« 第66回小川町七夕まつり   7月26日 | トップページ | 広島市平和宣言と被爆者の思い  8月6日 »

2014年8月 2日 (土)

2014かすかべ第9回平和フェスティバル  7月27日

 2014かすかべ第9回平和フェスティバルは合併前から数えると34年続けてきた運動です。雷で会場が数回停電するという天候でしたが250人が参加し、7月27日(日)春日部市庄和市民センター正風館で行われました。

実行委員長の加集静子さんは、この日のテーマは「戦争はイヤだ、平和でなくちゃ」というもので、平和だからこそ若い人たちが将来に夢や希望を持ってそれに向かって努力することもできるし、静かな老後を思い描くこともできます。私たちは戦後70年平和に過ごしてきましたが、この平和を決して手放してはならない、そして、平和を守りたい、そういう気持ちで選んだテーマですと開会あいさつをしました。

 ☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*

初めに春日部市非核平和都市宣言の朗読が行われましたが、世界各地の紛争で一般市民の犠牲が続いており、一刻も早く、復讐と暴力の負の連鎖を立ちきるように世界が行動しなければと思いました。

春日部市非核平和都市宣言

 やすらぎと希望に満ちた幸せな日々を送ることは、わたしたち春日部市民の願いです。わたしたちは、この暮らしが脅かされることのないよう、平和な社会を目指しています。 しかし、世界各地には核兵器を始めとする大量殺りく兵器が存在し、いまだに国際紛争、地域紛争、テロ行為等の武力攻撃が行われています。

 わたしたちは、市民の平和を願うこころを結集し、ここに「非核平和都市」を宣言します。

 

 、わたしたちは、幸せな日常生活を維持し、次の世代に引き継ぐため世界の恒久平和の確立を目指します。

 

一、 わたしたちは、核兵器や大量殺りく兵器の廃絶を強く望むとともに生命、身体、財産を脅かすあらゆる攻撃の排除に努めます。

 

一、 わたしたちは、日頃から地域でのつながりを深め、共に助け合い、平和のこころを広く伝えます。

  200941

     春日部市


       ♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

 

ソプラノ歌手の早乙女弘枝さんがピアノの品川尚子さんとミニ平和コンサートを行い8曲を演奏し、「長崎の鐘」と「花は咲く」をみんなで歌いました。

《曲 目》 童神(わらびがみ)、さとうきび畑、いのり、長崎の鐘(みんなで歌う)、一本の鉛筆、約束、いのちの歌、花は咲く(みんなで歌う)

Img_6122

早乙女弘枝さんのスピーチから

今日はちょっと重たい歌ばっかりになってしまって、でも御時勢がこの時勢なので是非みなさん本当によく考えていただきたいと思います。私は子どもも生んでしまってこれからは子どもたちの心配をするわけですが、若いこれから大きくなる子どもたちは、もしかしたらこんなつらい思いをまたするようなことがあるんではないかと考えると私はドキドキしてしまいます。みなさん本当に自分のこととして考えていただきたいと思います。」

Img_6134

「ビキニ被ばく60年 いま伝えたいこと」

 核廃絶めざし「第五福竜丸」は航海中

市田真理(第五福竜丸展示館学芸員)

大石又七(第五福竜丸乗組員)    

    講 演


 最初に市田真理さんが、第五福竜丸がゴミの島に捨てられているのが発見されてから、展示館が造られるまでについて話をし、「多くの方が守った流れというかその末裔(まつえい)に繋がってこの船を守り続けている、というか見守って、時には船に見守られてお話をさせていただいています」とこの船に何が起きたかと、ビキニ事件について話をすすめました。

Img_6142_2
(1954年3月1日 ビキニ環礁の水爆実験 ネイムはブラボー)

 
 今からちょうど60年前の1954年3月1日にアメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験を行いブラボーという名前が付けられましたが、とんでもない。実はこの仕事に就いてからこの言葉は言えなくなりました。全然ブラボーじゃないんです。これは広島型原爆の1000倍です。冗談じゃない。いったいどこに、どこで、だれに向かって使うつもりでここまでの物を開発する必要があったんでしょうか。いまもガザでたくさんの子どもたちが亡くなっています。本当に悔しい思いでいっぱいになります。そして、この水爆実験に大石さんたちは遭遇してしまったわけです。

 大石さんたちが乗っていた第五福竜丸はマグロ延縄(はえなわ)漁船でした。

延縄をしかけて、ちょっと一息入れて休んでいました。まだ地平線が見えるか見えないかという薄暗い最中に色と光が見えた(キノコ雲は見えなかった)キノコ雲が見えないほど遠くにいたということなんです。大石さんたちが光を見てからドドドドドという音を聞く。この間8分かかっています。光の方が音よりも先に到着する、実は160キロも核実験場から離れていたということがわかるんです。これは何か異変が起きたということで漁労長は、せっかく入れたばかりの縄なんですが「回すから縄上げろ」とみなさん縄を上げながら進路をとっていくわけです。その時に雨が降ってきます。キノコ雲が3万4千㍍までセリ上がりました。白いサンゴの粉がザンザン降り注いできた。サンゴの粉ですから雪ではありませんから溶けるわけではなく当たると痛い、目に入る、耳のところにもたまってくる、シャツの襟から入って、ベルト、腹巻きにもたまってくる。そして気がつくと甲板に足跡が付くほど降り積もっていたといいます。その日のうちから大石さんたち乗組員は「気持ち悪いなあ」とか「食欲がないなあ」とかそういう症状が出ているんですが、弱音をはけない、漁師さん同士ですから、おれだけかなあと言わなかったようなんですね。ところが、あの白い物が当たったところが黒ずんで火傷のようになってくる、やがて、1週間たち10日経つと髪を引っ張ると抜ける、力を入れないのに抜ける。そういう人が出てきて、お互い隠せない状態になりました。今の私たちでしたら急性放射能症ではなかろうか、それくらいのこと素人でも思い浮かんできます。ところがこの時代に、1954年というのは戦争が終わってまだ9年でした。サンフランシスコ講和条約からまだ2年でした。広島や長崎の被爆の実相が全然伝えられていない、そういう中での大石さんたちの被ばくでした。ですから、「なんでなんだろう」と自分の身に何が降りかかったのかわからないまま2週間かけて焼津に帰ってきた。言いかえると2週間なんの治療もされずに、「死の灰」と言われるものと共に船の上にあったといえるわけです。そして、いつものようにお家に帰って獲ってきた魚のお裾分けをしたり、もちろん、獲ってきた魚の水揚げをしたりするんですね。

Img_6147
(ビキニ事件を伝える1954年3月16日付けの読売新聞)

 3月14日に帰ってきたわけですが、翌々日の3月16日、読売新聞の朝刊です。「邦人漁夫ビキニ原爆実験に遭遇」という見出しがあります。この新聞の記事から、いわゆるビキニ事件というのが世の中に発覚したというか、発生しました。3月1日に被ばくしました。3月16日のこの報道までご本人たちも核実験をしたアメリカ政府も、日本政府もよもやこんなことが起きていると知らない2週間というのがあったわけです。

先ほど髪の毛がごそっとぬけるという話をしましたが、2011年3月11日以降「それって何ミリシーベルトですか」小学生からそういう質問を展示館でされるようになりました。放射能、放射線に関心持ってくれることはうれしいことですが、でも今恐怖として今もこれからも生きるこの子たちに恐怖として感じなければいけないそんな社会を作ってしまった大人の一人として本当に申し訳ないなと展示館で、こういう場でお話をさせていただいています。その小学生の質問に答える形で一生懸命計算しまして、そうしましたら2000~3000㍉シーベルト。半致死量、広島でいいますと爆心から800㍍に該当するんです。

核実験場になったマーシャルですが、ビキニ環礁というところは、実験の前にアメリカが人を強制的に移住させました。ところが、180キロ離れたところに、ロンゲラップ環礁という別の環礁があるんです。そこには普通に人が生活していました。そして、大石さんたちも受けたあの白い物が降ってきた、なんだ、これは、もしかして昔ここを統治していた、あの日本人が言っていた雪じゃないかと思った人がいた。子どもたちは、おおはしゃぎで、「なんだこれは」だれが一番集められるか競争したそうです。体になするつけた人もいた。コーヒーカップで飲んじゃった人もいたそうです。そして51時間経ってからようやくアメリカが収容をしに来るんですけれども、その時には頭痛がする、腹が痛いという人たちが出ていました。そして、アメリカ軍は尿や髪の毛を測定するんですね。そうしますと、それが2000~3000㍉シーベルトに相当する状況でした。

獲ってきた魚はどうだったのか。原子マグロとか原爆マグロとかご存知の方がたくさんいるのではないでしょうか。東京、清水、三崎、焼津、塩釜、の漁港が指定されまして第五福竜丸以降は全部検査することになりました。その後、自発的に13の港が加わって日本全国で獲ってきたマグロを全部検査されるということになるんです。

Img_6152
(1954年9月23日、久保山愛吉さんが亡くなる)

「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」 久保山愛吉さんの最後の言葉

大石さんの同僚であった無線長の久保山愛吉さんは8月の末から様態が悪化しまして被ばくから半年後の9月23日に亡くなります。まだ40歳でした。小さいお子さんたちを残して無念のなかで亡くなっていきます。その隣のベットで大石さんは闘病されていました。ですから、久保山さんが苦しんで、苦しんで亡くなるその姿もご覧になっていました。久保山さんは最後にこんな言葉を遺しました。「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」その言葉をどうしたらかなえられるんだろうか。それが私たちが今働いている意味だと思いますし、伝え続ける意義でもあると思っています。

大石さんは「おれは語り部ではない」というんですけど、大石さんにしかできないその体験を証言する証言者で語り部です。その大石さんから私はいろんなことを受け止めて、考えて、それをみなさんに伝えて、それを語り継ぎ部といういい方をして、是非みなさんにもその語り継ぎ部になっていただけたらいいなあと願っております。今日のフェスティバルのタイトル「戦争はイヤだ平和でなくちゃ」そういう思いを私も抱いております。船はゴミの中で見つかりました。今は建物の中に保全されてしまって二度と再び海の上を走ることはありません。核のない未来に向かって第五福竜丸は今も航海中です。というのが私どものキャッチフレーズです。是非みなさんもその航海にごいっしょしていただけたらと思います。


Img_6171

大石又七さん(80歳)が車いすで登場

 
大石さんは80歳で、一昨年、脳出血で倒れられましたが、こうして活動を続けられています。

Img_6177

 第五福竜丸に60年前に乗船していた乗組員の一人です。23人が乗っておりましたけど既に16人がガンとか放射能の影響と思われる病気を発病し亡くなっているんですね。

 私も死んでいった連中と同じようにガンもやったし、死産で生れてきた子どもなど随分悲しい思いもしてきましたけれど、なぜか、私は悪運が強いというか長生きをさせてもらっています。先に亡くなった人たちの倍以上、40、50で亡くなった人たち、だいたい、同じ時期にまとまって亡くなっているんですね。私は今年80になりますから倍以上生きさせてもらっています。本当にありがたいことだと思っていますけれども、体の中には病気をいっぱい抱えこんで毎日、薬は20南種類も飲みながら、どうにか生きながらえています。

3月1日になるとビキニ事件のことが話題に上るんですけで、ここにきてビキニという言葉をほとんど聞くことができなくなってしまった。みなさんが忘れてしまっているんですね。忘れているんじゃなくて忘れさせられているといった方がいいと思います。

 このビキニ事件というのは政治的に非常に翻弄(ほんろう)された事件だったものですから政治的に握りつぶされ隠されてしまった。

 ちょうど事件の事が忘れられた頃に3.11の福島の原発事故が起こりました。そして大変な放射能が日本列島にふりまかれて大騒ぎになりました。

原発の放射能とうのは水爆実験の放射能と全く同じなんです。27種類の悪質な放射能が爆発と同時にまかれるんです。よく言われている、広島の原爆の2000倍の威力を持つ水爆だといわれていますけれども、きたない水爆だという事がこれまで知られていなかった。

 私たちがマーシャルで被ばくし、その灰を日本に持ち帰ってきて、東大とか京大など大学で調べてみると、ひどい放射能を浴びていることがわかり、それから本格的に放射能の研究が始まったんですね。

私たちが被ばくした放射能は、いったん成層圏に吹き上げられた。放射能は時間と共に、だんだん雨とか雪とかチリになって地上に降ってきた。

放射線は見えません、臭いもなければ味もなければ形もない。

ビキニでは放射能が真っ白い色をしていて、雪のような粉が降りますね。その放射線によって内部被ばくをする。体の中に放射能がどんどん蓄積されるんです。蓄積され、たまっていく。体のなかでやっかいなことが起こっていたんですね。それを気がつかないでいた。

私は無学で、だからしゃべることも、理屈もうまく組み立てられませんけれども、自分の関わってきたこと、それから後で資料から学んだことを本にまとめて、後の人にどうしても遺したといことで、資料はあとからあとから出てくるものですから都合4冊出版することになりました。私は小説家にはなりませんから、物書きではありません。へたな文章ですが資料から取っていることですから事実なんですね。本当なことなので大事な資料だと思います。いまからでも、学者も政治家もビキニ事件をもう一度大本から勉強しなおして、現在の福島の事件の解決も見えてくるんです。半世紀も前にこの福島の問題が起こっていたんですね。それを私はいいたいです。

伝えたいことは山ほどあるんですけど、マーシャルの被ばく者と話をしたい、聞きたいということでマーシャルに3回行きました。そこで見たり聞いたりしたことで驚いたのは、マーシャルでは35年後、病気が被ばく者として認められてお金がおりるんですね。マーシャルはアメリカの統治下にあります。アメリカは4つの島を借り受けて、1500万ドルのお金を払ってマーシャルの島を借りているわけです。そのために、マーシャルの人たちは、そのお金を住民に払っていた。だから35種類もの病気の面倒をみられた。白血病10万5千ドル、乳がん10万ドル、甲状腺がん7万5千ドルというふうに払われている。半世紀も経つとお金がなくなってしまう。マーシャルの人たちはお金がなくなって島には帰れないんです。私はロンゲラップ島に行ったんですが島の奥に入っていくと放射能がいっぱいあるんですね。人が住むために除染する、50戸ほどの家を建てる。そこに帰れ、帰らなければお金は払わないと、あおっていますけど、島の人たちは過去に一度帰ってえらい目にあってるんですね。今、そこに帰れといっても、もう帰らないんですね。放射能が無くならなければ帰れないとがんばっていました。私はそれを見たときに、今の福島を思い出しました。福島に降り注いだ放射能は水爆の放射能と全く同じです。駿河湾にも相模湾にも放射能はいっぱい落ちてるんです。海も知られていないから、ないように見えますけど、調べれば日本列島いたる所に放射能は落ちています。それを隠している。日本政府のやりかたは、これまでもビキニの時にも隠しました。また今回、福島の事故でまた隠しています。隠すだけでなく、その原発をよその国に行って、商いをしてしまう。とんでもないことを考えていますね。私はとっても、人間のすることではないと思いますけどみなさんどう思われますか。

私が伝えたいことがあります。

それはアメリカの被ばく者の方の話なんです。アメリカにも被ばく者がいるんですね。アメリカは加害国だから、日本みたいに被ばく者はいなくて心配ないと思ったらとんでもない事で、2010年、NPT再検討会議が開かれ、ニューヨークで被ばく者の会議で発言しました。私の前に発言したアメリカのクローディアン・ピーターソンさんという55歳の金髪のきれいな女性が発言しました。その人は途中から泣き出してしまった。

「ユタ州南部から参加させてもらいました。私の住んでいる地域の近くにネバタ核実験場があり、米国政府は1000回以上の核実験を行って、私はこれまでの人生をネバタ核実験場の風下で過ごしてきました。子どもの頃は汚染された野菜や果物を食べ、汚染された牧草を食べた牛のしぼりたてのミルクを飲み肉を食べてまいりました。そして汚染された水を飲み魚を食べてきました。政府は悪事を全て否定し、国のために核兵器を増やすことはよいことであり、核実験も大切なこととキヤンペーンを繰り広げてきました。米国政府はあらゆる手段を使って私たちが安全なことを強調し、決して害が及ぶことはないから安心していいと断言していました。

しかし私たちは非常に短期間に知ることになります。愛する家族を驚くほどの速さで次々に失い、亡くなったのです。」夫の父は52歳で肺がんで亡くなり、父は脳腫瘍で亡くなり、末娘を悪性の神経芽細胞種で6歳で亡くしましたと話されました。

クローディアンさんが私のことを関心もって連絡とりあってお話をする予定でした。NHKの方が何回電話しても受話器をとってくれない。どうも国からの圧力がかかって話をできなくなったんだろうと考えられます。

政治というものは、弱い被ばく者をいつもその犠牲にして、日本でも同じようなことを言っていますよね。そういう風になるんだなあと。まさかアメリカがやっていると私は思いませんでしたけれども、今度、加害国であるアメリカが一番ひどいことをしているんだということをその時初めて知りました。日本でもみんなできちっと目を光らせて行動を提起していかないと、やっぱり、被ばく者は非常に立場が弱いですから、普通の者とはちょっと違って子孫を、子どもを守るということでみな隠してしまいます。被ばく者が隠してしまいます。そのことがわからなくなっていきます。おそらく福島でもそれが既に起こっているということを聞いていますけれども、そういうところを、みなさんも考え、どうしていったらいいか、みんなで考えていきたいと思います。話をうまくできませんけれども、事実ですので、みなさんも、人のことではありません。日本の足元でも、そういうことが起こっているんだということを是非知ってほしいと思います。

Img_6194
(まこもを手にする大石さんと市田さん)


 大石又七さんが一生懸命に思いを会場のみんなに伝えようと話してしていることが伝わってきて話が終わると長い拍手が続きました。講演の記念にお二人にまこもが手渡されました。

|

« 第66回小川町七夕まつり   7月26日 | トップページ | 広島市平和宣言と被爆者の思い  8月6日 »

戦争と平和」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 2014かすかべ第9回平和フェスティバル  7月27日:

« 第66回小川町七夕まつり   7月26日 | トップページ | 広島市平和宣言と被爆者の思い  8月6日 »