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2016年12月16日 (金)

古墳時代のロマンを感じた八幡山古墳石室  12月10日

行田市にある埼玉県指定史跡、古墳石室(はちまんやまこふんせきしつ)を12月10日に訪れました。快晴の素晴らしい天気に恵まれました。

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

  八幡山古墳 前室→中室→奥室

 11時過ぎに古墳に到着し、自由に入れるようになっていて石室に入りました。前室、中室と通って奥室へ。奥室は自動探知で人が入ると照明が灯るようになっていて、人の位置で点いたり消えたりしました。

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 まず大きな天井岩に驚き、石の隙間からわずかな光がさしていました。
暗さに慣れると、周りが六角形の石で見事に積まれていて、幾何学的な美しさを感じました。この古墳が造られた7世紀前半から中頃に、このような見事な石積みの文化が栄えていたことが驚きで、すごいと思いました。
 それが私の第一印象で、古代のロマンを満喫した感じでした。

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最初に驚いたのがこの天井石の大きさでした
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位置を変えて写した写真

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奥室の中央には2枚の大きな石が置かれていました。
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2枚の石の厚さがわかります。
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奥室から中室方向を見ました。
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石の大きさがわかります。

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奥室の壁一面に幾何学的に積まれた六角形の石と細工された石に、私は古墳時代のロマンと栄えた文化に思いをめぐらせました。すごいと思いました。

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中室で
中室から奥室を見ました。

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中室から出口を見ました

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前室から奥を見る

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入口、古墳では羨道というそうですが、羨道の部分は失われているそうです。
前室のむかって左側には八幡大神、右側には仙元大菩薩と刻まれた祠がありました。


露出した石室の石積みを見て回る

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 石室の内部を見たせいで、外から見るのも何か感じがかわったような気がしました。不思議なものです。

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石室全景
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270d1f3fd  2010年5月25日に八幡山古墳を訪ね記事を書きました。
その時には石室には入れませんでしたが(公開日ではなかった)積み重ねられた石舞台の巨大さに圧倒されて帰ってきた記憶です。

 あれから6年以上経って、古墳を見るのが好きで、年に数回さきたま古墳を訪ねるのですが、心のどこかにあった八幡山古墳石室に入ってみたいという思いが、ふと湧いてきたのです。それで12月10日に訪ねました。
 なにか、前回来た時よりも公園は整備されたような気がしました。(トイレが新しかった)
公開は土・日・祝日の午前10時から午後4時までです。無人で、入り口は開けられていて自由に入れるようになっていました。入口に八幡山古墳石室についての説明書が自由に取れるように置いてありました。 私ともう一人2人がいっしょになり入りました。

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埼玉県指定史跡  八幡山古墳石室

Photo
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説明書内容を紹介します

  行田市藤原町の富士見工業団地内にある八幡山公園の一角に
  “関東の石舞台”とも呼ばれる巨大な横穴式石室を持つ八幡山古
  墳があります。
   この八幡山古墳は、今から約1400年前の古墳時代に気付かれた
  権力者のお墓です。
  この巨大な石室は、圧倒的な存在感があり、この古墳を築いた権力者
  の持っていた巨大な力を誇示しているようです。
   この古墳を築いた権力者は、いったいどのような人物だったのでしょ
  うか?どうしてここに、このような巨大な石室を持つ古墳を築いたので
  しょうか?そして、本来は古墳の中に築かれる石室が、なぜ露出してい
  るのでしょうか?
   八幡山古墳石室が物語る古代の歴史ロマンを、ぜひ石室内部に立
  ち入って、体験してみてください。

若(わか)小玉(こだま)古墳群と八幡山古墳

   八幡山古墳は、若小玉古墳群の一角に築かれた大型円墳で、石室に八幡社の石祠が置かれていることからその名が付けられたようです。
 若小玉古墳群は、現在では八幡山古墳と地蔵塚古墳の2基が県指定史跡として保存されているだけですが、発掘調査等で5世紀末頃~7世紀中頃に40基以上の古墳  が富士見工業団地付近の長野落し北側台地上に築かれていたことが判明しています。行田市内では埼玉古墳群に次ぐ規模をもつ古墳群で、埼玉古墳群を築いた権力者を補佐した権力者が築いた古墳群と考えられています。
  なお、八幡山古墳の約2km北方には国指定史跡小見真観寺古墳が、約1.6km南方には同じく国指定史跡埼玉古墳群が存在しています。

八幡山古墳石室の発見と保存
  八幡山古墳は、現在その巨大な石室が露出していますが、かつては9.5m程の高さの墳丘盛土があり、石室は墳丘の中に築かれていました。江戸時代後期には既にその存在が知られていて、『新編武蔵國風土記稿』、『増補忍名所図会』等に八幡山古墳のことが記されています。
  『増補忍名所図会』には「浅間山」と記されていて、その記述によると、当時すでに石室の一部が露出していたようです。
  昭和9年(1934)11月に八幡山古墳の約lkm南東にあった小針沼(現在の行田浄水場)の干拓事業が始まり、三方塚古墳、愛宕山古墳等当時残っていた若小玉古:・・墳群の多くの古墳が崩されて、その土が沼の埋め立てに使われました。八幡山古墳も崩されて、翌年1月までに墳丘盛土の大半が取り去られ、巨大な石室が姿を表わし  ました。その時点で事の重要性に気づいた当時の太田村村長が埼玉懸史編纂掛に調査を依頼、同年5月に発掘調査が行われました。そして昭和19年3月31日付で、石室部分が「八幡山古墳石室」として埼玉県指定史跡に指定され、保存が図られました。
 その後周辺に富士見工業団地が造成され、八幡山古墳は石室の周辺部だけが八幡山公園の一角に保存されて来ました。しかしながら風雨で石室の損傷が進んだため、  昭和52~54年に石室の復原工事が行われ、現在の姿に復原されました。

八幡山古墳と石室の概要

  八幡山古墳は、昭和10年の発掘調査以降、計4回発掘調査が行われています。その調査成果等から墳丘の直径が80mの円墳で、周溝は存在しない可能性が高いと
推測されています。                   
古墳の墳丘北側はローム台地上に築かれていますが、南側は台地から外れた後背湿地に築かれています。墳丘は占土とローム土を5~10 cmの厚さで交互に重ね、 部分的に黒色土を混ぜて硬く突き固める版築がされています。
  石室は、羨道(えんどう)、前室、中室、奥室で構成されている推定全長16.7m、奥室の横幅4.8mの巨大な横穴式石室です。現在は羨道の大部分が失われていて、現存長は約14.7mです。石室の平面形は、奥室が隅丸方形、中室が胴張り形、前室が方形をなしています。
  石室の構築法は他に例のないもので、奥室の壁は、角閃(かくせん)石(せき)安山岩(あんざんがん)と輝石(きせき)安山岩質(あんざんがんしつ)溶岩(ようがん)を用い、断面形が六角形の切石を積み上吠目の通りをさけるために断面形が台形の切石を挟み込んでいます。中、前室の側壁は中央部に緑泥片岩の板石をすえ、両面を角閃石安山岩と輝石安山岩質溶岩で断面六角形に加工して組み込み積みをしています。いずれも側壁の石積みは版築土下面まで続いています。また、各室とも両側壁から平面丁字形に板石を立て入口としています。床面は、各室とも中央部に二枚の緑泥片岩を置き、その周りを砂質凝灰岩の方形切石を各コーナーに傾斜するように敷き詰めています。床面下にも15~20cmの版築の下に角閃石安山岩の方形切石を長軸方向と中央部を横位にクロスさせ控え敷きしています。天井には厚さ40~74cmの巨大な緑泥片岩が使われています。
  副葬品は、フラスコ形の須恵器長頸(ちょうけい)壷(つぼ)、銅鋺(どうわん)、青銅製八花形棺金具、直刀片、乾漆器(かんしっき)片、夾紵(きょうちょ)棺(かん)片、漆塗(うるしぬり)木棺(もっかん)片及び銅鋲、鉄釘、銀製(ぎんせい)弓(ゆ)筈(はず)金物(かなもの)片、鉄(てつ)鏃(ぞく)、銅(どう)漆装方頭(うるしそうほうとう)把頭(えかしら)、金銅装(こんどうそう)鞘(さや)尻(じり)金具(かなぐ)が出土しています。特に漆塗木棺片は東国では他に千葉県栄町の竜角寺浅間山古墳で出土しているだけで、その他の出土例が攝津・河内・大和地方の天皇・皇子やそれに準ずる高貴な大や政治的に高位の人の墓にほぼ限られていることから注目されています。
 なお、これら副葬品の年代と石室の構造等から、八幡山古墳は7世紀前半~中頃(第2四半期頃)に築造されたと推測されています。

八幡山古墳の被葬者

  八幡山古墳石室には、榛名山麓の角閃石安山岩、荒川上流域の緑泥片岩、比企丘陵地域の砂質凝灰岩など広範囲に渡る複数の地域の石材が豊富に使用されており、八幡山古墳を築いた人物は、それら広範囲から石材を調達出来た権力者であったと考えられます。
  八幡山古墳が築かれた7世紀前半には、すでに前方後 円墳は築かれなくなっており、古墳は小型化していきます。そうした時代の中で、八幡山古墳は抜きん出た規模を誇っています。また、この頃には埼玉古墳群の築造は終わりを迎えつつあり、八幡山古墳の築造は、埼玉古墳群を築いて来た権力者一族や、小見真観寺古墳を築いた権力者に代わる強力な権力者が、若小玉古墳群を築いて来た一族から出現したことを示していると思われます。
  では、八幡山古墳を築いた権力者は、誰だったのでしようか?その有力な候補者と考えられているのが、平安時代に記された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』に登場する聖徳太子の舎人(とねり)、物部連(もののべのむら)兄(じえ)麿(まろ)です。『聖徳太子伝暦』によると物部連兄麿は、近江の膳臣清國(かしわでのおみきよしこく)と共にいつも聖徳太子の側に仕えていました。仏教を信仰する聖徳
太子の影響を受け、社会道徳を守って修行を積み、出家しない仏教信者の優(う)婆(ば)塞(そく)となりました。そして、永年の功績が認められ、舒明天皇5年(633)に武蔵(むさしの)国造(くにのみやつこ)となり、後に小仁の位を賜ったとあります。
 後世の伝記である『聖徳太子伝暦』の信憑性に疑問も持たれていますが、仏具の銅鋺、畿内の貴人が用いた漆塗木棺の出土、寺院建築の基礎固めの技法である版築の採用、石組・切石技法等他に見られない新しい技術を用いた巨大な石室の構築等、八幡山古墳は兄麿の墓にふさわしい畿内政権の中枢との深い関わりが伺える、当時の先端技術と仏教文化を取り入れて築かれた古墳なのです。

 羨道(えんどう=せんどうともよむ)とは、古墳の横穴式石室や横穴墓などの玄室と外部とを結ぶ通路部分。慣習的に「せんどう」とも呼称する。

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