アジア・太平洋戦争開戦から69年に思う 12月8日 第5回
日本を戦争をする国にしてはいけない
あの戦争に少年たちを狩り立てたのはだれだったのか
江藤千秋著「積乱雲の彼方に」
8月15日放送。NHK「15歳の志願兵」から 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。
■ 新聞の果たした役割り
12月8日の朝、新聞が1941年12月8日の太平洋戦争へ突き進んだ当時のことをどう伝えるか関心があり大手紙と地方紙をいくつか見ました。
「朝日」の天声人語で「民のあずかり知らない『亡国覚悟』の戦いに、新聞や知識人も加担した。内外に息苦しさが募る日本に、今また勇ましい言説が飛び交う。いつか来た道にはさせないと、改めて折り鶴の少女に誓いたい」と書かれていました。
「毎日」は真珠湾攻撃に参加した2人の元兵士が「平和の尊さ」について語っています。
地方紙では、「信濃毎日」が歴史認識について書いていました。
今、マスメディアは戦前の日本で果たしたマイナスの役割りについて、真剣に学びなおし、繰り返すことのないようにしなければならないと思うのですが・・・・・。ちょっと真剣さが足りないように思え心配です。
ちょっと、政党機関紙で違いがありますが、12月8日の「しんぶん赤旗」は主張と、一紙面を使って69年目の12月8日について報道していて、日本共産党が戦前に「侵略戦争反対」「植民地支配反対」を掲げてたたかっていた存在感を示しているように思い心強く思いました。
「積乱雲の彼方に」から
科学的であるべき近代戦を、常に天祐神助を信じて戦おうとした国である。突撃隊が全滅しても将兵の魂塊はなおも突撃しつづけると教えた陸軍、勝算のない海軍に『天祐ヲ確信シ全軍突撃セヨ』の電令を受け空しく潰滅した海軍、そういった国である。この年6月8日の『朝日新聞』に、「死の報告」と題し、「空戦で胸に敵弾を受けた搭乗員が愛機を操って帰還し、報告し終ってから倒れた。その体はすでに冷たかった」という意味の記事が郷截されている。戦死した彼の魂が飛行機を操縦して基地に帰り、報告までしたというのである。これと同様の話を、終戦直後、ルース・ベネディクトが『菊と刀』のなかに引用しているが、戦時中の日本人の考え方の一例を示すものといえよう。
「早くも子の願ひを聴き容れようとする軍国の父兄は職員室前に黒山を築き……」『朝日』(昭18・7・7)と、新聞は伝えた。この点について、4年戊組の担任で体錬担当の阿部久義教諭は、戦後、私に次のように語っている。
「剣道場での話のあと、甲飛志願反対の父母で、職員室前の廊下はいっぱいになっ た。納得した父母はすぐ帰り、残ってはいない。多くの家庭で、“征く”“征くな”という対立が生じ、父母としては教師の口から“征くな”といってほしかったのだ。 “黒山”のように残っていた父母は泣きごとをいうためであって、感動して集まったのではない」
これに類する証言は多い。当時「黒山を築いた」に親のひとりは、「愚痴をこぽすために集まったのです」といい、当時の4年生のひとりは、「文句をつけに来た父母の列が、総員志願に賛成の意を表すために集まったものと解釈された」と述べている。
岡部久義教諭の戦後の述懐は、さらにつづく。
「廊下に集まった父母たちは、それぞれの但任教師のところへ来た。その際、教師によって父母に接する態度が違った。
〝みんな征くのだから征かせるべきだ〟という直情型、〝そんなお気持ちなら、何とか本人に話してみましょう〟という妥協型など、さまざまな接し方が見られた」
甲飛の身体検査まで一ヵ月足らずの間に私たちは死力を尽くして近視を全治しようとした。しかも、私たちを近視克服に立ち向かわせた事情がもうひとつあった。
「不穏の精進二年余遂に難治の近視を全治」「近視を克服して荒鷲への頼もしい叫び」(『毎日』(昭和18年7月6日)などのキャンペーンが行われていたのである。その例を次に示す。 7月11日の『中部日本新聞』第二面トップに「近視征服一遠望訓練で治さう」という記事がある。名古屋連隊区司令官加藤真一少将が、「愛知県下の某中学校で遠 望訓練を行ったところ、その効果に感心させられた」と述べ、名古M帝国大学(現名古屋大学)教授中島実博士が、「西洋医学に見ると眼軸の長い者ほど近視の度が強いといぶか、これは米英流の解釈で、わが国の近視者には当てはまらない。わが国の学校近視では、水晶体の作用による屈折性の近視であることが立証された。これは、遠方注視の訓練を行へば必ず正しい祝力に復活できる。ぜひ国民学校の高学年および中等学校生を防空監視哨に立たせることを提唱する」
と、そのなかで語っている。
7月29日の『朝日新聞』では「見直せ、〝目の弾力性〟と題し、陸軍航空審査部の小田切春雄大尉が、「〇・六と〇・八の視力だったが、遠くの青いものを見ればいいといふので、10日間それをつづけて受験したら左右とも1.2の視力が出た」と述べている。
■ 教師たちの抵抗
少数の教師による抵抗はつづいた。
「父兄の間には反対の患向が見受けられます。生徒間にも動揺と困感のいろとが見られます。これでは生徒たちがかわいそうです」
「父兄の苦情を聴きいれて、〝それじゃやめときさなさい〟という先生がおられるようですが、もってのほかです。それは、父兄におもねることです。時局認識の不足でもある。生徒の純真な願いに水をさす自由主義的な父兄には厳しい態度で臨んで、生徒たちの志を通させるべきではありませんか。生徒に動揺が見られれば、よく訓戒して総決起のあの感激を想起させるべきです。志願しない生徒に、“ああそうか”と答えておくだけでは、やはり生徒の弱い心に迎合することになりましょう。毅然たる熊度で既定の線を貫くのが、戦う学園の教育者としての正しい姿勢です」
勇ましい意見が飛び交うなかで、勇ましくない主張を、真正面から押し通すことは不可能に近い。
反論の多くは、「能力相応に海兵か陸士へ送るのなら賛成できる」という軍当局への気がねから来た妥協的な形をとったが、それさえも、勇ましくない主張として攻撃された。少数派の反論は声高ではなく、力強いものでもなく、多数派の甲高い声に吹き消されがちだった。
いつの会議でも、多数を占める積極派の強硬論に押しまくられ、7月5日の緊急職員会議の決定線、すなわち、
一、全有資格者を洩れなく甲飛に志願させる
二、一部父兄の反対には全力をあげて説得にあたる
という方向に結論が落ち着いた。
総決起に賛成でなかった教師たちのなかに、英語担当で4年乙組の担任だった岩田奇禅教諭がいた。彼は、職員会議で、遠回しに校長に皮肉をいったりしていたと伝えられる。
4年乙組の生徒だった波藤雅明の証言によると、この岩田教諭が、自分の担任の教室に現われて 「近視の者は志願しなくてもいいんだぞ。親の承認が得られない者は、志願票を出さなくてもいいんだぞ」
出席簿で顔をかくして、教諭は嗚咽した。
「親が反対しているのにがんばる必要はない。親と喧嘩別れしてまで甲飛へ征くことはない。征くのなら、親子の美しい情愛に包まれて征くがいい」
いかつい顔をくずし、声をあげて教諭は泣いた。
生物担当の足立正夫教諭が、廊下から窓越しに声をかけた。四年甲組の担任である。
「奇禅さん、がんばれ」
声をかけた足立教諭には、野人の風格があった。
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