を行う場を決して絶やしてはなりません。今年秋の国連総会で、核兵器のない世界の実現に向けた法的な枠組みに関する協議と交渉の場を設けてください。そして、人類社会の一員として、解決策を見出す努力を続けてください。
核兵器保有国では、より高性能の核兵器に置き換える計画が進行中です。このままでは核兵器のない世界の実現がさらに遠のいてしまいます。
今こそ、人類の未来を壊さないために、持てる限りの「英知」を結集してください。
日本政府は、核兵器廃絶を訴えながらも、一方では核抑止力に依存する立場をとっています。この矛盾を超える方法として、非核三原則の法制化とともに、核抑止力に頼らない安全保障の枠組みである「北東アジア非核兵器地帯」の創設を検討してください。核兵器の非人道性をよく知る唯一の戦争被爆国として、非核兵器地帯という人類のひとつの「英知」を行動に移すリーダーシップを発揮してください。

20160809_177

 核兵器の歴史は、不信感の歴史です。
国同士の不信の中で、より威力のある、より遠くに飛ぶ核兵器が開発されてきました。世界には未だに1万5千発以上もの核兵器が存在し、戦争、事故、テロなどにより、使われる危険が続いています。
この流れを断ち切り、不信のサイクルを信頼のサイクルに転換するためにできることのひとつは、粘り強く信頼を生み続けることです。
我が国は日本国憲法の平和の理念に基づき、人道支援など、世界に貢献することで信頼を広げようと努力してきました。ふたたび戦争をしないために、平和国家としての道をこれからも歩み続けなければなりません。
市民社会の一員である私たち一人ひとりにも、できることがあります。国を越えて人と交わることで、言葉や文化、考え方の違いを理解し合い、身近に信頼を生み出すことです。オバマ大統領を温かく迎えた広島市民の姿もそれを表しています。市民社会の行動は、一つひとつは小さく見えても、国同士の信頼関係を築くための、強くかけがえのない礎となります。

20160809_5

20160809_79

 被爆から71年がたち、被爆者の平均年齢は80歳を越えました。世界が「被爆者のいない時代」を迎える日が少しずつ近づいています。戦争、そして戦争が生んだ被爆の体験をどう受け継いでいくかが、今、問われています。
若い世代の皆さん、あなたたちが当たり前と感じる日常、例えば、お母さんの優しい手、お父さんの温かいまなざし、友だちとの会話、好きな人の笑顔…。そのすべてを奪い去ってしまうのが戦争です。
戦争体験、被爆者の体験に、ぜひ一度耳を傾けてみてください。つらい経験を語ることは苦しいことです。それでも語ってくれるのは、未来の人たちを守りたいからだということを知ってください。
長崎では、被爆者に代わって子どもや孫の世代が体験を語り伝える活動が始まっています。焼け残った城山小学校の校舎などを国の史跡として後世に残す活動も進んでいます。
若い世代の皆さん、未来のために、過去に向き合う一歩を踏み出してみませんか。

20160809_7

 福島での原発事故から5年が経過しました。長崎は、放射能による苦しみを体験したまちとして、福島を応援し続けます。
日本政府には、今なお原爆の後遺症に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、被爆地域の拡大をはじめとする被爆体験者の一日も早い救済を強く求めます。
20160809_180

 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、世界の人々とともに、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くすことをここに宣言します。

2016年8月9日
                        長崎市長  田上富久



...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо

    平和への誓い

20160809_197

 幼い頃「神の国日本、ほしがりません勝つまでは」などと教えられて過ごした私は、相次ぐ空襲に逃げまわり、防空壕で息をひそめ、日本の敗戦は近いと思っていました。

 1945 年8 月9 日、午前11 時2 分、アメリカが投下した一発の原子爆弾は、ここ浦上の上空およそ500 メートルで爆裂し、長崎の町は、一瞬にして廃墟となりました。原子雲の下は、想像を絶する修羅場となり、日本人だけでなく、強制連行された中国人や動員された朝鮮人、戦時捕虜のアメリカ人や諸国の人々を含むおよそ74,000 人が無差別に殺され、虫や鳥や植物などすべての生き物も死滅しました。
 私は当時9 歳、爆心地から6.5 キロメートルの地で大木に登り枝落としの最中に、巨大な火の玉に目が眩み、耳をつんざく大音響と猛烈な爆風で吹き飛ばされ気を失いました。
 翌日から、救護活動に参加した母や姉、兄などの体験で、惨劇の大きさを知りました。その母も姉も兄も歯ぐきから血を出し、髪が抜けるなど、長い間の苦しみに耐えながらも、次々に原爆症で亡くなりました。

20160809

 広島で歓迎されたオバマ大統領は、「空から死が降ってきた。」と叙情的に表現されましたが、広島のウラン型原爆に対して長崎にはプルトニウム型原爆が投下された事から、私には2 種類の原爆による実験ではなかったのかとの思いがあります。

 被爆した町は、国際的な支援のもとに復興しましたが、私たち被爆者は71 年もの間、毎日が苦悩の中にあり、2 世、3 世もその憂いを引き継いでいます。政府には「原爆症」や「被爆体験者」の救済について、司法判断に委ねず、政治による解決を望みます。

20160809_200

 しかし、私たちは絶対悪の核兵器による被害を訴える時にも、日中戦争やアジア太平洋戦争などで日本が引き起こした過去の加害の歴史を忘れてはいません。
 わが国は、過去を深く反省し、世界平和の規範たる「日本国憲法」を作りこれを守って来ました。今後さらに「非核3 原則を法制化」し、近隣諸国との友好交流を発展させ、「北東アジアの非核兵器地帯」を創設することによりはじめて、平和への未来が開けるでしょう。

 政府に対しては、日本国憲法に反する「安全保障関連法制」を廃止し、アメリカの「核の傘」に頼らず、アメリカとロシア及びその他の核保有国に「核兵器の先制不使用宣言」を働きかけるなど、核兵器禁止のために名誉ある地位を確立される事を願っています。

20160809_158

20160809_155

 科学の発展が人類の幸せに貢献せず、資源の独占と貧富の差が拡大する限り、世界の不安定は益々激しくなるでしょう。オバマ大統領が率先して示された「核なき世界実現」への希望は、人類の英知による恒久平和をめざすものであり、「非核の国々による核兵器禁止のための国際的流れ」に共通するものと思います。私たちは、オバマ大統領が「最後の被爆地長崎」を訪問されるよう強く願い、歓迎いたします。

 私たち被爆者は、「武力で平和は守れない」と確信し、核兵器の最後の1発が廃棄されるまで、核物質の生産、加工、実験、不測の事故、廃棄物処理などで生ずる全世界の核被害者や、広島、福島、沖縄の皆さんと強く連帯します。長崎で育つ若い人々とともに「人間による安全保障」の思想を継承し、「核も戦争もない平和な地球を子供たちへ!」という歴史的使命の達成に向かって、決してあきらめず前進することを誓います。

20160809_189

 地球市民とともに核兵器廃絶の実現を!!
 ナガサキ マスト ビー ザ ラスト

2016 年8 月9 日
                      被爆者代表 井原 東 洋 一

sad 長崎では、この1年で亡くなったり死亡が確認されたりして、原爆死没者名簿に新たに記帳された被爆者は3,487人に上り、これまでに記帳された死没者の総数が計172,230人となりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年8月 6日 (土)

広島市平和記念式典 平和宣言・平和への誓い 8月6日

    平 和 宣 言

20160806_68

 1945年8月6日午前8時15分。澄みきった青空を切り裂き、かつて人類が経験したことのない「絶対悪」が広島に放たれ、一瞬のうちに街を焼き尽くしました。朝鮮半島や、中国、東南アジアの人々、米軍の捕虜などを含め、子どもからお年寄りまで罪もない人々を殺りくし、その年の暮れまでに14万もの尊い命を奪いました。

  辛うじて生き延びた人々も、放射線の障害に苦しみ、就職や結婚の差別に遭(あ)い、心身に負った深い傷は今なお消えることがありません。破壊し尽くされた広島は美しく平和な街として生まれ変わりましたが、あの日、「絶対悪」に奪い去られた川辺の景色や暮らし、歴史と共に育まれた伝統文化は、二度と戻ることはないのです。

 当時17歳の男性は「真っ黒の焼死体が道路を塞(ふさ)ぎ、異臭が鼻を衝(つ)き、見渡す限り火の海の広島は生き地獄でした。」と語ります。当時18歳の女性は「私は血だらけになり、周りには背中の皮膚が足まで垂れ下がった人や、水を求めて泣き叫ぶ人がいました。」と振り返ります。

20160806_5

 あれから71年、依然として世界には、あの惨禍をもたらした原子爆弾の威力をはるかに上回り、地球そのものを破壊しかねない1万5千発を超える核兵器が存在します。核戦争や核爆発に至りかねない数多くの事件や事故が明らかになり、テロリストによる使用も懸念されています。

  私たちは、この現実を前にしたとき、生き地獄だと語った男性の「これからの世界人類は、命を尊び平和で幸福な人生を送るため、皆で助け合っていきましょう。」という呼び掛け、そして、血だらけになった女性の「与えられた命を全うするため、次の世代の人々は、皆で核兵器はいらないと叫んでください。」との訴えを受け止め、更なる行動を起こさなければなりません。そして、多様な価値観を認め合いながら、「共に生きる」世界を目指し努力を重ねなければなりません。

  今年5月、原爆投下国の現職大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領は、「私自身の国と同様、核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない。」と訴えました。それは、被爆者の「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という心からの叫びを受け止め、今なお存在し続ける核兵器の廃絶に立ち向かう「情熱」を、米国をはじめ世界の人々に示すものでした。そして、あの「絶対悪」を許さないというヒロシマの思いがオバマ大統領に届いたことの証しでした。

  今こそ、私たちは、非人道性の極みである「絶対悪」をこの世から消し去る道筋をつけるためにヒロシマの思いを基に、「情熱」を持って「連帯」し、行動を起こすべきではないでしょうか。今年、G7の外相が初めて広島に集い、核兵器を持つ国、持たない国という立場を超えて世界の為政者に広島・長崎訪問を呼び掛け、包括的核実験禁止条約の早期発効や核不拡散条約に基づく核軍縮交渉義務を果たすことを求める宣言を発表しました。これは、正に「連帯」に向けた一歩です。

20160806_56

 為政者には、こうした「連帯」をより強固なものとし、信頼と対話による安全保障の仕組みづくりに、「情熱」を持って臨んでもらわなければなりません。そのため、各国の為政者に、改めて被爆地を訪問するよう要請します。その訪問は、オバマ大統領が広島で示したように、必ずや、被爆の実相を心に刻み、被爆者の痛みや悲しみを共有した上での決意表明につながるものと確信しています。

  被爆者の平均年齢は80歳を超え、自らの体験を生の声で語る時間は少なくなっています。未来に向けて被爆者の思いや言葉を伝え、広めていくには、若い世代の皆さんの力も必要です。世界の7千を超える都市で構成する平和首長会議は、世界の各地域では20を超えるリーダー都市が、また、世界規模では広島・長崎が中心となって、若者の交流を促進します。そして、若い世代が核兵器廃絶に立ち向かうための思いを共有し、具体的な行動を開始できるようにしていきます。

20160806_46

 この広島の地で「核兵器のない世界を必ず実現する」との決意を表明した安倍首相には、オバマ大統領と共にリーダーシップを発揮することを期待します。核兵器のない世界は、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する世界でもあり、その実現を確実なものとするためには核兵器禁止の法的枠組みが不可欠となります。また、日本政府には、平均年齢が80歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

  私たちは、本日、思いを新たに、原爆犠牲者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げ、被爆地長崎と手を携え、世界の人々と共に、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。

 
                          2016年8月6日
                         広島市長 松井 一實


.。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.

      平和への誓い

20160806_77

「人が焼けるにおいがした」
「ある者は、肌が溶けて人間には見えんかった」

原子爆弾が落とされた広島の様子を、語り部の方は語ってくれました。
思い出したくない、胸が張り裂けそうだ。
被爆された人の辛さは、いつまでも、いつまでも終わることはありません。

20160806_58

被爆者の思いや被爆の事実を自らの体験のように、想像するのです。
聞きたくても、聞くことができなくなる日が近づいています。
一瞬で街がつぶれ、日常や夢を踏みにじられた、昭和20年(1945年) 8月6日午前8時15分の出来事を、私たちは、もっと、知りたいのです。もっと、伝えたいのです。

悲しみや苦しみを乗り越えた人々の努力によって、広島は青く澄んだ空の下、色とりどりの花が咲く街に復興しました。

20160806_81

この広島に、今年も、世界各地から、多くの人が訪れています。
あの日の事実を知るために、平和記念公園を巡り、平和記念資料館を見学し、
語り部の方の話を聴き、原子爆弾の恐ろしさを実感しています。

そして、「あの日の出来事を伝える」と約束してくれた人たち。
平和の広がりを感じました。

私たちは、待っているだけではいけないのです。
20160806_83

誰が、平和な世界にするのでしょうか。

夢や希望にあふれた未来は、ぼくたち、わたしたち、一人一人が創るのです。
20160806_86_2

私たちには、被爆者から託された声を伝える責任があるのです。
一人一人が、自分の言葉で、丁寧に、戦争を知らない人へ次の世代へ世界の人々へ命の尊さを平和への願いを私たちが語り伝えていきます。

                   2016年 8月6日

                    こども代表
                  広島市立竹屋小学校6年 中奥垂穂
                  広島市立亀山小学校6年 青木優太


sad  この1年で亡くなったり死亡が確認されたりして、原爆死没者名簿に新たに記帳された被爆者は5511人に上り、これまでに記帳された死没者の総数が計30万3195人となりました。広島市は式典で、この名簿を原寥慰霊碑の石室に奉納しました。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年7月30日 (土)

戦争の犠牲にされた悲しい動物たちⅡライオン 7月30日

7月28日(木)、思ってもいなかったNHKニュースウオッチ9の特集ダイジェストで“かわいそうなライオン” 1本のフィルムが語る戦争の悲劇が伝えられました。

 私はアジア太平洋戦争敗戦から70周年の2010年8月15日、以前から胸に抱いていた戦争で犠牲になった動物たちのことを知るために上野動物園を訪ね調べ、その内容をブログに掲載しました。(2010年8月24日掲載)

 私は動物たちとふれあうことが好きで時々動物園を訪ねたりします。そのたびに、動物たちから様々なことを学ばされ、活力をよみがえさせられます。

 神奈川県立津久井やまゆり園で、考えると苦しくなるような悲惨な事件が引き起こされました。この事件が発生し7月26日に、「全国手をつなぐ育成会連合会」がアピールを出しました。
その最後で次のようによびかけています。

 「事件の容疑者は、障害のある人の命や尊厳を否定するような供述をしていると伝えられています。しかし、私たちの子どもは、どのような障害があっても一人ひとりの命を大切に、懸命に生きています。そして私たち家族は、その一つひとつの歩みを支え、見守っています。事件で無残にも奪われた一つひとつの命は、そうしたかけがえない存在でした。犯行に及んだ者は、自らの行為に正面から向きあい、犯した罪の重大さを認識しなければなりません。
また、国民の皆様には、今回の事件を機に、障害のある人一人ひとりの命の重さに思いを馳せてほしいのです。そして、障害の有る無しで特別視されることなく、お互いに人格と個性を尊重しながら共生する社会づくりに向けて共に歩んでいただきますよう心よりお願い申し上げます。」

 この関係は人間と動物の間にも共通しているように思えるのです。

 私のブログ記事を読み返してみたら、福田三郎さんのこと、ライオン3頭が殺処分され、2頭のライオンは8月22日に毒物を与えたが食べないので心臓部を穿刺して死なす。と書かれていました。その2頭がアリ(オス)とカテリーナ(メス)のライオンであることを今回知りました。
2頭のライオンの写真は掲載されていませんでした。

 そういう経過もあって、ニュースウオッチ9の特集を掲載させていただきます。

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;::;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*

“かわいそうなライオン” 
1本のフィルムが語る戦争の悲劇

田中泉
「こちら、東京・上野動物園の様子です。 夏休みに入り、連日、多くの子どもたちでにぎわい
をみせています。」

河野憲治
「その上野動物園で、戦前に撮影された貴重な映像が見つかりました。そこからは、戦争をめぐる悲劇の知られざる一面が見えてきました。」

フィルムに写っていたのは…
東京の古道具店から見つかった、1本のフィルム。

その中に、2頭のライオンが映っていました。
5年前まで園長を務めていた、小宮輝之(こみや・てるゆき)さんに映像を見てもらいました。
201607291830173

上野動物園前園長 小宮輝之さん
「この顔はやっぱりアリかな。
そうですね、カテリーナと。
動画は初めて見た。」

2016072918301710
(アリ オス)
2016072918301713
(カテリーナ メス)
アリ(オス)とカテリーナ(メス)。
昭和6年に、アフリカ・エチオピアの皇帝から贈られたライオンです。
当時、日本ではまだ珍しく、人気を集めました。

2016072918301716
(かわいそうなぞう)

今も読み継がれている絵本、「かわいそうなぞう」。
太平洋戦争中、空襲で動物園のおりが壊れ、猛獣たちが町に逃げ出したら危険だとして、飼育員たちの手で殺された3頭のゾウの実話をもとにした物語です。
取材を進めると、映像に映っていたライオンは、この絵本でゾウとともに殺されたライオンであることがわかりました。

かわいそうなライオン
当時、動物たちの処分を指揮したのが、園長代理を務めていた福田三郎(ふくだ・さぶろう)さんでした。
今回の取材で、福田さんの長女が東京に住んでいることがわかりました。

20160729183017282016072918301727

柳川泰子(やながわ・やすこ)さん。
動物が処分された当時、16歳の女学生でした。
父親の三郎さんは、メスライオンのカテリーナにひときわ愛情を注いでいたといいます。

福田三郎さんの長女 柳川泰子さん
「仕事がうれしいっていう感じが、私にも伝わってくる父でしたね。」

しかし、次第に戦況が悪化。
動物園も戦争の荒波に飲み込まれていきます。

この頃、福田さんがつけていた日記です。

2016072918301729

家族が大切に保管していました。

昭和18年8月16日。
東京都から、福田さんにある命令が下されます。

“猛獣類を射殺せよとのことなり。”

2016072918301730

2016072918301733

1か月以内に、すべての猛獣を処分するよう命じられたのです。

2016072918301734

2016072918301736

日記のページの間に、仙台と名古屋の動物園に送った手紙の原案が挟まっていました。

“安全なる貴園において収容の御希望あり。”

福田さんは、ライオンたちの命を助けるため、ほかの動物園に疎開できないか模索しました。

しかし、都の反対で願いは届かず、命令から6日後(8月22日)、アリとカテリーナは処分されることになったのです。

2016072918301720

2016072918301723

2016072918301743

“午後6時5分
毒薬3グラムをウマの肉に入れて与える。
にがいのか、すぐ吐き出す。”
“6時58分
けいれん発作。
苦もん、はなはだしい。”

苦しみ続けるカテリーナを見かねた飼育員が、とどめを刺しました。

7時33分
“心臓部をやりで刺す。”

“7時42分
呼吸停止、絶命。
所要時間1時間37分。”

2016072918301748

すべての動物が殺されたあとに撮られた福田さんです。
体重は1か月たらずで8キロ減っていました。

『動物園物語』(著者:福田三郎)より
“夜、床に入っても眠れない日が幾日もつづきました。
眠られぬ夜は、なかなか死ねなかったライオンの雌を思い出してなりませんでした。”

娘の泰子さんがこうした事実を知らされたのは、戦後しばらくたってからのことでした。

2016072918301754

2016072918301755

福田三郎さんの長女 柳川泰子さん
「その時、何して帰ってきたか想像もできないから、わからなかったです。
“こういう係はやりたくない”と、どんなにみんなが思っても、口に出せる社会ではなかったんです。
それぐらい厳しいですよ、戦争って。
父はどんなにつらかったろうと思います。」

戦後、活気をとりもどした動物園。

2016072918301759

2016072918301763

2016072918301765

園内の一角に、アリとカテリーナが剥製となって今も残されていることがわかりました。
あの日の悲劇を伝えようと保管されてきましたが、その存在はほとんど知られていません。
今回、特別に倉庫から出し、撮影が許されました。
カテリーナの胸には、ヤリでとどめを刺された跡が確かに残されていました。

この日、泰子さんは、孫と一緒に戦争で犠牲になった動物たちをまつる慰霊碑を訪れました。

2016072918301766

福田三郎さんの長女 柳川泰子さん
「お互いつらかったよねって、安らかに眠ってって。」

20160728_19

20160728_20

福田三郎さんの長女 柳川泰子さん
「平和っていいなって、つくづく思います。
ライオンを見て本当にそう思いました。
動物園があるってことは、平和の印。」

2016072918301769

2016072918301771

フィルムの中で生き続ける2頭のライオン。
知られざる戦争の悲劇を訴えかけています。

戦争の悲劇伝える かわいそうなライオン

田中泉
「『かわいそうなぞう』の話は知っていましたが、他の動物たちにも、こうした悲しい物語があったんですね。」

河野憲治
「実際、戦時中に処分された動物は、全国であわせて160頭以上に上るといわれているんです。
それぞれの動物園では、毎年夏のこの時期になると慰霊祭などを開いているということなんですが、戦争と平和について家族で考えるきっかけになればいいのではと思います。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年4月20日 (月)

安全保障関連法案の今国会成立反対 50%  4月20日

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

Usjapanese_sniper
(2014年12月11日 日米スオアイナー訓練)
2015041722014693

1502221801

pout 上に写真を引用しましたが、自衛隊はアメリカ本土まで出かけ米軍との共同訓練を行い、共同訓練の回数も増えているのではないでしょうか。政府は憲法違反の行動をエスカレートさせており許せない気持ちでいっぱいです。
 4月19日のサンデーモーニングから安保法制をめぐる論議を引用させてもらいます。

サンデーモーニング  4月19日から

日本政府は首相訪米中に“日米ガイドライン”の改定でアメリカと最終合意したい考え。
これに関連し“新しい安全保障法制”の整備に向けた動きも大詰めを迎えています。

公明党 北側一雄副代表
「法案作成に向けて詰めの協議になるのかなと」

4月14日再開された与党協議で焦点となったのは、自衛隊の活動拡大の“歯止め”についてでした。協議では外国の軍隊を自衛隊はいつでも後方支援できるようにする新たな恒久法について公明党は海外派兵の際、例外なく国会承認を得るべきだと主張。これに対し自民党は例外なしは困ると難色を示し議論は平行線をたどりました。また政府は集団的自衛権が行使できる事態を新たに“存立危機自体”と位置づけ関連法案に盛り込む方針も示しました。
 そして公明党が歯止めとして強く求めていた「国民を守るために他に適当な手段がない」との文言については自民党が譲歩して書き込まれることになりました。

自民党 高村正彦副総裁
「どうしても入れたいという人がいれば拒む理由もないの」

 今月26日から訪米する安倍総理。(4月26日~5月3日の予定)

201504191836599

201504191836598_3

そんななか4月15日、米下院軍事委員会公聴会ではこんな発言がありました。
下院で ウォーマス国防次官は「日米ガイドラインの改定内容に米軍と自衛隊の協力拡大を明記する」と表明。「自衛隊の集団的自衛権行使についての説明も日米ガイドラインに盛り込む」と語ったのです。
「日本との間には強力な同盟関係がありますが、ガイドライン改定によって新たな段階に進むことになります」

 新たな安保法制に関する法案がまだ国会に提出されていない中、日米間で安全保障をめぐる動きが進んでいます。

2015041918365912

2015041918365915_2

 政府がめざす安全保障ですが、集団的自衛権、米軍などへの後方支援を可能にするために、様々な法律を改正したり「国際平和支援法」という新しい法律を作ろうとしています。実際にどのようなことが可能になるのかといいますと、アメリカ軍を攻撃した他国に反撃できるようになります。またアメリカ軍の後方支援についてはこれまで日本周辺と限定してきたんですが、この地理的制約をなくす、つまり世界、どこでも世界中どこでも可能になります。さらにこれまで自衛隊を海外派遣するときには、その都度、特措法を作って対応していたんですが、これが恒久的なものなって随時派遣できるようになります。このように自衛隊の活動範囲がどんどん広がっていくなか、その歯止めとして焦点となっているのが国会の事前承認です。「例外なし」とする公明党と自民党との間で意見が分かれています。

《関口宏 メインキャスター》
2015041918365916
 結局は自衛隊を外に出したいという人たちと、出したら戦争になると反対する人たちと、その大きな違いはあいかわらず理解し合えないという感じでしょうかね。

《涌井雅之さん 造園家・東京都市大学教授》
全体の盤の情勢はいったいどういう状況を作るのかということをきちっと見分けないと部品の議論にだけ目をとられていると、結果としては憲法改正、9条の改正みたいなところまでなだれ込んでしまう

2015041918365921

 国際的に流動化している。特に北東アジアの安全保障のことを考えると日米関係基軸にするというのは、それはわからないわけではないんですけどね。問題は政権の眼差しがどちらを向いているのか、アメリカだけを向いているのか、きちっと国内を見ているのか、とりわけ多大な不利益を戦後こうむっている沖縄をきちっと見ているのか。その見た上で、そういう議論をしているのか、これが一つの論点だと思います。二つ目はですね、非常に重要なことなんですけども、みんなパーツの議論になるんですね、この三点セットの法律改正とかいうところに目がいっちゃうんですけど、実は政権はもっと大きなコンセプトを持っていて、詰将棋のように将棋をしてるんですよ。全体の盤の情勢はいったいどういう状況を作るのかということをきちっと見分けないと部品の議論にだけ目をとられていると、結果としては憲法改正、9条の改正みたいなところまでなだれ込んでしまう。そこの全体像と個別の議論の関係をしっかり我々は見ていかなければいけないというふうに思いますね。

《浅井槇平さん 写真家》
目的というものがちゃんと明確にわかる議論が必要

2015041918365923

 涌井さんが大きな枠、大きな目的とおっしゃったけど、それ、きっと重要なことでね、どうも目的のためにですね、いわゆるディテール(全体の中の細かい部分)というかロジック(論法)というか本来議論すべき問題が知性とか感性とか、さまざま人間が持っている知恵をですね、本来ならば結集して議論しなければいけないんですけども、目的だけが目立っている。たぶんそのことが多くの不安を掻き立てているんじゃないかなあと思うんですよね。ですから、目的というものがちゃんと明確にわかる議論があるいはロジックが今は一番必要な時だろうと思います。

《大崎麻子さん 関西学院大学客員教授》
現実的に武力行使とか、武器の使用とかその文脈で出てきますから、やはりどういう条件を付けるのかとか、それに対してどう日本が貢献、関与するのかということを、一つ一つ慎重に議論していく必要

2015041918365927

 私がいま注目しているのは、日米同盟と並んで日本の安全保障政策のもう一つの基軸である国際協調主義の方でも国際貢献として今回、活動領域とか活動地域は格段に拡張されているんですね。これは、まさに安倍政権が掲げる「積極的平和主義」つまり、その国際社会の安定をそこなうような事態がどこかで起きれば、そこに積極的に出ていって関与する、それを具現化するという方向性だと思うんですけど。これに関しては本当に国会でしっかり審議しなければいけないなということを感じています。ということは、たしかにテロの台頭とかそれから国連PKOの数が増えていて非常に任務も多様化している中で、国際社会から日本に対する期待は実は高いと思うんですね。その中ででも現実的に武力行使とか、武器の使用とかその文脈で出てきますから、やはりどういう条件を付けるのかとか、それに対してどう日本が貢献、関与するのかということを、これは一つ一つ慎重に議論していく必要があると思います。

《谷口尚子さん 東京工業大学准教授》
国民が置いてけぼりになっていないかと。戦後、長らく日本の中でもこういった国防に関する意見というのは今でも二分されています。しかし、そういう合意形成がまだ行われていない状態の中でどんどん事態が進んで行っていないか

2015041918365930

 今、自民党が直面している課題が三つあって、一つは東アジアの緊張に感じてそれに対してアメリカとの協力体制を強化しなければいけない。これに考えて日米安保の改定に議論をすすめていく際には当然ながら日本における基地を抱えている地域、沖縄をはじめとする地域に対する大きな配慮が日米ともに必要であるという点、さらに政策的なこういう点に関しては必ずしも距離が近いとは言えない公明党と与党を組んでいるということで、この合意形成をしなければならない。こうした情勢を自民党が考えていることは非常によくわかるんですけれども、国民が置いてけぼりになっていないかと。戦後、長らく日本の中でもこういった国防に関する意見というのは今でも二分されています。しかし、そういう合意形成がまだ行われていない状態の中でどんどん事態が進んで行っていないか、国民の側でも注意し議論していくことが必要かと思います。

《岸井成格さん コメンテーター》
●アメリカのこないだ来たカーター国防長官もそうですけど、向こうの高官の発言は全部、安保法制成立を前提にしゃべってるんですよ。(関口―そうですよね)なんですか、これは
●この協議ってのは、基本的にいままでの憲法の解釈とか、そういう歯止めや制約があったのを外していくという協議だったわけですよ、それをぎりぎりどこまででやるかという協議をやっているということを見る方は見誤っちゃいけないということだと思います


2015041918365933

 今度の安保法制というのは、戦後一貫して官民一体でやってきた憲法解釈の重要な変更であり、いままで日本防衛が基本であった自衛隊の役割を世界に広げていくっていう安保政策の根本的転換なんですよね。それだけの議論ってのは国民的議論でなければいけないんですよ。今のところ与党協議で、これから国会が始まるということがありますけど、先ほどありましたけどアメリカのこないだ来たカーター国防長官もそうですけど、向こうの高官の発言は全部、安保法制成立を前提にしゃべってるんですよ。(関口―そうですよね)なんですか、これは。これからいよいよというところですよ。それから、公明党との間でずうっと与党協議で歯止めの議論をしているように見えます。たしかに、それやってるんですけど、先ほどから言っているように、この協議ってのは、基本的にいままでの憲法の解釈とか、そういう歯止めや制約があったのを外していくという協議だったわけですよ、それをぎりぎりどこまででやるかという協議をやっているということを見る方は見誤っちゃいけないということだと思いますよね。簡単に言いますとね、今までは憲法9条があるんで、海外には出せません、集団的自衛権はできません、こう言ってたのを、これからは基本的にはできます、どこまでも出せますけど、いろんな制約があるんで今回この程度にしますっていうそういう議論をやっているということを国民ようく理解しておく必要があります。

《関口宏さん メインキャスター》
2015041918365938

 岸井さんから指摘がありましたけど(予定表を示しながら)安倍さんここへ行かれんですよね。まだ国会続くんだよね。だけど待ってるアメリカはもう全部決まったか同然みたいのことを言い出してますよね。

《岸井成格さん コメンテーター》
 南シナ海にも自衛隊に来てもらいたいって言ってますからね。はっきり。そこまでいってますから。

《関口宏さん メインキャスター》
(う~んとうなる)

◆ JNNが4月4日、5日に行った世論調査
安全保障関連法案を今国会中に成立させる方針に賛成ですか?反対ですか?

201504192330053

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年3月27日 (金)

「戦争孤児は国から捨てられた」「絶対こりごり」 3月23日 

NNNドキュメント
「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」

放送日時  2015年3月23日 午前0:50~1:45

☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:* ☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*

delicious 私は、NHKが2013年3月8日に放送した「それでも私は生きたい~いま明かされる戦争孤児の実像~」に強い衝撃を受けました。それまで、そうした事実の一部は知っていても、自らのこととし受け止めきれていなかったのではと思えたからです。

 自らの反省もこめて、日本社会に知ってほしいと3月11日ブログで「東京大空襲から68年-戦争孤児の実像」を書きました。この記事にはアクセスが途絶えることなく続いていて、関心がもたれているんだと感じています。

 戦後70年、安倍自・公政治は憲法9条を破壊し「戦争法」まで作ろうと動きを強めています。NHK朝ドラ「マッサン」は製作者たちの良心を気高く示し、それを見た私や多くの国民に希望と勇気を与えてくれました。
 3月6日には「ふたたび この国を 火の海にさせないために!戦後70年・戦争被害のすべての解決を!大集会」に参加し、東京大空襲、名古屋、大阪、長崎、沖縄など空襲による被害者が国に対し「空襲被害者等援護法(仮称)」制定を求めて闘っている人たちと心を一つにしました。

 日本テレビが、2015、戦後70年シリーズで3月23日
「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」を放送しました。
これは、どうしても知ってほしいと、放送の全内容を再現させてもらうことにしました。

 前回から2年の経過があり、私自身、少しは勉強もし理解を発展させるこができたように思います。

☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:* ☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*

ナレーター  余貴美子

20150323171658_26

20150323171658_94

20150323171658_9


お父さん  お母さん

どうして私をおいて死んでしまったの

「戦争孤児」 世間はそう言って、私たちにさげすみの目を向けた

親を亡くした戦争孤児はおよそ12万人。戦争が終われば平和が訪れると思っていた。だの

に、終戦は地獄の始まりだった。

20150323171658_82_2

ほんとうに野良犬って言われていたから、どけってなもので。痛さもがまん、食べたさもがまん、全てがまんで通ってました。

20150323171658_16_2

なんでこんな傷があるんだろうと思ってた時、思いだしたんです。土瓶をぶつけられた時の
傷だって。

だれが戦争孤児にしたの

親を返せ

人生を返せ

戦争孤児たちの遺言  地獄を生きた70年

戦争孤児の金田茉莉さん(79歳)
スカイツリーがそびえる東京下町生れ。
故郷の街を見下ろすのはこの日が初めて(スカイツリー展望台)

20150323171658_19

20150323171658_32_2

「わあ~すごい
本当に今、信じられない思いですよね、こういうの見ると。ああいうことがあったのかって」

今から70年前、1945年3月10日未明の東京大空襲
アメリカの大型爆撃機B29およそ300機が下町を襲った。大量に投下された焼夷弾。木造の家が密集していた下町一帯に火の手が上がった。強風が吹き荒れる夜、炎は風にあおられ、またたくまに街をのみこんだ。橋の上は逃げ惑う人が押し寄せ、悲鳴、怒号、叫び・・・
爆撃は深夜0時8分から2時間半に及んだ。一夜にして推定10万人が命を落とした。

20150323171658_22

20150323171658_29_2

20150323171658_30

 焼け死んだ人は炭のように黒く硬直し男女の区別さえわからない。東京下町一帯は焼け野原と化した。

 金田さんの家族は、みな行方不明に。3ヶ月後、母(花江)と姉(嘉子)の遺体は隅田川から見つかった。妹(百合子)はいまも行方不明のまま。幼いころに父も亡くしていた金田さんは孤児になり親戚に引き取られた。

20150323171658_31

20150323171658_185_3

「もう川を見るとね、母たちのこと思い出しちゃうんですよね」

金田さんだけ一人助かったにはわけがあった。
当時、大都市の子どもたちは空襲をさけるため、国の方針で学童疎開をしていた。9歳だった金田さんは疎開で親元を離れ、大空襲の難を逃れた。しかし、

20150323171658_33

「一日も生きていてよかった思ったことないですね。私も母といっしょに死んでた方がよかったってどれだけ思ったかわからないですよね。何で残していったんだろうって」

孤児になってからの70年。
金田さんは「戦争孤児のその後の人生なんて考えたことないでしょう」と言い堰を切ったように話しはじめた。

20150323171658_38

「おまえはやしなってもらってるんだ、じゃまものだ、ここに置いてもらってるだけ、ありがたく思え。おれの言うことが聞けねえのか、とパチパチ。もう、あの召使、奴隷、お前は野良犬だって」

疎開で生きながらえた金田さんを待ち受けていたのは死にたいほどの苦痛。
53歳のとき、過去を振り返るため学童疎開の研究会に入会。
すると、
20150323171658_40_2

20150323171658_41

「私は戦争孤児は自分一人だけだと思っていたのが、あの人も孤児で、この人も孤児だって、こんなにねえ、学童疎開中に孤児が大勢出たんだなあって」

他の戦争孤児はその後どんな人生を送ったのか、金田さんは独自に調査をはじめた。しかし、孤児たちを探し出し話を聞くのは簡単なことではなかった。

「これが孤児の住所録なんですよ。思い出したくありませんとか、しゃべれませんとか、そういう人ばっかしなんですよ」
20150323171658_45

金田さんは2年かけて、文通や電話で関係をきづいた40人にアンケート調査を試みた。応じてくれたのはおよそ半数の22人。22人中18人が死を考えたことがあると回答。
20150323171658_47

20150323171658_48

青酸カリを持ち歩いていた
橋までよく行って死のうとした

壮絶な過去を閉ざしてきた孤児たちの声が聞こえてきた。

「私よりもっともっとひどい、つらい思いをしてきたんだなってことが、はじめてアンケートからわかりましたね」

 調査をはじめて5年、金田さんは眠っていた貴重な資料にたどりついた。それは終戦から3年後に当時の厚生省が行った「全国孤児一斉調査結果」

20150323171658_53

20150323171658_58

「全国戦災史実調査報告書」1982年度 厚生省発行
3月10日の東京大空襲から日本全国で激しさを増した米軍の空襲、そして原爆投下。当時沖縄を除く全国の孤児の数は合わせて12万3千人。

「12万3千人の孤児がいてね、どうしてね、どこに消えちゃって、訳がまだわかんない。なんとかしてこれを調べてみようと」
20150323213621_41

終戦後、食糧や物資が不足し混乱していた日本。人々が群がる闇市に飢えをしのぼうと集まる戦争孤児の姿があった。親がなく、家もなく、保護してくれる人もない孤児たち。彼らは〝浮浪児〟と呼ばれた。

20150323171658_64

日本中から〝浮浪児〟がめざした場所がある。それは闇市で賑わう交通の要、上野駅。
 調査で出会った金子トミさん(84歳)は当時15歳。親戚をたよって家族で疎開した山形で空襲に遭った。両親を亡くし、幼い妹と弟を連れて、上野駅の地下道にたどり着いた。

20150323171658_69_3

「こちらの方にずうっと・・孤児がここでこうして寝たってことです。ずうっと居ました」

毎晩、足の踏み場もないほどに人が集まり、寝床となった地下道。その中には幼い〝浮浪児〟たちの姿があった。

「あ~あの子居ないなと思うと、中には亡くなった子もいました。人に恵んでくれるという方もいませんし。ただただ、国はどうしてこんなに冷たいんだろうって、それしか思いませんでした」

20150323171658_74

3ヶ月暮らした上野の地下道
「やっぱり思いだしますね・・・なんか・・・」(上野の地下道に立って)

 朝が来ると兄妹3人は日が沈むまで上野公園で過ごした。

20150323171658_78

「ここがね、朝からずうっと陽があたるんですよ。だからその辺にいたんですね。(上野公園で)その辺で3人でいたんです。弟いる前で涙は流せませんしね。がまんして、弟だけその辺に行ってくるとか、二人で手をつないで行ったときには一人でそこでよく泣きましたね」

 23歳で結婚。夫は春になると毎年『上野に桜を見に行こう』と誘った。でも金子さんは『もう見たから』と断り続けた。〝浮浪児〟だった過去は夫に最後まで明かせなかった。

神戸大空襲で両親を亡くし、10歳で「浮浪児」になった山田清一郎さん(79歳)も上野駅で生活した。

20150323171658_101

 「当時、我々孤児に対して本当にやさしい言葉をかけたり、物をくれたり、親切にしてくれた人なんか、どこにもいなかった。本当にいなかった。水ひっかけられたり、本当に野良犬って言われていたからね。どけってなもんでね、きたないってね。それが私たち戦争孤児。私、絶対忘れないですよ。ずうっと、23年ぐらいまで日本人がいかに戦争孤児に冷たく扱っていたか。

金庫の中で暮らしたこともあるという。残飯をあさる毎日。

「犬を見て犬に教えられたんですよ。残飯食べる時、犬は上えの方から上手に食べるんですよ。我々は持ってつかんで、下から持ってくるから、下の方が痛んでるから、どうしても痛んでる方、食っちゃうんだよね。本当の犬はりこうだから上の方だけ食べる。それをまねして上の方だけを食べたけで、それでも腹痛はしじゅうやってました」

20150323171658_88_2

残飯をあさる他、「浮浪児」が生きていく手段は物乞いをすること。中には、靴磨きの商売を始める子どももいた。新聞を仕入れて路上で売る少女たちも。自らの力でたくましく生きた浮浪児たち。その一方で、スリ等の犯罪に手を染める子も。街にあふれる浮浪児は不良少年という目で見られ、世間からきらわれていった。

 行政は強制手段に出た。

20150323171658_93

20150323171658_17

20150323171658_103

街にあふれる浮浪児に対し、強制手段に出た。それは〝刈り込み〟浮浪児を街から根絶せよと、いやがる子どもをつかまえ、脱げないよう服をぬがせ、いっせい収容した。これは東京都養育院に入れられた浮浪児たち。栄養失調でお腹かがふくれ、あばら骨が浮き出るほどにやせ細った姿。
 自由を奪われた彼らは職員の目をぬすみ脱走を繰り返した。

20150323171658_99

ボランティアで収容された子どもたちを慰問した森田みどりさん(87歳)
「覚えているのは子どもたちの顔だけなんです。土色の顔をして、とにかく笑いもしないし、しゃべりもしない、にらみつけているような子どもたち。その顔はとても印象的で」

山田清一郎さん
「つれてかれると全部裸。おまえら黴菌の塊だなんて言って、寒くてもなんでも水道の水をじゃーじゃーかけて、きれいにして。もう暴力は当たり前って感じだよね。運悪く捕まる、連れて行かれる、ほうりこまれる。なにしろまた飛び出して逃げてくる。そんな繰り返しがあったね」

20150323171658_95

刈り込みの目的は街の浄化と犯罪の防止
職員はいやがる子どもたちを捕え連行した
戦後、5年が経過し働ける歳になると浮浪児たちは少しずつ街から消えていった。
 同じ戦争孤児でありながら、知らなかった浮浪児の存在。

金田さんは思いを強くした。

「学童疎開は子どもたちの命を守ったかってね、私たちは言いたいわけですよ、孤児にされた者たちにとっては。私たちは親たちと死んでいたほうがよかったんですよ。一人生き残されるぐらいだったら、命を助けたってことにならないんですよね」

20150323171658_106

浮浪児にならずとも、いじめや差別を受けた孤児も多い。
画家の狩野光男(かのうてるお)さん(84歳)
東京大空襲の体験を元にこれまでに100点近く空襲と戦争孤児の絵を描いてきた。当時14歳。空襲を逃げ延びたが両親を亡くし親戚に引き取られた。
(日本刀を抜く)これです。

20150323171658_110

狩野さんは転校先の学校で同級生を殺そうとしたことがある
「『親が死んだぐらいでなんだ。あまったれんじゃない』って言われたんで、むかーっときて言い返したら、『こいつなまいきだ』ってんで、5~6人でよってたかってなぐるけるの暴行をうけたわけですね」

その翌日、家から日本刀を持ち出し暴行した同級生に襲いかかった。学校は退学になった。

「普通の時だったら考えられないようなことをやっちゃうんですね。別に一人二人死んだってどういうことないって」
(そう思ってたんですか)
「そうだったから。だから戦争は人間をめちゃくちゃにしてしまうということですね」

国は戦争孤児たちをどう保護したのか。
終戦の一ヶ月後に国は保護対策要綱を発表。対策の中心は親戚など個人家庭の保護委託と養子縁組の斡旋だった。

20150323171658_114

 わずか3歳で両親を亡くし親戚に預けられた吉田由美子さん(当時3歳)

「両親の顔を3つですから記憶に残せていないんです。もちろん、声も記憶に残せてません。でも心の中では『お父さんお母さんどうして私を置いていったの、なんで私だけ置いて20150323171658_117
いっちゃったの』って」

当時、両親と暮らした場所をたどると

「わかりました。ここだ。ここです」
今は立体駐車場に。
両親と妹の遺体は70年経った今も見つかっていない。
吉田さんは妹の戸籍謄本の写しを大切に持っている。

20150323171658_122

20150323171658_124_2

「次女恵津子、拾番地にて出生。昭和和20年3月10日、空襲により死亡。これが全く妹の生れたのと死んだのと、残っているのはこれだけ。その間たったの3ヶ月。3ヶ月の命だった。これがなかったら、この人、生れたのも死んだのも、人知れずわからなかったと思います。写真1枚この世に残しておりませんから」

当時、避難所になっていた小学校。戸籍では両親と妹がここで死亡したと書かれている。

「これが業平小学校」

孤児になった吉田さんは、やっかい者扱いされ親戚をタライ回しにされたと話す。

「もう情がないですから、私は仏壇に上げるご飯を盛る、そのご飯が、いつも私の食べものでしたよ。冬は乾燥してカリカリになりますよね。お湯をかけてちょっとやわらかくなりますでしょ。それを食べる」

おねしょをしてしまった朝のこと

「雪の積もっている外に出されて、外に凍りついている水を、バケツで私の身体めがけてざぶーんざぶーんとかけるわけ。寒さと冷たさとそしてお腹の痛さと耐えられなかったんです。迷惑掛けているという後ろめたさに、子どもながらになんにも言えなかったの。やれるがままに、『おばさんごめんなさい』って言うしかなかった。

当時、9歳だった永田郁子さんも東京大空襲で孤児になり、親戚の家に預けられたという。

20150323171658_130

「親戚というのは、本当に罵倒されるかそのくらいだから、親戚なんかいらないと思って。親戚頼るより赤の他人の方がずうっと親切です。物がちょっとみつからなくなったらしんですよ、箪笥のなかで、そしたら、『おまえが盗ったのか』と怒られて、私知りませんよ、そんなの。泥棒扱いされたのがすごくいやで、それでその時いっしょに『おまえは畳の部屋へ行っちゃいかん』と言われたんです。ですから、いつも土間から板の間に居て、寝るのも板の間。それ以外は奥に入るなって言われましたからね」

 当時の永田さんを支えたのは、両親と3人の姉たちが亡くなる前に疎開先に送っていてくれた手紙だった。それは家族から愛されていたかけがえのない証し。

20150323171658_132

「結局ね、なにがつらかったかというと、お金がないとか、空腹とか、それはそれでありますけど、それよりも、自分の気持ちをだれかに伝えるってことができないんですよね。嬉しいとか悲しいとか全部自分の中に閉じ込めなければならないから。そういう時に手紙を開いて、元気をつけてもらったという感じですね」

 空襲の被害が大きかった墨田区の資料館には、戦争孤児の星野光代さん(81歳)が描いた絵日記が展示されている。
 星野さんも11歳のとき、学童疎開中に東京大空襲で両親を亡くした。幼い妹と弟との3人が孤児になり取り残された。親戚の家を転々としたという。不安にかられた星野さんたち兄妹は

20150323171658_140

20150323171658_139_5

「おばの家から逃げたんですよね。当時は親のいない子なんか、じゃまものだったんですよ。みんな親戚の血が繋がっている子どもだろうとなんだろうと、もう、どっかに消しちゃいたかったのね。このまま、ここにいたら危ないぞと分かった。どうして私たちだけ残して死んじゃったのって言ってね、みんなで声をあげて泣いて・・。大人になってからの苦労よりも、この時が苦しかった。
こういう子がいっぱいいたんですよ。戦争中」

東京大空襲で孤児となった当時9歳だった草野和子さん(79歳)は親戚の家で言われた言葉が忘れられない。

20150323171658_143

「家には泥棒猫が3匹もいるのよ」って。ああ、やっぱり、私たちが泥棒猫だって思ってたんだってね、それこそ本当は帰りたくなるような猫ですよね。悔しいのと悲しいのとでね。もう生きていたくない」

20150323171658_146

とっさに家を飛び出し近所の踏切まで走った。
列車に飛び込む寸前、おぶっていた赤ん坊が泣きだし、はっとわれに返った。

「心に氷が張りつめているような毎日でした。もう本当にね。だからそういう状態の中で聞いた“泥棒猫”がすごくこたえたんだと思うんですねえ」

親戚の顔色ばかりうかがう日々
学校の健康診断で結核と診断された時も、言い出せなかった。後に妊娠にも影響をおよぼすとは夢にも思わない。

「妊娠したんですね。それが子宮外妊娠になっちゃって。その子宮外妊娠っていうのが結核性腹膜炎による癒着が元なんです。まさか子どもが産めなくなっちゃうなんて思えませんからね。ちゃんと病院に行って治していればね、そんなことなかったんですけどね。だから一人も子どもがいないんですよ。本当は自分の子ども何人もほしかったんですけどね」

養子に出された孤児もまた過酷な生活を強いられた。

米川琴さんは親戚の家を追われ12歳の時、児童相談所から千葉の農家に養子に出された。

20150323171658_156

「私の顔見るなり、『なんだ、もっと大きいの拾ってくればよかったのに』って。拾うっていう言葉があんまりにもね、なんかずしんときましたけどね。学校にはぜんぜん行かせてくれないんですよ。約束が守ってもらえなくて。朝から晩まで赤ん坊おぶりっぱなし、時々おろしてオムツ取り替えて、それで赤ちゃんが寝ているときに、掃除、洗濯。私はなんのために、こんな千葉の田舎の方まで来たのかしらと思って」

児島武さん(当時11歳)は東京大空襲で両親を亡くし、預けられた親戚の家から12歳の時に養子に出された。

20150323171658_160

「そっから始まったんですよ、私の人生のどん底ともいうか、奴隷と同じだよね。力仕事、マキ割り、水汲み、そんなの当たり前で、私が食べざかりですから、ご飯って茶碗を出すと、『お茶か水か』って言うんですもの『ご飯か』って聞かないですもの。だから、う~ん水ってなっちゃうんですよ」

15歳で働きに出ると、給料はすべて家に入れ、帰宅後は毎晩、養父母のマッサージだったと話す。

「首から足の先まで、お父さんのやるわけですよ、終わったら次お母さんの足まで。11時頃になるとね、私も眠くなっちゃう、すると促される。自分という性格を殺していっしょに家族といないと生きていけないもの」

その頃、親戚の家に預けられた1歳下の弟から助けを求める手紙がたびたび届くようになった。弟は身体がボロボロになるほど働かされ、馬小屋で寝る毎日だと言う。

「『武くん小生の就職を探してください。お願い致します。田舎はだめです』」

20150323171658_167

東京で探してほしいと懇願する手紙。弟は疲れ果てていた。手紙には悲痛な思いが並ぶ。『両足を沼の中にでも引き込まれるようで、何かにぎろうと思うが、まるで雲を握るよう』
 しかし、児島さん自身も奴隷のような毎日。弟をどうしてやることもできなかった。弟はその後行方不明になった。

「戦争の話を思い出すのがいやでしなかったんです。あの~戦争中のことは私もそのまんま受け止めますけどね、戦後のこの大変なことを、だれかには伝えたいなあと思っている」

意を決してつらい過去を明かした孤児たち。

一方で親戚や養子先にも事情があった。
戦後の食糧難、よその子を食べさせる余裕はなかった。
戦争で男手を失いどこも労働力が不足していた。

孤児たちは生きるために心を殺すしかなかったのだ。
引き取りのない孤児たちはどうなったのか。集団疎開先に残された孤児たちは国が保護するとした。

20150323171658_173_2

 東京都では多摩地区の寺を中心に8ヶ所の孤児学寮を設置。東京都の記録では集団疎開先に残された1169人のうち345人を保護したとされている。  孤児学寮の一つ、東光寮で3年ほど生活した山崎格(いたる)さん。

20150323171658_175

20150323171658_178

「ぼくんちは代々江戸っ子だから、親戚はみな東京だったから、みんなやられ、僕一人が残った。だから文部省はよくやったと思うよ。最低限の食べる、寝る、疎開の延長ですから。それはなれてますよね。学校行って、3時頃帰ってくるんですね。野球やるんなら、最低の道具は集めてくれたり、寄付が多かったんですね。又は畑を教えられて、自分たちの生活のためですよ」

20年以上、戦争孤児の生の声を聞いてきた金田さん。

「国が、施設で教育したっていうのは、ほんのわずか」

ある結論に行きついた

「孤児は国から捨てられたということ。国に対しても社会に対しても、なんか恨みを持って

死んで行くんじゃないのかなあという気持ちがしますね」

私たちは、すきで孤児になったわけじゃない。

一夜にして推定10万人の命を奪った東京大空襲。軍関係者とその遺族には国から補償がある一方、民間の被害者や遺族に対しては保証がない。
 2007年3月東京大空襲の被害者と遺族は国に損害賠償と謝罪を求めて集団訴訟を起こした。最終的な原告は131人。そのおよそ半数が戦争孤児だった。金田さんも原告に加わった。国がはじめた戦争に人生を狂わされた共通の怒りが終結した。しかし、2009年の一審判決は請求棄却。判決は「国民のほとんどが何らかの形で戦争被害を負っており裁判所が救済の対象を選別するのは困難」というもの。

20150323171658_187

原告で戦争孤児の草野和子さん
「司法というのはこんなに冷たいものなのかと。本当に人間として扱われなかった孤児たちの思いを私はこれからも訴え続けていくつもりです」

20150323171658_193_2

20150323171658_195_3

高裁も最高裁も敗訴。戦争孤児や空襲被害者の訴えは届かなかった。

rock ふたたびこの国を 火の海にしないために!戦後70年・戦争犠牲のすべて解決を!アピール 「15.03.6.docx」をダウンロード

国からの保証はない、謝罪もない。
それならせめてきちんと慰霊してほしい。
東京都が建立した空襲犠牲者を追悼する碑。内部には犠牲者名簿が納められている。戦後50年以上経って遺族からの強い要望で作成がはじまった。(1999年から)記載される名前は遺族の申し出に基づいたもの。その数およそ8万人(2015年3月現在8万324人)。しかし、プライバシー保護ということで公開されていない。

20150323171658_198

 慰霊堂の裏にある納骨堂。特別に許可を得て中に入ると、遺骨が納められた陶器が天井まで6段、所狭しと並ぶ。一つの陶器に納められているのは身元が判明していない200~250人の遺骨。全部でおよそ10万5000人の遺骨。しかし、ここはもともと震災祈念堂。すぐ隣に関東大震災の犠牲者およそ5万8000人の遺骨が眠っていた。
 終戦から3年経ち空襲犠牲者もいっしょに納めることになり、その後、東京都慰霊堂と名前を変えた。金田さんは複雑な思いを抱いている。

20150323171658_206

「間借りしてるわけですよ。他人の墓に入れているわけですよ。だから別にしてほしいということを言って、自分たちが安心して手を合わせる、安らかに眠ってほしいって手を合わせる所がほしいんですよ。それを、いまだにここに置いてある。空襲の歴史やら無くなっちゃう」

独立した追悼の場を、その思いは届いていない。

金田さんが今、心から手を合わせられる場所は一人の戦争孤児が建てたこの慰霊碑の前だけだという。その孤児とは。エッセイストの海老名香葉子さん(81歳)疎開をしていたとき、東京大空襲で両親が行方不明になり、その後親戚の家を転々とした。

20150323171658_209

「国からおにぎり一つ乾パン一つ、なんにももらっていない。で、あの戦後の時期、小学校5年生6年生ですよね。あの時期を過ごしてきたその本当の遺族ですよね」

「本当にいっしょに死ねばよかったとつくづく思いますよね」

「どうしてみんなと死ななかったのかなあと思いました。70年経っても母はまだ生きているようで、夢みます」

20150323171658_216

独立した慰霊の場がほしい。思いが重なる。
2015年3月9日、毎年、海老名さんは独自に空襲犠牲者の供養式を開いている。慰霊碑は10年前に私財を投じて建立した。40年以上、国や都に追悼の場を求め続けてきたが納得のいくものは造られず、自ら立ち上がった。金田さんは毎年欠かさず参加している。

20150323171658_217

「東京大空襲があり、みんな、いなくなってしまいました。もっともっと偉い人たち、大人が追及して考えて、慰霊して、納めてくれないのかなあ。これからも本当にみなさん元気でがんばって100年、ご供養続けていきましょう」

その翌日、東京大空襲から70年目の3月10日。東京都慰霊堂では第法要が行われた。関東大震災の犠牲者と合同の法要。この日は納骨堂の扉が開かれる。
「ねえちゃんまた来るからね」

20150323171658_223

平和が訪れる。戦争を知らない世代が増え、あの浅草の浅草寺が3月10日の空襲で焼かれたことを知る人がどれだけいるだろうか。

20150323171658_225_2

 境内の片隅にたたずむ御神木のイチョウ。いっけん元気そうに見えても、中は・・・空襲の焦げ跡が今も残る。70年の月日を経ても癒えることのない内なる傷。

● 戦争孤児の心の叫びを聞いてほしい

20150323171658_228

「どん底ばかりじゃないよ、がんばれよなんて、簡単に言うなってことを言いたいわけ。一人で生きてきたわけ。戦争孤児は私だけじゃなくてね、本当に一人なんですよ」

20150323171658_231

「戦争のおかげで一生のうちに方向が大分狂わされたんだなあって」

20150323171658_233

「疎開行かないで死んじゃった方がよかったのにというのは何べんも思いましたね」

20150323171658_234

「神も仏もいないんだと・・いうことは、山歩いてどなって歩いていたことあるよ」

20150323171658_235

「国から国への謝罪はあっても、私たちには一言もすみませんもなかったですからね」

20150323171658_236

「お国がなんか、こうしてやるよということもないし、だから私に言わせれば戦争続いているようなもん」

20150323171658_238_2

「一番かわいそうなのは子どもですよね。子どもはどうすることもできないから、自分の力じゃ生活できないから」

20150323171658_239

「自分が死ぬには弟、妹を殺さなきゃならないでしょ。そうすると、それも罪だし、どうしたらいいだろう。いろんなことを考えたりして日を送りましたね」

20150323171658_241

「あんな悲惨なことを子どもたちが味わうことは、決して許されないんじゃないかな」

20150323171658_243

「歴史認識って言うんだったらば、そういうことも含めて、ちゃんと残さないと、後世の人が間違っちゃうと思うんですよね」

20150323171658_244

「世の中が戦争へ戦争へとなっていくような風潮があるじゃありませんか。もう絶対こりごり。もうこりごりですよ」

20150323171658_246

「世界中どっかで戦争が起きてるのね。いつもテレビ見ながら、とてもつらい思いでいますね」

20150323171658_249

金田さんは今も調査を続ける。
「もう昔のことは思い出したくないからお断りします」という人も。

地獄を生きた戦争孤児たちの遺言

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2014年9月29日 (月)

今、心からおわびします 山口淑子   9月24日

Img_79991

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 9月24日、なんとなくテレビをつけると、BSプレミアムで、山口淑子さんの追悼番組「世界・わが心の旅「李香蘭 遥かなる旅路~中国・ロシア」が放映されていました。9月7日に94歳で亡くなっていました。

 山口淑子=李香蘭(中国在住時代の芸名)
 自民党参院議員3期(1974年~1992年)

 そういう経歴の人ですから、「亡くなったのか」という程度で、ほとんど関心がありませんでした。でもテレビからは「戦争は絶対にいけない」という声が流れてきて「おや」っと注意して見始めました。
 なぜ、自民党の参院議員になったのかは知りませんが、山口さんが自からの良心に忠実に生きようとしていた人だということを知り、人は色眼でみてはいけないと学ばされました。
 山口淑子さんのような真摯な態度を、自民党の国会議員、政府幹部たちに学んでほしいと強く思いました。

  :;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

  《放送の内容から》

中国の人々への心からのおわび


 1943年、山口淑子さんは当時中国のハリウッドと呼ばれていた上海の映画界から主演女優として招かれます。
映画 万世劉邦 映画は中国全土で上映され、中国女優李香蘭の名声は不動のものとなりました。李香蘭を演じ続ける山口さんの苦悩は日に日に深まっていきました。

「私とても嬉しかったんですけれど、北京に帰りまして、ちょうど北京に両親とも奉天から引っ越してきてましたから北京の家に2~3日の予定で帰りました。父の友人で新聞社クラブの理事長さんがいらっしゃいましてね、中国の新聞記者クラブのですよ、リーさんという方でしたけれど。北京の記者クラブで記者たちが私にインタビューしたいと、上海、中国の文化の映画のメッカですよね。そこで撮影してきたから、いろいろな話を聞きたいからということでお受けしたんです。その時に、私リーさんに申しあげたのはリーさんは私の父を知ってらっしゃるから、私が山口文夫の娘で日本人だということを知ってるわけですよね。だから、リーさんに私はもう李香蘭であることに耐えられなくなったから、ちょうどいい機会だと思うから記者会見があるのなら、リーさんの口からもおっしゃってください。私も今発表したいと言ったんです。私は、中国で生れて中国で育って中国を愛している日本の山口淑子という娘ですということを先に紹介してそして李香蘭として演技してきましたということを発表してください。そしてそのインタビューに入りましょう」

 しかし大スター李香蘭の存在はもはや後戻りのできないところまで来ていました。記者会見でいまさら日本人だと名乗ることは許されなかったのです。


「小一時間大変おだやかな雰囲気で終わりましたから、これで終わりにしますってリーさんがおっしゃたんですよ。そしたら一人、若い新聞記者の方がパッと立ちあがってね、きりっとした声で『李香蘭さん』っておっしゃたんですよ。私、あっきつい声だなと思ったんですね。『李香蘭さんあなた中国人でしょう。だのにどうして中国を軽蔑するような日本映画に平気で出ていたんだ。中国人としての誇りはあなた持ってるんですか』って詰問されたんですね。

 
・・・・・・・・・・・・しばらく声を詰まらせて話ができなくなる(映像)

(涙声で)私ね、・・・・つらかったんですよね。・・・

 しばらくだまっていて、自然に出てきた言葉はね『すみま

せん』でした。

私は若かった、歳がいかなかったということもありました

し、考えが浅かったとい

うこともあって、中国の方に申し訳ないことをして・・・

  今、心からおわびします


 李香蘭と山口淑子 二人の自分の間の溝は深まるばかりでした。

しかし結局、李香蘭から逃れることはできなかったのです。



戦争はいやだ、戦争はやめて!!

Img_79671

上海で米軍の空襲に出会い、空襲警報が解除になったのでホテルの部屋に戻って窓を開けたところ、目の前に大きな客船が停まっていたんですよ。その甲板が死の海なんですよ。それをここから見てたんです。(その時に泊まっていた旧キャセイホテル(和平飯店)の部屋から)盛んに死体の処理などをしているのが見えたんです。私は外に向かって『戦争はいやだ。戦争はいやだ。戦争はやめて』と、わんわん泣きながら叫んだんです



命の恩人リューバ・ユムシャノワさん
と再会


Img_79191_2

1945年8月15日、日本敗戦。
上海市民は喜びに沸きたちました。
山口淑子さんは李香蘭という存在に決着を付けなければなりませんでした。
上海ホンキュー地区(虹口)、かつては日本人が暮らす租界でした。興業坊という一画に敗戦とともに日本人居留者が収容されました。山口さんも日本人映画関係者らとともにここに収容されたのです。

「9ヶ月軟禁されていました。人に会ってはいけない、人は会いにきてはいけないという状態で。その間、軍部がスパイではないか、李香蘭は中国国籍ではないか、と調べていたんですね。その間ずうっと軟禁されていたんですね」

 日本の敗戦によって、それまでに日本軍に協力的だった中国人は漢奸(かんかん)すなわち祖国を裏切った売国奴として次々に捕えられ処刑されていきました。李香蘭も漢奸ではないか、山口さんは何度も裁判所の取り調べを受けました。中国人女優李香蘭の名が重くのしかかってきたのです。山口さんには自分が日本人であることを示す証拠が必要でした。

「結局、戸籍謄本しかないということになったんですよね。戸籍謄本は両親が北京で収容されていましたからね。そこに戦勝国のリューバちゃんが(リューバ・ユムシャノワさん)自由に旅行もできるし」

リューバさんは山口さんが収容されていることを知ってホンキューの収容所を訪ねます。幼なじみの窮状を救うため、リューバは山口さんの両親が居る北京へと向かいました。そして戸籍謄本を収容所の山口さんの元に届けたのです。

「ある時期が来てから、何千人かずつ引き上げるようになりましたね。私は9ヶ月目に裁判があって、リューバちゃんが持ってきてくれた戸籍謄本で無罪ということで、国籍は日本人だということは、中国を裏切ったのでなく、戦犯ではあるけれども漢奸ではないということですね。そういうことで、引き上げ船に乗りました」

李香蘭は山口淑子になりました。そのことを公に発表する機会はついに与えられませんでした。山口さんは国外退去の命令を受けひっそりと上海を後にします。
命の恩人リューバに別れを告げるいとまもありませんでした。

そして半世紀の歳月が流れました。

Img_7887

幼なじみのリューバさんの居所がわかったのは3年前(1995年)のことです。ロシア共和国エカテリンブルクという町に住んでいました。
1998年にリューバさん(78歳)を訪ねてエカテリンブルクへ。山口淑子さん(78歳)。

 

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年9月20日 (土)

ビキニ被ばくの実相を明らかにしてほしい  9月20日

Bikini_140920

happy01 今朝、「しんぶん赤旗」を開いたらこの記事なので嬉しくなりました。

 8月28日のブログに書きましたが、NHK広島放送局が製作した「水爆実験60年目の真実~ヒロシマが迫る“埋もれた被ばく”~」が8月6日に放送されました。

Img_6891

Chikarawoawase

 高知県の土佐清水市で高校教師だった山下正寿さんたちの地道な運動が、科学者とも協同して隠されたビキニ被ばくの真実のトビラを開いたように思いました。

 山下正寿さんたちが明らかになった事実にもとずいて厚生省に申し入れたのが今年の7月1日ですから、隠され続けて来た資料がこんなに早く公開されたことが驚きでした。
 第二福竜丸の乗組員だけでなく、473隻もの漁船員の多くの人たちがガンなどで亡くなり、今も病気で苦しんでいる人たちがいる事実です。この人たちをどう救済するのか、日本政府とアメリカ政府にその責任を明らかにしてもらわなければならないと思います。

Img_6758

Img_6847

 NHKの製作者のみなさんも今後の動きを見守りたいと述べていましたが、引き続き追跡報道をしてほしいと願っています。

核兵器の廃絶に向けて、核保有国が廃絶の交渉につくことを強く求めます。日本政府は「核抑止力」の力の政策を改め、戦争のない世界の核廃絶運動の先頭に立つべきです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧