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2015年2月20日 (金)

小林多喜二は今も私たちの心に  2月20日

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= 小林多喜二「地区の人々」より =

 

 美都は、街では「それをやっている」女だったが、「裏」では近所の娘たちよりも穏しい内気な女だった。

 ある夜更、その日はお客はなく彼女は一人で帰ってきたが、入ってきた彼女の両頬は上気していた。彼女はショールを取ると、まだ寝ずに子供のボロを縫っていた「ハマの家の」お母アに。

 「街は千人針で大変な騒ぎよ!」と、云って知らせた。

 その日は街角には何人という女が「千人針」の布巾れと針と糸をもって立っていた。上品な奥様のような女や、そうかと思うと背中に子供をくくりつけた「裏」のお母アそっくりの女まで、側を通る一人一人の女を呼んで一針ずつ縫ってもらっている。女学生が縫って行く。お嬢さん風の女が心持ち顔を赤らめながら、それでも縫って行く。寒い日だった。美都は角巻で鼻の下を抑え、それらを見ながら、同じところを二度も三度も往復した。一度、奥様風の女が彼女を見付け、呼んだ。が、彼女は自分でもおかしい程赤くなり、周章てて逃げ出した。二度目に彼女は、ムキ出しのまま赤子を背中にくくりつけている貧相な女に、「ねえさん、お願いします!」と云われた。見ると、その女は出面取りの女らしく、稼ぎの帰りに其処へ立っているらしかった。腰に弁当箱の風呂敷包みゆわえつけていた。髪のボサボサした四十位のやつれた顔をしていた。その眼は半分泣いているような、しかし血走った真剣さをアリアリとみせていた。

 「おやじさんなの? 息子さん?」

 と、「美都」が訊いた。

 「おどオですよ!」

 と、今にも泣きそうになった。

 彼女は針と糸を受取りながら、だが、ためらった。

 「私でもいいの?…………」

 と、ちらッと相手を見た。

 おかみさんは、吃驚したように彼女を見たが、直ぐそれと分ったらしかった。

 「あ―ア、何云うだんべ! 心一つです。誰だって勿体なくいただきますだよ!」

 美都はそのことを「ハマの家の」お母アに話しながら、また赤くなった。彼女は、自分のような女でも国のためになれたことを考えながら、帰り道、何んべんも興奮してきたのだった。

「日露戦争のときも、街はそんだ。だけ、」と、お母アが云った―「んでも、あン時は千人針でも真綿でも、みんな死んだッけが……。」

 お母アはボロ切れから顔をあげた。

 次の夜、美都が同じ盛り場を歩いていると、又街角に昨日の出面取の女が、赤子をくくりつけて立っているのを見た。見ていると、他の同じ千人針の女の人だちとちかって、その女だけはまるで大道商人か何かのように、懸命に前を通る女の人を呼んでいた。時々、道の真ん中まで馳け出して行って、その人の前に立ちふさがって、「泣くように」ぺこぺこ頭をさげ、頼んでいた。が、その横にいる女の人などは、よそ行きの身綺麗な恰好をして立っていた。そして千人針のために其処に立っていることが、何か嬉しい、上品なことのような面持をしていた。それで出面取の女が、一層気でも狂いかけているように見えた。

 美都が街を往き来しているうちに、― その出面取りの女にまた彼女が見付けられたらしかった。女は寒さのために涙で汚れた顔を向けた。

 「あ―!」

 と云った。

 そして底の切れた「デンプン靴」をパクパクさせて、(女はそれを素足のまま履いていた)馳け寄ってきた。美都は戸迷って、立ち澱んだ。どうして、この女だけが気狂い染みているのだろうと思った。

 「お願いします!」

 然し、それより早く彼女の胸のところへ布切れと針をつき出していた。美都はびっくりして、「同じ人が何度もやったら、千人針にならないでしょう……」

 と、きいた。

 「そ、そんなこと―」と、相手は思わず吃った、「そんなこと云ってられないんです」そして、ぐすりと水ッぽい鼻汁をすすり上げた。「うちの人は、あ、あした行ぐんです!」

 「まア、明日!」

 彼女は側を通ってゆく人が、思わず振りかえるような声を出した。然し出面取りの女は何も耳に入らないように、幾針でもいいから縫ってくれるように頼んだ。美都は角巻の襟を顎に力を入れて抑えながら、縫い出した。

 「まだまだ三百針も残っているんで……」

 美都のせッせと動く手先を見つめながら、オロオロな声を出した。

 「これがハア、明日の朝まで問に合わなかったらハア、どうしたらええべ! 暮しの出来るところでは鉄砲が当って死んだって、片輪になったって、国のためだからあきらめもしようが、― わしらどこの家じゃ、弾丸一発でも当たってもらったら、一家じゅう野垂死だしっ」

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小林多喜二は「地区の人々」を一九九三年一月に書きあげました。

一九三三年二月二十日、小林多喜二と今村恒夫とともに特高警察に捕らえられ、小林多喜二は拷問によってその日の夜亡くなりました。忘れることのできない2月20日です。
「地区の人々」のこの部分を読んでいて、安倍自公政権の「世界で戦争をする国」への動きと重なって考えさせられてしまいます。

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(蟹工船を書いた1928年頃の小林多喜二)
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(兄弟と母を愛し続けた小林多喜二)

解 説 西沢舜一 「地区の人々」より

 

「地区の人々」は小林多喜二の絶筆である。掲載誌『改造』一九三三年三月号の発売が作者の死の二日前だったことはすでにのべた。

 

 舞台は小樽を思わせる北日本の港町Y市の労働者居住地区である。階級的労働組合運動の伝統に輝くこの地区も、長年の弾圧で火の消えたような状態だった。ところが、「満州事変」がはじまって、在郷軍人会なども動員してのファツショ的な抑圧がいよいよつのり、生活の破壊がはげしく進行すると、それに抗して「地区魂」がふたたび頭をもたげてくる。かつての「闘士」たちの勇気をふるっての働きかけにこたえて、鉄工所の労働者やバスの女車掌の中から新しい働き手が育ち、苦闘のすえに中央の組織との結びつきもやっと再確立できるというところまでこぎつける。

  「満州事変」下の農村を「沼尻村」で、軍需工場を「党生活者」で描いた小林多喜二が三たび筆をとって、こんどは労働者居住地区全体の戦時下の動向を概観し、革命的伝統の再生を描いたのがこの作品だった。

 ここでも小林多喜二の帝国主義戦争告発は、概念ではなく、生きた人物形象を登場させることによって、抑止のきいた、それだけきびしいものになっている。夫を戦場に奪われる妻たちのはかない千人針づくりをしっとりと描いているのもその一例だろう。出面取り(日傭)の女人夫のさし出す千人針の布を、おずおずと手にするのは、街角に立って男の袖をひく以外に生きるすべのない不幸な女だった。

 

「私でもいいの?」

  とためらう赤い角巻きの女にたいして、髪のボサボサした四十くらいのやつれた女
出面取りは叫ぶように言うのだった。

 「あ―ア、何云うだんべ! 心一つです。誰だって勿体なくいただきますだよ!」

  貧しくしいたげられた不幸な人びとへの共感から出発した小林多喜二の創作は、その初心を絶筆まで失うことがなかった。

 

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