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2014年5月26日 (月)

元荒川の地下をくぐって見沼代用水が交差  5月23日

 今年の1月24日の朝日新聞記事の首都圏ナビで「柴山伏越」(しばやまふ
せこし)の事をImage121知り、すごく興味がわき、訪ねてみたいと思っていましたが、機会を作れずに来てしまいました。ようやく、5月23日に訪ねることができました。
(朝日の記事では「柴山伏越」(しばやまふせごし)と“ごし”になっていましたが、現地の案内板では「しばやまふせこし」“こし”となっていましたので“こし”と呼ぶようにします。白岡市柴山。

 写真の画面をクリックすると大きくして見れます


河川と用水の交差・先人の技術と知恵に感心


 現地で元荒川にかかった常福寺橋を渡って見沼代用水の下流に行きましたが、小さくも大きくもない普通の橋でした。調べて知ったのですが、柴山伏越の長さは47㍍あるそうです。
現地を歩いてみて、先人の技術と知恵のすばらしさに感心しました。


見沼代用水路の開削、新田開発で造られた伏越
享保12年~13年(1727年~28年)


Img_4127


サイホン原理を生かした伏越

 
「伏越という構造形式は見沼代用水で初めて考案されたわけではなく、江戸時代初頭から存在する枯れた技術である。見沼代用水よりも約70年前の万治3年(1660)に開削された葛西用水では、既に幹線水路の5箇所に伏越が設けられている。
さらに柴山伏越は当時最大級の伏越というわけではなく、小針落伏越(行田市~川里町、
野通川の起点)や三十六間伏越(菖蒲町~白岡町、隼人堀川の起点)の方が伏越長は長かったと思われる。両伏越の建設工事も井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)が指揮している。
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(当時の様子を描いた絵)

  なお、見沼代用水沿革史(見沼代用水土地改良区/編、1957)などによれば、柴山伏越の施工では、元荒川をせき止めない画期的な工法が採用されたようである。
 伏越本体を元荒川の流路ではない(水が流れていない)場所に建設してから、元荒川を瀬替えして(川の流れを伏越の方へ導く)、元荒川の下を見沼代用水を横断させている。
 元荒川には仮締切り(流水を遮断する構造物)は設けられていない。
 いずれにせよ、柴山伏越の工事は当時としては、技術的に非常に難しいものだったので、 江戸から専門の職人(舟大工が多かった)を呼び寄せて、工事に当らせたという。」(柴山伏越のHPより)

 柴山伏越は1887年(明治20年)4月に、当時の最先端の建材だった煉瓦を使って、大改修され、木製の2連という、230年間も続いた構造形式は廃止され、煉瓦造りの1連となりました。これに伴い、通水断面の形状は四角形から円形となりました。1929年鉄筋コンクリートに改造され、現在の伏越はレンガ造りから3代目だそうです。


 見沼代用水路には危険防止のフェンスがはりめぐらされていて伏越の全体を写真にするのは難しいようです。


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(見沼代用水上流の調節堰=1982年5月製作)

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(元荒川の向こう側に見沼代用水の下流調節堰が見える右側は常福寺橋)


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(見沼代用水の下流堰=水がわき出て用水路を流れていきました)
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(常福寺から常福寺橋を渡って見沼代用水の下流にそって歩くと、この花が一面に)

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(見沼代用水路開削者の井澤弥惣兵衛為永(いざわやそへえためなが)の墓があったのが意外でしたが分骨して常福寺に墓がつくられたそうです)
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(キンポウジュが咲いていました)
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(竹の子がのびていました)




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