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2010年8月24日 (火)

戦争の犠牲にされた悲しい動物たち  8月24日

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clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

 今年は、3月10日の東京大空襲犠牲者の慰霊祭に参加していなかったので、まず、「時忘れじの塔」で犠牲者に黙とうしました。上野の杜には亡躯が次々と運ばれて大変だったのです。Img_4588

上野動物園内に東京動物園協会があり、そこには動物に関する図書が保管されていて、申し込めば閲覧できるようになっていました。事前に申し込んでくださいということでしたが、15日は支障がなかったので閲覧を許可してくれました。そこで保管されている図書を閲覧させていただき、戦争末期と終戦直後の動物園の状況を知ることができました。

 調べた後、動物慰霊碑で哀悼の意を表してから園内を見て廻りました。

httpここをクリックするとアルバムへ://urano.cocolog-nifty.com/photos/uenodoubutuen/
■ 調査した内容を私なりにまとめました

   資料 上野動物園百年資、同資料編(1982年3月20日発行)
       「実録 上野動物園」福田三郎著(1968年7月25日発行)
       その他

   東京市から戦争目的完遂の使命を持って東京都に
 
  1941年7月29日に陸軍東部司令部獣医部から非常時における動物園の対策について文書提出を求められた上野動物園は、即刻「動物園非常処置要綱」を作成し提出しました。
 内容は3段階の時期に分け、飼育動物を4種類にわけ、3段階の対応を定めました。
その中で猛獣等の処置については「薬物を原則」とし余裕ない時は「銃殺」と定め、動物の薬物の致死量についても示されました。
 この頃、上野動物園を所菅していたのは東京市公園緑地課でしたが、1943年7月に東京都政がしかれました。東京百年史では「この都政は戦争目的完遂の使命をおびた内容をもって登場した」と書かれています。初代官選の都長官となったのは内務官僚の大達茂雄でした。「大達は、戦局の非勢と東京大空襲の必致をつつみかくすことなく、東京都民の覚悟と団結を求め、首都防衛体制の強化と、建物疎開、学童疎開につとめた」(東京100年史)この一環として戦時猛獣処分が発想され実行されました。

   「象、猛獣を射殺(毒殺)せよ」の命令

 1943年8月16日、上野動物園園長代理の福田三郎、陸軍獣医学校教官の古賀忠道が公園課長に呼び出され大達茂雄都長官から「象、猛獣類を射殺せよ(毒殺)」との命令が出たことが伝えられました。
しかも、1ヵ月以内に毒殺せよということだった。
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 (ありし日のジョン(右)とトンキー(左))
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(43年8月27日に撮影されたトンキー絶食でお腹がへこんでいます)
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 (処分されたトラ)
 福田三郎さんは自著「実録上野動物園」(68年刊)で当時のことを「私にとって忘れることのできない日になった。昼前、公園課長から直ぐに来るようにと電話で呼びだされた。猛獣処分の件にちがいないと直感した。私は殺さねばならない動物の一覧表を書きあげて持っていった。・・・課長は『戦局が悪化したわけではないが、万一に備えて・・・』と説明。
 動物園へ帰った私は、小雨が降り始めた園内を一巡した。いま思い返しても、あの時ほど胸のふさぐ思いで歩いたことはない。(動物に)近づいていくと、私の足音、顔を覚えていて、すり寄っているトラやゾウの目を正視することはとてもできなかった。
 翌朝、出勤後すぐ全員を集め、昨日の命令を伝え、秘密を守るためには、このことは家族にも話さぬようにとつけ加えた。」と書いています。

   非常処分された14種27頭の動物たち

ライオン 3頭、トラ 1頭、ヒョウ 3頭、クロヒョウ 2頭、チーター 1頭、マレークマ 1頭、インドゾウ 3頭、ホクマンヒグマ 2頭、チョウセンクロクマ 2頭、ホッキョクグマ 2頭、ニホンツキノワグマ 2頭、アメリカヤギュウ 2頭、ニシキヘビ、ガラガラヘビ 2頭、ヒョウの子ども 1頭  合計14種27頭が処分されたのでした。

  8月13日からゾウのジョンの絶食が始っていました。(凶暴になったジョンは命令が出る前から処分が計画されていました)

  処分は次のように進められました

○ 8月17日 ホクマンヒグマ 1頭、クマ 1頭(毒殺)
○ 8月18日 ライオン、ヒョウ、チョウセンクロクマ、各1頭(毒殺)
処分された動物の遺体は解剖し、毛皮は皮晒し、剥製標本にし、骨肉は慰霊碑前に埋没することが決められました。
○ 8月19日 ホクマンヒグマ1頭(毒殺)
○ 8月21日 チョウセンクロクマとニホンツキノワグマ各1頭
この日チョウセンクロクマには毒薬を与えたのち刺殺。ニホンツキノワグマは首にロープを巻き付け15分かけて窒息死させた。
○ 8月22日 ライオン2頭、トラ1頭、チーター1頭
ライオンは毒物を与えたが食べないので心臓部を穿刺して死なす
○ 8月23日は処分を休む
○ 8月24日 ホッキョクグマ1頭
○ 8月25日 記録なし
○ 8月26日 クロヒョウ、ヒョウ、ガラガラヘビ各1頭
この日はガラガラヘビは毒殺できずに、針金で頭部を突き刺し頸部に細紐を巻いてようやく死なす
○ 8月27日 ニシキヘビ、ヒョウ、クロヒョウ、マレーグマ各1頭
ニシキヘビは頭部を切り落とし、クロヒョウはワイヤーロープを巻き付けて殺す
○ 8月28日は処分なし
○ 8月29日 ホッキョクグマ、アメリカヤギュウ各1頭
この日、8月13日より絶食させられていたゾウのジョンが餓死
○ 8月30日は処分なし。ゾウのジョンの解剖
○ 9月1日 アメリカヤギュウ1頭
頭部を金槌で殴打して死なす

9月2日 新聞で猛獣が処分されたことが報道された
9月4日 処分された猛獣を「時局捨身動物」と呼んで慰霊祭が行われた
浅草寺大僧正のもとに大達都長官、国民学校、中学校、女学校などの代表500名の参列で行われた。

    餓死させられた3頭のゾウ

 しかし、慰霊祭が行われた日、ワンリー(日本名は花子)とトンキー(3頭の中で体が一番小さく芸をよくした)2頭のゾウは空腹に耐えながら生き続けていました。
 その頃の様子を福田三郎は「動物園物語」(57年刊)に書いています
「初め仙台の動物園に疎開させることにしたのですが(象のトンキー)急に事態が悪化し(大達都長官が反対したため)とうとう殺さなければならなくなったのです。そして馬鈴薯に毒を注射する方法をとることが決められました。その日、私たち4、5人の来訪に象は異様な目を光らせていましたが、餌の入っている大きな笊(ザル)を見て安心したのか、係員の方に寄ってきました。係員はまず注射されていない馬鈴薯を象にやるために近づいていきました。象は鼻をあげて口を開いたので口の中に馬鈴薯を入れました。象は食べました。馬鈴薯は次から次へと与えられ、そして、ついに、毒物の入っている馬鈴薯も与えられました。すると急に、口に入れた馬鈴薯を吐き出してしまったのです。再び馬鈴薯は象の口に入れられましたが、また吐き出します。象は毒の入っているのを知ったのでしょうか。ついに見ている私たちの方へ投げつけてしまいました。・・・・・ (毒薬ではダメということで)
 翌日から象の絶食が始められました。そして13日目の8月29日にジョンが亡くなりました。ワンリー(花子)は絶食18日目の9月11日に亡くなり、トンキーは絶食から30日目の9月23日に亡くなりました。
 慰霊祭の法要が終わってから、私が1人で象室に入っていくと、トンキーは隅の方で鉄柵によりかかっていました。象の陰でよく見えないのですが、誰かいるようなのです。もしやと思ってみると、やはり飼育係の菅谷くんだったのです。菅谷くんはこの象が唯一のものであり、この象は菅谷くんが唯一のたよりだったのです。私は、来なければよかったと思いましたが、帰るわけにもいかず、象の側に歩いて行きました。
 私はトンキーをみて『やせたなあ』と思わず口から出そうになりましたが、やっと呑み込んで、トンキーの頬を軽くたたいてやりました。菅谷君をみると『痩せたでしょう』と言おうとして喉まで出たのをのみこんでしまったようでした。

   「芸をしてみせたのです。これには本当にまいってしまいました」
   「私の一挙一動をじっと見て目を離さない」

 象が亡くなった後、菅谷君は私に話しました。  
『象に絶食を命じてから1週間というものは、ぼんやりしていました。トンキーは私を見ると前足を折って鼻を高く上げるのです。今まで芸をすれば食べ物をやったので、芸をして見せたのです。これには本当にまいってしまいました。絶食してから10日も経つと芸をしなくImg_46821_2なったのです。 身体もだるく、大儀だったのでしょう。それから一番困ったことは、私が部屋に入ると、私の一挙一動をじっと見て目を離さないことでした。いつか餌をくれるとでもおもったのでしょうか。それからというものは、私は象の室へ余り行かないようになったのです。象の疎開が問題になったので、トンキーだけに、少しばかり餌をやったのです。トンキーにやればワンリーにもやらないわけにはいきません。つい少しずつ餌をやりました。そのうち、事情が変わってくることもありはしないかと思ったからです。しかし、動物たちの法要があってからは、もう、本当に決心しました。』」

 新聞で猛獣の処分が発表されると全国から多くの手紙が寄せられました。
その中には、「来る世は 人間に生れよ 秋の空」という俳句もあり、小学1年生からは「どうぶつえんのおじさん、けだものころしてかわいそう。ぼくは、いままでどうぶつえんがいちばんすきだった。トラさんライオンさんシロクマさんもすきだった。けれどもうぼくのすきなどうぶつえんに、もうじゅうはいないんだね、さびしいな」

    27頭の“あいつたち”のことは決して忘れていない

 福田三郎は「実録上野動物園」(68年刊)で次のように書いている。「猛獣を殺し始めてからは、就職以来、1日もかかさなかった園内の巡回をあまりしなくなった。1カ月たらずの間に8キロ近く体重が減った。私ばかりでなく、当時動物園にいた者はみなそうだった。自分の係の動物が殺される当日、欠勤してしまう人もいて、動物たちが夢に出てきて熟睡できない日が続いた。25年たった今日でも、27頭の“あいつたち”のことは決して忘れてはいない。」
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 (慰霊碑の前で手を合わせる子ども)
記録によると、処分された27頭の総評価額は46,000円で、処分にかかった費用は6、510円かかっています。(当時の金額)(現在の価値にすると約1500万円と約211万円になるのでは)

 このようななかで、わずかでも救いとなったのは、子どもをあわせ4頭のキリンが上野動物園の人気者となり、その家系が現在に続いていることです。

  犠牲になったのは上野動物園だけではありませんでした

(世界で見ると)
ドイツベルリンの動物園では1943年11月22日~23日にかけた夜間空襲でゾウ、ライオン、トラなど10種17頭の動物が死亡しました。
(国内  では)
井の頭自然文化園でもホッキョクグマ1頭とニホンツキノワグマ1頭が処分されました。
動物園以外のサーカスなどで飼育されているゾウや猛獣の処分も警視庁より1943年10月28日までに処分するよう指示が出されました。処分の対象動物はライオン52頭、インドゾウ7頭、ヒョウ8頭、トラ2頭、ヘビ58頭、クマ6頭でした。このうち、ゾウについては処置保留になっています。
44年になると宝塚動植物園、大阪市天王寺動物園、京都市動物園、仙台動物園、福岡市記念動物園、名古屋市東山動物園など各地の動物園で猛獣類が処分されています。東山動物公園ではヒョウ、トラ、クマ、ライオンが銃殺されましたが、インドゾウ2頭とチンパンジー1頭が困難ななか戦後に保持されました。

  終戦間際の上野動物園

44年、45年になると飼料の入手が困難になっていきます。そうした中で、東京都の防空緑地で動物園の飼料生産も行われたり、食糧増産の一環として動物の整理もし、馬、ヤギ、アヒル、にわとり、ウサギなどの家畜動物が増やされています。
 44年8月12日にはゾウ室内に500の棺がしまわれ、鉄材、金族類の供出もされています。45年3月10日の東京大空襲では動物園に直接の被害はありませんでしたが、上野の杜には被災者の遺体が次々と運ばれ、動物園の職員も遺体処理にあたりました。
 入園者は43年には199万人、44年には50万人でした。

 
■ 繰り返してはならない歴史

「動物よ安らかに」と刻まれた慰霊碑の左側はゾウ園で、右側では8月10日~16日までテントをはって「写真展 戦時中の動物園」が行われていました。
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   (写真展会場)
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    (展示を見る人たち)
私はここでしばらく様子をみました。子ども連れの家族が多くやってきました。手を合わせる子どもや大人もいました。慰霊碑のわきには各地の幼稚園からと思われる折りヅルが飾られていました。
 慰霊碑を知らずに素通りする人が多いように思いました。「写真展 戦時中の動物園」には処分された27頭の動物の名前が書き出され、経過も説明され、ゾウのトンキーとジョンやトラ、ライオンの写真も展示されていました。この展示場では子どもも大人も熱心に見ていました。展示物を見ていたお母さんが涙ぐみ、それを見ていた男の子が「お母さん泣いたの」と声をかける情景もあり胸うたれました。
 15日は猛烈な暑さでした。隣のゾウ園では3頭が池に入って寝そべったり、飼育員にホースで水をかけてもらったり、長い鼻で自ら水をかけている情景を見ることができました。Img_4784
  (飼育係と水浴びをする3頭の象)
私は、元気に暑さの中で楽しんでいるゾウの姿と、戦争中に餓死させられた3頭のゾウの姿がダブって胸が痛みました。
 動物を大切にしない世の中では人間も大切にされないとつくづく思い、憲法9条を生かし戦争を起こさせない国にしなければと思ったのでした。

 現在上野動物園で飼育されている動物は
哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、無脊髄動物など501種類、2,998点だそうです。(2010年7月31日現在)

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コメント

 超亀レス失礼します。私は古賀忠道園長が設計指導された大阪のある民営動物園の元園長です。トンキーたちの記事を拝見し、ささやかな体験と古賀忠道園長についてご紹介をしたいと思い書きこみました。
 動物殺処分が決定された日から27年後の1970年8月16日「人類の進歩と調和」をテーマとする大阪万博のお祭り広場に参加していたインドゾウに子ゾウ「ヒロバ」が生まれます。そう27年前のその日、亡くなることを余儀なくされたトンキーたちの生まれかわりであるかのように・・・。
 私はそのヒロバが生まれた日、家族に連れられて万博会場に居たのです。それから34年がたち、偶然人事異動で動物園長となり、その年のクリスマスには飼育していたゾウの最期をみとるという場面にも出くわしました。
 更には、古賀先生と勤務先とのご縁や「ヒロバ」とのかかわりについて講演をしていた時には、トンキーが亡くなる2ケ月前の上野動物園に国民学校(小学校)から遠足に出かけ、トンキーと自分たちを写した写真を是非見てほしいと駆け付けられたご年配の方とお会いする機会もありました。
 現在は転勤により全く違う仕事をしていますが、時折、動物たちのことをしのんで下さる記事を見かけますと、こうしてこの書き込みのようなことを紹介させていただいております。
 古賀園長は、戦中の悲痛な体験を踏まえ、戦後「動物園は平和な社会そのものである」という考えから各地の動物園の建設や運営指導にあたられます。(戦時中の彼の立場や行動からその発言に対しては、無責任であるとの批判的な見方もありますが、ともかくも彼の建設指導による最初の動物園が元勤務先です。)特に温厚で子供に対する思いの深かった彼は、子供向けの啓発書の中で、その考えについてこのように噛み砕いた説明をされています。
 「私が皆さんにお願いしたいことは動物を友達としてかわいがってもらいたいということです。(中略)私たちがよわい動物たちの身になってかわいがってやることは、私たち人間どうしの間の、よわい人を助ける心につながっています。動物をいじめて平気な人はまた、よわい人間を平気でいじめる人たちです。そのような意味で私は、動物をかわいがることは、大きくにんげんどうしがたすけあうことにもなり、更に世界の平和にもつながっているものだと考えます。(以下略)」(「世界の動物園」昭和31年/古賀忠道著200頁より)
 もしよろしければ、なくなった動物たちのこととあわせて、古賀忠道博士の戦後の取り組みや次のような言葉も心に留めておいていただければと思います。
 「動物園は平和なり」(古賀忠道)

投稿: 古賀園長ゆかりの元動物園長 | 2011年11月26日 (土) 23時54分

なんかこの記事を読んでいるととっても悲しいvirgo
だけど、動物たちのことが知れてよかった(。・w・。 )

投稿: safaiya | 2012年12月23日 (日) 17時54分

戦争は、どうぶつや、人間、

愛もすべて奪い取ってしまうなんて・・・

戦争はやってはいけないそれを、

次世代に伝えなければいけないと思いました。

投稿: 明石由起 | 2014年5月10日 (土) 07時59分

自分たちで取り扱えない、いわゆる、猛獣、と呼んでいるものが、逃げられたら射殺、戦争で逃げられるのが心配で処分、責任とれないものを連れてくるな、飼うな、と言いたい。

投稿: ゆるせん | 2015年8月17日 (月) 18時37分

殺処分命令を出した都長官・大達は敗戦後、A級戦犯容疑に問われたものの不起訴。
しかも復権し吉田内閣で文部大臣を務め、教育二法の制定にも関わりました。

投稿: AS | 2016年8月30日 (火) 20時23分

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