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2014年3月22日 (土)

地震、津波、原発事故に今も立ち向かう人たち 3月22日

Fukushima1

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

coldsweats01 旅は3月9日から11までの3日間でしたが、私は10日の朝から体調が崩れ、必死の思いで旅を続けましたが、浪江町の「希望の牧場」でリタイアし、帰途につかざるを得ない状況になりました。11日の相馬市「野馬土」の農民連直売所、大野台の仮設住宅での交流、南相馬市の追悼式に参加することが叶わず残念で残念でなりませんでした。
 それでも、福島の現場に一度行ってみたいと願ってきた私にとって、初めて被災地の現場に入って、自分の目で見て、聞いて、感じることのできたすばらしい旅でした。
 なによりも、感動したのは、地震、津波、そして人災である原発事故という三重苦に、明るく果敢に諦めずに、立ち向かっている人たちと出会うことができたことです。
 この地域にこそ政治の温かい援助が一人々の実情にあった形で全ての人に届けられなければならないのではと強く感じました。


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(浪江町で初めて見えてきた福島第一原発の姿です)
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(これが浪江町の現実=右側遠くに請戸小学校。犠牲になられたみなさんに哀悼の気持ちをお伝えします)

   被災地の最前線に立って
 福島原発事故はいまだ炉心溶融の原因も解明されず、放射能汚染水漏れは続き非常事態が続いています。除染は進まず、14万人もの人々が故郷を追われ避難生活を強いられ、震災関連死が地震・津波の直接被害で亡くなった人を上回るという、先の見えないつらい現実です。そこに政府の上からの線引きで格差を持ちこみ、住民の分断と幕引きをはかろうとする動きが強まっているように感じます。空間的にも、時間的にも、社会的にも被害が広がり続けるという「異質な危険」があるということを、あらためて強く感じました。「即時原発ゼロ」の政治決断をし、福島の復興に国をあげてとりくむべきではないでしょうか。

3月10日(月)

午後からバスの3号車に
農民連(農民運動全国連合会)・農事組合法人浜通り農産物供給センター、MPO法人野馬土(のまど)代表理事 三浦広志さんと石田さんが同乗し、三浦広志さんが説明をし案内してくれました。

《原発事故被災地の区域は、○避難指示解除準備区域 ○居住制限区域 ○帰還困難区域の3つに分けられている》

 昨日、兵庫県神戸の原発ゼロをめざす学習会があって講師として参加し、今朝帰ってきました。
現場の現在を話してくれと言われるけれど、話してもわからないから来て下さいとお願いしている。ですから、今回のような企画が一番、我々にとっては現場を見て実態を知ってもらうという点では大事な企画だと思っています。

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 私は農民連で活動していますが、もともと専業農家です。

 南相馬市の小高区、浪江町は20㌔圏内なので人が住んでいません。昼は入れるんですが夜は宿泊してはいけないことになっています。
 私も南相馬市小高区というところで農業をやっておりまして、今は新地町(相馬郡)、原発から50㌔ぐらいの所の仮設住宅に住んでいます。
 小高区にいたころは6㌶の米と50㌃ぐらいの野菜、ネギ、ホウレンソウ。それから鶏を300羽ほど飼いヤギを1頭、アイガモを飼って楽しく農業をやっていました。50過ぎたら本腰入れて農業やろうと思っていたので、鶏も増やしビニールハウスを建て増しして準備万端整えて51歳を迎えたのですが、それが跡形もなく津波で流されてしまいました。

 今は新地町で田んぼ約3㌶を借りて、50㌃は買ったんですけど。家を建てているところなんです。そこを拠点にして前の規模くらいの農業を再開したいなというふうに思っています。小高区に戻るという選択肢は私の中にはないんです。うちの集落はみんな戻らないと決めています。一人一人確認したら津波もあったので、原発から12㌔の所なので、だれも戻らないということで確認できましたので、戻らないで生活が成り立つような施策なりをやってくださいという陳情書を市長に提出し、国にはたらきかけをしてもらっています。

なかなか大変ですが、戻らないと決断すると楽になります。先に進めるので。

 でも、この辺の人たちは戻るか戻らないか悩んでいます。2016年4月に元の警戒区域(住んではいけないよ)を解除することになっている。その時点で、どれだけの人が戻るようになるのか、その時点で国が除染をやっているのかとか、それはまだ全然わかっていません。まだ手つかずといってもいいくらいですので、あと2年でできるのかなあとういうのが疑問ですよね。

 浪江町は6号線から入るのに許可を出していたのですが、今は許可を出していません。視察目的であるとか、そういう人には許可を出していません。なぜかというと、今、4号炉の燃料棒を取り出し始めたので何が起こるかわからない。その時に浪江町が許可を出していれば、浪江町の責任にされてしまうんではないかというふうに怖がっています。ですから昨年の11月までは許可を出していたんですが、燃料棒取り出しと同時に許可を出すのをやめました。で、今日はちょっと強行突破をしてみます。

 この釣り具屋さんから20㌔圏内です。ここから先は住んでいる人もいません。田んぼも20㌔の外は作ってもいいことになったんですが、ここは試験栽培となっていて限定的に作ってみるという形で耕作しています。
一部を借り取ってこのデーターを作っている。
 おととしより去年の米の方がベクレル数があがったんです。ちょっと特殊の地域になります。国の穀物課長さんが毎月来て実験データ―を採ってくれていますけど、なぜだかわからない。

 ここが私がやっていた精米所で、大阪に送るはずだったお米が津波でやられてそのままになっている。やっとかたずけが始まりました。仮置き場が大分できてきたので捨てることもできるようになったからです。ここも、分別、がれきを11年の3月、4月でかき集めた物を、それぞれ木は木、焼却できるものは焼却できるもの、コンクリート、埋めるものは埋めるもので分別して、それぞれの仮置き場、焼却場に持っていく準備をしています。

 あそこは堤防と松林があって海が見えるはずがなかった所ですけれど、今は、こんなにきれいに見える。こんなに海が近かったんだと不思議。

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(無人のガソリンスタンド)

 ここは20キロ圏内で元の原町区で、正月とかお盆に3日とか4日とか宿泊させました。
20㌔圏の外は市町村が管理で除染とか復興を担う。20㌔圏内は国が復興や除染を責任もってやることになっていますが、国はあまりやらない。

 草がないですけれど、これは、地域の住民が復興組合というものを作りまして、国から10㌃当たり3万5千円のお金が出ていて失業対策として草刈をしています。予算が切れて先週終わっているそうです。

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 ガス水道は通っています。ガスはプロパンガスなので。電気は東北電力が「そこに行くよ」というと電気を通してくれます。水道も復旧していますから(この地域はほとんどが井戸水)水は飲めます。

小高区に入りました。

 ここは平成の大合併で8年前に小高町と原町市と鹿島町の3つが合併し南相馬市になりました。この3つがなじんでいない内にこういう事故が起きて、小高が全部20㌔圏内、原町は20㌔から30㌔。で、鹿島は30㌔より外なんです。
 これが、賠償が20㌔圏内が手厚くて、その人たちが30㌔圏外の仮設に住んでいるという条件があって、もらえる人と、もらえない人がいるわけです。これがなかなか大変なんです。

 「賠償金いっぱいもらえていいね」とよく言われます。

 これでも大分かたずいたんですが、まだ車や船とか道路の両側にあります。

 田んぼの真ん中に家がありますが、あれも流れてきた家です。

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 こんもりした山が見えますけど、あすこは村上という集落で、館の山というんですけど、昔、館があったらしくて。周りに80戸ほどの集落なんですけど、上にかけ上がった人は助かりました。車で逃げようとした人は、道路が壊れていたりしたものですから逃げられなくて、亡くなった方がいっぱいいます。80戸の集落で60人以上が亡くなりました。

 固めてあるのが復興組合の人たちがガレキをかき集めたもので、そこから先にはまだ行っていません。

 ここは20㌔圏内なので環境省が壊す係です。ですから私たちが勝手に壊してはだめなんです。

 私の家は家だけは残っているんですけど、そのうちにソーラー並べようと思っているので、壊すの、急いでくれといっているんですけど、1,500万円です。1年に300軒しか処理できないといっていますが、急ぐようにと働きかけています。

 家が住んでいないと朽ちてくるんですよ。本当にぐずぐずに、帰るたびに程度がひどくなってますね。

 ここは(前)農協だった所で今は除染のステーションになっています。

(道路で、地震での割れ目がそのままの場所も)
舗装し直すのはしなおすんですけど、こういう本格的なのは手つかずという状況で放置されています。

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 3月6日にNHKの「あさイチ」の番組で8分ほど私たちの映像が流れました。私が浪江まで案内しました。(私、見ましたという声)志野山くんとしゃべりながら。あの日は大雪の日だったんですよ。やめようと言ったんですけど、もう後、予定がとれないということで大変な行程でした。
  「あさイチ」のテレビでパトカーに先導されているように映っていましたが、あれはたんに、前を走っていただけです。その後、私は職務質問されました。

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 山の上に鉄塔が見えてきましたけれど、あれが東北電力の浪江・小高原発の予定地でした。40年ほど反対運動をやっていて、炉心の所の土地を持っていた方が震災の2年前に亡くなったんです。それでいろいろやっていたんですけど、浪江町は本格的に原発を造るということを決め、馬場町長はそのために町長になってきたという町長さんなんですけど。114号も拡張して原発を造る、やる気満々でした。あの震災があったおかげで、それも無し。40年かけて造るんだ、造るんだといやがらせをしてきた東北電力も諦めざるをえなくなって計画白紙という、日本で唯一の白紙に戻ったということです。

お地蔵さんを山形県のNPOのみなさんが造られれました。

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(2013年12月22日 小高区海老沢にお地蔵さんが=福島民報よる)

 私より一つ年上の人が、娘さんが双葉厚生病院に勤めていて、出産のために帰ってきていた。地震があって迎えに来て、手をつないだところで津波が来てバーンと来て、その人だけ助かった。家族5人全員亡くなっちゃった。避難所で「その額の傷どうしたの」と聞いたら、生き残った人が、すごく、とめどなく私にしゃべりかけてきて、これは聞かなくちゃいけないと、聞きました。

 あすこが私の家なんですけど。神社の所。あそこが私の家なんです。
このルートなら見れるなとこっちのルートにしました。
 (声は明るかったが、三浦さんの思いが伝わってきた)

 ここも60戸ぐらいの家がありまして、基礎が残っているのは良い方で、えぐり取られましたから。ほとんどの家が津波にザブンと。

(大型バス1台、中型バス1台、JRバス1台で、どの道を行くかで運転手さんは苦労していました)

 山の上に仮の焼却炉を設置してそこで燃やすような計画は持っているようです。
焼却炉を造るというと、「そんな物そこに造るな」という人たちもいるので、なかなか進まないですね。「風はどっちから吹くかわからないんだから」とか。それもそうなんですけれど、何も進まないのも困るんですよね。

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(仮置き場)
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 それぞれの集落で一つずつ仮置き場を作りましょうということで、地権者の問題とかいろいろ出てきます。
 それが合意できないうちは仮置き場が出来ないということです。(同じガレキでも宮城とは違うよね、放射能で。という声)

浪江町に入ります。

 スイミングスクールです。

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(浪江町のボーリング場)

ボーリング場の向かい側がスクリーニング場になっています。足の裏だけ放射線量を計ります。
 最初は20㌔圏内に入るときには上から下まで全部防護服を付けさせられ、スクリーニングされましたが、今はそういうことはありません。

 この間、東電の職員と通りましたらイノシシがぴょこぴょこ飛びだしてきました。イノシシもいればイノブタもいっぱいいます。

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(浪江町役場とカモメのオブジェ)

 これが浪江町の庁舎です。
もともとは21,000人ぐらいの町でした。
原発誘致が決まって、これからは金回りがよくなるということで、造った庁舎で、あの上にカモメのオブジェがありますが、あれが2,000万円。一時、有名になりましたよ。「成り金かよ、お前らは」と。

検問所で交渉し通過させてもらう

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(通行の許可を折衝する三浦さん)

経過の説明。許可がおりていなかった。
法的には拘束力はないので入ってもいいですねということで入れてもらいました。

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(請戸漁港=3.11の地震・津波の後、原発事故で救助もできませんでした)

請戸(うけど)地域、漁港の街で11月ごろはサケがそじょうしてくるので、毎週土、日はサケ料理を出したり海産物など毎週お祭りのようでした。去年の11月はサケがのぼってきました。

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 ここずうっと家が建っていたんですが何もありません。

 ここは干拓地なのでポンプを造っています。この前、30億円のポンプがつぶれたので、おそらく50億か60億円の強力なポンプを造るといっていました。

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(テトタポット)

 テトラポット(消波ブロック)流れてますよね。ずうっと向こうに行ってます。堤防の外にあったテトラポットが運ばれてあっちまで行きました。

 これが仮置き場です。ここに放射性物質とかそういう物を搬入します。放射性物質と思われる物ですね。

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 両側がきれいな田んぼでしたが、今はこうした荒れた状態になっています。
セイタカアワダチソウが茂っていた時には何も見えなかったんですけど、枯れて来ると、流された車とか農機具とかが、そのままの状態で置いてあります。

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(マリンパークとプラネタリューム)

 あそこの建物はマリンパークといいまして子どもたちの遊び場というか、黒いのがプラネタリュームです。そこにバーベキューハウスとかもあって、人造の川があって、そこで魚を放したりして、みんなでそれを手づかみするなどしました。外側が海になっているので、ぼくらPTA役員は子どもたちを連れて地曳網を引かせてもらったり、楽しい場所でした。

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(バスの揺れる窓から浪江町に入って初めてみた東電第一原発)

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(場所によって第一原発の見え方は違いました)

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(ゴミの漂流物や船、慰霊碑の遠くに第一原発が見えました)

 正面に福島第一原発で見えてきました。
(初めて見る第一原発で、排気筒、クレーン、建物などが見え、ちょっと緊張)

右側の方にまだ船が転がっています。

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 そこが請戸漁港だったので、そこに停泊していた船が津波でみんなこっちに流されてきてしまいました。命からがら津波を乗り越えた船もあったんですけど、それは相馬の漁港に全部鎖でつながれ停めてあります。漁にも出られない。ここに入ることが出来ないので。福島県の海はご存じのように漁ができませんので。

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(流されてきた家と右側に請戸小学校)

 大きな建物がありますよね。あれが請戸小学校です。(進行左側)
ここは小学校があったくらい、家があったんです。
 子どもたちは、あの前の日も震度5の地震があったので、午前中に地震が来たらどうしよう、津波が来たらどうしようと先生方の間で話をしていたそうです。地震が来てすぐに、こっちの山まで走って逃げて、そこから大型ダンプカーに乗せられて浪江町役場に連れて行かれ、だれも亡くなっていません。

 (外に出て見たいとの声で短時間外に出ることに)

 第一原発まで4㌔ぐらいの地点。線量は0.18μシーベルト。

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(2011年3月15日のSPEEDIの記録で最初隠されていた)

 放射線量は距離には関係なく風向きで変わってくる。
SPEEDIの図を見るとわかりますよね。ここは風向きで外れた場所でした。山の方に向かって風が吹いたので、そっちの方が線量が高くなった。114号線沿いに放射能は移動した。放射能もちゃんと国道を走ったんですね(みな笑い)

はい、ここまでしか入れません。
ここから先は急激に線量が上がるんですよ。
帰還困難区域になり、1年間で50㍉シーベルト以上の地域。
正面に見えるのが双葉町です(帰還困難区域内)。

ここで下車

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(帰還困難区域の双葉町と第一原発が遠くに=これ以上入れない)

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(海を望みました)
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(林の方を見る)
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(農機具がそのままに)

 外はけっこう風が吹いていました。
みな立ち入り禁止の標識がある場所まで行き、双葉町方面と、小さく頭の方だけ見える福島第一原発を見ていました。振り返ると、右側は海で、左側には農機具など流れ着いた異物が何ヶ所にも溜まっていました。

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(心の中で犠牲者を追悼しました)

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(仮置き場の脇を通りました)
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(昔は海だった所で干拓して開拓してきた田んぼ=太平洋に)
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 あそこに縄文の遺跡がみつかって縄文公園になる予定でした。
縄文時代あの高台に人が住んでお魚獲って生活していたんですね。
先祖は代々田んぼにしたわけですよ。私のひいじいさんは大正時代に、ここで魚獲ってくらしていたそうです。(遠くの高台の説明)

(海岸に向かって、整理されていた田んぼが津波にやられて何も残っていなかった。所々に津波で運ばれてきた舟がそのままだった)

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(三浦広志さんの家が遠くに=三浦さんの思いが涙が出るほどわかりました)

 また、私の家が見えてきました。
この集落でまともに残っているのは3軒だけ。津波によって30人近く亡くなっている。その後、逃げる途中で、家の父も千葉県に避難して亡くなりましたけど。
ここの道を真っすぐ行ったところが私の家です。「あさいち」では雪で入れなくて望遠で撮っていました。

 あの新築の家がまもなく引き渡しだったんですけど、45度傾いているんですよ。津波で家が回ったんですね。海から1㌔ぐらいの場所。津波は3㌔ぐらいまで押し寄せました。

 先週は水がたまって白鳥とカモがいっぱいいました。

 300㌶ぐらいあるんですけれど、父は逃げずに「水を汲め、水を汲め」と言ってました。前に水利組合の組合長をやっていて河川改修工事をずうっとやっていたものですから、手をつけられなかったのが悲しかったみたいです。「入れないから水なんか汲めないんだよ」と言ったんですが、それ以来、あまり食べなくなってしまいました。

 3月11日、家に戻ってかたずけなどをしていた人が亡くなっています。あれだけの地震でしから、震度6強で6分間揺れ続けましたからね。

 福島大学の先生たちが地震堆積物の調査に来たことがあって、私の田んぼだけずうっと調べたんです。
津波堆積物だけがきれいに上と下の砂の層の間にきれいにある。これが何百年かに一遍くるんだけれど、ここは全部海だからねと言われました。
 私は地震の時に相馬にいて、自宅にいなかったんですけれど、妻は地震の終わる前から必死で逃げたそうです。ほとんどの人が避難所だった裏山の神社に集まってきていて、津波で人が流されたり、家が流されたりする状況をずうっと見ていたそうです。
あまり見ないほうがいいです。

 あそこは行津(なめづ)という集落で、行方(なめかた)郡の港で、千葉県の行方からの移民ですから。ここは港だったんです。

 どこでも神社はちょっと高台にあり、そこまで逃げれば大丈夫だったんですね。

 私は2011年3月19日に東京の小金井市に避難し、そこから池袋に農民連の本部があったのでそこに通い、農水省交渉を設定してもらい、3月24日に最初の交渉、31日に第2回目の交渉を行いました。
 3月24日に、ともかく南相馬に来て地震と津波と原発事故の最前線だから公務員がそこに来てそこで対策をたててほしいというお願いをしました。
 その時に言われた言葉が「私たち国家公務員は福島のような危険な所には行ってはいけないことになっている」(失笑)ですから、ここがこの状態なのもわかるじゃないですか。こういう風になってしまえば危機管理能力がないんですよ。

 やはり、その直後には入っていた国家公務員の人も、中通りの人もみな引き揚げたそうです。その時期は。ですから福島はその時一旦見捨てられたんです。

常磐線の電車は通っていません。

JR浪江駅をめざす
無人の街をバスで走る。
黄色いテープは環境省のテープです。危ないので近寄るなという印です。ですから環境省が壊すのは怖くない。

浪江町駅に向かうも、駅の近くでガードマンにストップをかけられる。
NHKが浪江駅前で撮影を予定していて、撮影用のワイヤーが張られていてバスにひっかかってしまうために、駅まで行けずに断念しました。(3月11日の夜、NHKの放送で浪江駅前から放送。町営のバスが今にも発車するような感じで置かれたままの状況の映像が流れていた)

 コンビニに板はってありますね。みんなはってあるんです。
2012年4月15日に警戒区域解除になった次の日とその次の日に全部破られました。割られちゃった。
 ここはよく来たスーパーマーケットです。私の生活圏だったんです。

 30年ローンが残っています。こんどこれの賠償金が出るんですけど、建てたらいいものなのか、どうか。妻は今、実家に避難してるんですよ。お母さんと。震災の最中にお父さんが亡くなっちゃたんですよ。お父さんをみとるのに避難しなかったんです。ここは0.3μシーベルトぐらいで避難先は0.6~0.7ぐらいあるんです。それも悩みの種でね。本当にこれでよかったのだろうかと思っています。
 訴訟とかも訴訟団に入っても、今後の子どものことも考えてちゃんとけじめをつけないと、国の責任とか、そういうものをきっちりと認めさせないと今後、福島がどうなるかわからないので、そのためにはがんばってやるということで、いま訴訟団の中心の一人になってがんばっています。

 ここにも仮置き場を作って、仮置き場を除染して又仮置き場を作ってそこに持ってくると。仮置き場は除染はいらないじゃないかと思うんですが。除染するんだそうです。

 これから行くのが「希望の牧場」です。

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(希望の牧場)
Dsc00695

 家畜の命を救う「希望の牧場」(有)エム牧場で、吉沢正巳さんが代表。
“決死救命・団結 そして希望へ”の掲示板を掲げていた。
330頭ほどの肉牛がいて3.11から飼い続けていて、売れない肉牛です。
吉沢さんは避難していないで、無許可でここに居ますから、月10万円の賠償金がもらえないそうです。

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