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2013年9月 9日 (月)

田中正造没後100年記念講演会-1  8月24日

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 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 何年か前に「赤貧洗うがごとき」という田中正造の生き方を綴った映画を観ました。
田中正造が明治時代に足尾銅山鉱毒事件に生涯をかけてたたかった、すばらしい、尊敬すべき思想家として私の心に刻まれていました。
 今回、ホテイアオイを大利根まで見に行こうと思い、ネット検索中に、北川辺で田中正造没後100年の記念講演会が開催されることを知って、田中正造についてもっと深く知りたくなり出かけました。
 熊本大学文学部教授の小松裕さんの話もよかったし、西小6年生2人の作文朗読、北川辺おはなしの森の紙芝居も田中正造さんを理解するのに大変役にたちました。渡良瀬遊水地のことや、谷中村の事など知らないことが多く、話がわからないヶ所もあり、家に帰ってから勉強することになりました。それで、少しは理解が深まったように思っています。
勉強する機会を与えてくれた、主催者のみなさんに感謝しています。

 記念講演会の内容をできる限り伝えたくブログに掲載することにしました。

田中正造の生涯とその思想
講師 熊本大学文学部教授 小 松 裕(ひろし)

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利島川辺両村民、足尾銅山鉱毒反対運動に立ち上がる

利島村で田中正造さんと共に活動した、石井清蔵さんの私家版で1951年に出版された「義人田中翁と北川辺」という本があります。この本の最後の方で「田中正造翁終生仕事者」-田中正造さんに終生仕えてきたというような署名、自書が書いてあるんです。「自分は田中さんに一生仕えてきた、そのことが自分の誇りだ」そういうアイデンティティ-が証明されていると思うんです。
この石井さんの本は当時の利島川辺両村民が足尾銅山の鉱毒反対運動というものにどのように取り組んできたかということを主に両村民の動向を中心としてまとめられた大変貴重な本だと思います。
この本を見ますと本格的に利島川辺の二つの村の人たちが鉱毒反対の運動に参加するようになるのは、1896年、明治29年の秋に渡良瀬川が3回に渡って大洪水を起こします。その後に舘林市下早川田(しもさがわだ)の渡良瀬川のほとりに雲龍寺というお寺があり、その雲龍寺に鉱毒事務所というものを設置しまして、そこを被害農民たちの反対運動の拠点にしていくわけですね。そこで鉱毒反対運動は組織化され、展開される。ちょうどその頃から本格的に利島川辺の両村民も鉱毒委員というものを選出しまして雲龍寺に行っていろいろな活動をするようになる。それが本格的な始まりと書いてありました。
当然田中正造さんの指導があったわけですけれども、その後、利島川辺両村の村長を代表として何名かの鉱毒委員が帝国議会に請願書を提出する。正造さんも操業停止を求めるように、そういう請願書を提出するという運動が見られます。そして、当時は「押出し」と言っていたんですけど、大挙して東京までみんなで押出して行って、そして帝国議会、貴族院の議長のお宅とか衆議院議長の官舎とかに総理大臣、いろいろな大臣などそういう所を訪問して請願書を届けるという押出しにも参加しています。
こういった両村の運動の中心になっていたのは、利島村の場合には片山嘉平衛、川辺村ですと井田兵吉、増田清三郎といったような人たちが中心になっているわけです。

自治力のすばらしさを後世まで語り継ごう

そして、田中正造が天皇に直訴した後に、二つの村の人々が「利島村相愛会」というのを最初結成しまして、それが川辺村といっしょになっていくわけです。「相愛会」すごくいい名前ですよね。
実はこの「相愛」という名前は自由民権運動の時代にもたくさん使われたんです。日本全国の結社の名前として「相愛」という名前がたくさん使われたんです。私が住んでます熊本にも「熊本相愛会」という結社がありました。そういうふうに、自由民権運動以来よく使われている名前「相愛会」。
いわゆる、行政とは別の形で自発的にこういう団体を組織した。これがすばらしい。まさに、村民たちの自発的なボランタリー、ボランティアの組織なんですね。この「相愛会」というのは。それが中心になって鉱毒反対の運動を展開していったということなんです。本当にすばらしいことだと思います。
そして「相愛会」が中心になりまして、遊水地にするという計画が浮上した時に、その買収計画に対する大規模な村民大会を1902年、明治35年10月16日に開催します。
さきほどの紙芝居の中に出てきましたけれども、埼玉県は堤防が壊れたまま、修復しないで放置しているんですね。つまり、そこに人々が村人たちが住めなくするように、わざとしむけるために堤防が壊れても直さない。
それで、利島川辺両村民は、県が治さないんだったら自分たちの力で治す。ただし、税金は払わない。しかも当時国民の二大義務といわれた納税、徴兵という義務を果たさないぞと、これは、もう当時の県だけでなく国、明治政府に対する挑戦状です。真正面からの挑戦状ですね。そういう決議をあげて、絶対に遊水地にはさせないという固い決意で反対運動を展開していく。その結果として埼玉県知事も結局断念します。利島川辺両村は遊水地にならなくてすんだ。このあたりの経緯を石井清蔵さんは「これ田中翁の指導、激励と両村民の一致団結の力」と本の中で評価しています。
その後、1903年の2月17日、埼玉県知事が遊水地にすることを断念した後に、連続して足尾鉱毒に反対する談話会・幻燈会を開催している。連日連夜。毎日、毎晩のように演説をしている。利島川辺の地域ごとに毎晩のように談話会・幻燈会を開いて、村民の意識を啓発していくと同時に団結力を高めていく。これもすごいことだと思いますね。
それだけじゃありません。お隣の谷中村はですね、正造さん達の反対運動も実を結ばずに結局、谷中村がつぶされて遊水地にされていくわけなんですけど、まだ谷中村に村民たちが住んでいるにかかわらず、栃木県の方は、同じように堤防が壊れても修築しないし逆に堤防を壊すんですね。県の役人がやってきて堤防をしっかり土を固めるために植えられている柳の木を切払ったり、堤防を崩したり、本来、水害から地域住民を守らなければいけない人たちが逆に谷中の人たちを追い出すために、堤防を壊していく。だからちょっと水が増水しただけでも水があふれて谷中村に入ってくる。
村民たちは谷中の人たちはこれじゃ麦も何も獲れないからというんで、給水止めの工事をするんですね。1㍍もないような田んぼの畦のようなものですよ。そういう物も造って谷中の地に踏みとどまるわけです。
そういった給水止めの工事に利島川辺村の村民たちが大挙して応援にかけつける。ノボリ旗に「利島川辺両村民、義援人夫」というような墨でデカデカと字を書き、まさに自分たちはボランティアで谷中の人たちを助けに行くんだと、大きな白いノボリを立てて二つの村から谷中村の工事の援助に何回も訪れているんです。自分たちは助かって遊水地にならなくてすんだけれども、隣の谷中村は遊水地にされてしまう。非常に困っているだろうから、そういう人たちを放っておけない。そういう思いで利島や川辺の二つの村からたくさんの人が工事の応援に行く。これを見て谷中の人たちは涙を流して喜んだという記録が残っています。

田中正造が1913年9月4日に亡くなって今年でちょうど没後100年なんですが、10月12日に佐野の惣宗寺(そうしゅうじ)で本葬が行われ、遺骨は6ヶ所に分骨埋葬されました。北川辺西小学校(麦倉地域に在った利島小学校が前身)にも分骨埋葬されました。そして1930年3月4日に墓の隣に田中正造さんの大きな称徳碑が建てられ除幕式が行われました。田中正造さんと北川辺地区のみなさんとの関わりというものが今日まで語り継がれてきています。
今年はその100年という記念すべき年で、これまで田中正造のことを、北川辺地区の「学ぶ会」など市民団体が一生懸命に語り継いできた、そういう記念すべき年でもあるわけです。
それと同時にみなさんに振り返ってほしいのは利島川辺両村民の自治力のすばらしさ。自分たちの地域は自分たちで守る。この強い決意とエネルギー、団結力。これを将来への宝物としてもういっぺん思い起こしていただきたい。この後、100年、200年と正造さんと共にたたかった利島川辺両村民のことをずうっと子や孫の代にまで語り継いでいただきたいと思います。

1、 田中正造と足尾鉱毒事件

 正造さんは1841年11月3日、栃木県佐野市、当時の下野の国、阿蘇郡小中村の名主の家で生まれました。名主といっても2~3町歩の、作男2人ぐらいの、本当に小さな名主の家でした。
     幕末維新期 領主六角家との抗争 → 投獄
 1870年 江刺県の下級官吏として花輪分局に勤務
 1871年 上司木村新八郎暗殺の嫌疑で逮捕 → 投獄(74年釈放)
      自由民権運動に参加 「一身以て公共に尽くす」決意
 1877年古河市兵衛足尾銅山を買収、操業開始
 1880年 栃木県会議員に選出
 1884年 三島県令との抗争 → 警察署に拘留
    横間歩大直利発見、生産量が急増すると同時に自然界の異変が見られ始める
 1890年 第一回総選挙で衆議院議員に選出(以降、6回連続当選)
    渡良瀬川大洪水による鉱毒被害が発生、鉱業停止の声上がる
 1891年9月 被害地調査=足尾銅山鉱毒事件と出会う
 1896年秋の渡良瀬川大洪水で鉱毒被害が拡大 → 鉱毒問題に専念
 1897年3月 被害民、二度の「押出し」 → 鉱毒調査委員会(第一次)、古河に鉱毒予防工事命令を出す
 1899年 議員歳費を辞退
 1900年川俣事件発生 「亡国」演説
 1901年 衆議院議員を辞職 天皇に直訴
 1903年鉱毒調査委員会(第二次)谷中村遊水池化案を答申
 1904年 遊水池の対象にされた谷中村に入る 村民と買収反対運動
 1906年 谷中村を藤岡町に合併
 1907年 残留民16戸の家屋を強制破壊
 1909年 渡良瀬川改修工事案に反対運動を展開
 1910年~ 河川調査を実施
 1913年9月4日 胃ガンのため死去
     新約聖書、憲法とマタイ伝の合本、日記帳3冊、河川調査の草稿、鼻紙数枚、川海苔、小石が3個 それが田中正造の全財産

自分にとっての大学は社会、人々から学ぶこと

田中正造は生涯に4回投獄されています。牢屋に入った数だけ人間のスケールが大きくなるのかもしれません。正造さんにとっては、投獄体験は、その時期に熱心に勉強するんですね。明治時代の人はみんなそうでした。たとえば、正造さんより後の大杉栄さんという、社会主義者、無政府主義者がいますが、彼なんか、いっぺん投獄されるたびに外国語をマスターするんです。ですから彼は5ヶ国語ぐらいペラペラなんですね。すごいバイタリティーですよね。おそらく彼等は自分が悪い事をして捕まったと思っていないんですね。正しい事をして、それで捕まったんだから別に意気消沈する必要ないということで、牢屋がまさに彼等にとっては学校だった。
田中正造さんも二回目の投獄、盛岡で捕まって牢屋に入れられた時に「西洋近代思想史」の翻訳書で熱心に勉強するんですね。そうやって近代思想を身に付けるんです。あるいは、4回目に投獄された時には、獄中で「新約聖書」を読んでキリスト教への理解を深めていく。みなさんこうやって勉強していくんですよね。勉強って学校だけでするものじゃないんですね。どこだって勉強できるんですね。学校に勉強を閉じ込めて置くって逆に悪いことで、そんなに良いことではないと思いますよ。人生、いつだって、どこだって勉強できる。大学の先生がこんなこと言うと首だと言われるかもしれませんが。  だから田中正造さんは「社会は大学なり」といつも言っていますからね。自分にとって大学は社会、社会の一般の人々から学ぶこと。それが正造さんにとっての勉強なんです。そいうつもりで、いつも、いろんな人の話に耳を傾けて、そこからいろんなヒントを得て、それを自分のものとして、自分の思想を作りあげていく。それが、正造さんの学び方ですよね。それは私たちにとっても参考になるのではないかと思います。
自由民権運動の時代について、はしょらせていただきますが、1877年、明治10年に西南戦争が勃発します。ちょうどこの当たりの時期に、正造さんは政治家になる決心をします。その時に、「一身以って公共に尽くす」が正造さんの半生の自叙伝の中に書いてある言葉なんですが、「一身以って公共に尽くす」という決意を固めていきます。
これからは自分のもうけ、つまり、私利私欲を追求することはしない。全ては世の中のため人のために自分の財産を何もかも投げ打って、世の中のため、公共のために尽くしていく。こういう決意を固めていく。
すごいですよね。まだ30代後半です。その後、それを忠実守っていく。

天皇の勅令で出された結論は谷中村を遊水地に

1901年、正造さんは天皇に直訴しましたが、直訴で要求した内容は、足尾銅山鉱毒事件の被災民の救済だけでなく、日本を丸ごと救おうとした。日本の立憲政治が機能しない。機能しない結果、政府、藩閥政府の権力だけが非常に強大になってしまって、上が天皇、下が人民、この天皇と人民がないがしろにされている。こういう政治の姿を根本から改めようという思いで天皇に直訴した。日本を丸ごと救おうというすごい思いで天皇に直訴していくんですね。
その時に正造さんは、憲法に規定されてあった天皇の勅令、天皇に勅令を発布してもらうということを期待していたんじゃないか。これが私の解釈なんです。
 天皇に勅令を出してもらって、まず、鉱毒被害民、国民の安寧、幸福のために天皇は勅令を出すことができると、ちゃんと憲法に書いてある。それを忠実に実行してもらう。天皇が勅令を出して、まず鉱毒被害民を救って、それを契機として日本の立憲政治を一から作り変えていく。そこまで田中正造さんは願ったんだろうと考えているんですが、ところが、天皇は勅令は出したんですが、これがなんと代議士の鉱毒問題調査委員会を作るという勅令だったんですね。その代議士の鉱毒問題調査委員会が出した答申というのが、谷中村を中心に3000㌶の遊水地を造るという答申だったわけです。つまり、田中正造さんが天皇に出してもらおうと思った勅令の結果として、谷中村が遊水地にされてしまうという案が浮上してきます。責任の一端は自分にもある。おそらく、そういう思いがあって正造さんは単身で谷中村に入っていったんじゃないかと思うんです(想像するしかないが)。

自分は谷中学初級生

議員をやめて、ただの人になり、そして谷中村に入って、谷中村の人と付き合う中で「谷中学」ということを正造さんは言いはじめるんです。谷中で学ぶ、「自分は谷中学初級生だ。谷中学の1年生」という風に言います。すごいですよね。そういう過程で正造さんはいろんな思想にたどり着いて行きます。
「無戦論」。「非戦論」じゃないんですよ。無戦論。戦争はいっさい無くそう。軍備は全廃しよう。日露戦争に勝った日本だからこそ軍備を世界に先駆けて全廃しよう。そういうことも言ってますよね。そして、痛烈に東京帝国大学なんかを中心にするアカデミズムを批判します。
「 住民を救う学問を未来へ。 今の大学生なんかはだれ一人、住民を救う学問をしている人を自分は知らない。みんな国家やあるいは権力者、そういった人たちにすりよるばっかり。」
福島原発事故の後に原子力村という言い方がはやりましたけれども、ああいう体質を正造さんは当時から批判していました。
第一次、第二次の鉱毒調査委員会は当時の日本のそうそうたる学者、研究者が動員されるわけでしょう。ところが被害民の立場に立つ委員なんていうのは、たった2~3名なんですよ。委員会は政府、古河の息のかかった人たちばかり。第一調査委員会で委員だった、渡辺渡という工学博士はその日のお昼に調査委員会で話し合った事を、夜には古河市兵衛に報告しているんです。古河市兵衛とベッタリ関係のある人が何人も委員になっているわけですから。これは、足尾銅山の操業停止などという結論は到底出るはずはない。
そういう中にあって、正造さんが被害民のために生涯を投げ打って闘ってきたわけですから、権力に奉仕するだけのアカディズムの学問の体質というものを早くから痛烈に批判していたわけです。田中正造さんの到達した思想的な地平というのは、100年経った現在でも決して古びることは全くないんです。これから先100年の私たちの未来を私たちが構想する時に、本当に正造さんの思想というものはいまだに輝きを失わない。逆にいうとこの100年、この国はほとんど変わっていないということです。
足尾から窒素水俣病事件の水俣を見、水俣から福島を見るとよくわかります。よくわかります。さっきの紙芝居の中にも示談の話が出てきましたよね。これは鉱毒被害が発生した直後に、もう古河市兵衛が当時の軍や県会議員の有力者を使ってですね、被害民との間に示談契約を結ばせるんですが、なんと、日清戦争の最中ですよ。戦争で国民の眼が外を向いているさ中に古河は被害民との間に、永久示談契約、「今後被害の原因が足尾銅山にあることがわかっても、いっさい苦情は申し立てません。」という条文が書いてある示談契約書に判を押させるんです。永久示談ですね。全くこれと同じような文章の見舞金契約書というのが、窒素と水俣病被害者の間に結ばれました。見舞金契約。そして、福島でも東京電力は事故の後に被害倍賞の話が出た時に、すぐその補償の契約書の中に「今後一切追加の請求は行わないこと」という一文を盛り込んだ倍賞請求書を被災者との間で、契約を結ぼうとしたんですね。同じ事を3回も繰り返している。さすがに、福島の場合はマスコミが騒ぎたてて、それはすぐ撤回することになりましたが、マスコミが騒がわなかったら、企業はしらーっと知らん顔して、被災者との間にそういう契約書を結んでいたかもしれない。
100年経って私たちは、日本という国の体質・構造がいったいどれだけ変わったのか、いまだに田中正造さんのことを、私は、一生懸命あちこちでもてはやしていますけど、もてはやす事が正直言ってはずかしくてしょうがないです・・・・・。今なお正造の事を言わなければいけないのか・・・・。残念なんですね。でもそんなこと言っていてもしょうがない。これが日本の現実なんですから。だから正造さんが唱えたこと、理想に一歩でも私たちが近づくために、私は声がかかれば、どこにでも行って、田中正造さんの思想のすばらしさということをお話ししようと思って来ているんです。

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