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2019年11月 3日 (日)

長野県青木村 義民の伝統を身近に感じる 2019年10月6日(日)

   青木村歴史文化資料館を訪ねる

 青木村は南に夫神岳、北に子檀嶺岳、西に十観山の山に囲まれた、世帯数1,737人口4,347人が住む農山村で、JR上田駅からバスで約30分の場所です。

その青木村の田沢温泉で浦里小・中学校の同年会があり参加しました。そのおりに青木村歴史文化資料館を訪ね、江戸時代に青木村から起こった百姓一揆の歴史について学ぶことができました。

 2011年に一度訪れましたが時間的余裕がなく、さあっと見ただけでした。
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今回はあわてずにじっくり見ることができ、入り口で「青木村に見る義民の伝統」という小冊子も得ることができて、青木村から起きた百姓一揆の全体を知り、先人の生きざまの一端を知ることができ、充実した気持ちになりました。

 私の長兄から青木村から5回百姓一揆が起こったこと、兄がおばあさんから聞いたこととして、明治2年の一揆の時には浦野で商店を営んでいたひいおじいさんが一揆を知って、酒屋から酒樽を用意し、おにぎりを作って家の前に用意して一揆の人たちを迎えたという話を聞いていました。
 そういうこともあって、機会があったらもういちど歴史文化資料館を訪ねたいと思っていました。


  青木村から起こった百姓一揆

1、天和の義民増田与兵衛
 
  天和 2(1682)年

2、享保の義民平林新七
 
  享保 6(1721)年

3、宝暦騒動      

  宝暦11(1761)年

4、文化の義民堀内勇吉 

  文化 6 (1809)年

5、明治2年騒動    

   明治 2 (1869)年



 5つの百姓一揆の中で一番印象的だったのが宝暦騒動でした。

2,006年11月に青木村で第10回全国義民サミットが開催され「青木村に見る義民の伝統」の小冊子が作られ、当時の宮原毅村長のあいさつと、横山十四男氏が百姓一揆についてわかりやすく紹介されていました。
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横山十四男 全文ダウンロード - giminnodento2020yokoyama.docx

横山十四男氏の宝暦騒動についての一項を紹介させていただきます。

《宝暦騒動》

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 宝暦11(1761)年に起こったいわゆる宝暦騒動は、上田藩の民政を根底から揺がした最初の全藩惣百姓一揆(ぜんぱんそうびゃくしょういっき)であったが、農民側の成功という形で決着がついた。勃発地は夫神村で、発頭人として死罪になった犠牲者は、夫神村組頭の浅之丞と百姓半平の二人であるが、計画を練ったのは浦野組の割番や庄屋達であった。

 「上田縞崩格子」(うえだじまくずれごうし)では、田沢村庄屋・金次郎、夫神村庄屋太郎兵衛、組頭浅之丞、百姓不平、当郷庄屋勘兵衛、組頭喜左衛門、百姓武右衛門が密々に相談して徒党を企てた、と記されていて、夫神村とならんで当郷の積極的役割が窺える記述となっているが、桂覚右衛門(かつらかくえもん)の手記である『私事政事録』には、首謀者は馬越村の林藤四郎、田沢村割番孫次郎、越戸村庄屋伝左衛門の3人に相違ない、と記されていて、浦野組内の割番級の村役人の名があがっている。

 いずれにしても、そうした根深い背景と準備があったればこそ、五万三千石の全領の農村から、一万数千の農民が一斉に上田城下に押し出す、という形態をとることができたのである。

 この騒動の犠牲者二人は処刑されるに当たって辞世の句を残している。

半平が「いさぎよく散るや此世の花ふぶき」と詠み、浅之丞が「散る花はむかし誠の習いかな」と詠み残したと騒動記録には記されている。

 この立派すぎると思われる辞世の句が果たして本人が実際に詠んだものか、それとも騒動記録作者の創作によるものか、確かめるすべは無いけれども、いずれの場合にせよ、百姓一揆の主謀者として処刑される二人の行為は、農民の花であるとし、その死は農民救済のための価値高い犠牲である、という意識が当時の人びとの間に存在したことを物語っている。しかも浅之丞の辞世の句に「むかし誠の習いかな」とあるのを見ると、彼らのこのような行為は、昔から先祖によって代々受けつがれてきた誠の道であり、その地に伝わる伝統的精神の継承である、との意識の存在をまず指摘することができるのではなかろうか。

 さらに天和の増田与兵衛が人奈良本の氏神に祀られたのは、事件があった年から数えて77年を経た宝暦9年であったし、亨保の平林新七が稲荷に祀られたのは46年を経た明和4年であったのである。宝暦9年といえば、宝暦騒動の起こる2年前であるし、明和4年といえば、この大騒動か終末を見た宝暦13年から数えて4年後のことである。従って二人の義民の奉祀と宝暦騒動との関連が当然推測されるのである。

 宝暦騒動は、上田藩最初の全藩惣百姓一揆であって、全領農民の固い団結によって成功を収めることができたのであるが、それだけに長期間の周到な準備が行われた。浦野組山間部農村の村々の庄屋・組頭がひそかな連携を保ちながら計画し、決行の当日には全領農民が一斉に蜂起するという見事な指導、統制ぶりで、藩当局は周章狼狽、完全に農民側に圧倒されたのであった。

 この騒動の指導に当たった村役人たちの意識の中には数年前の越訴義民である増田与兵衛や平林新七と同質の反骨精神があったものと思われるが、反面ではこの宝暦騒動における農民の精神的高揚が、義民奉祭を実現させた条件であったと言えるのではなかろうか。いずれもそこに義民の伝統を色濃くみることができるのである。

 この宝暦騒動については、いく種類もの騒動記が地元に残っていることでも注目される。最も数多く残っている写本は「上田縞崩格子」であるが、そのほか『上田騒動実記(村松区に残存)、『上田騒動甚秘録』(うえだそうどうじんぴろく)(夫神区に残存)がる。これらに基づいて書かれた『青木村誌』・『上田藩農民騒動史』(横山十四男著)などがあり、さらに新史料も入れた『青木村義民史-反骨の群像-』(清水利益著)も出されて、一揆の要求内容や経過について詳しく記されているので、参照して戴ければ幸いである。

 なお夫神区では早くから宝暦義民顕彰会ができており大正13年には、「宝暦義民之碑」が、区内の庚申堂前に建てられ昭和18年には義民180年祭が行われている。

 最近では、地元出身の俳人栗林一石路の義民追悼句碑を区内の庚申堂前に(昭和57年)、小林武夫の追悼句碑を文明五輪塔の前に建てた(平成2年)。この地域に江戸時代から盛んであった句詠の高いレベルと、義民の伝統意識との結びつきを示す好例と言えよう。

 この宝暦騒動で処刑された組頭浅之丞、百姓半平、謀議に加わった庄屋太郎兵衛の墓は夫神の中戸地籍に、また田沢村庄屋金次郎の墓は中挾の月夜平丘上にある。
                   <宝暦騒動の項終わり>

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