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2015年4月28日 (火)

怒りでいっぱい-認められない「新ガイドライン」4月28日

 昨夜、日米防衛協力のためのガイドライン(新ガイドライン)が日本国憲法を蹂躙する形で日米両政府の間で合意されました。

 これほどひどいやり方はないと怒りでいっぱいです。
日米両政府に強く抗議します。
私は「戦争する国」にするために日本国内でこれから具体化をねらう様々な動きに厳しく反対の声をあげ行動していきたいと思っています。


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 4月24日、NHKの特法首都圏で内容のすばらしい放送に出会えました。
寺澤敏行キャスター、大前治弁護士とも若い人で、すごく前向きに戦時中の日本に向き合おうとしている姿に共感しました。

 写真画面をクリックすると大きくして見れます。

未来の子どもたちから、「あの時大人は戦争を止めなかったの」と言われないように、しっかりと社会を作っていきたいですね

気付いた時には遅いということがあるということを、歴史からわれわれは是非学ぶべき


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 番組内容を紹介します

右半身血だらけで、足まで生ぬるい血が流れてくるのがわかるんですね。
手を切らないでと言ったんだけど。目が覚めたら、ここが丸く包帯まかれて
どう生きていったらいいか分からなかった。

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 空襲に大切な物を奪われた豊原さん。国から一切の補償もないまま戦後を生きてきました。

「空襲でぼかぼか爆弾や焼夷弾落とされても、逃げちゃだめだって。逃げるのは非国民だ」

背景には空襲から逃げることを禁じるある国策がありました。

「爆弾に向かって市民をっ込ませていくような法律」

犠牲者が増え続けても、方針は改められず、拡大した空襲被害。その知られざる実態に迫ります。

 70年前、日本各地の空にはアメリカの爆撃機の黒い機影が繰り返し押し寄せてきました。そしてそこから投下された焼夷弾によって木造家屋にあふれていた当時の街は次々と炎に包まれ多くの市民が命を奪われました。

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 戦争末期の昭和20年3月の東京大空襲以来、空襲は全国各地に広がっていきます。終戦までに被害を受けた都市は200以上。犠牲になった人は30万人とも50万人とも言われています。戦後70年が経った今、空襲に遭った一人一人がどのような形で命を失ったのか、詳しく検証しようという動きが遺族や専門家の間で起きています。
 今回、取材から浮かび上がってきたのが空襲から逃げずに亡くなっていった市民の実体です。
  
 空襲を生き延びた夜の肉親の最後の姿を書き記した1万人分の記録です。

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その分析から多くの人が危険が迫まる中、避難せず街にとどまっていたことがわかってきました。
 「消化のため男は残れ」の声に逃げ遅れた。父は後から行くと別れ、それが最後でした」
 父親を東京大空襲で亡くした堀井利子さん(92歳)
空襲警報を聞いて一家で逃げる途中、父が火を消すため自宅の方向へ引き返したといいます。
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「周りが燃えているのに、そこに父はみんながやっている、初期防火やっている人がいるわけですから、戻って行っちゃったの。ジャンバー着て火の舞っている家の方に帰っていく後ろ姿、背中は覚えていますね」
 “空襲のときは自ら火を消さなくてはいけない”当時繰り返し周知されていたといいます。
「そればっかり言われていたんですから町会で。空襲でぼかぼか爆弾や焼夷弾落とされても逃げちゃだめだって」

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 国民の意識に強くあった当時の防火。その義務を定めていた法律がありました。「防空法」です。
 国が都市からの退去禁止を命じたり、消火活動を義務付けられたりすることが定められ、罰則も設けられていました。

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 防空法を研究する早稲田大学法学部の水島朝穂教授です。国は当時、消火活動がとどこうることに加え国民が戦争協力に消極的になることを恐れていたと指摘します。
「守るべきものは戦争遂行意志、つまり戦争を続ける意志が、逃げろと言えばみんな下がってしまう。爆弾に向かって市民を突っ込ませるような法律になっていた」
 当時の内務省が推薦していた防火の手引きです

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家庭にあるもので焼夷弾の火は簡単に消せることが強調され、空襲は怖くないという風潮が市民に広がっていきました。

 空襲時、逃げずに火を消す義務は子どもたちにも及んでいました。

当時16歳だった坂口恭子さん(86歳)です。山梨県の女学校に通う4年生でした。戦時中、軍事物資を作っていた坂口さんの学校。ある日、空襲警報が鳴り多くの生徒が消火に備え集められました。(8月13日でした)
「まだ学校へ来る時間ではなかったはずですよね。食事の途中で警報が鳴ったもんで私走ってきて、玄関でみんなで待機していて、そうしたら、放送で富士山で方向を変えて今、大月上空を飛行機がと聞いてたんですよ」

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 校門前にいた生徒たちに向け、飛来した米軍機が爆弾を落としました。坂口さんは校舎の裏に逃げ込助かりましたが、同じクラスの4名が亡くなりました。
 当時の日誌が資料室に残されていました。(教務日誌)
「8月13日。学校防空要員。何名亡くなったかということがどこかに入ってたと思ったね。16名と書いてある。16名ですね。」
「考えてみたら、呼んだって何の役にも立たないのにねえ。でもやっぱり、そういうことにしないといけなかったんでしょうね。だって命を守るなんてことより、国のため、何にしても一番が国のためだったんじゃないかと思うんですよね」

 東京大空襲で消火に戻った父を亡くした堀井利子さん
多くの人がいつのまにか、国策に従っていったことに、今、恐ろしさを感じています。
「なんであんなところに戻って行ったんでしょうね。それを、なんで止めなかったんでしょうね。一口に軍国主義と言いますけど恐ろしいですよ。恐ろしい。
周りじゅう全部そうなっちゃうんですから」

スタジオには空襲被害の実態や防空法に詳しい弁護士の大前治さんです。去年までの大阪空襲訴訟で被害者の救済にもたずさわっていらっしゃいました。

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 今考えますと、空襲に対して逃げずに消火せよというのは全く無謀だと思うんですけど、なぜ当時はそういった論調がまかり通ってしまったんだと思いますか。

 そうですね
そもそもアメリカの非人道的で国際法違反の大量虐殺。この空襲、そのものの問題性が問われなければならないんですけども、一方で日本政府の国策っていうのも大変問題ですよね。
思いますにね、当時はそもそも政府や軍部の方針に反対すると「非国民」とされる時代ですから、そう簡単に反対できない。ましてや、日清戦争以来、日本は一度も負けたことがありませんからね、戦争の怖さというのはイメージ出来なかったんでしょうね。「戦争は怖くない」「空襲は怖くない」という宣伝に疑問をさしはさむということはあまりなかっただろうと思います。
 それからマスメディアの問題もありますね。当時の空襲はですね、検閲の対象になっていました。内務省の特高課が確認したものでなければ報道できない。だから被害実態というものが報道されなかったんですね。そういった下で、結果として新聞やラジオなどの報道機関が当時の国策に加担してしまったということも言えるかと思います。

具体的にどんな情報を流していたんでしょうか

たとえば、戦争末期の情報になりますとね、空襲に立ち向かうだけの物資とか機材がない、だから、手袋をはめて焼夷弾を投げ出せばいいんだと、そんなことがラジオや新聞で報道されていたという例もありますね。

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今回、注目してます「防空法」ですけれども、いくら法律があってもですね、やはり身の危険を感じたら逃げればよかったんじゃないかという思いもあるんですが、この法律によってどれくらい影響があったとお考えですか。

実際には逃げた方もおられると思うんですが、決して多数ではなかった。逃げると「防空法」違反で懲役刑を含む処罰がありますし、実際に「非国民」だと言われてしまう。隣組の慣習もありましてね、火を消さずに逃げた者に対しては「非国民」だと配給物資も止めるぞと、そういったこともありますから、そう簡単には逃げることが出来なかったと。ですから、実際に「防空法」による被害というのは人数の特定まではできないんですけれど、きわめて大きいと思います。
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「防空法」がきっかけとなって、当時の時代の空気もあって逃げることもできなかったということと、逃げ遅れてしまった人も増えたんでしょうね。

そうですね。まずは空襲が始まったら建物の陰などに身を隠して、火災が始まったらすぐに出動して火を消せ、空襲に立ち向かえと言われてました。それで、もうだめだ、逃げようといった時にはじめて逃げるわけですが、逃げ遅れて命を失ったという方、そういう経験も多くの方から実際に調査して聞いております。

こうした空襲に対して逃げるなという当時の論調ですけれども、これに対して国はどんな受け止めをしてるんでしょうか。

《大前治弁護士》
そうですね。
私たちは空襲被害者に対しての補償を求めたんですけども、国側は実際に空襲被害者が国に対して補償を求める権利はないと。そして、実際にですね、空襲被害者に補償しようと思っても、だれにどのような補償をするべきかという線引きも難しいし、予算の確保も困難だとそういう指摘もあります。ただ、私たちとしましては、それは補償が難しいという理由とはなっても、いっさいの補償を全面的に否定する、そういう理由にはならないと思っております。国や社会の在り方として戦争被害者に対してどのような対応を進めるべきなのか、しっかりと議論が必要だと思います。

ここまでは空襲が来ても逃げずに消火をせよという実体をご覧いただきました。
実は、当時から、こうした義務に対して疑問の声も上がっていたことが、わかってきました。

「エレクトンにむしろをかける演習」(当時の映像)
退去の禁止や消火の義務が定められた昭和16年の映像です。
燃え盛る焼夷弾を、むしろやバケツリレーで消火する訓練が記録されています。
「いざという時には、どんなにお互いの協力が必要であるか『火事を消し止めさえすれば、空襲は決して恐ろしいものではありません』」

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 しかし、市民に消火の義務を課すことには当時から疑問の声も上がっていました。
 「防空法」の強化について話し合われた帝国議会の議事録です。
議員の一人が空襲に対する認識が甘いと指摘していました。
「焼夷弾下にある時に、あんな状態でどうして火が消しえるのであるか。もう少し御研究なさる必要があるのではないかと思います」(水野甚次郎議員の発言)

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 しかし、陸軍少将が「防空法」の意義を改めて強調し、法律案が可決します
「実害そのものはたいしたものではない。大敵観念を奮い起こして、戦争継続意志を高揚培養していくという方策に出ていただかなければならない」(佐藤賢了陸軍少将の発言)

「防空法」の改正から4年。日本は空襲の現実を突き付けられます。

東京大空襲です

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大量の焼夷弾によっておよそ10万人が死亡。27万個の家屋が焼き尽くされました。
 翌日、今後の対応を話し合う秘密会議が開かれました。
そこで議員の一人は方針を変えるべきだと訴えています。
「人貴きか、物貴きか。消防なんぞをやっておったら、みんな死んでしまいます。火は消さなくても宜しいから逃げろ、これを願いたい」

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 しかしここでも「防空法」への疑問は棚上げされ、市民を守る視点は置き去りにされていったのです。

 東京大空襲以降、全国への都市の空襲が本格化。被害は拡大の一途をたどって行きました。

 終戦まじかの7月、空襲で1000人を超える犠牲者を出した青森市です。

当時、小学校6年生だった富岡せつさん(81歳)。空襲で叔母が幼い2人の子どもと共に犠牲になりました。
(慰霊碑に刻まれた名前を指す)ここですね。3人が亡くなっていた。

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空襲の2か月前から富岡さんは、叔母とその子どもと共に津軽の祖父母の家に疎開していました。しかし、逃げだした市民に対し、市から1週間を期限に戻ってくるように指示が出されたのです。戻らなければ町会の名簿から抹消し、配給を停止するという厳しい内容でした。
指示の後青森に戻った富岡さんたち。その直後、B29が市内を襲いました。家の周りは火の海と化したといいます。炎の中を逃げまどい、かろうじて助かった富岡さん。叔母は幼子2人と共に防空壕で亡くなりました。

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「死ぬために青森に戻ってきた感じがします。東京空襲があって、そんなに亡くなったのであれば、やはり、青森に帰ってくる前ですので、何か声を大にして言えなかったのかしらねえ。上に立つ人たちがもう少しなんとかならなかったのかなあ、そこで終わってくれていたらね、死者がずっと少なくなったんですよねえ」

空襲による被害者がどんどん増えていっても、それでも空襲から逃げるなという方針は貫かれていった。これどうしてなんでしょうか。

《大前治弁護士》
そうですねえ。青森大空襲も7月28日、終戦2週間前の事ですので、政府としては「逃げるな、火を消せ」この方針を最後まで抱いていたことになります。
考えますとね、最後まで日本は昭和20年3月には大空襲を受け、全国が焼け野原になっても敗戦をなかなか認めなかったと、このことと関係があると思うんですね。国民は最後まで命を投げ出して持ち場を守れ、国を守れとされていた。つまり国家が国民の命を守るのでなくて、国民が国家を守る。それが義務とされていた。「最後まで戦え」こうした中で空襲の時に逃げてもいいよと認めることは戦いを放棄してしまう。負けを認めてしまうと、それと同じことになるんですよね。ですからそんな方針は最後までとることはできなかったんだと、そういうことだと思います。

もう少し戦争が終わってくれれば、命もたくさんあったんだと思うんですけど具体的に、そういう声って聞かれんでしょうか

《大前治弁護士》
ありますねえ。そもそも広島、長崎の原爆もそうですけれども、青森空襲もですね、もう少し逃げてもいいよ、あるいは戦争終わらせるよという判断が早まっていれば回避できた被害ということもありますよね。

 わたし、鹿児島県で空襲被害に遭われた、70代になられた女性の方からこういうことを聞いたことがあるんですよ。その方は子どもの頃に空襲を受けて片足を失ったんですけれど、親に聞いたんです。「お母さんどうしてその時大人たちは戦争止めることしなかったの」聞いたらお母さんは「もう気付いた時には戦争になっていたんや」答えられたというんですよ。そのことから考えますのはね、そもそも、防空法制もそうです。昭和12年に法律が制定された時というのは、まだ国民は戦争はこわいと、空襲が怖いと思っていない。それが、昭和16年に防空法が改正されて、「逃げるな火を消せ」とされた時には、もう空襲は怖いと思っても逃げることはできない、処罰されると、そういうふうに変わっていった。気づいた時には遅かったって言うんですよね。

そうした事実からですね、戦争知らない我々世代はどんなことを学びとるべきだと思いますか。

《大前治弁護士》

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まず、無関心であってはならない。このことだと思います。
今はですね、70年前の日本国民とは違って戦争は怖いんだと、実際に日本は戦争で負けた。そのことを歴史的な体験として知ってます。ですから空襲なんて怖くないよ、この戦争は正しいよ。そういったことがもし、大きく宣伝されていても本当なんだろうかと考えてみることができるんですよね。
今は日本国憲法の下で表現の自由、言論の自由もしっかりと保障されています。おかしいことはおかしい、疑問を持っているときは、それを大きく広げていくことができる。しっかりと無関心にならずに事実を見つめていく。政治や国のあり方をしっかりと批判的な気持ちも込めながら見ていくと、そのことが同じ過ちを繰り返さないために大切だと思います。

《寺澤敏行キャスター》
ツイッターの意見でも、「逃げずに」ということを全く知らなかったという声がたくさん来てるんですけども知るということは大事ですね。

《大前治弁護士》
そうですね。それによって今の私たちがどう生きていくのか、そのことが問われるし、真剣に考えていくきっかけになると思います。

《寺澤敏行キャスター》
その足を失った子どもが、素朴に言った言葉にちゃんと答えられるような、われわれ大人世代は気をつけていかないといけないと思うのですが。

《大前治弁護士》
そうですね。未来の子どもたちから、「あの時大人は戦争を止めなかったの」と言われないように、しっかりと社会を作っていきたいですね。

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《寺澤敏行キャスター》
気付いた時には遅いということがあるということを歴史からわれわれは是非学ぶべきだと思いました。

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