« 古隅田遊歩道の草花と野鳥  4月7日 | トップページ | 満蔵寺の桜と柳 4月の息吹き »

2009年4月10日 (金)

東京大空襲と広島の原爆投下 根っこは同じ 渡辺美佐子さんのお話し


 渡辺美佐子さんが6人の女優さんと8月9日まで全国を回って朗読会をしています。亀戸の公演の中で小学校の時にいなくなった友だちの事を話されていますが、その友だちとは原爆で亡くなった広島第二中学校の水永龍男(みずながたつお)さんのことです。 09年8月 付記

NHKスタジオパーク  4月8日放送

St20090408_0948   女優の渡辺美佐子さんが出演しました。3月7日、亀戸の「東京大空襲を語り継ぐつどい」で渡辺美佐子さんの講演を聞いていましたので、親しみをもって視聴しました。
 ブログで渡辺美佐子さんの講演を全部紹介していたのですが、ブログを解除してしまって諦めていました。しかし、スタジオパークでの話しも聞いて、「やはり、再録すべき」と思い立ちました。武内陶子アナウンサーの涙も印象にのこりました。渡辺美佐子さんの話が心に届く話しだったのだと思います。私がかってな解説は付けずに紹介します。

女優 渡辺美佐子さんの講演
     「あの頃の東京」
            東京大空襲を語り継ぐつどい
          亀戸カメリアホール  2009年3月7日

 東京大空襲のつどいをもう7年も続いていらっしゃる。本当に大変なことだと思います。でも、経験した者が語り継がないで、だれが語り継ぐのでしょう。

  私も東京大空襲の昭和20年3月10日、4月、5月とずうっと東京におりました。私は、Photo_2 昭和20年3月に小学校を卒業いたしました。でも、あの空襲の激しい最中で、卒業式もなにもございませんで、それが、去年、今、港区西麻布になっておりますが、港南小学が残っておりまして、平成19年度の生徒さんが、去年の3月に卒業する時に、昭和19年度の私たちが卒業証書をいただいていないということを大変かわいそうだと考え、10数人が参加いたしまして、63年ぶりに、卒業証書をいただきました。

 私は東京で空襲が一番激しい時におりまして、みな疎開してしまって、1学年、120人ぐらいでしたが、20人、10何人と日々疎開して行く人たち増えていく状態でした。学童疎開も、縁故疎開といって親戚の家に疎開する方もあり、私は、何度か縁故疎開を試みたのですけれど、私は末っ子で、甘えん坊で、どうしても母の側から離れないで、母にしがみついて、3月、4月、5月と東京で過ごしました。
 ただ私が、住んでおりました所は、赤十字本社のすぐ側でした。屋上には大きな赤十字が書いてありましたので、その近辺は少し被災からまぬがれた家もあり、また、焼けた家もある。そして、私たちの住んでいるところは、7軒ほど焼け残りました。
 そういうわけで、下町のみなさんが経験なさったような、本当に厳しい状況はあまりなかったんです。ただ、毎晩、必ず夜中の12時になりますと、サイレンが鳴りました。そして、眠たい目をこすりながら、防空頭巾、身の回りの物を入れたリユックをしょって、父が庭先に掘った防空壕(畳1畳高さ1㍍ちょっと)に入りました。下はジメジメしますので、すのこが張ってありました。そこに、とにかく、1時間、2時間、3時間と空襲警報が解除されるまでいたんです。
 その頃東京は本当に食べる物が大変で、全くありませんでした。朝起きると母が大豆を炒ってくれまして、一握りずつ、子どもに分けてくれました。そして「噛むのよ」と言っていました。その大豆がだいたいその日の食糧でした。
 その頃、学校の給食もなくなって、学校に行ったり、行かなかったり、みんなが栄養失調でフラフラしておりました。

 私はその頃に、どうも結核にかかったようなんですけれど、おなかがすいてフラフラしていたのか、結核でフラフラしていたのかよくわからないのです。
ずいぶん後になって「渡辺さんは結核をなさっていますね」と言われてゾッとしました。あの当時のわずかな食事のなかでも、結核菌はチャンと撃退されて、一時はフラフラしていましたけれど、普通の体に戻ったので、人間というのは、本当にすごいものだなあと思います。

 私は毎晩12時に防空壕に入るんですけれど、大豆のおかげですか、必ずだれかが“おなら”をするんです。それがいやな臭いで、それに耐えるように、私は顔を外に出していました。顔を出していたのは臭いのせいばかりでなくて、防空壕の中に入っていると、地響きと爆音を聞いているだけで本当にこわいんです。それよりは、外に出て、日本軍のサーチライトと米軍飛行機がワーと飛んでいて、それと炸裂する高射砲と、本当に、今からそんな言葉を使うのはいけないんですけれど、本当にきれいで、それを見ているほうがずうっとこわくなかったので「危ない、危ない」と裾を引っ張られながら、いつも顔を外に出して眺めていました。
 そして、焼夷弾がけっこう周りに落ちましたけれども、その焼夷弾を消すのに父がいつもバケツを持って屋根の上に登って、ぞうきんのような長ボウキを持って消しておりました。私も身軽だったものですから、バケツを手に持って行っては父といっしょに消したり、毎晩そのような思いを致しました。

 そして、あまりの空襲のひどさに、5月の空襲が終わった時に、父がさすがにこれはどうにもならないから、疎開しなさいと言って、父1人が残って家を守るからと、母と姉と私の3人で長野に疎開しました。けれど、3ヵ月後には終戦になっておりました。

 下町の方々が経験なさったような、ひどい、悲惨な思いというのは、申しわけないんですけれど私はしていないんです。ただ、その4月には、昔の女学校に入学しなければなりません。その手続きだけはしたんですが、授業みたいな入学式みたいなものはいっさいありません。でも、学校が心配になって行ってみますと、学校の校庭一面に、つくし、つくしん坊がありますよね、その、つくしんぼうのように校庭にギッシリ、焼夷弾が必ずななめに、ザーッと突き刺さっていたことを今でも覚えております。

 私にとっての、空襲はそんなような、あまりお話するようなことはなかったんですが、そのようなお話を4、5年前に逆手洋二さんという劇作家で演出家の方にお話をしました。
 ちょうど、その頃イラクの女性が日本に呼ばれて、イラク人って、どんなに人なっこくて、お客様が大好きで、一生懸命におもてなしする人種なんだ。そういうお話をイラクの女性がして下さいました。で、私がイラクの方の手記を読むので、よんでいただいたんですが、そでで待っている間に、「私もね、小学校6年の時に、空襲にあってこうだったのよ」と逆手さんにお話しいたしまして、そのまま、すっかり忘れていました。が、去年、逆手さんは「戦争と市民」つまり、市民にとって戦争というもは、空襲ですよね。ですから、日本の空襲当時の在り様を舞台の一つの場面で実現しまして、私がお話したような状況を全部、舞台の上で演出されました。逆手さんはまだ40歳代なかばで戦争をご存知ないんですけれど、その戦争を知らない人たちが、戦争って何なのか、市民っての何なのか、戦争に対してどういうふうに抵抗しなければいけないのか、ということを、その若い作家がテーマにして書いてくださったことが、私にはものすごく嬉しくて、そして、いっしょに芝居を作りました。
いっしょにやっている20~30人の俳優は、だれも空襲の事も知りません。戦争の事も知りません。私が知っている限り、防空頭巾の作り方とか、かぶり方とか、いろいろ話しながら芝居をいたしました。
 でも、その空襲の場面がですね、若い中学生なんかが、見に来てくれるとオンオン泣いて。「ああ、やっぱり今の若い人は本当に知らないんだな、知らないことって怖いことで、だから、どんどん、そういうことを話して歩いて聞かせてあげたい」と、そんなふうに思いました。

私が小学校の時に
   いなくなった友だち
(水永龍男-みずながたつお)
の話をします。
 私は20人ぐらいになったさびしい学校に毎日通っていました。そしてどんどんと仲間が減っていって、そして、めずらしく1人転入生が入ってきました。その子は私の家の方向でしたから、行き帰りに、よくいっしょになるので、前になり、後ろになりしながらブラブラと歩きました。真っ赤なほっぺをした、とても目のキラキラしたかわいい男の子でした。その頃ですから、そんなに親しく口をきくということもできず、なんとなく、意識しながらブラブラと歩いて、それが3~4ヶ月続いたでしょうか。その頃は、みな、いつ、空襲に会ってもおかしくないように、胸に名札が付けてありまして、私は渡辺美佐子と住所とかが書いて縫い付けられていました。その子は、水という字と難しい龍とい字、水と龍という字だけは覚えていたんですね。
 まもなく、その子は姿を消してしまったんです。けれども、「ああ、また疎開したんだな」と思って、そのままになっておりました。

 戦争が終わって私は女優という仕事をはじめるようになっても、どうしても、なんか、その子のことが気になって気になって「私もおばあさんになったけれど、あの子もおじいさんになっただろうな」なんて思いながら過ごしておりました。クラス会が何回かあって、聞くんですけれど「水という字と龍という字、しらないなあ」と転校生なものですから、みな知らないんです。そのまま、35年が経ちました。

 その35年目(1980年)には、テレビで「ご対面」という番組がはやっておりまして、「渡辺さん、どなたか会いたい方がいますか」と聞かれ、私は「もしかして、水という字と龍という字しかわからないんだけれど、中学生の時にかわいい男のいたんだけれど」という話をしました。
 その後、テレビの「ご対面」に出ることになりました。司会は小川ひろしさんでした。ご対面をなさる方がカーテンの向こうから出てくるのです。私はドキドキしながら「こっちもおばさんになったけど、おじさんになっただろうな」と思いながら待っていました。そのカーテンが開きましたら、出てらっしゃったのは、もう白髪のおじいさまと、おばあ様が二人で寄り添って出ていらっしゃいました。その時、私は「ああ、私はきっと申し訳ないことを多分したんではないか」という気がすごくしたんです。けれど、こうして、あの男の子の実の名が水永龍男(みずなが・たつお)さんで、お二人は龍男くんのお父さんとお母さんであるということがわかったんです。
 お父さんお母さんが「私たち二人は満州でずっと仕事をしていて、龍男は親戚にあずけておりまして、東京は空襲が激しくなって、広島の親戚の家に疎開させました。私たち二人が終戦で帰って来た時に、もう、龍男はいなかったんです。8月6日のあの日、中学1年だった龍男は、建物疎開(既存の木造建築物をつぶして戦火からのがれようとした)の作業に出かけていて、原爆投下のほとんど直下におりまして、いなくなってしまったんです。遺体も遺品も目撃者のだれもいないまま。だから、あの子は死んだという証拠はなにもないんです。だから、いまだにお墓を作れないでいます」と淡々とお話になるんです。
 このお話を聞きまして私はもう・・・・・・・、35年の間こうやって、お子さんを亡くされ、葬ることもできずにいらっした。その方たちに、やっと平安をとりもどしたであろう、お心に、また私が、お会いしたいなどということを言って、又、お心をさわがせてしまったことを、本当に申し訳なく思ってお詫びをいたしました。「ごめんなさい。今頃になって、こんな事を思い出させてしまって」と申しましたら、お父さんお母さんは「いいえ、龍男は12歳でいなくなってしまったけれど、私たちは満州の仕事で、龍男は転校々してばかりで、ろくに友だちがいなかったんです。ですから、龍男を覚えていた方は、親戚以外にはほとんどいなかったと思うんです。それなのに、あなたは、こうやって龍男のことを覚えていて下さった。こんなに嬉しいことはございません」と逆にお礼を言われてしまいました。テレビというのは、そういう涙を撮るのが大好きですよね。ですから、何台もあるカメラが私の方へ向かって来るのがわかりましたけれど、こんなところで安っぽい涙は流したくないと思って必死に涙だけは流しませんでした。
 でもその事がひどいショックで、その頃までは、まあ、原爆のひどさは知っていましたけれども、私としては遠いところにある原爆だったんです。でも、そこから、一挙に原爆の恐ろしさを知りました。

 そして、それから数年後、木村光一さんという演出家が「戦後40年になる」で「私たち演劇人たちは、この原爆を落とされた唯一の国、被害者、被害国である日本人なんだから、そのことを演劇人として、なんとかして語り継いでいこうではないか、いっしょにやりましょう」と言われて、その時は、いきさつなどは何もわかりませんでしたが、私は龍男くんのことがあるので、もう、すぐに「ごいっしょさせて下さい」とご返事をいたしました。
 私のところに、朗読劇にしたいというご趣旨があって資料がいっぱい送られてきました。その中の1冊に「広島2中1年生222人全滅の記録」という物があったんです。それを見たとたん、私は「ああ~」と思って、まず一番後ろのページをめくりました。そこには、犠牲になった222名全部の名前が書かれてあったんです。水永龍男くんがその中にちゃんといました。「ああ~これは龍男くんのお引き合わせだ」と思いました。私は、もう、いい歳をして自分の好きな仕事をして、元気に生きているのに、12歳で燃やされてしまった彼の無念さをここに見た思いがしました。

 私はそれ以来、「この子たちの夏」という題名の、原爆で家族を亡くされた方たち、あるいは、原爆詩人の方々の作品を一つにまとめたものを、6人の女優の朗読劇として、続け、今年で23年目になります。主宰者が代わりましたので、「夏の雲は忘れない」という題名になりましたけれども、趣旨は全く同じでございます。そして、全国を7月、8月と毎年回っておりますけれど、それは、東京大空襲を忘れないでいようというのと全く同じ根っこでございます。

 戦争は、戦争をやりたいと思う軍人さんや政治家がやればいい。市民を巻き添えにしないでくれ、戦争というものが、いかになんの意味もなく、普通の生活をしている人たちの幸せをうばっていくものかということを、本当に若い人たちに知ってもらいたい。
 こういう思いで、私個人としては、龍男くんへのつぐないといいますか、安らかにという気持ちでやっているんですけれど。ただ、嬉しいことには、子どもさんがいっぱい聞いてくれます。中学生や高校生の方が来てくれます。そういう子どもさんが一番前に並んで、足をブラブラさせながら開演を待っていて「この子たち、悲惨な、けっして楽しい話ではない。こういう話を聞いてくれるのだろうか」と心配しながら、いつも、その子たちに向かって一生懸命読むんですけれど、本当に子どもっていうのは、なんていうんでしょうか、テレビですぐ画面を見て、パッと見る。漫画をみてパッと目にはいる。そういうことに慣れているんですけれど、言葉というものは、聞いてたものを、自分の頭のなかで想像しなければならないですよね。そういう作業というのは、子どもはすごく上手というか、すばやくできるんですよね。ですから、一生懸命読んでいるうちに、その子たちのバタバタはなくなり、本当に身じろぎもせずに聞いてくれることが、手に取るようにわかるんです。私たちは「来てよかった、読んでよかった」とほっといたします。
 戦争はいやだ、戦争はしてはいけないんだ、何か一粒の種が子どもたちの胸に残ってくれれば、私たちは、こんなに嬉しいことはないと思って、毎年々、今年も7月、8月と全国を回ります。(長崎に原爆が投下された8月9日まで)

早乙女さんやみなさんが、この東京大空襲のつどいを続けていらっしゃるのも、同じ気持ちだと思って心から応援しております。今日、私をよんでいただいて、ありがたいと思っております。
 最後に、「夏の雲は忘れない」を去年から全く新しい本にして、いろいろ編集しなおしたんです。図書館に行ってビックリするぐらい、原爆に関するみなさんの手記、そして、思いをつづったエッセー、詩、本当にたくさんあるんですね。その中から心に残っている詩がございますので読ませていただきます。

      詩を朗読されました
    「一本のくすの木」    作 石川逸子  

 これからもどうぞ、東京大空襲のことを語り継いでいらっして、若い人たちに、そのことを伝えていっていただきたいと思います。私たちも、自分たちのできる限り、永いこと原爆で無念の死を迎えた人たち、そして、そのご家族の苦しみを、私たちは日本人だからできるのです。日本人だけだと思うんです。その、苦しみを伝えられるのは。
 これからも、ぜひ、続けていきたいと思っています。みなさんのご支援をよろしくお願いいたします。今日はどうもありがとうございました。    おわり
                                       

(注) 私が、渡辺美佐子さんの講演の録音テープから文章にし、水(みず)永(なが)龍男(たつお)さんの龍男の男の字が心配になり、インターネットで、広島第二中学で検索しました。6学年までの犠牲になった生徒の名前が写真入りで掲載されていました。1回、2回とページをめくるのですが名前がみつかりません。それで、注意して見たら、水永龍男さんの名前が1年4組にありました。しかし、お父さん、お母さんが話されていたように、龍男さんは、1年4組の詳細不明者7名の中にありました・・・・。龍男さんを葬れなかった意味もわかり、私は無念の気持ちでいっぱいになりました。

 

|

« 古隅田遊歩道の草花と野鳥  4月7日 | トップページ | 満蔵寺の桜と柳 4月の息吹き »

戦争と平和」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 東京大空襲と広島の原爆投下 根っこは同じ 渡辺美佐子さんのお話し:

« 古隅田遊歩道の草花と野鳥  4月7日 | トップページ | 満蔵寺の桜と柳 4月の息吹き »