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2011年8月14日 (日)

「二度と原爆を使ってはいけない」 ビクター・デルノア   8月14日

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写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

NHK総合2011年8月8日放送を見て

「二度と原爆を使ってはいけない」 
ナガサキを見た占領軍司令官ビクター・デルノア 

アメリカ占領下の長崎の実相を明らかにする書簡類が、アメリカの故ビクター・デルノアさんの家で大量に見つかった。NHKが取材調査し番組をつくった。
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■ ビクター・デルノアとはどういう人

1945年1月にデルノア中佐はアメリカ戦車隊の隊長として700人を率いてフランスに上陸し
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(戦車隊隊長としてフランスに上陸)
てナチスドイツを撃退し、ドイツ、オーストリアへと進軍して行った。デルノアはアメリカの輝ける英雄だった。ブーヘンヴァルト強制収容所の解放にも参加。

ブーヘンヴァルト強制収容所
ドイツのリンブルクに進んだ時、死体を燃やしたすごい臭いがした。
ブーヘンヴァルト強制収容所をアメリカ軍が解放したのが1945年4月11日。収容所は、すさまじい状況であった。強制収容所の陰惨な事態に、激戦をくぐりぬけてきたアメリカ兵達すら言葉を失った。
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(ブーヘンヴァルト強制収容所の犠牲者-アメリカ上院議員が調査)
  ブーヘンヴァルトはドイツテューリング地方エッテルベルクに1937年に設置された。設置されてからアメリカ軍に解放されるまでの8年間に総計23万3800人が囚人として送られ、そのうち5万5000人以上が犠牲となった。ナチスに反対した人、ユダヤ人、同性愛者、抵抗のすべをももたない一般の市民たちが強制労働や拷問、人体実験のはてに死んでいった。

 ブルノアはアメリカの妻に書き送った。
「全部ナチスの仕業だ。とても正視できるようなものでない。ナチスのバカヤロー。いったい何んという事をしやがったんだ」
 娘のパトリシアは「父はアメリカの正義を信じていた」と回顧。

■ 第二次世界大戦が終結し、デルノアは日本へ
  そして長崎で軍政部司令官の任務に

デルノアは長崎に着任してからまもなく、とある出来事に遭遇する。
原爆で亡くなった人たちを弔う法要を見に行った。1万体以上の身元のわからない遺骨や引き取り手のない遺骨を供養するためのものだった。
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その日の事をアメリカの両親に書き送っていた。
「全くなじみのない仏式のセレモニーだった。夫を亡くした妻や子どもを亡くした母親の悲しみは痛いほどよくわかりました。祭壇に祀られた1万体の遺骨。嘆き悲しむたくさんの女性たち。お父さんお母さん正直に申し上げて、僕は動揺を隠すことができませんでした」

ブルノアは城山小学校にも足を運んでいた。
城山小学校は爆心地から500㍍で廃墟となった。8月9日、学校は休みで143人が亡くなった。休みで家庭にいた子どもたち1,400人余が亡くなった。 被爆校舎が保管、公開されている。

■ デルノアは長崎に着任して半年後驚くべき行動に出ました。
GHQは当時、原爆に関する言論・出版を厳しく禁止していた。
14才で被爆した少女、石田雅子さんの手記「雅子斃れず」の出版をみとめるよう上層部に繰り返し意見を上げていた。しかし、当然のことながらデルノアの訴えは聞き入れられなかった。
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(「雅子斃れず」の原稿)
上層部への要望書はメリーランド大学に保管されていた。そこには「原爆による被害の大きさを知り、同時に何万人もの被害者たちが体験した事実を自分たちの事として受け止めることが今私たちに求められているのです」(デルノア)と書かれていた。

《証言》ジョン・ダワー(マサチューセッツ大学教授-歴史学)
アメリカが言論、出版を厳しく規制した要因が二つあるのではないか。
① 原爆について書いたことが非常に強い反米感情をよびさますのではないかという思惑
② 戦犯の東京裁判が開かれていた時期と一致(1946年~48年)
東京裁判で日本軍による一般市民への爆撃が戦争犯罪として裁かれることがありませんでした。仮に、それが犯罪だと認めてしまうと、「じゃ広島、長崎はアメリカが行った空襲は」という話になってしまうからです。
いずれにしてもデルノアは軍人です。軍人が国策に逆らうなんてとても勇気のいることだったと思います。

現在、雅子さんの兄、穣一(83才)が沖縄に住んでいて、穣一さんの話では父親が雅子の手記をデルノアに見せたのだという。
「安寧、秩序とか占領政策にどうこう言わずに推薦してくださった」今も感謝している。

■  今年(2011年)デルノアの遺品の中から彼の第1回平和祈念式典へのメッセージの原稿が見つかった。そこには祖国アメリカの国策を真っ向から否定する言葉がつづられていた。
アメリカをはじめ世界の国々に1日も早く核兵器を捨てるよう訴える長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。デルノアは1948年1回目の開催を長崎市に許可した。
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「核兵器は人類を破滅に導く無用の長物である。二度と原爆を使ってはいけない」
「あの日の事を忘れないことが長崎のみなさんの使命です。あの日、死んで行った人たちの思いを伝えていくことが生きている私たちの使命なのです。みなさん、亡くなった人たちに決してその死を無駄にはしないと約束しようではありませんか。二度と原爆を使ってはいけない」
と書かれていました。

 1998年(今から13年前)デルノアは1枚の絵と娘への伝言を遺してこの世を去った。
 遺された絵には原爆で焼かれた長崎の教会が描かれていた。
この教会は中町教会で、原爆で外壁と尖塔だけが残った。1951年10月に外壁と尖塔を生かして教会は再建された。
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(長崎の中町教会を描いた大切な絵)
父は何を伝えたかったのか。
パトリシアさんは1948年長崎で生れ洗礼も長崎の中町教会で受けている。父親のデルノアはパトリシアのことを「長崎ベイビー」と呼んでいた。
《パトリシアの思い出》
「父はいつもこの絵を傍らに置いていました。転勤でヨーロッパへ行った時もわざわざ持って行ったほど。いつだったか私にこう言ったんです。『この絵をお前が持つ時が来た』って。」
 父親はどんな思いであの絵を私に託したのか。なぜ軍人でありながら国策に逆らったのか。

■ パトリシアは今年(2011年)、7月に夫のマギーさんと共に長崎を訪ね、各所を回り、父と縁ある人の話も聞きました。

《パトリシア》
「長崎原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂(8962体の遺骨を保管)に来て、数千体の遺骨が語りかけてくる声。私はそこを動くことができなかった。父は長崎で見たことをけっして話そうとしませんでした。そのわけがここに来てわかったような気がしました。たとえ話したくても話せなかったのだと思う」
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ヒトラーの率いるナチスを倒し、世界に自由と平和をもたらした祖国アメリカ。自分はその正義を信じ戦ってきた。ところが、そのアメリカが原爆を投下した長崎には、かつてドイツのブーヘンヴァルト強制収容所で見た同じ光景が長崎に広がっていた。

 パトリシアさん夫妻は城山小学校の被爆校舎で、ボランティアガイドの内山さんに説明を聞きながら見ました。
《内山》「原爆で地上は6000度に達しました。大きな鉄を溶かす溶鉱炉の中に生きた人間が放り込まれた形です。まさに地獄で人間が溶けてしまう状況」
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(城山小学校 被爆校舎で)
《パトリシア夫妻》「まさに地獄ですね」
展示された写真を見て「アメリカではこんな写真を見たことがありません。アメリカの本には一切載っていませんから」「亡くなった人たちの写真を見るのは初めてです」

○ 1946年7月、アメリカはビキニ環礁で核実験
○ 1949年8月、旧ソ連が初の核実験に成功

■ 1949年ビクター・デルノアはアメリカへ帰任

 送別会でデルノアは1通の手紙を受け取った。送ったのは石田雅子の父親だった。
【父親は石田尋(ひさし)(東京地裁判事・広田首相秘書官も歴任)】
《手紙の内容》
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(石田さん親子)
「私たちはこれからも“長崎から平和を”と声を大に訴えていくつもりです。その礎を築いてくれたのはデルノアさんあなたです。あなたが敷いてくれた道を私たちは歩んで行きます。デルノア中佐、娘さんが大きくなったら、こうお伝え下さい。長崎はあなたの故郷であり、あなたは長崎で洗礼を受けたのだと。娘さんは長崎の子です。時がきたら、あなたは彼女にそう伝えて下さい」

長崎をいっしょに訪ねた夫のジェームズ・マキーが
「これでわかったね。君はずっと『お父さんやお母さんがどうして私が日本で生れたからって、私に日本の物ばかりくれるのかした』って言ってたけど、この手紙を読んで疑問が解けたね」
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(アメリカへ帰任する時の写真)
パトリシア  
「はっきりわかったわ」
ジェームズ・マキー
「ご両親は君に伝えなければいけないと思っていたんだよ」
パトリシア   
「私はずっとこの絵といっしょに育ちました。日本で生れた私には私の使命があるんだってことがわかりました。長崎の子として生れたからには、ここで見たことをアメリカの友人たちに伝え、考えたことを行動に移していきたいと思います。きっと父も喜んでくれると思います」

ビクター・デルノアは1998年83才で亡くなりましたが、晩年、取材に訪れた記者に「原爆投下を決めたトルーマンは間違いを犯した」と答えました。


 追 記
 この記事を整理しているうちに、2007年8月9日に亡くなったジョー・オダネルさんと息子のタイグ・オダネルサンノのことが懐かしく思い出されてなりませんでした。
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(焼き場に立つ少年)
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 ジヨー・オダネルはホワイトハウス付きのカメラマンで、1950年、同行先のウェイ島でトルーマン大統領に直に「あなたは日本に原爆を投下したことを後悔したことはありませんか」と質問しています。
 「1945年、あの原爆はやはり間違っていた。それは100年経っても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に」
 息子のタイグ・オダネルさんは父親の意思を引き継いで、父親が長崎で撮った写真を全米に知らせる活動を続けています。
 ジョー・オダネルさんが撮った写真の中でも、「焼き場に立つ少年」は多くの人の心を今もとらえ続けています。
 

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