アジア・太平洋戦争開戦73年に思う 12月8日
「海外で戦争する国づくり」許さない
12月8日に願う
安倍暴走政治にストップを!!
総選挙で厳しい審判を下す絶好のチャンス
党を創立してから92年、日本共産党は他の政党が侵略と戦争、反動の流れに合流するなかで、国民が主人公、植民地支配反対、侵略戦争反対の旗を掲げ不屈に闘い抜いてきた政党で最も信頼できる政党です。日本共産党の躍進を。
秘密保護法、集団的自衛権、辺野古に新基地の押し付け、憲法9条破壊、武器輸出3原則撤廃、ヘイトスピーチ、道徳教育の押し付け・・・・・・・
「戦前のような雰囲気で心配に・・・」という声をよく聞きます。
11月29日にNHKで79歳で亡くなった作家の城山三郎さんが「特攻隊の基地があった大分県の料亭を訪ね、出撃前の隊員が切りつけた柱の刀傷を目にしたときのメモには、「どうして死ななくちゃいかんのだ.なぜ.なぜ.」とか、「痛々しくてもう何も言えない.ただ撫でるだけ.ごめんね」などと、城山さんの怒りや悲しみが率直に書き留められていた」ことを知りました。私は城山さんの小説は読んだことはありませんが、「そうか」と驚きました。調べてみたら、名古屋市の生まれで、大日本帝国海軍に志願入隊し、海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えたことを知りました。
江藤千秋さんが書いた「積乱雲の彼方に」は名古屋を舞台にした話でした。
12月8日を迎える今、私が2010年12月に掲載した記事をトップに配置しました。
☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:* アジア・太平洋戦争開戦から69年に思う
2010年12月13日 第6回から
日本を戦争をする国にしてはいけない
あの戦争に少年たちを狩り立てたのはだれだったのか
江藤千秋「積乱雲の彼方に」
NHK8月15日放送「15歳の志願兵」 から 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。
■ 生徒たちが遺した日記・記録から
★ 犬飼成二の日記・記録から
現実の世界を蔑視し、人間を憎悪しながらも、犬飼戒二は、この世に未練をもつ。前年(昭和17年)3月25日の日記に、次のように書いている。
「ああ文学。我は文学を好む。我は海軍士官を希望してゐる。しかし、内心では、文学を勉強したいと願ってゐる。我は、勇猛なる軍人には向かないと見える。内心は文学、希望は軍人。成長したら、きっと後世に名を残す程の偉大な教育者になりたいと、内心では願ってゐる。
度か思った」(昭18・ 3 ・24)り、デュマ・フィズの『椿姫』を読んで「哀恋の運命に嘆く人々は、皆美しい詩だ」(昭和18・ 4 ・18)と嘆じたりしたことが、中学2年生の末ごろからの彼の日記に散見される。
昭和18年5月26日 水曜日 朝晴 昼晴 夜晴後曇
私の心程おかしいものはない。私の魂に聖なる火を焚かせようとする如く、夕方が静かにやって来ると、私は若くして逝った能登を思ひ出す。ああ人間は孤独に苦しまねばならぬのか。早く御国の為、大君の辺にこそ死んで見たい。死ぬ許りが御国の為に尽くすのではないなんてそんな事を言う奴は馬鹿者である。自我を殺す、死なして了ふ。これがわが国伝統の戦ひなのである。腕が鳴る、腕が鳴る。私は日本に生まれたのを涙にむせんで感謝する。ああ美しき祖国よ。
昭和18年9月29日
入隊のために、出発の日が来た
昭和18年9月29日 水曜日
朝晴 昼 夜 (空白のまま)
空は晴れてゐる。私の心も澄んでおちついてゐる。淡い感傷もどこかには残ってゐるかも知れないが。
平和な時代なら、私は芸術に身を捧げてもよかった。が、私は戦いの最中に崇高な芸術を描き出す積りだ。芸術よ、私を忘れて呉れるな。芸術の殿堂に閉じ籠もるには、死を以って。ああ、永遠の芸術よ、さらば。私の心を潤してくれた文学よ、さらば。私は時代の流れに突っ込む。そして、抜き手を切って泳ぎにおよぐ。
芸術よ ! 芸術よ ! 芸術よ !
心友よ ! 心友よ ! 心友よ !
永久の生命あれ。永久に喜びあれ。
私はうれし涙で彼らを蔽ふ。そして、哄笑しながら飛び立って行かう。おお、わが芸術。わが心友。空は晴れてゐる。鳥たちは、おのがじし歌をうたってゐる。辺はしんとして、今、草履で階下を走る音が聞こえてくる。
出発
愛媛航空隊
フランス物語
アメリカ物語
真実に生キル悩ミ
雨空
浅草記
心友!
男子有情
わかれ
ボンタン
ボスサン
さんまの歌
灯
恋慕流し
内海
椿の花把
墓 白き花
秋風 野分
さようなら !
● いつも習慣で、天候欄に朝、昼、夜と書きながら、昼と夜との天気の記載はない。このとき、彼は生れてからこれまでの生活を断った。
★ 汀朋平(すさき・ともひら)の日記から
粗末なノートが一冊残っている。その表紙には『昭和19年・海単日記・汀朋平』とある。同年1月1日から2月22日までの間に、彼が松山海軍航空隊で送った生活の記録である。ザラ紙のA5版のノートの横罫の一行分に二行ずつ細かなインクの文字が書きこまれている。
昭和19年1月1日 天気 晴天 梢寒 土曜日
11時ヨリ昼食が始マル。ソノ前二分隊長ノ訓示アル。班長ハ廊下二整列ツテ君が代斉唱後、昼食ヲトモニス。赤飯ナリ。
13時頃、父面会ノ通知来ル。喜ンデ走ッテ行ク。
父ノ顔ヲ見タトキ、熟イ涙ガコミ上ゲタガ、コラヘタ。父モ同様ダッタ。鉛木、犬飼、蒲モ来夕。 3時頃、父ト分カレタ。
夜ノ温習ハ1時間デアッタ。明日は郡中二行軍ダ。グッスリ眠ラウ。
2ヶ月前の10月1日、海軍二等飛行兵になった汀朋平たちは、1 1 月 1日一等飛行兵に進み、この日には上級飛行兵に進級した。「息詰ル思ヒガスル敵総反攻」のさなかで、少年航空兵の速成教育が行われていた。速成教育だから、当然、訓練の密度は高かった。
昭和19年1月6日 天気 晴天 昼曇 後雪寒強シ 木曜日
〈日課〉第一次 陸戦
第二次 陸戦
第三次 訓介(体育)
第四次 通信(送信)
第五次 通信(受信)
第六次 通信(受信)
朝カラ食卓番ニアタッタ。定時起床。朝社ノ位置二整列ス。海カラ吹キ来ル風ハ練兵場ノ砂ヲ巻キタテ、ソノ風タルヤ誠二冷タシ。朝礼後、体操は行ハレズ、整列位置ヲ改メテ決メタ。12月入隊ノ新兵が今後朝礼二出ル為デアル。
第一次ハ陸戦ダ。小銃ヲカツイデ擲弾筒ヲ持ッテ行ク。練兵場ヲー回駈足デ廻ッタ。冷タイ。冷タイ。涙が流レル。小銃ヲ持ッタ右手ノ指先ハ実にチギレル思ヒガスル。本当に痛イ。然し北辺ノ守りニ就テイル皇軍ヲシノソデ頑張ッタ。分隊長、分隊士カラ訓示アリシ後、分隊戦闘教練ヲ行フ。私八一分隊二属ス。一回目ハ善積練習生が分隊下士官ヲヤッタ。縦散開、傘形散開、前進、早駈、匍旬前進、突撃。実にクルシイ。2回目二私が分隊下士官ヲシテ分隊員10名ヲ誘導ス。第二次モ陸戦デアッタ。
第三次ハ体育ダ。体操服ヲ着テヰル暇ガナイタメ、普通ノ事業服デ行フ。「駈足ノ歩調が揃ハナイカラ1時間中駈足ヲ行フ」卜分隊士が言ハレタ。雪ガチラチラ降ッテキテテ一層寒イ。三兵舎ト四兵舎ノ周囲ヲ8回駈ケル。頭カラ汗ガタラタラ流レ、衣服ハビジヨ濡レニナル。ソノアト、裸体ニナッテ乾布摩擦ヲ行ヒ、汗ヲ拭ク。第四次ノ送信ハ手先ガチヂンデ思フ様二出来ナイ。残念ナリ。第五次ノ受信ハ兵舎内、第六次八三講堂七教室ニテ行フ。夕食後直チニ入浴ス。今日ハ全員酒保止メヲクラッタ。温習第一次、通信ノ受信行ハル。非常二眠カック。遺憾二思フ。今後大イニ慎ムベキダ。掃除ヲ行フ。明日ハ速度47ノ受信ノ試験アリ。文字ハ50字ダ。百点ヲトル覚悟ダ。張切ルゾ。
陸戦、体育、通信の猛訓練を受けた日の夜の温習で「眠カッタ」のは当然であろう。それを、彼は「遺憾二思フ」と反省している。
1945年3月8日、天皇は、“戦勝祈念”のため、皇弟の高松宮を名代として、伊勢神宮に参寵させた。
3月12日、「菊水2号作戦」が発令された。
汀朋平が、1枚の紙片に書き遺している。
「昭和20年2月1日、第五航空艦隊第706海軍航空隊攻撃405飛行隊に配属、木更津航空基地に転勤。3月20日、本隊を松島航空基地に移動。4月12日、鹿屋海軍航空基地にて神雷特別攻撃隊に配属」
神雷特攻隊とは、一式陸上攻撃機にロケット推進の人間爆弾桜花を吊り下げ、敵上空に近づいたときそれを放つ部隊のことだった。
■ 犬飼成二の生家に届いた速達
昭和20年4月16日の消印のある速達郵便が、名古屋市西区江川端町の犬飼成二の生家に届いた。
「突然な不躾をお許し下さいませ。
御一統様、御達者にて御暮らしの事と、お喜び申し上げます。実は、今日、鹿児島神宮の祈願祭に参りまして、偶然にも成二様方外大勢の特攻隊の人と一緒になりまして、ほんとに身に余る光栄に浴した者でございます。成二様は神の姿その値で御発ちになります。まだ年少の身で……。
何と申し上げて良いやらその言葉さへ存じません。明朝六時出発との由。御両親様にも、せめて最後の成二様のお姿をお見せ致したい一心でございました。今でも、成二様の笑顔を思ひ出して居ります。とても朗らかに! 岐度、犬空母陣に命中致しますことと信じて、晴れの御手柄を御祈りして、粗筆を止めさせて頂きます。さようなら。
鹿児島県姶良郡溝辺材 松田ヒデ
犬飼鍵次郎様
外 御一同様
二伸
成二様の最後の御書と同封させて頂きました。鹿児島神宮にて頼まれたものです。どうぞ」
同封されていた犬飼成二の〝遺書〟は粗末なザラ紙に走り書きされたものだった。特攻隊員たちが隊列を組み、“必死必中”を祈願のため鹿児島神宮を参拝した際、“神国必勝”の祈願祭でこの神宮に居合わせた国防婦人会のこの人に、隊列から離れて駆け寄った犬飼成二がこの手紙を託したという。
「父上様、母上様、祖母様、御機嫌よろしう。
魂のみは生きて陰乍ら幸なる生活をお祈り致します。どうぞ々お体大切に元気で、いつまでもいつまでも、成二をお守り下さいませ。
笑ひて突入します。父上様、母上様、祖母様のお写真を胸に抱き緊めて・・・・・
19年〔筆者注・満17歳〕の久しき間、心配ばかりおかけ申した親不幸者を、どうぞお許し下さい。
では又。
父上様、母上様、祖母様。お元気で。笑って暮しませう。
では。
犬飼成二
15日昼12時41分35秒
於 鹿児島神宮
この手紙を受けとったとき、約2年前の7月6日、愛知一中の剣道場で“甲飛勧奨”についての学校側の説明を聞いた際の言葉のいくつかが、犬飼成二の父母の耳に蘇ったという。
「わが子という観念は、もう払拭して頂きたい」「わが子にしてわが子にあらず」などの言 葉である。「天皇陛下のおんため、国家のために、うちの子は命を捨てたのだ」と父親は呟 いたが、母親は、声もなく涙を流したという。「15日昼12時41分35秒」と細かに書き遺したところに、わが子の几帳面な性格が偲はれ、自分の余命を分刻み秒刻みに臨んでいた心情が胸に浸みた。
■ 犬飼成二、最後の遺書
4月25日も天候不良で、敵機動部隊の発見は不可能となり、翌26日は雨だった。ほどなく、この日(26日)のスタンプが押された封書の速達が、犬飼戒二の父親宛に届いた。
封筒の裏には、「鹿児鳥県始良郡日当山村東郷 犬飼成二」とあった。
拝啓 前略 後略 敬具
父上様・母上様・祖母様 お健者で、私も元気一ぱい張切ります。どうぞゝ御心配なく、 いつまでもゝ永遠にご幸福にお暮し下さいませ。私も、永劫に永久に永遠に生きて皆様の健 康を祈って居ります。
4月25日夜
椿も咲き桜は散り今夏が来ます。
お体大切に 御法様と父上・母上・祖母様の御写真は肌身離さず持って信仰します。
では又 さようなら
あゝ花散る日 古の道こそ開け
石川啄木
我が受誦の句なり
Ah!
Il Pleure dans
mon coeur
Comme il pleut
sur la ville
Quelle est cette
langueur
Qui penetre mon
coeur ?
巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん ?
ヴェルレーヌ
この詩は、「巷に雨の降るごとく、わが心にも涙ふる」と、自分の思いを伝えようとしたものと推定される。
4月27日夜、夜間戦闘機隊とともに、706空すなわち汀朋平の部隊の陸攻九機が鹿屋基地を出発、沖縄周辺の敵制圧に当たった。
4月28日午後、沖縄に向かって零戦29機が出撃したあと、九七式艦上攻爆撃機12、九九式艦上爆撃機22、桜花を抱いた陸攻四などが、南へと飛び立った。薄暮攻撃のためである。
第二国分基地から発進した九九式艦爆22機は、“神風特別攻撃隊第三草薙隊”と名づけられていた。この隊に属していた犬飼成二は、“九九式棺桶”と俗によばれる固定脚で時速389キロメートルという低速の旧式爆撃機に搭乗し、沖縄沖の敵艦船群に突入した。
4月15、25日と再度にわたり、犬飼成二が゛遺書゛を書いたのは、「明日発進」と幾度か令達されながら、作戦の都合、B29の基地来襲、天候の不良などにより、出撃が順延されたからだった。
なお、彼の最後の遺書にある「御法様」とは、正しくは「御坊様」であり、彼がいつも信仰し参詣を怠らなかった寺院のことである。いずれにせよ、犬飼成二が、このとき、亡友能登芳康の住む世界に旅立ったことは、疑いのない事実だった。
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