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2015年6月22日 (月)

沖縄戦 20万人の戦没者が突きつけるもの  6月22日

NHK スペシャル 「沖縄戦 全記録」が2015年6月14日放送されました。

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明日、6月23日 戦後70年沖縄全戦没者追悼式が行われます。
「平和の礎」に今年新たに87人の戦没者が刻銘され、合わせて241,336人になりました。

 放送の冒頭で紹介されたいくつかの映像にドッキとさせられ、昨年の8月13日に放送された「狂気の戦場ペリリュー~忘れられた島の記録~」が重なって思い出されました。
 戦争の狂気性が映像から胸に突き刺さってきました。あらためて、「戦争は絶対ダメ」「戦争は人間を狂気にさせる殺し合い」とう思いを強くしました。

 沖縄について少しは勉強しているのですが、「沖縄戦 全記録」を見て、ペリリューと変わらない狂気が行われていたことに、ショックを受け、戦争を引き起こした政府指導部に強い憤りを持ちました。

 今、国会で論議されている「安全保障法案」は政府がいろいろ言い作ろうとも「戦争法案」でしかありません。憲法9条を解釈で破壊しつくそうとしています。「戦争」に対する認識があまりにもいいかげんで、過去の教訓から学ぼうとしていません。直ちに廃案にすべきです。

 沖縄県民に押し付けている苦渋を解決しなければなりません。
辺野古への新基地建設は到底許されることではありません。
「平和の礎」には名前がわからずに、●●さんの何男、何女とか刻銘されている人が327人にもなるというのです。これが、国の誤りによって行われた戦争の結果です。

思いを伝えたくて、「沖縄戦 全記録」をここに書き起こすことにしました。

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(沖縄のガマで=伊江島)

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【語り 田中泯】

亜熱帯の森に分け入るとそこは戦場だった。
沖縄に点在するガマと呼ばれる洞窟
「骨が今そこ」
人間の骨が次々に見つかった。
70年前の沖縄戦の犠牲者だ
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(遺骨収集の女性の涙声)
「70年も暗い壕の中に耐えて」
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)沖縄で日本軍とアメリカ軍が激しい戦いをくり広げた。死者は軍民合わせて20万人。沖縄県民だけで少なくとも12万人にのぼる。
 住民の犠牲は地上戦としては国内最大のものとなった。しかし、一家全滅も相次ぎ被害が甚大だったため、その正確な全体像はわかっていない。

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 今回、被害の全貌を知るための重要な手掛かりを入手した。
(こちらです 整理表)沖縄県が非公開としている戦没者の調査記録。
亡くなった日付や場所が特定されている住民82,074人の記録を解析した。
すると、住民の死がどのように積みあがったのかその詳細な推移が浮かび上がった。わずか1日で全犠牲者の半数が命を落とした小さな島。日米の戦闘が事実上決着した後、46、000人もの住民が亡くなっていたこともわかった。
 なぜ住民の犠牲は拡大したのか。

深刻な兵力不足に落ちいっていた日本が戦場に駆り出されたのは住民だった。

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(元日本兵の証言)
● 一番危ない仕事をしていた。
なんぼそれが理不尽であろうが何であろうが。

 アメリカ軍の攻撃も住民を巻き込み、しだいに無差別化していった。

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(元アメリカ海兵隊員の証言)
●現場はパニックになり、私も機関銃を手にして撃ちまくりました。翌朝見に行くとすべてが住民の死体だったのです。(涙声)

 住民の肉声を記録した千本にのぼる証言テープ。死の実態が生々しく語られていた。

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●みんな戦死。最後の斬り込みで、みんな子どもをおんぶして、弾あたって背中で亡くなっ
て。
●赤ちゃんが泣くもんだから、「子どもを泣かすな」と。もう殺すしかないですから、泣かすなってのは。口の中におしめを押し込んだ。それで窒息させた。

ようやく全貌が浮かび上がってきた沖縄戦
70年目の記録である

 沖 縄 戦  全 記 録

サンゴ礁に囲まれた美しい島、沖縄

今から70年前、この海を1000を越えるアメリカの艦船が埋め尽くした。
アメリカ軍が撮影した膨大なフィルムが残されていた。その全ての映像を専門家と検証し、日付や場所を特定した。
 アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦を開始した1945年4月1日。撮影は夜明け前からはじまっていた。
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 太平洋戦争中、最大の上陸作戦。開発されたばかりの最新の兵器も投入された。総勢54万という圧倒的な兵力で迫る様子が映し出されていた。
 太平洋戦争の当初、広大な地域に進出した日本軍。しかし、アメリカを中心とする連合国軍はアジア太平洋の島を次々に制圧。日本の絶対国防圏を突破し日本本土に迫った。

 日本軍は沖縄に10万の兵を集め、本土への進行を食い止めようとした。
天皇直属の最高統帥機関大本営。その作戦計画には、「皇土防衛のための前縁は沖縄本島。極力敵の出血消耗をはかる」とある。つまり、沖縄を本土防衛の最前線と位置付け現地の32軍に1日でも時間を稼ぐ持久戦を求めたのだ。
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 4月1日、10万発をこす艦砲射撃の援護の下、午前8時半アメリカ軍は沖縄本島に上陸。のちにあらゆる耳目を集めたと形容された壮絶な戦いの始まりだった。進行するアメリカ軍の先にいたのは日本軍だけではなかった。そこには50万もの住民が残っていた。
 上陸作戦を指揮したアメリカ軍のサイモン・バックナー司令官。その側近として沖縄戦を記録した人物がいる。ジェームズ・バーンズ曹長。今回の取材でアメリカ軍の機密扱いとなっていた陣中日誌が見つかった(オキナワダイアリー)。
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● 住民の死体の山が放置されている
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戦闘の詳細を書き記す中に、繰り返し登場するのは「住民」という言葉だ。
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● 殺害した4、700人のうち、2,000人が沖縄の住民だった。

おびただしい数の住民の死。

【語り 守本奈実】
沖縄戦は国内の地上戦で住民の犠牲が最大となりました。しかし、被害があまりにも大きかったため、正確な全体像はわかっていません。
【糸満市役所】
 今回、NHKはそれを知るための重要な手掛かりを入手しました。沖縄県が戦後唯一全世帯を対象に行った戦没者の調査の記録。個人情報が多く非公開となっています。入手したのは、いつ、どこで亡くなったのか、個人名を除いたデーターです。その膨大なデーターをコンピューターで解析しました。死亡日や場所が特定されていない住民、そして徴兵された軍人を除く82,074人分を抽出。

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住民の死がどのように積みあがっていったのか1日ごとの死者数の推移が初めて浮かび上がりました。
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 4月1日、本島に上陸したアメリカ軍は2つの飛行場を制圧。日本軍の司令部がある首里をめがけて南下します。上陸地点で死亡した住民は292人。疎開計画は思うように進んでおらず、戦場に住民の多くが残っていました。日本軍はこの周辺にはほとんど兵力を展開していませんでした。
 沖縄の32軍は大本営から持久戦を求められたため、限られた兵力を司令部中心に固めるしかなかったのです。
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 4月20日、北部の小さな島で死者数が突出していました。わずか1日で島の全犠牲者の半数を占める781人が亡くなっていました。そこには戦闘に巻き込まれただけではない死の理由がありました。

【語り 田中泯】

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 大勢の観光客が訪れる伊江島

この島に70年前、アメリカ軍が陸、海、空の全方位から攻撃を浴びせた。
4月16日の映像には上陸の様子が記録されていた。アメリカ軍のねらいは、伊江島にある巨大な飛行場。日本本土への攻撃拠点の1つにしようとしていた。32軍は飛行場を自ら破壊。
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伊江島を守る十分な兵力はなかった。島の命運は残留部隊と残った住民3,000人にゆだねられていた。32軍のナンバー2、長勇参謀長は戦争の直前、県民にこう呼びかけていた。「全県民が兵隊になることだ。即ち1人10殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」

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 今回の取材で専門家が保管していた千本の貴重なテープの存在がわかった。40年前沖縄の本土復帰直後に初めて戦争体験を語り始めた人たちの証言が納められている。鮮明な記憶を生々しく語っていた。

● 女性当時17歳 私は指揮班の人なんかと“切り込み”に出たかったわけ。20日の夜みんな飲んでね、恩腸の(天皇から賜った)酒と言って、1人でもアメリカを殺しながら死のうとねと。
もう最後はみんな子どもをおんぶして弾あたって子どもに。おっぱいあげようとして下ろしたら背中で亡くなって、みんな戦死。最後の斬り込みで。靖国神社にみんな兵隊と一緒に祀られるからと言って、もう全部死なないといかんと思うから何でもないですよ。あの時はうれしいんじゃなかったかね。
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切り込みとは、手製の爆弾などを抱えて敵に突っ込む捨て身の攻撃だ。
日本軍の残留部隊が最後の攻撃をかけた4月20日、島の女性たちも切り込みを行っていた。同じような証言は他にも見つかった。
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● 女性当時16歳 天皇のために死になさい、国のために命を捧げるのは当然だと、捕虜になることは一番恥ずべき行為だと、小さい時から言い聞かされ、そういう教えしか分からなかった。
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(天皇陛下万歳、万歳の映像)

 戦争末期、1億玉砕をかかげた日本。
天皇を中心とする国家を守るため軍人だけでなく一般の国民も命を顧みないという考えが広まっていた。

 伊江島では、いわゆる集団自決も起きていた。

当時9歳だった大城安信さん(79歳)
アメリカ軍の攻撃で家を失い、このガマに両親とともに逃れた。

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● この石に私の親父が、この辺にいたと思います。
もうみんな死を覚悟しているから、何も思い残すことなく死んだと思います。
 ただ生き残って良かったと今思っているわけです。

投降を呼びかけるアメリカ兵がガマの入口にやってきた。大城さんは、その時の様子を絵に残していた。母親にだかれていた大城さん。周りには、親戚や近所の人たち26人がいた。軍に召集されていた親戚の1人が「今から死ぬ」と叫び、持っていた爆弾を爆発させた。
 気がついたとき、大城さんが目にしたのは、よく見知った人たちの変わり果てた姿だった。
生き残ったのは4人だけだった。

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 伊江島では、残っていた住民3,000人のうち、1,500人が命を落とした。逃げる場所もない
小さな島。1億玉砕が刷り込まれた住民たちにとって、生き延びるという選択肢はなかった。

【語り 守本奈実】

 4月終わりから5月にかけて本島では、沖縄戦最大の攻防が繰り広げられていました。日本軍の司令部があった首里をめぐる戦いです。5月10日、映像にはこの時期からアメリカ軍が投入した新型兵器が映し出されていました。100メートル先まで焼きつくすことができる火炎放射機を搭載した装甲車です。
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アメリカ軍は激しい抵抗にあいながらも、しだいに日本の防衛線を突破して行きます。
アメリカ軍は戦場に残った住民の被害を極力抑える方針でした。司令官の側近バーンズ曹長の陣中日誌には、住民30万人も収容できる施設を造り、食糧を準備していたことが記されています。

「住民たちにもっと食糧を」「我々の敵は沖縄の住民ではない。日本軍だ」
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しかし、住民の死のデーターを見ると4月下旬までで13,800人。首里をめぐる攻防の1ヶ月間ではさらに増え、21,600人が犠牲となっていました。その多くが沖縄戦の直前軍に動員されていました。
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「防衛召集」という制度で集められた沖縄の人たちです。「防衛召集」とは戦時に現地の人たちを軍に組み込み兵力を補う制度です。最終的には14歳以上の男子中学生も対象とされました。沖縄では22,000人以上が防衛召集されました。
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これは本島に展開した兵力の2割に当たります。
根こそぎ動員とも呼ばれるこの方針。背景にあったのは、大本営のある決定です。沖縄戦の半年前、大本営は第32軍から本島の3つの師団のうち1つを除き台湾の防衛にまわすことを命じます。深刻な兵力不足に陥った32軍。防衛召集によって兵力を補っていったのです。軍・官・民共生共死の一体化。沖縄全体で軍民一体化が推し進められました。
首里の防衛線があった場所に今も残る日本軍の地下壕(浦添市)アメリカ軍の圧倒的火力を避けるため地下に隠れ敵を待ち受ける作戦をとりました。こうした地下壕で軍民が混在する状況が生れ、住民の犠牲がさらにふくらんでいったのです。

【語り 田中泯】

 防衛召集の実態をまじかで見ていた元日本兵がいる。
首里の防衛線で戦った濱本俊則元上等兵(92歳)部隊は9割以上が戦死した。
 防衛召集者たちは装備も不十分なまま戦場に送りだされていたという。

● 軍事訓練なんて知りませんよ(防衛召集者の)間に合うわけない、そんな暇ない。その日から実践ですから、そういう意味ではかわいそうだったよね。一番危ない仕事をしている。弾がいつくるかわからない、そこへ出ていけば危ないんですから。出されれば危険にさらされるわけですよね。
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 住民の肉声を記録した千本のテープ。
最前線に送られたという防衛召集者の証言があった。

● 男性 当時29歳 もう日が暮れてから、“切り込み”出されて、だいたい沖縄の人。鉄砲もない、竹やりと手りゅう弾くらい。爆破するときはだいていって、戦車の下に入ってから爆発させる。もう死にに行くわけさ。
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 今回、防衛召集の実体を記した資料も新たに入手した。
戦闘が激しくなる中、住民が次々防衛召集され、切り込みを命じられた例がいくつも確認された。一度に40人近くが切り込みを命じられていたことも記されていた。
 防衛召集以外にも戦場に駆り出された住民たちがいた。
老人や子ども女性の一部は県内外に疎開させるはずだった。しかし、実際は戦場に残り軍に組み込まれた人もいた。

● 女性 弾薬は何回も運んでますからね。夜は地雷埋めなんかしてましたから

● 近所の女性たちと共に首里攻防戦の最前線を転々とした。軍と共に地下壕に身を潜め危険にさらされながら作業を手伝わされていた渡慶次ミツ子(当時18歳)
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 おにぎり握ったり壕の入口で(炊事を)やった。すぐ直撃(砲弾が)後ろにポコッとみんなにあたった。女の人が2、3名首がなくなったり、体が切れたり

 住民の犠牲を避けるという考えは当時なかったのか。
今回、首里の最前線で戦った元日本軍の将校が取材に応じた。
第32連隊の大隊長だった伊東孝一元大尉(当時24歳)部隊は兵士どころか弾薬も食料も全てが不足していたという。
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● 戦をするだけの能力を持っていなかったんですよ。なんとかうまく住民をもっと避難させる努力をしなければなんなかったんじゃいか。戦うだけに頭がいっぱいで、軍としては住民のことまで考えるゆとりがなかったかもしれませんね。20150619195058187_3

 軍民一体のかけ声の下、兵力不足を補った日本軍。本土防衛のための戦いは兵士だけでなく住民の命と引き換えに続けられていた。

【語り 守本奈実】

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5月14日、アメリカ軍が日本軍司令部の目前に迫りました。シュガーローフと呼ばれる丘をめぐっては11回も攻守が入れ替わる激しい戦いが繰り広げられました。アメリカ軍の報告書によれば、海兵隊の死亡者は4,000人にのぼりました。この頃の映像には精神に異常を来す兵士の姿が映し出されていました。

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● ハーンズ陣中日誌より
  この36時間で戦闘神経症の兵士が231人も出た20150619195058201_2

 首里攻防戦の1ヶ月で命を落とした住民21,600人。その死には無差別化して行くアメリカ軍の攻撃も影響していました。

【語り 田中 泯】

シュガーローフの周辺で撮影された映像を専門家と検証すると衝撃的な場面が見つかった。
 アメリカ兵が銃撃を浴びせるその先に住民らしき人影が写っている。狙われやすい場所を移動するのは兵士ではありえないと専門家は言う。

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(山内榮さん)
あそこに取り残された住民たち結構多くて、住民の可能性もある。この距離だったら、民間人か肉眼で見てたらわかるはずですよ。

人影は狙い撃ちにされ、次々に倒れていった。住民だつたとすれば、なぜ撃ったのか。
 シュガーローフの戦いを生き延びた元海兵隊員が見つかった。
(アメリカ ボストン)
 所属した第6海兵師団の旗が今も掲げられていた。ジョー・ドラゴ元伍長(89歳)が沖縄に送り込まれたのは、19歳の時だった。
 当時日本兵と沖縄の住民を見分けることは難しく、常に疑心暗鬼の状態だったという。

● 自分が先にやらなければ、こちらが殺されます。だから先に撃つしかないのです。

ドラゴ元伍長の部隊はある晩、住民らしき集団が移動しているのを見かけた。
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● その中の1人が突然走りだし、それを見た仲間が銃を発射しました。現場はパニックになり、私も機関銃を撃ちまくりました。泣き叫ぶ声が響き渡り大混乱に陥りました。翌朝、見に行くと全て住民の死体でした。

 アメリカ軍の疑心暗鬼をさらに深める事態も起きていた。
(インテリジェンス公報=アメリカ陸軍情報部作成)
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沖縄戦の最中、アメリカ軍が日本軍の戦術を分析した報告。日本兵が着物をまとい住民に偽装している写真が掲載されている。日本軍の内部文書を(英訳日本軍第44旅団の戦闘実施要項)英訳した資料。「住民の服を着用するように」という命令が下されていた。日本軍の一部は住民を隠れ蓑にしていた。第32連隊の大隊長だった伊東孝一元大尉。自分自身は命令を下していないが、部下の中に住民に偽装する者がいたと証言した。

● 沖縄人の服を着て行った。だけど、その時私はとがめなかったですよ。せっかくここまでしてやろうと思った気持ちをそぐわけにもいかないから、どっちにしたって死ぬんだから思うようにやらしてやろうと、こういうような気持ちね」

 アメリカ軍の無差別攻撃は更に常軌を逸したものになっていく。地下壕を見つけ出しては逃げ道を断ち、火炎放射機で中を焼き尽くす攻撃を繰り返した。しかし、その中には住民たちも居た。
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● 150㍍前に来たらその戦車砲で(洞窟の)入り口をぶち壊すの。火炎放射機というのもまかれたんですよ、壕の中で。おじさんがもう生きておって焼けるの、パチパチして。もう何十名こんなにして、みんな戦死なさって。

この証言をテープに残した伊智万里子さん(91歳)
狂気をおびたアメリカ兵の姿が今も頭から離れないという。

● 攻撃しながら片手はビール持ってるのよ。飲みながら、だから酔って寝る人もいるわけさ。それがアメリカなの。だから、“機械”が戦争しているんだって、自分が激戦に行ってみて、初めて、ああ、戦争というのは同じ人でも殺し合いだね。そう思った。

 5月31日、首里の日本軍司令部が陥落

日米の激しい戦いは事実上の決着が付いた。バーンズ曹長は兵士や多数の住民の死を目の当たりにした。

バーンズ陣中日誌
● 丘の斜面にはアメリカ人だけでなく日本人の死体が投げ出されている。死体はバラバラで黒く焼け焦げている。それは沖縄で見た光景の中で最も凄惨なものだった。
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【語り 守本奈実】

82,074人の住民の死のデーター
首里が陥落した後6月以降を見てみると46,000人以上が犠牲となっていました。事実上の決着がついていたにもかかわらず、全体の6割近くが命を落としていたのです。特に、日本軍の組織的戦闘が終わる6月23日までの1週間、わずか1日で5,502人が亡くなった日もありました。
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 なぜ戦闘は継続したのか。
32軍では首里で最後の決戦に臨むか、それとも南部に撤退し持久戦を継続するか意見が分かれていました。司令官の牛島満中将は少しでも時間を稼ぐため南部で戦う決断をします。
 沖縄最南端に司令部を移した32軍。防衛召集などで動員された人たちや、行き場を失った住民たちも南部に殺到。ひしめき合う状態が生れていました。南部に逃れた大勢の住民をどうするか。アメリカ軍の作戦会議で意見が交わされていたことがバーンズ曹長の陣中日誌からわかりました。

● 南部には13万人とも見られる住民がいるようだ。一時休戦を申し入れ住民を保護すべきではないか。

 しかし、この計画は実現することはありませんでした。
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6月、アメリカ軍は南部で掃討戦を開始。沖縄戦は最終局面に入りました。海からも南部を包囲し艦砲射撃を浴びせるアメリカ軍。犠牲が急激に拡大していきます。

【語り 田中泯】

 梅雨の降りしきる雨の中、逃げ惑う住民たち。その頭上にアメリカ軍のたえまない砲弾が降り注いだ。
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 身を守るのには地下壕やガマと呼ばれる洞窟に逃げ込むしかなかった。
地下壕とガマは現在、南部の糸満市で確認されているだけでも240か所。そのうち92か所は軍が作戦に使っていたため、住民は残りの地下壕やガマに避難場所を求めた。アメリカ軍の南下にともなって身を隠す場所はさらに限られていく。
 住民を地下壕から追い出そうとする日本兵もいた。

● 男性 当時33歳 日本の兵隊が来まして「おばさん連中はみんな出ていけ」と。あんた方今来て出ろと言ってもね、外は弾が降ってるじゃないかと。出ろというのはその場ですぐ死ぬじゃないかと言ったら「何、貴様」と言う。「何、言っているんだ」とすぐに拳銃出して撃とうとしたんですよ
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 兵士も追い詰められていた。
首里攻防戦の最前線で戦った濱本元上等兵。負傷したため、戦場に置き去りにされたが自力で南部の地下壕にたどりついた。もはや軍隊の定をなしていなかったという。

● (壕の奥にいる)我々の中に(住民を)入れておくわけにはいかないんですよ。そうかといって私らが離れて入り口に住むわけにはいかない、お前さんらはアメリカ兵に見つかっても殺されないだろうと。だけど実際は兵隊は、自分の身を守るだけでやっとこ。そういうことからいくとね、分からないね。案外(住民を)利用したかもわからない

 ガマの中で人間性がしだいに失われていった。

● 子どもが泣いたらね「弾がこっちに来る。皆の迷惑だから出ていけ」って言うでしょ。人間ってそんなんかねと思ったね。だから、赤ちゃんいる人は泣いたら外に出ていく

 いくつもの悲劇が起きた
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● 6つくらいの男の子が「かあーちゃんよ~」と泣いたから、この子のためにと親も前にして(祖父母が)口を塞いで、圧迫して死んだと。もう怖くなって、みんな震えて

 最南端のガマには首里から逃れてきた人たちの姿があった。
3か月近く軍と共に最前線を転々としてきた渡慶次ミツ子さん(当時18歳)は衰弱しガマの中で寝込んでいた。
 渡慶次さんのために2歳上の姉が水を汲みに外に出た時、砲弾が炸裂した。

● もう半狂乱。顔もきれいに、手を触ったら穴が空いているんですよね。動かないし、まだあったかいけど、どうしていいかわからない、何を考えたか
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(渡慶次ミツ子さん)
今年、88歳になる。70年経った今も苦しんでいた。
● もう思い出したくもないですよ。いやですよ。あのことは。思い出すと夜も眠れませんね。

 もう少し早く戦争をやめる決断ができなかったのか
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● なぜ私たちは、しかも沖縄の人間はなぜこんなに・・・どうしようもないですけど。国のした業だから。でも悔しいですね。姉といっしょに亡くなっておれば、一生こんな苦しみをしなくてもよかったのに。しまいには、ただ、なぜとしか

 アメリカ軍はついに最南端に到達
日本軍の組織的戦闘が終わる3日前、住民の死のデーターは高い値を示していた。
沖縄最南端の喜屋武半島では逃げ場を失った住民たちが次々に断崖から身を投げた。

● あれは地獄でした。
 南部の掃討戦に従事したグレン・ニュート元伍長。その時の光景が今も脳裏に焼き付いて離れない。
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● 衝撃的でした。
一番つらかったのは、身を投げて死んだ子どもの無残な姿を見たことです。
私は神に祈りました。どうか戦争を終わらせて下さいと。
投降するチャンスはあったはずだったのに、なぜ。帰る場所も家族もなかったのでしょうか。

 6月23日、最後まで戦えという命令を残し、32軍司令官 牛島満中将が自決。日本軍の組織的戦闘は終わった。
 伊東孝一元大尉はその後も南部の地下壕に隠れゲリラ戦を続けた。アメリカ軍に投降したのは終戦後の8月末だった。

 何のために自分は戦ったのか

(伊東孝一元大尉)
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● 国民を守れなくちゃ軍隊の役目の一つを果たしていないことなんだ。だからたくさんの人を戦場に巻き込んで亡くなったってことは、軍隊の務めの一部を守れなかった。つらいですよ本当に。軍としては。沖縄戦はずっと進めていけば日本軍の愚かな戦争に到達する。それだけのことです。うん。

 陣中日誌を記したアメリカ軍のジェームス・バーンズ曹長
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沖縄戦は太平洋戦争中最大の戦死者を出した戦いとなった。
 バーンズ元曹長は去年95歳でこの世を去っていた。戦後、作家となりピューリッアー賞も受賞した。しかし、沖縄戦については生涯、書くことがなかった。

● (バーンズさんの元妻ジャネットさん)夫は毎晩悪夢にうなされていました。目を覚ましては、部屋をうろつき、泣き叫ぶ、その繰り返しでした。
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 陣中日誌の最後は、こうしめくられている
「戦場のすべてを見た。もう十分だ」20150619195058351_2

 あの戦争から70年。沖縄戦の戦没者20万人を刻む平和の礎。遺骨さえ見つかっていない人は、今も3,000人以上にのぼるとされる。

(平和の礎で肉親の名を捜す人)
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「これ」
父親を亡くした女性
いつどこで亡くなったのか。生きていた証しはこの名前だけだ(玉城蒲吉)
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「はい。いっぱいあがってね(お酒を)。きょう、娘が晩酌しますよ」

 今年も100体近い遺骨が見つかった。
本土防衛のため、国家が遂行した沖縄戦。ひとたび戦争が起きれば、一人の命がいかに軽いものか。
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 20万の死者たちが突きつけている。


コーディネーター 野口修司
編 集        高橋寛二
リサーチャー   柳原緑
ディレクター   小川海緒
             酒井有華子
             成清洸太
制作統括     中村直文
            吉田好克
            佐藤稔彦

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沖縄と基地」カテゴリの記事

コメント

今 戦争が始まり 今 居る場所が戦場になれば 私たちはこの 無防備のまま 対処しなければ ならないのでしょうか?

投稿: 前田 | 2015年10月31日 (土) 22時21分

今は亡きうちの婆ちゃんは沖縄戦終結直前に国吉の大虐殺で夫を殺されて、戦後は食糧不足による栄養失調で長男を亡くし、女一人で残りの子供を育てた。孫の自分は勿論、誰か人が来るといつも「かめー、かめー」とお腹がいっぱい誰にでも飯を御試走しようとしていた。米兵が憎くい言うわけではなく戦争は悲惨だなと思う。もっと戦争以外の方法で国同士の問題は解決できたらと思う。

投稿: | 2016年6月 6日 (月) 21時40分

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