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2015年12月29日 (火)

脈々と続くたたかい 米軍基地はいらない 12月29日

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 一気に読み切り、沖縄のながい闘いの歴史を一人でも多くの方に読んでいただきたいと感じました。私も知らないでいたことをたくさん学び、現在の「辺野古新基地は造らせない」闘いに受け継がれていることを強く感じました。

 嬉野京子さんの人柄がにじみ出るような、沖縄の人々と深く寄り添った、いっしょに行動している姿が全編にあふれていて私は感銘を受けました。

 私が特に感銘を受けたヵ所を引用し紹介させていただきます。

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◆1965年初めて沖縄へ

 祖国復帰行進に参加-少女轢殺写真を撮ることに

  沖縄への渡航が制限されていた当時、観光ポスターの需要がどれくらいあったか知るはずもなかったし、望遠レンズ五、六本とボディ三台が入ったカメラバッグだから、わかる人間から見たら私の目的が花や魚の撮影ではないとわかっただろう。税関の係官は、「いや―こんなカメラでは……」「どうしてですか、きれいなポスター作っちゃダメなの?」と押し問答である。
係官は、良心的な人だったのかもしれない。やがて、「事情はわかる。だけど、これ持ってたら、あなた命ないですよ」と言われた。だが私も必死で押し問答を続け、やがて相手が根負けした。「わかった。今回に限って通してあげるけどね、あなた気をつけなさい。こんなカメラ持ってるだけで米軍に逮捕され命の保証ないですから。このカバンを開ける時は、周りをよく見て、アメリカ関係者が、米兵がいないかどうか、よく見てから開けるんだよ」。
 それで何とか通されたが、税関から出た那覇の町は米兵だらけ、米軍車両だらけで、まるで那覇市民よりアメリカ兵の方が多いようにさえ見えた。税関のおじさんの言葉を思い出しながら、私は強い恐怖心をおぼえた。一九六五年の四月といえば、米軍がベトナムでトンキン湾事件(一九六四年八月)を起こし北ベトナムへの空爆(いわゆる「北爆」、一九六五年二月~)を開始した直後で、沖縄はその前線基地として騒然とし始めた時期だった。

  私は祖国復帰行進に参加、摩文仁の丘を出てずっと歩いて那覇に着き、次は中部。中部は米軍基地だらけのエリアで、基地と基地の間に小さな集落がある。那覇を出発する時、行進団から「嬉野さん、申し訳ないけどカメラを預からせてください」と言われた。米軍に見つかれば行進そのものが弾圧されるからである。

 ここは戦場につながっている

 その年の行進は沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が主催した初の統一した行進だった。復帰協は、祖国復帰を掲げる非常に広範な団体が、それぞれの主張の違いを脇に置き、「祖国復帰」という一点で共同した団体である。沖縄人民党、社会党、社会大衆党などに加え、保守系の会派も参加していた。労働組合も入っていたし、県内各地域の青年団や婦人連合会、そのほか宗教者の組織なども含め幅広い団体が参加していた。

 それらの政党や団体は、それぞれに祖国復帰を掲げていたが、団体ごと、それぞれの主張や事情があって、それまで必ずしも行動を共にしていたわけではなかった。一九六〇年に復帰協ができて以降は、統一した行動の担い手となり、後に一九六八年、それまでの任命制から公選制になった初代行政府主席・屋良朝苗さんを誕生させた。
 ただ前年の六四年、沖縄で初めて祖国復帰行進が行われたのだが、それは復帰協としてのコンセンサスはとれず、沖縄人民党だけがとりくんだ。その結果として、行進は米軍の弾圧を受けズタズタにされた。それを見ていた県民の間から、「祖国復帰の思いは共通。行進に取り組むなら、やはり統一してやるべきだ」という声が強まり、私か参加した六五年にそれが実現したのである。
 その行進は、本土のデモなどと同様に米国民政府の警察に許可を申請し、一応、許可もとっていた。不許可にできないような世論が盛り上がっていたのである。
 米軍基地が並ぶエリアを、カメラを持って歩けば、その統一した運動への弾圧の口実を与えることになる。私は那覇港の税関の時とは違って、素直にカメラバッグを行進団に預けた。


4月20日、少女轢殺(れきさつ)
      事件に遭遇


 今の名護市の南側にある宜野座村の小学校で行進団が休憩していた時だった。

 「嬉野さん、事故だよ!」

「アカハタ」(現在の「しんぶん赤旗」の前身)記事1965429日付け 
1965429

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 通常そういう事故では警察がすぐ規制線を引き近づけないが、なぜかその時は警察も来ていなかった。「あそこにいる米兵と比べたらこっちの行進団の方が大数多いじゃないですか」。だから撮影させてくれと私は言った。「こういうことが本土には伝わってないから、本土の大たちに沖縄の話をしても、『いやあ、そりゃ話だけでしょ』 つてことになってしまうの」。行進団の人に、私の「命がなくなってしまう」と言われたので、「命と引き換えでもいいです、シャッター切らせてください」と言った。「行進団が弾圧を受ける」とも言われ、それは私も反論できないけれど、でも撮影しなくてはダメなんだと押し問答になった。
 埓(らち)が明かないので、行進団の責任者たちがみんなで話をして、全司法の腕章を巻いた人が、「わかりました。あの米兵たちに気づかれないようにシャッター切ってください。一枚だけです。撮影したフイルムは僕に渡すこと。いいですね、約束です。さあ、僕の肩越しに撮ってください」と言われた。私か撮った写真の右端に写りこんでいる白いものはその人の肩だ。写真家にとって撮影済みのフイルムは命より大事なもので、他人に渡したりしないものである。でも、有無を言わせぬ彼の(というより行進団の)指示に従い、撮影したフイルムは彼に預けることにした。
 写真の中央には変わり果てたNちゃんの遺体があり、右に米兵がいる。左側には行進団の人がいる。)よく見ると、その人が何か米兵に話しかけている様子で、米兵の注意はその人に向けられている。行進団の人たちは、私が撮影しているのを米兵に気づかれないように、そういうシフトをつくってくれたのだ。沖縄の実情を告発する写真として、本土へ、全世界へ発信されたこの写真は、沖縄の人たちが撮ったものであり、私はシャッターを押しただけなのである。


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◆1967年 11月二度目の沖縄

 伊江島で米軍に拘束された時のこと


 何かの時にととっておいた100ドル紙幣を渡し、足らなかったらあとで送金するので、申し訳ないけれど漁船をチャーターしてくださいと頼んだ。
 阿波根さんの指示を受けた若者が、漁船をチャーターしてきてくれたが、帰ってきた時に彼はガタガタ震えて、「阿波根さん、もう港に米軍の警備艇が入ってます。嬉野さんを港から出すわけにいきません」と言う。だから漁船が漁に出る感じで港を出て、どこどこの入り江につけて、そこで私を乗せたらいいということまで段取りしてくれていた。
 ほどなく、阿波根さんの家の玄関前に軽トラが横付けされ、荷台の上に無造作に載っていた幌の中に隠れるよう言われた。案内してくれる青年と一緒にそれに乗って、とある入り江に行き、ジーパンをたくしあげて海に浸かりながら漁船に乗り込んだ。船内では魚を入れる船倉に隠れた。
 漁船が本島に着き、青年が知ってる人のうちへ案内してくれることになっていたが、本島の港(本部港)にも、アメリカの警備艇が入っていた。上陸できるところがほかにないので困っていたが、運良く定期船が入ってきて、警備艇の手前に入るとすぐその陰で接岸することができた。定期船によって警備艇から隠れる形で本島に上陸し青年の後をついて、周りから見つからないように姿勢をかがめて小走りで移動した。タクシーをチャーターしてもらって、青年の知人の方の家に逃げ込むことができた。
 電話もすべて盗聴されているから、伊江島にいることになっている私はそのお宅から外部に連絡することはできなかったが、そのお宅の方の協力を得て那覇に移動することができた。那覇でもある方のお宅にお世話になったが、そこに届いた夕刊を見て震えが止まらなかった。米軍発表の記事で、「伊江島で米軍と農民との間にささいないさかいがあった。工事現場で彼らは目的不明の写真撮影者を伴っていた。そのうち一人は警備隊員一人に対する暴行のかどで起訴する(中略)なお警備隊員が六人に銃口をつきつけ連行した事実はない」という新聞報道である。
 翌日、伊江島から連絡があって、米軍が私を山狩りして探しているという情報が入ってきた。
伊江島では、兵たちに私の行方を問われた村の人が、「さっきまで、しつこく私の写真撮っていたけど、どこ行ったかね」などととぼけてくれたりしたようだ。
 向こうが伊江島を探している問に逃げようと判断し、協力してくれる弁護士の方に、急邁、密かに会った。か逮捕されてもすぐ弁護を引き受けてもらえるよう頼み、書類を交わした。飛行機に乗るため席を取らなくてはいけなかったが、私か頼めば足がつく。その弁護士の人に、「ぼくが東京にどうしても急いで行かなくちゃいけなくて、席を取りたいんだけど」と言ってもらって席を予約し、情を知る人民党の人が、主だった復帰協の構成団体や労働組合の委員長、書記長クラスを十数人同行させてくれて空港に向かった。その同行してくれた人々は、いわば当時の沖縄では誰もが知っている人々である。那覇空港の出入国管理の窓口係官は沖縄の人から私に同行している人たちを見て、「この人は逃がさなくちゃいけない人なんだな」と理解でき、もし後日その係官が責任を追及されたとしたら、彼をそこにいる人たちが守ってくれると理解できる、そんな面々だったのだ。はたして、出入国管理係の人は、窓口に来た私と十数人の人々を見て、私を通してくれた。それ一つとってもすごいことである。当時の沖縄の人々の状況を表している。
 いろいろな意味で、沖縄の人々とそのたたかいのおかげにより、私は飛行機に乗ることができた。離陸し、沖縄が見えなくなるまで、怖いのと恥ずかしいのとで私は泣いていた。米軍が制空権を持っている沖縄上空を脱するまでは、米軍の指令一つで戻らなくてはならない。北緯二七度線を越えるまでは恐ろしかった。そして、自分はこうして逃げ帰ればいいわけだが、沖縄でたたかっている人たちには文字通り逃げ場はない  それを頭ではわかっているつもりだったが、皮膚感覚では意識できていなかった自分か恥ずかしかったのだ。

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