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2016年12月13日 (火)

祖父、父から今に受け継ぐ朝鮮人殺害の歴史を聞く

 NHK ETV特集「関東大震災と朝鮮人―悲劇はなぜ起きたか」が2016年9月3日に放送されました。
 この番組のプロローグに、私が昔お世話になった高橋隆亮(たかはしたかすけ)さんが登場したので「あれ隆亮さんじゃないか」と驚きました。すぐに高橋さんとわかりました。番組は日韓関係で様々な問題がある中で、一部制約されていて不十分さを感じる点もありましたが、前向きに関東大震災での朝鮮人迫害に迫り、震災が多発する日本で二度とこうしたことを繰り返してはいけないというメッセージを発信したすばらしい内容だったと思います。
 放送を視聴してから、高橋さんを訪ねてお話も聞き、姜大興(カンデフン)さんのお墓まいりもしたいと考えました。すぐには実行できませんでしたが、10月15日、高橋隆亮さんを訪ね、懐かしくお会いもでき話も聞いて、お墓参りもすることができ充実した日となりました。
 お聞きして、私が知らないでいた、いくつもの事を知ることができました。高橋さんからお聞きしたことを記録に残すことにしました。

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 問答形式でお聞きした内容をまとめました。

Q、なぜ高橋さんのところにNHKの取材がくるようになったのですか。

A、1923年9月1日に関東大震災が発生しました。
当時、おじいさん(高橋吉三郎)は片柳村第三区染谷の区長で親父(高橋武男)は学生だった。
小学生の頃から、常泉寺(曹洞宗 瑞谷山)の家の墓のすぐそばに姜大興(カンデフン)さんの墓があり、「朝鮮人の墓だから、線香上げろ」と言われてたんだよ。(姜大興さんの命日は9月4日)
 そういうこともあって毎年9月4日に線香をあげ、追悼式をやるようになって今年で10回になる。
 NHKから日朝協会埼玉県連の関原正裕さんに取材の話が入って、「代々朝鮮人の墓に線香あげている人がいるよ。」との紹介で15年12月頃に話が回ってきた。
だんだん親父の話が出たり、おじいさんの話が出たり、そうこうしているうちに、撮影が始まったのは今年の6月頃。お盆過ぎまで放送することも全然わからなかった。日朝協会の方に放送の骨子が来てやることがわかった。
去年の夏に古い机(簿記台)の引き出しに、おじいさんが持っていた染谷の事件に関わる書面が出てきた。いまは関原正裕先生の所にいってしまっているけど。次々に出てきたんだ。
要するに、国、県、村、軍隊が全部通達出してきているわけだよね。埼玉県にもそういう文書が古文書館にあるんだよ。通達が出してあったということがわかる。だけど、受け取った側の書類なんてどこにもないんだ、93年も経ってんだから。それが出てきてしまったんだ。
吉三郎殿で来てるわけ。第三区長だから。片柳村に13の区があって染谷はその三番目。それでこういう文書が出てきて確かに来ていたということで証拠になった。それで、NHKが来るようになったわけだよ。

Q NHKはいつごろから企画していたんですか
A わかんない。なかなかできなかったみたい。

Q 1923年9月3日の夜から4日の未明、2時か3時ごろに集団的な殺害事件が起きたわけですよね

A 震災の中で姜大興(カンデフン24歳)さんは偶然に迷い込んできてこの事件になったのでは。まわりの雰囲気と社会状況の中で。
自警団作っていたから。浦和方面からきたんじゃないかという。浦和岩槻県道で東新井に来ないうちに山という所があって崖になっていて、飛び降りたときにショウガ畑とサツマ畑のつるに足とられて、捕えられてめった切りされ瀕死の状態で、生きていたんで、戸板に乗せられて医者に連れていく途中で亡くなった。即死ではなかった。

Q 裁判に訴えられましたよね。最初は不問にしようとしたんでしょう。

A 最初は逆なんだよ。不逞朝鮮人をやったんだから手柄だよ。
ほうびもらえると「おれがやりました」「おれがやりました」と、みな手柄話で警察に行ったという。ところが3日ぐらい経って殺人事件で捜査が始まったら、「おら知らねえ」「おらしらねえ」と変わった。

Q 国会でも取り上げられ問題になって国の対応が変わった

A おじいさんが区長で、みんなでやっちゃたんだから代表で若い人と経験者と5人代表作って、この人たちが中心にやったんだというのを出して、逮捕された。その後、村のためにやってもらったんだから嘆願しようじゃないかと。井戸に毒を入れたとか、流言飛語にまどわされて、やっちゃったんだから罪はないんだという意識で嘆願運動をやったんだ、おじいさんたちが。軍隊帰りの軍人が2人いて、その人たちがやったんじゃないかという話も。〇〇〇とか、△△△とか名前出てるから。「かくされていた歴史」という本があるんだ。(本を持ってくる)この中で染谷の事も取り上げられていて、作次郎さん(67歳)の証言と親父(武男)の証言が書いてある。作次郎さんはおやじより年上だからその場に加わっていたんだね。

Q 姜大興さんを墓に埋葬したのはいつなの
A わからない。推測するしかない。その年のうちに埋葬したのはたしか。

Q でもその当時としては本当によくやりましたよね

A 墓建てるのにお金もかかるしね。墓石といっしょに御影石で碑文が書いてあるのは、2004年ワールドカップが日韓合同開催された際にお寺の坊さんが自費で作った。韓国の人にすると骨がほしいんだよな。埋葬はされているが骨はない。これまでに3回、お墓の区画整理があって移ってしまっている。家の墓の前にあったのが、移動し、さらに移動し今の場所に。だから、親父に聞いたけれど、いつ建てたかまでは学生の時でわからなかった。おじいさんに聞いていればわかったかもしれないが。おじいさんは自分が高校生の時に亡くなっているから。
 9月3日の夜から追い回されて4日に亡くなっている。名前がどうしてわかったかは持ち物か何かに書いてあったんじゃないかという。
 墓石に染谷一般って書いてあるんだよな。だから染谷の人が墓建てたんだということはわかるんだけど、虐殺とか殺しちゃったということは一言も、虐殺まではいかないけれども、暴行加えてね死亡したってそういうことは書いてないんだから。死亡って書いてあるんだ。死亡じゃ病気だって死亡だって、撮影の時に、ここで、そういう話をしたんだけど、その部分は放送されたね。
 NHKが取材で繰り返し言ったのは、朝鮮の人が亡くなっていて、それを、お墓参りしたりするってことは、村の人から染谷の古き傷を掘り出してと攻撃はないのかという心配だった。
でも、おれにそういうこと言う人一人もいねえよね。
追悼式に何人かは参加するんだけれども、ずうっと参加する人いないんだよ。戦後、婦人会があって、婦人会は戦没者と朝鮮人の墓が、どうしてだかいっしょになっちゃって、春の彼岸とお盆と秋の彼岸に、なにもわからないんだけども、墓参りしていたんだよな。
 今は話しできる人いないんだよね。もう年とっちゃって。おれがおじいさんや親父から聴いた話をやってるんだけど、それだけなんだ、地元は。
 追悼式は日朝協会埼玉県連合会主催で毎年9月4日に常泉寺の本堂を借りて行われていて、今年も56人が参加した。今年は、9月4日が日曜日で「広島・長崎の火」を囲む集いと重なったため勉強会はコミセンでやった。

Q 朝鮮人殺害に焦点あてたのだからしょうがないけど、亀戸事件には全然ふれなかったよね。ちょっと残念

A そうだよ、おれ言ったんだよ。
川合義虎が殺されているし、当時の労働運動の先進的な人たち10人が殺されてるからね。それはおれ言っているんだけど、カットされたよ。
 実際はおれなんかがしゃべったことでもけっこう削られてしまっている。日朝協会が中心に調べた「かくされていた歴史」(87年に発行 関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会と日朝協会埼玉連合会が共同で発行)では埼玉で朝鮮人が240人殺されている。本庄、深谷など県北の方が激しかった。大宮は1人だった。放送では当時の司法省資料が使われ全体で231名、埼玉では94名となっている。神奈川なんか何千人って死んでるかわかんないんだそうだ。資料では神奈川では2人しか死んでいないことになっている。そんなばかな話ないっていうんだよ。
 あの放送では国の言い分はこうだけれども、民間で調べた段階で6600人とか(一番多いんだけど)、あと2500人とかいろいろ説があるんだよね。日本会議なんかはそういう数が定まらないんだから、なかったって言うわけだよね。だからそういうところは全然放送されない。

Q 放送後の反響はどうですか

A けっこうきているよ。
終わってからは、NHKには日本会議などからガンガンなんだって。激しいんだって。メール、ファックス、電話など。おれの家にも当然来るだろうと思っていたんだけど全然こないんだ。別にきたってさあ、歴史的事実のそれしかないんだから。NHKは大変だったんだろうな。
 県会議員も訪ねてきて案内と説明をしたよ。

Q プロローグで高橋さんが出てきたんで「隆亮さんじゃないか!!」って驚いたんだ

A すぐにわかった?

Q わかったよ。わからないはずないじゃない。
A お互い年とったけれどな
Q だから、10月に入っちゃったけれど、直接できるだけ早く高橋さん訪ねてね、墓にも行って説明も聞かせてもらおうと思っていたんだ。話を聞いて、さすが高橋さんだね。NHKがいろいろカットしたとしてもさ、高橋さんの短い言葉の中に思いが込められていて、ああいう事件を見過ごさないで、我々の朝鮮の人に対する加害責任や植民地支配の歴史の反省がないとだめなんだとあらためて思ったね。

A そうそう

Q 今日は本当にありがとうございました。

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姜大興の名前が刻まれている
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大正12年9月4日
空 朝 露 如 幻 禅 定 門 位
  関東地方大震災ノ節当字ニ於テ死亡
        施主 染谷  一般      と刻印

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〇 朝鮮人の犠牲者数
政府がこの事件を隠そうとしたこともあって定かな数は出されていない。
自主的・民主的学者、活動家が研究を続けている。

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《国側》
①  当時の司法省資料に記されている数は
231名  埼玉では94名となっている。
362名が起訴されている。判決は2~3年で執行猶予付き
②  内閣府の中央防災会議の朝鮮人迫害についての報告の中で朝鮮総督府が1923年6月に832名が死亡・行方不明とし1人200円の弔慰金を支給したと記している。

《「かくされていた歴史」埼玉より》
223名~240名  1973年調査 実行委員会調査
2613名   1922年12月15日の衆議院本会議で永井柳太郎議員が政府を追及した中で報告している。
 このなかで、埼玉県の合計数は551名(9ヵ所)となっている。

《独立新聞社特派員報告》 大韓民国暦5年―1923年11月28日
この報告では死亡者数が6,661人と記されている。

「かくされていた歴史」 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件
   増補保存版 1987年7月1日発行   
 関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会と日朝協会埼玉連合会が共同で発行
第一部は関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が1973年10月の編集
第二部は関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会・日朝協会埼玉県連合会が増補部分となっている。   1987年7月1日で発行された。

常泉禅寺(じょうせんぜんじ) 外の額の文字  

(注)戒厳令は1923年9月2日、地域限定で公布された。
 東京市、荏原郡(えばら)、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡

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《証言記録から》


関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が1973年に発行した「かくされていた歴史」の中から埼玉の事件の記載のなかから引用します。

 
 戒厳令下だから、朝鮮人を捕えれば
    勲章が貰えると思っていた
     大宮市片柳  小 泉 作次郎 六十七歳

 九月一日昼すこし前、大きな地震があり家が極度にゆれた。しかしこの地域一帯の土地がよかった為、家はダメにならずにすんだ。夜は東京方面が真赤であった。
 ニュースは停車場から人によって伝えられたが、何日頃だったか、「鮮人が火災場所に油を注ぎ火事を大きくしている」「鮮人が井戸に毒を入れている」といった話が伝えられた。私は同じ日本人がそんなことをするはずがないと疑問をもったが、これで頭にきた村の消防団員、青年団員が自警団を組織し、竹やり、オノ、ピストル、刀などを持ち出し、合い言葉、合図のピストルまで考え、万一に備える準備をした。
 そのうちに停車場の方からまた情報が入った。朝鮮人が大勢東京方面から護送されてきて、そのうち一部あぶれた者がいてそれがこっちの方にいるらしい、というのだ。みんな警戒を厳重にした。
 九月四日、午前三時か四時頃、家のすぐ西わきの方で一人の朝鮮人が発見され、ピストルで合図された。林の中に隠れようとしたらしいが、すぐ出て全力で逃げまわり、私の家へ入ろうとしたがはいらず、家の斜め、南東方向の道に全力で逃げた。しかしすぐT字路にぶつかり、どちらへ逃げようかとまよった末、元来た道を引き返そうとした時、一人の自警団に左胸を竹やりで突かれてしまった。
 この傷にもかかわらず、T字路を越えてさつまいも畑の中に入り、さらに逃げようとしたが、つるなどでうまく走れず、必死だった為だろう、片足を溝に突込み、倒れる所をもう一人の自警団の刀で腰の所を切られ動かなくなってしまった。
  村の自警団はこの朝鮮人を、岩槻に行く途中に住んでいた軍医の鈴木大尉の所へ運び、注射など応急の手当をしてもらった。そして軍医の指示で大宮警察署に運び、その指示を受けようとした。当時大宮警察署は岩槻新道にあり、その途中の通称おかま坂を登る途中で息を引きとってしまった。
 この朝鮮人は日本語がわからず、ただ〝ミズ〟といって水を求めた。負傷者に水を飲ませると死ぬことを知っていたのでどうしようかと迷ったが、死にそうなのでどうせ死ぬなら本人の希望を入れて飲ませてやろうではないかということになり、途中の石井という家から水を貰い飲ませてやった。
 墓は、事件の関係者が責任を感じ、また同情してたてたのだ。墓に被害者の名前として姜大興(カンデフン-24歳)とあるのは、持物からでもわかったのだと思うが、そのへんはよくわからない。
 当時、村の人たちはみな戒厳令下だから、朝鮮人を捕えれば金鶏勲章を貰えると思いこんでいた。


  村の者が総出でやっちゃった
     大宮市片柳  高 橋 武 男 六十六歳 (隆亮さんのお父さん)

 私が中学の四年のときでした。古いことなのでうろ覚えですけれど。
うちの村としてはずいぶん丁寧にとむらい、墓まで作ってあります。寺でも無縁仏にせずお盆の時には供養しています。
 発端は、あれはデマですね。片柳村といっていた時代で、駐在所にさえ電話がなかった当時で、いわゆる流言ヒ語ですね。どっからどうやってでてきたものですか、何かいたずらをすると言うんですね。全国的にそうだった、ということですが、とにかく無政府状態、混乱状態でね。
 片柳では一人だけでした。
どういう風な経路で逃げてきたか、まぎれ込んできたかわかりません。当時は村の者総出でやっちゃったわけなんですが、俺がやった、と名乗りでる人がいないと困るので、強制したわけしやありませんが、五人ばかり犯人をだしまして、裁判にもなりましたけれどね。その五人の人たちも今は全部亡くなっちゃいまして……。丁度私のオヤジが自治会長をやってまして、ずい分未決の時、さし入れなどして大さわぎしました。私のオヤジの同級生だった官崎ハジメさんに弁護をお願いしたりして、結局、刑が確定したのは、懲役三年、執行猶予二年か三年ついたと思います。
 とにかく私ども中学の上級生は大宮の駅に出て乗客の整理をしました。中で特に困っていたのは女工さんで、ほとんど東北方面から来まして自分の行き先がわからないんです。東北線で帰るものやら、高崎線で帰るものやらわからないで行先をきいて、区分けして汽車に乗せてやったんです。窓からおし込んでやってね。
 中学も九月十七、八日まで臨時休校で授業になんなかったです。それで下級生は大宮小学校の庭で女子青年団や女学生たちと一緒に玄米のたきだしをしたんです。それを駅までもっていくのに、みんな中仙道で徒歩でくだってくる避難民に横取りされちゃうんで、一、二年生は竹ん棒もってね、護衛です。駅まで。
 村には自警団も出来まして、私の方の部落に入ってきちゃいけないというんで、辻々、要所要所に、丁度軍隊の歩哨のような形で自警団の本部をおいて、それで何時間交代と、軍隊式にやりました。誰に教わったわけじゃないんですけど自然にそうなりました。四、五ヵ所肝心の所をおさえておいて、村に入って来る者を検問したわけですね。
 朝鮮人はそこでつかまったわけじゃないんです。どっから来たんですか、浦和か北浦和加、野となく山となく逃げて来たんですね。片柳の字染谷という所で、常泉寺の真裏あたり約二百米北で、朝鮮人をおそっちゃったんです。ですけど絶命したわけじゃないんで、切傷や突き傷が多くて、戸板へ乗せて病院に収容しようとして大宮に持っていったんです。それで今の開成高校のあがった所に坂がありますけど、あの坂をおりた所あたりで息をひきとったと聞いています。
 槍ももち出すし、刀をもち出した入もいるし、棍棒から竹槍をもち出したり、それは色々でしたよ。まあ、めちゃくちゃだったですね。とにかく傷が多くって、出血多量で死んだわけでしょうね。
 やったあとで、大変なことになっちゃいました。それは大変でしたね。それで私がやりましたと名乗り出た五人の人達がいたんですが、そういう人達をくどきおとして犠牲者にして、村全休が協議でもやって、お前たち、まあごくろうだけど背負ってくれないかと、そうし向けたんじゃないかとうたがわれまして、警察あたりが、うちのオヤジが当時の区長をやってましたんで、夜なんか家のまわりを刑事がまわってあるいたようなことを聞きましたね。五人は別に役付じゃなかったんです。若い者が二人、中年の人が三人でしたね。ほかにもやった人が沢山あるんだと思うんですけどね。だれがどうやったか見当つきません。朝鮮人だとどうしてわかったのか、私にはわかりませんね。

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