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2013年9月10日 (火)

田中正造没後100年記念講演会-2  8月24日

2、田中正造の生き方に学ぶ

田中正造さんの生き方の特徴がどういうところにあったのか。私たちは、どういう点に学んだらいいのかという当たりを話してみたいと思うんです。

一つ目、「一身以って公共に尽くす」

さきほど言いましたけれど、1877年、西南戦争後、政治家になる決意を固めた時の言葉です。

「金品に乏しきを憂えず」これも正造さんの言葉ですね。

つまり、お金とか物質、いくらそんなものを持っていても、それはほとんど意味がないんだ。

 晩年になると聖書の言葉で同じことを言います。「ラクダが針の穴を通るよりも、金持ちが針の穴を通る方が難しい」

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(田中正造=1841年11月3日生れ1913年9月4日没)
 

金持ちが天国に行くのは難しいんだ。お金をどれほどたくさん持っていようと、そんなことに意味を見いだせない。金持ちは、どんどんどんどんそれを公共のために使いなさい。そういうことを正造さんは主張したわけです。

 晩年には無所有、一物を持たない生き方ということを主張するようになってきます。お金がなくては、生活できないわけで、たくさんの人から支えられて、たくさんの人からカンパをいただいては谷中の村民のために使う。自分のためにお金は使わない。いろんな人から集めたカンパも困っている人のために全て使ってしまう。

正造さんのエピソードが

古河当たりに行きますとね、ちょっとお金を持っていそうな家の玄関の所に大きなガマ口に紐を付けた物をポ~ンと中に投げ込んで、じいつと待つんですね。家の人はわかっていて、ガマ口の中にいくらかのカンパを入れる。それを正造さんが引っぱって受け取る。北川辺地域では正造さんがお風呂に入っている時に、ですね、自分の服をたたんだ上に空のガマ口を置いておくらしいんです。それで家の人はいくらかのカンパを入れる。正造さんはたくさんの人の援助を受けて、そしてそれを自分のために使わず、人のために使う。そういうやり方をしてきた。まさにボランティアというかNPOのはしりのようですね。
 せっかくそうした5円くらいのお金をもらっても、正造さんは子どもが大好きで、子どもを見ると、すぐ駄菓子屋でセンベイとかアメ玉を買って子どもたちに渡してしまって、せっかくカンパとしていただいたお金を使ってしまうということがよくあったらしいです。

正造さんは子どもさんに期待していたんです。だから、西小学校にある児童教育、子どもを教育することの重要さに正造さんは歳とってから気づくんです。「自分は教育の事をおろそかにしてきた」これは正造さんの悔い、大きな悔いの一つです。いろんなところで言っています。正造さんは「子どもの姿をみると日本の将来がわかる」と言っているんです。だから、どこに行っても、子どもの姿をみる。「名古屋ですばらしい子どもをみた」とかね。よく日記や書簡に書いているんです。

さっき作文を読んで下さった平井くんと橋本さん、すばらしい小学生でした。ぜひ、田中正造さんのことを将来に渡って語り継いでいってもらいたいなあと思いますよね。

「一身以って公共に尽くす」これはですね、まさに、私たちはこれから一人の主として社会に関わっていく基本にならなければならない言葉だろうと思うんです。よく日本の国は、お国柄なのかもしれませんけれど、公とか公共というのは国家が独占するという、国家や行政が独占するという傾向が昔からありました。だから、公と私しかないんです。公と私しかない、公私二元論的な社会だったんですけど、正造さんは、公と私の間に公共というものをきちっと位置付けていました。もう明治の時代から。

「公はこれ国家のこと、政治のことなんだ」「公共とは社会のことだ」「私は個人」。「公共は社会のこと」つまり、私たちが作っている社会のことなんですね。社会のために尽くすのが公共なんですね。

新しい公共ということを民主党政権の時に、鳩山首相なんか最初の施政方針演説で打ち上げたんですがすぐ挫折してしまいましたね。でも、正造さんが100年以上も前に言っていることですから。正造さんの質問に学んだ方がはるかにいいだろうと私なんか思っていました。

二つ目、「惻隠(そくいん)の情」(孟子)

 儒教の孟子の言葉。今ではこの言葉、ほとんど使われないと思いますが、戦後までの日本社会では孟子の「惻隠の情」は日常的に使われていました。

 あわれみいたむ心。かわいそうだなと思う心。つまり、他を思い他人が苦しんでいるのを見過ごせない、見過ごすことはできない。自分が行って助けてあげようと思う心です。それが「惻隠の情」なんです。

 ちょうど正造さんは、1910年に日本が韓国を併合します。韓国を植民地支配します。その23年後でしょうか、ぽつんとこういうな言葉を日記に書いています。

「他を思わざる者、社会に充満して、日本ようやく滅亡す」そいう言葉を日記に書いているんです。

つまり、他者を思いやる気持ちをなくしてしまった人が、今の日本社会にはごろごろしている。自分のことしか考えない、自分の利益しか考えない、そういう利己的な人間だらけになってしまった。やっぱり、これで日本は終わりだ。亡国だ。そういう風に言っているんですよね。ですから、正造さんは、まさに社会を成り立たせている基本は、他を思う心。他を思う心。これを本当に重視していたわけですよね。正造さん自身が本当にいろんな人のことを思い、人が苦しんでいるのを見過ごすことができなくて、もんもんともだえ苦しみながら、自分の目の前で苦しんでいる人、一人を救えたら、自分はその場で死んでもかまわないとまで言った人ですよ。言い切った人物です。だから、それだけ、人が苦しんでいるのを見て見ぬふりをする。そういうことは全くできなかった。そういう他を思う心、そして他人と繋がっていこうという気持ちを非常に大事にする人だった。これが田中正造さんの生き方の特徴の一つだと思うんです。

三つ目は、正直、誠実

 当たりまえのように思うかもしれませんが、本当に正造さんは死ぬまで正直ということを強調しました。それも、弱い正直じゃだめだ、強い正直じゃないとだめだ。こういうことを谷中の残留民の人たちに何回もハガキに書いて送っているんです。

 よく、正直とか誠実というのは、近世以来、江戸時代以来、日本の民衆の中に脈々と受け継がれてきた考え方、生き方の基本だろうと思います。それを正造さんは実践していきました。世の中に、わいろとか、そういうものがはびこる時代に、明治の社会も後になるにしたがって、たとえば、教科書疑獄事件とか星亨という政治家とかわいろをたくさん取ったという話に事欠かない人物なんですけど、そういう人たちとは全く対照的に、田中正造は「正直の頭に神宿る」「強い正直でなければ用にたたぬ」「正直の寿命は何千年」こういう言葉を残して、正直の重要さといことを強調しているんです。

 これは、みなさん、日常生活の中でなにげなく実践していると思います。

四つ目は、「人生は一生に一度一大事業に当たれば足りたり」

 「人生は一生に一度一大事業に当たれば足りたり」、正造さんにとってこれは、足尾銅山鉱毒事件だったと思うんです。国会議員として、議員辞職後も足尾銅山鉱毒事件に関わり続けたことを、私たちは当然のように思っていますけれども、栃木県選出の国会議員は何人いたでしょうか。群馬県、埼玉県この被害地から選出された国会議員は何人いました。10数人いたんですよ。(栃木-5、群馬-5、埼玉-8=18人)その中でどうして正造さんだけが、最後まで議員を辞めてまでも、足尾銅山鉱毒事件に取り組み続けたんですか。他の議員は一時的に関わりはしても、みんな、最後にはやめちゃっていますよ。なぜ、正造さんだけが最期まで鉱毒とのたたかいをやめなかったのか。おそらく、「人生は一生に一度一大事業に当たれば足りる」。自分にとっての一大事業は、まさにこの足尾銅山鉱毒事件だ。こんなにもたくさん被害を受けて苦しんでいる人たちがいる。この人たちを自分は見捨てるわけにはいかない。いま、ここで自分が足尾銅山鉱毒事件から手を引いてしまっては、自分のまさに生きる意味そのものが否定されてしまう。そう考えたんじゃないかと思うんです。で、なけりゃ将来は総理大臣という声まであった、第1回総選挙から第6回まで連続して当選していて、立憲改進党から憲政本党、の重鎮として、大臣の椅子などは約束されていたような田中正造さんが、なんで政治家の椅子を投げ捨てて、それで、ぼろ服を身にまといながら、一つの家に二晩と泊ったことのないような生活を谷中村で送って谷中村の買収反対運動を死ぬまで続けているんでしょうか。たぶん、田中正造さんが出会った一大事業、それが、足尾銅山鉱毒事件にほかならなかった。今、ここから自分が逃げ出したら、お前の生きる意味そのものが否定されてしまう。そういうふうに、正造さんは、たぶん受けとめたんだと思うんです。

 私たちは一生の中で何度か、そういう事業にぶつかります。その時に、どう、その人が行動するか。そのことで、その人の人生の価値というものも決まってくるのではないでしょうか。

 正造さんにとって、足尾銅山鉱毒事件というのは、これは渡良瀬川流域一地域だけの問題ではない、日本全国、いや、世界人類に共通する問題なんだというふうに正造さんは考えたんですね。そういうふうに書簡などにも書いているんです。

 ですから、おれはこの問題に取り組んで生涯を終えても悔いはない。そいう覚悟ができて、はじめて、あれだけの人生を送ることができたのではないかと思います。

五つ目は、「老いてますます進歩主義」

 この言葉も私は大好きでなんです。

この「老いてますます進歩主義」というのはですね、田中正造さんが議員を辞めてですね、直訴もして、そして、単身で谷中村に入って運動している最中なんですが、正造さんの親戚とか知り合いがですね、「もうそろそろいいじゃないか。この歳になってまで、もうそんな社会運動しなくてもいいんじゃないか、もう隠居して安楽な生活を送ったらいいんじゃないか」。当時はだいたい60才過ぎたら隠居するのが普通でしたから。正造さんは60過ぎても、のたうちまわっていたんですよ。その辺の田んぼや畑で。そういうのを見かねて、親戚や知り合いが隠居所まで準備して隠居させようとしたら、田中正造さんはなんと答えたか。「正造は老いたりとて、隠居せるものにこれなき候。斃(たお)れて止むまで、または老いて朽ち果つるまで進歩主義にて候」(19068月21日) みごとですね。今日よりは明日、明日よりはあさって、日日、少しづつでもいいから前に進んでいくんだ。おれはそういうふうに生きたいんだ。隠居なんかよしてくれ。というふうに、親戚に手紙を書いて送ったんですね。  見事ですね。

 ですから今日はご高齢の方が多いようですから。みなさん、老いてますます進歩主義ですよ。よろしいですね。正造さんに学ぶってそういうことですから。「老いてますます進歩主義」がんばりましょう。そして正造さんのことを子や孫に、どんどんどんどん伝えていきましょうよ。

六つ目は、「民衆の低みに」

 国会議員までやった人が、貧民の群れの中に入って生活する。とても想像できないことです。正造さんはこう言っています。

「老いて冷水を学の愚、愚は即ち愚なり。車上貧民の巣窟を訪う。功少なく労費多し。食は甘きを欲し、衣もやわらかきを欲するの老体をもって、この不便の地に入りて悲惨と飢餓とのむれに入らざれば、近き学びに至らず。・・・・・・・粗衣粗食して破屋に臥して、しかしてその人民の苦痛に学んで、救いという思想の当然に発覚せるならんか。もしそれただに見てもって憐れなりと思い、聞いてもって憐れなりとせば、皮相に過ぎざるものあらん。」(190861567才)

 「実際に人民の群れの中に入っていって、その人たちの悲惨な生活、食にも事欠くような彼我の状況を身をもって体験することなしには、この人たちを救おう、救いたいという気持ちが出て来るもんじゃない。ただ、外から見て、眺めて、聞いて、それでわかったつもりになっても、それは何にも意味がない。人民の群れの中に老体に鞭打って一人で入っていく。そうでないと、本当の学びには至らない。」ということを言っているんです。これを「民衆の低みの中に」と私などは言っているんです。

正造さんは「えらい人になりよりは人民をえらい人になせ。人民をえらくせば、身はえらくならざらんとすともえらくなるなり。」(1909526日)

「自分がえらくなろうと思うよりも前に、人々をえらくしましょう。そうすれば、自分はだまっていたってえらくなるんだから。自分の栄華、栄達よりも、まず、ごく普通の人々をえらくする、意識を向上させる。そういう風に行動していったほうが、最終的には社会全体のためになるんですよ。」自分ひとりだけえらくなって、高みに登って、低みにいる人たちを引っぱり上げよう、救いあげようと思ったって、そんなことはできるわけがない。人民をえらくするほうが早道だと言っているんです。

田中正造さんは足尾銅山鉱毒反対運動の先駆者であったということだけじゃなく、私たちの人生の先達、先駆者でもあり、そして、今の日本国憲法、平和憲法の第9条、や第25条、前文などの平和的生存権、社会的生存権というものを先駆的に唱えていた人物。今から100年前に、そういった条文に結実するような思想をすでに唱えていた人物だということですね。

終わりに

 
 「真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」

 私たちはまだ田中正造さんが理想としていた真の文明が実現できていない、そういう日本社会の現実を前に生きています。

「真の文明は  山を荒さず  川を荒さず  村を破らず  人を殺さざるべし」(1912717日)ということは、みなさんは、これは自然を大切にしなければいけないんだ、村の歴史とか、命を大切にしないといけないんだというふうに言われるかもしれませんが、私は近代という社会は何でもお金に換算する社会です。何でもお金に換算してしまう社会、人の命、交通事故で死んだらいくら、原発事故だったらいくら、何でもお金に換算してしまうでしょ。ダムが建設予定地 はい村が移転しなさい、保証金いくら。すべてお金に換算してしまうんですよ。正造さんがここで挙げた、山、川、村、人、これは根源的にお金に換算することのできない問題です。ですから何でもお金に換算してしまう、経済的な価値を優先する、そういう近代文明に対するアンチテーゼとして真の文明と言っているんですが、そこに挙げられている山、川、村、人、これはお金には代えることのできない貴重な存在なんです。その代表として挙げていると私は思うんですよね。ですからお金に換えればいい、お金で弁償すればいいんだというそういう発想に基づいている現近代文明、そもそも、それを、そもそも根源的な所から否定しているんですよ。正造さんは。そうじゃない文明を造らないといけない。これが正造さんの考えだと思うんです。ですからそういう風な意味でも私たちは正造さんを未来の導き手の一人として正造さんに学び実践していく必要性があるだろう、そして正造さんの思想は3.11の原発事故を経てますます輝きを増しています。

私たちは3.11後の社会に生きていますから、原発の問題も念頭に置きながら正造さんの言葉を読み解いていく必要があるだろうと考えています。

 この北川辺の地域で正造さんの没後100年を記念する意味というものは、田中正造さんと共に闘った、そして利島川辺両村の地域だけではなくって、自治を守るために闘った先人というものを記憶して将来に語り続けていく、これも正造さんを記念するだけではなく、加須市のみなさんにとっては大事なことではないかなと思うんです。一番最初に申し上げた石井清蔵さんの本の中には、沢山の利島川辺の村のたくさんの人たちの名前が沢山出て来るんです。片山嘉兵衛、山岸利吉、山岸直吉、野中清八、飯塚伊平、柴田健助、増田清三郎、稲村広吉、片山喜八、武井みよ、飯塚いち、石川たけ。武井みよ、飯塚いち、石川たけという女性の名前も出てくるんですが、この御三方はですね、田中正造さんの直訴の後、女たちの押出しというのが実行されるんです。被害地の女性だけが東京まで大挙して出て行って、いろんな関係官庁に働きかける。女だけの押出しというのをやるわけですよ。その女たちの押出しに参加した3名の名前なんですよ。こういった、いろんな人が、正造さんの教えに学びながら、正造さんの教えを乗り越えて、自分たちの力で村を守ったんです。そういうことをしっかり記憶し、将来に伝えていかなければいけない。こう人たちがどうい人だったのかということを顕彰会のみなさんが小冊子を作られている。記憶に残そうという活動をされているそうです。10月4日には完成するということなんで、私も期待をもって心待ちにさせていただきたいと思います。

(小 松 裕 熊本大学文学部教授講演から要約)

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