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2009年3月21日 (土)

東京大空襲から64年、無差別爆撃の悲劇を繰り返さないで

兵器は発展し続け
 ナパーム弾は威力を強め
    ベトナムを焼いた
 東京を焼くために進められた,

クラスター焼夷弾はイラクで子どもを焼いた


   1945年3月10日の
  東京大空襲を忘れてはならない

 写真の画面をクリックすると大きくして見ることができます。
 私は、昨年の3月10日に、TBSで放送された「3月10日東京大空襲 語られなかった  33枚の写真」を見、その中で初めて石川光陽氏が撮影した写真、子ど もと母親が真っHahko_2 黒に焼けた姿を見てショックを受けました。広島、長崎の原爆A3_3 写真でそのひどさは知っていましたが、東京大空襲も全く同じではないかという強い思いにかられました。
  それ以来、東京大空襲についても強い関心をもつようになり、東京江東区にある、東京大空襲・戦災資料サンターの訪問を最初に、大空襲の跡を訪ね歩くようになりました。そして、今年の3月10日は、墨田区横網町公園にある、東京慰霊堂に行って、遺族の方々といつしょに犠牲となられた人々を追悼したいと思うようになり、実行しました。
 
  3月10日以前に行われた集会に参加
Img_1765_2 1、「東京大空襲を語り継ぐつどい」 Img_7521_2
  3月7日、亀戸で東京大空襲・戦災資料センター主催 
2、「上野の杜『時忘れじの集い』」
  3月9日、上野公園の2ヶ所で、海老名香葉子さんが主宰した二つの取り組みに参加しました。その内容は詳しくブログに投稿したのですが、昨日書いたような事情で全部なくなってしまいました。
 「東京大空襲を語り継ぐつどい」では体験者の清岡美知子さんのお話を聞き、「上野の杜『時忘れじの集い』」では体験者である海老名香葉子さんのお話しを聞きました。

  「東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の前で
 3月10日、横網町公園に着いたのは午前9時半過ぎでしたが、昨年来た時とは全く違 Img_2212 って、お花と線香を手にした人でいっぱいでした。東京慰霊堂は東京大震災犠牲者のために作られたものですが、そこに、東京大空襲で犠牲となり、氏名の特定できない方々の遺骨10万5400体が納骨堂に納められています。そして、2001年に東京都が「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」からの寄付も受けて、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」が建設されました。この、「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」(略して「平和を祈念する碑」と呼びます)には、遺族・縁者からの申請によって、34巻の名簿に78,868名の名前が記載され納められています。
Img_2297_2  この日、11時から特別に「平和を祈念する碑」の内部が公開され、だImg_2276_2 れでもが入ることができ、外では都の職員が希望者に、亡くなった方の名簿がどの巻に、どのように記載されているのかを検索し紹介していました。中に入ろうとする遺族・縁者の列が続いていましたが、私も並んで中に入りました。その列の中で、待つ間、前の人も後ろの人も、左右の人も、3月10日の話し、亡くなった方の思い出話しをしていて別世界のような感じでした。東京の人はもちろんですが、愛知や長野などから来ている人もいました。
 私は、そんな空気の中で2人の方からお話しを聞くことができました。貴重な話しですので掲載させていただきます。

証言 ① 中谷よしみつ様 (72歳)
当時7歳で小学校2年生で、3月10日は、足立区柳原にいました。
おじさんと祖母の二人を亡くしました。
現在茨城県に在住。

 3月9日から10日にかけ足立区柳原から、墨田区緑町の方を見ていました。墨田区のImg_2257_2 緑町4丁目に父の実家がり、足立区の近くに住むおじさんが「父親の実家をみてきてやる」と弁当を持って出かけたけ、そのまま帰らぬ人となり、空襲の犠牲となったのです。3月10日の空襲で中谷さんは、おじさんと祖母の二人を亡くしました。遺骨などはわからないままでしたが、3年前に申請して、平和を祈念する碑の名簿に記載してもらいました。中谷さんのお父さんは既に病気で亡くなっていて、おじさんを兄のように慕っていました。 おじさんの名は中谷こうしろうさん、おばあさんの名は中谷しかさんです。
 中谷さんは昭和27年(52年)に中学を卒業してから昭和40年(65年)まで墨田区の吾妻橋の近くで父の跡を継いで二代目をやっていました。現在は茨城県に住んでいる。奥さん(67歳)と二人でやって来ました。ここにはできる限り来るようにしているそうです。Img_2215_2
□ 10日はすごかった。足立から墨田の方を見ていたが、空は真っ赤で、B29からバラバラ焼夷弾が落とされるのがわかった。B29もよくわかった。夜が明けると、ススで顔が真っ黒になった人たちが、ゾロ、ゾロ、ゾロ、ゾロと本所の堀切の荒川の土手沿いに、避難してきました。そのことが、今でも、一番目に焼きついています。
□ (奥さんが話してくれた)
兄のように慕っていたおじさんが「見てくる」と出かけたまま帰ってこなかったでしょう。だから、中学を卒業して本所へ来た時には、おじさんを見つけようとして一人々の顔を見て歩いたこともあったそうです。(中谷さん-「だって死んだ時を見ていないんだもの」と口をはさみました)。だんだん当時のことを語る人がいなくなってきていますよね。この歳になって余裕もできてきたしね。今日は早く出かけてきたんで、祈念碑の中にも入ることができました。お父さんのお母さんは95歳まで長生きしました。

 証言  ② 丸山さん (74歳) 
当時小学4年生だった。
母、姉、兄、弟2人の5人を亡くしました。丸山さんは学童疎開で兄妹5人の中で一人だけ助かりました。
現在、長野県長野市(旧更級郡大岡村)に在住。

 学童疎開で兄妹5人の中で自分だけが助かりました。
Img_2293_2 母(ちえこ 38歳)、姉(とよこ 15歳)、兄(?)弟(けいじ)、弟(ひろし 7歳)だった。私は兄妹の真ん中でした。(注・お名前をきちっとお聞きすればよかったのですが、そこまで、できずに、こうやって整理していて悔やまれます)
 父は長野県出身で20代に上京。母は東京生まれでした。小学校1年から2年まで墨田区業平小学校に通い、東京空襲犠牲者遺族会会長の星野ひろしさんの近くに住んでいました。父は病弱で(喘息)兵隊には行きませんでしたが、父も死ぬまでみじめで、可哀想でした。3月10日の大空襲の後、父からお世話になったという、私の友だちの親が栃木県佐野市で私の面倒をみてくれました。その後、父の生まれ故郷の長野県長野市に移り60年が経ちました。
3月10日から10日経って、佐野市で暮らすために、友だちの両親が錦糸町に私をむかえに来てくれ、駅に降りた時に、燃える火で、まるで電気がついているようだったと言っていました。向島から佐野市へのあの1ヶ月は頭の中はからっぽでした。小学校4年生でしたものね。だれもいなくなって、一人になってしまって信じられない。「これはダメだな」と思いました。自分たちの食べる物も大変だった時に、佐野では本当によくしてもらいました。 
こういう話はあまりしなかったし、長野に行ってからもよほどの友だちでないと、この話はしませんでした。お墓を建てようという気持ちはあるけれど、何もないところに建てても、入れる物がない。写真もないんです・・・・。
 ここには、妻や子ども、孫とも来るようにしています。今日は5時に家を出てきました。今回、妻は足が悪く、来られませんでした。私もあと3ヶ月で後期高齢者になるんですよ。東京空襲犠牲者遺族会に入って会費を納めていて資料が送られてきます。遺族会に入っているので情報が入りますが、入っていないと情報がなくなり、ここにこないとわからなくなってしまいます。
 子どもと孫も何回かこの慰霊堂に連れてきて話もしました。あの戦争のことを伝えていかなければと思っています。孫の女の子もこの四月に大学生になりますが、この子が中学2年生の時に、私の東京の話を学校でしたようなんです。その話を聞いた先生が「子どもたちにその話をしてくれませんか」と依頼されました。が、当時、公職(教育委員)についていたのでお断りしました。翌年、公職を辞めましたので学校で子どもたちに話をしました。浅草公会堂に掲示されていた、3月10日の写真を写して持っていたので、その写真を使いました。黒焦げになった母親と子どもの写真(石川光陽さんの写真と思われる)を見せた時に、それまでザワザワしていた雰囲気がガラッと変わり、子どもたちは話を聞いてくれました。後で、感想文を読ませてもらいましたが、男の子と女の子では受け止め方に違いがありましたが、みんな東京大空襲のことをわかってくれました。話をするだけでなく見せることが大事だと思いました。戦争体験のない、若い先生には話せないことで、私は話をして本当に良かったと思いました。
 こういう東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑を作ることが遅かったですよ。被災者の頭の中が薄れてきちゃうような時になって遅いですよ。私たちも死んでしまうものね。広島、長崎の平和公園や資料館に行きましたが、あそこはいいですよね。と言われていました。 
 丸山さんと私は「平和を祈念する碑」の中にいっしょに入りました。「平和を祈念する碑」Img_2250_2 の中には、全部で34巻の名簿が備えられています。丸山さんは、ここに来て碑の中に入れることを知り、中に入ったら、自分の家族の名簿はどこにあるんだろう、調べようと思うようになり、会場で、長い列で待って調べてもらうことができました。丸山さんの家族の5人は23巻目に全員そろって記載されていました。私は「良かったですね。もう一度、碑の中に入って確認されますか」とお聞きしましたが、「来年にします」ということなので、そこであいさつをしてお別れしました。

 私は、慰霊堂にはいって線香をあげ出てくると、偶然に丸山さんに会いました。丸山さんは「やっぱりもう一度入って確かめてから帰るようにします」ということで、きっと名簿で家族と対面されたことだと思います。
(注・ 中谷さんには、ブログでお名前、写真の掲載を了解していただきました。丸山さんとはこんなにお話しをしたのに、その了解をもらわないままお別れしましたが、掲載させていただきます)

 旧墨田電話局戦災慰霊碑で追悼
 Img_2343_2 その後、食事(2時半頃)をしてから、旧墨田電話局戦災慰霊碑を訪ねました。慰霊碑にはお花がいっぱい飾られていました。近所の男の方がお供え物を持ってきて「昔は3月10日になるとこの前にテントをはって、たくさんの人が集まって慰霊祭をやっていたのにね。今は、さっぱりですよ」と言われていました。

 私は亀戸、上野、横網町公園を体験し、思ったことがあります。それは、あの東京大空襲を直に体験された方々は、今も、家族や縁者を亡くした哀しみ、苦しみ、言葉では表わせない苦労を背負って生きているということでした。上野の杜で海老名香葉子さんが、繰り返し言っていた「苦しいけれどあの時のことを語り継ごう」「体験者の話をよく聞いてやってほしい」という言葉は本当にそうだと思いました。85歳で、理不尽な国と裁判でたたかっている清岡美知子さんもいました。横網町公園で遺族の人たちの中に入って、悼み、気ばらずに、自然の流れでお話しを聞くことができて本当によかったと思っています。私が生きる勇気をもらっただけでなく、きっと中谷さんも丸山さんも、話したことで生きる勇気を持たれたのではないでしょうか。そんな気がしてなりません。

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