世界に誇れる憲法9条を生かしたい   7月17日

六 戦争の放棄

みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

 もう一つは、よその國と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぽすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

(あたらしい憲法のはなし六項から引用)

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happy02 「あたらしい憲法のはなし」は、
憲法が公布されてから10ヶ月後の1947年8月に文部省によって発行され、全国の中学生が1年生の教科書として学んだものです。
 しかし、この教科書は2~3年使われただけでした。1950年朝鮮戦争、1952年安保条約が結ばれ、警察予備隊が生れ自衛隊に変わってゆく時代の流れの中で、教室から姿をけしていってしまったのです。

bud 崇高な常備軍を持たないという理想実現に向けての呼びかけで、読み返すと感動します。
これだけすばらしい憲法を持っているのだから、それが実現しない限り、時間がかかるかもしれないけれど、諦めずに憲法を生かすために努力するのが私たちの責任だと思うのです。これが私の憲法と第9条に対する基本姿勢です。

angry 残念なことに、60年以上も続いた自民党政治のもとで、自衛隊が存在する中で、“自衛隊なしに日本の安全は守れない”という考えが広められました。
 国民が“自衛隊をなくしてもいいよ”という気持ちになるには、それだけの時間と手続きが必要になっています。ですから私は国民の合意で自衛隊をなくしていくことが必要と訴えたのです。
しかし、今回の大洗の自衛隊派遣は異常であり、こうしたことは見過ごしてはならないと考え申し入れをしました。

happy02 そこまで行き着くまでの時期に、大規模災害など、必要にせまられた場合には、国民の生命と安全を守るために自衛隊を活用するのは当然だと考えます。3.11東日本大震災で自衛隊はそうした役割を果たしたと思います。
消防や、警察も組織をあげて、その任務を全うするために全力を尽くしました。
 私が考えたのは、自衛隊をなくしていく過程で、地震災害が多い日本では特別の「災害救助隊」のようなものに変えていける可能性もあるのではないだろうかということです。これはみんなで考えて決めていけばいいのではないでしょうか。

angry 私の申し入れのブログに何通かの批判の書き込みがされました。
そのほとんどが、誹謗、中傷のマナーに欠けた物でしたので削除し、名前の書いてあるものは掲載しました。

 

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2017年6月24日 (土)

平和宣言 翁長雄志沖縄県知事 2017年6月23日

 平和宣言  沖縄県全戦没者追悼式   

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72年前、ここ沖縄では、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられました。昼夜を問わない凄(すさ)まじい空襲や艦砲射撃により、自然豊かな島の風景、貴重な文化遺産、そして何より尊い20数万人余りの命が失われました。
     戦争の不条理と残酷さを体験した沖縄県民は、何をおいても命こそが大切であるという「命(ぬち)どぅ宝」の思いを胸に、戦争のない、平和な世の中を希求する「沖縄のこころ」を強く持ち続けています。

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 戦後、沖縄は27年に及ぶ米軍統治を経て、念願の本土復帰を果たしました。沖縄県民、そして多くの関係者の尽力により、現在、沖縄は国内外からの多くの観光客でにぎわうなど、大きな発展を遂げつつあります。

 その一方で、戦後72年を経た今日においても、この沖縄には依然として広大な米軍基地が存在し、国土面積の約0・6%にすぎない島に、米軍専用施設面積の約70・4%が集中しています。

 復帰すれば基地負担も本土並みになるという45年前の期待とは裏腹に、いまだに私たちは、米軍基地から派生する事件・事故、騒音・環境問題などに苦しみ、悩まされ続けています。
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 沖縄県は、日米安全保障体制の必要性、重要性については理解をする立場であります。その上で、「日本の安全保障の問題は日本国民全体で負担をしてもらいたい」と訴え、日米地位協定の抜本的な見直しや米軍基地の整理縮小などによる、沖縄の過重な基地負担の軽減を強く求め続けています。

 しかし、昨年起こった痛ましい事件の発生、オスプレイの墜落をはじめとする航空機関連事故の度重なる発生、嘉手納飛行場における米軍のパラシュート降下訓練や相次ぐ外来機の飛来、移転合意されたはずの旧海軍駐機場の継続使用の問題などを目の当たりにすると、基地負担の軽減とは逆行していると言わざるをえません。
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 特に、普天間飛行場の辺野古移設について、沖縄の民意を顧みず工事を強行している現状は容認できるものではありません。

 私は辺野古に新たな基地を造らせないため、今後も県民と一体となって不退転の決意で取り組むとともに、引き続き、海兵隊の削減を含む米軍基地の整理縮小など、沖縄の過重な基地負担の軽減を求めてまいります。

 国民の皆様には、沖縄の基地の現状、そして日米安全保障体制の在り方について一人一人が自ら当事者であるとの認識を深め、議論し、真摯(しんし)に考えて頂きたいと切に願っています。

 一方、世界では、依然として地域紛争や、人権侵害、難民、飢餓、貧困、テロなどが人々の生活を脅かしており、また、国際情勢はめまぐるしく変化し、予断を許さない状況にあります。

 今こそ世界中の人々が民族や宗教の違いを乗り越え、協力して取り組んでいくことが求められています。

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 今年は、日本国憲法が施行されて70周年、沖縄県に憲法が適用されて45周年になりますが、この節目に、憲法の平和主義の理念を再確認し、私たち一人一人が世界の恒久平和を強く願い求め、その実現に向け努力を続けなければなりません。

 先日お亡くなりになった大田昌秀元沖縄県知事は、沖縄が平和の創造と共生の「いしずえ」となり、再び戦争の惨禍を繰り返さないことの誓いとして、敵味方の区別なく沖縄戦で命を落とされたすべての方々を追悼する「平和の礎(いしじ)」を建立されました。
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 私たちは、沖縄に暮らす者として、この「平和の礎」に込められた平和の尊さを大切にする想(おも)いを次世代へ継承するとともに、未来を担う子や孫のため、安全・安心に暮らせるやさしい社会、いつまでも子ども達(たち)の笑顔が絶えない豊かな沖縄の実現に向けて、絶え間ない努力を続けてまいります。

 慰霊の日に当たり、戦争の犠牲になった多くの御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げるとともに、平和を希求する沖縄のこころを世界へ発信し、恒久平和の実現に向け取り組んでいくことをここに宣言します。

 2017年6月23日 沖縄県知事 翁長雄志

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2017年6月23日 (金)

誓い~私達のおばあに寄せて~宮古高校3年 上原愛音

誓い ~私達のおばあに寄せて~

 宮古高校3年 上原愛音(ねね)

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今日も朝が来た。

母の呼び声と、目玉焼きのいい香り。

いつも通りの
平和な朝が来た。

七十二年前
恐ろしいあの影が忍びよるその瞬間まで
おばあもこうして
朝を迎えたのだろうか。

おじいもこうして
食卓についたのだろうか。

爆音とともに
この大空が淀んだあの日。

おばあは
昨日まで隠れんぼをしていたウージの中を
友と歩いた砂利道を
裸足のまま走った。
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三線の音色を乗せていた島風に
鉄の臭いが混じったあの日。

おじいはその風に
仲間の叫びを聞いた。
昨日まで温かかったはずの冷たい手を握り
生きたいと泣く
赤子の声を抑えつけたあの日。
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そんなあの日の記憶が
熱い血潮の中に今も確かにある。

決して薄れさせてはいけない記憶が
私の中に
私達の中に
確かに刻まれている。

少女だったおばあの
瞳いっぱいにたまった涙を
まだ幼かったおじいの
両手いっぱいに握りしめたあの悔しさを
私達は確かに知っている。

広がりゆく豊穣の土に芽吹きが戻り
母なる海がまた
エメラルドグリーンに輝いて
古くから愛された
唄や踊りが息を吹き返した今日。

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でも
勇ましいパーランク―と
心臓の拍動の中に
脈々と流れ続ける
確かな事実。

今日も一日が過ぎゆく。

あの日と同じ刻ときが過ぎゆく
フェンスを飛びこえて
締め殺されゆく大海を泳いで
癒えることのない
この島の痛み
忘れてはならない
民の祈り
今日響きわたる
神聖なサイレンの音に
「どうか穏やかな日々を」
先人達の願いが重なって聞こえる。

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おばあ、大丈夫だよ。
今日、私達も祈っている。

尊い命のバトンを受けて

祈っている。

おじい、大丈夫だよ。

この島にはまた
笑顔が咲き誇っている。

私達は
貴方達の想いを
指先にまで流れるあの日の記憶を
いつまでも
紡ぎ続けることができる。

誓おう。

私達はこの澄んだ空を
二度と黒く染めたりしない。

誓おう。

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私達はこの美しい大地を
二度と切り裂きはしない。

ここに誓おう。

私は、私達は、
この国は
この世界は
きっと愛おしい人を守り抜くことができる。

この地から私達は
平和の使者になることができる。

六月二十三日。

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銀の甘藷(かんしょ)が清らかに揺れる今日。

おばあ達が見守る空の下
私達は誓う。

私達は今日を生かされている。

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2017年3月 9日 (木)

国・東電の責任を明らかにし、住民に寄り添った施策を

 東日本大震災から6年を迎える今、原発事故への対応について、現状をどう認識し対応すればよいのだろうか指針がほしいと思っていました。3月8日原発事故と人権ネットワークが緊急提言を行ったことを知りました。
 早速、全文と要旨をよんで総合的な指針が示されているように思いました。
要旨を紹介させていただきます。

 原発事故と人権ネットワークは、原発事故被害の賠償訴訟の弁護団や、法律家、科学者、ジャーナリストなどの11団体で構成されています。

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「国・東電の責任を明らかにし、住民に寄り添った施策を― 原発事故6年を経過するにあたって、私たちの緊急提言」の「要旨」は次の通りです。

                                    2017年 3月 8日
                                     原発と人権ネットワーク

1:あらゆる政策について、行政区画による官僚的、画一的な対応を改め、実態に即した対応をすること。

政府の施策の最大の問題は、地域や生活の実態を詳細に見ることなく、住民を行政区画や地域で分断し、一方的に、補償など復興施策や帰還政策の「線引き」を行っていることです。この姿勢を改め、被災者ひとりひとりの実態を直視した対応が求められています。 今回の事故に対する政府・東電の対応は、端的に言って、「差別」と「分断」です。原発による放射能汚染状況は、エリアと自然状況で、区別されることはあっても、それ以外で違いが出てくるものではありません。
ところが政府の対策は、自治体やその中の「字」の違いで、避難についても補償についても「差別」し、住民の中に亀裂を生みました。道一つ隔てて、あるいは、入り組んでいても、地域的なコミュニティが形成されていても、一切お構いなしで、行政区画による官僚的な「対策」が進められました。その結果、住民の間に深刻な溝ができ、被災者の中に「差別」が生まれています。

2:帰還政策では、指定解除、住民帰還と補償を結びつける考え方を捨て、現実に被災者の生活が成り立ち、事故前と同様な生活が可能になるよう、生活補償を継続、拡充すること。

国は、「除染」を実施し、「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」について「安全が回復された」として一方的に「安全」を押しつけ、帰還を強制しています。
しかし、この政策は不合理で、著しく住民を苦しめています。なによりも、指定を解除し「帰還可能」とすることと、補償の打ち切りを結びつけることで避難者に「帰還」を強制しています。しかも、この強制が上記1の「線引き」を前提に、画一的に推し進められていることが更に被災者を苦しめることとなっています。
こうした「帰還」を強制する政策は直ちに中止し、全ての被災者に、その必要性と実態に合った補償を継続・徹底すべきです。

3:指定区域外の避難者(「自主避難者」)への住宅供給措置の打ち切りを中止し、これまで通り住居を確保、生活を保障すること。

原発事故で、避難の指定を受けた地域以外からも、多数の避難者が全国に避難しています。「自主避難者」と呼ばれ、あたかも自分たちで勝手に住居を移したような見方さえされています。これらの人たちにも、住宅支援などがされていますが、政府、東電はこの3月、この住宅支援を打ち切ろうとしています。
家を失うことは、生活が破綻するということであり、人間の「生きる権利」を奪うものです。国と東電は、被災の実態を見ずに人々の住居を一方的に奪うことをやめ、その責任において被災者の「生きる権利」の保障に向かうべきです。

4:営業損害賠償にも、さらに積極的に対応をすること

営業損害賠償についても、「原発事故との相当因果関係が必要だ」との主張から、要求があっても支払われなかったり、減額されたり、打ち切られる例も広がっています。
原発事故が事業に与えた打撃が明らかである限り、無条件の賠償がされるべきです。

5-1:健康対策については、行政区画による住民への選別、差別をやめ、予防原則に沿って、地域の放射能汚染調査と住民の健康調査を徹底させ、生活支援、医療費の無償供与などを実施すること

原発事故による放射能汚染は、政府、東電の調査による地域だけでなく、福島県全域、あるいは近接各都県のホットスポットの存在など広範に広がっています。政府、東電は、行政区画による住民の差別、選別をやめるとともに、その被害が後日どんな形で現れてくるかわからないことを前提にして、予防原則に沿って、対策を進めるべきです。
政府は、まず、自治体の協力を得て、福島にとどまらず、環境省の放射能汚染状況重点調査地域の全てを含め、地域のモニターを増やしてデータを蓄積していくべきです。必要な地域全域、全戸の汚染状況を調査し、全住民の健康調査を実施し、これからの被害対策に役立てていくべきです。
また、甲状腺がん、呼吸器疾患などについて、科学的な因果関係が十分証明されない状況でも、十分な対応が必要です。

5-2:健康手帳の配布、それを活用できる体制の整備につとめること

健康調査をどこでも誰でも、無料で受けられる制度と体制を作り、被害が明らかになった場合には、十分な手当がなされるようにすべきです。
そのためには、被災の可能性が出ている全域にわたって、健康手帳を配布し、活用できる体制を整えるべきだと考えます。
健康調査の実行にあたっては、これまでも、住民個人に調査内容を伝えなかったり、客観的データを公表しなかったり、地域や各住居の調査が方法は曖昧だったり、問題が指摘されています。こうしたことがないよう、積極的な対応が求められています。

6:住民の被害について、単なる経済的な積み上げだけでない調査を徹底すること。指定区域外からの避難者も含め、改めて被害の実態を調べ、責任を持って対応すること

原発事故の被害は、単にこれまでの住居や生活を奪われるということではなく、被災者の人生、そして地域の人々のつながりや自然とのかかわり、祖先や古くからの伝統とのつながりなど、ふるさとの文化そのものを破壊しました。
避難した住民は、指示された人も、されなかった人も、事故がなければ自らの責任でそれぞれが希望を持って生活していたはずです。何の理由もなくその生活を奪われた被災者は、いくら賠償金を積まれても満足できません。「謝れ、償え、原発をなくせ」という要求は、こんなことが世界中、どこでも再び起きない確約で初めて癒されるでしょう。
破壊されたのは、ふるさとの文化であり、金銭に換えられるものはわずかです。国、東電は、そのことに思いを致し、経済的な積み上げでははかれないこうした被害の実態に正面から向き合い、責任を持って対応すべきです。

7:被災者については、指定区域内、指定区域外からの避難であることにとらわれず、今後の生活設計での自主的選択を尊重し、選別、差別なく対応すること

既に「差別」の問題を指摘したように、原発事故が引き起こした大きな問題のひとつは、住民の中に、避難した人、残った人の生活上の事情や、区域の線引きによる補償などによって、感情的な齟齬が生まれたことです。政府、東電はこれを利用して責任を回避する姿勢を続けています。事故を受けて、10数万の県民が避難し、190万の人は避難はしませんでした。しかし、どちらの場合も健康不安やコミュニティの破壊、喪失、そして変質、変容に直面し、苦しんでいることに変わりはありません。
原発被害はいまなお継続、拡大しており、被害は回復していません。しかし例えば、仮に被害回復の方策が見つかり、十分の補償がされたとしたとしても、新しい土地での生活を発展させるか、帰還して生活を再建するかの選択は、被災者個々が自主的に判断するべきであり、国、東電の対応策は、このことを尊重したものでなくてはなりません。
事故から既に6年、被災者の事情も、周囲の環境も変化しています。この観点に立って、国と東電は、被災者ひとりひとり、個々の事情を丁寧に聞き、対応策を講じるべきです。

8:住宅地のほか、農地、山林、動植物の汚染についても、正確な調査をし、必要な対策を講ずること

福島県内の「除染」作業は、住宅の周辺、道路、公共施設などを中心に進められ、一定の効果を上げているとみることができます。しかし、「除染」は、20ミリシーベルトを基準として行われていますが、「除染」した地域でも、放射能汚染は残り、生活条件は整備されていません。その土地で、元の生活を営む条件が整ったとはとても言えません。
にもかかわらず、国は「除染」によって安全が回復された、と一方的に「安全」を押しつけ、帰還を強制しています。
もともと事故によって、放射性物質がどう飛散し、地域がどう汚染されたかについて、継続的なきちんとした調査行われていません。例えば、各地で記録されている線量計のデータにしても、地表や違う高さについてはわかりませんし、一層きめ細かく記録され、継続的に住民に知らされることが必要です。
「放射性物質は無主物」(なのだから東電として責任を負わなくて良い)などといった詭弁を弄することなく、法的責任の上に立って、徹底的な継続調査を実施し、その上で対策を講ずべきです。
「里山除染」「フォローアップ除染」などはどうしても必要ですし、新しい技術開発も必要でしょう。除染が届かない農地や山林の汚染、自然界に生息する動物たちの汚染に対応した管理体制も必要です。

9:中間貯蔵施設の設置については、あくまでも住民の意思を尊重し、正確な情報をもとに丁寧な合意形成に努めること、

現在、福島県内の各所では、フレコンバックに詰め込まれた放射性廃棄物が住居に隣接する農地などいたる所に仮置きされています。一部で中間貯蔵施設の建設が急がれていますが、設置に当たっては、住民の意見に十分耳を傾け、住民同士の合意形成を最大限尊重しながら、進めるべきです。
中間貯蔵施設については、搬入から30年以内に県外で最終処分するとされていますが、その点に住民は極めて大きな不安を持っています。正確な情報をもとにした丁寧な合意形成に努めるべきです。
また、「安全が回復された」として避難指示解除準備区域及び居住制限区域を解除し、帰還を強制しようとする政策は、廃棄物を現状のままにしては、帰還者に放射性廃棄物とともに生活することを強いるに等しいもので、はなはだしい人権侵害と言わなければなりません。少なくとも中間貯蔵設備の設置が現実化し仮置場が解消するまでは帰還を事実上強制するような政策は採るべきではありません。

10:国と東電は、福島第一原発の事故収束、廃炉作業の方針について、少なくとも100年―200年単位の長期的見通しを持って、冷静に解決策を検討し、住民の理解を得つつ、放射能の飛散がこれ以上ないよう、事故炉を遮蔽、隔離する方策も検討すること

昨年3月、福島大学で開催した第3回「原発と人権」全国研究・交流集会では、破壊された事故炉の活動をどう収束させ、廃炉にするかについての「中長期ロードマップ」について深刻な疑問が出されました。燃料の取り出しから廃炉作業を経て更地にするという道筋はとても、30-40年で達成できるものではないと指摘され、「環境への放射性物質放出と被曝労働、費用を最小にするには、当面放射能を隔離・管理する作業をし、燃料取り出しは100-200年後に行うべきではないか」という意見も出されました。
被災住民からすればそのような意見を容易に受け入れられないことは当然ですが、核燃料がメルトダウンし、炉を破壊する事態になっている現在、私たちの世代で「福島原発事故」を解決できないことは明らかです。
事故を起こした私たちの世代で、この問題が解決できないこと、結局、事故現場の周辺の住民に世代を超えた負担を負わせることになることは、非常に残念なことです。しかし、私たちはこの事実を事実として受け止め、こうした処理の方法も冷静かつ真摯に検討すべきであり、周辺の住民の生活再建についても、事故の収束、廃炉作業の見通しを前提に検討しなくてはなりません。原発をどうしていくか、の議論を深めていくためにも、この方策について、国民的な論議を起こしていくべきだと考えます。

11:自治体は国の施策に追従するのではなく、主体的に住民の要求を組み上げ、住民の立場に立って国と東電に対応策を要求すること

今回大きな被害を受けた自治体は、これまで原発を地域開発の重要な施策と位置づけ、国策に沿った形で原発を推進してきました。しかし、その政策が誤りだったことが明らかになったいま、国や東電の無責任な姿勢を住民の立場から糾し、地域と住民の要求を実現するため先頭に立って努力することが求められています。具体的な施策について、自治体は国の施策をこなして住民に伝える姿勢ではなく、住民の要求から出発した施策を国や東電に求める姿勢に転換すべきです。例えば、福島県内の自治体は、全県民の要求である「福島全原発の廃炉と自然エネルギーへの転換」の運動の先頭に立つべきです。
地震、津波から原発の破壊に至った事故発生のメカニズム、原因も依然、明らかではありません。廃棄物処理、残土処理の長期的見通しもあいまいです。自治体はこれらについて、情報公開を徹底し、国や東電に積極的に働きかけていくことが求められています。

12-1:原発労働の中間搾取などの違法な実態を改め、労働者の健康管理を徹底すること。

原発労働については、事故直後こそさまざまに語られましたが、その後は忘れられたように放置されてきています。しかし、ますます危険になりかねない労働が、幾重にも積み重ねられた下請け構造の中で、作業費も中間搾取されている状況は変わっていません。
政府は原発労働者の契約関係と作業実態について、労働法規に基づいて調査し、違法状態を改めるとともに、除染労働者について健康管理を徹底すべきです。これは急務です。

12-2:除染労働についても、同様に作業と健康の管理を徹底すること

除染に当たる労働者の契約、作業形態、被曝状況についても、ほとんど明らかにされないまま行われ、健康についても十分管理されていない状況があります。原発労働者と同様に線量計の携帯による対応策、健康管理の徹底が必要です。

13:問題解決のための費用負担について、十分な情報公開の下で、道筋を明確にし、国民合意の中で進める方針を確立し、議論を始めること。

原発事故の被害については、原子力賠償責任法で措置することが決められ、50億円からスタートしましたが、既に1961年には原子力産業会議は、最大3兆7300億円と計算していました。現在の事故の損害額は21兆5000億円とも25兆円とも言われています。この費用を最終的にどこが負担するか。東電を破産させて国が補償しても、また電気料金に上乗せすることにしても、どちらの場合も、国民が負担しなければならないことは間違いありません。このことを明確にし、国と東電は法的責任を認め、その上で、国民的な議論を起こし、民主的な解決策を示すべきです。
さらに、国は原発再稼働を推進していますが、新たな原発事故が起きた際の備えをほとんどしていません。たとえ再稼働していなくとも、核燃料がある限り事故の可能性はあり、早急に資金的な賠償の備えを強化すべきです。

pencil 原発と人権ネッワークのホームページは
http://genpatsu-jinken.net/

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2017年2月20日 (月)

忘れません 小林多喜二が虐殺されてから84年の今日を

潮 流   しんぶん 赤 旗   2017年2月20日 

  万国の労働者や民衆のたたかいの場で歌われてきた「インターナショナル」。この革命歌が日本語に訳されて国内で初めて歌われたのは、日本共産党創立の年と同じ、1922年の秋でした▼当時の左翼文芸団体がロシア10月革命を記念する前夜祭を代々木の農家で開き、そこに集まった人たちで歌ったのが最初だといわれます。そのとき、フランス語の歌詞を訳したのが佐々木孝丸でした▼戦前のプロレタリア演劇の草分けだった佐々木は戦後も俳優として長く活躍しました。プロレタリア作家の小林多喜二とも交遊があり、多喜二が築地署で特高の拷問にあって殺されたときも築地小劇場から駆けつけています▼葬儀にも参列し、多喜二の母セキの悲しみと憤りをじっとこらえる姿や最後の別れのときの慟哭を、胸に刻み込んだといいます。
 「どんなに、どんなに水が飲みたかったやら…何の罪があって! 鬼! 畜生!」▼反戦を訴え、人びとを搾取する社会からの転換を求めた多喜
二の信念に、苦悩しながらも寄り添おうとしたセキ。彼女の半生を描いた三浦綾子さんの小説が、映画「母 小林多喜二の母の物語」になって順次上映されています▼84年前のきょう、多喜二は国民の思想と良心を弾圧した治安維持法によって殺されました。いままた、その現代版と呼ばれる共謀罪が安倍政権によって国会に提出されようとしています。権力の横暴に声を上げる人たちを処罰しようと。いまこそ、立つとき。♪いざ闘わん いざ奮いたて゛いざ―



 
2月20日がめぐってきました。
毎年この日の前後に小林多喜二のことについて考えたり学んだりします。
私は、多喜二が築地署で拷問により虐殺されたときの歳が29歳だったということに、いつも驚きを感じるのです。29歳で、あれだけの小説を書き続け、闘い続けたということに敬意の気持ちでいっぱいになります。

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2017年1月17日 (火)

豊洲新市場の抜本的再検討を知事に申し入れ 

豊洲新市場の汚染状況の全面調査及び豊洲移転の抜本的再検討を求める申し入れ

東京都知事 小池百合子 殿

2017年1月16日
日本共産党東京都議会議員団

豊洲新市場の汚染状況の全面調査及び豊洲移転の抜本的再検討を求める申し入れ

 14日に発表された201箇所の地下水モニタリング結果は、1/3を超える72箇所の井戸が基準値を超え、ベンゼンは35か所で基準を超えて最大値の基準の79倍、検出されてはならないシアン化合物は39か所で検出され最大値は検出限界値の12倍、ヒ素は20か所で基準を超え最大値は基準の3.8倍でした。全街区の井戸が、ベンゼン、シアン、ヒ素が基準を超えました。
 今回の結果は、これまでわが党が指摘してきたように、これまでの都の土壌汚染対策では、環境基準を超える汚染物質がすべて除去されたわけではなく、環境基準を大幅に上回る汚染土壌、汚染地下水が取り残されていることを示したものです。今回の結果は、想定されうる結果です。小池知事の移転延期の決断は正しかったことが、改めて鮮明になりました。
 すでに地下水は都が管理するとしていた海抜1.8メートルを大きく超えており、きれいな土と入れ替えた盛り土部分にまで上昇しています。そのため、わが党がかねてから指摘してきたように汚染された地下水によって、盛り土が汚染された可能性が強いと言わなければなりません。
 現時点で、これまでの3代にわたる知事がすすめてきた土壌汚染対策、すなわち、環境基準を超える汚染物質の除去、高さ4.5メートルにわたるきれいな土による盛り土による汚染の封じ込め、地下水の上昇を抑え管理するなど、都が進めてきた安全対策のどれもが破たん状態であることは明白になったと言わなければなりません。
 都がおこなった2015年10月の「食品の購買意識に関する世論調査」によれば、生鮮食料品購入の際の安全性の意識は90%近くが「意識している」と回答しています。国内で流通している加工品を含む国産、輸入品の青果では6割、水産では5割以上が卸売市場を経由し、水産では都内市場で扱う量の約94%が築地市場を経由しています。食の安全・安心の問題は、消費者の買い物動向、魚屋さんの売り上げ、卸売市場の取り扱い高にも影響し、市場関係者も不安を抱えています。食の安全・安心が保障されない中での築地市場の移転はおこなうべきではありません。
 以上の立場から、以下の事項について申し入れるものです。

1.これまでの地下水モニタリング調査について、調査会社、調査手法を含め全面的に検証し、都民に公表すること。

2.汚染された地下水が上昇して盛り土が汚染された可能性が高いため、盛り土の汚染調査を実施すること。

3.豊洲新市場予定地の汚染状況について、これまでの汚染調査、土壌汚染対策工事などについて、真に食の安全・安心を確保するために、専門家会議と異なる見解をもつ専門家を含めて徹底検証をおこない、公表すること。

4.当面、築地市場の必要な補修、改善を急ぐとともに、築地市場の現在地での継続を含め、豊洲移転中止について、本格的な検討を行うこと。

                            以上

 日本共産党都議団の4点についての都知事への申し入れは筋が通っていて納得のいくものです。都知事は真摯に受け入れてほしい。

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2017年1月14日 (土)

琉球朝日放送が伝えた  オスプレイ墜落から1ヵ月

http://www.qab.co.jp/news/2017011386939.html

クリックすると放送をご覧になれます。

お聞きください。

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2017年1月 9日 (月)

第9演奏にあたって  ヘルベルト・ブロムシュテット

幸せを切望したベートーベンが音楽で伝えたかったこと
「第9」の魅力を解き明かします  
ヘルベルト・ブロムシュテット氏に聞く


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 誰もが「歓喜の歌」という題名にひかれます。幸せになりたいという気持ちがあるからです。しかし、ベートーベンは大変に不運な人でした。耳が不自由であるということは、音楽家にとってどんなに苛酷なことか。頭の中で想像するだけで、実際の音を聴くことができない苦しみ。聴覚に問題のない状態で作曲した交響曲は第一番だけなのです。第二番を書き上げたときには、既に聴覚が失われ始めていました。これは大きな悲劇です。
 私たちは悲劇に打ち勝つことができる人を尊敬するのです。悲劇や悲惨な出来事は悲しいものですが、それを機に新しいスタートを切ることもできます。第9は耳が聴こえないベートーベンだからこそ生まれた作品だと思います。そして音楽の質の高さは言うまでもありません。
 第1番の演奏時間は25分であの時代の交響曲の標準です。第9はその倍以上の長さです。スケールが大きいというだけでなく、中身も凝縮されていて多くのことを語っています。

 第9の全体を通したテーマは喜びです。
第1楽章は創造する喜びを表現しています。第2楽章はまた別の喜び、ディオニュソス的な半狂乱の喜びの表現です。第3楽章は歌心たっぷりの叙情的な緩徐楽章です。叙情と美しさに満ちた、心安らぐ楽章です。最後の方には穏やかさを破る瞬間があります。人生は平穏な時ばかりでなく、厳しいこともあると思い出させるためです。穏やかな主題と同じ音程を使いながら、人間はいつか死ぬ、不幸が訪れることもあるという警告を発しています。この美しい緩徐楽章に、人生は美しいだけでなく、困難なこともあるという意味も与えています。それだけに楽しい瞬間がきわだつのです。この楽章は本当にすばらしい。ずっと演奏していたいくらいです。最後は穏やかに終わります。
 ベートーベンはお得意のこのモティーフを反転しこのくらいテンポを落として用いるのです。究極の平和を得たという印象があります。仏陀も求めた極致です。
 涅槃(ねはん)に達し欲を持たず、解脱することで幸せになる。第3楽章の後はそんな気持ちになります。しかし、直後におぞましい和音が来ます。ひどい不協和音です。何のためでしょうか?(第3楽章では)試練や戦争、困難のあとには究極の平和が訪れると言いたかったのです。あまりに美しく心地よいので、居眠りをしてしまいそうになります。
 そこで人生は楽ではないと私たちの目を覚まさせるのです。私はこれを地獄の和音と呼んでします。管楽器がいっせいに「変ロ音」を演奏します。しかし、ティンパニはその半音「イ音」を叩き耳障りな不協和音が響きます。そして、美しいい心なごむメロディーが現れます。
 王ではなく普通の人が地道に歩んで行くような、隣り合った音でできた歌いやすいメロディーです。冒頭の人間を象徴するメロディーの音程を変化させたものです。崇高なのにとてもシンプルで5つの音だけでできています。これよりは上には行かず1回低くなるだけ、限られた音域で歌いやすいのです。極めて美しく計算されたメロディーです。単なる思いつきではなく、熟考を重ねた結果です。オーケストラがかなり長く展開したあと、また地獄が訪れます。これまで何回か繰り返されてきた、あの恐ろしいメロディーです。その後、バリトンの独唱が始まります。
 私はこんな音楽を聴きたくない、もっと楽しい幸せな音楽が聴きたいのだと歌います。
これはドイツ語の歌詞の意訳で、ちなみに歌詞はベートーベン本人のものです。
その後に、シラーの詩を引用した長い楽章となります。シラーが書いたのは、30ほどの節からなる長い詩で、そのうちの喜びに関する3節か4節を歓喜の歌に引用したのです。これは喜びへの賛歌です。
 そこかしこに喜びはあり、それを手にいれるために努力し、大切にするようにと合唱が加わり歓喜の歌を歌います。フーガと合唱の同時進行です。合唱とオーケストラが表すそれぞれの喜びを見事に組み合わせています。
 それから間があって、まったく新しい神に関する詩が歌われます。
神はどこにも存在し、人間とコミュニケ―ションを取っていると、音楽で見事に表しています。
 フィナーレはディオニュソス的な半狂乱の喜び、オーケストラがとても速いテンポで、人間の主題を奏でます。そして、合唱が神の主題を歌います。ものすごい高揚感です。
合唱とオーケストラが感極まり、オーケストラが速いテンポで主題を数小節奏でます。
それで終わりです。
 冒頭で使われた音程で締めているのです。見事なまでに計算されています。耳の不自由な天才音楽家の作品です。幸せを切望したベートーベンが音楽を通して示したのは、次々に悲劇に見舞われたとしても、幸せになることはできるのだということです。
 ぜひお楽しみいただければと思います。

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

指揮:ヘルベル卜・ブロムシユテット

1927年にアメリカで生まれ、その後、両親の祖国スウェーデンに移住した。ストックホルム王立音楽院からウプサラ大字に進み、さらにジュリアード音楽院で指揮法、バーゼル音楽院で古楽を字んだ。1954年ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビュー。オスロ・フィルハーモニー管弦楽団、スウェーデン放送交響楽団、デンマーク放送交響楽団、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席指揮者を歴任した。1985年からサンフランシスコ交響楽団、1996年から北ドイツ放送交響楽団、1998年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の、それぞれ音楽監督を務めた。NHK交響楽団には1981年から客演を重ね、現在は同楽団名誉指揮者の称号を贈られている。2016年、日本放送協会放送文化負を受賞。

〇ディオニュソス
ギリシャ神話で、酒の神。もと、北方のトラキア地方から入ってきた神で、その祭儀は激しい陶酔状態を伴い、ギリシャ演劇の発生にかかわるともいわれる。ゼウスとカドモスの娘セメレとの子。バッカス。
〇涅槃(ねはん)
煩悩 (ぼんのう) の火を消して、知慧 (ちえ) の完成した悟りの境地。一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地。仏教で理想とする、仏の悟りを得た境地。

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89歳の巨匠が万感をこめて第9にいどむ
ヘルベルト・ブロムシュテット89歳 世界で最長老の指揮者のひとり
N響と「第9」を共演するのは1985年以来。
31年ぶりとなる今回の「第9」 ― しかし、その演奏は大きく様変わりしていた。

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 第一楽章は作曲する喜びだと思います。
短い2つのモチーフだけで音楽を組み立てる喜びです。
 第2楽章スケルツォはドラマチックで情熱的、陶酔的で悪魔的な喜びを描いています。
 パンパラ パンパラ パンパラ パンパラ
一番好きなのは、ゆったりしただ3楽章。平和の喜びにあふれています。

1985年には楽譜の新しい版がまだなく、150年ほど前からの楽譜を使っていました。19世紀の頃からずっと使われていた版です。今使っている版は、1990年代に新しく出版されたものです。またベートーベンの“意図”を伝える多くの資料も見つかっています。音楽家は良心に従い、なるべく原典に忠実であるべきだと思います。今の私は昔よりも作曲家の“意図”に忠実な演奏ができるようになりました。それに、周りのことを気にしなくてもいい歳になりました。フルトヴェングラーの倍のテンポで演奏していると言われても平気です。ベートーベンの“意図”に従っているという自信があるからです。

ブロムシュテットは、ベートーベンが音符に託した“意図”ひとつひとつを演奏前の練習で解きほぐしていきます。
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コンサートマスター 伊藤 亮太郎氏

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(ブロムシュテットは様々な指示を書き込んだ譜面を事前に渡していた)
あるフレーズで、センサビブラートと言って〝ミブラートかけないで〟っていうふうに書いてあったんですね。まあ、そこのフレーズは、けっこうきれいなフレーズなので普段はけっこう、良い音でと思って、ミブラートかけたりするんですけど、それを確認して、多分2小節ぐらいかなと思って質問して「どこまでかけない方法で行きますか」と聞いたら、意外と長くて8小節あったりして、最初、びっくりしたんですけれども、その後、実際に音を出してみたら、本当に、作品の真の姿というのが、自分が聴いていてもよく伝わって来て驚きの経験になったんです。

第1バオリン 齋藤 真知亜氏

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彼の音楽の中に、われわれよくメロディーに目が行ってしまいますけども、メロディーではなくそのメロディーを細分化したモチーフ、タターンとうのとタラーという二つの音がものすごく少ないモチーフですよね。それが、オーケストラのなかにどう点在しているのかということを完璧に把握していらっしゃるので、それを楽器のそれぞれの特徴に合わせて、どれだけ表現をさせるかみたいな感じですね。だから、なんか、へたをすると、うまく言えないんですけど、ピカソの絵みたいな感じで、ここは象徴する、ここは象徴するって、本当に一つの顔をいろいろなところから見て、それを結果として立体的に音楽が構築されているという、そんな感じだと思います。

ブロムシュテット
(ディテール 全体の中の細かい部分。細部。)
経験を重ねると表現する上で、ディテールがいかに大切かわかってきます。たとえばダイナミックス、一つのフレーズの中で一番大切な音はどれか、フレーズの中でどこで強めるかどこで弱めるか、これは譜面には書かれていないこともあります。“弱音”と書かれている場合でも、すべての音を同じくらい弱くという意味ではありません。弱い中にも立てるべき音があります。でもそれは自分で見つけなければなりません。音楽そのものにある光と影、緊張と弛緩(しかん)、それが音楽を生き生きさせるのです。

(合唱の練習で)
 第9を聴きに来る人は、音楽好きもそうでない人でも何か美しいものを聴きたいと、抱きしめられる感じを味わいたいと思って来るのです。

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何よりもまず伊藤亮太郎さんと固い握手
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 毎年、暮れになるとベートーベンの第9が演奏されます。
私は演奏会に参加したことはありませんが、第9を必ず聴くようにしています。
2016年のNHK交響楽団による演奏会が12月21日に開催され、31日の夜に放送されました。紅白歌合戦とダブり録画しておいて1日にじっくりと聴きました。2回も聴きました。
 聴いていて感覚ですが「いつもの第9演奏とは違うのでは」と思いました。
何が違うのか、それは指揮者のヘルベル卜・ブロムシユテットでした。
 第9の演奏が終了したあとブロムシュテット氏は演奏した楽団員と合唱団に繰り返し握手とエールを送り続けたのです。いままでにこれほどに、演奏者を称えた指揮者はいたでしょうか。この姿に私は感動し、涙があふれてきました。

 私はヘルベルト・ブロムシュテット氏について全く知りませんでした。
第9演奏会を聴いたことで、にわかに「どういう人だろう」とネットで情報を集めました。
その結果が上記の内容で、自分一人のものにしておいてはもったいないので、ブログに掲載しました。いままで、第9の内容にまでは深く入っていなかった私ですが、ブロムシュテットの第9演奏に出会えてよかったと感謝の気持ちです。

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2016年12月25日 (日)

木村汐凪(ゆうな)ちゃんの遺骨一部みつかる 12月25日

 木村紀夫さんは、妻の深雪さん次女の汐凪(ゆうな)ちゃん(当時7歳)お父さんの王太郎(わたろう)さんの3人が東日本大震災で行へ不明になり深雪さん王太郎さんは発見されましたが汐凪ちゃんだけはみつからず、ずうっと探し続けてきました。

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 私は木村紀夫さん家族のことは忘れないできました。
今朝、テレビをつけると木村汐凪ちゃんの遺骨の一部が9日に発見され、DNA検査で本人であることが22日にわかったそうです。
 一部でもようやく見つかってよかったと思いました。ご冥福をお祈りします。

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木村紀夫さんは「全部見つかるまでやりとげたい」と決意を述べていました。

私が忘れられない木村さんの言葉があります

2011年5月半ばに東電が謝罪と補償の説明会を行いました。
その席で木村紀夫さんは
「大熊町で行方不明者が全く捜査されていません。東電で経営に携わっていた方々に、原発近くの夫沢地区の捜査にはいっていただきた。これは要望でも何でもなく我々の命令だと思って下さい。検討する余地はないと思います」

 今も依然として原発事故の原因は究明されず、避難解除が次々と強行され、被災者の生業、生活はないがしろにされており、東電と国は最後まで責任をとるよう求めます。

 

 

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2016年12月16日 (金)

古墳時代のロマンを感じた八幡山古墳石室  12月10日

行田市にある埼玉県指定史跡、古墳石室(はちまんやまこふんせきしつ)を12月10日に訪れました。快晴の素晴らしい天気に恵まれました。

clover 写真の画面をクリックすると大きくして見れます。

  八幡山古墳 前室→中室→奥室

 11時過ぎに古墳に到着し、自由に入れるようになっていて石室に入りました。前室、中室と通って奥室へ。奥室は自動探知で人が入ると照明が灯るようになっていて、人の位置で点いたり消えたりしました。

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 まず大きな天井岩に驚き、石の隙間からわずかな光がさしていました。
暗さに慣れると、周りが六角形の石で見事に積まれていて、幾何学的な美しさを感じました。この古墳が造られた7世紀前半から中頃に、このような見事な石積みの文化が栄えていたことが驚きで、すごいと思いました。
 それが私の第一印象で、古代のロマンを満喫した感じでした。

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最初に驚いたのがこの天井石の大きさでした
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位置を変えて写した写真

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奥室の中央には2枚の大きな石が置かれていました。
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2枚の石の厚さがわかります。
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奥室から中室方向を見ました。
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石の大きさがわかります。

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奥室の壁一面に幾何学的に積まれた六角形の石と細工された石に、私は古墳時代のロマンと栄えた文化に思いをめぐらせました。すごいと思いました。

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中室で
中室から奥室を見ました。

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中室から出口を見ました

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前室から奥を見る

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入口、古墳では羨道というそうですが、羨道の部分は失われているそうです。
前室のむかって左側には八幡大神、右側には仙元大菩薩と刻まれた祠がありました。


露出した石室の石積みを見て回る

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 石室の内部を見たせいで、外から見るのも何か感じがかわったような気がしました。不思議なものです。

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石室全景
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270d1f3fd  2010年5月25日に八幡山古墳を訪ね記事を書きました。
その時には石室には入れませんでしたが(公開日ではなかった)積み重ねられた石舞台の巨大さに圧倒されて帰ってきた記憶です。

 あれから6年以上経って、古墳を見るのが好きで、年に数回さきたま古墳を訪ねるのですが、心のどこかにあった八幡山古墳石室に入ってみたいという思いが、ふと湧いてきたのです。それで12月10日に訪ねました。
 なにか、前回来た時よりも公園は整備されたような気がしました。(トイレが新しかった)
公開は土・日・祝日の午前10時から午後4時までです。無人で、入り口は開けられていて自由に入れるようになっていました。入口に八幡山古墳石室についての説明書が自由に取れるように置いてありました。 私ともう一人2人がいっしょになり入りました。

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埼玉県指定史跡  八幡山古墳石室

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説明書内容を紹介します

  行田市藤原町の富士見工業団地内にある八幡山公園の一角に
  “関東の石舞台”とも呼ばれる巨大な横穴式石室を持つ八幡山古
  墳があります。
   この八幡山古墳は、今から約1400年前の古墳時代に気付かれた
  権力者のお墓です。
  この巨大な石室は、圧倒的な存在感があり、この古墳を築いた権力者
  の持っていた巨大な力を誇示しているようです。
   この古墳を築いた権力者は、いったいどのような人物だったのでしょ
  うか?どうしてここに、このような巨大な石室を持つ古墳を築いたので
  しょうか?そして、本来は古墳の中に築かれる石室が、なぜ露出してい
  るのでしょうか?
   八幡山古墳石室が物語る古代の歴史ロマンを、ぜひ石室内部に立
  ち入って、体験してみてください。

若(わか)小玉(こだま)古墳群と八幡山古墳

   八幡山古墳は、若小玉古墳群の一角に築かれた大型円墳で、石室に八幡社の石祠が置かれていることからその名が付けられたようです。
 若小玉古墳群は、現在では八幡山古墳と地蔵塚古墳の2基が県指定史跡として保存されているだけですが、発掘調査等で5世紀末頃~7世紀中頃に40基以上の古墳  が富士見工業団地付近の長野落し北側台地上に築かれていたことが判明しています。行田市内では埼玉古墳群に次ぐ規模をもつ古墳群で、埼玉古墳群を築いた権力者を補佐した権力者が築いた古墳群と考えられています。
  なお、八幡山古墳の約2km北方には国指定史跡小見真観寺古墳が、約1.6km南方には同じく国指定史跡埼玉古墳群が存在しています。

八幡山古墳石室の発見と保存
  八幡山古墳は、現在その巨大な石室が露出していますが、かつては9.5m程の高さの墳丘盛土があり、石室は墳丘の中に築かれていました。江戸時代後期には既にその存在が知られていて、『新編武蔵國風土記稿』、『増補忍名所図会』等に八幡山古墳のことが記されています。
  『増補忍名所図会』には「浅間山」と記されていて、その記述によると、当時すでに石室の一部が露出していたようです。
  昭和9年(1934)11月に八幡山古墳の約lkm南東にあった小針沼(現在の行田浄水場)の干拓事業が始まり、三方塚古墳、愛宕山古墳等当時残っていた若小玉古:・・墳群の多くの古墳が崩されて、その土が沼の埋め立てに使われました。八幡山古墳も崩されて、翌年1月までに墳丘盛土の大半が取り去られ、巨大な石室が姿を表わし  ました。その時点で事の重要性に気づいた当時の太田村村長が埼玉懸史編纂掛に調査を依頼、同年5月に発掘調査が行われました。そして昭和19年3月31日付で、石室部分が「八幡山古墳石室」として埼玉県指定史跡に指定され、保存が図られました。
 その後周辺に富士見工業団地が造成され、八幡山古墳は石室の周辺部だけが八幡山公園の一角に保存されて来ました。しかしながら風雨で石室の損傷が進んだため、  昭和52~54年に石室の復原工事が行われ、現在の姿に復原されました。

八幡山古墳と石室の概要

  八幡山古墳は、昭和10年の発掘調査以降、計4回発掘調査が行われています。その調査成果等から墳丘の直径が80mの円墳で、周溝は存在しない可能性が高いと
推測されています。                   
古墳の墳丘北側はローム台地上に築かれていますが、南側は台地から外れた後背湿地に築かれています。墳丘は占土とローム土を5~10 cmの厚さで交互に重ね、 部分的に黒色土を混ぜて硬く突き固める版築がされています。
  石室は、羨道(えんどう)、前室、中室、奥室で構成されている推定全長16.7m、奥室の横幅4.8mの巨大な横穴式石室です。現在は羨道の大部分が失われていて、現存長は約14.7mです。石室の平面形は、奥室が隅丸方形、中室が胴張り形、前室が方形をなしています。
  石室の構築法は他に例のないもので、奥室の壁は、角閃(かくせん)石(せき)安山岩(あんざんがん)と輝石(きせき)安山岩質(あんざんがんしつ)溶岩(ようがん)を用い、断面形が六角形の切石を積み上吠目の通りをさけるために断面形が台形の切石を挟み込んでいます。中、前室の側壁は中央部に緑泥片岩の板石をすえ、両面を角閃石安山岩と輝石安山岩質溶岩で断面六角形に加工して組み込み積みをしています。いずれも側壁の石積みは版築土下面まで続いています。また、各室とも両側壁から平面丁字形に板石を立て入口としています。床面は、各室とも中央部に二枚の緑泥片岩を置き、その周りを砂質凝灰岩の方形切石を各コーナーに傾斜するように敷き詰めています。床面下にも15~20cmの版築の下に角閃石安山岩の方形切石を長軸方向と中央部を横位にクロスさせ控え敷きしています。天井には厚さ40~74cmの巨大な緑泥片岩が使われています。
  副葬品は、フラスコ形の須恵器長頸(ちょうけい)壷(つぼ)、銅鋺(どうわん)、青銅製八花形棺金具、直刀片、乾漆器(かんしっき)片、夾紵(きょうちょ)棺(かん)片、漆塗(うるしぬり)木棺(もっかん)片及び銅鋲、鉄釘、銀製(ぎんせい)弓(ゆ)筈(はず)金物(かなもの)片、鉄(てつ)鏃(ぞく)、銅(どう)漆装方頭(うるしそうほうとう)把頭(えかしら)、金銅装(こんどうそう)鞘(さや)尻(じり)金具(かなぐ)が出土しています。特に漆塗木棺片は東国では他に千葉県栄町の竜角寺浅間山古墳で出土しているだけで、その他の出土例が攝津・河内・大和地方の天皇・皇子やそれに準ずる高貴な大や政治的に高位の人の墓にほぼ限られていることから注目されています。
 なお、これら副葬品の年代と石室の構造等から、八幡山古墳は7世紀前半~中頃(第2四半期頃)に築造されたと推測されています。

八幡山古墳の被葬者

  八幡山古墳石室には、榛名山麓の角閃石安山岩、荒川上流域の緑泥片岩、比企丘陵地域の砂質凝灰岩など広範囲に渡る複数の地域の石材が豊富に使用されており、八幡山古墳を築いた人物は、それら広範囲から石材を調達出来た権力者であったと考えられます。
  八幡山古墳が築かれた7世紀前半には、すでに前方後 円墳は築かれなくなっており、古墳は小型化していきます。そうした時代の中で、八幡山古墳は抜きん出た規模を誇っています。また、この頃には埼玉古墳群の築造は終わりを迎えつつあり、八幡山古墳の築造は、埼玉古墳群を築いて来た権力者一族や、小見真観寺古墳を築いた権力者に代わる強力な権力者が、若小玉古墳群を築いて来た一族から出現したことを示していると思われます。
  では、八幡山古墳を築いた権力者は、誰だったのでしようか?その有力な候補者と考えられているのが、平安時代に記された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』に登場する聖徳太子の舎人(とねり)、物部連(もののべのむら)兄(じえ)麿(まろ)です。『聖徳太子伝暦』によると物部連兄麿は、近江の膳臣清國(かしわでのおみきよしこく)と共にいつも聖徳太子の側に仕えていました。仏教を信仰する聖徳
太子の影響を受け、社会道徳を守って修行を積み、出家しない仏教信者の優(う)婆(ば)塞(そく)となりました。そして、永年の功績が認められ、舒明天皇5年(633)に武蔵(むさしの)国造(くにのみやつこ)となり、後に小仁の位を賜ったとあります。
 後世の伝記である『聖徳太子伝暦』の信憑性に疑問も持たれていますが、仏具の銅鋺、畿内の貴人が用いた漆塗木棺の出土、寺院建築の基礎固めの技法である版築の採用、石組・切石技法等他に見られない新しい技術を用いた巨大な石室の構築等、八幡山古墳は兄麿の墓にふさわしい畿内政権の中枢との深い関わりが伺える、当時の先端技術と仏教文化を取り入れて築かれた古墳なのです。

 羨道(えんどう=せんどうともよむ)とは、古墳の横穴式石室や横穴墓などの玄室と外部とを結ぶ通路部分。慣習的に「せんどう」とも呼称する。

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2016年12月13日 (火)

祖父、父から今に受け継ぐ朝鮮人殺害の歴史を聞く

 NHK ETV特集「関東大震災と朝鮮人―悲劇はなぜ起きたか」が2016年9月3日に放送されました。
 この番組のプロローグに、私が昔お世話になった高橋隆亮(たかはしたかすけ)さんが登場したので「あれ隆亮さんじゃないか」と驚きました。すぐに高橋さんとわかりました。番組は日韓関係で様々な問題がある中で、一部制約されていて不十分さを感じる点もありましたが、前向きに関東大震災での朝鮮人迫害に迫り、震災が多発する日本で二度とこうしたことを繰り返してはいけないというメッセージを発信したすばらしい内容だったと思います。
 放送を視聴してから、高橋さんを訪ねてお話も聞き、姜大興(カンデフン)さんのお墓まいりもしたいと考えました。すぐには実行できませんでしたが、10月15日、高橋隆亮さんを訪ね、懐かしくお会いもでき話も聞いて、お墓参りもすることができ充実した日となりました。
 お聞きして、私が知らないでいた、いくつもの事を知ることができました。高橋さんからお聞きしたことを記録に残すことにしました。

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 問答形式でお聞きした内容をまとめました。

Q、なぜ高橋さんのところにNHKの取材がくるようになったのですか。

A、1923年9月1日に関東大震災が発生しました。
当時、おじいさん(高橋吉三郎)は片柳村第三区染谷の区長で親父(高橋武男)は学生だった。
小学生の頃から、常泉寺(曹洞宗 瑞谷山)の家の墓のすぐそばに姜大興(カンデフン)さんの墓があり、「朝鮮人の墓だから、線香上げろ」と言われてたんだよ。(姜大興さんの命日は9月4日)
 そういうこともあって毎年9月4日に線香をあげ、追悼式をやるようになって今年で10回になる。
 NHKから日朝協会埼玉県連の関原正裕さんに取材の話が入って、「代々朝鮮人の墓に線香あげている人がいるよ。」との紹介で15年12月頃に話が回ってきた。
だんだん親父の話が出たり、おじいさんの話が出たり、そうこうしているうちに、撮影が始まったのは今年の6月頃。お盆過ぎまで放送することも全然わからなかった。日朝協会の方に放送の骨子が来てやることがわかった。
去年の夏に古い机(簿記台)の引き出しに、おじいさんが持っていた染谷の事件に関わる書面が出てきた。いまは関原正裕先生の所にいってしまっているけど。次々に出てきたんだ。
要するに、国、県、村、軍隊が全部通達出してきているわけだよね。埼玉県にもそういう文書が古文書館にあるんだよ。通達が出してあったということがわかる。だけど、受け取った側の書類なんてどこにもないんだ、93年も経ってんだから。それが出てきてしまったんだ。
吉三郎殿で来てるわけ。第三区長だから。片柳村に13の区があって染谷はその三番目。それでこういう文書が出てきて確かに来ていたということで証拠になった。それで、NHKが来るようになったわけだよ。

Q NHKはいつごろから企画していたんですか
A わかんない。なかなかできなかったみたい。

Q 1923年9月3日の夜から4日の未明、2時か3時ごろに集団的な殺害事件が起きたわけですよね

A 震災の中で姜大興(カンデフン24歳)さんは偶然に迷い込んできてこの事件になったのでは。まわりの雰囲気と社会状況の中で。
自警団作っていたから。浦和方面からきたんじゃないかという。浦和岩槻県道で東新井に来ないうちに山という所があって崖になっていて、飛び降りたときにショウガ畑とサツマ畑のつるに足とられて、捕えられてめった切りされ瀕死の状態で、生きていたんで、戸板に乗せられて医者に連れていく途中で亡くなった。即死ではなかった。

Q 裁判に訴えられましたよね。最初は不問にしようとしたんでしょう。

A 最初は逆なんだよ。不逞朝鮮人をやったんだから手柄だよ。
ほうびもらえると「おれがやりました」「おれがやりました」と、みな手柄話で警察に行ったという。ところが3日ぐらい経って殺人事件で捜査が始まったら、「おら知らねえ」「おらしらねえ」と変わった。

Q 国会でも取り上げられ問題になって国の対応が変わった

A おじいさんが区長で、みんなでやっちゃたんだから代表で若い人と経験者と5人代表作って、この人たちが中心にやったんだというのを出して、逮捕された。その後、村のためにやってもらったんだから嘆願しようじゃないかと。井戸に毒を入れたとか、流言飛語にまどわされて、やっちゃったんだから罪はないんだという意識で嘆願運動をやったんだ、おじいさんたちが。軍隊帰りの軍人が2人いて、その人たちがやったんじゃないかという話も。〇〇〇とか、△△△とか名前出てるから。「かくされていた歴史」という本があるんだ。(本を持ってくる)この中で染谷の事も取り上げられていて、作次郎さん(67歳)の証言と親父(武男)の証言が書いてある。作次郎さんはおやじより年上だからその場に加わっていたんだね。

Q 姜大興さんを墓に埋葬したのはいつなの
A わからない。推測するしかない。その年のうちに埋葬したのはたしか。

Q でもその当時としては本当によくやりましたよね

A 墓建てるのにお金もかかるしね。墓石といっしょに御影石で碑文が書いてあるのは、2004年ワールドカップが日韓合同開催された際にお寺の坊さんが自費で作った。韓国の人にすると骨がほしいんだよな。埋葬はされているが骨はない。これまでに3回、お墓の区画整理があって移ってしまっている。家の墓の前にあったのが、移動し、さらに移動し今の場所に。だから、親父に聞いたけれど、いつ建てたかまでは学生の時でわからなかった。おじいさんに聞いていればわかったかもしれないが。おじいさんは自分が高校生の時に亡くなっているから。
 9月3日の夜から追い回されて4日に亡くなっている。名前がどうしてわかったかは持ち物か何かに書いてあったんじゃないかという。
 墓石に染谷一般って書いてあるんだよな。だから染谷の人が墓建てたんだということはわかるんだけど、虐殺とか殺しちゃったということは一言も、虐殺まではいかないけれども、暴行加えてね死亡したってそういうことは書いてないんだから。死亡って書いてあるんだ。死亡じゃ病気だって死亡だって、撮影の時に、ここで、そういう話をしたんだけど、その部分は放送されたね。
 NHKが取材で繰り返し言ったのは、朝鮮の人が亡くなっていて、それを、お墓参りしたりするってことは、村の人から染谷の古き傷を掘り出してと攻撃はないのかという心配だった。
でも、おれにそういうこと言う人一人もいねえよね。
追悼式に何人かは参加するんだけれども、ずうっと参加する人いないんだよ。戦後、婦人会があって、婦人会は戦没者と朝鮮人の墓が、どうしてだかいっしょになっちゃって、春の彼岸とお盆と秋の彼岸に、なにもわからないんだけども、墓参りしていたんだよな。
 今は話しできる人いないんだよね。もう年とっちゃって。おれがおじいさんや親父から聴いた話をやってるんだけど、それだけなんだ、地元は。
 追悼式は日朝協会埼玉県連合会主催で毎年9月4日に常泉寺の本堂を借りて行われていて、今年も56人が参加した。今年は、9月4日が日曜日で「広島・長崎の火」を囲む集いと重なったため勉強会はコミセンでやった。

Q 朝鮮人殺害に焦点あてたのだからしょうがないけど、亀戸事件には全然ふれなかったよね。ちょっと残念

A そうだよ、おれ言ったんだよ。
川合義虎が殺されているし、当時の労働運動の先進的な人たち10人が殺されてるからね。それはおれ言っているんだけど、カットされたよ。
 実際はおれなんかがしゃべったことでもけっこう削られてしまっている。日朝協会が中心に調べた「かくされていた歴史」(87年に発行 関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会と日朝協会埼玉連合会が共同で発行)では埼玉で朝鮮人が240人殺されている。本庄、深谷など県北の方が激しかった。大宮は1人だった。放送では当時の司法省資料が使われ全体で231名、埼玉では94名となっている。神奈川なんか何千人って死んでるかわかんないんだそうだ。資料では神奈川では2人しか死んでいないことになっている。そんなばかな話ないっていうんだよ。
 あの放送では国の言い分はこうだけれども、民間で調べた段階で6600人とか(一番多いんだけど)、あと2500人とかいろいろ説があるんだよね。日本会議なんかはそういう数が定まらないんだから、なかったって言うわけだよね。だからそういうところは全然放送されない。

Q 放送後の反響はどうですか

A けっこうきているよ。
終わってからは、NHKには日本会議などからガンガンなんだって。激しいんだって。メール、ファックス、電話など。おれの家にも当然来るだろうと思っていたんだけど全然こないんだ。別にきたってさあ、歴史的事実のそれしかないんだから。NHKは大変だったんだろうな。
 県会議員も訪ねてきて案内と説明をしたよ。

Q プロローグで高橋さんが出てきたんで「隆亮さんじゃないか!!」って驚いたんだ

A すぐにわかった?

Q わかったよ。わからないはずないじゃない。
A お互い年とったけれどな
Q だから、10月に入っちゃったけれど、直接できるだけ早く高橋さん訪ねてね、墓にも行って説明も聞かせてもらおうと思っていたんだ。話を聞いて、さすが高橋さんだね。NHKがいろいろカットしたとしてもさ、高橋さんの短い言葉の中に思いが込められていて、ああいう事件を見過ごさないで、我々の朝鮮の人に対する加害責任や植民地支配の歴史の反省がないとだめなんだとあらためて思ったね。

A そうそう

Q 今日は本当にありがとうございました。

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姜大興の名前が刻まれている
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大正12年9月4日
空 朝 露 如 幻 禅 定 門 位
  関東地方大震災ノ節当字ニ於テ死亡
        施主 染谷  一般      と刻印

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〇 朝鮮人の犠牲者数
政府がこの事件を隠そうとしたこともあって定かな数は出されていない。
自主的・民主的学者、活動家が研究を続けている。

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《国側》
①  当時の司法省資料に記されている数は
231名  埼玉では94名となっている。
362名が起訴されている。判決は2~3年で執行猶予付き
②  内閣府の中央防災会議の朝鮮人迫害についての報告の中で朝鮮総督府が1923年6月に832名が死亡・行方不明とし1人200円の弔慰金を支給したと記している。

《「かくされていた歴史」埼玉より》
223名~240名  1973年調査 実行委員会調査
2613名   1922年12月15日の衆議院本会議で永井柳太郎議員が政府を追及した中で報告している。
 このなかで、埼玉県の合計数は551名(9ヵ所)となっている。

《独立新聞社特派員報告》 大韓民国暦5年―1923年11月28日
この報告では死亡者数が6,661人と記されている。

「かくされていた歴史」 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件
   増補保存版 1987年7月1日発行   
 関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会と日朝協会埼玉連合会が共同で発行
第一部は関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が1973年10月の編集
第二部は関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会・日朝協会埼玉県連合会が増補部分となっている。   1987年7月1日で発行された。

常泉禅寺(じょうせんぜんじ) 外の額の文字  

(注)戒厳令は1923年9月2日、地域限定で公布された。
 東京市、荏原郡(えばら)、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡

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《証言記録から》


関東大震災50周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が1973年に発行した「かくされていた歴史」の中から埼玉の事件の記載のなかから引用します。

 
 戒厳令下だから、朝鮮人を捕えれば
    勲章が貰えると思っていた
     大宮市片柳  小 泉 作次郎 六十七歳

 九月一日昼すこし前、大きな地震があり家が極度にゆれた。しかしこの地域一帯の土地がよかった為、家はダメにならずにすんだ。夜は東京方面が真赤であった。
 ニュースは停車場から人によって伝えられたが、何日頃だったか、「鮮人が火災場所に油を注ぎ火事を大きくしている」「鮮人が井戸に毒を入れている」といった話が伝えられた。私は同じ日本人がそんなことをするはずがないと疑問をもったが、これで頭にきた村の消防団員、青年団員が自警団を組織し、竹やり、オノ、ピストル、刀などを持ち出し、合い言葉、合図のピストルまで考え、万一に備える準備をした。
 そのうちに停車場の方からまた情報が入った。朝鮮人が大勢東京方面から護送されてきて、そのうち一部あぶれた者がいてそれがこっちの方にいるらしい、というのだ。みんな警戒を厳重にした。
 九月四日、午前三時か四時頃、家のすぐ西わきの方で一人の朝鮮人が発見され、ピストルで合図された。林の中に隠れようとしたらしいが、すぐ出て全力で逃げまわり、私の家へ入ろうとしたがはいらず、家の斜め、南東方向の道に全力で逃げた。しかしすぐT字路にぶつかり、どちらへ逃げようかとまよった末、元来た道を引き返そうとした時、一人の自警団に左胸を竹やりで突かれてしまった。
 この傷にもかかわらず、T字路を越えてさつまいも畑の中に入り、さらに逃げようとしたが、つるなどでうまく走れず、必死だった為だろう、片足を溝に突込み、倒れる所をもう一人の自警団の刀で腰の所を切られ動かなくなってしまった。
  村の自警団はこの朝鮮人を、岩槻に行く途中に住んでいた軍医の鈴木大尉の所へ運び、注射など応急の手当をしてもらった。そして軍医の指示で大宮警察署に運び、その指示を受けようとした。当時大宮警察署は岩槻新道にあり、その途中の通称おかま坂を登る途中で息を引きとってしまった。
 この朝鮮人は日本語がわからず、ただ〝ミズ〟といって水を求めた。負傷者に水を飲ませると死ぬことを知っていたのでどうしようかと迷ったが、死にそうなのでどうせ死ぬなら本人の希望を入れて飲ませてやろうではないかということになり、途中の石井という家から水を貰い飲ませてやった。
 墓は、事件の関係者が責任を感じ、また同情してたてたのだ。墓に被害者の名前として姜大興(カンデフン-24歳)とあるのは、持物からでもわかったのだと思うが、そのへんはよくわからない。
 当時、村の人たちはみな戒厳令下だから、朝鮮人を捕えれば金鶏勲章を貰えると思いこんでいた。


  村の者が総出でやっちゃった
     大宮市片柳  高 橋 武 男 六十六歳 (隆亮さんのお父さん)

 私が中学の四年のときでした。古いことなのでうろ覚えですけれど。
うちの村としてはずいぶん丁寧にとむらい、墓まで作ってあります。寺でも無縁仏にせずお盆の時には供養しています。
 発端は、あれはデマですね。片柳村といっていた時代で、駐在所にさえ電話がなかった当時で、いわゆる流言ヒ語ですね。どっからどうやってでてきたものですか、何かいたずらをすると言うんですね。全国的にそうだった、ということですが、とにかく無政府状態、混乱状態でね。
 片柳では一人だけでした。
どういう風な経路で逃げてきたか、まぎれ込んできたかわかりません。当時は村の者総出でやっちゃったわけなんですが、俺がやった、と名乗りでる人がいないと困るので、強制したわけしやありませんが、五人ばかり犯人をだしまして、裁判にもなりましたけれどね。その五人の人たちも今は全部亡くなっちゃいまして……。丁度私のオヤジが自治会長をやってまして、ずい分未決の時、さし入れなどして大さわぎしました。私のオヤジの同級生だった官崎ハジメさんに弁護をお願いしたりして、結局、刑が確定したのは、懲役三年、執行猶予二年か三年ついたと思います。
 とにかく私ども中学の上級生は大宮の駅に出て乗客の整理をしました。中で特に困っていたのは女工さんで、ほとんど東北方面から来まして自分の行き先がわからないんです。東北線で帰るものやら、高崎線で帰るものやらわからないで行先をきいて、区分けして汽車に乗せてやったんです。窓からおし込んでやってね。
 中学も九月十七、八日まで臨時休校で授業になんなかったです。それで下級生は大宮小学校の庭で女子青年団や女学生たちと一緒に玄米のたきだしをしたんです。それを駅までもっていくのに、みんな中仙道で徒歩でくだってくる避難民に横取りされちゃうんで、一、二年生は竹ん棒もってね、護衛です。駅まで。
 村には自警団も出来まして、私の方の部落に入ってきちゃいけないというんで、辻々、要所要所に、丁度軍隊の歩哨のような形で自警団の本部をおいて、それで何時間交代と、軍隊式にやりました。誰に教わったわけじゃないんですけど自然にそうなりました。四、五ヵ所肝心の所をおさえておいて、村に入って来る者を検問したわけですね。
 朝鮮人はそこでつかまったわけじゃないんです。どっから来たんですか、浦和か北浦和加、野となく山となく逃げて来たんですね。片柳の字染谷という所で、常泉寺の真裏あたり約二百米北で、朝鮮人をおそっちゃったんです。ですけど絶命したわけじゃないんで、切傷や突き傷が多くて、戸板へ乗せて病院に収容しようとして大宮に持っていったんです。それで今の開成高校のあがった所に坂がありますけど、あの坂をおりた所あたりで息をひきとったと聞いています。
 槍ももち出すし、刀をもち出した入もいるし、棍棒から竹槍をもち出したり、それは色々でしたよ。まあ、めちゃくちゃだったですね。とにかく傷が多くって、出血多量で死んだわけでしょうね。
 やったあとで、大変なことになっちゃいました。それは大変でしたね。それで私がやりましたと名乗り出た五人の人達がいたんですが、そういう人達をくどきおとして犠牲者にして、村全休が協議でもやって、お前たち、まあごくろうだけど背負ってくれないかと、そうし向けたんじゃないかとうたがわれまして、警察あたりが、うちのオヤジが当時の区長をやってましたんで、夜なんか家のまわりを刑事がまわってあるいたようなことを聞きましたね。五人は別に役付じゃなかったんです。若い者が二人、中年の人が三人でしたね。ほかにもやった人が沢山あるんだと思うんですけどね。だれがどうやったか見当つきません。朝鮮人だとどうしてわかったのか、私にはわかりませんね。

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