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2010年12月 9日 (木)

アジア・太平洋戦争開戦から69年に思う 12月8日  2回目

日本を戦争をする国にしてはいけない

あの戦争に少年たちを狩り立てたのはだれだったのか

    江藤千秋著「積乱雲の彼方に」
  8月15日放送。NHK「15歳の志願兵」から

 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

■「甲飛」とは海軍甲種飛行予科練習生制度のことで、海軍飛行予科練の変遷は次のようになっている。

○ 海軍飛行予科練習制度は  1929年12月29日創設
  満15歳以上17歳未満が受験資格
1937年5月18日 海軍甲種飛行予科練習制度創設  満15歳以上18歳未満、中学4年1学期修了以上を受験資格とする
1941年8月12日
  満16歳以上20歳未満、中学4年1学期修了以上に変更
1943年5月22日
  満15歳以上20歳未満、中学4年1学期修了以上
○1944年4月6日
  中学4年1学期修了者を3年1学期修了者に変更

・質より量をと1943年5月22日に1943年12月1日で満15歳以上を志願対象者
に引き下げた。このことによって4、5年生全員と3年生の大部分が有資格者となった。
○愛知一中では43年7月5日の時局講演会、総決起集会を経て甲飛への志願者は3、4、5年生の182名となった。(愛知一中への割り当ては47人であった)
 志願者は有資格者705名の26%であった。
・著者の江藤千秋(3年生・14歳)も志願したが近視で合格しなかった。

■ 19437月5日、時局講演会までの動き

 「欧米色を一掃せよ」の大合唱のなかで、新課程では、従来の物理・化学の呼称をやめ、二千年来の儒教の基礎的経典である『易経』に基づいで物象。という名称を採用した。「精
神主義もついに科学教育の場にまで及んだのかと深刻な気分になった」と、当時、東京府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校。筆者注・昭和18年7月1日に都制施行)に転勤していた戸河里長康教諭は。戦後、私に語った。
 犬飼成二のクラスで物象第一類(物理)を教えていた中野霊智教諭は、私たちのクラスでは物象第二類(科学)を担当していたが、どちらの授業も、国粋主義的な色彩が濃厚だった。
 
中野教諭は、しばしば物象の講義を中断し、「軍関係の方向に早く進むように」と勧奨した。

 一向に反応がないことに、軍当局はしびれを切らし、各中等学校に海軍甲種飛行予科練習生の志願者を割り当てた。
Photo01_02  
2週間ほど前から、職員室前の廊下に、この甲飛生募集のポスターが掲示されていた。精悍な戦闘機が翼をひろげた図柄を背景にして「海軍飛行兵徴募」の大文字が踊り、その傍に徴募の要項が記されていた。才能に恵まれながら、家庭的には苦しい条件のもとで通学していた五年戊組の加藤忠義は、このポスターとともに東亜同文書院大学予科の県費派遣学生の募集ポスターも見た。「学費がなくても、この中国の上海におる学校へは進学できる可能性がある」と考えた。その反面、甲飛生のポスターの印象はすぐに薄れた。
 私たちは、加藤忠義と同様、甲飛生募集のポスターに関心をもたなかった。
甲飛生急募 学級担任の教師たちの多くは、毎日のように「甲飛へ征け」といい、学校当局
自体も、朝礼のたびに甲飛生応募を勧めた。しかし、私たちは、軍当局の宣伝に対するのと同じ冷淡さで、教師たちの声を聞き流した。

 
当時の教諭の小論に、生徒大会の総員志願決議によって「軍当局からの割り当てに苦慮していた職員会議に、生徒諸君自らによる解決策がもたらされた」とある。このあたりは戦後Photo01_01 久しい年月を経たいまも論議の分かれるところであり、校長らの時局講演会がはじめから総決起を誘発する目的で開かれたのか、時局講演会が原因となって自然発生的に総決起という結果を生んだものかについては関係者たちの間で意見が一致しない。

 ただ明確に言えること
は、当時の生徒たち、とりわけ甲飛に入隊して生還した者のほとんどが、総決起大会は時局講演会の結果ではなく目的だったと理解している事実である。
たとえば。4年甲組からの入隊者魚野博は、「当時の指導者が下からの盛り上がりを人工的につくったもので、学校側が五年生の一部に音頭をとらせたのだ」という。3年甲組の非志願者鈴茂敏彦は、『ある条件下に人間が置かれ、巧妙に計算された上で操られれば、あんな行動に出るだろう。あのときの生徒たちの挙動は人間としての自覚に基づく振舞いではなく、コンピュータに操作された動きといえる』と批判し、生徒の発意によるという主張は、特攻隊が形式的には志顛という形をとったことを連想させとも述べている。

■ 1943年7月5日 時局講演会

 愛知一中の柔道場に3年生から5年生までの全員700余人が時局講演会として集められた。著者の江藤千秋も、3年生(14歳)でその中にいた。
 講演者は校長の野山忠幹であった。

  校長の講話の一部から


 幼いころから私たちは、〝無敵空軍〟の伝説を繰り返し聴かされて育った。中国大陸要
部への渡洋爆撃、ノモンハンでのソ連空軍に対する圧勝、ハワイ・マレー沖での米英海軍主力の撃滅など、一方的な報道だけを与えられていた私たちには、“無敵荒鷲”の先入感が強く植えつけられていた。不敗のはずの“日の丸”の翼が、紙を破るように敵弾に引き裂かれ、マッチで火をつけた紙片のように燃え墜ちるとは、想像しかねた。校長の話は、意外なことと思えた。

  敵愾心への点火

 私たちは、ようやく校長の話に耳を傾け始めた。


「ペーパー・プレーンと敵がよぶにせよ、日本精神に燃え立つわが空軍は精強であります。
10倍以上にも及ぶ敵飛行兵力に対し、肉を斬らせて骨を断たんとするわが攻撃精神の発露が、時に火だるまとなって敵に体当たりする阿修羅の姿となり、敵に根拠のない雑言を吐かせるのでありましょう。しかも、補給常ならざるわが空軍と、無限に近い補給力をもつ敵空軍とが、かりに100対100という同等の機数で戦うとすれば、第一回はわが圧勝に終わりましょうが、いくたびか戦闘を重ねるにつれて兵力差は開き、50対100となり、25対100となって、ついにはO対100になるかも知れないのであります」

 校長は、わが飛行機のもろさやその損耗率の高さを積極的には否定せず、航空戦での敵の優位も認めている。率直な話には、耳を傾けやすい。

 
「ガダルカナルの苦闘は、そうした事情によるものでした。わが補給はつづかず敵に制空権を譲り、わが地上軍は血みどろの戦いを余儀なくされたのであります。ガダルカナルの孤鳥に散った1万6734名のわが将兵の血は、無数の飛行機の傘に守られて限りなく増強される敵の鉄火によるものでした。血を吐く思いで、祖国の空に増援の翼を待ち望みつつ、わが将兵は敵戦車の下敷きになって敞ったのであります。
 
このような鉄と血との戦いが、いまなお、太平洋の全戦線でつづいております。私が、このように申しておるこの瞬間にも、たった一機、たった一人の飛行家が足りないために、わが忠勇なる将兵が、祖国日本の空を仰ぎながら倒れて行くのであります」

 
校長は、「話が少し横道にそれますが」と前置きしたのち、ガダルカナルでの戦闘後、米軍がわが重傷兵を砂浜に並べ、戦車でひき殺したとか、米国に抑留されている日本人がどんなに虐待されているかについて語った。

 
私たちの胸の奥に敵愾心がチロリと炎をあげ敵への憎しみが少しずつ燃えひろがった。
ひとつの無秩序な集団を戦闘的な祖織につくり変えるには、敵に対する憎悪の感情に点火すればよく、校長のあげた例は、この意味で効果的だった。

 
「南方戦線で鉄に対する血の戦いを戦い抜いておられるわが将兵には、感謝のほかはありませぬ。しかしながら、敵が物量をもって襲い来るなら、われも物量によって応じ、わが将兵の尊い血が流されるなら、敵にも相応の出血を強要せねばなりませぬ。無限の鉄火に血と肉とをもって立ち向かうわが将兵に、近代的兵器を存分に与えれば、まさに無敵であり、一挙に勝利を収めうることでしょう」

  
   校長の声は、熱を帯びてきた。

 「精強なる兵器、とくに決戦兵器と称される飛行機を、一機でも多く一秒でも早く製作する
必要は当然ですが、より肝要なのは人、すなわち飛行家であります。兵器や飛行機は、資材と工場とがあり諸条件が許せば短時日に製作しうるものの、飛行家の養成には年月を要し、 器材と違って簡単にできるものではありませぬ」

 
明治前半に育った校長の言葉には、時に古めかしさがあった。「飛行家」などという時代がかった言葉が、校長の口から出だのは、そのためである。

 
「敵米国は、飛行機の年産10万機以上と称しております。わが国内には、これを架空の天文学的数字として一笑に付する意見もありますが、敵の生産力は軽視できず、必ずしも誇大な数字とはいい切れませぬ。しかも、敵米国は、学徒を大最に動員し、太平洋の航空決戦に対処しようとしております。
 
報道によれば、敵米空軍の飛行機搭乗員の八割五分は徴募学徒であり、その年間養成数は、20万人に近いとのことであります。加うるに、それら学徒出身の敵飛行家は、フットボールの試合に出る気安さで空中戦闘に臨み、意外に猪突猛進的な迫力でわが空軍に挑戦しつつあると聞いております」

  
この時局講演会の目的や校長の意図は、私たちにもわかってきた。

 「空を制する者が海を制し、陸を制し、戦いを決するのであります。ガダルカナル、アッツ、そして山本元帥の死、すべて敵制空襟下での悲劇でした。しかも、そうした場面に登場した敵の主力が学徒出身の飛行家を中核とする米空軍であったことを考えるとき、わが日本の学徒諸君の赴くべき道は明らかであります。」

  
校長の話は、核心に近づいた。

 「海軍甲飛生急募に関する当局の要請については、かねてから先生がたの説明と愆慂とがあった通りであります。実情を申せば、これまでの志願者はわずかに13名、当局より本校に割り当てられた人数の約四分の一に過ぎませぬ。
 
古来、わが国においては、国家の大事に際して、つねに挙国一致、岡難を打開して来ました。ことに純忠至誠の熱血に燃える青年の奮起によって国難を克服し、国勢の発展をもたらしたことは、歴史の実証するところであります。襲い来る敵を撃破し、祖国に栄光あらしめる者は、青年諸君以外にありませぬ。天皇陛下のおんため、国家のため、愛知一中の名誉のため、諸君の発憤を期待してやまないものであります」

 ペーパー・プレーンに乗って10倍以上の敵と戦えというのは、「死ね」というのと、ほとんど同義である。「悠久の歴史のなかに生きよ」とか「天皇に帰一し奉れ」という抽象的な表現もまた「死ね」というのと同じ意味である。
 これまでにも、殉国の行為とか大義のための死といったことを、私たちはしばしば聴かされてきたが、遠い世界のこととしか受けとめていなかった。死を“無”以外の、もしくはそれ以上のものとは考えたこともなかったというほうが、より正直かも知れない。

  配属将校の講話

 場内は、わずかにざわめいた。今枝鐘三郎陸軍少尉が登壇した。この学校の配属将校である。少尉はまず、海軍甲種飛行予科練習生とその募集要項について、手にした資料を見ながら説明した。

 「甲飛生は、少年飛行兵と混同されやすいが、4年前に創設されたばかりで歴史が新しく、制度も違う。下士官になるまでに、少年飛行兵は3年かかるが、甲飛生は1年半ですむ。早く入隊すれば20歳ぐらいで少尉に任官でき、さらに士官として進級することも可能である」

 淡々とした口調の説明のなかに、従来の少年飛行兵との違いを強調し、航空幹部という表現を用い、士官としても累進しうると念を押すところに、表現上の苦心が見られた。
封建的風土に住む少年たちは、“階級”に敏感である。兵は下士官よりは士官にと、誰もが
望んだ。ささやかにせよ〝出世〟の可能性を約束することが、死地に誘うときにさえ好餌となった。
 
常識的には少年飛行兵と同義語と思われる予科練の語を避け、甲飛生または甲飛という語が意識的に使われたふしもある。

 「身体検査の規格は、昨年度までに比べて大きく緩められた。たとえば、昨年度に規格よりも3センチメートル身長不足のため合格できなかった者も、今年度は合格できるはずである。視力の基準も、これまで1.2以上とされていたのが、1.0と改められ、片眼が0.8でも両眼で1.0であれば合格し、多少の色弱も大丈夫である。つまり、通常の体格、普通の視力をもつ者なら、誰でも応募することができる」

 この時点で、3、4、5年生は、それぞれ14歳、15歳、16歳程度だった。体格基準の大幅な切り下げは当局の焦慮の現われといえるが、視力の制限緩和には疑念がある。瞬時
に勝敗の決する空戦では、より早く敵機を発見して先制の一撃を加えるのに十分な視力が、第一に必要とされる。海軍当局は、このとき、すでに“質より量を”の思想に傾き、弾丸代わりの消耗品的な搭乗員速成の着想をもっていたといえる。戦争末期の特攻戦術の制度化が、早くも萌芽を見せていたとみなすこともできよう。

甲飛募集要項の解説を終えた今枝少尉は、話頭を転じた。

 「航空戦が祖国の運命を左右しようとしている。本来、学徒の本分は、学問によって国家有為の人物になることにあるが、岡破れては山河も学問もありえない。いまや、諸君の学徒としての本分は、航空戦に参加して国に殉ずるほかにない。わが祖国は、諸君に若い血を捧げるようにと要請している」

 
 少尉の目の輝きが増し、声が荒くならた。

 「光輝ある悠久の歴史、世界に冠たる神州日本、それを守るために、立ちあかってもらいたい。挙校一致、国難に立ち向かう決意を固めてほしい。本校の一先輩として、とくにこのことを諸君に訴える」

少尉は、「光輝ある悠久の歴史」について語った。

 少尉によれば、天皇の威光と天の助けとのもとに、忠誠なわが臣民が決死敢闘の末、いつも国難を克服してきた神国日本の勝ち戦の原型であるという。
前後二回にわたる元寇も、日清・日露の戦争も、このパターン通りに悪戦苦闘ののち日本の勝利に終わったのであり、今次大戦も例外ではないというのが、少尉の所論である。

 「まさに有史以来、国難のたびに発揮された神国日本の真髄は、御稜威のもとに万民こぞって“撃ちてしやまむ”の誠忠を、一死もって貫くにあった。この尊厳なる神国日本なればこそ、きわめて困難なる戦いにも、ことごとく大勝利を収めえたのである」

 神話と歴史との混同として、この話を笑うことはできない。小学校以来、歴史の授業で私たちが教えられてきたことも、少尉の話と五十歩百歩だった。

 「敵米英は、科学の力をもってわれを圧殺せんとし、陸海空に物量の猛威を振るいつつわが神聖なる国土に迫らんとしている。南北太平洋の諸戦線における激闘は、まさに巨賊長髄彦(ながすねひこ)に対する神武の皇軍の戦いを想起させる。一中生諸君も、すべからく君臣の大義に徹し、神国日本の真髄に帰一し奉り、全国青年学徒にさきがけて、ただちに国家の危急に馳せ参ぜよ。わが国の興亡は、諸君の熱誠にかかっていると知れ」

 左手に軍刀の柄を握り、右拳を振るいながらの熱弁である。

 「肇(ちょう)国に公の理想」
 「惟(かむな)(がち)の道」「君臣の大義」などという言葉をちりばめ、激越な口調に煽られて、少尉の講演には、宗教的な雰囲気に近いものさえ感じられた。

 
「しかるに、当局の要請に対して甲飛志願者は意外に少ない。本校の面目いずこにありや。神州日本守護のため、一切の私情を断って一刻も早く殉国の道を志せ。すべてを君国に捧げて航空挺身の尖兵となれ。日本精神の精華を太平洋上に飾れ。そして、一中健児の気概を天下に示せ。不肖今枝も、諸君とともに必ず決戦場に立つ」

 
自分の死を、納得のいく何ものかと関連づけられれば、怯惰な魂ですら、死地に身を投じ
ようと決断しうるだろうが、「神国日本の真髄」とか「君臣の大義」などといった曖昧な原理に説得力はない。にもかかわらず、少尉の話に、私たちの心は揺らいだ。

 この日から一年後、今枝少尉はサイパン島で玉砕する。
少尉が、こうした一年後の自分の運命を予見していたかどうかは別として、少なくとも死を覚悟していることは確かと受けとれた。死を決意した青年将校の直情的な語りかけは、素直 に私たちの胸にしみた。神話を下敷とする戦争観や死生観に魅力はなかったが、少尉の憂国の思いは、異様に輝くその目と、鮮やかに紅潮した両頬とに現われ、じかに私たちの心に響いた。

 10代なかばの少年たちの心理機構に熱狂をよび起こすのに、整然とした論理や華麗な表現は不要である。そのヒロイズムを刺激する語句を織りこみ、未開人の音楽にも似た激しい抑揚とリズムとで語りかければ足りた。少尉の講演は、巧まずしてそのような効果を示した。

  教師の話

 ノモンハンの戦闘に参加し、近ごろ大陸の戦線から帰還した安東巌教諭が壇に立った。国漢科担当の教師だが、予備役の陸軍大尉なので、私たちは彼を安東大尉とよんでいた。

 安東教諭は、ノモハンの凄惨な戦闘について語った。

4年前の昭和14年(1939年)5月から9月にかけモンゴル国境のノモハンで、国境紛争に端を発する日ソ両軍の大規模な武力衝突があった。
 
安東教諭は、「ノモソハンの生き残り」ともよばれていた。屍山血河の戦場から生還した教
諭は、寡黙で控え目だった。しわがれた低い口調で、教諭は、空軍の支援を欠いた地上作戦が、風雨のとき雨衣の用意なしに外出するのと異ならないことを指摘し、南方の現戦況がノモハン以上に厳しいと説いて、私たちの発奮を求めた。

 「制空権のない地上軍に対する敵の空陸からの攻撃は残虐をきわめる。それは、一方的な殺戮としかいいようがない。ソ連空軍に対してわが航空隊は、絶大な強さを見せた。敵の大編隊が、わずかな数のわが戦闘機にたちまち撃墜される場面を、毎日眼前に見た。だが、わが補給力は敵に劣る。わが航空隊が姿を見せないことも、時にはある」

  教諭は、私たちの顔を入念に見た。

 「そんな場合、わが頭上を敵機は奔放に乱舞する。友軍機の到来を雲間に待ち望みながら、敵の銃砲火とキャタピラの音とのなかに、将兵は斃れていった」
 「私には大陸戦線の将兵の苦労が忘れられない。諸君にこの思いがわかるだろうか。私は南方戦線のわが軍の辛苦をいつも偲んでいる。諸君は、これをどう考えるのか。前線から″一機でも多く″と航空隊の増援を願う叫びが聞こえるというのに、諸君は一向に注意を払わない。甲飛志願者の各校割り当てという非常措置がとられた動機、その背後にある帝国陸海軍の苦悩、そういったことを諸君は考えてみようともしない。私は、まことに残念に思う」

 教諭は、私たちひとりひとりを見据えるようにして、語りつづけた。その視線に、私たちはたじろぎ、なかには涙ぐむ者さえいた。

 「多くはいうまい。諸君の若い命を戦力として国に捧げること、この学園をあげて戦場に向
かうこと、その覚悟を固めてほしいだけだ」

 戦場では部下を大切にし、学校では生徒たちに慕われていた安東教諭である。戦争が終わって、再度の応召から復員したのち、同僚や上司の慰留にもかかわらず、戦時教育の責任を感じ、教壇への復帰を頑として承知しなかった彼である。

その一言一句は、私たちの肺俯を
えぐった。

 つづいて、指導班長の波多野市郎教諭が、壇上に柔道六段の巨躯を現した。修身、公民および柔道の担当であり、5年甲組のクラス担任でもある。
 「率直にいおう。諸君は、どこかで間違っておる。この国家非常のときに、当然とるべき行
動を諸君はとっておらん」

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