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2013年6月29日 (土)

「女たちの地上戦~沖縄 」再放送から④  6月16日

■ 戦争に全てを奪われた
安里要江(としえ)さん(当時25才主婦)

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【山根基世アナ】
沖縄戦の聞き取り調査は女性たちにとって大きな転機となりました。廃墟からの復興に追われ戦後25年間、自らの辛い体験を人前で話す人がいなかったのです。
安里要江さんは家族を次々と失った体験を戦後初めて語りました。

《安里要江さん》
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私が前に嫁いでいた家族は計9人死んでおるわけです。
私の子どもが2人、主人で3名。それからお姉さんの子どもが1人、おじいさんとおばあさん、お兄さんの子どもが4名のうち3名がやられ9人です。私たちの家族だけに犠牲がかかってきたような感じがします。あの時の話をすると、私は本当に・・・・
なんだか、今日だからこそ話せるんであって、本当は話したくないんです。思い出したくないんです。

【山根基世アナ】
縄本島中部の北中城村
安里要江さんは戦後も長い間、家族全員を奪われた沖縄戦のことは決して語れる気持ちになれませんでした。しかし40年前、強い説得を受け調査に協力することになりました。その時、それまで胸に秘めていた思いが一気にあふれ出たといいます。

(問い) それまでしゃべったことあったんですか

《安里要江さん》
いえ、ないんです。ない。
あれが県史に記載するための座談会というんでしょうか、証言者の集まりだったと思いますよ。ない、どこにも行ったことがない。初めて台所から出て行った。

(問い) 戦後25年ぐらいですよね

《安里要江さん》
はい。もう生々しいですよ。私泣いているはずですよ。泣きながら話しています。

【山根基世アナ】
2時間に及び安里さんの証言は、調査に協力した1000人近くの中でも宮城聰さんに特に強い印象を残しました。
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 4月、アメリカ軍が上陸したのは要江さんの疎開先からわずか7キロ。直後から家族の逃避行が始まりました。

《安里要江さん》

小さい4つの子どもの手を引き、みんな小さい子どもだったんです。乳飲み子をおんぶして着たままなんです、救急袋を背負って。それからモンペは、はけるだけはこうと4枚はいていたんです。というのは、1枚1枚汚れたり破れたら捨てるという覚悟で、何も持てないから、子どもしか見ることできないから、救急袋を背負うだけで精一杯です。手を引きおんぶして、そしてモンペを4枚着て足の上げ下げにも困るくらいです。あの状態といったら話せないくらいです。いろんな爆撃とか、急に照明弾を打ち上げられて、明るくなってサトウキビ畑に首を突っ込んでみたり、小さな溝の中に入ってみたり、そうしながら一晩かかって無我夢中に壕の事しか頭にないですから壕に飛び込んだんです。
 やれやれ入れる所はあったけれども今度はご飯の事が、食事の事が心配になりまして、一日は食わず飲まずで我慢して昼中。そして夜、艦砲があがっているよというみんなの話声でですね、ほら艦砲少なくなったらしいよという事で飛びだしていった。悪気で盗るという気持ちじゃないんです。命をしのぐのにはどんなことでもやろうという、あれですね。かっぱらってくるわけです。いろんなお店からだとか、お家からだとか、残っている品物を何でも。空家ですから。夜に出たら本当にネズミみたいに、こそこそ歩き回ってあちこち探して食料を求めて、それで半煮えしたようなご飯を何にもありませんよおかずは。おにぎりをみんなに配って、一食ぐらい、それで昼中はもう我慢です。

【山根基世アナ】
6月、要江さんの家族も本島南部に追い詰められました。両親や親戚など10人で見知らぬ土地を逃げまどっていました。
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《安里要江さん》

急に迫撃砲の集中射撃にあって、それでも私の子どもを引っぱって逃げようとした時に母は足をやられましてね、右の足を切断されて爆風で母はその日に亡くなったんです。あれから壕を探さなければいけないという事になってですね、真壁の集落の前をさ迷い歩いたら6月9日にですね、8日に母がやられて9日はその周辺をさ迷い歩いたら、ちょっとした石の穴みたいな小さい壕が1つありましたので『まあそこでもいいだろう。頭さえ入ればいいだろう』と言って、分散して家族10人が3つぐらいに別れて入ったわけです。
 しゅうとが、ちょうど9日の日にその壕に入ることが出来なくて『子どもさえ助かればいい。私はいいよ。お前たちは子どもたちをよく守ってやれ』とおじいさんが言って前の方にがんばって一晩明かされた。
 そうしたらちょうど、おじいさんの近いところに迫撃砲が来てですね、おじいさんは即死です。おじいさんはうちの壕に乗っかって死んでしまっているんです。
『おじいさん、おじいさん、どうしたんですか』と言っても『う~ん』と言ったまま亡くなって。そして出ようとしても出られない。大きな体でしたから、おじいさんは。お姉さんと2人でおじいさんを突きのけて、それで子どもたちも出て、おじいさんの冥福をそこで祈ったわけです。私たちもついて行きますから、おじいさん先に待ってて下さいねとお祈りをして、おじいさんをそのまま壕の入り口にほったらかして、今度こそ大きな壕を探さなければいけないと言って、おじいさんを置いて、友軍(日本軍)の大きな壕があると聞いていましたので、壕はどこにあるか、壕はどこにあるかというような事しか言えませんから。ただですね、食べなくてもいい、穴の中に入って、爆弾をよければいいという意識がありますから、あの時からは。

● この日、カーブヤーガマは
ボランティアガイドの案内で修学旅行の平和学習が行われていましたImg_2130

「このガマはですね明りを消すとどういう状態になるのだろうか。なんでその暗闇の中で住民たちは入らざるをえないのかな~と考えて、ガマの中が明りを消すとどういう状況になるか、懐中電灯を消してみて下さい。はいどうぞ」
懐中電灯を消すと壕の中は真っ暗に
「ウワー」という子どもたちの驚きの声が響く
その暗闇のなかで黙とう。

【山根基世アナ】
要江さんは道行く人に尋ねカーブヤーガマと呼ばれる大きな自然洞窟があることを知りました。6月半ば、要江さんはこの壕にたどり着きました。沖縄戦が終わる12日前。当時、カーブヤーガマは日本軍と600人ほどの住民でごった返していたといいます。

《安里要江さん》

カーブヤーガマというのがあるんです。
そこが何部隊か知りませんけど、軍隊が使用していましたので。そこの入り口に友軍(日本軍)が2、3名おりましたので『恐れ入りますけれども私たちは入る壕がありませんから、私たち家族だけでも入れて下さい』とお願いしたら、『できない。お前たちは戦争の邪魔者だ』またそこでも怒鳴られたわけです。でもどんな事でも、壕が目の前にひかえているのに、入らないという事がどうしてあるものかと思ってですね、無理矢理に、その兵隊が水汲みに行きましたので、私たちはその合間を利用して目を盗んで入り込んでしまった。
 はいったら一般民衆も入っているんです。避難民も。入り口の方から入っていったら、そこではローソクをともして、たくさんの人がゆうゆうと寝ているんです。右側は友軍、左側は一般民。その入り口のとても広い場所に釜がですね、大きな鍋が3つくらい置いてあったんです。炊き出しする所、そこを見たらご飯炊があるのを見て、軍隊はちゃんと前から貯蔵しているんです。
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 うちの子どもたちは『かあちゃんまんまん食べたいよう』と言うんですよね。そうしたら私はあの時は本当にご飯粒をあげてないんです、4、5日間。それでも『軍隊の兵隊さんのものは食べられないから、あんた方がまんしてね。母ちゃん戦争が止んだら、たくさんとってきてあげるから』となだめたんだけど、『ご飯食べたい』と本当に泣く元気もない泣き方をするんです。それでも、子どもたちが泣く様子を見たら本当に親は忍びないんです。
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【山根基世アナ】
要江さん家族はいもの粉と砂糖を水に溶かし飢えをしのいでいました。要江さんの逃避行がはじまってから80日が経とうとしていました。

《安里要江さん》
 
あっちでもがやがや、こっちでもがやがや話す声はいろんな話。突破しようという話『ご飯が食べたい』『青空をみて死にたい』『お芋を腹いっぱい食べて死にたい』『おまんじゅうが食べたい』そういう話声しかわからない。もう本当にみんな精神が異常になりかけていたんです。ノイローゼ気味になっているんです。
 私が連れてきた赤ちゃんがちょうどあの時、9ヶ月です。ご飯も食べていませんからおっぱいが出ないわけです。
 自然洞窟の鍾乳洞の中を尖った石がたくさんあるんですね。そういう所を手探りで平らな所を探して、じめじめした所に座ったままで1日、2日、3日も続いたので、そしたら子どもがだんだん泣かなくなって、そして『和子ちゃん、和子ちゃん』と呼んでも、え~とも泣かないんです。そばに4才の子どもをおいて、私は9ヶ月の子どもをおいて、名前を呼び合って自然に命を切らしたんです。
 私はあの時の事を考えたくないですけど、ただ顔も見えないままに、壕に入る時に見た子どもの顔を思い出しつつ、『ごめんなさいね。母ちゃんも後でついて行くから、あなたひとりじゃないんだよ』私は子どもに言って聞かせてその壕の中に子どもを埋めたんです。
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(1945年6月21日のカーブヤーガマ)
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(6月21日のカーブヤーガマ)

【山根基世アナ】
沖縄戦が終わる2日前、6月21日のカーブヤーガマです。
アメリカ軍に説得され住民たちが壕から出てきたときの映像です。
要江さんも夫と4才になる息子とともに捕虜になりました。収容所のバラックで家族3人の新たな生活が始まりました。しかし要江さんの苦難は終わりませんでした。

《安里要江さん》

 あの時は、4才になる長男と主人と私の3名、長屋に住んでおりましたけれども、主人は前にろく膜を患って大変体質が弱いものだから戦争のいろいろな打撃でもって栄養が足りなくなって栄養失調になってしまって、もう本当に大変衰弱してですね、口も尖るくらいやせてしまって、骨と皮だけになって、朝起きてもですね、変だと思って、あの状態はなんとも言えない。そのまま死んでいるんです。あの時、葬式は毎日何十人といて、墓地に運ばれていったのです。
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(毎日、死亡者が葬られた)
 ここに来てまた不幸は続いて、うちの長男が爆風でやられていたので、何だかここに障害を起こしていたかもしれません。鼻から出る鼻汁が真っ黒い煤煙を飲み込んだような鼻がでるわけなんです。だんだん、日を追って悪くなる一方で主人の49日目にまた亡くなったんです。
 それからが私は苦労のしっぱなし。
いままで戦争もしのいできたのに、私たち親子3名で那覇に戻って、新しいお家も建設しようと生活設計も立てておりながら、主人を失う、子どもを失うはめになってしまって、もう私は生きる道が無くなってしまったのです。自分は、本当にどうにか死ぬことが出来れば私は死にたい。自殺でもしたいという気持ちにかられて自暴自棄になっていたんですよね。

【山根基世アナ】
 要江さんが終戦から数年後に同級生と撮った写真です。要江さんは多くの人が新たな生活を始める中、1人収容所に留まり続けました。故郷の実家に戻ったのは戦後3年が経ってからでした。

◆ 安里要江さん 今も元気に語り部として
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(安里要江さん)

【山根基世アナ】
沖縄県史が発行されると要江さんの生き方は大きく変わりました。
是非、直接話を聞きたいと語り部をたのまれるようになったのです。年に40回ほど修学旅行生に話をしています。
 安里要江さんは、2009年の放送後も、痛い足をかばいながら語り部として活動を続けています。
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(語り部として)

「今から安里要江さんの講演会を始めます」

戦後25年間、だれにも語れなかった辛い記憶です。

《安里要江さん》

私、沖縄戦を体験して、なんか、自分でも想像つかないほど生きております。
暗闇の中で手でさすって子どもの輪郭を確認し・・・・・・・・」

【山根基世アナ】
要江さんは28才の時、周囲の強い勧めで、同じように家族を失った男性と再婚しました。子どもは5人生れました。
今、新しい家族に支えられながら、失った家族への思いを語り続けています。

《安里要江さん》

 でも和子ちゃんを話すことはできません。どうせ自分も死ぬんだ・・・・・
あんなたくさんの家族を失った怨みつらみはいくら話しても諦められない・・・うん・・いつも思っています。“がんばれ”って死んだ人たちの励ましだと思っています。ただ生きておれないです・・・・・・・・
食べ物ができて着るものができて、その時になっては恵まれない時代に亡くなった人たちはかわいそうです。毎日々こうして語りをしているから、感情も何もないかと思うはずだけど、決してそういうことではないです。
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【山根基世】
40年前に記録された88本150時間の戦争の記憶。
地上戦にいやおうなく巻き込まれた沖縄の人々が、どう生き死んでいったのか 
録音テープに残されていたのは二度と戦争を起こしてはならないという沖縄の叫びです。

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