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2014年9月29日 (月)

今、心からおわびします 山口淑子   9月24日

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 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 9月24日、なんとなくテレビをつけると、BSプレミアムで、山口淑子さんの追悼番組「世界・わが心の旅「李香蘭 遥かなる旅路~中国・ロシア」が放映されていました。9月7日に94歳で亡くなっていました。

 山口淑子=李香蘭(中国在住時代の芸名)
 自民党参院議員3期(1974年~1992年)

 そういう経歴の人ですから、「亡くなったのか」という程度で、ほとんど関心がありませんでした。でもテレビからは「戦争は絶対にいけない」という声が流れてきて「おや」っと注意して見始めました。
 なぜ、自民党の参院議員になったのかは知りませんが、山口さんが自からの良心に忠実に生きようとしていた人だということを知り、人は色眼でみてはいけないと学ばされました。
 山口淑子さんのような真摯な態度を、自民党の国会議員、政府幹部たちに学んでほしいと強く思いました。

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  《放送の内容から》

中国の人々への心からのおわび


 1943年、山口淑子さんは当時中国のハリウッドと呼ばれていた上海の映画界から主演女優として招かれます。
映画 万世劉邦 映画は中国全土で上映され、中国女優李香蘭の名声は不動のものとなりました。李香蘭を演じ続ける山口さんの苦悩は日に日に深まっていきました。

「私とても嬉しかったんですけれど、北京に帰りまして、ちょうど北京に両親とも奉天から引っ越してきてましたから北京の家に2~3日の予定で帰りました。父の友人で新聞社クラブの理事長さんがいらっしゃいましてね、中国の新聞記者クラブのですよ、リーさんという方でしたけれど。北京の記者クラブで記者たちが私にインタビューしたいと、上海、中国の文化の映画のメッカですよね。そこで撮影してきたから、いろいろな話を聞きたいからということでお受けしたんです。その時に、私リーさんに申しあげたのはリーさんは私の父を知ってらっしゃるから、私が山口文夫の娘で日本人だということを知ってるわけですよね。だから、リーさんに私はもう李香蘭であることに耐えられなくなったから、ちょうどいい機会だと思うから記者会見があるのなら、リーさんの口からもおっしゃってください。私も今発表したいと言ったんです。私は、中国で生れて中国で育って中国を愛している日本の山口淑子という娘ですということを先に紹介してそして李香蘭として演技してきましたということを発表してください。そしてそのインタビューに入りましょう」

 しかし大スター李香蘭の存在はもはや後戻りのできないところまで来ていました。記者会見でいまさら日本人だと名乗ることは許されなかったのです。


「小一時間大変おだやかな雰囲気で終わりましたから、これで終わりにしますってリーさんがおっしゃたんですよ。そしたら一人、若い新聞記者の方がパッと立ちあがってね、きりっとした声で『李香蘭さん』っておっしゃたんですよ。私、あっきつい声だなと思ったんですね。『李香蘭さんあなた中国人でしょう。だのにどうして中国を軽蔑するような日本映画に平気で出ていたんだ。中国人としての誇りはあなた持ってるんですか』って詰問されたんですね。

 
・・・・・・・・・・・・しばらく声を詰まらせて話ができなくなる(映像)

(涙声で)私ね、・・・・つらかったんですよね。・・・

 しばらくだまっていて、自然に出てきた言葉はね『すみま

せん』でした。

私は若かった、歳がいかなかったということもありました

し、考えが浅かったとい

うこともあって、中国の方に申し訳ないことをして・・・

  今、心からおわびします


 李香蘭と山口淑子 二人の自分の間の溝は深まるばかりでした。

しかし結局、李香蘭から逃れることはできなかったのです。



戦争はいやだ、戦争はやめて!!

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上海で米軍の空襲に出会い、空襲警報が解除になったのでホテルの部屋に戻って窓を開けたところ、目の前に大きな客船が停まっていたんですよ。その甲板が死の海なんですよ。それをここから見てたんです。(その時に泊まっていた旧キャセイホテル(和平飯店)の部屋から)盛んに死体の処理などをしているのが見えたんです。私は外に向かって『戦争はいやだ。戦争はいやだ。戦争はやめて』と、わんわん泣きながら叫んだんです



命の恩人リューバ・ユムシャノワさん
と再会


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1945年8月15日、日本敗戦。
上海市民は喜びに沸きたちました。
山口淑子さんは李香蘭という存在に決着を付けなければなりませんでした。
上海ホンキュー地区(虹口)、かつては日本人が暮らす租界でした。興業坊という一画に敗戦とともに日本人居留者が収容されました。山口さんも日本人映画関係者らとともにここに収容されたのです。

「9ヶ月軟禁されていました。人に会ってはいけない、人は会いにきてはいけないという状態で。その間、軍部がスパイではないか、李香蘭は中国国籍ではないか、と調べていたんですね。その間ずうっと軟禁されていたんですね」

 日本の敗戦によって、それまでに日本軍に協力的だった中国人は漢奸(かんかん)すなわち祖国を裏切った売国奴として次々に捕えられ処刑されていきました。李香蘭も漢奸ではないか、山口さんは何度も裁判所の取り調べを受けました。中国人女優李香蘭の名が重くのしかかってきたのです。山口さんには自分が日本人であることを示す証拠が必要でした。

「結局、戸籍謄本しかないということになったんですよね。戸籍謄本は両親が北京で収容されていましたからね。そこに戦勝国のリューバちゃんが(リューバ・ユムシャノワさん)自由に旅行もできるし」

リューバさんは山口さんが収容されていることを知ってホンキューの収容所を訪ねます。幼なじみの窮状を救うため、リューバは山口さんの両親が居る北京へと向かいました。そして戸籍謄本を収容所の山口さんの元に届けたのです。

「ある時期が来てから、何千人かずつ引き上げるようになりましたね。私は9ヶ月目に裁判があって、リューバちゃんが持ってきてくれた戸籍謄本で無罪ということで、国籍は日本人だということは、中国を裏切ったのでなく、戦犯ではあるけれども漢奸ではないということですね。そういうことで、引き上げ船に乗りました」

李香蘭は山口淑子になりました。そのことを公に発表する機会はついに与えられませんでした。山口さんは国外退去の命令を受けひっそりと上海を後にします。
命の恩人リューバに別れを告げるいとまもありませんでした。

そして半世紀の歳月が流れました。

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幼なじみのリューバさんの居所がわかったのは3年前(1995年)のことです。ロシア共和国エカテリンブルクという町に住んでいました。
1998年にリューバさん(78歳)を訪ねてエカテリンブルクへ。山口淑子さん(78歳)。

 

 

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コメント

Please see Li Xianglan good story at:

www.yoshikoyamaguchi.blogspot.com

投稿: John M. | 2015年11月14日 (土) 06時45分

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