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2013年9月12日 (木)

紙芝居で「北川辺と田中正造」を伝える  8月24日

 「北川辺おはなしの森」が上演

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(「北川辺おはなしの森」の活動は20年を迎えるそうです)

 北川辺西小学校の玄関を入るとひげをはやした、おじいさんの絵があります。また校庭の近くには赤い屋根のお墓があります。これは1913年、大正2年に亡くなった田中正造という人の絵とお墓です。
この時代、北川辺は西の地域は利島村、東の地域は川辺村の二つの村でした。
この物語はあらゆる困難にあいながら田中正造と共に村を守った人たちのお話です。

◆ 渡良瀬川にそった村々は自然に恵まれお米や野菜がたくさん採れ、さわら沼では魚獲りも盛んに行われていました。

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  おとう、おかあ、魚が獲れたぞ。まだいくらもぷかぷか浮いて流れて来るぞ

  そんなばかな、 なるほど 白い腹をみせて いくらでも流れて来るな

  おかしなことがあるもんだな

 
  大雨の後は、魚がたくさん浮き上がってながれてくるで~

  へんなことが毎年つづくな~

◆大雨が降った後きまって農作物が枯れたり魚が死んだりすることを村の人たちは不思議に思っていました。

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  足尾の鉱毒が原因でねえかと、おらのじいさまは言ってるでがす。

じいさまが用事があって足尾の町あたりまで行くと変な臭いがずうっと鼻に来て、精錬所のそばまで行くと当たりの山はそっくりはげ山になっていたそうだ。

川の水もその当たりからにごりはじめていたというしな~。

◆利島村、川辺村は天明時代からの数十年間で80回以上も洪水があり、3年に1回は大雨の水がひかず、そのたびにこの一帯は水浸しになりました。米や農作物の収穫が全然ない年もあったのです。それといっしょに流れてきたのが足尾銅山からの鉱毒でした。その鉱毒は村の人たちに多くの苦しみと被害をもたらしたのです。鉱毒の含まれた作物や魚を食べたことで原因のわからない病気に苦しめられ、母親はお乳が出なくなったばかりでなく、生まれた赤ちゃんは障害を持ったり、死んでしまうことが多かったのです。
足尾銅山は東洋一の銅山といわれました。ところが、銅を採り出すときの  山林は切り倒され精錬所からはきだす有毒ガスは木々を枯らし、自然豊かな緑の山は見る影もないハゲ山に変わってしまいました。
鉱毒を含んだ水が渡良瀬川沿岸の村々を「渡良瀬川の魚は衛生に害があるから獲ってはならね~」という噂がたちました。

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  川が狂うただ。狂うてしもうた。

  本当に洪水のたんびに、だんだん草が生えないようになっただ~

  井戸水を飲めば下痢をするし、はだしで歩けば足の指がただれるし

  隣のばあさまは、おかしくなってしまったしな~

◆被害地の人たちは、東京まで歩いて行って訴える押出しを何度も何度も繰り返し、県にも実情を訴えるかたわら、大学の先生には土の状態を調べてもらったりしました。

田中正造は、今の栃木県佐野市の名主の家に生まれ、国民の自由と平等を願う民主主義の世の中をめざし、人が人として生きる社会づくりのために活動していました。
1890年、明治23年、日本で初めての第1回衆議院選挙に栃木県から立候補して48才で当選した。ちょうどその頃は鉱毒の被害が目に見えてひどくなった時期でした。被害地をまわり、村のひとたちからの訴えを聞き、土を調べた大学の先生からの報告を聞いた正造は、1891年、足尾鉱山鉱毒事件として国会で取り上げたのです。

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(帝国議会で論陣をはる田中正造)
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  この枯れた竹をみてください。竹が枯れただけではないのです。

  昨年は一粒の米も実らない、作物も生えてこないのです。

  村人は鉱山から流れる鉱毒で生きるか死ぬかの被害を受けている。

  鉱山の銅を掘る作業をやめてほしい。

◆村人を思う正造の熱のこもった訴えも、政府の役人の心には届かず、示談で問題を解決しようと進めたのでした。

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  よいか、このじいさんの口車に乗るんじゃないぞ。お上も、おまえらの苦労はよく知っておる。同情もしておる。たまたまじいさんが、口癖のように言っておる、鉱山に銅を掘るのをやめさせるということは、国家にとって大きな損になる。また古河に損害を弁償させる方法は、田畑の広さや作物の出来具合が違うので計算が難しい。
 だから、話し合い、つまり、示談でお金を出すというわけじゃ。いいな。

  しかたねえべえ  川は狂っておる。 

  この際、たとえ少しでも、もらうもんもらった方が

  
  おまえさんの言うとおりだ。物事には潮時というもんがあるでな

◆政府は利島、川辺村をお金で買収して廃村にし、大水と鉱毒の問題をごちゃ混ぜにし、世間をだまし鉱毒の沈殿池として遊水地にする計画でした。だから大雨が降って堤防が切れ、村々が水浸しになっても、国や県は修理せず、そのまま放っておき、村民があきらめて村を棄てるように仕向けたのです。正造は足しげく村を訪れ、鉱毒の恐ろしさを伝えました。
1901年、明治34年、国会での答弁に光が見いだせず、議員を辞めて足尾銅山の操業停止を、幸徳秋水、石川半山(石川安次郎)などと相談し、明治天皇に直接訴えた田中正造は、村民にとって、神に近い存在になっていました。

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  鉱毒の沈殿池を造っても、大水も鉱毒も無くなりはしない。

  足尾も古河が操業をやめれば鉱毒も無くなる。

◆おりにふれての、正造の力強い言葉に励まされ、村議会でも真剣な議論が交わされました。

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  子どもや孫たちのふるさとを無くすことはできない

  ご先祖様が残してくれた村を廃村にすることは絶対に許せません

  利島と川辺が一つの村だという気持ちで村を守るため、一致団結しよう

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◆一人一人固い決意を秘め、村長や村会議長や有力者は話し合いを重ね、村民大会は開かれることになったのです。

1902年、明治35年、10月16日 利根川の決壊した堤防に両村の1/4に当たる1,500人あまりの村民が朝早くから続々集まりました。

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  国が水浸しを放って置くのなら、我々は手弁当で堤防を築こう

  その分、国や県の工事代金が浮くのだから、我々は税金を納めなくてもよいのだ

  働く人が大勢必要なのだから兵役の任を負うことはない

◆こうして、村民は団結を固め、とうとう埼玉県知事は遊水地計画を断念し、利島、川辺廃村反対闘争は勝利をおさめたのでした。しかし、政府は候補地を隣の栃木県谷中村に移しただけで遊水地計画を断念したわけではありませんでした。
たたかいは、これで終わりではなかったのです。
谷中村は、利島、川辺と同じように豊かな水田が広がった所です。大水の度に村を囲む堤防は崩れていきましたが、栃木県は修理をしないどころか、村人や田中正造たちが修理に取り掛かると、人夫を連れた役人がやってきて突き崩し、田畑や屋敷を始末して出て行けと迫るのでした。
利島、川辺の人たちは、自分たちの受けた同じ苦しみを、谷中村の人たちが味わうことになり、胸もつぶれる思いでした。自分たちも、まだまだ立ち直れない悲惨な状況でしたが、正造と共に谷中村の人々を支え、いっしょにたたかったのでした。
しかし、堤防が崩れてから4年間もの間、水に苦しめられ、食べるものも底をついた谷中村の人たちは、一人去り、二人去り、次々と村を立ち退いていったのです。
深夜、冷たい風が吹く中を、わずかな家財道具を抱え、乳飲み子を背にした親子連れは人目をさけながら、涙ながらに逃げるように立ち去って行きました。

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  子ども死なせてまで、村守らねばならねえのか。

  おらあ、どうしても、この子を生かしてやりてえだ。

◆代議士をやめ、谷中村に移り住んで丸3年。村民と苦労を共にしてきた正造は、被災地を駆けまわり、裁判を起こしたりして谷中村の立て直しをはかろうとしましたが、思うにまかせませんでした。反対運動に熱心だった村民も、先の見えない苦しみと、国や県のむごい仕打ちに立ち向かう力も無くなっていきました。
戸数450戸の谷中村は1907年、明治40年には、わずか16戸と、生死を共にし、正義を貫こうとする人たちだけになりました。
しかし、栃木県では法律の名で、残る16戸も取りつぶしたのです。それでも残った人たちは仮小屋を作って住みつき、田中正造といっしょに村を守るため離れようとはしませんでした。

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わずかひとにぎりの支配者が、お金と名誉のために罪もない人々の幸せも奪ってしまう、

こんな世の中でいいのだろうか。

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山や川を元に回復することが出来れば正造は死なぬ。それができなければ、正造は山や川と共に滅びる。私を気遣う前に人の住める土地を取り戻してくれ。

  真の文明は、山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし

◆足利からの帰り、佐野市で倒れた正造は、見舞いに駆け付けた農民たちに切々と語りました。土が汚れ、水が汚れることは、命の水が汚れることです。
人の命と環境を守るため、政治家としてではなく、一人の人間、下総の百姓として信念をもって生きた人、田中正造は私たちに大きな心の財産を遺し、1913年、大正2年9月4日、その生涯を閉じました。
正造の遺骨は利島、川辺村民の強い要望で利島村小学校、現在の西小学校校庭の一角に分骨埋葬されました。毎年10月4日には、しめやかに法要が営まれております。

水の被害に加え、俸禄にせめられて死んだ村の人たちの、廃村反対闘争という勇気ある行動と、正造のなにものにも屈しない力添えがあったからこそ、今の北川辺の存在があるのです。命がけで守られたこの大地を踏みしめながら、祖先や正造の信念を心に刻みつけ、一人一人、生きることを行動に移し、自然を守り、美しい北川辺にしていくことが私たちに残された使命ではないでしょうか。

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(出演された「北川辺おはなしの森」のみなさん)

 

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コメント

私も紙芝居をやっています 来る3月11日にNPO法人国際サーカス村協会の人達が足尾銅山の地を皮切りに沖縄まで、原発、公害を訴えて公演します 私も少しお手伝いをしたいと思っています そこで誠に勝手ですが当会が制作しました*北川辺と田中正三を伝える*紙芝居を演りたいと思っているのですがお借りできないでしょうか?
私も水俣病などの公害病などに取り組んでいます
よろしくお願い申し上げます

投稿: 石橋睦夫 | 2014年1月 2日 (木) 20時22分

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