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2014年9月13日 (土)

戦争する国にしてはならない-8月に考えたこと 9月13日

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写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 私は8月、整理してみたらテレビで戦争と平和に関した14本ものドキュメンタリーやドラマを見ていました。

 安倍内閣が私たち国民の声を聞かずに、憲法9条を破壊し、集団的自衛権行使容認を閣議決定し、関連法整備に進もうとしています。
 秘密保護法の強行、防衛装備移転三原則で武器の輸出自由化、米軍との合同軍事演習の強化、教育委員会の組織改悪と道徳教育の押し付けなど教育への政治介入の強化、辺野古への巨大新基地建設強行、来年度防衛予算要求が5兆円を超え、第二次安倍内閣の改造は戦前復古主義の「日本会議」「靖国派」でがっちり固めるなど軍国主義復活に向けての動きが強まっていると危惧しています。

 私が見たテレビ放送では、日本が引き起こしたアジア太平洋戦争で兵士も国民も世界の人たちも言葉では言い表せられない、耐えがたい苦痛を経験、苦悶しながら「ひとたび始まると留まることなくエスカレートする残虐な殺し合いが戦争」「戦争は起こしてはならない」という呼びかけだったように思いました。

■ 狂気の戦場 ペリリュー ~“忘れられた島”の記録~  8月13日放送
9月6日に「Bs特別版 狂気の戦場 ペリリュー」が放送された

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 「どんんな内容か」と軽い気持ちで見始めたのですが、8月の各種放送番組の中で、この放送は一番記憶に強く残りました。「まさに戦争ははじまれば狂気となってしまう」戦争とは何が起こるのか、あれから60年経っても、戦った兵士の記憶からはおぞましく記憶がよみがえる日々なのだということを、あらためて認識させられました。戦争なんてかっこいいものじゃないんだよ。この現実を見なくてはいけないと思うのです。

 なかなかブログに書けませんでしたが、記憶に残そうと書いています。

 フジテレビで8月15日に「命ある限り戦え そして生き抜くんだ」というペリリュー島を舞台にしたドラマがありました。「狂気の戦場・・・」を見ていたので、どう描くのだろうかと注意してみましたが、「狂気の戦場・・・」という実録映像の真実には到底迫れませんでした。日本軍と戦争を史実にもとずかずに、美化してしまう結果になっていました。
 戦争ドラマの難しさを感じました。
やはり、戦争ドラマは簡単に作るべきではないと思いました。

 ただ一つの救いは、ペリリュー島で生き残った日本兵34人の一人、土田喜代一さん(94歳 旧海軍上等水兵)の証言でした。
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1人か2人ぐらいは生き残っていたと思うけど、私にもわかりません。
私たちは終戦を信じなかったわけですよね。友軍の来るのを待ちわびて、戦後1年8ヶ月、そのうち友軍が来るだろうと言って結局がんばっていたわけなんですよ。

 どうして自分たちが戦争をしないかんだったろうかと思っていました。戦いながらも、いやじゃたですね、戦争とういうのは。人間は少しはりこうになったじゃろうと思うんですよね。もう戦争はやらん方がよかばい。」

■狂気の戦場 ペリリュー “忘れられた島”の記録
  概 略

アメリカ海兵隊クアンティコ基地
アメリカ史上最悪の犠牲を払った、あの戦いの記録が70年の間眠っていました。
ペリリュー(PELELIU)のフィルム
太平洋戦争の激戦地ペリリュー島
撮影したのは海兵隊の18人のカメラマンたち。
勇猛果敢な兵士の姿を記録しプロパガンダ映画を作るために送りこまれていました。
 今回の取材でただ一人生き残っていたカメラマンを探しあてました。

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元海兵隊カメラマン ガウラント・ウルフキルさん(91歳)
初めて自らが撮影したフィルムを目にしました。
「信じられない」「どうやって手に入れたんだ」

3日間の戦いで、日本兵の死者は少なくとも2400人。アメリカ軍もすでに2000人を超える死傷者を出していました。
 当初、アメリカ軍は3日で方が付くとみていた戦い。しかし、この時点で制圧できていたのは島の三分の一でした。

「敵は島を知り尽くしていました。ですから同じ場所にじっとしていることはできなかったのです。」

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この映像は、日本軍に狙撃されるアメリカ兵の姿をとらえたものです。
画面の中央に負傷した兵士。担架で助けに来た2人の兵士も狙撃され身動きがとれません。別の兵士が助けに来ました。ようやく戦車までたどりつきました。

常に死と隣り合わせの兵士たち。
精神的に追い込まれていきます。

戦闘で消耗したアメリカ兵に、夜も日本兵が襲いかかります。
メルビン・サイモンズ1等兵はその恐怖を今も忘れられないと言います。
「夜は地面に掘ったタコツボに2人ずつ入ります。

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戦闘意欲を失った日本兵  容赦なく銃で撃たれました。
持物を調べられた後、遺体は投棄されました。

狂気が狂気をよぶ戦争

失っていた人間性を、ふと取り戻した時、兵士たちは耐え難いに苦しみに襲われといいます。

頭を抱え座り込む一人の兵士の写真。

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日本兵を接近戦のすえ、殺した直後に撮影されたものです。
その時の状況を彼は後に語っています。(ポムロイ1等兵の証言)
「岩山での戦いの最中、日本兵が銃剣で突然襲いかかってきた。私は彼の腹に2発打ち込んだ。たおれた彼の懐から1枚の写真がのぞいていた。手にとってみると、彼が両親と幼い妹といっしょに映っていた。いったい、なんてことをしてしまったんだろう。私は大きなショックを受け言葉を失った。」
 兵士は顔を覆いうなだれたまま、いつまでもその場から動けなかったといいます。

正気を保つことさえできない兵士も続出しました。

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フィルムは錯乱状態に陥った兵士の姿も克明に記録しています。

異常な戦場の中、殺戮は味方同士にまで及んでいきます。
第5海兵連隊伍長 R・V・バーキンさん

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「仲間の1人が『おれは殺される やつらに殺される』と大声でわめき出しました。衛生兵が馬でも死ぬくらいの大量のモルヒネを打ちましたが効きません。彼のわめき声は大きくなるばかりでした。300㍍先には日本兵の陣地があったのです。このままでは日本兵に気づかれてしまう。仲間の1人が塹壕用のシャベルで頭をぶんなぐり殺しました。多くの仲間が1人のために危険にさらされることを思えば、しかたがなかったのです。」

一方、日本側が味方の処刑を行っていた可能性のある映像も残っていました。
手足を縛られ、首を切り落とされた遺体です。
当時、日本軍では敵前逃亡や投降は死に値するとみなされていました。

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元海軍1等兵 亀谷長成さん(投降者の処刑を目撃したことがある)
「投降しようとしたらもう許さんから。戦場では人間でも動物ぐらいにしか考えない。そうしないと殺せないよ。やらないと自分がされるから」

71日目の11月24日、日本軍守備隊本部以外はアメリカ軍に制圧されました。この時、日本軍の生き残りは120人。その内、70人は身動きすらできない重症者でした。
 長期持久戦を続けてきた守備隊長、中川大佐。「状況切迫。陣地保持は困難に至る」この電報の後、自決しました。
 74日間にわたったペリリュー島の戦いは終結した。

双方は際限のない殺し合いを体験しました。

そして、それは硫黄島、沖縄の戦いへと引き継ぎ、さらに民間人を巻き込んだ無差別の殺りくへと激化していきます。
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ピューリッツァ賞を受賞したジョン・ダワー氏
「日本が長期持久戦によって最後まで徹底抗戦するつもりだと、アメリカが初めて悟ったのがペリリューでした。ペリリューで洞窟に潜む日本兵に使った火炎放射器やナパーム弾を硫黄島や沖縄では更に大規模に使っていきます。そして、ついには日本の本土の都市を焼き尽くす焼夷弾の使用にまでつながって行きました。そうした容赦なき戦いの原点がペリリュー島の戦いだったのです。」

ペリリュー島には2500人を超える将兵の遺骨が今なお眠ったままです。
狂気の戦場、ペリリューを経験した兵士たち。
地獄のような戦場の記憶を心に封じ込めてきました。

家族や友人にも話さずに来ました。

70年が経った今も、兵士たちの苦しみは薄れることはありません。
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「あの日以来、毎日おぞましい記憶がよみがえります。私の時間は止まったままなのです。」

ひとたび始まると留まることなくエスカレートする残虐な殺し合い。

ペリリュー島の戦いは戦争が何をもたらすのか、私たちに訴えかけています。

 

 

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