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2013年3月11日 (月)

東京大空襲から68年-戦争孤児の実像  3月10日

東京大空襲から68年
それでも私は生きたい
~いま明かされる 戦争孤児の実像~

      2013年3月8日 NHK放送

 今年も東京大空襲から68年目の日がやってきました。
世界中で社会発展をめぐっての闘いや民族間の紛争が絶え間なく起き、アメリカなどの軍事同盟もかかわって、無差別爆撃などによって、多くの一般住民に多大な犠牲が強いられています。無差別殺戮はやめろ!!こうした映像を見ていると、東京大空襲と重なって考えさせられてしまいます。
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(東京大空襲を絵に=狩野光男さん)
 3月8日にNHKで放送された「いま明かされる戦争孤児の実像」を、時の政治支配者が戦争責任を明確にしないまま、自分たちの責任で12万人もの戦争孤児が生まれたのに、新憲法の下でも差別し、虐げ、憲法の義務教育の権利も責任も果たさなかったことが、安倍自民党政権と重なり不条理に胸が痛みました。残念なことに、一種の思想攻撃で、教師までが大きな流れに流されて、子どもたちを守ろうとしなかった事を知って悲しくなりました。この放送で主役を果たした山田清一郎さんは、自らの体験から中学校教師となったのではないだろうかと私は勝手に想像しました。

tv 放送の内容から

戦争孤児の 総数は12万人。
彼らはその後、どう生きたのか。その体験をほとんど話してこなかったために、その実像はわからないままでした。しかし、今多くの孤児が80代にさしかかり、当時の実態を埋もれさせてはいけないと語り始めています。

 戦後68年経ち過酷な体験を告発しはじめた戦争孤児たち。子どもたちが生きてきた真実。
戦争孤児の山田清一郎さん(77才)
戦争孤児としてどう生きてきたのか、自らの体験を各地の子どもたちに伝えています。
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(子どもたちに話をする山田清一郎さん)
 1945年の神戸空襲の中、山田清一郎さんは母親といっしょに逃げました。しかし、身を隠していた防空壕が爆撃をうけます。
 当時山田さんは10才。神戸や東京などの公園や駅で寝泊まりをする生活が始まりました。

(山田清一郎)
「当時、母親がいっしょにいたんですけれど、母親が『早く逃げろ』と言って私を防空壕から押し出した。出て振り返ったら防空壕が崩れてしまった。母親が生き埋めになって一人になってしまい戦争孤児になりました」
「戦争孤児になってから、人に自慢できるような話は一つもありません。恥ずかしい話ばっかりで、孤児の体験を自分の子どもにも、あまり話していません。なぜかというと、話すような内容ではなかったから」
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(野宿する戦争孤児たち)
山田さんが話したのは、同じ境遇の孤児たちと身を寄せ合いながら、食べ物を手に入れるのも必死だった毎日でした。

(山田清一郎)
「ある時、商店街でアキラという友達がトマトを盗んで逃げたら、ちょうどジープが来てトマトを抱いたままアキラがひかれて亡くなってしまうんですけど、私がその後を追っかけて行ったら血だらけの中にアキラが盗んだトマトが転がっている。アキラの血の中にトマトが動いている。もう泣くに泣けなくて、アキラとトマトのことが印象に残っている。トマトを見るたびにアキラのことが思い出されて、今でも私はトマトを食べられません」

生きていくために盗みなどをせざるをえなかった多くの戦争孤児。次第に治安を乱す存在と、捕えられるようになります。「狩り込み」と呼ばれた警察による取り締まりが行われるようになりました。
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(狩り込みという戦争孤児たちの取り締まり)
 戦争孤児の研究をする前田一男立教大学教授(近代教育史)は当時、日本は食料難の対応や経済の立て直しが優先され孤児に救済の手がさしのべられることはほとんどなかったといいます。

(前田一男)
「戦争孤児は戦争が終わってから本当の戦争が始まった。戦後が生きるための戦争だった」
「世の中を安定させていくためには戦争孤児は邪魔な存在という意味合いが「狩り込み」という言葉に象徴的にあらわれている。だからこそ、保護し教育されるべき存在が治安の対象にされた。自己責任ですよ。ちょっと極端な言い方をすると、10才前後の子どもたちが自己責任を負って生きていけ、そういうような突き放され方をしたんじゃないかなあと思いますね」

 当時の体験を記録として残せないか、20年前には戦争孤児を対象にアンケート調査が行われていました。調査をしたのは1人の戦争孤児。多くの孤児の居場所を探し出し50人に当時の状況を尋ねました。しかし、「文字にしたくない」「自分の子どもたちにもなかなか語れない」ほとんどの人が自分の体験を具体的に答えませんでした。
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(証言を絵にして後世まで伝えようとしています)
 このままでは戦争孤児が高齢化するなかで、その記憶が失われてしまう。孤児と研究者は、様々な形で記録を遺せないかと動きはじめました。今、大きな取り組みとなっているのが孤児たちの厳しい体験を聞き取りして絵によって再現し遺していこうというものです。記録にも残っておらず写真にも写っていない、孤児たちが忘れられない瞬間を描いています。これは孤児たちの目に焼き付いている東京大空襲の瞬間です。火の海に囲まれ全身にやけどを負いながら隅田川に逃げました。しかし、逃げまどう人ごみの中でいっしょだった父と母から離れそれきりになってしまいました。
この空襲で家族を失い戦争孤児となりました。

狩野光男さん(82才)絵に描いて記録
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(絵を描く狩野光男さん)
「親と別れた場所はこの向こう。なぜ自分だけ助かったのか、いまだに分からない」
「親の遺体の確認もしていない、伯父と祖父が確認し仮埋葬をしましたので、私は見ていないので、なかなか孤児になったという実感はわかなかった」

 狩野さんは自分の体験を絵に再現したのをきっかけに、多くの孤児たちの体験を絵で残す活動を始めました。過酷な体験を人前で話すことや名前をだすことを躊躇する孤児たちからも話を聞き取っています。ある孤児は、銀座の路上で暮らしタバコの吸い殻拾いが生業でした。吸い殻の中のわずかな葉を集め売ることで何とか食料を得ていました。空襲で亡くなった人の墓標を盗んでいた孤児。薪にして凍える寒さの中で命をつないでいました。日本刀を振りかざす孤児。親がいないことで同級生からいじめられ逆上し殺そうとした孤児もいました。これは狩野さんが見た忘れられない瞬間です。東京有楽町のガード下に居た娼婦の中に孤児となっていた幼馴染をみつけました。

(狩野光男)
「この子は小学生の時によく遊んだ近所の女の子なんでその子が14、5才で娼婦の群れの中にいたのを見つけまして、思わずこの子の名前を呼んでしまったのです。そしたらこの子はすっと横を向いて向こうに行ってしまいました」
彼女の悲しげな眼を狩野さんは今もはっきり覚えています。
「やはり人に言えないことをしてきた人もいる、思い出すのも嫌というのもありますし・・思いだすことによって、私もそうなんですけど、自分がその時の気持ちに一回戻るわけですから、すごくつらいことなんです。孤児といっても、70歳半ばを過ぎていますから、まあ、あとどのくらい生きられるか分かりませんから、せめて命のあるうちに、自分たちの体験を残したい」

(金子トシさん)
東京上野駅地下道
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上野駅地下道が忘れられない場所だという戦争孤児がいます。金子トシさん(82才)です。15歳の時に空襲で親を失いここで(上野駅地下道)兄弟と暮らしました。上野駅の地下道にあふれていた戦争孤児たち。幼い孤児たちが飢えや病気で次々に死んでいく様子がいまも金子さんの脳裏から離れません。
 弟は10才、妹は8才、全く先の見えない不安な中で生きていました。手にわずかな金で得た食べ物を分け合い飢えをしのいでいました。

(金子トシ)
「孤児がずらっと並んで寝ていた。弟と妹と3人で丸まってここで過ごした」
どうやって食べていたんですか?
「サツマイモをおばちゃんがふかして階段のところで売っていた、それを買って食べただけです。ええ」「買って弟と妹に与えて私は食べない日もありました。お金が無くなっちゃったら大変」

 まわりの孤児たちが次々と亡くなる中で、金子さんの弟や妹も衰弱していきます。しだいにしゃべらず、起き上がることもなくなっていきました。

(金子トシ)
「もう精一杯です。なんて言っていいですかね。いつまでこうしているんだろうか、涙が出ましたよ。私より弟や妹が死んでしまうでしょ。ほんとに何て言っていいか分からない」

 その後、兄弟は親戚に引き取られますが永くはいられず、金子さんは住み込みの奉公に出かけました。3人は離ればなれとなって戦後を生き抜いたのです。

 戦争孤児の体験を子どもたちに話している山田清一郎さんです。孤児としての苦しみは戦後もずっと続きました。山田さんは2年もの路上生活の後、12歳の時に長野県の戦争孤児の施設に保護されました。施設にいたのは、同じ身寄りのない戦争孤児12人でした。新たな生活を始めた子どもたち。しかし、待っていたのは冷たい差別でした。この絵は山田さんが忘れられない学校での光景です。入れられたのは地元の子どもたちとは別の「犬小屋」と書かれた教室でした。どんな思いだったか。子どもたちに話し始めました。
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(子どもたちに自らの体験を話します)
(山田清一郎)
「一番困ったのは学校問題。学園(施設)から小学校へ行くのに村の人たちはみんな反対。浮浪児は学校に入れるな。野良犬は入れるな、バイキンのかたまりだと。私たちはずっと学校に行きたいと言いながら学校に行けなくて、翌年になってようやく学校に行けるようになった。『やっと学校へ行けるぞ』って学校に行ったら教室がない。先生が連れて行ったのが3階の物置で小さな部屋を片付けて、机が三つ置いてあって、机と黒板が置いてあるだけ。『これがお前らの教室だ』ええって思い。黒板に何て書いてあったか。『浮浪児 犬小屋』と書いてある。おそらく生徒がいたずらしたんだと思う。なんで先生がそれを消さなかったのか。私は4、5、6と3年間学校に行けなかった。他のみんなも同じだった。3年間行けなかった子どもたちがやっと学校に来る日なのに、それをあたたかく迎えようとする教師が一人もいなかったということですね。今でも私はその日の事を忘れません。」
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(犬小屋と書いてありました・・・)
もっとも苦しかった時、自分で生き抜いていくしかありませんでした。

(山田清一郎)
「ひと月たってからやっとそれぞれの学年の教室へ行きました。ところが更に大変です。勉強がさっぱりわからない。3年生なのに名前も書けない、5年生なのに九九も言えない。そういう子がなんと言われるか、バカだコジキだ浮浪児だみんなから言われます。それで私たちは何とかしなければいけないと、とにかく勉強にがんばる、バカにされないようにするには勉強するしかないと、なんでそこまでしたかと言うと一度開いた学校の門を自分たちで閉じるようなことはしたくなかったわけですね」

山田さんは施設を出たあと、鉄工所などで住み込みで働きながら定時制高校に通い大学の夜間部まで進んで中学校の教師となりました。この日、話を聞いていたのは、様々な事情から親といっしょに暮せない養護施設の子どもたちでした。

(山田清一郎)
「私は自分の体験から、人は壁にぶつかった分だけ強くなっていく、少しずつでもいいから前に出て行く、そういうものを是非持ってほしいと思います」

(話を聞いた中学生は)
「戦争を体験したわけではないけど、私も実際お母さん、家族に会えていない状態で、そういう言葉を聞いて自分も実感するところがあって、山田さんの話を聞いて感動してとても心に残りました」
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(お母さんがよく口ずさんでいた「浜辺の歌」を吹く山田さん)母親の写真が1枚も残っていない山田清一郎さん。思い出は母が口ずさんでいた「浜辺の歌」だけです。山田清一郎さんは子どもたちの前でハモニカで「浜辺の歌」を吹きました。

そして、最後に母にあてた手紙を読んだのでした。

戦争孤児となった私は、
同じ浮浪児の仲間と戦後の荒れ果てた町で
周囲の人から棒を持って野良犬のように追われ
バイキンの塊と呼ばれ、ゴミのように、水をかけられ逃げ回り
お母さん、あなたが命を犠牲にして守ったわが子の
そんな憐れな姿を見たらどんなに哀しむでしょうか。
何よりも辛かったのは、自分には帰る故郷がない、
支えてくれる家族がいない、たった一人という孤独感でした。
辛すぎて、何度も死を考えながら、
それでもとことん生きてやるという思いにさせてくれたのは
自分を犠牲にして私を守り
生き埋めになったままのあなたの無念な思いに対して
母さんここまで生きてきたよ、自分が生きた証を残したかったからです。
私は見えないあなたに支えられて生きてきました。
ありがとうお母さん。
あなたの子どもは、ここまで生きてきました。
苦しくて、泣き出したくなることもありましたが、何とかがんばってきました。

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戦争と平和」カテゴリの記事

コメント

今とは比べものにならない体験・想像を絶するに実態に涙が出てきました。ただ有り難うございますと言いたいです。

投稿: フェアリー | 2013年5月 2日 (木) 02時29分

山田さんへ
2013年10月6日NHKの深夜番組で初めて山田清一郎さんの話を聴き
直ぐにネットで探しました。感動の何物でもありません。お母さんは山田さんをずーと支えてくださったのだと思います。その思いが伝わり此処まで生き抜いて来られた山田さんを尊敬いたします。
と当時に私もどんなことがあっても再び戦争をする国にならないための活動に参加して行きたいと強く思いました。
どうかいつまでもお元気に今後も次代を担う子供たちの教育に携わってください。どうぞお元気にお過ごしください。

投稿: 中西 幸子 | 2013年10月 6日 (日) 08時43分

10月6日の深夜便で、山田清一郎さんのおはなしをきいて
涙があふれてきました。
今から、たったの65年前の時代のこととして
信じられないはなしです。その感想などわたしの下記のブログにあげてみました。
よろしかったら、訪問してみてください。
http://komadori2s.exblog.jp/20809124/

投稿: komadori | 2013年10月 6日 (日) 18時51分

当時、国民の多くは戦争責任は国にあって
被害者意識が蔓延してたのでしょうか。
山田さんのお話を聞き、多分自分も周囲と同じ行為をするに違いない
と思い、恥ずかしさを感じました。
他人を思いやる気持ちは希薄、余裕もなかったと思います。
現代社会の中でも、周囲には弱者はたくさん存在します。
物資面で余裕がなくても、弱者への寄り添いは可能です。
山田さんのお話は多くの方に聞いてほしいものです。

投稿: 五色沼 | 2013年10月12日 (土) 12時59分

ううむ、アキラとトマトがトラウマになってしまったのか
だが、せっかくのアキラをアキタと間違えてるので説得力が・・・

投稿: | 2015年2月27日 (金) 01時06分

 今年も3月10日が近づきましたね。

東京大空襲や日本各地で空襲で犠牲になった人々のこと、沖縄での地上戦、広島、長崎の原爆で犠牲になられた人々への思いがつのります。そして、アジアの国々で日本が行った植民地支配、侵略行為について、当時の戦争指導部の責任を問わなければと思います。二度と国の行為によって戦争はしない軍隊は持たないという憲法9条を守り生かさなければと強く思います。
 名前の誤記を教えてくださりありがとうございました。

投稿: よっしゃん | 2015年2月27日 (金) 09時29分

今では考えられない話ですね
戦争の話は色々な人から聞きはするものの、平和ボケしている自分にはどこか信憑性がなく
そんな事あったんや〜ぐらいにしか思ってませんでしたが
こんな自分も人の親になり、此の方がお母様に宛てた手紙を読んでいるのをみると
言いようのない気持ちになり涙がでました
たかだか10歳の子が、ひとりぼっちで、寒空の下おなかを空かせているのを、だれも助けられない世の中なんて、、

そしていまも世界のどこかで戦争によって涙を流す子供や母親がいるのでしょう
1日も早く平和な世界がおとずれますように

投稿: | 2015年6月25日 (木) 22時41分

今日、朝日新聞で、山田清一郎さんに取材した記事を読みました。辛くてたまりませんでした。戦争だけは二度と起こさないと肝に銘じました。山田さん、孤児だった方々、本当によくがんばって生きて来られました。

投稿: | 2015年7月28日 (火) 21時12分

私は戦争を2度と起きない事を願い、「戦争の記憶」と題し、親戚、知人等へ戦争の恐ろしさを知って貰うべく冊子を書いております。そこで、この貴重な写真を何枚か掲載させていただき、当時の状況を写真を通し、よりインパクトを感じて貰うべく掲載をお許し頂きたくお願い申し上げます。
   以上宜しくお願い申し上げます。
       平成27年9月9日       佐藤 潔

投稿: 佐藤潔 | 2015年9月18日 (金) 16時14分

今日(9月1日)は、防災の日で、東京大空襲で両親を失った孤児たちは、その後、どうなったのかと気になって調べいました。なぜなら、自分が、子供のころ、「こじき、こじき」と呼んでいた人たちは、もしかすると戦争孤児たちが大人になった姿だったのではないかと。。もし、それであれば、自分の子供のころのことですが、とても申し訳ない気持ちになり、調べているうちに、この記事を見つけました。

わたしは、母子家庭で育ち、現在、2児の父ですが、親の目からみた子を思う気持ちと、子から見た生前の親を思う気持ちと、二重に重なり、涙が止まりませんでした。

崩れ落ちる防空壕の中から、あなたは行きなさいと力強く押し出してくれた力が、どんなことがあっても生き抜いて見せると、いう生きる原動力につながっていると思いました。
上野の頃のことも、けっして恥じることは何一つないと思います。
これからも胸をはって貴重な体験を伝えていって下さい。


投稿: 38歳男性 | 2016年9月 2日 (金) 21時14分

私は平成生まれで、祖父から戦争の話などを聞いても現実味があまりなく、遠い昔の話のようにしか感じませんでした。
ですが、このサイトを拝見させて頂き、いまの何不自由ない生活に感謝しつつ、これからもう二度と戦争という恐ろしい行為をしてはいけないと心から感じております。
祖父があまり戦争の事を語りたがらなかったのも、このサイトやほかの戦争孤児についてのサイトを拝見して納得致しました。
ただただ、教えて頂いて有難うございますとお伝えしたいです。
どうぞお身体に気をつけてお過ごし下さい。

投稿: | 2016年10月27日 (木) 01時52分

現代の戦争は情報戦、ウソやねつ造で私たち日本人は今までと違う
仕掛けにより72年前の真実も見えにくくなって新たな戦いの中にいますが、戦争が作る不幸は悲しい事です。本当の平和とは何かと考えてみたいと思います。

投稿: | 2017年2月24日 (金) 21時12分

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