« 閣議決定で憲法原理の破壊は許されない  6月28日 | トップページ | 「戦争する国」へ突き進む閣議決定断固反対  7月1日 »

2014年6月29日 (日)

故郷、長野県浦野の歴史に触れて   6月15日

 4年ぶりに浦野の生家に5人兄弟が元気に集まり2回目の兄弟会を開きました。
 この4年の間の大きな出来事は東日本大震災でした。宮城県東松島市在住の兄が被災に会い、兄弟がそれぞれの形で、兄の子どもたちとも協力し合い支えあう事が出来ました。
そして、姪の結婚、姪の第二子出産が兄弟会を前後してあったことも嬉しいできごとでした。
 兄弟会のメインはやはり、大震災を乗り越えてきた宮城の兄たちの事でした。兄からもみんなに感謝の気持ちが伝えられました。

 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

Img_4650
(長野新幹線で上田駅に着くと窓の遠くに故郷のシンボル子檀嶺岳(こまゆみだけ)が見えます)
Img_4652
(右に子檀嶺岳、左に夫神岳=新幹線下りホームから)

Dsc00062
(生家の近くで写した子檀嶺岳)

  浦野の歴史の一端を知る機会に

 帰郷の機会に、いつも生まれ故郷の事で知らないできたことが多くあり知りたくなります。
 今回は以前から知りたいと思っていた〝浦野〟の地名の元になっている浦野氏の歴史について少し知ることができました。

    :;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+  :;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

 
浦野氏は平安時代末期の1150年頃に祢津氏から分かれ、浦野字前沖内堀・下前沖など土地を開発し、阿鳥川から水を引いて開田し、開発所領としました。

 鎌倉時代初頭1190年頃には「浦野」を名乗り、幕府の御家人になり、日古社領浦野庄の「地頭」になりました。その頃、領地を見渡せる現在の浦里小学校西南部分に堀と土塁をめぐらせた居館を築きました。

 南北朝時代から室町時代に浦野の谷の各地(上田市浦野から青木村)に分族が発展し、諏訪上社との結びつきを深め「神氏」となりその一方で霧ヶ峰高原元御射山に似せて、秋葉山の中腹に広場と、観覧席(階段状の桟敷)を設けて「御射由祭」をおこないました。戦国時代に入ると、ここを改修して山城に用いています。

 浦野は1541年に村上氏の攻撃を受け、1553年には武田氏の配下となる変転がありました。1582年、武田氏の滅亡後は分族のそれぞれが400年余にわたる発祥の地浦野を離れ、真田、北條・小笠原・松平氏などに分かれて仕え今日につながっています。

              上田市浦野自治会・川西郷土研究会資料より

:     ;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+  :;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+


◆ 東昌寺に祀られた
浦野氏の宝篋印塔(ほうきょういんとう)


 
家を継いできた長兄が郷土史の研究をしていることもあり、浦野氏といわれの深い東昌寺を案内してもらいました。

Dsc00063
(東昌寺は山の上にあります)
Img_4685
(東昌寺の鐘楼には香取秀真が製作した鐘がつるされすばらしい音色を発しています)

 私は昔、東昌寺には浦野氏のお墓があると聞いていて、東昌寺を訪れた際にそのお墓を探したのですがわからずに帰ってきたことがありました。
 今回その願いがかない、お参りもし、昔に思いを馳せることができました。

  兄が説明してくれた内容の元の文書の要約から
宝篋印塔に刻まれた歴史は約30年。そこから日本の歴史も見えてきます。

 「天文10年(1541)「海野平の合戦」の時、浦野は村上氏に攻められ、浦野氏は村上配下となり諏訪社御頭役もつとめられなくなったことが守矢家文書によって記されています。天文17年(1548)には「上田原合戦」に村上方が勝利したが、ついに天文22年(1553)春には葛尾城も落城し村上氏は上杉氏のもとに逃れました。浦野氏らは武田氏につき所領を安堵しました。
 永禄11年(1568)3月17日には「蘭庭妙芳」がなくなり、あいついで6月8日には「大松玄久」がこの世を去りました。この寺を開基した夫婦であったろうと考えられます。美濃守友久と寺伝ではいわれ、生鳥足島神社、起請文を引くと左衛門尉幸次とも考えられ、婦人は名前が判りませんが武田家から迎えた信玄の妹ではないかと推察されます。
 永禄12年(1569)4月には、越前・一乗谷・心月寺の住職・戈応總芸師を迎えて曹洞宗開山を行いました、法被袋の銘文によると「法被袋一片、心月戈応新添 水紋之地白 まど(歹良阝で一字)者赤地 緞子包納 之東昌寺大室之公用子時永禄十二巳己巳卯輿八日花押」とあります、師は岐阜県、三重県に多くの寺を開き塩尻市の長興寺・西福寺も開きました。東昌寺開山後、間もなく5月19日に永眠されたと上田市誌に記されています。
 この年、12月18日には「実叟道真」がなくなりました。
 永禄13年(1570)3月晦日には「たはさま綉亮・大もり・善哉おり遍・いろへ宮内助・右彼四人之寄進之法被也 東昌寺二世保山全老花押」と仁古田衆四人が法被を寄進しました。
 天正10年(1582)8月6日には頭主と思はれる「光桂宗玉」が死去しました。この人は「浦野源一郎」と小泉家文書にある人と推定されます。
 この時、3月11日には武田家が滅亡し騒乱のきびしい時代で、浦野氏も武田氏に先がけて戦い、多くの戦死者をだしたのかも知れません。
 天正11年(1583)暮春(3月5日、後室・天窓寿清が夫の死後、一生懸命に自分で極楽の姿を刺繍した打敷を頓證菩提を祈って寄進しました。
 文禄5年(1596)10月晦日「実山虎眞」死す。
 慶長2年(1597)2月21日「天窓寿清」死す、天正10年武田氏滅亡の時、夫・光桂宗玉を失い一周忌法要には供物を供えで弔うた媼もついに一生を終った。
後に、今日も見るすばらしい打敷をのこして浦野氏の浦野退去を間近にしたこの日、永遠の旅立ちでありました。」
 

 

 6基の宝篋印塔からは実名はわかりませんが年号がはっきりしており、永禄11年3月17日(1568年)~慶長2年2月21日(1597年)までの約30年の歴史が刻まれていて、後世の人々の歴史推考の手助けになっていることを知りました。

Img_4713
(並んだ6基の宝篋印塔=浦野氏の係累が祀られています)

Img_4717
(天正10年の年号が読み取れる宝篋印塔)
Img_4719

 

 鐘楼の建物は上田市の指定有形文化財

 

Img_4732_2

Img_4705_5
(文化勲章を受けた香取秀真さんが鐘を納める時に駕籠で山を登った時の和歌です。私は小学校4年生だったのでしょうか)

Img_4682
(家の裏の川辺にグミの実が実っていて、みなで懐かしく摘まんで食べました)



|

« 閣議決定で憲法原理の破壊は許されない  6月28日 | トップページ | 「戦争する国」へ突き進む閣議決定断固反対  7月1日 »

人と自然を写真に」カテゴリの記事

コメント

 「浦野の歴史に触れて」早速拝見させて戴きました。
浦野の地に生まれ育ちながら、何も知らずに今日にいたっております。今回上記の内容を拝見し、郷里に対する興味、関心が益々沸いて参りました。引き続き浦野に対しての関心を持ち続けていきます。
 様々の情報有難うございます。

投稿: 髙畑万修 | 2019年5月 7日 (火) 21時33分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 故郷、長野県浦野の歴史に触れて   6月15日:

« 閣議決定で憲法原理の破壊は許されない  6月28日 | トップページ | 「戦争する国」へ突き進む閣議決定断固反対  7月1日 »