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2013年2月26日 (火)

小林多喜二虐殺80周年から学ぶ③  2月20日

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(1933年2月20日=君の2月を忘れないコーナー)
clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 このコーナーで、藤田廣登さんの展示物の解説を聞きながら展示物を見ました。
私にとっては、2月20から2月21日にかけての詳しい説明を受けるのは初めてで、少し詳しく知ることができ、多喜二やお母さんのセキさんへ哀悼の気持ちを強めました。
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(説明される藤田廣登さん)

藤田廣登さんの解説から

最期の小説「地区の人々 ― 火を継ぐもの ―」

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(「蟹工船」と共に「地区の人々」)
 
小樽市の手宮という地域は労働運動の盛んなところだったが、3.15と4.16で大弾圧を受けて沈んでいき、それを再建する運動が起きてくる。その段階で多喜二は後継者づくりに関心を持って書いた。それが「地区の人々 副題 火を継ぐもの」となった。

人民には公然と、権力には非公然で

「改造」や「中央公論」に実名で書くわけですから、地下にもぐった多喜二は健在で、日本中の読者はみんなこれを読んで、多喜二が地下にもぐっているけれど先頭に立ってがんばっているということを知るわけですよ。それで、励まされて、たたかいに立ちあがっていくわけでしょう。だから特高警察は許しておくわけにいかないんですよ。なんとしても多喜二を捕えなければいけない。ところが、どんどん、どんどん逃げ回るわけですよ。
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(1931年日本共産党入党の頃の多喜二)
 権力に対しては非公然、だけど人民の前に対しては公然と活動を展開したということが特徴だと思いますね。その点がすばらしい活動家だったと思います。だから、最後まで、物書きではなくて、実践家として、ビラもまき、そしてビラはりもやり、そして選挙活動もやり、作家の活動もやりという活動をずうっとやっていた。そういう点では徹底的なすばらしい活動家、マルキストな活動家だったと思います。
 当時、弾圧に次ぐ弾圧ですから転向したり、日和ったり、物書くことやめちゃったり、物書きだけに専念したり、宮本百合子のように執筆禁止になったりして物が書けない時代ですから。

スパイを使って手引き

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(多喜二と今村が拷問された築地署付近)
 
この段階で、なんとしても多喜二を捕まえなければいけない。神出鬼没で、あちこち出張ってくるわけですね。それで捕まえるために、スパイ三船留吉という共産青年同盟にもぐりこんでいた築地署のスパイを使って教えを請うた。

2月20日 赤坂で格闘の末逮捕される

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(赤坂の逮捕された場所と今村恒夫)
 
正午ごろ到着するわけですね。ところがその場所に行ってみたら、目つきの良くないのが、たむろしている。「しまった」ということで、この道を必死で逃げるわけですね。その時、多喜二は着物と下駄だった。いっしょにいた今村恒夫は洋服で革靴だった。彼の方が早く逃げられたんだけど、「ドロボウ、ドロボウ」と叫ばれた。一般の人たちが出てきて捕まえやすい。逃げる前を遮られちゃった。それで警官に追いつかれ、そこで格闘になった。今村恒夫は20㍍ぐらい先を走っていたのですけど、多喜二が捕まりそうだからと戻って、なぐりかかって奪還しようとしたのだけれども、いっしょに捕まってしまった。そして築地署に連れて行かれた。築地署は一階が留置場、二階が演武場で、三階が拷問場所。

黙秘で闘いぬく

 
多喜二は4時頃までは山野次郎だと偽名を使っていた。
築地署の特高は多喜二の顔を知らないから半信半疑だった。そこへ警視庁の中川成夫(しげお)という特高課長が来たもんだから、多喜二と顔見知りですから、やむなく、観念し闘うしかないと今村恒夫と覚悟してやろうと言って黙秘を通すわけです。これが特高には気にいらない。 テロ係というのは血しぶきをうけてもいいように、女性が使うエプロンを用意していた。

多喜二にペンを持たせないことが至上命令

 特高警察にとっては、多喜二の口をふさぐことと、ペンを持たせないようにすることが至上命令だった。だから殺した。

多喜二の遺体は拷問の残虐さを告発

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(この写真が特高の残虐な拷問をなによりも証明しています)
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(藤田さんが多喜二の右手首を指示し「骨折、人差指も完全に折れ曲がっていた」と)

 安田徳太郎医師(博士)
両足はすごい内出血で触れば血が出るような状態で内臓も内出血。
5寸釘のような大きなキリで突いたような跡が15ヶ所
こめかみに打撲
首に索条痕があり、つぶしてしまおうとした。
右手首を締め付けた跡があり、骨折。右手の人差指は完全に折れ曲がっていた。

火を継いだ者がいた

「時事新報」の笹本寅はカメラマンの前川を連れて行って、阿佐ヶ谷に帰ってきた多喜二の遺体の写真を撮って、公表できないものですから、そのままフィルムを土瓶の中に隠して地中に埋めて戦中をしのいだのですよ。戦後になってこの写真を公表してくれたわけです。

特高は戦後責任を問われず要職に

 
特高の中川成夫は戦後、北区の教育委員長まで上り詰めた。特高の残党を戦後処罰できなかった。戦後、一旦、戦争反対の追及になったけれど、すぐに釈放しているんです。彼等はみんな要職に付く。ほとんど野放しだった。これが日本の民主化をやっぱり遅らせる要因の一つになったといえます。
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(展示会場=みなさんが熱心に閲覧していました)

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コメント

戦前命を懸けて戦争反対した人達、その犠牲を絶対無にしない為。安倍ファシズム戦争政治を何としても阻止しましょう。江戸時代長野県は記録にあるだけで全国一百姓一揆の多かった所です。中でも今NHK大河ドラマの舞台になっている上田地域は大きな一機が何度も起きた所。上田市や隣の青木村には処刑された当時の指導者の墓や供養塔があちこちにあります。又、別所温泉には山本宣治の来県記念碑があります。是非一度訪れて見て下さい。これらの人たちに負けずに長野県でも頑張っています。

投稿: 水上新一 | 2016年2月23日 (火) 16時20分

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