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2009年11月29日 (日)

核廃絶の願いを込めて長崎~広島をめぐりました -3

長崎の原爆遺跡をめぐる      11月7日(土)   

 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。Img_6710 
Img_6729
 何年か前にツアーで長崎を回ったことがありますが、平和公園しか行けませんでした。ただバスガイドの永井隆博士についての話だけは印象に残りました。
 今回、長崎と広島をあらためてめぐる事を決めてから、長崎で核廃絶と被爆者活動に誠心誠意活動されている谷口稜曄(すみてる)さんにお会いできないだろうかと思い付き、自身考えても又こういう機会があるかどうかわかりません。そこImg_6613 で、長崎原爆被災者協議会に電話し谷口さんにお願いすると快く約束をして下さいました。
 私が谷口さんにお会いできないかと思い付いたのには3点ありました。
 私は谷口稜曄さんについて以前から漠然とは知っていたのですが、07年9月に放映された「ジョー・オダネル 原爆の夏 遠い日の少年」で谷口さんを認識しました。
 08年にスティーブン・オカザキ監督の「ヒロシマ・ナガサキ」で谷口さんはじめ14人の被爆者が証言しているのですが、被爆当時の真っ赤にただれた背中を治療する谷口稜曄さんの映像でした。唖然として声が出ないという感じで見ました。谷口さんは証言で現在の自らの背中を見せて核廃絶を訴えている姿でした。
 09年8月9日、テレビで長崎原爆被災者協議会会長の谷口稜曄さんが広島での麻生元首相の「核の傘」発言に抗議したという放送でした。
 谷口さんとは原爆被災者協議会事務所でお会いする約束になり、原爆遺跡めぐりもそれに合わせて回りました。

    浦上駅から原爆資料館へImg_6636
Img_6648  宿は浦上駅の近くにしましたので、荷物を預け路面電車で浜口町で下車し原爆資料館に向かいました。
 受付で「写真を撮りたいのですが」と申し出ると、住所・氏名を書いて腕章が渡され許可されました。来館している人たち皆にもわかるのですから、「この方法はいいな」と感心しました。
 
     爆心地公園へImg_6675
Img_6665  爆心地公園は広々としていました。爆心地・原爆殉難者名奉安碑の前で149,266名の犠牲になられた人々を追悼しました。
 爆心地の近くに浦上天主堂の遺壁が移設されていて11㍍もあって見上げました。
     平和公園へ
 爆心地公園から道沿いに進むと石段があって平和公園でした。石段を登Img_6699_2 り始めたら「平和の泉」の噴水のしぶきが見えてきました。上がりきって目に入ったのが碑文でした。
   
   のどが乾いてたまりませんでした

   水にはあぶらのようなものが
           一面に浮いていました

   どうしても水が欲しくて
     とうとうあぶらの浮いたまま飲みました


           ― あの日のある少女の手記から

 「平和の泉」の噴水の間から平和祈念像が見えました。
「水が欲しい」この言葉、その日の人々の心からの叫びだったのではないでしょうか。

     長崎原爆被災者協議会事務所で
Img_6738  りっぱな二階建ての事務所で一階は被爆者の店になっていました。
 なにかの手違いで、予定の時刻になっても事務所は鍵がかかったままで、谷口さんは来られませんでした。しばらく待つと事務所に現れた人がいたので声をかけ中にいれさせていただきました。事務局長の山田さんで長崎駅前で原爆症認定問題で宣伝活動をされてきたとの事でした。私は自己紹介し経過もお話し、谷口さんと私の約束に食い違いがあったらしい事がわかりました。残念でしたが、渡そうと用意してきた募金をお渡し、谷口さんによろしく伝えて下さいとお願いし浦上天主堂に向かいました。

      浦上天主堂でImg_6759
Dsc00322  浦上天主堂が住宅街の合間から山の中腹によくわかりました。天主堂への坂道を登り始めてすぐに、浦上天主堂鐘楼ドームが当時のまま横たわっていました。鐘楼ドームは30トンもあって35㍍も離れた場所に吹き飛ばされてきたのです。原爆の破壊力のすさまじさを感じました。
      ジョー・オダネルさんを偲びました
 浦上天主堂に行ったらやってみようと思っていたことがありました。先にも紹介しましたが「ジョー・オダネル 原爆の夏 遠い日の少年」のテレビ放映Img_6752 の中で、ジョーさんが45年9月に米軍の任務で長崎に来て、浦上天主堂を訪れ瓦礫となった浦上天主堂の写真を撮っていて、その思い出をたどったのです。その時に天主堂で結婚式に出会い新郎新婦が祭壇に向かって進む姿に涙する場面がありました。私はジョーさんが座っていたB・37の座席に座ってみたかったのです。受付の人に座ってもいいですかと許可をいただき、その席に座ってみました。座ってみると中ごろより後ろの方の席で祭壇が遠くに感じましたが、ジョーさんの涙はこれから羽ばたく二人への祝福と核廃絶を願っての涙だったのではないでしょうか。

      街の人たちが原爆遺跡について知っていました
 次に城山小学校をめざして歩きました。途中で通りがかりの人に道を聞いたところ「歩くImg_6650 とまだありますよ」と言われ「どうしようか」迷いました。すると「この近くに山里小学校があって原爆の跡もありますよ、そちらに寄られたらどうですか」と親切に教えてくれました。
 「長崎の人たちはそういう事を知っているんだ」と感心し、山里小学校に行くことに変更しました。
       谷口稜曄さんから電話、お会いする約束
 山里小学校に向かっている途中で携帯電話が鳴り、出てみると谷口さんでした。最初の約束の時に電話番号をお伝えしていたのです。経過はともかく、谷口さんが夜ホテルに来て下さることになりました。「ありがとうございます。これで心おきなく旅ができます」と、もやもやしていた気持ちがいっぺんに晴々としました。

       山里小学校  防空壕跡と「あの子らの碑」
 山里小学校に着くと土曜日ですから休みでしたが、校庭で野球をしている子どもたちがいImg_6783 Img_6804 ました。
 どこに行けばよいのかわからないので、野球の付き添いと思われる女性に声をかけました。すると女性はためらわずに、すぐに私たち2人を案内してくれました。原爆被災資料が展示されている教室がありましたがそこは時間が遅く閉まっていました。
 女性は「防空壕跡がありますから」と校舎の間を通って防空壕跡に案内してくれました。そして、校舎沿いに廻ると「あの子らの碑」がありますからと説明してくれ校庭に戻られました。「ありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えました。ここでも「やはり長崎市の市民は意識が高いのだろうか。普通ならこんなにしてくれない」と平和を守ろうとする意志の強さを感じたのでした。
     山里小学校の原爆投下による被災状況
 子どもたちの状況  1581名の全児童中、自宅などで被爆し1300人が死亡
 8月9日は学校は夏休みで子どもたちは登校してしていませんでした。この日、学校では防空壕造りの作業で教職員、用務員など32人が出勤していましたが、3人が即死、10日以内に次々と死亡し28人が亡くなりました。
      あの子らの碑
Img_6796  原爆で亡くなった児童、教職員、親兄弟姉妹の霊を慰め、永遠の平和を願って造られました。永井隆博士の「原子雲の下に生きて」の印税を基金に1949年11月3日に建立されました。

       如己堂(にょこどう) 永井隆博士が住んでいた家Img_6819
如己堂は山里小学校のすぐ近くでした。永井博士はクリスチャンで「己(おのれ)の如(ごと)く人を愛せよ」とキリストの聖句を座右の銘にしていました。 
       タクシーの運転手も谷口さんを知っていました
 ホテルまでの帰り、疲れてしまいタクシーをひろいました。運転手さんと話Img_6820 になり、「今晩、谷口稜曄さんと会うんです」と話すと谷口さんのことはよく知っていました。そして「平和町商店会」のことも「戦後平和を願って付けられたんですよ」と教えてくれました。

              谷口稜曄さんと親しく懇談

 谷口稜曄さんとは初めてお会いするのですが、約束の時刻に見えた時に、これまでにいくつかの映像で見ていましたのですぐにわかりました。やせ形で物静な紳士という感じでした。お互いに簡単に自己紹介をして親しく懇談しました。
Photo  私が聞くことがほとんどでした。谷口さんは16歳の時に郵便配達中に原爆に会い、奇跡的に助かり、退院したのは1949年3月でした。ですから3年8カ月も激しい痛さと苦痛に耐えて治療を続けたのでした。退院した谷口さんは4月から郵便局の電報配達の仕事で復職したのでした。
 家族の話にもなりました。両親には恵まれていなかったようですが、おばあさん、おじいさんに大切に育てられたのでした。結婚もし2人の子どもさんにも恵まれ、娘さんも息子さんも結婚されお孫さんにも恵まれているそうで幸せそうな感じがしました。
 奥さんとの縁についても聞きたい思いはあったのですがやめました。でも、映像で奥さんが谷口さんの火傷に薬をぬる姿は何回か見ていましたので、稜曄さんのことをよく理解した奥さんだろうと想像していましたが、子どもさんたちの話を聞いてますます確信しました。
Photo_2  運動の話にはあえてはいりませんでした。でも、今年、80歳になる谷口稜曄さんが原爆被災者協議会(略して被災協)の事務所に毎日出かけているんですというので驚きました。
 谷口さんはこれを読んでくださいと「ナガサキの郵便配達」の本を記念に下さいました。
 私たち夫婦で読み進めていますが、私は2日前に読み切りました。この本を読んで谷口稜曄さんと奥さんの栄子さんのことが全体的に正しく理解することができました。
 被爆者の話にもなり元原爆被災者協議会会長であった山口仙二さんとは古くからの被爆者運動のなかでの友人とのことでした。66222
 本を読んで知ったのですが、谷口さんは退院してから、同じ被爆者の人たちと様々な生活相談や勉強会などに参加し、原爆被災者協議会の活動に一貫して参加してこられたのです。1955年に原水爆禁止世界大会がはじめて開催され、その年に長崎原爆被災者協議会が発足したそうです。本の中にこんな一節がありました。最初の長女が生まれ「稜曄は暇な時間の大部分を被災者協議会の活動に当てた。彼の信念はますます強いものになった。そして、ますます熱心に核兵器廃絶の運動を闘った。そのうえ結婚と娘の誕生Img_6618 によって、かっての『死と悲しみ』のコンプレックスから解放されていた。」
 谷口さんは最後に持ってきていた自らのケロイドの背中の写真を見せ、この火傷との絶えることのないたたかいにもふれていました。これまでに14回入院し、23ヶ所の手術をしているとのことでした。
 知らぬ者同士でしたが親しく懇談できこんなに嬉しいことはありませんでした。80歳にして原爆症とたたかいながら、かくしゃくとして生きている姿に感動し勇気をもらいました。
 記念写真を撮って固い握手をかわして別れました。
谷口稜曄さんありがとうございました。

充実した一日となりました。

 

 

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