« 第9回鴻巣びっくりひな祭り2013  2月17日 | トップページ | 小林多喜二虐殺80周年から学ぶ③  2月20日 »

2013年2月24日 (日)

小林多喜二虐殺80周年から学ぶ②  2月20日

happy01  私は多喜二虐殺の際に、魯迅、ロマン・ロラン、志賀直哉などが抗議と哀惜の念を示したという事は知っていましたが、薄い内容の言葉だけでしかありませんでした。今回、荻野富士夫先生の話を聞いて、展示資料を藤田廣登さんの説明を聞きながら見たことで、29歳で不当にも殺された小林多喜二に関することで知らないでいた事がたくさんあって驚きでした。ブログ記事を書くのに、時間がかかっています。わからない事があってネットで一生懸命に探し、新たな認識を得たことがいくつもありました。物事の真実を知る喜びを感じました。

 フランスで当時、多喜二の小説が読まれ、評価されていてたことに驚き、そして、フランス共産党機関紙ユマニテが一面を使って多喜二の虐殺に抗議していることにも深い連帯の熱い気持ち、ロマン・ロランの熱い呼びかけに感銘を受けました。
clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

【荻野富士夫先生の講演から続き】


Photo_5

Aページにヒトラーの似顔絵が。フランスのプロレタリア文学運動の小さな機関紙の創刊号フイュルージュにヒトラーの似顔絵とヒトラーの顔にかぶるようにカギ十字が、ハーケンクロスがある。カギ十字の下の文章をよく読みとって翻訳されたものがBの文章になります。私の同僚の高橋純先生が翻訳され拝借するわけですが、ロマン・ロランが非常に痛烈な抗議を上げているということです。「褐色ベストは・・・・・引用 われわれの抗議の声に唱和せんことを」 フイュ ルージュ1933年3月2日付でロマン・ロランは呼びかけている。

ロマン・ロラン
       Feuille Rouge 第1号 1933年3月6日 掲載
     (フイュ ルージュ)(フランスのプロレタリア文学運動の小雑誌の創刊号)

 褐色ぺストは一挙に黒色ぺストを凌駕(りょうが)してしまった。ヒトラーのファシズムはわずか4週間に、その師とも範とも仰いだイタリアファシズムが過去10年間に振るった卑劣な暴力を凌(しの)ぐ暴虐を恣(ほしいまま)にしたのだ。彼らは先の国会議事堂炎上を稚拙(ちせつ)にもおのれの暴虐の正当化のために利用せんと謀っているが、これこそ警察の手による下劣な挑発行為だったのであり、ヨーロッパ人誰一人としてこれに欺かれはしない。
 我々はここに彼らの犯した侵害と虚偽を世論の前に暴き出す、 ―彼らは暴力的な一反動政党にすべての公の武力を掌握させてしまった、―彼らの政府は殺人に行き着く犯罪行為まで合法化してしまった、―彼等は言論と思想の自由をことごとく扼殺(やくさつ)してしまった、一彼らは傲(ごう)然(ぜん)とアカデミーの世界にまで政治介入し、自説を枉(ま)げぬ勇気を示した稀有(けう)な作家芸術家を追放してしまった、―彼らは革命政党のみならず社会主義者やブルジョワ自由主義者の中からさえ、人望ある人々を逮捕してしまった、―彼らはドイツ全土を戒厳令下に置いてしまった、―彼らはあらゆる現代文明の礎である基本的自由および権利を停止させてしまったのである。
我々は訴える、人および市民の尊厳を陵辱(りょうじょく)する卑劣な犯罪行為への怒りと、そして、こうした臆面も歯止めもない犯罪に走るテロリズムと戦う者を結束させる連帯の意志とを我々と分かち合うかぎり、いかなる党派に属そうとも、ヨーロッパもアメリカも問わず、すべての作家、すべての世論の代弁者が、我々の抗議の声に唱和せんことを。
                       1933年3月2日

☆ 注
褐色ぺスト ナチスドイツ親衛隊の制服の色から生れた表現。ナチスの暴力的支配をペストの猛威に例えている。従来ペストは「黒死病」と称される。「黒シャツ隊」と呼ばれたイタリアファシスト党武装行動隊に重ねてイタリアファシズムを象徴している。

 こういうこういう時代状況の中で多喜二の虐殺、あるいは2.4事件があったということです。
 さて、国家の方は、いままでは特高であるとか、思想検事であるとか、文部省であるとか、独自のそれぞれの対策、自分たちの守備範囲の独自の対策を進めていたわけですけど、内閣そのものが一丸となってこの事態に対処しなければならない。この時期、流行語として出るのが“非常時”という言葉です。非常時ということに対抗するため5.15事件の後の内閣、斉藤誠内閣ですけど、そこには思想対策協議委員会、内閣の直属にできました。それぞれの各省の次官であるとか局長クラスをメンバーにした実務的なトップクラスが集まって、各省庁の対策を持ち寄って、内閣としての取締策、あるいはカッコつきの善後策を作りあげていく。それはその後の、取締であり、特に教育の面における統制などは、そこでプランがラインが出来た物をなぞっていく。そいう意味でも1933年というのは大きな意味があっただろうと思います。

Photo_6

 同僚のフランス文学の高橋純先生がこの事実を明らかにしたわけですけれど、実は多喜二は殺されて、たとえば、有名なところでは魯迅が、それに対して非常に哀切な追悼の言葉を寄せてくれた。魯迅だけではなく、中国のプロレタリア作家の郁達夫も多喜二の虐殺に抗議したという非常に国際的な反応を呼ぶわけですが、その一つの大きなものがロマン・ロランを核としたフランスということになります。
 資料をご覧いただきたいのですが、Aの所にフランス共産党機関紙ユマニテです。

革命作家小林(KOBAYASCHI)日本軍国主義の手により東京にて殺害さる
               1933年3月14日付 ユマニテ掲載記事

 小林多喜二が東京で殺害された!・・・
 この犯罪の噂はわずか数日前にフランスにも伝わってきていた。
このニュースは―記憶に新しいところだが―
A.E.A.R(命的作家芸術家協会)の猛烈な非難を呼び、ロマン・ロランの呼びかけに応じてこの犯罪に対する無数の抗議の声が湧き起ったのだった。
 いまやこのニュースは確証された事実である!
 小林!… その名は世界を駆け巡った!
 帝国主義戦争への反対闘争を熱烈に支持するすべての者から彼は認められ、愛されていた。
小林は若かった。1903年に北日本の小村に生れ、非常に若くして社会問題に関心を寄せ、ほどなくして革命的知識人および労働者の前衛として戦うようになった。
 彼は共産党機関紙と協同し「戦旗」には、日本共産党の闘争を描いた『1928年3月15日』次いで『蟹工船』や農民ストを語る『不在地主』といった傑作をつぎつぎに発表したのだった。彼は続いて他の作品も発表したが、そのいずれもが労働者階級とわれらが共産党の闘争にささげられたものだった。彼は革命的作家中央委員会メンバーであった。
 警察の手で殺害
 過去数ヶ月間に彼は決然として、極東における帝国主義的侵略戦争および反革命闘争に抗する運動の先頭に立ち続けていたのだった。
彼の不屈の革命活動は日本帝国主義の脅威となっていた。
われらが同志は威嚇にも脅迫にもひるむことなく、その立ち位置を変えることはなかった。
 去る2月20日、小林は「反軍国主義活動」の廉で逮捕された。
 その1時間後、彼は警察暑で死体となっていた!小林は殺されたのだ!
 全世界のプロレタリアは日本軍国主義のこの新たなる犯罪に対して結束して立ち上がる。
この犯罪は、日本の人民大衆の戦いの意志を掻き立てずにはいないのである。

 (高橋純「多喜二生前の国際的評価:1932年に見られるその一端」)
       (2012小樽小林多喜二国際シンポジウム予稿集)

3月14日の記事ですけれども、真ん中のところに「KOBAYASCHI」「革命作家小林日本軍国主義の手により東京にて殺害さる」、こういう記事が3月14日に出ます。

「この犯罪の噂わフランスにも伝わってきていた・・・・」 多喜二が殺されたのが2月20日、それが「東京朝日」の記事にあるように、新聞に報道されたのは、その1日か2日後ということになります。そこで公表されて、それがパリまで行くというのは3週間も経たないわけですね。今でこそインターネットですぐ情報は世界を飛び交うわけですけど、当時においては、人、物ということではシベリア鉄道が一番早いわけですが、どれども2ヶ月近くかかるわけですね。しかも、この場合、電信、電報で受け渡しをして伝わって行ったことになりますけれど、この記事の意味するところは、高橋純先生の分析によれば、多喜二が殺されたということだけが衝撃ではなくて、実はその前に多喜二は既にフランスで紹介されていて、日本の代表的なプロレタリア作家であるということが実は前の年に紹介をされていて、そして日本文学の夕べのような集まりが開かれて多喜二の作品が朗読されている、そういう前提があって、それは一部の人ですけど、一部の関心を持つ人には、そういう多喜二の存在というものは十分既に知られていた。そいう前提があって〝あの多喜二が殺された〟たんに、日本の作家が殺されたではなくて、我々のところにも十分文学的価値が伝わってきている、何が日本文学の夕べで朗読されたかはわからないわけですけれど。多喜二という名前は既にフランスのプロレタリア文化に関心を持つ人々の中には十分知られていたわけですね。その人が殺されたという二重の衝撃でこの記事の意味があるというのが高橋純先生の分析です。まさにその通りだろうというふうに思います。

 そういう意味での多喜二の国際性ということですね。単に殺されたということだけではなくて、その文学に対する理解も実は十分に、もちろん、魯迅や郁達夫という中国の方にも多喜二の「蟹工船」などは既に翻訳されて中国の中でも読まれ始めているわけですね。もちろんそれは中国の国民党政権下で発禁になったりするわけですけども、でも日本の状況と同じように地下を通じて、そういう物は読まれつつあったわけですので、単に殺されたというショッキングな出来事だけの反応ではなくて、文学・思想というものが弾圧されたという、そういうところまで及んでいるということが、まず今日お話しをしたかったわけです。

 じゃあ、それにふさわしい多喜二は、本当に文学の買いかぶりじゃないかということではなくて、実はそれにふさわしい反戦文学を展開していたというふうに思います。
 これからすぐに、「蟹工船」のもう一つの読み方とうお話をしますけど、そこでは軍隊の事がもうすこしエピソード的で出てくるわけですけども、多喜二はその後のいくつかの作品では正面切って軍隊、戦争という問題は取り上げなかったわけですけれど、満州事変が起こった後、多喜二の作品を貫く太い柱は反戦のための文学にあったというふうに思います。

 多喜二はいくつかの短編を書いた後、「沼尻村」という中編の小説を東京に来てから書くわけですが、沼尻村とう北海道の農村を舞台にした作品ですが、そこでは、こんなふうに登場人物に言わせているわけですね。全農の支部長、山館、「今は、時期が時期で、日本の軍隊が極寒の満州で苦戦しているとき、我々国民としては内でこのような騒ぎを起こしている時ではないと思う」というふうに言わせる。農民組合、全国農民組合の村の支部長である山館という人物がこんなことを言うのは、あれなんですけど、「だら幹」ということになるわけですけど、「内でこのような騒ぎ」というのは小作争議を起こしているということです。そういうことで国内がバラバラに分裂している状況では今はないんだ、今は日本は海外的に満州という所で戦っているので、これを全国民上げて支持しなければいけないわけで、こんな小作争議をやっている場合じゃないんだということで組合の支部長が抑えにかかっている、そういう場面を多喜二は設定しているわけです。

 それから小樽を舞台にした作品で「地区の人々」、これが最期の作品になりますけれど、ここでも取り上げているのは戦争の問題が背景にあるわけです。
 それから、今日の展示にありますのでご覧いただければと思いますけれど、「党生活者」これは藤倉工業、現在も有りますけれど藤倉工業の毒ガスマスク製造工場労働者の反戦活動を舞台に描いているわけです。多喜二はやはりこの時期の主要な課題、何を、優先順位からいって何を最初にやるべきかというと、戦争に反対する、戦争の問題を考えるということを、これを非常に重点を置いたというふうに思います。

 そしてそれは単に小説だけでなくて、多喜二はこの時期、プロレタリア文学同盟の書記長のような立場になってきますので、社会評論、文学評論もたくさん書いています。もっとこの評論が多喜二の文学として評価されなければと思いますけれども、タイトルだけ上げますが、「暴圧の意義及びそれに対する逆襲を我々はいかに組織すべきか」32年6月の「プロレタリア文学」に発表されていますし、同じ8月号には「8月1日に準備せよ!」という評論を書いています。8月1日というのは国際反戦デーと言われている日ですけれども、その中で多喜二は的確に観察するわけです。「帝国主義戦争強行のための、又国内に於ける経済的、政治的危機の克服のための(即ちファシズム的支配強行のための)弾圧」つまり多喜二は我々に加えられている、多喜二自身、この時期、地下にもぐっているわけですね。次々に多喜二の仲間たちは検挙されていく。なぜそんな弾圧が今、我々に集中するのか考えた場合に、やはり、それは戦争を強行するために、反対の運動をつぶす、そういうものなんだ。単にこれは警察だけでなく憲兵のこと、社会教育の分野のことも言います。「軍事的=警察的反動支配」という言葉を多喜二は使いますけど、まとめてトータルに全的に把握しているところに多喜二の卓越さ的確さがあるというふうに思います。

|

« 第9回鴻巣びっくりひな祭り2013  2月17日 | トップページ | 小林多喜二虐殺80周年から学ぶ③  2月20日 »

小林多喜二から学ぶこと」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/536404/56831578

この記事へのトラックバック一覧です: 小林多喜二虐殺80周年から学ぶ②  2月20日:

« 第9回鴻巣びっくりひな祭り2013  2月17日 | トップページ | 小林多喜二虐殺80周年から学ぶ③  2月20日 »