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2010年12月11日 (土)

アジア・太平洋戦争開戦から69年に思う  12月8日 第4回

日本を戦争をする国にしてはいけない

あの戦争に少年たちを狩り立てたのはだれだったのか

江藤千秋著「積乱雲の彼方に」
8月15日放送。NHK「15歳の志願兵」から


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■ 親 子 の 確 執

“甲飛”という言葉を初めて耳にし、古新聞の束を取り出して、それらしい解説記事を探したり、知り合いの家へ相談に出かけたりする親もいた。「いったい学校では何が起こったのか」と、首を傾けるだけの親もいた。多くの家庭で口論がつづき、混乱が生じた。

● 4年戊組の大飼戒二

海洋班つまり以前の端艇(ボート)部の選手である。
帰って鞄を放り出しながら、「ぼくは甲飛を受けるよ」と、彼はいった。祖母が「コウヒって何のこと」と尋ねると、彼は、この日に学校で聴いたこと、感じたこと、決心したことのすべてを、語った。
「ひとりっ子のお前が軍隊へ行ってしまったら、どんなに淋しいことだろう」という母や祖母の反対も、女らしい愚痴としか、彼には聞こえなかった。彼の反論に、気弱な母親はただ涙ぐみ、とりわけ彼をかわいがっていた祖母は、泣きじゃくりながら「何とか思いとどまってくれないものか」とくどいたが、「全校総決起だから」と、彼は心を動かさなかった。残業で遅くなった父親が、勤め先の銀行から帰り、事情を聴いた上でいった。「この時局だ。お国のために戦おうというのは結構なことだ。けれど、うちには、お前ひとりしか子どもがいない。思い直してくれればありがたい」彼は、「ぼくは征く」と繰り返し、こうした父親の説得にも耳をかさなかった。

昭和18年7月8日 木曜日 朝曇 昼曇 夜曇時々晴 
                 犬飼成二の日記から

 私の学校では、3年生以上の生徒は誰でも甲種飛行予科練習生を受験することに決した。
 私たちは、名誉も地位も欲望も、一切をかなぐり捨てて一意“醜の御楯”となることを誓ったのである。その悲壮な決意と厳粛な心、崇高な精神に涙を流さない者はなからう。人の嫌悪する処へ、人の馬鹿にする処へ、一切のものを犠牲にして無一物となって進まうとする我等の誓ひは、動かすべからざる一中魂であり、日本精神の権化でもある。
 家へ帰ると、17年〔筆者注・満15年〕の間あらゆる苦悩と辛鮫に打ち克って、我が子を育てた両親の子を思ふ情に、私の心は潤はされる。母は痩せていく。祖母は涙乍らに「しづ〔母の名〕もつまらないよ」と独白された。ああ万感の思ひが、この一語に尽きて居る。
17年もの間、手塩にかけて叱ったりすかしたり御機嫌をとったり、色々な苦労の結晶ともならうとする一歩前、私が〝死〟に向かっていく。それは悲しいことであらう。子として親の心情を察せぬではない。けれど・・ ・ ・


 祖母も母親とともに、すがりつくようにひとり息子の翻意を求めたが、彼の決心は変わらなかった。思いあぐんだ祖母は、近所に住む3年戊組の伊藤鉾二の家を訪れ、その父親に相談した。「どうしても航空隊へ行くといって聴きません。学校側のいうとおり、全員征かなくてはいけないのでしょうか」「そうらしいです。適格者は全員甲飛を受験することに決まったようです。うちでも、“ぜひ征く”とがんばっていますので、お宅と同様、ひとり息子ですが、思い切ってやりたいだけやらせてみるつもりです」
「学校がそういう方針なら、しかも、お宅の場合もそうなら、仕方もございません」
諦めて帰る老婦人の目に涙があった。

    4年丁組の岡田巧

海洋班の班員だった。小柄な彼は、中学校4年生といっても幼げに見えた。愉快な少年でかわいらしく、学校から帰ると、針仕事中の母親の背後にしのびより、「ワッ」と飛びついたりした。その彼が、この日に限り深刻な表情で、甲飛を志願したいという。

「お前たちのように小さな子どもが兵隊に行くなどといわなくても、この戦争は長引くのだから、もっと勉強し、もっと成長してから 征けばいいじやないか」二人しかない兄弟であと一年もすれば、兄の方も現役兵として徴集される。二人の息子をほとんど同時に軍隊にとられる恐れで、両親は顔を暗くしたが、彼は気にとめなかった。
「海洋班のキャプテソだから、誰よりも先に征かなければ、ぼくの責任感が許さない」明るい笑顔で、彼は母親にいった。「死んでも、ぼくらは神として祭られる。会いたくなったら、靖国神社へ来てくれればいい」新聞やラジオで、よく見聞する言葉だが、自分の息子の口から聴くと、母親としては戦慄を覚えるほかない。

 かってノモハンの敗北が巷間に囁かれたように、当局が秘匿した、ミッドウェーの大敗もガダルカナルの惨敗も、街で噂されていた。「戦争は人殺しだ。農家の苦労も考えてみよ」という投書や「万柔の桜は散れども、一将の巧となるのみ」の落書など。真実を衝く民衆の直観は、当局者の肝を冷やす風説として農山村や都市の一部に流れていた。
 
しかし、おおっぴらに日本軍の劣勢や弱点を口にし、戦争の見通しを悲観的に語れば、たちまち拘引される。隣人との会話、級友との雑談でさえ、この種の話題は危険だった。ある学者が「大本営は敵の損害を誇大に、わが損失を過少に発表している」と洩らし、懲役一年の刑を受けた例があり、私たちの中学校の3年生のひとりが「こんなつまらない戦争など早くやめたらいいのに」と呟いただけで、同級生たちに半死半生になるほどの鉄拳制裁を受けたこともある。

「息子を軍隊に送るのはいやだ」と思っていても、親たちは表立って反対の意志表示をすることはできない。「航空兵以外にも道はあるはずだ」「国に報いる道は一つとは限らない」というような口実が精いっぱいである。「忠君愛国」「滅私奉公」という建前が厳として存在する世相のなかで、本音を公言できないもどかしさを、どの父母も痛いほどに感じた。

● 三年丁組の蒲(がま)勇美

 ひとり息子である。

「ぼくらの学校は、いつも先頭に立つことになっている」と力みながら、身体検査表をつくって、合格基準値と自分の測定値とを書きこみ基準に達している項目に丸印を記して彼は言う。「大丈夫合格だ」剣道班で体は鍛えてあり、学外成績もクラスで指折りである。彼の甲飛合格は疑いようがなく、母親は心が凍る思いだった。時局だから本人に直接はいえないが、嬉しいことではない」と、父親も呟く。両親が乗り気でないらしいと判断した彼は、父親の印鑑を持ち出し、両親の制止にも耳をかさず、自分で書類を整えた。

● 三年戊組の鈴木忠煕(ただひろ)

 家族会議が開かれた。

柔道班の精鋭であり、学科も上位の成績である。両親たちは、「もう一年たってから、海兵か陸士を受験したらどうか」と勧めたが、彼は聴きいれなかった。

● 三年乙組の汀(すさき)朋平

 中学三年生で柔道三段であり、この学校の柔道班の全国制覇の夢を彼らに託していたと、当時の柔道班長祖父江(旧姓谷口)武教諭は、「愛知一中柔道部史」に記している。その体格と俊敏さとは、日本柔道界の一方の雄としての将来を期待させ、航空搭乗員としても優れたた資質をもっているものと想像された。
彼の甲飛介格も、当然のことといえた。クリスチャンの母親が、「自分から生命を捨てるのは誤っている」と説き。「思い直すように」と嘆願しても。彼の決心は変わらなかった。

○ 雨の物千台に坐りこみ、「話し合いたいから、降りてきて」という母親の言葉を無視しつづけた者もいた。

○ 自分の部屋に閉じこもって、布団をかぶったまま寝こみ、食事どきになっても姿を現わさない者もいた。


○「時代遅れのおやじたちが、おれのことを理解してくれるまではがんばる」という抵抗の姿勢だった。

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