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2010年12月 8日 (水)

アジア・太平洋戦争開戦から69年に思う 12月8日   1回目

日本を戦争をする国にしてはいけない

あの戦争に少年たちを狩り立てたのはだれだったのか

    江藤千秋著「積乱雲の彼方に」
  8月15日放送。NHK「15歳の志願兵」から


写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

  
 戦前の日本は、国を統治する全権限を天皇が握った専制政治(絶対主義的天皇制)のもとで、1931年、中国の東北部への侵略戦争、1937年には中国への全面戦争を開始しImage0003 て、第二次世界大戦に道を開きました。さらに1940年、ドイツ、イタリアのファシズム国家と軍事同盟を結成し、194112月8日には、中国侵略の戦争をアジア・太平洋全域に拡大して、第二次世界大戦の推進者となりました。この戦争で2000万人をこえるアジア諸国民と300万人をこえる日本国民が犠牲となりました。


1941年(昭和16年)12月8日のアジア・太平洋全域への戦争開始から69年目の815日にNHKがドラマ「15歳の志願兵」を放送し、私もこのドラマを見ました。

 あらためて、戦争を引き起こした者の責任、戦争に駆り立てられた少年たちの姿から、その当時と現在の日本の姿とを重ね合わせて、考えさせられました。
 ドラマ「15歳の志願兵」の原本が、江藤千秋さんが書いた「積乱雲の彼方に」であることを知ってすぐにネットで注文しました。でも本はなかなか届かず、届いたのは1026日で、読み切ったのが1112日でした。

 ドラマ「15歳の志願兵」で、校長や教師、配属将校、生徒の話に旧制中学3年生から5年生(14歳から17歳)の少年たちの気持ちが変わって行く姿に、現在でもそういう事があるのではないだろうかと考えさせられました。

Mainimg  
「積乱雲の彼方に」ではアジア・太平洋戦争が拡大する様子、戦前の教育のありさまが、よく調べられた資料によって書かれていて、私か知らないできた事、中途半端ないいかげんな知識などが正されたことがいくつもありました。十分とは言えませんが少し勉強もしました。

 甲飛(海軍甲種施行予科練習生)に志願し、戦死した中学生が愛知一中だけでも5人もい
たのです。それも、特攻隊攻撃で戦死しているのです。こんなことが、終戦間際に行われていたことが恐ろしくなり、そんな無謀な戦争に駆り立てていった戦前の日本の支配層に強い怒りをもちました。

 
少しでも戦争を批判する者には厳しい圧力が加えられ、大勢が大きく流れている中で「ちょっとおかしいんじやない」と言うことがどんなに勇気のいることだったろうか。
 その時に思いました。戦前の日本で「植民地支配反対、侵略戦争反対」を国民によびかけ続けた日本共産党が存在したということです。「戦争反対」の声を上げることをやめなかった人々が日本にもいたのだという歴史上の厳然たる事実をすごいことだと思いました。   戦前と違って「国民が主人公」「戦争放棄」の憲法を持つわが国で、情報もたくさん得ることができ、私たち一人、一人が自分の頭で考え、「なにが正しいのか」を判断し、行動するならば、歴史を前向きに進めることができると思うのです。
 
それでも、現在も大勢の流れの中で、少数意見を主張しぬくことはすごく難しことが多いと思うのです。
 
多数の側にいる者は、いつも、少数意見を排除しないで受け入れる寛容さが求められると思うのです。

 私などは、七つボタンとか予科練とかの言葉の端々は知っていましたが、正しくは知って
いませんでした。予科練(正確には海軍飛行予科練習生)
 戦没した生徒の日記には胸せまるものがあり、何回読んでいても涙が流れてしまいます。
不条理な当時の日本社会への告発となっていると思うのです。

 私は、こうした事件の教訓を現在に正しく生かさなければいけないと思うのです。江藤千秋さんが「積乱雲の彼方に」を書いたのが1981年で30年も経ち、2003年に死去されていますが、すばらしい本だと思います。
 
私かドラマと「積乱雲の彼方に」から強く感じ、多くの人に知ってほしい。それが12月8日を迎えるにふさわしのではないかと考え、一生懸命に整理し、本からの引用を中心に紹介することにしました。


「積乱雲の彼方に」から

  はじめに

 昭和18年(1943年)7月5日という日を、私は鮮烈に記憶している。この日、私たちの母校すなわち愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)で、ある事件が起こった。
 
゛愛知一中予科練総決起、、とよばれる一件であり、異常な雰囲気のなかで異常な事態が展開され、10代なかばの少年5人が戦没し、幾人かが心身に深い傷を負うという結果を生じた。

 戦没者のうちには、神風特別攻撃隊員として沖縄の空に散った者もいれば、重傷を負って復員し、両脚切断の大手術ののちもさらに゛戦後の戦い、、を闘って逝った者もいる。戦傷を受けて復員し、社会復帰が遅れた者も少なくない一方、志願しなかったことが心の拙となって、戦後30余年を経たいまも、精神的打撃から立ち直れない者さえいる。

 戦後11年を経た昭和31年(1956年)から14年間、私は、母校に化学教師として在職した。

 生徒指導や新しい化学教育の開拓に多忙の日々を送っているさなかにも、あの7月5日の事件とそれが描いた波紋とは、私の脳裡を離れなかった。とりわけ、16歳、17歳という年齢で空戦に散った友人たちのことを忘れるわけにはいかなかった。

 
ある日、私は、この事件に関する記録はないものかと思いつき、かなりの日数を費やして、母校の図書館はもとより倉庫や物置などをくまなく探してみた。学籍簿以外には、ほとんど何も見つからなかった。その学籍簿さえ、欠落箇所が多く完全なものとはいえなかった。どうやら、関係資料すべてが、終戦のとき焼却され処分されたらしい。私は驚き、私自身の手でこの異常な事件とその結末とを解明して記録しなければなるまいと考えた。

 
事件がなぜ、どのようにして起こったかを知ることが、まず必要だった。母校には、事件当時に教師だった人が何人かいたが、はじめのうちは、口をとじて何も語ろうとしなかった。
 
暗中を模索する思いで、私は、腰を据えて取り組むことにした。予科練(この場合、正確には海軍甲種飛行予科練習生)入隊者はもちろん、志願者、非志願者を問わず、本人またはその家族仁電話し、手紙を書き、また、面接に出かけで証言4を記録する一方、可能な限り ゛資料〟を掘り起こした。
 
私の仕事が進むにつれて、いいかえると時間がたつにつれて、母校在職の元一中教師たちも事件の内容について証言してくれるようになり、戦後退職した元一中教師やその遺族の人びとからも重要な情報を得ることができた。とくに、戦没した太訓戒二君や汀朋平君の日記など、貴重な資料が手に入ったことは、この作業を進める上でたいへん役に立った。
 
私自身の〝鮮烈〟な記憶から出発し、幾多の貴重な証言と価値ある資料とによって、事件当時の状況をなるべく克明に復元するとともに、事件関係者たちの動きを、私は、追跡した。
 
教育活動という繁忙な日々のなかで、文字通り寸暇を見つけながら、私は、戦没した友人たちの鎮魂の碑を刻む思いで、書き綴った。その間に永い歳月が流れた。

 本稿を書きあげて読み返したとき、私の瞼の裡には、はるかな雲の彼方に消えでいった学友たちの姿が浮かんだ。この記録を書き残そうという仕事に私を駆りたてたものは何だったのかと、私は改めて自問した。毎日新聞の元記者新名丈夫氏が、自著のなかで「太平洋戦争の後半、主力は少年となった。予科練である」と書き、「少年を、このような戦いに狩立てた責任はいったいだれにあるのか」とつづけていることが思い出された。それは、私の心底にある何かを代弁するもののようだった。

 
戦争を知らない世代が日本の全人口の過半数を占め、戦争体験の風化という声を耳にするいまこそ、この本を世に出す意味があると思われる。証言や資料提供など、さまざまな形で協力して頂いた人びとに感謝し、本書を公刊するに当たって尽力してくださった法政大学出版局の平川俊彦君に謝意を表するとともに、戦没した友人たちの冥福を祈りつつ、序言に代える。

 なお、引用した資料や文献のなかには、読みやすくするため、旧漢字を当用漢字や仮名に改めた箇所がある。ご了承頂きたい。

             1981年春    江藤千秋


戦死した愛知一中の5名の生徒

 犬飼成二(4年生で志願)ボート部員 1945年4月28日、99式艦爆機で沖縄特攻攻撃で戦死

 鈴本忠煕(ただひろ)(16歳、3年生で志願)一式陸攻の電探員。 1945528日、沖     縄特攻攻撃で戦死

 岡田巧(4年生で志願)ボート部員 1944610日、霞ヶ浦の航空隊で米軍の空襲で戦

 蒲(かま)勇美(死亡時17歳3年生で志願) 一式陸攻の電信員。 1945510日 沖縄特攻攻撃で戦死

 汀(すさき)朋平(ともひら)(3年生で志願)柔道三段で身長180センチ。米軍との戦闘で両足切断。闘病生活の中、1959年1月に亡くなる。

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犬飼成二の日記から

1944年3月27日 朝晴 昼曇 夜曇後晴

  墓参
  安井様の家を訪ねる
  桜山
  鈴木のおじさまに会ふ
  能登に逢ひに行く

 今日も過ぎた。婦る日は近づく。何一つとして親孝行をしたであらうか。何もして ないやうに思はれる。何かして喜ばせてあげたいノあゝ私には何の智慧も如才もない。困った融通のきかぬ男よ。逢ふは嬉しいが、別れあるを思ふとき、人の世の俸さに自ら涙の湧く。
何故会ひたいのか、何故別れねばならぬのか。
 お父さん、お母さん、お祖母さん、私はどんなに逢ひたかったでせう。しかし、私はじっと我慢しました。無言の折りを捧げました。私は別れの辛さを思ふとき、逢ひたくありませんでした。「遇ふや柳囚、別るゝや絮果」の高山樗牛の句など思ひ出したりして涙ぐむときもありました。私の心には、胸には、お母さん、お父さん、お祖母さんの姿かくっきりと浮んで居ました。しかし、遂に逢ってしまひました。嬉しかったの一語に尽きます。でもあと僅かで別れねばなりません。
 母上は、2年位経て帰ってくると思ってゐられますが、いえいえ、私の帰るときは、白木の箱です。それを思ふとき、私は何とも言へません。2年経てば必ず帰ってくると思ってゐられる母を思ふとき、私の親不孝の罪を何とお詫びしてよいやらわからないのです。お母さん、お許し下さい。私は死んでも、決して私の魂は死にません。お母さんの側からどうして離れることが出来ませう。元気で丈夫で幸に暮して下さいませ。お母さん。私のお母さん・・・・・・


 末尾の母親への呼びかけにつづく「……」のあとは、すべて空白である。永遠の余白といってもよい。注目すべきことは、この日記に「同胞の為に、美しき祖国の為に」と記され、「お母さん」と繰り返し綴られているのに、「天皇の為に」とは一言も書かれていないという事実である。

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