世界に誇れる憲法9条を生かしたい   7月17日

六 戦争の放棄

みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

 もう一つは、よその國と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぽすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

(あたらしい憲法のはなし六項から引用)

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「あたらしい憲法のはなし」は、
憲法が公布されてから10ヶ月後の1947年8月に文部省によって発行され、全国の中学生が1年生の教科書として学んだものです。
 しかし、この教科書は2~3年使われただけでした。1950年朝鮮戦争、1952年安保条約が結ばれ、警察予備隊が生れ自衛隊に変わってゆく時代の流れの中で、教室から姿をけしていってしまったのです。

 崇高な常備軍を持たないという理想実現に向けての呼びかけで、読み返すと感動します。
これだけすばらしい憲法を持っているのだから、それが実現しない限り、時間がかかるかもしれないけれど、諦めずに憲法を生かすために努力するのが私たちの責任だと思うのです。これが私の憲法と第9条に対する基本姿勢です。

 残念なことに、60年以上も続いた自民党政治のもとで、自衛隊が存在する中で、“自衛隊なしに日本の安全は守れない”という考えが広められました。
 国民が“自衛隊をなくしてもいいよ”という気持ちになるには、それだけの時間と手続きが必要になっています。ですから私は国民の合意で自衛隊をなくしていくことが必要と訴えたのです。
しかし、今回の大洗の自衛隊派遣は異常であり、こうしたことは見過ごしてはならないと考え申し入れをしました。

 そこまで行き着くまでの時期に、大規模災害など、必要にせまられた場合には、国民の生命と安全を守るために自衛隊を活用するのは当然だと考えます。3.11東日本大震災で自衛隊はそうした役割を果たしたと思います。
消防や、警察も組織をあげて、その任務を全うするために全力を尽くしました。
 私が考えたのは、自衛隊をなくしていく過程で、地震災害が多い日本では特別の「災害救助隊」のようなものに変えていける可能性もあるのではないだろうかということです。これはみんなで考えて決めていけばいいのではないでしょうか。

 私の申し入れのブログに何通かの批判の書き込みがされました。
そのほとんどが、誹謗、中傷のマナーに欠けた物でしたので削除し、名前の書いてあるものは掲載しました。

 

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2019年11月 5日 (火)

幼友だちと浦野の山をめぐりました  大法寺三重塔、東昌寺、馬脊神社西之宮、皇大神宮、馬脊神社東之宮

      このブログに掲載する写真選びや準備で投稿が今日になりました。
台風19号で千曲川が氾濫し堤防が決壊し、必死で立ち向かっている長野、上田のみなさんに心から応援のエールを送ります。

 
   浦里小学校・中学校(1955年、1958年卒)の同年会が12年(2007年11月)ぶりに10月6日・7日と青木村田沢温泉富士屋ホテルで開催され出席しました。中学卒業以来61年ぶりに再会した友だちもいて、楽しく有意義な同年会となりました。

🎤  写真の画面をクリックすると大きくしてみれます
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 同年会開催の連絡をもらい、帰郷の機会を生かし浦野の山を歩きたいと思いました。
事前に、小・中と同級生だった浦野のS・Tくんに電話で「案内してもらえないだろうか」とお願いしたところ「歩くのは難しいが車で案内するのなら」と快く引き受けてくれました。
 同年会の2日目の10月17日、解散になったあとS・Tくんの運転で浦野の山めぐりをしました。

幼いころの思い出がたくさんある浦野の山の名所を久しぶりに訪ねてみたかったのです。
希望した場所は次の6ヶ所でした。
〇青木村当郷大法寺三重塔(以下、上田市浦野)〇東昌寺〇馬脊神社西之宮〇皇大神宮〇馬脊神社東之宮〇浦野古墳と浦野古城跡。

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① 国宝大法寺三重塔
 

   
青木村当郷天台宗境内
「見返りの塔」とよばれる国宝で、私の生家から歩いても行ける上田市と青木村の境に位置しています。中学3年の時に分村で当郷は青木村と合併しました。子どもの頃から何回も訪ねている忘れられない場所で、訪ねる度に新たな感銘を覚えます。
三重塔は1333年(鎌倉幕府の終わり)に建立されました。
 今回、新たな発見がありました。

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前日、ホテルに行く途中で、青木村殿戸(とのど)に在る長野県宝に指定されている日吉神社を訪ねることができました。日吉神社は比叡山延暦寺と縁の深い神社で、天台宗の大法寺とも深い縁があり、日吉神社を取り囲む木々や住宅の空間から三重塔を望むことができました。私には、遠くから大法寺三重塔を眺めるのは初めてで、なかなかの展望でした。
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(長野県宝 日吉神社で)

大法寺で何枚もの写真を撮りました

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(相輪をアップしました)
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一層にこの塔の特徴の一つ蟇股があります   
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② 東昌寺
  
曹洞宗 鐘楼と浦野氏宝篋印塔(ほうきょういんとう

 〇 鐘 楼

 東昌寺の鐘楼は1841年(江戸・天保12)に建てられたもので上田市の文化財に指定されています。梵鐘は文化勲章を授与された香取秀真(ほつま)が製作。1953年9月に梵鐘が納められ、香取は坂道を駕籠で登ったことを私は覚えています。長野県でも有数の鐘楼だそうです。

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(前日、阿鳥川から望む東昌寺)
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〇 浦野氏6氏の宝篋印塔(供養塔・墓碑塔)

実名はわからないそうですが、宝篋印塔に向かって右端の塔に「光桂宗玉」、天正10年(1582)8月6日と刻まれていて、頭主と思はれ、この人は「浦野源一郎」と小泉家文書にある人と推定されています。

浦野氏は平安時代末期の1150年頃に祢津氏から分かれ、浦野字前沖内堀・下前沖など土地を開発し、阿鳥川から水を引いて開田し、開発所領としました。

鎌倉時代初頭1190年頃には「浦野」を名乗り、幕府の御家人になり、日古社領浦野庄の「地頭」になりました。南北朝時代から室町時代に浦野の谷の各地(上田市浦野から青木村)に分族が発展。戦国時代に入ると、浦野は1541年に村上氏の攻撃を受け、1553年には武田氏の配下となる変転がありました。1582年、武田氏の滅亡後は分族のそれぞれが400年余にわたる発祥の地浦野を離れました。
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(「光桂宗玉」、天正10年(1582)8月6日と刻まれていて、頭主と思はれ、この人は「浦野源一郎」と推測される)

③ 馬脊神社西之宮

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△ 途中で浦野上水場跡(1926年2月に竣工し963人に給水を行った)があり立ち寄りました。

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前日、阿鳥川から浦野の山を眺める
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前日、阿鳥川と子檀嶺岳
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前日、馬脊神社西之宮を望む

 「浦野」は大宝年間(700年代初頭)都から浦野を通って陸奥へと開削された「東山道」の「浦野駅」(青木村)が置かれ、既に通用していた地名で、三方を山に囲まれた野原でした。

馬脊郷、馬脊神社、馬越村・・・馬脊神社の周辺でみな浦野の山の地でのことです。

1600年代、徳川が天下をにぎった頃に浦野宿が開設されました。

 東昌寺の下の方は馬越(まごせ)とよばれていて、子どもの頃に桑つみなど農作業を手伝い帰りに沢で沢蟹を獲って帰り、鉄板で塩えりして食べたことを思い出します。
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馬脊神社西之宮
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神楽殿
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西之宮本殿

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夫神岳
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眼下に生家と阿鳥川が 懐かしい眺め

 馬脊神社西之宮には神楽殿があり、祭りになるとこの舞台でいろいろな出し物が行われ楽しんだ思い出があります。振り向くと阿鳥川、私の生家が眼下に、右には夫神岳が見えました。

 友だちは最近、浦野の山に鹿が表れるようになり、リンゴ畑を荒らして困っているいると話していました。昔には考えられない出来事で驚きました。なぜ鹿が?

△ 薬師堂、万葉歌碑、浦里小学校

 子どもの頃「尻つみ薬師」と呼んで縁日には楽しんだ薬師堂も懐かしい。
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薬師堂 (尻つみ薬師とよんだ)
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東昌寺の仁王門
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万葉歌碑
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そして万葉仮名で刻まれた万葉歌碑です。 

可能古呂等宿受夜

奈里奈牟波太須酒

伎宇良野乃夜麻爾

都久可多興留母

<彼の児ろと寝ずやなりなむはた薄

宇良野の山に月片寄るも>

 この宇良野は浦野を指すと言われています。

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焼死前の2011年10月に私が撮った浦里小学校全景(丸の部分の2棟が全焼した)
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焼失した140年の歴史を伝えてきた浦里小学校校舎

 創立140周年の浦里小学校が2012年9月5日に不審火で焼け落ちて涙しましたが、それ以来初めて浦野の山から眺めました。


④ 皇大神宮

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鳥居をS.Tくんが請け負った
 
案内してくれたS・Tくんが「この鳥居はおれが建て替えの仕事したんだよ」と教えてくれました。境内の杉の木を使って鳥居を造ったそうです。私は「すごいね、宮大工だね」と労をねぎらいました。

 街並みをみてこれが浦野宿の跡なんだと思い、ここには何人もの幼友だちの家があったなあと思いながら通りました。S・Tくんが「あれ○○さんの家」と教えてくれました。


⑤ 馬脊神社東之宮

 この東之宮は、私の記憶には全く蘇らないのです。私は東之宮にはほとんど行かなかったのではないでしょうか。
S・Tくんに「さっぱり思い出せないんだ」と正直に言いました。東之宮はS・Tくんの近くで、彼は「西之宮と同じ高さの場所に造られているんだって」と教えてくれました。
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東之宮の鳥居 S.Tくんが請け負って建て替えた
この日の山めぐりで一番苦しい山道登りでした。
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東之宮本殿
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本殿 S.Tくんが精魂こめて造った本殿

 神社の鳥居に着くとS・Tくんが「この鳥居と、本殿の改修を私がやったんだ」と教えてくれました。神社3ヵ所の改修を行ったのです。
そういう事なので注意して本殿を見たのですが屋根に覆われていて良くは見れませんでした。
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戦争を伝える松
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 鳥居から本殿までの間に「戦争を伝える松」という告示板が設地され1本の松がありました。戦争中に松の脂採りをした歴史を振り返っていました。「戦争遺跡」として後世に伝えたいと書かれていました。


 次に浦野古墳・浦野古城跡を訪ねることになりましたが、S・Tくんが指さして「いま行ってきた
東之宮よりさらに山を登らなければならないよ」と説明。これまでの行動でけっこう疲れていることもあり、無理はしないことにし、古墳と古城跡行きは取りやめることにしました。又の機会に訪ねたいと思います。

△ 浦野高札場跡を見ました

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😃 浦野の山をめぐって本当によかったと思いました。S・Tくんには「本当に来てよかったよ」と感謝の気持ちを伝え上田駅まで送ってもらい別れました。
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上田駅前で

😃 この浦野の山めぐりを文章化する中で、浦野宿の街並みを記録に納めることをすっかり忘れていたことに気づきました。浦野の山と浦野宿は一体のものだったのに。これから先、機会を作って実現したいと思います。

😃 行動してみると新しい発見がいくつもあり、人々の営みも感じました。

 

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2019年11月 3日 (日)

長野県青木村 義民の伝統を身近に感じる 2019年10月6日(日)

   青木村歴史文化資料館を訪ねる

 青木村は南に夫神岳、北に子檀嶺岳、西に十観山の山に囲まれた、世帯数1,737人口4,347人が住む農山村で、JR上田駅からバスで約30分の場所です。

その青木村の田沢温泉で浦里小・中学校の同年会があり参加しました。そのおりに青木村歴史文化資料館を訪ね、江戸時代に青木村から起こった百姓一揆の歴史について学ぶことができました。

 2011年に一度訪れましたが時間的余裕がなく、さあっと見ただけでした。
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今回はあわてずにじっくり見ることができ、入り口で「青木村に見る義民の伝統」という小冊子も得ることができて、青木村から起きた百姓一揆の全体を知り、先人の生きざまの一端を知ることができ、充実した気持ちになりました。

 私の長兄から青木村から5回百姓一揆が起こったこと、兄がおばあさんから聞いたこととして、明治2年の一揆の時には浦野で商店を営んでいたひいおじいさんが一揆を知って、酒屋から酒樽を用意し、おにぎりを作って家の前に用意して一揆の人たちを迎えたという話を聞いていました。
 そういうこともあって、機会があったらもういちど歴史文化資料館を訪ねたいと思っていました。


  青木村から起こった百姓一揆

1、天和の義民増田与兵衛
 
  天和 2(1682)年

2、享保の義民平林新七
 
  享保 6(1721)年

3、宝暦騒動      

  宝暦11(1761)年

4、文化の義民堀内勇吉 

  文化 6 (1809)年

5、明治2年騒動    

   明治 2 (1869)年



 5つの百姓一揆の中で一番印象的だったのが宝暦騒動でした。

2,006年11月に青木村で第10回全国義民サミットが開催され「青木村に見る義民の伝統」の小冊子が作られ、当時の宮原毅村長のあいさつと、横山十四男氏が百姓一揆についてわかりやすく紹介されていました。
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横山十四男 全文ダウンロード - giminnodento2020yokoyama.docx

横山十四男氏の宝暦騒動についての一項を紹介させていただきます。

《宝暦騒動》

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 宝暦11(1761)年に起こったいわゆる宝暦騒動は、上田藩の民政を根底から揺がした最初の全藩惣百姓一揆(ぜんぱんそうびゃくしょういっき)であったが、農民側の成功という形で決着がついた。勃発地は夫神村で、発頭人として死罪になった犠牲者は、夫神村組頭の浅之丞と百姓半平の二人であるが、計画を練ったのは浦野組の割番や庄屋達であった。

 「上田縞崩格子」(うえだじまくずれごうし)では、田沢村庄屋・金次郎、夫神村庄屋太郎兵衛、組頭浅之丞、百姓不平、当郷庄屋勘兵衛、組頭喜左衛門、百姓武右衛門が密々に相談して徒党を企てた、と記されていて、夫神村とならんで当郷の積極的役割が窺える記述となっているが、桂覚右衛門(かつらかくえもん)の手記である『私事政事録』には、首謀者は馬越村の林藤四郎、田沢村割番孫次郎、越戸村庄屋伝左衛門の3人に相違ない、と記されていて、浦野組内の割番級の村役人の名があがっている。

 いずれにしても、そうした根深い背景と準備があったればこそ、五万三千石の全領の農村から、一万数千の農民が一斉に上田城下に押し出す、という形態をとることができたのである。

 この騒動の犠牲者二人は処刑されるに当たって辞世の句を残している。

半平が「いさぎよく散るや此世の花ふぶき」と詠み、浅之丞が「散る花はむかし誠の習いかな」と詠み残したと騒動記録には記されている。

 この立派すぎると思われる辞世の句が果たして本人が実際に詠んだものか、それとも騒動記録作者の創作によるものか、確かめるすべは無いけれども、いずれの場合にせよ、百姓一揆の主謀者として処刑される二人の行為は、農民の花であるとし、その死は農民救済のための価値高い犠牲である、という意識が当時の人びとの間に存在したことを物語っている。しかも浅之丞の辞世の句に「むかし誠の習いかな」とあるのを見ると、彼らのこのような行為は、昔から先祖によって代々受けつがれてきた誠の道であり、その地に伝わる伝統的精神の継承である、との意識の存在をまず指摘することができるのではなかろうか。

 さらに天和の増田与兵衛が人奈良本の氏神に祀られたのは、事件があった年から数えて77年を経た宝暦9年であったし、亨保の平林新七が稲荷に祀られたのは46年を経た明和4年であったのである。宝暦9年といえば、宝暦騒動の起こる2年前であるし、明和4年といえば、この大騒動か終末を見た宝暦13年から数えて4年後のことである。従って二人の義民の奉祀と宝暦騒動との関連が当然推測されるのである。

 宝暦騒動は、上田藩最初の全藩惣百姓一揆であって、全領農民の固い団結によって成功を収めることができたのであるが、それだけに長期間の周到な準備が行われた。浦野組山間部農村の村々の庄屋・組頭がひそかな連携を保ちながら計画し、決行の当日には全領農民が一斉に蜂起するという見事な指導、統制ぶりで、藩当局は周章狼狽、完全に農民側に圧倒されたのであった。

 この騒動の指導に当たった村役人たちの意識の中には数年前の越訴義民である増田与兵衛や平林新七と同質の反骨精神があったものと思われるが、反面ではこの宝暦騒動における農民の精神的高揚が、義民奉祭を実現させた条件であったと言えるのではなかろうか。いずれもそこに義民の伝統を色濃くみることができるのである。

 この宝暦騒動については、いく種類もの騒動記が地元に残っていることでも注目される。最も数多く残っている写本は「上田縞崩格子」であるが、そのほか『上田騒動実記(村松区に残存)、『上田騒動甚秘録』(うえだそうどうじんぴろく)(夫神区に残存)がる。これらに基づいて書かれた『青木村誌』・『上田藩農民騒動史』(横山十四男著)などがあり、さらに新史料も入れた『青木村義民史-反骨の群像-』(清水利益著)も出されて、一揆の要求内容や経過について詳しく記されているので、参照して戴ければ幸いである。

 なお夫神区では早くから宝暦義民顕彰会ができており大正13年には、「宝暦義民之碑」が、区内の庚申堂前に建てられ昭和18年には義民180年祭が行われている。

 最近では、地元出身の俳人栗林一石路の義民追悼句碑を区内の庚申堂前に(昭和57年)、小林武夫の追悼句碑を文明五輪塔の前に建てた(平成2年)。この地域に江戸時代から盛んであった句詠の高いレベルと、義民の伝統意識との結びつきを示す好例と言えよう。

 この宝暦騒動で処刑された組頭浅之丞、百姓半平、謀議に加わった庄屋太郎兵衛の墓は夫神の中戸地籍に、また田沢村庄屋金次郎の墓は中挾の月夜平丘上にある。
                   <宝暦騒動の項終わり>

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2018年11月28日 (水)

どんぐりの成長をみまもってから1年  ⑲-⑲

《2018年11月10日》  コナラの林で

 昨年の11月2日に、大量のどんぐりの実を見て驚き、関心がわいて、観察続けて1年が経過しました。
 今年も、たくさんのどんぐりの実が地面を埋めているのかと考えていましたが、今年はどんぐり実は全く落ちていませんでした。不思議でした。調べてみて、どんぐりは全く実らない年もあるということを知りました。また、どんぐりの実がたくさん落ちるのはいつのことでしょうか?
 どんぐりの実が大きな木になるのは並大抵ではないこと、自然と人間が共生することについても考えさせられました。
  知らないことばかりが多く、少し勉強しまとめました。それでも、まだ、いくつもの疑問があり、引き続き勉強していきたいと思っています。

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1年間、基準の場所としてきた腐った木株が無くなっていて、ちょっとさびしい気持ちになりました。でも、コナラの木は育っていました。
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林の一隅には何年もかけて育つ幼木がありました
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クヌギ通りで

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クヌギの太い幹
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どんぐりの成長をみまもってから1年  ⑲-⑱

《2018年10月18日》  コナラの林で

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クヌギ通りで

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2018年11月27日 (火)

どんぐりの成長をみまもってから1年  ⑲-⑰

《2018年9月17日》  コナラの林で

育つコナラの木はほんのわずか

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2018年度のコナラの実が落ちはじめている

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クヌギ通りでも2018年の新しい実が

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どんぐりの成長をみまもってから1年  ⑲-⑯

《2018年8月12日》  コナラの林で

数は少なくなったけれど成長は続いていました

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2018年の新しい実が落ちていました

クヌギ通りの変化

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2018年の新しい実が落ちていました
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どんぐりの成長をみまもってから1年  ⑲-⑮

《2018年6月12日》  コナラの林で

 人と自然の共生  姿が全く変わっていました
きれいに草刈りがされていました 
近所の人たちが草刈りをするのではないだろうか、という心配があったのですが、その通りになりました。5月の姿とは全く変わってしまっていました。
当たり前といえば当たり前なのですが、コナラの林は古隅田公園の中にあり、人が住み、散策に人や動物がよく歩く場所にあります。

  成長続けるコナラの木
 どんぐりの実が成長して木になり実を実らせるようになるのは、こうした条件を乗り越えたほんのわずかの木々なんだということをしみじみ感じました。

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クヌギ通りでも、成長を続けるのは数本に

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どんぐりの成長をみまもってから1年  ⑲-⑭

《2018年5月24日》 コナラの林で

5月になって、雑草も勢いづいていますが、コナラの実生も元気に成長を続けています。

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クヌギ通りでも実生が何本も成長していました

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2018年11月26日 (月)

どんぐりの成長をみまもってから1年  ⑲-⑬

《2018年4月30日》  コナラの林で

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どんぐりの成長をみまもってから1年  ⑲-⑫

《2018年4月16日》

クヌギ通りで

クヌギの本葉が何本も成長している姿を見つけました。
クヌギは芽を出さないで終わってしまうのかなと思っていたので、ここでも生きているんだと思いうれしくなりいました。

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コナラの林で

すごい !!
クヌギの本葉が他の草といっしょに地面いっぱいに勢いよく育っていました。
「これが、みんな育ったらここはクヌギ林になってしまうよね」とこれから先どうなるのだろうかと???


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古隅田公園外から写したブナ系の雑木林
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東武野田線側からの入り口



















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