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2016年3月 3日 (木)

小林多喜二忌 歩く 麻布十番地~築地  2月20日

 83回目の小林多喜二忌

多喜二は今も私たちの心の中に生き続けている

 この2月20日に何かしたいと思っていた時に、「しんぶん赤旗」2月7日の読者の広場欄で千葉県柏市在住の藤田廣登さんが多喜二忌歩きを呼びかけられました。
 私にとってグットタイミングで、「これだ」と思い参加することを決めました。

 2月20日が近づくと、2013年2月26日のブログ記事「小林多喜二虐殺80周年から学ぶ③にアクセスが急増しました。そして、その記事を読み返してみて、藤田廣登さんはあの時に多喜二の最後について詳しく説明してくれた方だということを思い出しました。

 2月中にアクセス数は2万を超えました。
私にとっては驚きでした。藤田廣登さんの説明をまじめに整理したことが、力を持ったのではないのでしょうか。

rock 2月20日(土)午後1時地下鉄麻布十番駅集合

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 天気予報通りに1時には雨が降り出し、雨脚は強くなりました。
全国で取り組まれている多喜二祭と連帯しての行動で、藤田さんが出発のあいさつで「雨が降ろうが何が降ろうが身体がゆるす限り続けたい」と言われていたことが印象に残りました。

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(出発にあたって、藤田さんがあいさつ)

eye 称名寺  港区麻布十番1-6-31

 多喜二が上京したのが1930年4月。
麻布十番での生活と活動は1932年4月~1933年2月で、非公然活動に入っていた。反戦活動に取り組みながら、執筆活動も行い「地区の人々」の作品を実名で発表。1932年4月に伊藤ふじ子と結婚し、称名寺の境内にあった二階建てアパートの1階に住んだ。

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eye 雨の中の朗読された「麻布の坂道」の詩が、多喜二の麻布での活動と生活を簡明に伝えていて胸に迫りました。

 この日知ったことも合わせ、小林多喜二って、29歳という若さで、共産党の活動でも文化活動でも、生活でも、明るく前向きに、展望を持って精力的に生きていたように感じました。今、多喜二から学ばなければならないことではないでしょうか。

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 麻布の坂道   土井大助

小林多喜二生誕100年(10月13日)によせて
               2003年10月11日

麻布の街は あちこちに 長い坂 急な坂。
どの坂も 小林多喜二が 歩いた道だ。
丈夫な足で、たいていは下駄ばきで、
雨の日は、喜んで傘をさしたりして、
いつも つま先を 自重させ、
両のかかとを、緊張させて歩いた道だ。

戦争の暗雲が広がる東京の空の下、
春から夏、 夏から秋へと 吹きつのる風を切って
時代の悪と対決するペンに渾身の力を込めた作家多喜二の
そのたぎる闘志が 心新たな仕事場に選んだ 麻布の街。

街角では ふと遠い小樽と思いくらべてみたり、
小樽の通学路の坂を思えば 何のことはない傾斜でも、
ここは どこに何が待ち構えているか きわどい坂道。
横丁辺りでは、 しきりに杉並に残した母親の心が案じられたが、
母親と息子を別け隔てる勾配は さすがにきつかった。

ときおり気に入ったフルーツパーラーで、
盟友と連れ立って 棒になった脚を休めたり、
たまには 小樽そっくりのウナギ屋の二階に、
ふたりで腰をすえ 栄養不足を補って 身体を横たえたり。

歩くたびに 愛着の深まっていく道なのに、
ある日 ゾロゾロ散歩している人ごみのなかで
街角では突然 全く散歩というものをもたぬ自分に 気がついた。
気を緩めて 愛妻と歩くなど 確実に危ない道だった。

不意を突かれ 鍵付きの大型トランク一つ抱えて抜け出た道。
中身は 気迫こめた小説や小論など書きかけの原稿にくわえ
愛読の文学書や 焚書扱いの古典でいっぱいだった。
3回も にわかに住居を変えねばならなかった麻布の街。

どこも 由緒ある名と歴史を持つ坂だが、
これらの坂を、誰もが自由に気楽に散歩ができるような
そういう 新しい平和な世の中を ひたすらにめざして、
多喜二が 細心に大胆に しのぎ歩いた道だ。

この道は、ひそかに一度だけ 母親が、
息子の明るい顔を とくと見おさめて 下って行った坂。
多喜二が全生涯的感情をこめて
母親に きっぱりと 心やさしく別れを告げた道。

こうした後 朝から夜まで 12、3回もの連絡をこなし
1日を28時間に働く活動に再び立ち戻って行った坂。

どの坂とて 気の抜ける道ではなかったが、
むしろ 未来につながる 光射す道筋だと思えば、
けっして 気の重い暗い道ではなかった。
肚のなかに 怒りと闘志を溜めてしか歩けない道だった。
麻布の道は 風雪の生涯の 最後の10ヵ月
小林多喜二が いのちがけで 上り下りした坂道だ。



eye 山中屋フルーツパーラー 麻布十番1-8-10番

 活動家との連絡場所であり、家族との会食の場であり、執筆の場でもあった。
現在は当時の面影を伝える物として豆源本店の建物が残っている。

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◆ ここから地下鉄で中央区築地まで移動

築地本願寺茶房で一息休憩



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築地本願寺(つきじほんがんじ)は、東京都中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。東京都内における代表的な寺院の一つで、京都市にある西本願寺の直轄寺院で、仏教界の「9条の会」の拠点になっているそうです。

 休憩時間中に隣同士の話になり、5人が「しんぶん赤旗」で読んで初めて参加しましたということで、愛知からの人も。すばらしい出会でした。

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休憩中に、伊藤ふじ子さんの姿を知らせる写真も紹介され、あまり語られない伊藤ふじ子さんに思いが及びました。

eye 築地小劇場跡  築地2-11-13

多喜二も何回かプロレタリア作家同盟大会などで築地小劇場にきていました。

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eye 前田医院  築地1-3-6

多喜二が築地署の拷問で瀕死の状況にされ運び込まれたのが、前田医院でした。
母親のセキさんは前田医院にかけつけ、看護婦から聞いた話で15分は生きていたということがわかっています。
小林多喜二の死亡は午後7時45分頃でした。
29歳3ヵ月余の生涯を閉じました。

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Photo
(前田医院に入る母親のセキ)

eye 築地警察署   築地1-6-1

 歩いてみて、築地署と前田医院はすぐ近くで、築地小劇場も目と鼻のさきだったことを実感しました。

 『築地警察署史』(100年記念史・1973年発行)では、昭和初期の高揚する人民のたたかい、共産主義運動弾圧の事例にについて列挙いるが、小林多喜二虐殺については一言も触れられていない。
 この国家権力の暴虐行為は時代は去っても決して忘れ去られるものではありません。


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