アジア・太平洋戦争開戦から69年に思う 12月8日 3回目
日本を戦争をする国にしてはいけない
あの戦争に少年たちを狩り立てたのはだれだったのか
江藤千秋著「積乱雲の彼方に」
8月15日放送。NHK「15歳の志願兵」から 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。
総決起大会 1943年7月5日
指導班とよばれる組織があった。各運動部のキャプテンやマネージャーをしている上級生たちによって構成され、全校生徒の風紀を生徒側で自律的に規制し、校風を自主的に守り育てさせようという目的で設けられたものといわれた。ここにいう運動部とは、慣用的な呼称であり、平時にいうそれとは、形の上でも実質の上でも、かなり性格が異なっていた。“決戦体制”下の校友会組織は、前にも述べたように報国団に改組され、全生徒は、その中の鍛錬部または国防部に属する各班に所属し、連日訓練を重ねた。
指導班発足当時の愛知一申報国団「団報」(昭18・ 4)の記事である。そのなかに「自律的精神」とか「自発の良習」とあるが、実は、上から喚起され、縦の系統で巧妙に操作されたものでしかなかった。その意味で、指導班の性格や役割には、郷土防衛の自律的組織とされていた警防団を連想させるところがある。
こうした立場の指導班が、ここでひとつの役割を演ずる。班員のいく人かが、学校側に申し入れた。
「しばらく待ってください」
指導班員が3年生以上の各教室を回り、クラスごとに甲飛の問題を話し合うことになった。
どの教室にも、興奮と緊迫感とがあった。
「自分は間違っていたらしい」という反省とも悔恨ともつかぬ思いが、多くの者の胸のなかにはあった。 一方、「これは大変なことになりそうだ」と予感して、不安に身を固くしている者もい
た。
どのクラスでも、「潔く君国のために散ろう」といった勇ましい意見が大勢を占めた。「航空兵として戦場に出ることだけが唯一の報国の道だろうか」という疑問を口にする者もいたが、そうした声は低くて力弱く、威勢のよい殉国論に、たちまち打ち消された。
その間に、5年甲組の教室では、新しい事態が進行していた。
「わが校の真価は、上級学校入試や対外試合のときにだけ発揮されればよいというものではあるまい。甲飛割り当て数に志願者数が遠く及ばないなどとは、たいへんな恥辱だ。学校側からこんなに強く声をかけられるまで、傍観者のような立場にいたとは恥しい。この学校でぼくらが学んできたのは、一朝有事のときに、国家のために役立つためのはずだ。いま、そのときが来た」
激しい意見が出た
「上級学校への進学しか考えないのは、国家よりも自己を優先する考え方だ」
「おれは、利己主義者といわれたくない。卑怯者でありたくはない」
「いや、いっそのこと、このクラスが率先して全員志願しようではないか」
このような空気のなかでは冷静に議論することはできないと、かなり抵抗感を覚えた者もいたし、「何かおかしい」と、事態の動きに疑念を抱く者もいたが、反対意見を率直に述べることのできる状況ではない。
先刻来、激越な口調で信念と決意とのほどを披歴していた金森太郎が叫んだ。
「甲飛へ征く者は、立て」
大部分の者は迷うことなく、一部分の者はいくらかのためらいとともに、とにかく全員が立った。
これは、5年甲組41名の総意ということになり、クラス代表の久田迪夫がこの決定を学校当局に伝えた。
5年甲組の決議を契機として、指導班員と5年甲組の一部の生徒とが活発に動いた。「生徒大会を開きたい」というその申し入れを、学校側は快く許した。彼らは四方に散って、3年生以上の教室ごとに指示を流した。
「甲飛問題について生徒大会を開く。全員ただちに柔道場に集合せよ」
愛知一中の昭和18年度『校務日誌』に、次の数行がある。
「7月5日 第一、二限、甲種飛行予科練習生勧奨二関シ3年以上二校長ノ訓話アリ 第三、四限、生徒意見発表会(3年以上)」
3、4、5年生が、ふたたび柔道場に集まった。午前10時30分である
「甲飛志願のことについて、校長先生をはじめ諸先生から反省を求められ、生徒として塹愧に耐えない。そこで、改めてわれわれ一中生の赴くべき道がどこにあるかを話し合いたい」
5年乙組の榊原正一が、壇上に立ってよびかける。気塊に溢れた彼の声が、場内に響きわたる。
戦後の昭和25年(1950年)、久しく結核を病んでいた彼を、友人の沢川秀三が見舞った時のことである。
「おれは腸結核で、治る見こみはない。治るかも知れぬと思うと迷いが生じるが、治らぬと思えばさっぱりする」とこの友人に微笑を見せた彼は、翌日死んだ。死を眼前にしながら微笑を忘れなかった彼は、航空挺身への決死の覚悟を迫られたこの時も動じなかった。大手をひろげて運命の前に立ちはだかろうとした。
「われわれは誤っていた。少なくともおれ自身は大きな誤りを冒していた。自分ひとりの人生だけを考えていて、国家の将来について何も考えていなかったと、指弾されてもやむをえない。いままでか自分の分に応じた人生設計をもっていた・。それが、究極的には天皇陛下のおんため、祖国のためになると自負していたが、先生がたのお話を聴き、自分なりに反省してみると、自分の考え方がまったく誤っていることに気付いた。祖国の当面している困難にただちに立ち向かうこと、それがおれにとっての第一義の責務だったのだ」
雄弁家として知られる彼だが、所詮10代の少年である。高ぶっていく自分の感情を抑えるすべを知らない。
「国家なくして個人はありえない。個人的な打算を捨て切れないでいた自分、国家の危急を眼前にしながら、おのれの人生を後生大事にしていた自分、そうした自分を恥じる。罪深く、恥知らずなほど臆病で卑怯だった自分を恥じる。この罪を許さんがために、おれは・・‥」かれは絶句し、涙を拭った。
5年生たちが、争って壇上へ駆け寄る
そのひとりが、低い声で語りかけた。
「ほくは、将来の地位や名声、それに生命など、眼中にないつもりだった。大君の“醜(しこ)の御楯“として五尺の体をなげうつことに微塵の悔いもないつもりだった。それで、海軍兵学校の試験も受けた。一人前の海軍士官として、存分に働きたいと願っていた。
けれどヽぼくの考えは正しくなかったたらしい。正直にいって、ぼくは小さな名誉欲にとらわれていた。七つボタンよりは“短剣”に憧れていたらしい。兵・下士官よりは士官に、甲飛よりは海兵へという身勝手で俗っぽい考えが、まったくなかったとはいい切れないのだ。
ところが、ぼくは目覚め、一日も早く前線へ出られる道を選ぶべきだった。海兵よりは甲飛への道を踏むべきだった。 “短剣”に憧れるのは笑止千万なことと、ぼくはもっと早く知るべきだった。皇国に生まれて十余年、学徒としての道が、いま眼前に開けた思いがする。何もいらない。何も欲しくない。すべてを君国に捧げ、悔いのない短い人生を終わりたいと思う」
当時の多くの少年たちは、江田島の生活に憧れていた。皇国の守護に任ずる無敵海軍を担う紅眼の海軍兵学校生徒の短剣姿は、当時の少年たちの胸を踊らせた。だが、彼は「短剣に憧れるのは笑止千万」といい切った。それは、エリート校の生徒の胸にひそむ何ものかを、鋭くえぐる言葉だった。
眼鏡をかけた生徒が、壇上に現われた。やはり五年生である。「おれは近視だ。だから、航空兵には向かないと思いこんで、甲飛のことなど念頭にも浮ばなかったが、いまは考えを改めた。ひとつには、おれが近視になったのは、自分自身の不注意、不摂生の結果であり、そのこと自体が不忠の行いではなかったかという自省だ。きみたちは、こうしたおれの不忠を許してくれるだろうか。
もうひとつは、検査の日までの約一ヵ月間、近視を克服するために死力を尽してみようという決心だ。みんなに後れをとることなく、ぜひ甲飛に合格しようという覚悟なの。きみたちは、こうしたおれの決意を笑わないでくれるだろうか」
場内には、「自分は近視だから征けそうにないが」と居たたまれぬ思いの者、「近視だが、征かねばなるまい」と矛盾した気持ちをもて余している者などがいたが、この発言は、彼らの中途半端な気持ちに、ひとつの区切りを与えた。と同時に、「おれは近視だから征かなくてもよかろう」と傍観者的に事態の推移を眺めていた者の胆を冷やした。私自身も近視だったが、これで明らかな決断に到達することができた。
眼鏡をはずし、涙を拭いながら段を降りていく発言者に、さまざまな思いをこめた視線が集まり、場内には鳴咽の声がひろがった。
「何をいまさら決意だの覚悟だのといっているのか」と、すでに志願を決めていた3年丁組の加藤泊美は、冷やかにこの日の事態の推移を眺めていたが、このとき、彼の決意はふたたび新鮮なものになった。
それは、「母校の連中すべてが自分と行動をともにしてくれる」という連帯の喜びによるものであり、「眼の悪い連中までも」と、彼の目もうるんだ。
生徒たちに混じって、幾人かの教師も感想や意見を述べた
「若い諸君が、地位も名誉もいらぬ、眼中には国家しかないと、維新の志士のように叫ぶのを聞いていてヽ教師である私自身が教えられた思いがする/できることならヽ私も飛行機に乗って戦場に赴きたい」
国防都長で体練科担当の吉村三笠教諭である。同じ体錬科の岡部久義教諭も立つ。
「自分は予備陸軍中尉の軍籍にある。遠からず召集されると思うが、自分が大陸か南方のどこか地上で戦っているときには、いつも諸君が上空から支援していてくれるだろうと想像したい」
さらに、英語担当の片山五郎教諭が登壇する。
「事に臨んで、美しく憂国の至情の燃えあがるのを、はじめて眼前に見て私は深い感動を覚えました。祖国日本の置かれた状況を考えるとき、私どものもつべき覚悟、とるべき行 動は明白です。私自身も飛行機に乗って戦いたい。けれど、それは許されないことですから、せめていつの日にか剣をとって決戦場に挺身したい。まさに〝武士道とは死ぬことと見つけたり〟です。敵の弾丸が飛んで来たら、それに飛びつく覚悟で戦うところに、わが一中魂の真価はあると思います。賢明なる諸君は、私以上に時局の重大性を認識されたはずです。躊躇することなく、決然たる態度に出られることを期待します。
瓦として永らえるよりは、玉となって砕けましょう。バラの花として咲き残り醜い花びらさらすよりは、潔い桜の花となって散りましょう。君国のために潔い死を選ぶことこれこそ日本精神と一中精神とを、最も端的に最も美しく具現するすばらしい行為であると、私は確信いたします」
教師たちの発言は、場内の昂奮を高める上で、有効に触媒として作用した。
なかでも、片山五郎教諭の「私自身も飛行機に乗って戦いたい」という決意の表明は、私たちの胸を熟くした。「けれど、それは許されないことですから、せめていつの日にか」という用意された遁辞も、一瞬耳に絡んで、すぐに消えた。「華やかなバラとして生き残るよりは、潔い桜の花の散りようを選ぼう」との提案は、死の美化によって死への恐怖を忘れさせ、醜い生よりも美しい死を選択することに憧れをさえ抱かせた。
四年生も立った
「人生50年といわれて来ました。近ごろは人生25年と聞きます。しかし、ぼくらの人生は20年いや18年でも結構ではありませんか。普通の人の一生を18年に、比縮して生きる。これは随分豪勢な人生を送ることになります。かえって、ありかたいことです。
個人的な利害打算だけで何かの夢を追って暮らす生活に、自分たちは縁がありません。陛下のおんため、この短い人生を灼熱の炎となって生きたいのです。それも、一兵卒として死ねばいい。指揮官になりたい人は、一中以外の学校から出ればいいのです」
短い人生を最も密度濃く、最も温度高く生きたいと、彼はいった。個人的な行動の原理をすべて排するともいった。訥とした彼の語りかけのなかには、気負いがなく、それだけになみなみならぬ決意のほどが見受けられた。
この発言に、ひとりの5年生が応じた
「わが祖国が興廃の瀬戸際にあるとき、おれたちは局外者のような顔をして、机に向かっていることはできない。歴史を学ぶよりは、歴史を創るときだ。おれは勉強をやめる。甲飛へ行く。火の玉となって太平洋を飛ぶ。みんなも続け。わが校の生徒である限り、すべて航空決死兵になるのだ。勉強したければ、ほかの学校に転校するがいい。」
「おれは勉強をやめる」 「勉強したければ他校へ転校せよ」
この怒号に近い演説に、だれもが衝撃を受けた。学校という場で、「おれは勉強をやめる」 「勉強したければ他校へ転校せよ」などという言葉が公然と吐かれたことも、事態の深刻さを物語るものと一般には受けとられ、一様に感動を呼んだ。
こうした場合、集団の昂奮は。それ自体の発熱によって、さらに過熱され加速されて、急速に発火点へと近づいていく。もはや理性の制動がかからないことと、反対意見を圧殺する非寛容さとが、こうした状況の特徴である。だれもこの勢いをとめることはできず、だれもこの流れに逆らうことはできない。
「祖国がぼくらの血を欲するのなら、一切の我執や未練を捨てて、潔く死にたい」
「皇国に生を享けたことの意味が、やっとわかった。それは陛下のおんために死ぬ喜びだった」
「大君のおんために大空に散る。これほど崇商な死。これほど崇高な生はない」
世の中を知らず、何のために生きるのかといった基本的な問題すら考えたこともない10代の少年たちの間でヽこんなにも安易に死という言葉がやりとりされたと。少年たちは、自分たちの言葉に酔った。酔ってさらに強い言葉を口にした。強い言葉は、場内の雰囲気のなかで増幅され、一層激しい言葉を生んだ。
「すめらみくに」といい「おおきみ」といい、古代日本の言葉である。古代人の素朴な感情と近代的な飛行機という精密機械との差は無限に近い。が、この当時、日本国家を動かしていた原理は、まさしく古代の信仰と近代技術との奇妙な融合の所産だった。少年たちの激情は古代人もしくは原始人のそれであり、かれらの受けている教育の内容の大半は近代科学の成果である。この矛盾が、こうしたとき火を噴こうとしていた。
誰もが泣いた。涙を拭おうともせず、頬を伝い、畳の上に滴り浸みこんでいくのに任せた。
意見を述べるつもりで壇に登りながら泣き崩れ、そのまま壇上から降りた四年生もいた。多くの教師たちも、ハンカチーフを取り出して涙を拭っていた。
「ぼくらの手で祖国を救う。ぼくらの血で新しい日本の歴史を綴る」
「われわれの本分は、雲を血に染めて散ることだ」
「おれたちの屍で祖国守護の万里の長城を築こう」
「われら神州の学徒ついに起つ。これを聞いて敵は怯えるだろう」
真の勇者は大言壮語しないことを、確かな覚悟をもつ者は饒舌でないごとを、私たちは忘れていた。けれど、昨日まではとるにも足らない存在でしかなかった少年たちが、いまは国運を双扁に担おうとする頼もしい存在になっている。死をも何をも恐れない勇士になっている。
死についてほとんど考えてみることのなかった少年たちが、いきなり最も愛国的な死を選択しようと決意したのである。このとき、少年たちが据傲に豪語したとしても、やむをえないことだったかも知れない。
そんなとき、私の脳裡を鳥の影のように、ふと横切った疑念がある。自分の操縦する飛行機が、敵の濃密な弾幕のなかで被弾し、炎に包まれて洋上に墜ちて行く光景とか、煙の尾を引いて敵艦の舷側に突入して行くさまを瞼のうちに描いて、「雲を血に染めて散る」とか「おれたちの屍で万里の長城を築く」いっても、自分たちの屍は、実際にはどうなるのかと訝(いぶか)しんだのである。
「海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」という歌の歌詞とメロディーとが私の耳の奥に響き、「雲を血に染めて」という新しい死の様式が、一種の美として私の心をとらえた。
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