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2010年8月15日 (日)

広島・長崎 原爆投下後の隠された真実  8月15日

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今日は8月15日で終戦65周年の日となりました。
アジア諸国に侵略戦争を行った日本が連合国に降伏した日です。
 アジア諸国民の犠牲は2000万人を超し、日本国民も310万人以上が犠牲になりました。
 心から哀悼の意を表します。
日本は朝鮮や中国に対しての植民地支配による加害者であり歴史認識もふくめ深い反省が求められます。同時に広島・長崎への原爆投下、東京大空襲など無差別策殺戮による被害者でもあります。
 加害者であることと被害者であることをしっかり認識しなければと思うのです。

 8月には毎年、あのような戦争を二度と繰り返してはいけないと、テレビでも、さまざまな企画がされます。今年もたくさんのすばらしい番組がありました。
その中で、私は深く考えさせられた「封印された原爆報告書」について、どうしても一人でも多くの人にこの真実を知ってほしいと強く思い書くことにしました。

 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。


  「封印された原爆報告書」プロローグ

 アメリカ国立公文書館に原爆投下後の広島で被害の調査に当たる映像が残されていた。
広島と長崎に送り込まれた調査団は合わせて1300人。
Uvs100808024 被爆地でしか得ることができない詳細なデーターを集めていた。
日本の調査団がまとめた膨大な記録がGHQが集めた内部文書の書庫の中に眠っていました。
アメリカ公文書館に181冊の原爆報告書が保管されていて、合わせて1万ページにも及びました。

NHKは今回初めて全ての資料を入手した。

 そこに記されていたのは被爆国日本自らが調べ上げたなまなましい被害の実態です。
1 4589 (報告書には)
○ 学校で子どもたちがどこで、どう亡くなったか
○ 放射線が人間の臓器をどうむしばんでいくか
○ 200人をこす被爆者の遺体を解剖した記録もありました。
調査の対象になった被爆者は2万人にのぼり、被爆者から徹底した調査が行われました。
治療はほとんど行われず原爆が人体にあたえる影響を徹底して調べていたのです。
日本人の手で調査し、日本人が英語に翻訳してアメリカに渡していました。

 私たちは(NHK)
原爆調査を知る数少ない関係者を日本とアメリカで取材しました。(みな高齢に)
浮かび上がってきたのは被爆者の救済よりもアメリカとの関係を優先させていた日本の姿です。
唯一の被爆国として原爆の悲惨さを世界に訴えてきた日本。その一方で被爆者のために生かされることのなかった181冊の報告書。

 破壊しつくされた広島
爆心地から4㌔離れて残った旧陸軍病院宇品分院。ここで181冊の報告書になる最初の調査が行われました。
収容された被爆者は、2ヶ月間でのべ6,000人を超えました。

大本営の指揮の下、宇品での調査を指揮したのは陸軍省医務局です。
Uvs100808033原爆投下から2日後の8月8日、広島に調査団を派遣し敵国アメリカが使った新型爆弾の調査にのりだしていました。
調査の結果は1冊の報告書にまとめられました。
タイトルは「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」
・ 被爆した人がどのように亡くなっていくのか放射線が体をむしばんでいく様子が詳細なデーターとともに記載されています。
・ どのように進行していくのか
  証言者  沖田博(89才)さん
Uvs100808016広島の部隊にいて爆心地から1㌔の兵舎で被爆。突然異変が現れ宇品に運ばれてきまし た。治療を受けられず毎日検査ばかり続いた。
報告書には沖田さんの記録も。危険な様子が克明に記録されている。
回復の過程も調査の対象にされた。2ヶ月間調査「モルモットだった」と言います。

★  広島、長崎に原子爆弾が投下され20万人を超す人が亡くなった

終戦とともに調査は一気に拡大。
 国の大号令で全国の大学など1300人からの医師、科学者が集められ、調査は巨大な国家プロジェクトになったのです。
 2年以上かけた調査の結果は181冊、1万ページを超える報告書にまとめられました。
大半が放射線によって被爆者の体にどのような症状が出るのか調べた記録です。
日本はその全てを英語に翻訳してアメリカへと渡していました。

■ なぜ自ら調べた原爆被害の記録をアメリカに渡したのか
その手がかりを公文書館に保管されている報告書の中に探しました。

● アメリカ側調査団
・ アメリカ陸軍アシュレー・オ-タ-ソン大佐
マッカーサーの主治医でアメリカ原爆調査団の代表
・ オ-タ-ソンと共に調査に当たった元アメリカ調査団フィリップ・ロジ氏

 証言者  フィリップ・ロジ氏の証言
Uvs100808021 「日本の申し出にオ-タ-ソン大佐は大変喜んでいらっしゃいました。日本がすぐに協力的な姿勢を示してくれたからです。日本は私たちが入手できない重要なデーターを原爆投下直後から集めてくれていたのです。まさに被爆国にしかできない調査でした。」

 オ-タ-ソン大佐に報告書を渡していたのは原爆調査を指揮する陸軍医務局の幹部でした。陸軍医省医務局小Uvs100808031 出策郎軍医中佐でした。30才で医務局に入ったエリートでした。陸軍が最初に行った調査の報告書も全て英語に英訳されてオ-タ-ソン大佐に渡されていました。占領軍との関係に配慮する日本側の意思があった。
なぜ小出中佐は軍が終戦前から独自に調べていた情報をアメリカに渡したのか。当時の内情を知る人物が生きていました。
 
  証言者 元陸軍軍医少佐三木輝雄さん(94才)。(終戦時大本営に所属していた)
Uvs100808071 「いづれ要求があるだろう。その時はどうせ持っていかなくてはならない
 早く持っていったったほうが心証がいいだろうと要求がないうちに持っていった」
問い 「心証がいいとは ?」
一定の時間考えて
「731部隊のこともあるでしょうね」

ポツダム会談が8月6日に行われ 連合国は捕虜虐待などの戦争犯罪に厳しく対応していくことを確認していた。
戦後処理をまかされていた陸軍医務局小出策郎中佐に証拠隠滅の極秘命令が出されていた。(8月15日)「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究は全て証拠を隠滅せよ」
戦争犯罪の疑惑から逃れるために戦後の新たな日米関係を築くために、原爆報告書を渡すことは当時の国益にかなうものだったといいます。

「新しい兵器を持てばその威力をだれでも知りたいものですよ。
カードと言えば有効なカードはあまりないんで、原爆のことはかなり有力なカードだった。」

 自ら開発した原爆の威力を知りたいアメリカ、そして戦争に負けた日本。原爆を落とした国と落とされた国。二つの国の利害が一致したのです。

● 日本側調査団
Uvs100808082 原爆投下から2カ月、アメリカの調査団が入ってくると日本はその意向を強く受けて調査に力を入れるようになりました。
 小出中佐に代わってアメリカ調査団との橋渡し役になったのは東京帝国大学の都築正男教授でした。放射線医学の第一人者で当初から陸軍とともに調査に当たって来ました。

報告書番号#14(アメリカは報告書に独自のナンバー(#)を打っていました)
この報告の中に当時アメリカが最も必要としていたデーターがありました。
● 世界で初めての原爆による死亡率曲線
原爆がどれだけの範囲に居る人を殺すことができるのか調べた記録です。
対象となったのは広島市内で被爆した17,000人の子どもたちでした。
Uvs100808106   ・ どこで何人死亡したのか  70ヶ所で調べたデーターが記されています。
・ 爆心地から1.3㌔にいた子どもたちは132に人中50人が死亡
・ 0.8㌔では560人全員が死亡しています
8月6日 大勢の子どもたちが学徒動員の作業に駆り出されていました。
同じ場所でまとまって作業をしていた子どもたちが原爆の殺傷能力をたしかめるためのサンプルとされたのです。
△ 調査の対象になった第一国民学校
そこに通っていた佐々木妙子さん(77才)当時1年生で建物疎開に動員されていました。175人が被爆。報告書によると第一国民学校では175人中108人が亡くなり67人が重傷でした。
 都築教授たちが調査した背景にはアメリカからの要請がありました。
オ-タ-ソン大佐がこのデーターに強い関心を示していたのです。

   アメリカ核戦略の礎となった
△ ワシントンにあるアメリカ陸軍病理学研究所
 日本からのデーターの全てはここに集められました。
原爆の医学的効果として6つの論文にまとめていました。
第6巻には子どもたちの被害データーがあるので政治的配慮から機密解除が遅れました。
Uvs100808110  17,000人を超す子どもたちのデーターから導びかれたのは一つのグラフでした。爆心地からの距離と死者の割合を示す死亡率曲線です。
原爆がどれだけの人を殺傷できるのか世界で初めて具体的に表したこのグラフはアメリカ核戦略の礎となりました。
 こうしたデーターを元にアメリカ空軍はシュミレーションを行っていました。
ソビエットの主要都市を攻撃するために広島型の原爆が何個必要かを算出していました。

   証言者  ジェームズ・ヤマザキ氏(94才)
Uvs100808113  オ-タ-ソン大佐の研究を引き継いだジェームズ・ヤマザキ氏(カリフォルニア大学名誉教授) 死亡率曲線は広島と長崎の子どもたちの犠牲がなければ得られなかったと言います。
「革命的な発見でした。原爆の脅威的な殺傷能力を確認できたのですから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。」「まさに日本人の協力の賜物です。貴重な情報を提供してくれたのですから」

 自分たちの友だちの死がこうしたことに使われたことに
佐々木妙子さん  この事実に言葉がみつからない
「友人たちの死が日本人の手によって調べられアメリカの核戦略に利用されていたことを初めて知りました」
「バカにしとるね」と言いたいです。「私は・・・・・私は手を合わせることだけです。なにもできません」

 日本が国の粋を集めて行われた原爆調査に参加した医師はどんな思いで被爆者とむきあったのか
   証言者 元東京帝国大学調査団の山本秀夫氏(90才)
Uvs100809006 「結果は全部日本で公表することもだめだし、お互いに持ち寄って相談することもできません。自分たちの調べた事は全てアメリカに出す」
ナンバー(#)23  アドレナリンを注射して調査。治療と関係のない調査を行っていた。
「今、考えたらもっとちがう方法があったのではないか」

亡くなった被爆者も調査の対象に  
 200人の解剖結果は14冊の報告書にまとめられ、解剖標本といっしょにアメリカに送られていた。放射線が人体に及ぼす影響をより詳しく知るために利用された。
 アメリカに渡っていた標本は研究が終わったあと、1973年に日本に返還され長崎と広島の大学に保管されている。

 子どもの解剖  ナンバー(#)87
   小野田政枝さん(当時11才)長崎で被爆 
Uvs100809021 Uvs100809031  解剖され現在は5枚のプレパラート標本になって長崎大学に保管されている。政枝さんが亡くなった時に兄の小野田一敏さんは医師たちから「将来のために」と勧められ一度は断ったが解剖を承諾した。(甥に当たる小野田博之さんはお父さんから話を聞いていた)その後どうなったか知らされることはなかった。
 今回小野田博之さんはプレパラート標本になってしまったおばさん(写真でしか知らなかった政枝さん)と長崎大学で対面した。
肝臓や腎臓が摘出され5枚のプレパラート標本になっていた。
「これがおばさんですかね-・・・」「こんな形でお会いするとは思いもしませんでした」
 アメリカで付けられた標本番号は249027番
小野田政枝さんの標本は被爆者のために生かされることはありませんでした。

 原爆投下直後から始められていた国による被害の実態調査はこの65年間その詳細が被爆者に対して明らかにされることはありませんでした。

★ 被爆者はもう待てない
2003年から相次いだ原爆症の集団訴訟。
自分たちの病気は原爆によるものだと認めてほしいと訴える被爆者に対し、国は被爆者の主張をしりぞけて来ました。
  斉藤泰子さん(享年65才)  4才の時に入市被爆 長年国を訴えてきましたが被爆がUvs100809057 原因とみられる大腸がんで2007年に亡くなった。
 当時4歳だった泰子さんが母親の幾さん(97才)と原爆投下5日後に親戚探しで爆心地近くを歩きまわった。しばらくすると泰子さんは下痢や高熱など被爆とみられる症状が表れました。その後白血球が減少するなど原爆症の後遺症に悩まされた泰子さん。59才の時に大腸がんを発症します。原爆症と認めてほしいと訴えましたが国は被爆はしていないとしりぞけ続けました。2006年最後の法廷に臨みました。その時の最終弁論から
「末期がんで余命いくばくもないことを医者から言われています。もう私には時間がありません。国は私のような入市被爆者の実態をわかっていません。多くの入市被爆者が私以上に苦しんでいます・・・・・」
 勝訴判決が出たのは泰子さんが亡くなって3ヶ月後の2007年でした。
お母さんの幾さんは門前さんの報告書の存在がもっと早くわかっていれば泰子さんが生きているうちに救済されたのではないかと思っています。「かわいそうですね。遅すぎました」

● 齋藤紀(おさむ)医師  30年以上被爆者の治療に携わり原告団を支えてきました。 
Uvs100809035  齊藤医師は181冊の報告書の中に被爆者の救済につながる新たな発見はないかと探しました。注目したのはある医学生が書いた手記でした。
・ 報告書#51  この報告書には国が認めてこなかったある被爆の実態が綴られていました。
 手記を書いたのは門田可宗(よしとき)さん(当時19才)山口医学専門学校の学生でした。 
 門田さんが広島に入ったのは原爆投下4日後のことでした
8月19日に被爆者と同じ出血斑の症状が出ていた。入市被爆していた。
長年国は入市被爆による人体への影響はないとしてきました。しかし門田さんの手記に書かれていたのは直接被爆した人と同じ症状でした
齋藤医師は門田さんの報告書がありながら国がこれまで入市被爆の影響を否定し続けてきたことに憤りを感じています。「いままで考えられてきた被害はないんだという入市被爆者に症状が現れないんだという考え方が根底から崩れてしまう意味を持っている。65年も埋もれておった、埋もれさせられておった」
 その記録が65年間もアメリカ国立公文書館に埋もれていた。
この記録がもっと早く明らかになっていれば、原爆投下後に入市し被爆した人々を助けることができる資料だった。
 斉藤医師は同じ医師として聞きたいと門前さんを訪ねました
   証言者  門田可宗(よしとき)さん(84才)  岡山県倉敷在住
 65年間、原爆の後遺症と闘い続けて来ました。現在、心臓や腎臓を患い療養中でした。
Uvs100809065 「皮下出血がありましたね。胸のあたりに出血斑があったんですね。これはいかんなと非常に危ぶんだんです。その当時わかりませんので。
日本語で書きました。英語に訳されていたことは全く知りませんでした」
日記を書いたのは山口の専門医学学校に戻ってからでした。
「当時研究者で名前がナンバーワンで出てきたのは都築先生ですからね。わざわざ山口医専までおいでになったんです。直接面談しましてね。いろいろ質問されたりしましたね。その時に『今から日記を詳細につけるように』と言われたんですね。日記だけはつけておこうと思ったんです。例のオ-タ-ソンというアメリカの軍医が熱心に僕の手記を求めていることもわかった」
門田さんは手記の最後に自らの思いも書いていました。
“研究のため私はこの手記を書いた。もしこれが役立つならば非常に幸せである”今読んで「懐かしいですなあ」
「僕が残しておかないとだれが残すんだという気持ちがありました。それは医学に携わる者として多少具体的に書いておかないと」
一人の医師としての使命として自らの被爆体験を後世に残そうとした門田可宗さん。その思いは届きませんでした。


 エピローグ
65年前に失われた多くの尊い命、そして生き残った人たちが味わった苦しみ。
その犠牲と引き換えに残された記録が被爆者のために生かされることはありませんでした。世界で唯一の被爆国でありながら自らの原爆被害に眼をむけてこなかった日本。封印されていた181冊の報告書がその矛盾を物語っています。

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コメント

内容の起こし、ありがとうございます。
昨日の再放送で初めて見ることが出来たのですが、内容の確認のためにもとても助かりました。
私のブログでもご紹介させていただいたので、事後報告で申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
失礼します。

投稿: Bochibochi | 2011年8月 4日 (木) 11時49分

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