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2009年9月12日 (土)

群馬県嬬恋村鎌原観音堂を訪ねました  9月9日

関東一円に甚大な被害を与えた
天明3年(1783年‐江戸時代)浅間山の大噴火

 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。
 昨年、NHKテレビで、群馬県嬬恋村の歴史を知る機会がありました。
 天明3年5月から始まった浅間山の噴火は8月3日から一段と激しさを増し、8月5日には最大規模になり、噴火岩が火砕流となって浅間山麓を高速度で流れ下ったのです。浅間山麓に位置する鎌原村(現嬬恋村鎌原地区)(つまごいむら・かんばら)に襲いかかったのでした。
    村人477人が亡くなる大災害に  
 鎌原観音堂の「浅間やけ遺跡」の掲示版の説明を読みました。
当時、人口570人ほどで村は一瞬にして埋没し、被災死亡者477人生存者は93人でした。
    50段あった石段
Img_5499  鎌原観音堂は約300年の歴史があるそうで、観音堂まで石段fがありました。現在太鼓橋から15段の石段がありますが、1979年に発掘調査が行われ、全部で50段の石段であったことがわかりました。発掘まで35段が埋没していて、二人の遺体も発見されました。埋まった土石層の厚さは6㍍もありました。35段の石段が生死を分けることになったのでした。この石段を上がった人は助かったのでした。
 赤い太鼓橋の下には、発掘された石段を見ることができます。「ここが生死を分けた石段なんだね」と感慨深く見る人もいました。
    観音堂を村人が護り続けています
 観音堂には、発掘された遺品がImg_5508 展示され、二人の死者の骨格から復元した顔の写真も飾られています。お年寄りのみなさんが、毎日交代で観音堂を護り、来訪者への接待を行っていました。私は、犠牲になられた多くの皆さんの冥福をお祈りし、お年寄りのみなさんに「ご苦労様です。これからもよろしくお願いします」とあいさつしました。
    「天明三年浅間やけ遺跡」内に
 遺跡の敷地内には、まだ新しいImg_5513 観音菩薩像。鎌原村の窮状を救おうと大笹村、千俣村はあらゆる手立てを尽くしました。そうした人々に心から感謝するために1992年に謝恩碑が造られました。鎌原観音堂の近くにあった延命寺の石碑が吾妻町で発見され、ここに戻され建てられています。また、1815年に被災者の菩提を弔うために建てられた石碑もあります。

 埼玉でもこの間、私が知った限りでも、幸手市や加須市で大爆発による粉塵によって河川の氾濫被害がありました。江戸でも火山灰が降りました。私は長野県上田の生まれで、小さい頃からよく浅間山が大きな爆発音と共に巨大な煙が上がるのを見てきました。そんなこともあって、自らの事として被災の跡の鎌原を訪ねて本当によかったと思っています。

  httpここをクリックするとアルバムへ://urano.cocolog-nifty.com/photos/kanbarakannondou/

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