文化・芸術

2017年11月 1日 (水)

「赤狩り」の時代を劇的に生きたダルトン・トランボ

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NHK、BS歴史館 シリーズ ハリウッド100年(1)「ローマの休日」〝赤狩り〟の嵐の中で ―〝赤狩り〟と闘った男たちの知られざる物語 ― が2011年5月20日に放送され、私はその番組を視聴して衝撃を受けました。
 映画「ローマの休日」を見て「おもしろいな」とは思いましたが、それ以上ではありませんでした。その後、NHKで映画「ローマの休日」を見る機会があり、これまでとは全く違って(真面目に)視聴しました。またトランボが監督した映画「ジョニーは戦場へ行った」も見ました。
  それ以来、ダルトン・トランボとはどういう人?と関心を持ってきました。
 今年になって、ダルトン・トランボのことが映画化されたことを知り、映画の原本になった伝記「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を購入し、約3ヵ月かけて第1回目を読み切りました。

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 この本は451㌻の長い本で、すらすらと読み進められる本ではありませんでした。トランボの伝記で、歴史的時間の経過も前後して出てきて私にはわかりにくい面もありました。
 この本でトランボの生活を通じてアメリカ文化と庶民生活の一端も知ることがでました。そして、なによりもトランボの人間性について包み隠さずに触れられていてすばらしいと思いました。妻と長男、長女、次女と5人の生涯しっかり結びついた姿も読んでいて何度笑ってしまったかしれません。ダルトン・トランボという人はすばらしい能力を持った人で、その力が、脚本家、作家、監督として社会の不正義に立ち向かわせる大きな力になったのではないでしょうか。今を生きる者として示唆に富んだ名言をたくさん遺していて味わい深く読むことができました。

 私が印象深く読んだヶ所はたくさんありましたが、その中からいくつかのヶ所を紹介させていただきます。

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pen この記録は私が本を読んで列記したものです。

まえがき   この本との出会い  ジヨン・マクナマラ
                      2015年6月

  2008年の春、WGA(全米脚本家組合)のストライキが終わろうとしていた。アメリカのテレビ番組や映画の脚本家たちが、雇用主である大手スタジオを相手に戦った五か月にわたるストライキで、業界は疲弊していた。
 多くの同業者たちと同じように、私も失望と満足を味わい、そして仕事がないという現実的な問題を抱えていた。
私はこれまでの人生のほとんどを、テレビ番組の脚本執筆と制作に費やしてきた。そのほとんどが1時間もののドラマだ。私は仕事を求めて、友人や面識のない人、さらには敵とまで、手あたり次第に会う約束をした。仕事探しのためには、プライドなんていっていられない。
 ケヴィン・ケリー・ブラウンは長年の友人だ。腕利きのテレビ・プロデューサーとこだわり屋の私は、その日、私の仕事部屋で企画を考えていた。私か脚本を書き、ふたりでテレビシリーズの制作ができないかと相談していたのだ。話し合いは楽しかったものの、この日は何の収穫もなさそうだった。
 ケヴィッを外まで送ろうと、本棚の前を通り過ぎたとき、ケヴィンが一冊の本に目を留めた。
 「彼を知っているよ」ケヴィッはそう言って、太い書体でタイトルが印刷された本に手を伸ばした。1977年刊行の『ダルトン・トランボ』の初版ハードカバーだった。
 「ダルトン・トランボを知っているのか」
 「いや」と言って、彼は本を開いた。「ブルース・クックだよ。すごいやつさ。数年前に亡くなったんだ」彼は写真のページをパラパラとめくった。「ダルトン・トランボつて誰だい?」
 私の説明はおよそ15分かかった。その間もケヴィンはただ耳を傾け、トランボの人生が劇的な展開に差しかかると、そのたびに「まさか!」や「嘘だろ!」という言葉を差し挟んだ。何か面白い話を聞かせるのなら、・・・・

トランボとはいったい何者?  

 ブラックリストの時代が終わってからというもの、まさにそうした、気まずく、うしろめたい、ときにこそこそした鉢合わせがあちこちで起きた。パーティーでは何も知らない陽気な女主人が、裏切られた人を裏切り者に引き合わせた。エージェントは敵同士を同じ映画で組ませた。街角や郵便局で顔を合わせる可能性はもちろんのこと、ときには失業手当を受ける列でばったり出くわすこともあったかもしれない。

 私はずっと考え続けてきた。ブラックリストという苦難を乗り越え、マッカーシーの時代にハリウッドに踏みとどまり、映画の闇市場でかろうじて生計を立ててきた男-そんな男は、今すべてを振り返ってどのように感じているのだろうかと。苦々しく思っているのだろうか。できることなら復讐したいと思っているのだろうか。こうした疑問が私を必然的にダルトン・トランボヘと導いてきた。

ブラックリストとその影響についての記事を調べるうちに、数年前、初めてトランボと出会ったのだ。そのとき彼の魅力に取りつかれたといえば大げさに聞こえるだろうが、ある意味それは間違っていない。下手をすれば、この先私が語ろうとしている話の客観性を疑われる恐れもある。しかし、トランボの本質を伝える言葉として、やはりこのままにしておきたい。彼には超人的な何かがあるのだ。肉体的なことではなく ― 背丈はつま先立ちになっても170センチそこそこだ ― 人間としての本質に関わることだ(トランボについて語られ言葉で最も核心に迫っているのは、かつてインタビューをした女性ジャーナリストの「きわめて魅惑的な個性の持ち主」という表現ではないだろうか。もちろん性的な魅力という意味ではない)。トランボが何者で、どんな功績があるのかを知らない人でも感じずにはいられない、ある種のカリスマ性があるのだ。

 ではトラッボとはいったい何者で、何を成し遂げたのだろう? もちろん、作家であることは間違いない。だが、その文学性を語るうえで難しいのが、どんな作家なのかという点である。小説家だろうか? トラッボは四つの小説(さらに未完の小説がひとつ没後に出版されている)を書いている。そのひとつ『ジョニーは戦場へ行った』は1930年代のアメリカの小説の中でも最高傑作に挙げられる。残り三つの完成作のうち、ふたつはたいした出来ではなく、残りひとつはこの国で出版されてもいない。では劇作家としてはどうだろう? トランボが書いた唯一の戯曲、『町一番の大泥棒』はロンドンで連続公演されるほどの素晴らしい出来ではあるが、劇作家として評価されるほどの作品ではない。では、映画の脚本家としてはどうか? もちろん、この分野では大成功を収めている。アメリカ映画界において、おそらく誰よりも長いキャリアを持ち、休むことなく作品を生み出してきた。駆け出しのころには、クリストファー・モーリーの小説を映画化した『恋愛手帖』で、アカデミー賞にもノミネートされている。1947年にブラックリスト入りしたときには、すでにハリウッド一高いギャラを稼ぐ脚本家だった。ブラックリストの時代でさえ、いわゆる闇市場で仕事を続け、安いギャラで脚本を書き続けた。それでも、質を落とすことはなく、それどころか、闇市場時代の脚本のひとつである『黒い牡牛』は、偽名ではあるものの、アカデミー原案賞(この賞は1957年に廃止されている)を受賞している。トランボはブラックリストを破った男だった。1947年から1960年の間、何百人という脚本家や監督、プロデューサー、俳優たちが、映画界での仕事の機会を奪われていたが、その中で最初にスクリーンに名前を復活させた。その作品が『栄光への脱出』(1960年)で、この年の最高傑作に挙げられている。
(注 小山-1960年には「スパルタカス」にもトランボの名前がクレジットされた。「スパルタカス」の脚本契約は1959年5月に行われ、偽名のサム・ジャクソンを使ったりしている。監督はスタンリー・キューブリック。「栄光への脱出」の脚本は1959年12月に書くことになり、監督のオットー・プレミンジャーは1960年1月19日、トランボに電話で「君の名前が今晩の『ニューヨーク・タイムズ』の第一面に載るぞ。君を『栄光への脱出』の脚本家だと公表した」と伝えた。)

 その後は、必ずしも芸術性の高い作品ばかりではないものの、もっぱら大作のみを手がけ、高額のギャラを得ている。
 ところで、映画の脚本家は、他の作家とどこが違うのだろう? 最高の脚本家であっても、できるのは映画についての全体像を監督に提供することだけだ。トランボでさえ、脚本を職人仕事だととらえていた。そうなると、非凡な才能を持ち、数々の場面で真の芸術的才能を発揮してきた、この有能で多作な作家をどう評価すべきか、という問題が残る。それも、その生涯において、芸術的功績として挙げられるのはひとつの小説とほんの一握りの脚本しかないのだ。
 トランボはこのような未来を思い描いていたわけではない。1920年代や1930年代の他の若手作家たちのように、最初は小説家を目指していた。脚本の世界に足を踏み入れはしたが、一時的な仕事のつもりだった。ロサンゼルスといううってつけの場所にいなかったら、果たして映画業界に入り込んでいただろうか。おそらくそうではなかっただろう。しかし、映画の脚本を書くのをやめてフィクションに専念するかにみえたとき、歴史が邪魔をした。望むと望まざるとにかかわらず、タルトン・トラッボは政治にのめり込んでいった。率直に言って、トランボはそう望んでいたのだと思う。小説家として名を上げることに劣らず、政治の表舞台に立つことにも魅力を感じていたのだろう。一度は舞台に上って、その役を堂々と演じたのだから、政治の才能があったことは明らかだ。彼の経歴をたどれば、その芽はすでに高校時代にあったことがわかる。もともと闘争的で、議論に長けていた。共和党員、民主党員といった昔ながらの看板を掲げ、一般的なやり方で政治活動を始めていれば、おそらく大成功していただろう。
 しかし、トラッボは急速な社会変革を求める急進主義者だった。若いころに身をもって貧しさを味わってからというもの、その点は一貫している。コロラドから出てきたばかりの20代のころは、漠然とした大衆主義者だったが、その前途は個人的な経験によって変えられた。大恐慌が深刻化したころ、トラッボは映画の仕事にありつき、個人的な経済状況は好転する。しかし、撮影所のすぐ外で貧しさにあえぐ人々を見て見ないふりをするような、近視眼的な考え方に至ることはなかった。たしかにチャンスをほしいままにし、「ハリウッドを味わって」はいたが、自分が何者か、そして何者だったかを決して忘れはしなかった。迫りくる戦争の影にも心を乱された。そして戦争が始まったとき、限られた選択肢の中から、共産党員になる道を選んだのである。

 ハリウッドでは、脚本家、監督、俳優、そしてわずかながらプロデューサーまで、一世代がまるごと、トランボのようにどこまでも左に傾いていった。プールつきの豪邸に住んでいたことから、不名誉なことに、後に「スイミングプール・コミュニスト」と呼ばれた彼らは裕福だった。それは映画界で最も才能ある人々が含まれていたからで、ハリウッドでの評価はドル記号や数字で示されたからだ。注目すべきなのは、彼らの多くが急進主義者だったことではなく、その圧倒的多数が、そして後にブラックリスト入りする何百人という人々が、仲間を密告するよりも、進んでプールを手放したことだ。自分が手にしているものをそのまま持ち続けるほうがたやすかったはずだ。HUACが求めたのは数人の名前、そして善意と協力の意思表示だけだった。しかし、実際に協力した人はごくわずかで、公正を期すためにいえば、それも自分の持っているものを守りたいという自分勝手な欲望のためではなかった。HUACに密告した人の数だけ、理由の数もあるのだ。しかし、協力を拒み、自尊心以外のすべてを失った大たちにとって、正当だと認めることができたのは、道徳上の理由だけだった。

 協力を拒んだひとり、マイケル・ウィルソンと話すため、私は海岸沿いに車を走らせた。映画業界で最も優れた脚本家にしてアカデミー賞受賞者、大作を手がけ、失われた脚本の救世主でもあるウィルソンは、トランボと同列に語ることのできる数少ない作家のひとりだ。1951年9月20日、HUACの前に〝非友好的な〟証人として姿を現したウィルソンは、現在共産党員か、あるいは以前に共産党員だったことがあるかと尋ねられると、憲法修正第五条を盾に、自らの不利益になるとして答えを拒んだ。その後の長い年月、ウィルソンはトランボと同じように闇市場で仕事をすることによって生き延び、成功さえしている。また、トランボと同じように、ブラックリストの時代に偽名で脚本を書いた映画がアカデミー脚色賞を受賞している。ウィルソンはタフで逆境に強く、道徳的な立場を最後まで守り抜くことのできる力と知性を持ち合わせていた。


アメリカ共産党に 入 党

  1943年の12月後半、トランボは共産党に加わった。なぜ、どのような経過で人党したのだろう。まず、このころは戦時下にあったことを思い出してほしい。アメリカとソ連は同盟関係にあった。
アール・ブラウダーの指揮のもと、当時の共産党はアメリカと戦争を強く支持する路線を歩んでいた。カンザス生まれで、ロシア人の妻を持つブラウダーは、人種問題や労働紛争などに関する党の従来の姿勢を、時代の趨勢に合わせて軟化させ、マルクス主義をもっと広く受け入れられるものにしようとした。これはある程度成功し、トランボが入党したおよそ六か月後の1944年5月には、党員数は8万人という最高記録に達している。そして翌1945年には、地方選挙で多少の成功も収め、ニューヨーク市では共産党公認のふたりの候補者が市議会議員に当選している。ブラウダーは党名までも改め、共産主義政治協会とした。
 これが背景である ― 弁明ではない。トランボは共産党員になったことについてなんら弁明しなかった。かつては、そのことについて意見を交わすよりも刑務所へ行くことを選んだかもしれないが、この日、書斎に座ったトランボは、どんなことでも喜んで話したいといった様子だった。これまでのインタビューでは私かあまりにも慎重になり過ぎて、トランボには物足りなく感じたのかもしれない。ここ数日、まるでそれがふたりの間の暗黙のルールであるかのように、私はトランボが共産党員だったことについて尋ねることを何度となく避けてきた。煮えきらない態度といわれるかもしれない。だが、私の側には気まずさしかなかった。そんな折、トランボは自らその話題を取り上げたのだ。
 「さて」と彼は切り出した。「まだ話していないこと、それも絶対に話しておかなければならないことがひとつ残っているんだが」
 私は咳払いをしてから尋ねた。「というと?」
 「共産党員だったことだ」
 「そう。あなたは戦時中に入党したんですよね」
 「1943年だ」
「戦争などの影響が大きかったのですか」
 「いや、あまりないね。知っての通り、共産党員だとか、共産党員を自認する友人たちと一緒に仕事をしてきたんだよ。SWG(映画脚本家組合)が姿を変えつつあった1936年のころからね。ハリウッドの労働組織 ― 職能別組合や、特にリーダー組合など ― で、俺はかなり精力的に動いていたんだが、その仲間には共産党員もそうでない者もいた。リーダー組合は結成に至るまでは、もちろん秘密だったが、ホーリーリッジ大通りにあった俺の家で結成が発表された。結婚する少し前に、母と暮らしていた家だ。そこで基調講演者として挨拶したのがダシール・ハメットだった。俺もリーダーだったし、リーダー組合の結成を支援していたから、嬉しく思ったよ。この通り、こうしたひとつひとつの活動に関わってきたし、親友の幾人かは共産党員だった。誰かに無理に党に引き入れられたわけじゃない。そんな必要はなかった。彼らを信頼し、尊敬し、好きになっていたからね。それから戦争が始まり、戦争中は共産党員とも共産党員以外とも一緒に仕事をしたが、やがて自分が本心を偽っていると感じるようになったんだ。
 誰かの受け売りだと思われたくないが、共産党に対する反発が強まって、ハリウッドでMPAPAI(アメリカの理想を守るための映画同盟)が作られたこともあり、何か困った事態になるだろうという確信が強まった。もしそんな事態になるなら、共産党の一員になりたいと思ったんだ。長い間、友情の美味しいところだけ味わって、その代償を払わずに逃げるなんてできなかった。おかしな話だと思うかもしれないが、俺はまったくそう思わなかった。これが動機のひとつだ。あれが友人たちでなければ、入党はしていなかっただろう。公開集会に誘われたとき、それが何を意味するか十分承知したうえで参加した。そこで誰かに「入党しませんか?」と誘われたとき、俺は「入党すると決めていなければここには来なかったさ」と答えた。こうして党員になった。俺にとってはそんなに重大なことではなかった。自分の考えや人生ががらりと変わるわけでもなかった。党員証も持っていたよ。シャツのポケットに入れていたんだが、そのシャツを母の家に置いて帰ってしまってね。牧場で暮らしていたころは、母のところに洗濯物を置いていたから。党員証はシャツのポケットに入れたままで、それ以来見ていない。そんなわけで、共産党員になったことに特に深い意味はないんだ。一生忘れられないほどの出来事というわけでもない。結婚とは違って、正確な年も日付も思い出せない。実際、何も変わらなかったし、もう10年早く入党していてもよかったくらいだ。だが、入党を後悔したことはない。いや、入党しなければ後悔していただろう。それは俺にとって生きることそのもので、歴史上の重要な時期、今世紀で最も重要な時期、最も壊滅的な時期の一部になることだった」
 こう語る彼の口ぶりに、いつもの冗談めいたところはまったくなかった。単刀直入に、そしてざっくばらんに事実関係をはっきりさせた。「共産党にはどんな人たちがいたのですか」と私は尋ねた。
 「いいかい、1935年から1945年の間に、共産党に関わった人は100万人近くいるんだよ」トランボは言った。「知識人で何らかの影響を受けたのはごくわずかだが、その中にはすごくいい人たちがいた。1940年代以降、ありとあらゆる誹謗中傷が共産党に向けられたが、どれとして党にいる人たちについて正確に言い当てたものではなかった。党には利己主義なやつもヒステリーなやつもいたが、それはどこにでもあることだ。ただ、彼らが共産党員になったのは、人気取りのためじゃない。金儲けができるからでもない。党員であることがわかれば、職を失うことは重々わかっていた。共産党員になるのに利己的な理由なんてないんだ。革命が起こって努力が報われると期待したからでもない。俺の知るかぎり、共産党員の中にアメリカで革命が起こるなんて期待していたやつなんてひとりもいなかった。遠い将来でもなければね。そんな見返りはなかった。FBTI(連邦捜査局)に監視されるだろうということもわかっていた。パーマー・レイド(20世紀初頭に行われた左翼狩り)で出来上がったパターン通りに、騒ぎが始まった瞬間、最初に刑務所に行くことになるのは自分たちだとわかっていたのさ」
 「なるほど、ではどうして彼らは入党したんですか」私は尋ねた。
 「そうだな、ほとんどが人道的な理由だったと思う。大恐慌とアメリカ経済の崩壊が始まった時期、失業者は1400万人にもなり、それが瞬く間に世界中に広がった。そして世界では、ドイツやスペイン、イタリアでファシズムが台頭し、1940年代にはついに戦争が勃発して五千万人から一億人という人たちが死んだ。あちこちに地獄の炎が上がった。広島や長崎だけじゃなく、アウシュビッツやトレブリンカの強制収容所でも。そんな時代に、よりよい世界を作りたいと望むのは、決して狂気の沙汰ではない。それこそ、入党した人たちのほとんどが求めていたものだと思う」

 離 党

 上訴請求の手続きが長引くにつれて、ハリウッド・テンと弁護士たちは、この問題を世間に知ってもらい、支持を集めるべきだという思いを強めていた。1948年には、大きな支持を勝ち取ることができそうにみえた。この年、進歩党(セオドア・ローズベルトが結成した革新党でブル・ムース党とも呼ばれる)のヘンリー・A・ウォレスが大統領選に出馬したのだ。ウォレスの選挙運動へのトランボの関わりは最小限のものだった。トランボは一、二度演説をし、ウォレスを支持する手紙を書き、それがハリウッド・テンの他のメンバーの声明とともに選挙チラシに転載された。ハリウッド・テンの信念をヘンリー・A・ウォレスの信念と重ねるための ― そして、ウォレスの信念をハリウッド・テンの信念に重ねるための ― 努力がなされた。
ウォレスが大敗したときには、ハリウッド・テンも支持者たちもがっかりしたに違いない。
 そして、1948年はトランボが共産党を離党した年でもある。「レイジーTで暮らしていると、町へ行くにも車で85マイル走らなければならなかったし、ハリウッド・テンなどの問題などで、忙しかったんだ。それで、ただ何となく疎遠になってしまってね。信条を変えたわけじゃない。集まりに行くのをやめ、もう戻らなかった。共産党に入る前と同じくらいの距離を置くようになった」
 その翌年の1949年には、ハリウッド・テンの間にさらに失望が広がった。最高裁の裁判官、フランク・マーフィーとウィレイ・B・ラトリッジが続けざまにこの世を去り、議会侮辱罪についての上訴が審理される確率は、55パーセントから37パーセントに下がったのだ。何か手を打つ必要があった。そこでトランボは「ヒキガエルの時代」と題した政治パンフレットを書いた。強い党派心に基づいてはいるものの、そこにはこの件の論点がかなり明快に考察されている。
 トランボは「ヒキガエルの時代(この奇妙なタイトルはアルソレッド・ドレフェス=1894年にフランスで起きた冤罪事件でスパイ容疑をかけられた)のためにエミール・ゾラが書いた公開状の中で使われている修辞的な言い回しからとっている)」の前半で、HUACの前で議会侮辱罪の出廷命令が下されるまでの経緯を説明し、後半では、ハリウッド・テンの件で提起されたもっと大きな問題について詳細に論じている。この問題が、当時高まりつつあった冷戦の兆候が国内に現れたものだとする見方を示したのは、トランボが初めてだったかもしれない。「わが国の外交政策は反ソ連の立場をとっている。そして国内の問題においては社会主義や共産主義的性格を持つあらゆるものに反対している。こうした対立が、わが国の存在の根本要素となっているのだ」ここで焦点をあてているのは、やがて最も熱心に冷戦主義を打ち出すことになる反共産主義の猛者、ニュー・リベラリズムであり、最大の標的はアーサー・M・シュレジンジヤー・ジュニアだった。彼はすでに公開討論会で、現在もしくは過去に共産党員であった大学教員の学問の自由を、原則として否定するという見解を明らかにしていた(のちに『サタデー・レビュー・オブ・リテラチャー』に掲載された「共産党の世界」という記事の中で、ハリウッド・テンを正面から攻撃したシュレジンジャーは、仇敵となった。トランボはこの男を憎んでいたといってもいい過ぎではないだろう)。
 トランボは「ヒキガエルの時代」の中で、ハリウッド・テンの苦難を、HUACの前で10人が
とった態度の核心にある言論の自由と知的自由に突きつけられた脅威と結びつけ、警鐘を鳴らそうとした。ハリウッド・テンは、上訴請求期間中に国民の支持を得ようと、表立った活動を繰り広げた。全国を巡って演説し、大会や会合に姿を現し、「ヒキガエルの時代」を何度も読み上げた。カーネギー・ホールで行われたハリウッド・テンのための集会には、大勢の人が詰めがけ、トランボはそこで演説をした。


HUAC(下院非米活動委員会)
1947年10月28日のトランボの陳述から

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 ローソンに次いで、非協力的で、〝非友好的な〟証人として登場したのが、ダルトン・トランボだった。彼が証人台に立つたのは、1947年10月28日午前10時半で、ローソンが委員会室で起こした大騒動のちょうど一日後だった。J・パーネル・トーマス委員長の敵意に迎えられたトランボはそれに劣らぬ敵意で応酬した。
 まず、トランボが用意してきた冒頭陳述書を読み上げる許可を巡る前哨戦が始まった。トーマスは陳述書に目を通し、他のメンバーと協議した後、陳述書は「取り調べに関係」ないとして拒否した。
 驚いたことに、次に得点を上げたのはトランボだった。結局のところ、それが唯一の得点となるのだが。以下で「ストリップリンク氏」としているのは、HUACの調査官であるロバート・ストリップリングである。

  ストリップリング氏‥トランボ君、これからする質問に対し、すべて〝イエス〟か〝ノー〟で答えてほしい。答えた後で説明を加えたければ、HUACはそれに同意するだろう。しかし、聴聞会を円滑に進めるために、それぞれの質問には演説なしで回答しなければならない。
  トラッボ氏‥わかりました。あなたの役目は質問をすることで、私の役目は答えることです。     
  私がそうしたいと思ったときには〝イエス〟か〝ノー〟で答えます。そうでなければ、自分の
  言葉で答えます。たくさんの質問〝イエス〟か〝ノー〟で答えるのはばかか奴隷だけですから。
  委員長‥〝イエス〟か〝ノー〟で答える必要はないという点に同意する。
  トランボ氏・・ありがとうございます。

 トラッボが自分の書いた20本の脚本を調書に記載してほしいと求めたのはそのときだった。これはかなり突飛な発言に思えるかもしれないが、決してそうではなかった。J・パーネル・トーマスが聴聞会を開いたのは、ハリウッド映画-そして特に、〝非友好的な〟証人が手がけた映画―には共産党のプロパガンダ(HUACによってまだ証明されていなかったが)が盛り込まれているという罪を実証するためだと思われていたからだ。トランボの脚本も攻撃の的となっていた。これに抗弁するには、作品を見せる以外に方法はない。しかし、委員長は「脚本が長過ぎる」としてこの要求を却下した。
さらに、トランボが調書に残すために、戦時中の陸軍航空隊の最高責任者、H・A・アーノルド元帥など、(HUAC側から見ても)疑う余地のない有力者による自分の作品への賛辞を読み上げようとすると、それも阻まれた。
 ふたりは続いて、トランボがSWG(映画脚本家組合)のメンバーかという問題を巡って衝突した―これも単純な質問だが、トランボからすれば、言葉通りの単純な問題ではなかった。トーマス委員長が、その年の初めに情報収集のためにロサンゼルスを訪れた際、SWGは「共産党員だらけ」だと報道陣の前で話していたからだ。トーマスがこれを信じているとすれば、この話がどこに向かうかはトランボにもはっきりとわかった。

  トランボ氏・・委員長、この質問は特定の目的を意図したものです。まず―
  委員長(小槌を叩きながら)・・君は―
  トランボ氏・・第一には、私をSWGだと特定するため、第二には私を共産党と特定し、そ  れを理由にSWGを壊滅させようと―

 ふたりがこの点について言い争った後、ロバート・ストリップリングはトランボに決定打を浴びせた。「共産党員か、あるいは共産党員だったことがあるか?」トランボはこの質問にも答えなかった。
議論は、HUACの調査官が報道陣に公表した〝タルト・T〟の名で作られた〝共産党登録証〟に及び、トランボがそれを見ることが認められるかどうかを巡る口論へと発展した。それはトランボに開示されず、その数分後に証拠として提出された。証人席から連れ出される前に、トランボはHUACと委員長に向かって怒りを露わにしている。

  トランボ氏・・これはアメリカの ―
  委員長(小槌を叩きながら)・・ここまでとする ―
  トランボ氏・・制収容所の始まりだ。
  委員長 ・・典型的な共産主義者のやり方だ。

 「SWGのメンバーか?」と「共産党員か、あるいは共産党員だったことがあるか?」のふたつの質問に答えるのを拒んだトランボに対し、証言のすぐ後に、その場にいたHUACのメンバーによって「アメリカ合衆国下院の侮辱罪」が採決された。(SWG -映画脚本家組合)


WGAから功労賞を授与 そのスピーチで論争に 

 『ジョニーは戦場へ行った』の制作に乗り出そうとしていた時期の、1970年3月13日、トランボはWGA(全米脚本家組合)から功労賞を贈られた。「長年にわたって映画の脚本を発展させ、脚本家という職業に多大な貢献をした組合員」に毎年贈られる賞である。WGAが意図した通り、これは歴史的出来事となった。この年の功労賞は和解の証であり、あるいはそれ以上に、WGAがブラックリストに載せて不当に扱った多くの脚本家たちのうちのひとりに許しを請う象徴的出来事だった。ブラックリストはWGAが始めたわけではなかったが、進んで全面的な協力をしてきたのだ。この協力がなければ、ブラックリストは存在しなかったかもしれない。
 トランボはこの瞬闘のあらゆる微妙な意味合いや雰囲気を感じていた。このような状況では、賞を受け取る覚悟を決めて出席しただけでも十分だったろう。しかし、彼はそれだけではなく、その夜、その場に自分が出席することで生じる倫理的問題について触れるつもりだった。WGAの組合員を非難するつもりはなかった。そこにいる組合員の半分以上は、事実を深く心に刻むにはあまりに若過ぎた。そのことがわかっていたため、短い受賞スピーチの中で、トランボは彼らに向かって直接こう訴えた。

 「おそらく、組合員の半数以上は、ブラックリストの時代が始まった当時、まだ子どもだったか、生まれていなかったため、そのことを記憶していないのではないかと思います。そうした人たちのために、話しておきたいことがあります。ブラックリストの時代は悪の時代であり、どちらの側にいても、あの時代を生き抜いた人たちはみな、悪の影響を被ったのです。個人の力ではどうにもならない状況の中で、みなそれぞれ、自分の人間性、必要性、信念、個々の事情に従って対応せざるを得ませんでした。どちらの側にも、誠実と不誠実、正直と不正直、勇気と臆病、利己主義と日和見主義、知恵と愚かさ、そして善と悪があったのです。巻き込まれた人々のほとんどは、どんな立場にあっても、自分自身や行いの中にこのような正反対の要素を併せ持っていたのです。
 私は常々、40代やそれより若い世代の君たちは、あの暗黒の時代を振り返るべきだと思って  いるのですが、そうした場合に、悪漢やヒーロー、聖人や悪魔を探しても、何の役にも立ちませ  ん。そんなものはいないからです。いるのは犠牲者だけです。味わった苦しみの大きさは人それ  ぞれ違います。得をした人も損をした人もいるでしょう。しかし、最終的には、私たちはみんな  犠牲者なのです。ほとんどの人が例外なく、言いたくないことを言い、やりたくないことをやり、  意に反して傷を負わせたり負わされたりせざるを得なかったわけですから。だから、右派だろう  と左派だろうと中立だろうと、長い悪夢から目覚めた私たちの誰もが、罪の意識にさいなまれて  いるのです。」

 その場にふさわしいスピーチだった。ふさわしいどころか、雄弁で潔く、寛大なスピーチだった。
まさに司祭の力を与えられ、司祭として罪を許したのだ。
 しかし、寛大過ぎると感じる人もいた。トランボにとってかなり身近な人でさえもそう感じた。功労賞の夕食会の日はたまたま、トランボ夫妻の32回目の結婚記念日でもあった。トランボ夫妻の長年の友人である、弁護士のオーブリー・フィンとポーリーン・フィンも、この夕食会に出席していた。
「あのとき初めて聞いたんだよ」とフィンは言った。「彼が何を話すつもりか前もって知らされていなかった。帰りの車の中でクレオがそのスピーチに対して不満を漏らした。あまりにも寛大過ぎると感じたのだろう」
 そして、最初のハリウッド・テンの数人を含め、トランボが言ったことに異論を唱えた人たちもいた。レスター・コールもそのひとりだ。「トランボの『いるのは犠牲者だけ』というスピーチには賛成できなかった。あれは本当にショックだったよ。俺に言わせれば、フォードがニクソンを許すようなものだ」
 アルヴァ・ペッシーもこう語る。「そうだな、おれは悪漢もヒーローもいたと思っている。トランボも以前はそう考えていたと思うんだがね。悪漢はいた。そしてヒーローがいたとすれば、トランボはそのひとりだ」
 アルバート・マルツは、特にトランボの功労賞スピーチに対して、頑として手厳しい反対意見を述べている。不思議なことに、ふたりは数ブロック離れたところに住み、かなり親しい間柄であったが、二年以上もの間、マルツはこの件に関してトランボに自分の思いを明らかにしていない。そして、『ニューヨーク・タイムズ』のビクター・ナバスキーに語ることで、初めてこのスピーチに対する批判を公にしている。ナバスキーはこれをブラックリストに関する記事にまとめ、その記事はのちに『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された。一部ではあるが、マルツの言葉を紹介しよう。

  「最近、ダルトン・トランボによって、ブラックリストの時代を経験した人はみな、同じよう
  に犠牲者だという命題が初めて表明された。これは実にばかげた解釈であり、混乱を招くような道徳観を示している。
   極端な例を挙げれば、友人をゲシュタポの拷問部屋送りにした、フランスの地下組織の密告者も、同じように犠牲者ということになり、人生には善も悪もなくなってしまう……。
 〔トランボは〕自分がブラックリストに載っていたころも、「ヒキガエルの時代」という素晴
 らしい政治パンフレットを書いたときも、公私のいずれにおいても、この信条を掲げてはいな
かった。いったいどうしたら「ヒキガエルの時代」の再発行と同時に、「犠牲者しかいない」
という信条を表明することができるのか、私には理解できない。おそらく、これは私やその他仲間たちに向けた言葉ではないのだろう。しかし、これだけは述べておきたい。「みんな犠牲者」という彼の倫理観は、協力しなければ罰が下されるという状況下で、HUAC(下院非米活動委員会)に協力した人々すべてに熱狂的に受け入れられたのだ」

 ナバスキーはマルツのこの発言内容をトランボに見せて、コメントを求めた。トランボはかなり穏やかな意見を述べ、功労賞の際のスピーチで「誰もが……同じように犠牲者だ」とは言っていないとすら指摘しなかった。トランボはナバスキーに、マルツと公の場では議論したくないと伝えている。
しかし、ふたりの間で個人的な争いが起こるのを止めることはできなかった。ふたりの言葉を引用した記事が掲載されるずっと前から、マルツとトランボとの間では、怒りと激しい個人攻撃の手紙がやりとりされていた。
 マルツはトランボが見解を変えたことを、(実際にそうは言っていないが)敵に寝返ったとほのめかし、激しく非難している。また、少なくとも、トランボは彼らの裏切り行為を諸手を挙げて正当化したと指摘している。トランボも一歩も引かなかった。
「この国では、殺人犯や強姦犯であっても、更生して立派な市民になることができるという人道的な理論に立ち、しかるべき期間の罰を与えた後に社会復帰させている。そんな国にあって、私は25年前の憎しみの炎を煽り立てるつもりはない」
 これに対しマルツは、トランボが敵に手を差し伸べ、安心感を与えたと詳細に論じ、激しく応酬している。HUACの前で目分たちがとった態度は、トランボ自身が「ヒキガエルの時代」で論じたように、基本的に憲法に則ったもので、自分たちは修正第一条を救うために刑務所へ行ったのだと訴えた。また、ブラックリストの時代にはヒーローも悪漢もいたと主張している。刑務所に行った10人はヒーローで、密告者は悪漢だったと。しかし、トランボはこれを受け入れようとはしなかった。

 「私たちの一番の目的は密告者にならないことだった。私たちは憲法を盾に密告を拒んだことを擁護し、正当化した。その盾が必要だったから、そのために戦った。血を流すことを恐れずに、自らの意思で憲法の擁護に立ち上がっていれば、私たちの行為はもっと大胆で、気高いものになっていただろう……。自分たちが正しい側で名誉ある振る舞いをしたというだけで十分ではないか。それは当時受けた称賛、そして今再び受けている称賛に値するものだ。だからといって、私たちの行いが本質的に英雄的というわけではない……。
  ハリウッド・テンが英雄でなかったなら、いったい何だったのか? まさに、あの瞬間、あの
 状況で(必ずしも他のすべての瞬間や状況でそうだったとは限らないが)名誉ある行動を選んだ10人の男たちだ。激しい反発を受けながらも、人生のあの場面から今日に至るまで名誉を守る勇気があった男たちだ」

密告した人たちについても、トランボは断固とした態度で、そしてさらに雄弁に語っている。

 「罰を与えると脅されて証言を命じられた60人ほどがそれに屈した。つまり、密告者となった。
 彼らが密告者になることを望んでいたという証拠はほとんどないが、密告を嫌がっていたことを示す証拠はたくさんある。彼らはやむにやまれずそうしたのだ。恐怖(まったく根拠はない)と大きな圧力に耐えかねての行動だったのだと……。
 その誤りが何であれ、60人あまりの不本意な証人たちは、ふつうの良識ある人々なのに証言を迫られたのだ。それは永久に消すことのできない行いであり、違法であり、許すことはできないと私たちは力説してきた。彼らは圧力に屈し、情報提供者になった。証言を求められさえしなければ、密告することはなかっただろう。彼らは私たちと同じように、どんな人間にも強いるべきではない苦難の犠牲者であり、それを強いたHUACの犠牲者なのだ。歴史と悪漢の定義が正しく書き換えられるまで、彼らを悪漢と呼ぶことはできない。
  彼らが悪漢でなかったのなら、いったい何だったのか? まさに、あの瞬間、あの状況で(必ずしも他のすべての瞬間や状況でそうだったとは限らないが)名誉を捨てて密告者となることを選んだ人たちだ。それはもういいではないか。彼らは密告したという事実を抱えて20年以上生きてきたのだ。そしてもっと恐ろしいことに、その子どもたちも親が密告したという事実を抱えて生きてきたのだ」

 ここで長々と引用した手紙は41㌻にも及ぶ。しかし、それでもやりとりは終わらなかった。
どちらも前の手紙よりさらに辛辣な手紙を書いた。ついにトランボが手紙のやりとりを打ち切り ― 彼の最後の手紙は1973年2月9日付けになっている ― 『パピヨン』の残りの重要な撮影のために、ジャマイカへ向かった。

gawk トランボの偽名 
ドクター・ジョン・アボット
ロバート・リッチ  「黒い牝牛」でこの名前を使った
サム・ジャクソン  「スパルタカス」で

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《用語解説》

ハリウッド・テン
ブラックリストに載り、HUACによる聴聞会で証言を拒否したり、召喚に応じないことによって、議会侮辱罪で有罪判決を受けたハリウッドの映画関係者10人を指す。

アルヴア・ベッシー(脚本家)
ハーバート・ビーパーマン(映画監督・脚本家)
レスター・コール(脚本家)
エドワード・ドミトリク(映画監督)
リング・ラードナー・ジュニア(ジャーナリスト・脚本家)
ジョン・ハワード・ローソン(作家・脚本家)
アルバート・マルツ(作家・脚本家)
サミュエル・オーニッツ(脚本家)
エイドリアン・スコット(脚本家・プロデューサー)
ダルトン・トランボ(脚本家・映画監督)

赤狩り(マッカーシズム)
冷戦下の1940年代後半から1950年代前半にかけてのアメリカで、国家が国内・政府内の共産党や共産主義に関わりのある者を社会の中心から一掃しようとした動き。共和党上院議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーが煽動し、追及の中心となったことからマッカーシズムと呼ばれる。スパイ容疑や共産党との関連の疑いのある者を十分な証拠がないまま、喚問し追及した。追及は政治家、政府関係者、芸術家、そしてハリウッドの映画関係者にまで及び、嫌疑をかけられた人々の多くが仕事と社会的地位を失った。

HUAC(下院非米活動委員会)
冷戦の時代、国内の非アメリカ的な共産主義運動を監視し、ファシストを摘発する目的で1938年に米下院に発足した特別委員会。
赤狩りの中心的な舞台となり、形を変え存続し、1975年に廃止された。当時大統領であったトルーマンはのちに、委員会自体が「もっとも非米的であった」と回想した。

ブラックリスト
マッカーシーを中心に作成された共産主義者、あるいはその支持者と疑われる人々の取り調べを行う目的で作成された名簿。ハリウッドがその標的とされ、ハリウッド・ブラックリストと呼ばれる。映画監督、脚本家、俳優など共産主義に関わりがあるとされた者たちはみなブラックリストに載せられた。

修正第1条・修正第5条
米国憲法修正第1条は、政教分離の原則や信教・表現の自由を定め、言論の自由を保証している。修正第5条は、条文中で「何人も、刑事事件において、自己に不利な証人になることを強制されない。何人も、法の適正な手続によらずに、生命、自由または財産を奪われない」と黙秘権を認めている。HUACに嫌疑をかけられた人々はこれらを盾に争った。

修正1条(1791年)
連邦議会は、国教の樹立に関し、自由な宗教活動を禁止し、言論または出版の自由、平和的に集会し、苦情の救済を求めて政府に請願する人民の権利を縮減する法律を制定してはならない。

修正5条(1791年)
何人も、大陪審の告発または起訴によらなければ死刑を科される罪または懲役刑の科される破廉恥罪について責を負わされない。ただし、陸海軍内で生じた事件及び戦争または公共の危害に際して現に軍務についている民兵内で生じた事件は、この限りではない。何人も、同一の犯罪について生命または身体を2度の危険にさらされない。何人も、刑事事件において自己に不利な証人となることを強制されない。何人も、法のデュー・プロセスによらずして生命、自由もしくは財産を剥奪されない。何人も、正当な補償なしに私的財産を公共の用のために収用されない。

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2013年4月16日 (火)

三國連太郎さん逝く  4月16日

 三國連太郎さんが4月14日に90歳で亡くなられました。
心から哀悼の気持ちをお伝えします。

 三國連太郎さんは私が好きな俳優の一人でもあり、三國連太郎さんの「釣りバカ日誌シリーズ」はよく見ました。三國連太郎さんの発言にはいつも注意して聞くようにもしていました。
 私の印象に強く残っていた記事に、2004年11月3日の「しんぶん赤旗」に掲載された「発言=2004 憲法」での三國連太郎さんの発言がありました。
 三國さんの訃報を聞いてその切り抜き記事を探し出しました。読んでみて、9年も前の記事とは思えないほど現在にもピッタリなするどい発言に敬服しました。
 もう一つは、子どもの頃に田舎の学校の体育館で見た「異母兄弟」の映画がずうっと私の記憶に残っている、すごい映画だったということです。

 そういうことで、2004年11月3日の「しんぶん赤旗」の記事を再録させていただきます。

発  言

 2004 憲法

 三國連太郎

みくに・れんたろう 1923年生まれ。 50年松竹に研究生として入り、51年「善魔」でデビュー。そのときの役名が芸名に。主な出演作は「異母兄弟」「飢餓海峡」「神々の深き欲望」「釣りバカ日誌シリーズ」など。ドラマ「新幹線をつくった男たち」(東京系 きょう3日放送)で国鉄総裁・十河信二役。著書に『白い道』『三國連太郎 梁石臼 風狂に生きる』など。
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(2004年11月3日 「しんぶん赤旗」掲載写真より)

不合理な権力に抗して

 僕はね、10代のころ、二度、家出をしたんです。最初は、伊豆の下田から「神風」という輸送船にもぐりこんでチンタオ(青島)まで行った。年齢を偽ってダンスホールで働いたり、プサン(釜山)で駅弁売りをしました。中学2年から20歳まで、朝鮮半島と中国大陸を通算して5ヵ月ほど放浪したでしょうか。
 日本にいなきゃ軍事教練もしなくていいし、戦争に行かなくてすむと思ったんですね。二度目の逃亡の時、佐賀の唐津からおふくろに手紙を書いた。その手紙をおふくろは警察に届けたんです。消印で、僕は捕まりしてね。本籍地の伊豆に連れ戻された。20歳の時です。仕方なく静岡連隊に入隊して、一ヵ月後に中国戦地に送られました。
 当時の女性の置かれてる立場を思うとそうするかなかったんでしょうね
僕みたいな子どもがいると世間からつまはじきにされる。弟妹がかわいそうだってことでしょうか。僧んだことはないです。母親を。

  父は「生きろ」と

 戦地に行ってから信条にしたのは、出征の時のおやじの言葉です。「絶対、生きて帰ってこい」と言った。見送りにも来ませんでした。おやじはシペリアに出兵したことがありました。戦争がどういうものか、肌で感じていたんでしょう。軍隊というのは、ウソで固められた組織でした。終戦は中国の漢口で迎えました。デング熱で二週間ぐらい意識不明になって、治った時に敗戦を知りました。捕虜になって翌年、帰国したのですが、あと一年、作争が続いていたら生きてなかったかもしれない。中学の同級生も三分の二は死にました。
生き延びて思ったのは、死んでいった仲間は、ひょっとすると犬死にだったのではないか、ということでした。僕は、祖国のために命をささげるという関係がどうしてもわからなかったんですね。僕にとって祖国とは何なのか。この疑問は中学の時から、81歳の今まで続いています。
 戦後、役者になって、山本薩夫さん、家城巳代治さん今井正さんといった優秀な監督と出会いました。この人たちの作品を通して戦争に対するものの考え方を主人公に負わせて芝居をしてきました。いつのまにか、そういうものが排除され、憲法が変えられそうな妙な時代にすべりこんできたなと感じます。
 僕には一人息子(俳優の佐藤浩市さん)がいます。息子に「男の子だけは産むな。徴兵制でとられるぞ」と言ったことがありました。生れてきたのは男の子でした。今、小学2年ですがこの子が大きくなった時、日本はどうなっているのか空恐ろしい気がします。 僕は生理的に権力というものが嫌いなんです。昔はそれで、結構、仕事を干されたりもしました。

   大事にしたこと

 墨子の言葉で「非無安居也 我無安心也」というのがあります。安じて居る場所がないわけではない、安んじる心がないから安居がないのである。自分自身を失ったら安心もない、ということでしょうか。僕は安心とは、不合理な権力に抵抗することで生まれるんじゃないかと思っています。
 この仕事を始めて53年になりますが、大事にしたことはただ一つ、歴史をゆがめたものには出ないということです。でも僕は弱い人間です。今は憲法に守られているから自由にものが言えますけど、言えなくなったらどうなるか。戦争は殺し合いです。あれだけの犠牲を出して構築した平和憲法だけは、守っていかなきゃいかんと思います。

 聞き手 板倉三枝記者
 写 真 滝沢清次記煮

 

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2011年11月15日 (火)

長野県青木村と栗林一石路  10月22日~23日

義民の里の歴史を受け継ぐ青木村
明治・大正・昭和を生き抜いた栗林一石路


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 長野県小県郡にある青木村は、平成のアメとムチによる大合併に組みせずに、自治と自立の道を歩んでいます。そんな青木村にいつも尊敬の念をいだいて村の発展を願い続けている私です。
Img_5775Img_5728 私は、青木村と上田市の境界近くの上田市浦野で生まれ、私が中学3年の時に分村合併があり、旧浦里村の一部であった当郷が青木村に行ったという忘れられぬ思い出があります。青木村の象徴でもある子檀嶺岳と夫神岳が私の生家からもよく見えます。嬉しいにつけ悲しいにつけいつも二つの嶺を仰いで育ってきました。青木村とは切っても切れぬ関係にあると思っています。

東山道を通してさまざまな文化が入ってきた青木
有史に5回の百姓一揆  正義感と反骨精神ある村


 1300年前の奈良時代、幹線道の一つであった東山道。青木から上田に向かう途中に浦野駅がありました。東山道を通してさまざまな文化が青木村に入りやすかったようです。
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(青木村歴史資料館で)
 青木村の歴史には百姓一揆が5回も起きています。私は5回も百姓一揆があったとは知りませんでしたが今回知りました。でも、おばあさんら百姓一揆の話を聞いた記憶があり、長兄に聞いてみると、明治2年の百姓一揆の時に商売をしていた(東山道浦野駅で)おじいさんが酒だるを用意し、おにぎりの炊き出しで出迎えたということをおばあさんから聞いていました。
  貧しいから百姓一揆ということではなかった
 桜田義文さんの話では、江戸時代、上田藩の山の中の村であまり重視されなかった。正義感があり反骨精神がある村で、貧しいから一揆ということではなかったようだと言います。
青木村では、百姓一揆の首謀者はいつも厳罰にされるので、みんなで首謀者の家族を守り育ててきた気風がありました。ですから、神様として祀られ、義民太鼓も伝わっています。

栗林一石路没後50年・雑草忌のつどい
新俳句人連盟主催・10月22日~23日 青木村で開催


Photo
(栗林一石路)
 青木村での開催を知り、私は俳句は全く作らず、「俳句人」の読者ですが参加可能ということで参加させてもらいました。
 考えてみると青木村のことを知らない事が多かったの、この機会に少しでも青木村の事を知りたいと思ったのです。参加して本当によかったと主催者に感謝しています。

delicious 栗林一石路の略歴

1894年(明治27)青木村夫神で生まれる
本名 上野農夫(たみお)母の再婚で栗林姓に
1907年(明治40)この頃から俳句をつくる
1914年(大正 3)徴兵で入営
1921年(大正10)斎藤たけじと結婚、青木時報創刊、編集主任
1923年(大正12)上京、改造社に就職
1927年(昭和 2)改造社を退社し、新聞連合社に就職
1930年(昭和 5)プロレタリア俳句を宣言
1938年(昭和13)従軍記者で中国広東へ
1940年(昭和15)皇紀2600年式典に出席
1941年(昭和16)治安維持法違反で逮捕、投獄
1943年(昭和18)保釈出獄、判決は懲役2年、執行猶予3年
1945年(昭和20)11月「民法」創刊、編集局長
1946年(昭和21)「新俳句人連盟」創立、幹事長、「俳句人」創刊
1947年(昭和22)「私は何をしたか」を「俳句人」に掲載、日本共産党入党
1948年(昭和23)「民法」廃刊
1949年(昭和24)「新俳句人連盟委員長(1954年まで)、妻たけじ死去
1955年(昭和30)「栗林一石路句集」「短歌と俳句」刊
1957年(昭和32)結核で入院治療
1960年(昭和35)自宅で結核療養、「プロレタリア俳句の主張とその検証」「俳句」刊
1961年(昭和36)5月25日死去

delicious  シャツ雑草にぶっかけておく
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delicious  ぼんおんと鳴る鐘きいて   畑をしまいけり
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delicious  義民いまは神にして   冬の山はあり

 
三つの〝とげ〟をのこすまいと念願している

Img_5625 
今回、こんなご縁で「私は何をしたか  栗林一石路の真実」 栗林一石路を語る会編著を読むことができ、青木村郷土美術館館長桜田義文さんのお話も聞き、名前だけは知っていた栗林一石路の全体を知ることができました。そうして、栗林一石路の俳人としてジャーナリストとして生きた生涯に尊敬の念を持ちました。
 特に、戦後「私は何をしたか」で戦中に自らが絶対主義的天皇制のもとですすめられた、アジア諸国への侵略戦争に加担してしまったことを〝三つのとげ〟として自己反省したことが私には強烈な印象となりました。
Img_5650 現在もそうですが、戦時中に明確に戦争責任がある政治家が復権していたり、戦争協力の作品を書いて戦争鼓舞の役割を果たした多くの文化人が、そのことへの反省を口にしない状況があります。そうした中で、栗林一石路の態度には尊敬の念がわきました。栗林一石路は「私は何をしたか」の最後の部分で「もちろん私の不敏は今後もおそらく数々の過ちを犯すであろう。しかしふたたび一つの過ちの上に、反省することなしに次の過ちを重ねないようにつとめることによって心に〝とげ〟をのこすまいと念願しているのである」と述べています。
(三つのとげとは-従軍して従軍記を書いた事、皇紀2600年に出席し、讃美の俳句を作る、転向の手記を書いた)
 多くの文化人に慕われていた栗林一石路
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(見舞い者の記録から-青木歴史資料館で)
 青木村の歴史資料館で展示されている栗林一石路の資料を見ましたが、その中に一石路が結核で入院治療することになった時に、その当時の著名な文化人の多くが見舞いを寄せた記録が在りました。見ていた人たちの間から「すごいねえ」とささやきが漏れました。

国宝大法寺三重塔
いつ来ても、何回来ても懐かしい

 この国宝三重塔(見返りの塔ともいう)は私が子どもの頃から何回ともなく通った場所で、誇りに思っている貴重な文化財です。中学生の時に、三重塔の大修理があって先生の案内で、塔の内部にも入ってじっくりと見学したことがありました。懐かしい思い出です。
 生家に帰省すると一人で歩いてこの塔をよく見に来ます。そして写真も撮るのですが、なかなか満足できる写真が撮れないでいます。
 やっぱりすばらしい文化財ですね。
(鎌倉時代最後の年1333年に建立された)
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(国宝大法寺三重塔=見返りの塔とも呼ぶ)


 

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2011年11月 8日 (火)

ジャズピアニスト 秋吉敏子 inかすかべ   11月6日

「私はジャズというミュージシャンとしてしか存在しない」
             ― 秋 吉 敏 子  ー

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 高久价章・豊織子氏主宰による10回スペース悠悠チャリティーコンサートが、11月6日(日)春日部市春日部高校センテニアルホールで開催されジャズピアニストの秋吉敏子さんが出演されました。

 タフで親しみのある演奏に感嘆

 81才を超えている人の演奏だろうかと思ってしまうほど、迫力があって、ジャズの旋律に合わせて身をふっている自身に気付きます。そして、親しみがすごくあるのにも驚きました。Akiyoshi_b
全身を使って演奏しているのです。右足を強く後ろに踏み返し、床を強く踏んでいる音も聞こえます。
 ジャズって生活に根ざいしている音楽で、秋吉さんが表している全てがジャズなんだろうなと感じた私でした。
 やはり、生演奏会に参加できて本当によかったです。
そして、「私はジャズというミュージシャンとしてしか存在しない」という秋吉敏子さんの言葉を思い出したのでした。

 ジャズに日本の伝統文化を取り入れて

 111106Reposeという曲が演奏された曲が他の曲とはすごく違って感じられました。マイクの感度がわるく秋吉さんのトークが良く聞き取れない部分があったのが残念でしたが、青森県弘前での事を作曲したもののようでした。リンゴ、コメ作り、春が来るのを待っている、雪が落ちる音がステキとも言っていたように思います。

 

「ホープ 希望」を作曲した経過についてもふれられ、防空豪から顔を出したている女性の表情にショックを受けたことなど・・・。
 アメリカに1956年に渡り、それ以来アメリカを拠点に演奏活動をしていること事。そのアメリカには根強い人種差別意識があって特にアジア人に対する差別意識がある事など。

最後の演奏曲は「てんてんてまり」でした

 温かった手の感触

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 演奏会が終わってからロビーでサイン会があり、秋吉さんは多くの人の希望に快く応えていましたが、その笑顔がすばらしいと感じました。演奏しているときの姿とは違った表でした。
 私は秋吉さんのCDは持っているので、握手だけ求めましたが快く応じてくれ、温かな手でした。
 秋吉敏子さんありがとうございました。これからも健康に留意され、益々援総括度で活躍されることを願ってやみません。


  ジャズと秋吉敏子さん

 私は、音楽鑑賞をするのが好きで、一番好きなのはピアノ曲です。
ジャズも「いいなあ」という感じはずうっと持っていました。
 昨年12月2日、NHK放送「100年インタビュー~ジャズピアニスト・秋吉敏子~」を聞く機会がありました。
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 秋吉敏子さんが生きて来た人生と哲学に、すごく共感できることがたくさんあり、感銘しました。
 日本の伝統文化をジャズに取り入れた事。娘さんのMonday満さんとの事、「ヒロシマ-そして終焉から」「HOPE  希望」作曲の経過など々。そして「政治の在り方と社会問題は離れていない。ミュージシャンなのでジャズ語で表現したい」
 秋吉敏子さんの哲学として言っていた言葉「自分の持っているものは、しっかり持ちながら、相手の持っているものを理解すること」が印象に残りました。

 それ以来、あらためてジャズに関心が高まり、秋吉さんのCD、その他のジャズCDを購入して聞くようになりました。

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2011年6月 4日 (土)

「ローマの休日」〝赤狩り〟と闘った人たち 5月20日

happy01 12月2日Bsプレミアム放送で
「ローマの休日」がまた放送されました。


 今回、2011年6月4日に掲載した、ブログ記事の【「ローマの休日」〝赤狩り〟の嵐の中で〝赤狩り〟と闘った男たちの知られざる物語】があって、過去とはまったく違う感覚で
映画を見ました。
 不思議な気がしたのですが、映画の中での俳優たちの表情の細かい動きにまで、自分が見ていたのです。そして、新鮮な、見終わってじわ~とくる、余韻が残る、そいういう気分になったのでした。
 この映画は名作と言っていい、そういう映画ではないでしょうか。

 そんな私の気持ちを表現したくなり、初めてのことですがトップに持ってきてみました。

● 以下は2011年6月4日の記事です。

Bs歴史館 シリーズ ハリウッド100年①
「ローマの休日」〝赤狩り〟の嵐の中で
〝赤狩り〟と闘った男たちの知られざる物語

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clover  写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

NHKBsプレミアムで2011年5月20日放送
鳥谷部寛巳プロデューサー
菊池正浩プロデューサー


 happy01  出演者  happy01
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    東京大学大学院教授 藤原帰一(国際政治学)
女優 斉藤由貴
作家 中村うさぎ
映画評論家 上島春彦(著書 レッドパージ・ハリウッド他)

私は、これまでにテレビで2~3回「ローマの休日」を観ていました。
番組表をよく見なかったので「またローマの休日をやるんだ」程度に推察してしまっていました。ところが、放送が始まってみて違うことに気づき、放送に引き込まれて熱心に観ました。「ローマの休日」製作の背景にこんなにすごい闘いがあったことに感動し、また新しい事を知ることができて本当によかったと思っています。
 日の丸、君が代の押し付け問題や、ビラの配布の自由権の問題と、ダブって考えさせられました。人間の精神活動を本当に大切にし、思想・良心の自由、言論・表現の自由、政治活動の自由、信教の自由はどんな政治体制の元でもしっかりと保障し守らなければならないと強く感じました。

それで、ブログで放送の内容をできる限る忠実に伝えたいと考え記事を書いています。
ですから、まとめるのに時間がかかりました。

  プロローグ

1911年、最初の撮影所が作られてから今年でハリウッド誕生100年を迎える。

(中村うさぎ)
「ローマの休日」を観たのは、10代後半から20代前半の頃で「甘っちょろいロマンス」ぐらいにしか思っていなかった。今回、はじめて、脚本家が赤狩りにあって、なんでそんな人がわざImg_5723_2 5264_2 わざこんな作品を書いたのか。たとえば、太宰治が「走れメロス」を書いたようなものなのかな。
(上島春彦)
トランボが「ローマの休日」を書いた時には、投獄されることがほぼ決まっていた。そいう切羽詰まった中で企画され脚本が書かれたのが「ローマの休日」だった。
(藤原帰一)
「ローマの休日」と〝赤狩り〟の関わりについてご存知でしたか?(斉藤由貴に問いかけ)
(斉藤由貴)
全く知らなくて、本当に陳腐な話。背景をかみしめて考えると、こういう作品が求められたのかな

book  「ローマの休日」は1953年に公開

監督 ウィリアム・ワイラー
アカデミー賞のオリジナル・ストーリー賞受賞
オードリー・ヘップバーン 主演女優賞
最初しばらく字幕の脚本家のクレジットはマクレラン・ハンターとなっている。
    =本当の脚本家は別にいたことが
                 後年わかりましたが、ダルトン・トランボでした=
なぜ、名前を代えていたのか。〝赤狩り〟によってハリウッドを追放された男だったから。

歴史的背景

1929年、世界恐慌
1933年、ルーズベルトのニューディール政策が進められたImg_5425_2
Img_5285_2アメリカ共産党が勢力を拡大し7万人にも
1937年、日・独・伊防共協定
1938年、アメリカ下院に非米活動委員会が発足(1975年廃止)
1939年9月1日、第二次世界大戦はじまる。
1941年12月8日、日本が太平洋戦争を開始
反フアシズムで米・英・ソが共同戦線
ダルトン・トランボ 1944年アメリカ共産党に入党
1947年 トルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め政策)
米・ソ冷戦のはじまり

最初のターゲットにされたのがハリウッドだった。

1947年9月 トランボ、非米活動委員会に召喚される
1947年10月 非米活動委員会公聴会開始
第1週は共産主義反対の有名スターを召喚し注目を集めさせた。
Img_5301_2  ロバート・テイラー、ロナルド・レーガン、ゲーリー・クーパーなど
 ウォルト・ディズニー「自由の国アメリカから共産主義をあぶり出すべきだ」と先頭に
第2週はハリウッド10(テン)と呼ばれる人たちが召喚された
(委員会尋問) あなたは共産党員ですか。かつて共産党員だったことが有りますか
(トランボ)  あなたはいかなる理由でその質問をしているのですか と追求をかわす
Img_5313(委員会尋問) 質問するのはあなたではない。あなたは共産党員だったことがありますか
(トランボ)  私は質門の根拠を知る権利がある。あなたはいかなる権利を持っているのか。
共産主義者だと認めれば仕事や地位を失う。しかし、共産主義者でないと証言すれば自からの思想・信条に反する。トランボたちは証言しないことで〝赤狩り〟に抵抗した。

「ハリウッドテンとは」
1Img_5306.アルヴァ・ベッシー (脚本家)
2.ハーバート・ビーバーマン (映画監督・脚本家)
3.レスター・コール (脚本家)
4.エドワード・ドミトリク (映画監督)
5.リング・ラードナー・ジュニア (ジャーナリスト・脚本家)
6.ジョン・ハワード・ローソン (作家・脚本家)
7.アルバート・マルツ (作家・脚本家)
8.サミュエル・オーニッツ (脚本家)
9.エイドリアン・スコット (脚本家・プロデューサー)
10.ダルトン・トランボ (脚本家・映画監督)

ハリウッドテンを激しく非難する者、応援する者。ハリウッド映画界は〝赤狩り〟で分断された。

「ローマの休日」監督ウィリアム・ワイラー

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1902年 フランスアルザス地方に生まれる。(ユダヤ系)
1920年(18歳)でアメリカに移住。24才で映画監督に
1942年 「ミニバー婦人」でアカデミー賞 作品賞・監督賞
1946年 「我等の生涯の最良の年」でアカデミー賞 作品賞・監督賞
 この映画の中で「共産主義は敵だ」とさわぐ男をなぐりつけるシーンが。共産主義への差別を痛烈に批判したワイラー。この翌年、赤狩りがハリウッドを襲う。
1947年 ワイラーは抗議運動の先頭に立ちますが、厳しい現実の前に民主主義の理想は挫折。
1981年7月27日亡くなる

heart02  アメリカ憲法  修正1条(1791年)
連邦議会は、国教の樹立に関し、自由な宗教活動を禁止し、言論または出版の自由、平和的に集会し、苦情の救済を求めて政府に請願する人民の権利を縮減する法律を制定してはならない。

ウィリアム・ワイラー自身は共産主義とは距離を置いていImg_5662ましたが、〝赤狩り〟に反対しハリウッドテンを真っ先に応援した一人でした。ワイラーは有名監督、スターたちと抗議団体を設立。「思想・言論の自由を保障する憲法に反する」として抗議を呼びかけました。
「ローマの休日」の監督を引き受けたのがウィリアム・ワイラーだった。
アカデミー賞にノミネート2回、受賞3回と。ハリウッドに残る巨匠でいまだに破られていない。
映画のタイトルに不思議な言葉をクレジットしている。「撮影そして編集のすべてをローマで行った」
そして、オードリー・ヘップバーンを発掘

(ジャン・ハーマン=ワイラーの伝記作家)
ローマの休日」はワイラーが監督でなければローマで撮影されなかったでしょう。なによりも、アン王女はオードリーではなかったから。

(長女キャサリン・ワイラーの回想)
父は共産主義と言うだけで迫害されることは思想・信条の自由という憲法の理念に反すると怒りました。非米活動委員会こそ非アメリカで〝赤狩り〟を阻止しなければならないと考Img_5333 え抗議したのでした。父にとってアメリカが平和・平等を象徴する理想の国でした。
父は、抗議行動が効力を発揮できなかったことに失望しました。しかし、映画監督として赤狩りと闘う別の方法を探したのです。
  《別の方法とは「ローマの休日」の監督を引き受けることだった》
脚本はハンターが書いたと思っていました。脚本家がトランボだとは想像もしませんでした。明らかに父は知っていたのです。そこには、暗黙の了解があったと思います。公になれば深刻な問題になります。父にとってハリウッドから追放された人たちと仕事ができる唯一のチャンスだったのです。〝赤狩り〟に対する彼なりの闘いであり希望だったと思います。

  ● ワイラーは抗議行動にラジオも活用しました ●
その時の録音テープが70年代にハリウッドのラジオ局で発見され保存されています。ラジImg_5674Img_5339_2 オ番組名は「ハリウッドは反撃する」でした。
・ ジュディ・ガーランドは「ここ数週間、非米活動委員会が映画界を調査しています。私は絶対に許すことはできません」
・ ワイラーは「映画監督のウィリアム・ワイラ―です。非米活動委員会は表現を抑圧しハリウッドに恐怖を作り出している。恐怖は検閲をもたらす。検閲はスクリーンを麻痺させる」とラジオから呼びかけました。

 1947年11月、アメリカ下院はハリウッドテンの議会侮辱罪を可決。映画製作者協会は協力を表明。「ハリウッドテンが共産主義ではないと宣言しない限り、誰であろうと雇Img_5356 用しません」
こうしてダルトン・トランボはハリウッドを追放されました。ワイラーは憲法の思想・言論の自由がふみにじられ〝赤狩り〟に敗れました。

(中村うさぎ)
自分の身を置き換えてみると、思っていることとか、そいうことを全然書けない。書いたら仕事がこない。そんなことになると本当にどうするんだろうと彼の気持ちを考えながら見ていました。
(斉藤由貴)
左翼に攻撃が集中した。まずハリウッドから切り込みが入った。やっぱり、みんなの眼が集中するところで、たとえ彼らがコミュニストであれ、濡れ衣を着せられたにせよ「言うことを聞かなければこういう目に会うんだよ」という的な策略というか、あったんではないか。
(藤原帰一)
ハリウッドが踏み絵を踏まされた。
1947年にハリウッドのストライキがあり、共産主義者を追放しようという動きが強まります。
1947年10月 ハリウッドテン公聴会。
1947年11月 アメリカ下院で議会侮辱罪採決。映画製作者協会が共産主義者排斥表明。
Img_5304 ハリウッドで〝赤狩り〟が行われるということがアメリカ中で放置される大イベントになる。
ディズニーは〝赤狩り〟派で、赤狩りに賛成だった人たちは企業の経営者側に立っている人たち。労働問題があって、たくさんの人たちが働かないとアニメが作れない時代だった。そいう事もあって共産主義に一番強く反対した一人がウォーズ・ディズニーだった。
(上島春彦)
ハリウッドテンのほとんどの人は、第二次世界大戦中にアメリカの国策に積極的に関わって〝民主主義プロパガンダ的〟な戦争映画を作った脚本家とプロデュ―サーだった。そういった戦争映画においてダルトン・トランボが最もすぐれたメッセージを込めた脚本を書いてなおかつヒット。
(斉藤由貴)
トランボは戦時中から共産党員として存在していたにもかかわらず、作る作品としては、民主主義を推進しようとするプロパガンダ的な作品を職業として作っていたということ?
(上島春彦)
そういう事も言える
(中島うさぎ)
ファシズムとの闘いということだったから
(上島春彦)
対ファシズムとなる限りコミュニズムも資本主義も同じ立場になるんですね。トランボがアメリカの国策に積極的に関わるということは自分の思想・信条になんら反することはなかった。
(中村うさぎ)
トランボが戦後になってから共産主義的な映画を作って人々を洗脳していくことを恐れたのでは。
(上島晴彦)
恐れた。その通り。
(藤原帰一)
話はさらに悪くなっていく。
共産主義者でないということを身の証を立てなければ映画の世界では食べていけなくなる。食べていけないとはっきりしてくると、みな腰砕けになっていく。更に、公聴会に出た時に、ただ共産主義者じゃないというだけでなく、仲間の名前を言わなければならない。「共産主義者の友だちがいるだろう。それをここで明かしなさい」と求められるわけ。非常に厳しいグロテスクな密告の強要が行われる。
(斉藤由貴)
Img_5369政治的な背景などについて知識がないんですけど、共産主義のいわばダークサイド的な密告システムって、赤狩りをやっているアメリカの民主主義を自由を掲げる人たちが悪いことをやっていたように私には聞こえるんですけど。
(藤原帰一)
全くその通りだと思います。ワイラーのような共産主義者じゃないリベラルな人が赤狩りに反対したのはそこなんですね。結局、共産主義に反対する過程でソ連と全く同じことをしているではないか。それが共産主義の立場をとらないリベラルな赤狩りに対する反発だったんですね。
(斉藤由貴)
トランボは公聴会で、ああいう場に立って自分のカラーを出しながら敵対する自分に対して絶対よく思っていない人に対して相当勇気のあることと思う。なかなかできないですね。ああいう所でああいう事を。

(中村うさぎ)
アメリカって「正義」っていうものが存在すると思っているじゃないですか。第二次世界大戦の時はヒットラーやそういう「正義」に反する敵であり、赤狩りの時代になると共産党員が敵で、資本主義が「正義」だというようになってアメリカの一貫した「正義」主義みたいなのがちょいちょい出てきますよね。
(藤原帰一)
それがアメリカ社会をまとめている原則なんですよ。多数民族社会ですからね。自分たちの中にいる敵を追い出さないとアメリカが壊れてしまうという恐怖の限りに。

  「脚本家 ダルトン・トランボ」

1905年12月9日、コロラド州の靴屋の息子として生れ、南カルホニィア大学でジャーナリズImg_5265ム作家をめざす。1935年(30歳)アシスタントライターとして映画界に入る。
1939年(34歳)「ジョニーは銃を取った」を出版。1971年にトランボ唯一の監督作品「ジョニーは戦場へ行った」(原作・脚本・監督)を製作し反戦への強いメッセージを発した。
1950年6月アメリカ最高裁はハリウッドテンに実刑判決を下し、トランボは10ヶ月間投獄されました。 1953年に公開された「ローマの休日」を脚本。
1979年9月10日亡くなる。

《驚きました。「ジョニーは戦場へ行った」は全てがダルトン・トランボの製作だったことです。私も一度この映画を観ていて、すごい映画を作る監督がいるんだなと印象に残っていたのが鮮明に蘇りました》
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《主な脚本作品》
東京上空三十秒 Thirty Seconds Over Tokyo(1944年)
ローマの休日 Roman Holiday (1953年)イアン・マクレラン・ハンター名義
テキサスの死闘 Terror in a Texas Town(1958年)劇場未公開、米JBSでTV放映、ベン・L・ベリー名義
スパルタカス Spartacus(1960年)
栄光への脱出 Exodus(1960年)
ジョニーは戦場へ行った Johnny Got His Gun(1971年)
ダラスの熱い日 Executive Action(1973年)
《主な原作作品》
ジョニーは戦争へ行った Johnny Got His Gun(1939年)
新妻はお医者様 You Belong To Me (1941年)
ローマの休日 Roman Holiday (1953年)
黒い牡牛 The Brave One(1956年)ロバート・リッチ名義

ハリウッドを追われたトランボがどうやって「ローマの休日」を映画化できたのか

キャリアの絶頂期を襲ったのが赤狩りで映画界を追われたトランボ。家族でメキシコに移住。1949年、ソ連が核実験に成功しアメリカの軍事的優位が脅かされた。米ソ冷戦のもと赤狩りは激しさを増した。その中心にいたジョセフ・マッカーシー議員の名前からマッカーシズムと呼ばれるようになった。
ハリウッドで共産主義者のブラックリストが作られ、仲間を裏切り、密告、偽証する者さえ現れた。そして300人以上の映画人が追放されました。
 しかし、トランボは脚本家の仕事を捨てることはありませんでした。架空の名前で脚本を執筆し続けたのです。
 「拳銃魔」脚本家名 ミラード・カウフマン
 「テキサスの死闘」脚本家名 ベン・エル・ペリー
などB級映画を手掛けながらハリウッド復帰をめざしました。

(トランボの長女ニコラの回想)
父は自分の境遇を嘆くことはありませんでした。本当に怒っていたのは密告者が横行するImg_5435 ハリウッドに対してでした。自分が助かりたいばかりに罪のない人の名を告げてしまう。密告を恐れ古くからの友人同士がある日から口も利かなくなるのです。本当に痛ましい時代でした。

《〝赤狩り〟の嵐が吹き荒れる中、トランボが書きあげたのが「ローマの休日」でした。
この作品では親友の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名前を借ります》

(長女ニコラの回想)
ハンターが自分の名前を使わせることはとても危険な事でした。それが父の脚本だとわかImg_5711 れば、二人の関係が疑われハンターも職を失うことになるからです。秘密をもらさない固い信念が必要でした。

《親友の力を借りて映画化をめざした「ローマの休日」そこにトランボはどんな思いをこめたのでしょうか》

(トランボの伝記作家ハンソン)
トランボは富と名声を犠牲にして偽名で脚本を書くなかで、本当の役割や使命に気づくのです。それは、アン王女がブラッドリーとの幸福を犠牲にして国務に戻ることと、どこか似ています。

《アン王女の「私が義務をわきまえていなかったら、今晩帰ってこなかったでしょう」のセリフに自立した存在へと成長する姿が》

 1950年6月アメリカ最高裁はハリウッドテンに実刑判決を下し、トランボは10ヶ月間投獄されました。自らの意思を曲げなかったトランボ。「ローマの休日」は彼の静かな闘いを貫くための心の支えだったのかもしれません。

(斉藤由貴)
印象に残ったのは「拒む姿勢」「拒絶する姿勢」。トランボは、生きる上で拒絶するということが時に美徳だし、それが自分を作っていく場面でもあるのでは。
(中村うさぎ)
戻らない(ハリウッドに)という選択もあったのではないか。そうしなかったのは、トランボはハリウッドに戻りたかったのではないか。反戦思想を持ちながらも第二次世界大戦中にプロパガンダ思想の作品を作ってしまった。今度、ハリウッドに戻った時は毅然と自分の意思を貫ける人間としてハリウッドに戻りたいと考えたのでは。
(上島春彦)
「ジョニーは戦場に行った」でトランボはクリスマスが好きで、自分の人生を映画の中に投影する。バスタブで脚本を書く人、ユーモアある人、そういうことがトランボという人を創り上げた要因では。
(中村うさぎ)
Img_5293 本当にバスタブで書いていたのかしら。自己演出っぽい。
(遠藤帰一)
書いていたのかもしれませんよ。
(上島春彦)
トランボはこの時代に、他の人よりお金を稼いでいる。刑務所に行く前にお金を作らないと家族を養えないという現実。
(中村うさぎ)
なるほど。生活のためですね。すごく納得しました。
(斉藤由貴)
投獄されるかもしれないという状況があったにしても、彼の中で「よし、おもしろい作品を作ってみんなに楽しんでもらうぞ」という物づくりの人間としてのピユアさも必ずあったのではないかなあ~。
(中村うさぎ)
それはあるかもしれない。普通なコメディーを書いているような精神状態ではないと思うけど。あえてコメディーを書く。ロマンスを書く。それも一つの考えようによっては反骨ですよね。
(遠藤帰一)
結果的にお金目的で作ったのかもしれないのに、ここで出てきた女性の成熟、大人になることで諦めること。トランボは自分の運命を引き受ける。監獄に行くしか仕方ないのだから。トランボは赤狩りに直面し困難に出会う事で脚本家として明らかに力を伸ばしたのでは。
(中村うさぎ)
逆境でね。

  happy01 出演俳優について  happy01  
当初、ケーリー・グラントとエリザベス・テイラーが主役でしたがワイラーは、グレゴリー・ペImg_5586 Img_5526 ック(赤狩り反対の抗議団体にいち早く参加した俳優だった)をジョ-・ブラッドレー(新聞記者)に起用し、アン王女はオーディションでオードリー・ヘップバーンを発掘しました。


オードリー・ヘップバーン

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「終戦の1年ほど前、1944年の頃には、公演にも参加しました。私なりに何らかの形で貢献出来たらと公演で得たお金をレジスタンスに寄付しました」・・彼女はオランダのファシズム政権下で秘密裏にレジスタンスを支援した少女でした。
(1925年5月4日ベルギーで生れ、オランダで成長。1993年1月20日没)

 ワイラーは映画製作過程で会社側に譲歩し、予算の関係でモノクロになりました。それはあきらめたけれど、ローマ行きにはこだわりました。
1952年 夏 ローマで撮影開始
Img_5757 ワイラーは信頼できる人物だけをローマに連れて行きました。
ワイラーの右腕で赤狩りのブラックリストに載り業界を追放された共同プロデューサーのレスター・コーニックも。
 
(ワイラーの伝記作家ジャン・ハーマン)
ローマでなら、スタジオから注文がついても、「知らなかった」ふりができる。完璧に彼がリーダーでした。ワイラーの意のままに撮影できたのです。

《ワイラーが自らシナリオに加えたシーン“真実の口”(〝嘘つき〟が手を入れると噛まれて手を失うという言い伝えがある)はアドリブだったのです。 ワイラーは後に「こImg_5783 5264_3 れを映画のどこかに入れなければと思ったんだ。二人の人間がお互いに嘘をついている物語だから」と語りました。》

(遠藤帰一)
ワイラーは私の大好きな監督なんです。非常にしっかりした信頼できる人格者。フランスのアルザス出身でユダヤ系でアメリカとの間に、ある種の距離感がある。しかも〝赤狩り〟の中には実は秘められたテーマとしてユダヤ人に対する差別が有り、ユダヤ人はインテリで左翼、共産党じゃないかと疑いをかけられ安いところがある。ワイラーは共Img_5779産主義者ではありませんけれど、自分と同じユダヤ人でしかも共産主義と疑いをかけられた人たちを守らなければいけないと考えていた一人なんです。
(中村うさぎ)
そう考えてみると“真実の口”のシーンは確かにその当時の〝赤狩り〟の時代に偽証し て、罪のない人を被害者にした人とか、噓つきが右翼にいたわけですよね、ハリウッドの中に。トランボの脚本にはなかったけれど監督の胸にはそいう物があったのかな。
(上島春彦)
実はトランボ以外にもブラックリストの人物が紛れ込んでいる。
Img_5557 レスター・コーニック(1951年ハリウッド追放処分)でワイラーが第二次世界大戦中に知り合った人で信頼していて、プロデューサーして自分の共同製作者の一人として扱う。そういった選択をとるためにローマでの仕事を選んだのではないか。
(斉藤由貴)
女優の立場として言うと、スタジオで撮影するのと外で撮影するのとではものすごい大きな違いがある。空気が動いているってすごく大事なんですよ。特にヘップバーンは新人じゃないですか。ローマで暑かったり、寒かったりいろいろな事があったはず。その中で「みんなでやろう」という撮影をやったからこそ、その中で、一瞬の輝きとか、きらめきとか、うまく言えないけれど、ジャポンと跳ね上がったきれいなところを、シュツとワイラーがつかんだのではないだろうか。
(中村うさぎ)
ロケだからこそ自由のリアリティーさっていうか、王女がバッサリ髪を切って自由になるとか。
(藤原帰一)
Img_5723_3 みんなで、ローマで休日を楽しんで作っちゃつて。原題は「ローマ人の休日」で、「ローマの休日」これがいろいろな意味がありそうなんですけど。ハリウッドが行き詰まっていた時に、ローマが自由な映画活動ができる所、しかも、ハリウッドではパージされているような人との仕事もここならできる。
(上島春彦)
そして、もう一つ、この時代のヨーロッパ映画の撮影技術のすごさ。ロケーションなど。撮影監督のアンリ・アルカン(フランスの名カメラマンで1909年~2001年)は代表作「美女と野獣」「ベルリン・天使の詩」などを撮った人。
ハリウッドが姑息な形で衰えかけている時に、世界中からどんな人でもよい、映画が好きな人だったら来てくださいって形で人材を呼び寄せるすばらしい都でもあったんです。
(藤原帰一)
ローマだから赤狩りで追われた人間も仕事ができるし、オールロケーションで、新人俳優で、自由に映画を撮れる。ローマとアメリカ、悠久の都と新世界の都が逆になってしまっている。変な気がするんですけど。
(中村うさぎ)
古代ローマはすごく古い都ではあるけれど、言ってみれば、民主主義発祥の地のようなものではないですか。
(遠藤帰一)
共和国も伝統がありますけれどね。
(中村うさぎ)
この当時のローマは落ちぶれた古い国になってしまったんだろうけれども、逆にそこが自由を保障してくれる大地となったのがおもしろいですね。

 1954年(「ローマの休日」公開の翌年)マッカーシーは失脚し、〝赤狩り〟の嵐も収まって行った。しかし、ブラックリスト入りした映画人たちの多くはハリウッドに復帰できませんでした。

(ハワード・スーパー)(カリフォルニア大学名誉教授-映画史)
ハリウッドは常に新しい才能が求められる競争社会です。たえず、古いものは淘汰され新しいクリエーターが活躍します。政治的な思想・信条ではなく、あくまで才能の勝利であり、追放された過去の人たちが簡単に戻れる環境ではなかったのです。

 ダルトン・トランボは厳しい現実の中で諦めませんでした。
Img_5796 1950年(55歳)、「栄光の脱出」(実名で発表)。非国民のレッテルを貼られてから13年後のことで、米ソ雪解けの時代でも。1960年、米ソ文化交流のモスクワで「ローマの休日」が公開され、試写会には3万人が押しかけました。

《映画公開40周年を記念して1993年、アカデミー選考委員会はトランボにオリジナル・ストーリー賞を授与。既にトランボは他界していて、トランボ婦人がオスカーを手にしました。
 2003年、映画公開50周年を記念して、ついにImg_5831、「ローImg_5800マの休日」字幕にトランボの名前がクレジットされました》
 

(トランボの長女ニコラの回想)
Img_5815 「ローマの休日」を見て涙したのはラストシーンでした。
いくつもの、思いがこみ上げてきました。無邪気さ、そして純真、アン王女の「人々の友情を信じる」「信念は裏切られない」というセリフは父が語りかけているかのようです。父は、この映画から新しいアメリカが生れることを願っていたのです。

《ローマを去る最後の日の記者会見。アン王女はここで初めてジョー・ブラッドレー(新聞記者)がスクープ記事をねらっていた事を知ります。しかし、二人は信頼を確かめ合う言葉を密かに交わすのです》

「永遠を信じます」           (アン王女)
Img_5452 Img_5808 「人と人の間の友情を信じるように」   (アン王女
「王女のご信念が裏切られぬ事を信じます」(ジョー)
「それで安心しました」         (アン王女)

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「あの時代に悪漢も英雄も聖人も悪魔もいなかった」「みな長い悪夢の時代の犠牲者だったのだ」

   トランボは後年、赤狩りの時代を振り返り、こう語りました。
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(斉藤由貴)
トランボの家族はつらい思いをたくさんしたはずですよね。しかも投獄の理由は自分が悪いとか、何もないのですからね。それでも、何の抵抗もできない大きな力に取り巻かれて、そういうことになっちゃう。すごく空虚ですよね。
(藤原帰一)
トランボが「私は正しかった」という言い方をしないのが救いですよね。
彼は節を通した人でしょ。ずうっと自分の考えを曲げなかった。中には、裏切った人がたくさんいるわけです。裏切った人も犠牲者だと見る視点をトランボは表現していると思います。これって勇気のいることです。
(上島春彦)
一番の犠牲者はだれだったんだろうと考える時に、トランボは犠牲者ではなかったかもしれませんね。1956年の「黒い牡牛」脚本家名はロバート・リッチで実名を隠して書くのですけど、結果的にはこの脚本もアカデミー賞をとってしまうんですね。だから、そうしてみると、トランボという人は実はブラックリストに載っている時代に一番すぐれた仕事を行った人だったのかもしれません。
(中村うさぎ)
そうかもしれませんね。
(藤原帰一)
Img_5633_2 アメリカ映画では50年代の中頃から60年代の中頃までは政治的には非常に抑えた。政府批判のようなものがわずかしかない映画の時代。みんなが受け入れる、安心できるエンタテーメントをめざした。赤狩りの傷が50年代の後半までずうっと残っている。ハリウッドの表現を痩せさせてしまったということを否定できない。
(中村うさぎ)
ヨーロッパにも昔、魔女狩りという暗黒時代があり、自由と民主主義を標榜したアメリカが同じような事を、形を変えてやってしまう。人間って本当に繰り返すな。この先も絶対にあるぞと。
(斉藤由貴)
どんなに自分の力ではどうしようもないような、不条理なというか、境遇に置かれても、時代の流れに巻き込まれても、でも、人間というのは、そういうのに負けずに何か良きものに向かっていこうとする力があるんだなあと感じた。そういう事を知って「ローマの休日」を観ると二重、三重に深い理解ができると感じました。

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2011年3月 6日 (日)

「二人の旅路」 日中激動を生きた京劇夫婦  3月6日

梁嘉禾・柴田真理夫婦の京劇にかけた人生

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clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 3月1日、NHKBShiで午後8時~9時半まで放映されました。
二人の生きざまに心うたれるものがたくさんあり、感動しながら見ました。


誠実に生きている人は平穏な人生が送れる
                 梁嘉禾


梁嘉禾(りょう・かほ)(70歳)さんと妻の柴田真理(65歳)さんは福岡に住んでいますが、二人とも中国生まれで、二人とも京劇の道を進んでいて瀋陽の劇場で知り合いました。梁さん22歳、真理さん17歳でした。

寧夏京劇団から
「覇王別姫」(はおうべっか)出演の依頼


 2010年秋、二人が20年前にいっしょに活動した寧夏京劇団からの依頼を受け「覇王別姫」(はおうべっき)を演ずるために訪中することになりました。
 真理さんにはもう一つ、亡くなった母親の遺骨と義父の遺骨を親族と海に流すという特別の事情もありました。

兄弟の、すばらしい思いやり

 瀋陽の地域では、夫婦が亡くなると骨壷を赤い紐で結えて海に流す風習があり、兄弟もそれに従い両親を弔いました。
Img_9557  私も見ていて涙が流れてしまったのですが、兄妹は父親が違う真理さんのことを配慮し、古くからの風習にとらわれずに、紐を結えないで海に一緒になって流したのでした。
兄弟のすばらしい配慮で、真理さんもすごく嬉しく兄妹に感謝しました。
 母は昔、真理さんに「私が亡くなったら散骨して」といっていたそうですが、真理さんが思ったのは、海は日本にもつながっている。母の心には海の向こうのもう一人の夫がいたのでは・・・・

寧夏で熱烈歓迎のもと「覇王別姫」を演じる

「私のために演じてくれるんでしょう」   真理
「そう。最後の舞台だ。『うん悪くない。やっぱり一流だ』と真理に言わせたい」   梁


Img_9298 Img_9303  (取材記者) 真理さんは梁さんから京劇を奪ってしまったと悩みましたか
(真理さん) 悩みました。時々思うのですが彼は中国にいれば良い暮らしができて、こんなに苦労しなくて済んだはずです。「自分さえいなければ」「死んだ方がましだ」と考えました。
(梁嘉禾さん) 考えすぎだよ。そんな考えを持ってはいけない。その考えは何の役にも立たないよ。人生は苦労するのが当たり前なんだよ。

寧夏では劇団の昔の同僚が43年前の梁さんの衣装を大切に保管していてくれました。
Img_9624 寧夏では梁さんがいなくなってから、「覇王別姫」は上演されていませんでした。今回、梁さんの「覇王別姫」が上演された後に劇場を建て替えることになっているのだそうです。
梁さんの相手役の「虞姫」を真理さんにという要請もあったそうですが真理さんは断っていたのです。
 みなが心こもった対応をしてくれました。

私の一生の中で、日本での暮らしが一番幸せ
よいイメージを彼女の心の中に残したい

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梁さんは開演前の化粧中にこう述べて舞台に臨みました。

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舞台が終わって

(真理さん)
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とても感動しました
私と日本に行ったことで梁さんは京劇を捨てることになりました。でも梁さんは奇跡を起こしました。

Img_9336 20年間、舞台に上がっていないのに、私は梁さんを誇りに思います。
まるで心の氷が溶けるようです。
私につらく当たった人たちの顔がよく現れました。とても深い傷を負っていたのです

Img_9350皆が全力で支えてくれました。
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昔のことはどうでもいいと感じられるようになりました
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真理さんの顔が舞台前とは全く違う、生き生きとした気力ある表情に変っていましImg_9367た。 驚 ような変化でした。(私が映像を見ていて感じたこと)この変化にすごく感動しました。

梁さんにむかって「ありがとう。あなたのおかげです」
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梁さん 満足できる舞台になりました

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翌日、舞台に真理さんが立っていました。そして二人だけの「覇王別姫」を踊ったのでした。


私がこの「二人の旅路」から学んだこと

私は京劇についての知識がありません。
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Img_9289 「覇王別姫」という演目についても全く知りませんでした。このブログ記事を書く準備を始めて、疑問を持ちネットで調べました。
この劇は中国の紀元前、秦の始皇帝の時代が終わり、それに代わる覇権をめざしてのたたかいで、項羽と劉邦の戦いで項羽が敗れ劉邦が漢を創った前漢時代のことでした。
「覇王」は項羽のことで別姫は項羽の愛人虞姫のことで劇などでは虞姫を妻としているそうです。
項羽が最後に追い詰められ、逃げ延びるのに足手まといになってはいけないと、虞姫が自害するところが劇にされているようです。(私の理解が正確かどうかわかりませんが・・・)

 そういう悲劇であるので、真理さんの精神状態では虞姫役を引き受けられなかったのだと思います。
Img_9399  そういう精神状態を梁さんの舞台が変えて、生きる力を真理さんに取り戻させることができたのではないでしょうか。
 梁さんの、どんなことにも動じないで誠実に生きようとする姿にすごく感動しました。
 そして、お国柄は違っても、芸術を通じてお互いを理解することは時間がかかってもできるのだ。中国もすばらしい人たちがいっぱいいるのだと思いました。

真理さんの異父兄弟の心配りは、本来は人間だれもが持っているすばらしさだと思いました。


梁嘉禾さんと柴田真理さんの足跡

 真理さんは父親が日本人で母親が中国人でした。両親は武漢で1945年8月7日に結婚しましたが8日後に終戦で、父親は収容所に入れられました。
Img_9291  1946年1月2日に真理さんは湖北省武漢で生まれました。
真理さんはのちに母親から「戦争について、自分たちの運命について、もしああなったら、こうなったらと寝ずに二人で話し合った」ということを聞きました。
 父親は真理さんが生後5ヶ月の時に日本に強制的に退去ささられました。
Img_9524 お母さんは夫といっしょに日本に行くことを望みましたが許可されませんでした。
母親は日本人と結婚した罪で2年間も投獄されました。お母さんと真理さんは連絡が途絶えた夫を10年間待ち続けましたがなにも起こりませんでした。

母親は真理さんを育てていくために再婚を決意。相手は武漢から1000キロも離れた瀋陽でした。日本名では迫害されるので、真理さんの名を「柴正莉(サイ・シンリ)と変えました。
新しい夫との間には一女四男の5人の兄弟が生まれ8人の家族となりましたが苦しい生活でした。お母さんは85歳で亡くなりました。

 真理さんは家計を助けるため14歳で京劇に入団し励みましたが、日本人の子であることは「秘密」でした。
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梁嘉禾(りょう・かほ)さんは8歳の時に人民解放軍の劇団に入団し各地を歩きました。
Img_9466 1989年、京劇俳優の最高峰である国家一級俳優になり、押しも押されもせぬ京劇俳優になったのです。
1963年、梁さんが巡業で瀋陽にやってきて、劇場で二人は出会いました。
梁さんの活動拠点は寧夏(ねいか)の銀川(ぎんせん)でした。
真理さんが梁さんに手紙を出したことから瀋陽と寧夏の文通が始まりました。
真理さんは梁さんに父親が日本人であることも告白しました。

1966年文化大革命が始まり、二人は北京の集会に合わせて参加し初デートでした。
Img_9585瀋陽に帰った真理さんは文革の先頭に立つ紅衛兵に推薦されましたが、紅衛兵になるの には厳しい身元調査がありました。
「彼女は日本人の子だ」と壁新聞で攻撃され、「日本人は紅衛兵になってはならない」「侵略者の子」と名前を逆さまに書き×印がされました。×印は「弾圧」するという意味で真理さんは追い詰められました。

1967年梁さんと真理さんは結婚し寧夏で生活

梁さん27歳、真理さん22歳でしたがいっしょに生活することはできませんでした。
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Img_9687  京劇の練習は禁止され、下方政策で農村に送られ重労働を強いられ、二人がいっしょに暮らせるようになったのは結婚から3年後で、真理さんの嫁入り道具は布団カバー1枚だけでした。
 真理さんは寧夏の劇団で誰よりも練習に打ち込みました。
願いは新しい街で「秘密」が守られることでした。
 それから21年間、日本に移住するまで寧夏で暮らしました。

父親の柴田正和さんから手紙が届く

1972年日中の国交が回復し、中国残留孤児の肉親捜しが始まりました。
Img_9681真理さんも北京の日本大使館に父親の消息を尋ねる手紙を書きましたが、1979年に日本大使館から父親の柴田正和さんが南米ウルグアイで貿易商を経営しているとの連絡が ありました。
 それから1年後に、正和さんから真理さん宛ての手紙が届きました。手紙は英語で書かれていて、中国語に訳してもらって読みました。

「秘密」が発覚し追い詰められる真理さん

 しかし、手紙のやりとりから、ついに真理さんの「秘密」が発覚してしまいました。
そうしたこともあって、中国では最高の役柄である共産党幹部役を真理さんが演じることになっていましたが、「日本人の子である」ということで実現しませんでした。

990年3月-寧夏京劇団の日本公演

 真理さんも一員に選ばれ初めて日本を訪問しました。
しかし、その公演先に父親の正和さんがウルグアイで亡くなったという悲しい連絡が入ったのでした。
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 父の死後から2年後(1992年)に梁さんと真理さんは日本に移住しました。
梁さんは真理さんを守るために国家一級俳優をやめて京劇から去ったのでした。

どこも雇ってくれなかった

 日本に来て思いもしなった事ですが、どこも雇ってくれませんでした。
二人はペンキ塗りのアルバイト、夜中の2時、3時まで餃子を包んだり、缶詰工場でパートで働いたりもしました。
Img_9736  二人で努力し中華料理店を始めましたが真理さんが過労で倒れ1年間で閉店せざるをえませんでした。
 2009年から二人は、残留孤児支援給付費で暮らしています。

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2010年12月20日 (月)

大人たのしいCafe Live  12月19日

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  今年は横井久美子さんのライブを一度も聴く機会がなかったので、このまま歳を越せないと国立市まで出かけました。
 きっと参加者は女性たちが圧倒的だろうと覚悟して参加したのですが、やっぱり、男性は2人のみでした。
 でも時間をかけて出かけてよかったというのが私の実感です。

  「ガソリンまみれのオートバイ」-沖縄のたたかいに思い

横井久美子さんが香川県高松市から買ったという着物姿でライブ&トークをしました。「漫才S_dsc_0056_2になるのでは」と本人は気にしたりしていましたが、これもいいのではと感じました。不思議だったのは横井さんがはいていた草履の足踏みの音がすばらしく心地よい音をたてていたことでした。
 「ガソリンまみれのオートバイ」「赤い椿と青いげんぼし」が私にはよかったです。

 休憩30分の間のバザー&ショップ

私は押し花を買い求め、ワイン1杯とコーヒー1杯で協力し、ベトナム旅行でいっしょした人たちに声をかけ元気を確かめ合いました。
 二部  ワハハ車座セッション   
              にんげんだれでも表現者


 二部は何をするのかイメージがはっきりしていんかったのですが、始まってみて「これはすばらしい発想と企画」と感心しました。
 8人が出演というよりか、自らの思いを様々な表現で表していて、どの人もすばらしく、輝いていて感動しました。
 1組に与えられた時間は7分だそうですが、短い時間で伝えたい事を、音楽、言葉、映像、おどりなどで見事に伝えていました。

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2010年11月 4日 (木)

第18回平和ミニコンサート    10月24日

春日部市非核平和都市宣言実践の一環として
佐藤輝夫と仲間たちによる
平和ミニコンサートが今年も


10月24日(日) 春日部高校 センテニアホール

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます

 これまでに、佐藤輝夫さんを中心に18回も平和ミニコンサートが続けられていることはすばらしいことだと思います。
Img_56081  私は2回目の参加ですが、会場も近く気軽に参加できて幸せです。
会場はほぼ満席で盛会でした。
今年は、写真撮影が禁止されていて演奏中の写真を撮ることはできませんでしたが、開会前と参加者みんなで「故郷」を歌った時の2枚だけ写真を撮りました。

● 今回の演奏者

 佐藤輝夫  (チェロ)
 永 井  豊  (チェロ)
 横山二葉  (チェロ)
 小宮山裕子 (バイオリン)
 今泉文行  (コントラバス)
 呉 信  樹  (ピアノ)


● 演奏曲

 ヘンデル   ホーンパイプ
 ヘンデル   2本のチェロとピアノの為のソナタⅠ.Ⅳ楽章

 とうりゃんせ
 赤とんぼ

 星に願いを(ピノキオから)
 おくりびと

 ロッシーニ  チェロとコントラバスの為の二重奏よりⅠ、Ⅲ楽章
 バッハ    無伴奏チェロ組曲 第三番 ハ長調BWB1009より 前奏曲

 カタロニア民謡   カザルス編 鳥の歌

 シューマン  ピアノ三重奏第一番ニ短調63より4楽章

 会場のみんなと合唱・演奏  故郷

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 私は、カザルスの「鳥の歌」を、日常生活の中でも時々聞いている大好きな曲の一つです。今回もしみじみと演奏を聴きました。何回聴いても生演奏はやはりすばらしいと思いました。
 佐藤輝夫さんの思いも込められた曲ではないのでしょうか。

演奏者のみなさんありがとうございました。

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2010年5月27日 (木)

行田市八幡山古墳石室を訪ねました   5月25日

 街中で古墳の石室跡を見れることに驚き

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 26日に書きましたが、さきたま古墳群についてネット検索していて、この八幡山古墳石室の写真を見て数年ぶりにさきたま風土記の丘を訪ねようと思ったのです。
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 (八幡山古墳横穴式石室)

■ 行田市藤原町1-27-2
   円墳   直径 約74㍍  高さ 11㍍
   7世紀後半に築造


 行田市内の街中にあり、1977年から2年かけて復元整備され、埼玉県の史跡として八幡公園の中にありました。
Img_2277  この古墳を見て想像したのは奈良県飛鳥の石舞台古墳で、よく似ているではありませんか。”関東の石舞台古墳”とも呼ばれているそうですが、なるほどと思いました。
Img_2209  私の故郷の山に石室があり、その中でよく遊び、古墳の跡だよと教えられた記憶もよみがえりました。

 説明によると、記録で江戸時代から古墳の石室は開口していて、石室の中に八幡社を祀ってきたようです。
Img_2232  この古墳は本来は封土で覆われ、周濠で囲まれた円墳だったそうです。現況になったのは1935年に近くの沼を埋め立てるために封土が削られたことによるそうで、それまでは石室の上10㍍近くの高くまでお椀を伏せたように土が盛られていたそうです。
Img_2224  1977年から2年がかりで修復工事で復元されました。
石室には入れないようになっていましたが、鉄格子の間から石室の中を写しました。
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 石室の石は、飛鳥の石舞台古墳の比ではありませんが、それでも近くで見るとなかなかな物で、こんな遺跡が残っていることに感動し、多くの人に観てほしいなと思いました。

 

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2010年5月26日 (水)

さきたま古墳群を歩く    5月25日

数年ぶりにさきたま風土記の丘を訪ねました

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 ふとしたきっかけで、ネット検索をしていて埼玉(さきたま)古墳群を訪ねてみたくなって、数年ぶりに行ってきました。

 行田市崎玉(さきたま)に古墳群を中心にして30㌶のに県立公園「さきたま風土記の丘」が整備されています。
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            (さきたま風土記の丘略図)
ここには8基の前方後円墳と1基の円墳が明確な姿で残っています。(修復・復元も含め)
また、県立さきたま資料館も整備されていて発掘品などを見学することができます。

    数年前、稲荷山古墳は復元工事中でした
 私の記憶では、稲荷山古墳が円墳の形をしていましたが、実は前方後円墳だった物が開墾などで崩されてしまって、円墳のようになってしまっていたのです。稲荷山古墳からは国宝になった「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が発見され、資料館に展示されています。
 そういう経過もあって前方部の復元工事がされていて、それを見たのが私の最後でした。
今回、稲荷山古墳は草木も伸びて緑に彩られていました。

   まず、丸墓古墳から展望

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      (丸墓古墳から稲荷山、将軍山古墳を展望)
稲荷山古墳がきれいに整備された以外は変わった様子は感じませんでした。この季節緑が映えて気持ちよい眺めでした。
 丸墓古墳で2才の女の子を連れた行田市の方や秩父から来たという方と出会いました。女の子とは稲荷山古墳でもいっしょになり、古墳の階段を 元気に登っていました。

● 丸墓古墳
 ○ 円墳 ○ 直径 105㍍ 高さ 18.9㍍ ○ 築造 6世紀前半
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● 稲荷山古墳
 ○ 前方後円墳  ○ 全長 120㍍ 後円部の直径 62㍍ 高さ 11.7㍍ 削られた前方部の幅 74㍍  高さ 10.7㍍  ○ 築造 5世紀末 ○ 金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)発掘
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  (稲荷山古墳後方部の埋葬施設を復元)

● 将軍山古墳
 ○ 前方後円墳 ○ 全長 90㍍ 後円部直径 39㍍ 高さ(復元) 8.45㍍  前方部 68㍍  高さ 9.4㍍(推定)       ○ 築 造 6世紀後半
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● 二子山古墳
 ○ 前方後円墳 ○ 全長 138㍍  後円部直径 70㍍  高さ 13㍍  前方部の幅 90㍍高さ 14.9㍍  ○ 築 造  6世紀初頭前後 (墳丘の発掘調査はしていない)
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● 愛宕山古墳
 ○ 前方後円墳 ○ 全長 53㍍  後円部直径 30㍍  高さ 3.4㍍  前方部幅 30㍍  高さ 3.3㍍  ○ 築  造 6世紀前半
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■ 将軍山古墳を見て二子山古墳に向かう途中から、公園の大きな木々の間から風に乗って綿ほこりが公園と古墳を包み込むように舞ってきて驚きました。写真に撮りましたが、なかなかあの感じは表現できずにちょっと残念です。(白い点々が綿ほこり)
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  (白い点々が綿ほこり)

この後、行田市藤原町の八幡山古墳石室に行きましたので、追って投稿します。

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