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2016年12月

2016年12月25日 (日)

木村汐凪(ゆうな)ちゃんの遺骨一部みつかる 12月25日

 木村紀夫さんは、妻の深雪さん次女の汐凪(ゆうな)ちゃん(当時7歳)お父さんの王太郎(わたろう)さんの3人が東日本大震災で行へ不明になり深雪さん王太郎さんは発見されましたが汐凪ちゃんだけはみつからず、ずうっと探し続けてきました。

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 私は木村紀夫さん家族のことは忘れないできました。
今朝、テレビをつけると木村汐凪ちゃんの遺骨の一部が9日に発見され、DNA検査で本人であることが22日にわかったそうです。
 一部でもようやく見つかってよかったと思いました。ご冥福をお祈りします。

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木村紀夫さんは「全部見つかるまでやりとげたい」と決意を述べていました。

私が忘れられない木村さんの言葉があります

2011年5月半ばに東電が謝罪と補償の説明会を行いました。
その席で木村紀夫さんは
「大熊町で行方不明者が全く捜査されていません。東電で経営に携わっていた方々に、原発近くの夫沢地区の捜査にはいっていただきた。これは要望でも何でもなく我々の命令だと思って下さい。検討する余地はないと思います」

 今も依然として原発事故の原因は究明されず、避難解除が次々と強行され、被災者の生業、生活はないがしろにされており、東電と国は最後まで責任をとるよう求めます。

 

 

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2016年12月16日 (金)

古墳時代のロマンを感じた八幡山古墳石室  12月10日

行田市にある埼玉県指定史跡、古墳石室(はちまんやまこふんせきしつ)を12月10日に訪れました。快晴の素晴らしい天気に恵まれました。

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

  八幡山古墳 前室→中室→奥室

 11時過ぎに古墳に到着し、自由に入れるようになっていて石室に入りました。前室、中室と通って奥室へ。奥室は自動探知で人が入ると照明が灯るようになっていて、人の位置で点いたり消えたりしました。

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 まず大きな天井岩に驚き、石の隙間からわずかな光がさしていました。
暗さに慣れると、周りが六角形の石で見事に積まれていて、幾何学的な美しさを感じました。この古墳が造られた7世紀前半から中頃に、このような見事な石積みの文化が栄えていたことが驚きで、すごいと思いました。
 それが私の第一印象で、古代のロマンを満喫した感じでした。

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最初に驚いたのがこの天井石の大きさでした
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位置を変えて写した写真

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奥室の中央には2枚の大きな石が置かれていました。
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2枚の石の厚さがわかります。
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奥室から中室方向を見ました。
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石の大きさがわかります。

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奥室の壁一面に幾何学的に積まれた六角形の石と細工された石に、私は古墳時代のロマンと栄えた文化に思いをめぐらせました。すごいと思いました。

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中室で
中室から奥室を見ました。

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中室から出口を見ました

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前室から奥を見る

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入口、古墳では羨道というそうですが、羨道の部分は失われているそうです。
前室のむかって左側には八幡大神、右側には仙元大菩薩と刻まれた祠がありました。


露出した石室の石積みを見て回る

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 石室の内部を見たせいで、外から見るのも何か感じがかわったような気がしました。不思議なものです。

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石室全景
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270d1f3fd  2010年5月25日に八幡山古墳を訪ね記事を書きました。
その時には石室には入れませんでしたが(公開日ではなかった)積み重ねられた石舞台の巨大さに圧倒されて帰ってきた記憶です。

 あれから6年以上経って、古墳を見るのが好きで、年に数回さきたま古墳を訪ねるのですが、心のどこかにあった八幡山古墳石室に入ってみたいという思いが、ふと湧いてきたのです。それで12月10日に訪ねました。
 なにか、前回来た時よりも公園は整備されたような気がしました。(トイレが新しかった)
公開は土・日・祝日の午前10時から午後4時までです。無人で、入り口は開けられていて自由に入れるようになっていました。入口に八幡山古墳石室についての説明書が自由に取れるように置いてありました。 私ともう一人2人がいっしょになり入りました。

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埼玉県指定史跡  八幡山古墳石室

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説明書内容を紹介します

  行田市藤原町の富士見工業団地内にある八幡山公園の一角に
  “関東の石舞台”とも呼ばれる巨大な横穴式石室を持つ八幡山古
  墳があります。
   この八幡山古墳は、今から約1400年前の古墳時代に気付かれた
  権力者のお墓です。
  この巨大な石室は、圧倒的な存在感があり、この古墳を築いた権力者
  の持っていた巨大な力を誇示しているようです。
   この古墳を築いた権力者は、いったいどのような人物だったのでしょ
  うか?どうしてここに、このような巨大な石室を持つ古墳を築いたので
  しょうか?そして、本来は古墳の中に築かれる石室が、なぜ露出してい
  るのでしょうか?
   八幡山古墳石室が物語る古代の歴史ロマンを、ぜひ石室内部に立
  ち入って、体験してみてください。

若(わか)小玉(こだま)古墳群と八幡山古墳

   八幡山古墳は、若小玉古墳群の一角に築かれた大型円墳で、石室に八幡社の石祠が置かれていることからその名が付けられたようです。
 若小玉古墳群は、現在では八幡山古墳と地蔵塚古墳の2基が県指定史跡として保存されているだけですが、発掘調査等で5世紀末頃~7世紀中頃に40基以上の古墳  が富士見工業団地付近の長野落し北側台地上に築かれていたことが判明しています。行田市内では埼玉古墳群に次ぐ規模をもつ古墳群で、埼玉古墳群を築いた権力者を補佐した権力者が築いた古墳群と考えられています。
  なお、八幡山古墳の約2km北方には国指定史跡小見真観寺古墳が、約1.6km南方には同じく国指定史跡埼玉古墳群が存在しています。

八幡山古墳石室の発見と保存
  八幡山古墳は、現在その巨大な石室が露出していますが、かつては9.5m程の高さの墳丘盛土があり、石室は墳丘の中に築かれていました。江戸時代後期には既にその存在が知られていて、『新編武蔵國風土記稿』、『増補忍名所図会』等に八幡山古墳のことが記されています。
  『増補忍名所図会』には「浅間山」と記されていて、その記述によると、当時すでに石室の一部が露出していたようです。
  昭和9年(1934)11月に八幡山古墳の約lkm南東にあった小針沼(現在の行田浄水場)の干拓事業が始まり、三方塚古墳、愛宕山古墳等当時残っていた若小玉古:・・墳群の多くの古墳が崩されて、その土が沼の埋め立てに使われました。八幡山古墳も崩されて、翌年1月までに墳丘盛土の大半が取り去られ、巨大な石室が姿を表わし  ました。その時点で事の重要性に気づいた当時の太田村村長が埼玉懸史編纂掛に調査を依頼、同年5月に発掘調査が行われました。そして昭和19年3月31日付で、石室部分が「八幡山古墳石室」として埼玉県指定史跡に指定され、保存が図られました。
 その後周辺に富士見工業団地が造成され、八幡山古墳は石室の周辺部だけが八幡山公園の一角に保存されて来ました。しかしながら風雨で石室の損傷が進んだため、  昭和52~54年に石室の復原工事が行われ、現在の姿に復原されました。

八幡山古墳と石室の概要

  八幡山古墳は、昭和10年の発掘調査以降、計4回発掘調査が行われています。その調査成果等から墳丘の直径が80mの円墳で、周溝は存在しない可能性が高いと
推測されています。                   
古墳の墳丘北側はローム台地上に築かれていますが、南側は台地から外れた後背湿地に築かれています。墳丘は占土とローム土を5~10 cmの厚さで交互に重ね、 部分的に黒色土を混ぜて硬く突き固める版築がされています。
  石室は、羨道(えんどう)、前室、中室、奥室で構成されている推定全長16.7m、奥室の横幅4.8mの巨大な横穴式石室です。現在は羨道の大部分が失われていて、現存長は約14.7mです。石室の平面形は、奥室が隅丸方形、中室が胴張り形、前室が方形をなしています。
  石室の構築法は他に例のないもので、奥室の壁は、角閃(かくせん)石(せき)安山岩(あんざんがん)と輝石(きせき)安山岩質(あんざんがんしつ)溶岩(ようがん)を用い、断面形が六角形の切石を積み上吠目の通りをさけるために断面形が台形の切石を挟み込んでいます。中、前室の側壁は中央部に緑泥片岩の板石をすえ、両面を角閃石安山岩と輝石安山岩質溶岩で断面六角形に加工して組み込み積みをしています。いずれも側壁の石積みは版築土下面まで続いています。また、各室とも両側壁から平面丁字形に板石を立て入口としています。床面は、各室とも中央部に二枚の緑泥片岩を置き、その周りを砂質凝灰岩の方形切石を各コーナーに傾斜するように敷き詰めています。床面下にも15~20cmの版築の下に角閃石安山岩の方形切石を長軸方向と中央部を横位にクロスさせ控え敷きしています。天井には厚さ40~74cmの巨大な緑泥片岩が使われています。
  副葬品は、フラスコ形の須恵器長頸(ちょうけい)壷(つぼ)、銅鋺(どうわん)、青銅製八花形棺金具、直刀片、乾漆器(かんしっき)片、夾紵(きょうちょ)棺(かん)片、漆塗(うるしぬり)木棺(もっかん)片及び銅鋲、鉄釘、銀製(ぎんせい)弓(ゆ)筈(はず)金物(かなもの)片、鉄(てつ)鏃(ぞく)、銅(どう)漆装方頭(うるしそうほうとう)把頭(えかしら)、金銅装(こんどうそう)鞘(さや)尻(じり)金具(かなぐ)が出土しています。特に漆塗木棺片は東国では他に千葉県栄町の竜角寺浅間山古墳で出土しているだけで、その他の出土例が攝津・河内・大和地方の天皇・皇子やそれに準ずる高貴な大や政治的に高位の人の墓にほぼ限られていることから注目されています。
 なお、これら副葬品の年代と石室の構造等から、八幡山古墳は7世紀前半~中頃(第2四半期頃)に築造されたと推測されています。

八幡山古墳の被葬者

  八幡山古墳石室には、榛名山麓の角閃石安山岩、荒川上流域の緑泥片岩、比企丘陵地域の砂質凝灰岩など広範囲に渡る複数の地域の石材が豊富に使用されており、八幡山古墳を築いた人物は、それら広範囲から石材を調達出来た権力者であったと考えられます。
  八幡山古墳が築かれた7世紀前半には、すでに前方後 円墳は築かれなくなっており、古墳は小型化していきます。そうした時代の中で、八幡山古墳は抜きん出た規模を誇っています。また、この頃には埼玉古墳群の築造は終わりを迎えつつあり、八幡山古墳の築造は、埼玉古墳群を築いて来た権力者一族や、小見真観寺古墳を築いた権力者に代わる強力な権力者が、若小玉古墳群を築いて来た一族から出現したことを示していると思われます。
  では、八幡山古墳を築いた権力者は、誰だったのでしようか?その有力な候補者と考えられているのが、平安時代に記された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』に登場する聖徳太子の舎人(とねり)、物部連(もののべのむら)兄(じえ)麿(まろ)です。『聖徳太子伝暦』によると物部連兄麿は、近江の膳臣清國(かしわでのおみきよしこく)と共にいつも聖徳太子の側に仕えていました。仏教を信仰する聖徳
太子の影響を受け、社会道徳を守って修行を積み、出家しない仏教信者の優(う)婆(ば)塞(そく)となりました。そして、永年の功績が認められ、舒明天皇5年(633)に武蔵(むさしの)国造(くにのみやつこ)となり、後に小仁の位を賜ったとあります。
 後世の伝記である『聖徳太子伝暦』の信憑性に疑問も持たれていますが、仏具の銅鋺、畿内の貴人が用いた漆塗木棺の出土、寺院建築の基礎固めの技法である版築の採用、石組・切石技法等他に見られない新しい技術を用いた巨大な石室の構築等、八幡山古墳は兄麿の墓にふさわしい畿内政権の中枢との深い関わりが伺える、当時の先端技術と仏教文化を取り入れて築かれた古墳なのです。

 羨道(えんどう=せんどうともよむ)とは、古墳の横穴式石室や横穴墓などの玄室と外部とを結ぶ通路部分。慣習的に「せんどう」とも呼称する。

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2016年12月13日 (火)

祖父、父から今に受け継ぐ朝鮮人殺害の歴史を聞く

 NHK ETV特集「関東大震災と朝鮮人―悲劇はなぜ起きたか」が2016年9月3日に放送されました。
 この番組のプロローグに、私が昔お世話になった高橋隆亮(たかはしたかすけ)さんが登場したので「あれ隆亮さんじゃないか」と驚きました。すぐに高橋さんとわかりました。番組は日韓関係で様々な問題がある中で、一部制約されていて不十分さを感じる点もありましたが、前向きに関東大震災での朝鮮人迫害に迫り、震災が多発する日本で二度とこうしたことを繰り返してはいけないというメッセージを発信したすばらしい内容だったと思います。
 放送を視聴してから、高橋さんを訪ねてお話も聞き、姜大興(カンデフン)さんのお墓まいりもしたいと考えました。すぐには実行できませんでしたが、10月15日、高橋隆亮さんを訪ね、懐かしくお会いもでき話も聞いて、お墓参りもすることができ充実した日となりました。
 お聞きして、私が知らないでいた、いくつもの事を知ることができました。高橋さんからお聞きしたことを記録に残すことにしました。

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 問答形式でお聞きした内容をまとめました。

Q、なぜ高橋さんのところにNHKの取材がくるようになったのですか。

A、1923年9月1日に関東大震災が発生しました。
当時、おじいさん(高橋吉三郎)は片柳村第三区染谷の区長で親父(高橋武男)は学生だった。
小学生の頃から、常泉寺(曹洞宗 瑞谷山)の家の墓のすぐそばに姜大興(カンデフン)さんの墓があり、「朝鮮人の墓だから、線香上げろ」と言われてたんだよ。(姜大興さんの命日は9月4日)
 そういうこともあって毎年9月4日に線香をあげ、追悼式をやるようになって今年で10回になる。
 NHKから日朝協会埼玉県連の関原正裕さんに取材の話が入って、「代々朝鮮人の墓に線香あげている人がいるよ。」との紹介で15年12月頃に話が回ってきた。
だんだん親父の話が出たり、おじいさんの話が出たり、そうこうしているうちに、撮影が始まったのは今年の6月頃。お盆過ぎまで放送することも全然わからなかった。日朝協会の方に放送の骨子が来てやることがわかった。
去年の夏に古い机(簿記台)の引き出しに、おじいさんが持っていた染谷の事件に関わる書面が出てきた。いまは関原正裕先生の所にいってしまっているけど。次々に出てきたんだ。
要するに、国、県、村、軍隊が全部通達出してきているわけだよね。埼玉県にもそういう文書が古文書館にあるんだよ。通達が出してあったということがわかる。だけど、受け取った側の書類なんてどこにもないんだ、93年も経ってんだから。それが出てきてしまったんだ。
吉三郎殿で来てるわけ。第三区長だから。片柳村に13の区があって染谷はその三番目。それでこういう文書が出てきて確かに来ていたということで証拠になった。それで、NHKが来るようになったわけだよ。

Q NHKはいつごろから企画していたんですか
A わかんない。なかなかできなかったみたい。

Q 1923年9月3日の夜から4日の未明、2時か3時ごろに集団的な殺害事件が起きたわけですよね

A 震災の中で姜大興(カンデフン24歳)さんは偶然に迷い込んできてこの事件になったのでは。まわりの雰囲気と社会状況の中で。
自警団作っていたから。浦和方面からきたんじゃないかという。浦和岩槻県道で東新井に来ないうちに山という所があって崖になっていて、飛び降りたときにショウガ畑とサツマ畑のつるに足とられて、捕えられてめった切りされ瀕死の状態で、生きていたんで、戸板に乗せられて医者に連れていく途中で亡くなった。即死ではなかった。

Q 裁判に訴えられましたよね。最初は不問にしようとしたんでしょう。

A 最初は逆なんだよ。不逞朝鮮人をやったんだから手柄だよ。
ほうびもらえると「おれがやりました」「おれがやりました」と、みな手柄話で警察に行ったという。ところが3日ぐらい経って殺人事件で捜査が始まったら、「おら知らねえ」「おらしらねえ」と変わった。

Q 国会でも取り上げられ問題になって国の対応が変わった

A おじいさんが区長で、みんなでやっちゃたんだから代表で若い人と経験者と5人代表作って、この人たちが中心にやったんだというのを出して、逮捕された。その後、村のためにやってもらったんだから嘆願しようじゃないかと。井戸に毒を入れたとか、流言飛語にまどわされて、やっちゃったんだから罪はないんだという意識で嘆願運動をやったんだ、おじいさんたちが。軍隊帰りの軍人が2人いて、その人たちがやったんじゃないかという話も。〇〇〇とか、△△△とか名前出てるから。「かくされていた歴史」という本があるんだ。(本を持ってくる)この中で染谷の事も取り上げられていて、作次郎さん(67歳)の証言と親父(武男)の証言が書いてある。作次郎さんはおやじより年上だからその場に加わっていたんだね。

Q 姜大興さんを墓に埋葬したのはいつなの
A わからない。推測するしかない。その年のうちに埋葬したのはたしか。

Q でもその当時としては本当によくやりましたよね

A 墓建てるのにお金もかかるしね。墓石といっしょに御影石で碑文が書いてあるのは、2004年ワールドカップが日韓合同開催された際にお寺の坊さんが自費で作った。韓国の人にすると骨がほしいんだよな。埋葬はされているが骨はない。これまでに3回、お墓の区画整理があって移ってしまっている。家の墓の前にあったのが、移動し、さらに移動し今の場所に。だから、親父に聞いたけれど、いつ建てたかまでは学生の時でわからなかった。おじいさんに聞いていればわかったかもしれないが。おじいさんは自分が高校生の時に亡くなっているから。
 9月3日の夜から追い回されて4日に亡くなっている。名前がどうしてわかったかは持ち物か何かに書いてあったんじゃないかという。
 墓石に染谷一般って書いてあるんだよな。だから染谷の人が墓建てたんだということはわかるんだけど、虐殺とか殺しちゃったということは一言も、虐殺まではいかないけれども、暴行加えてね死亡したってそういうことは書いてないんだから。死亡って書いてあるんだ。死亡じゃ病気だって死亡だって、撮影の時に、ここで、そういう話をしたんだけど、その部分は放送されたね。
 NHKが取材で繰り返し言ったのは、朝鮮の人が亡くなっていて、それを、お墓参りしたりするってことは、村の人から染谷の古き傷を掘り出してと攻撃はないのかという心配だった。
でも、おれにそういうこと言う人一人もいねえよね。
追悼式に何人かは参加するんだけれども、ずうっと参加する人いないんだよ。戦後、婦人会があって、婦人会は戦没者と朝鮮人の墓が、どうしてだかいっしょになっちゃって、春の彼岸とお盆と秋の彼岸に、なにもわからないんだけども、墓参りしていたんだよな。
 今は話しできる人いないんだよね。もう年とっちゃって。おれがおじいさんや親父から聴いた話をやってるんだけど、それだけなんだ、地元は。
 追悼式は日朝協会埼玉県連合会主催で毎年9月4日に常泉寺の本堂を借りて行われていて、今年も56人が参加した。今年は、9月4日が日曜日で「広島・長崎の火」を囲む集いと重なったため勉強会はコミセンでやった。

Q 朝鮮人殺害に焦点あてたのだからしょうがないけど、亀戸事件には全然ふれなかったよね。ちょっと残念

A そうだよ、おれ言ったんだよ。
川合義虎が殺されているし、当時の労働運動の先進的な人たち10人が殺されてるからね。それはおれ言っているんだけど、カットされたよ。
 実際はおれなんかがしゃべったことでもけっこう削られてしまっている。日朝協会が中心に調べた「かくされていた歴史」(87年に発行 関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会と日朝協会埼玉連合会が共同で発行)では埼玉で朝鮮人が240人殺されている。本庄、深谷など県北の方が激しかった。大宮は1人だった。放送では当時の司法省資料が使われ全体で231名、埼玉では94名となっている。神奈川なんか何千人って死んでるかわかんないんだそうだ。資料では神奈川では2人しか死んでいないことになっている。そんなばかな話ないっていうんだよ。
 あの放送では国の言い分はこうだけれども、民間で調べた段階で6600人とか(一番多いんだけど)、あと2500人とかいろいろ説があるんだよね。日本会議なんかはそういう数が定まらないんだから、なかったって言うわけだよね。だからそういうところは全然放送されない。

Q 放送後の反響はどうですか

A けっこうきているよ。
終わってからは、NHKには日本会議などからガンガンなんだって。激しいんだって。メール、ファックス、電話など。おれの家にも当然来るだろうと思っていたんだけど全然こないんだ。別にきたってさあ、歴史的事実のそれしかないんだから。NHKは大変だったんだろうな。
 県会議員も訪ねてきて案内と説明をしたよ。

Q プロローグで高橋さんが出てきたんで「隆亮さんじゃないか!!」って驚いたんだ

A すぐにわかった?

Q わかったよ。わからないはずないじゃない。
A お互い年とったけれどな
Q だから、10月に入っちゃったけれど、直接できるだけ早く高橋さん訪ねてね、墓にも行って説明も聞かせてもらおうと思っていたんだ。話を聞いて、さすが高橋さんだね。NHKがいろいろカットしたとしてもさ、高橋さんの短い言葉の中に思いが込められていて、ああいう事件を見過ごさないで、我々の朝鮮の人に対する加害責任や植民地支配の歴史の反省がないとだめなんだとあらためて思ったね。

A そうそう

Q 今日は本当にありがとうございました。

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姜大興の名前が刻まれている
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大正12年9月4日
空 朝 露 如 幻 禅 定 門 位
  関東地方大震災ノ節当字ニ於テ死亡
        施主 染谷  一般      と刻印

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〇 朝鮮人の犠牲者数
政府がこの事件を隠そうとしたこともあって定かな数は出されていない。
自主的・民主的学者、活動家が研究を続けている。

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《国側》
①  当時の司法省資料に記されている数は
231名  埼玉では94名となっている。
362名が起訴されている。判決は2~3年で執行猶予付き
②  内閣府の中央防災会議の朝鮮人迫害についての報告の中で朝鮮総督府が1923年6月に832名が死亡・行方不明とし1人200円の弔慰金を支給したと記している。

《「かくされていた歴史」埼玉より》
223名~240名  1973年調査 実行委員会調査
2613名   1922年12月15日の衆議院本会議で永井柳太郎議員が政府を追及した中で報告している。
 このなかで、埼玉県の合計数は551名(9ヵ所)となっている。

《独立新聞社特派員報告》 大韓民国暦5年―1923年11月28日
この報告では死亡者数が6,661人と記されている。

「かくされていた歴史」 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件
   増補保存版 1987年7月1日発行   
 関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会と日朝協会埼玉連合会が共同で発行
第一部は関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が1973年10月の編集
第二部は関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会・日朝協会埼玉県連合会が増補部分となっている。   1987年7月1日で発行された。

常泉禅寺(じょうせんぜんじ) 外の額の文字  

(注)戒厳令は1923年9月2日、地域限定で公布された。
 東京市、荏原郡(えばら)、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡

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《証言記録から》


関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が1973年に発行した「かくされていた歴史」の中から埼玉の事件の記載のなかから引用します。

 
 戒厳令下だから、朝鮮人を捕えれば
    勲章が貰えると思っていた
     大宮市片柳  小 泉 作次郎 六十七歳

 九月一日昼すこし前、大きな地震があり家が極度にゆれた。しかしこの地域一帯の土地がよかった為、家はダメにならずにすんだ。夜は東京方面が真赤であった。
 ニュースは停車場から人によって伝えられたが、何日頃だったか、「鮮人が火災場所に油を注ぎ火事を大きくしている」「鮮人が井戸に毒を入れている」といった話が伝えられた。私は同じ日本人がそんなことをするはずがないと疑問をもったが、これで頭にきた村の消防団員、青年団員が自警団を組織し、竹やり、オノ、ピストル、刀などを持ち出し、合い言葉、合図のピストルまで考え、万一に備える準備をした。
 そのうちに停車場の方からまた情報が入った。朝鮮人が大勢東京方面から護送されてきて、そのうち一部あぶれた者がいてそれがこっちの方にいるらしい、というのだ。みんな警戒を厳重にした。
 九月四日、午前三時か四時頃、家のすぐ西わきの方で一人の朝鮮人が発見され、ピストルで合図された。林の中に隠れようとしたらしいが、すぐ出て全力で逃げまわり、私の家へ入ろうとしたがはいらず、家の斜め、南東方向の道に全力で逃げた。しかしすぐT字路にぶつかり、どちらへ逃げようかとまよった末、元来た道を引き返そうとした時、一人の自警団に左胸を竹やりで突かれてしまった。
 この傷にもかかわらず、T字路を越えてさつまいも畑の中に入り、さらに逃げようとしたが、つるなどでうまく走れず、必死だった為だろう、片足を溝に突込み、倒れる所をもう一人の自警団の刀で腰の所を切られ動かなくなってしまった。
  村の自警団はこの朝鮮人を、岩槻に行く途中に住んでいた軍医の鈴木大尉の所へ運び、注射など応急の手当をしてもらった。そして軍医の指示で大宮警察署に運び、その指示を受けようとした。当時大宮警察署は岩槻新道にあり、その途中の通称おかま坂を登る途中で息を引きとってしまった。
 この朝鮮人は日本語がわからず、ただ〝ミズ〟といって水を求めた。負傷者に水を飲ませると死ぬことを知っていたのでどうしようかと迷ったが、死にそうなのでどうせ死ぬなら本人の希望を入れて飲ませてやろうではないかということになり、途中の石井という家から水を貰い飲ませてやった。
 墓は、事件の関係者が責任を感じ、また同情してたてたのだ。墓に被害者の名前として姜大興(カンデフン-24歳)とあるのは、持物からでもわかったのだと思うが、そのへんはよくわからない。
 当時、村の人たちはみな戒厳令下だから、朝鮮人を捕えれば金鶏勲章を貰えると思いこんでいた。


  村の者が総出でやっちゃった
     大宮市片柳  高 橋 武 男 六十六歳 (隆亮さんのお父さん)

 私が中学の四年のときでした。古いことなのでうろ覚えですけれど。
うちの村としてはずいぶん丁寧にとむらい、墓まで作ってあります。寺でも無縁仏にせずお盆の時には供養しています。
 発端は、あれはデマですね。片柳村といっていた時代で、駐在所にさえ電話がなかった当時で、いわゆる流言ヒ語ですね。どっからどうやってでてきたものですか、何かいたずらをすると言うんですね。全国的にそうだった、ということですが、とにかく無政府状態、混乱状態でね。
 片柳では一人だけでした。
どういう風な経路で逃げてきたか、まぎれ込んできたかわかりません。当時は村の者総出でやっちゃったわけなんですが、俺がやった、と名乗りでる人がいないと困るので、強制したわけしやありませんが、五人ばかり犯人をだしまして、裁判にもなりましたけれどね。その五人の人たちも今は全部亡くなっちゃいまして……。丁度私のオヤジが自治会長をやってまして、ずい分未決の時、さし入れなどして大さわぎしました。私のオヤジの同級生だった官崎ハジメさんに弁護をお願いしたりして、結局、刑が確定したのは、懲役三年、執行猶予二年か三年ついたと思います。
 とにかく私ども中学の上級生は大宮の駅に出て乗客の整理をしました。中で特に困っていたのは女工さんで、ほとんど東北方面から来まして自分の行き先がわからないんです。東北線で帰るものやら、高崎線で帰るものやらわからないで行先をきいて、区分けして汽車に乗せてやったんです。窓からおし込んでやってね。
 中学も九月十七、八日まで臨時休校で授業になんなかったです。それで下級生は大宮小学校の庭で女子青年団や女学生たちと一緒に玄米のたきだしをしたんです。それを駅までもっていくのに、みんな中仙道で徒歩でくだってくる避難民に横取りされちゃうんで、一、二年生は竹ん棒もってね、護衛です。駅まで。
 村には自警団も出来まして、私の方の部落に入ってきちゃいけないというんで、辻々、要所要所に、丁度軍隊の歩哨のような形で自警団の本部をおいて、それで何時間交代と、軍隊式にやりました。誰に教わったわけじゃないんですけど自然にそうなりました。四、五ヵ所肝心の所をおさえておいて、村に入って来る者を検問したわけですね。
 朝鮮人はそこでつかまったわけじゃないんです。どっから来たんですか、浦和か北浦和加、野となく山となく逃げて来たんですね。片柳の字染谷という所で、常泉寺の真裏あたり約二百米北で、朝鮮人をおそっちゃったんです。ですけど絶命したわけじゃないんで、切傷や突き傷が多くて、戸板へ乗せて病院に収容しようとして大宮に持っていったんです。それで今の開成高校のあがった所に坂がありますけど、あの坂をおりた所あたりで息をひきとったと聞いています。
 槍ももち出すし、刀をもち出した入もいるし、棍棒から竹槍をもち出したり、それは色々でしたよ。まあ、めちゃくちゃだったですね。とにかく傷が多くって、出血多量で死んだわけでしょうね。
 やったあとで、大変なことになっちゃいました。それは大変でしたね。それで私がやりましたと名乗り出た五人の人達がいたんですが、そういう人達をくどきおとして犠牲者にして、村全休が協議でもやって、お前たち、まあごくろうだけど背負ってくれないかと、そうし向けたんじゃないかとうたがわれまして、警察あたりが、うちのオヤジが当時の区長をやってましたんで、夜なんか家のまわりを刑事がまわってあるいたようなことを聞きましたね。五人は別に役付じゃなかったんです。若い者が二人、中年の人が三人でしたね。ほかにもやった人が沢山あるんだと思うんですけどね。だれがどうやったか見当つきません。朝鮮人だとどうしてわかったのか、私にはわかりませんね。

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2016年12月11日 (日)

二子山古墳堀の埋め立ては完了していました 12月10日

 1月15日に、行田市のさきたま古墳近くの白山愛宕山古墳の周溝から大量の埴輪の破片が出土したということを知り、現場も訪ね、行田市の担当者の方にもお会いしてお話を聞かせていただきました。
 もう一つ気になっているのが、二子山古墳には堀はなかったということで堀を埋めて元の姿に戻す工事の結果が気になっていました。1月15日にはまだ工事は進行中でした。

 はや1年で、さきたま古墳のことは気になりますので訪ねることにしました。

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

埼玉まで来た時に富士山が目に入ってきたので停車し、富士山を撮影。
この調子だと丸墓山古墳で富士山を見れるかも・・・
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丸墓山古墳でまわりを一望

息を切らして急な古墳を上がりました。

富士山は見えるかな?

木立の向こうに雲を少しかぶった富士山がくっきりとはいきませんでしたが見ることができました。寒い時期に度々くるのですが見れることは少ないのです。
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こんどは忍城は?

遠くの連山には雲がかかっていましたが忍城はクックリと見ることができました。
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稲荷山古墳、将軍山古墳、二子山古墳

木々の枝でくっきりと見ることはできないのですが、三つの古墳を遠目で見ることができます。

稲荷山古墳

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将軍山古墳

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丸墓山古墳

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二子山古墳

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二子山古墳は近くで現状を見てきました

堀の埋め立ては終了したようで、古墳本来の姿を初めて見ることになりました。
以前の堀のイメージが残っているので、ちょっと言い表せない感じもし見つめていました。
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標柱には「史跡 埼玉村古墳群」と記されています。
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愛宕山古墳

お地蔵さん3体が見えるかなと来た時にはいつも気になります。
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瓦塚古墳

何となく見たくなって訪ねました。見るのはしばらくぶりです。
この瓦塚古墳の全景写真を撮る場所が定まらなかったのですが、1ヵ所ポイントが見つかりました。
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2016年12月 2日 (金)

2年かかって、ヤツデの木が花を咲かせるまでに

 2014年2月の雪でわが家の大きなヤツデの木が倒れてしまいました。
今は亡き義母が家の新築に贈ってくれた大切な木なのです。

 同年3月23日のブログに、根元から若い芽が成長していて楽しみだと書きました。

それからもう2年以上が経ち、ヤツデが復活しつつあります。
日当たりのよい場所にあり、今年花を咲かせるまでに成長しています。

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