世界に誇れる憲法9条を生かしたい   7月17日

六 戦争の放棄

みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

 もう一つは、よその國と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぽすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

(あたらしい憲法のはなし六項から引用)

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happy02 「あたらしい憲法のはなし」は、
憲法が公布されてから10ヶ月後の1947年8月に文部省によって発行され、全国の中学生が1年生の教科書として学んだものです。
 しかし、この教科書は2~3年使われただけでした。1950年朝鮮戦争、1952年安保条約が結ばれ、警察予備隊が生れ自衛隊に変わってゆく時代の流れの中で、教室から姿をけしていってしまったのです。

bud 崇高な常備軍を持たないという理想実現に向けての呼びかけで、読み返すと感動します。
これだけすばらしい憲法を持っているのだから、それが実現しない限り、時間がかかるかもしれないけれど、諦めずに憲法を生かすために努力するのが私たちの責任だと思うのです。これが私の憲法と第9条に対する基本姿勢です。

angry 残念なことに、60年以上も続いた自民党政治のもとで、自衛隊が存在する中で、“自衛隊なしに日本の安全は守れない”という考えが広められました。
 国民が“自衛隊をなくしてもいいよ”という気持ちになるには、それだけの時間と手続きが必要になっています。ですから私は国民の合意で自衛隊をなくしていくことが必要と訴えたのです。
しかし、今回の大洗の自衛隊派遣は異常であり、こうしたことは見過ごしてはならないと考え申し入れをしました。

happy02 そこまで行き着くまでの時期に、大規模災害など、必要にせまられた場合には、国民の生命と安全を守るために自衛隊を活用するのは当然だと考えます。3.11東日本大震災で自衛隊はそうした役割を果たしたと思います。
消防や、警察も組織をあげて、その任務を全うするために全力を尽くしました。
 私が考えたのは、自衛隊をなくしていく過程で、地震災害が多い日本では特別の「災害救助隊」のようなものに変えていける可能性もあるのではないだろうかということです。これはみんなで考えて決めていけばいいのではないでしょうか。

angry 私の申し入れのブログに何通かの批判の書き込みがされました。
そのほとんどが、誹謗、中傷のマナーに欠けた物でしたので削除し、名前の書いてあるものは掲載しました。

 

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2018年9月22日 (土)

今、考える 「復帰措置に関する建議書」  9月22日

復帰措置に関する建議書  琉球政府  1971年11月

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屋良朝苗氏 琉球政府公選主席、沖縄県知事2期

           
一、  は じ め に

 沖縄の祖国復帰はいよいよ目前に迫りました。その復帰への過程も、具体的には佐藤・ニクソン共同声明に始まり、返還協定調印を経て、今やその承認と関係法案の制定のため開かれている第67臨時国会、いわゆる沖縄国会の山場を迎えております。この国会は沖縄県民の命運を決定し、ひいてはわが国の将来を方向付けようとする重大な意義をもち、すでに国会においてはこの問題についてはげしい論戦が展開されています。
 あの悲惨な戦争の結果、自らの意思に反し、本土から行政的に分離されながらも、一途に本土への復帰を求め続けてきた沖縄百万県民は、この国会の成り行きを重大な関心をもって見守っております。顧みますと沖縄はその長い歴史の上でさまざまの運命を辿ってきました。戦前の平和の島沖縄は、その地理的へき地性とそれに加うるに沖縄に対する国民的な正しい理解の欠如等が重なり、終始政治的にも経済的にも恵まれない不利な下での生活を余儀なくされてきました。その上に戦争による時酷の儀牲、十数万の尊い人命の損失、貴重なる文化遺産の壊滅、続く26年の苦渋に充ちた試練、思えば長い苦しい茨の道程でありました。これはまさに国民的十字架を一身にになって、国の敗戦の悲劇か象徴する姿ともいえましょう。その間大小さまざまの被害、公害や数限りのない痛ましい悲劇や事故に見舞われつつそしてあれにもこれにも消え去ることのできない多くの禍根を残したまま復帰の歴史的転換期に突入しているのであります。

 この重大な時機にあたり、私は復帰の主人公たる沖縄百万県艮を代表し、本土政府ならびに国会に対し、県民の卒直な意思をつたえ、県民の心底から志向する復帰の実現を期しての県民の訴えをいたします。もちろん私はここまでにいたる佐藤総理はじめ関係首脳の熱意とご努力はこれを多とし、深甚なる敬意を表するものであります。

 さて、アメリカは戦後二十六年もの長い間沖縄に施政権を行使してきました。その間にアメリカは沖縄に極東の自由諸国の防衛という美名の下に、排他的かつ恣意的に膨大な基地を建設してきました。基地の中に沖縄があるという表現が実感であります。百万の県民は小さい島で、基地や核兵器や毒ガスに囲まれて生活してきました。それのみでなく、異民族による軍事優先政策の下で、政治的諸権利がいちじるしく制限され、基本的人権すら侵害されてきたことは枚挙にいとまありません。県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法の下で基本的人権の保障を熱望していたからに外なりません。経済面からみても、、平和経済の発展は大幅に立ちおくれ、沖縄の県民所得も本土の約六割であります。その他、このように基地あるがゆえに起こるさまざまの被害公害や、取り返しのつかない多くの悲劇等を経験している県民は、復帰に当たっては、やはり従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島として復帰を強く望んでおります。
 また、アメリカが施政権を行使したことによってつくり出した基地は、それを生み出した施政権が返還されるときには、完全でないまでもある程度の整理なり縮小なりの処理をして返すべきではないかと思います。
 そのような観点から復帰を考えたとき、このたびの返還協定は基地を固定化するものであり、県民の意志が十分に取り入れられていないとして、大半の県民は協定に不満を表明しております。まず基地の機能についてみるに、段階的に解消を求める声と全面撤去を主張する声は基地反対の世論と見てよく、これら二つを合せるとおそらく八〇%以上の高率となります。

 次に自衛隊の沖縄配備については、絶対多数が反対を表明しております。自衛隊の配備反対と言う世論は、やはり前述のように基地の島としての復帰を望まず、あくまでも基地のない平和の島としての復帰を強く望んでいることを示すものであります。
 去る大戦において悲惨な目にあった県民は、世界の絶対平和を希求し、戦争につながる一切のものを否定しております。そのよう憲県民感情からすると、基地に対する強い反対かあることは極めて当然であります。しかるに、沖縄の復帰は基地の現状を堅持し、さらに、自衛隊の配備が前提となっているとのことであります。これは県民意志と大きくくい違い、国益の名においてしわ寄せされる沖縄基地の実態であります。

 さて、極東の情勢は近来非常な変化を来たしつつあります。世界の歴史の一大転換期を迎えていると言えましよう。近隣の超大国中華人民共和国が国連に加盟することになりました。アメリカと中国との接近も伝えられております。わが国も中国との国交樹立の声が高まりつつあります。好むと好まぬにかかわらず世界の歴史はその方向に大きく波打って動きつつあります。
 このような情勢の中で沖縄返還は実現されようとしているのであります。したがつて、この返還は大きく胎動しつつあるアジア、否、世界中の潮流にブレーキになるような形のものであってはならないと思います。そのためには、沖縄基地の態様や自衛隊の配備については慎重再考の要があります。

 次に、核抜き本土並み返還についてであります。この問題については度重なる国会の場で非常に頻繁に論議されておりますか、それにもかかわらず、県民の大半が、これを素直には納得せず、疑惑と不安をもっております。
 核抜きについて最近米国首脳が復帰時には核兵器は撤去されていると証言しております。ところが、私どもはかつて毒ガスが撤去された経緯を知っております。
 毒ガスでさえ、撤去されると公表されてから、ニケ年以上も時日を要しております。毒ガスよりさらに難物と推定される未知の核兵器が現存するとすれば、果して後いくばくもない復帰時点までに撤去され得るでありましようか。
 疑惑と不安の解消は困難であるが、実際撤去されるとして、その事実はいかにして検証するか依然として不明のまま問題は残ります。
 ざらにまた、核基地が撤去されたとしても、返還後も沖縄における米軍基地の規模、機能、密度は本土とはとうてい比較忙ならないと言うことであります。
 復帰後も現在の想定では沖縄における米軍基地密度は本土の基地密度の百五十倍以上になります。なるほど、日米安保条約とそれに伴う地位協定が沖縄にも適用されるとは言え、より重要なことは、そうした形式の問題より、実質的な基地の内容であります。そうすると基地の整理縮小かあるいはその今後の態様の展望がはっきり示されない限りは本土並基地と言っても説得力をもち得るものではありません。前述の通り県民の絶対多数は基地に反対していることによってもそのことは明らかであります。

 次に安保と沖縄基地についての世論では安保が沖縄の安全にとって役立つと言うより、危険だとする評価が圧倒的に高いのであります。この点についても、安保の堅持を前提とする復帰構想と多数の県民意志とはかみ合っておりません。県民はもともと基地に反対しております。
 ところで安保は沖縄基地を「要石」として必要とするということであります。反対している基地を必要とする安保には必然的に反対せざるを得ないのであり。
 次に、基地維持のために行なわれんとする公用地の強制収用五ヶ年問の期聞にいたっては、これは県民の立場からは承服できるものではありません。沖縄だけに本土と異なる特別立法をして、県民の意志に反して五ヶ年という長期にわたる土地の収用を強行する姿勢は、県民にとっては酷な措置であります。再考を促すものであります。

 次に、復帰後のくらしについては、苦しくなるのではないかとの不安を訴えている者が世論では大半を占めております。さらにドルショックでその不安は急増しております。くらしに対する不安の解消なくしては復帰に伴って県民福祉の保障は不可能であります。生活不安の解消のためには基地経済から脱却し、この沖縄の地に今よりは安定し、今よりは豊かに、さらに希望のもてる新生沖繩を築きあげていかねばなりません。言うところの新生沖繩はその地域開発と言うも、経済開発と言うも、ただ単に経済次元の開発だけではたく、県民の真の福祉を至上の価値とし目的としてそれを創造し達成していく開発でなければなりません。従来の沖縄は余りにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用され過ぎてきました。復帰という歴史の一大転換期にあたって、このような地位からも沖縄は脱却していかなければなりません。したがって政府におかれても、国会におかれてもそのような次元から沖縄問題をとらえて、返還協定や関連諸法案を慎重に検討していただくよう要請するものであります。

 さて、沖哺県民は過去の苦難に充ちた歴史と貴重な体験から復帰にあたっては、まず何よりも県民の福祉を最優先に考える基本原則に立って、(1)地方自治権の確立、(2)反戦平和の理念をつらぬく、(3)基本的人権の確立、(4)県民本位の経済開発等を骨組とする新生沖繩の像を描いております。このようなことが結局は健全な国家をつくり出す原動力になると県民は固く信じているからであります。さらにまた復帰に当って返還軍用土地問題の取扱い、請求権の処理等は復帰処理事項の最も困難にしてかつ重要な課題であります。これらの解決についてもはっきりした責任態勢を確立しておく必要があります。

 ところで、日米共同声明に基礎をおく沖縄の返還協定、そして沖縄の復帰準備として閣議決定されている復帰対策要綱の一部、国内関連法案等には前記のような県民の要求が十分反映されていない憾みがあります。そこで私は、沖縄問題の重大な段階において、将来の歴史に悔を残さないため、また歴史の証言者として、沖縄県民の要求や考え方等をここに集約し、県民を代表し、あえて建議するもめであります。政府ならびに国会はこの沖縄県民の最終的な建議に検挙に耳を傾けて、県民の中にある不満、不安、疑惑、意見、要求等を十分にくみ取ってもらいたいと思います。そして県民の立場に立って慎重に審議をつくし、論議を重ね民意に応えて晨大最善の努力を払っていただき、党派的立場をこえて、たがいに重大なる責任をもち合って、真に沖鮪県民の心に思いをいたし、県民はじめ大方の国民が納得してもらえる結論を導き出して復帰を実現させてもらうよう、ここに強く要請いたします。


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《参考に》

「復帰措置に関する建議書」

沖縄公文書館所蔵

「復帰措置に関する建議書」の全文デジタルデータがダウンロードできるようになりました。
以下のタイトルをクリックすると、PDFのデータをダウンロードすることができます。
「復帰措置に関する建議書」の全文デジタルデータがダウンロードできるようになりました。
以下のタイトルをクリックすると、PDFのデータをダウンロードすることができます。
復帰措置に関する建議書
1(はじめに)(PDF 5.5 MB)
2(基本的要求)(PDF 21.0 MB)
3(具体的要求)(PDF 16.6 MB)
また、当館で公開を進めている「屋良朝苗日誌」もご利用ください。
【目次】
1.はじめに
2.基本的要求
(1)返還協定について
(2)沖縄基地と自衛隊配備問題について
(3)沖縄開発と開発三法案について
(4)裁判の効力について
(5)厚生、労働問題について
(6)教育・文化について
(7)税制、財政、金融について
3.具体的要求
(1)沖縄復帰に伴う対米請求権処理の特別措置等に関する暫定法の立法要請(要綱)
(2)沖縄振興開発特別措置法案に対する要請
(3)沖縄開発庁設置法案に対する要請
(4)沖縄振興開発金融公庫法案に対する要請
(5)沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律案に対する要請
(6)沖縄の復帰に伴う関係法令の改廃に関する法律案に対する要請
【資料解説】
 「復帰措置に関する建議書」は、本土復帰に際して沖縄県の声を日本土政府と返還協定批准国会(沖縄国会)に手渡すために作成された建議書です。当館では、その複製版が所蔵されています。
同建議書(約五万五千字)の作成を担当した琉球政府の復帰措置総点検プロジェクトチーム(本部長:副主席の宮里松正)は、県民各層の声に照らして過去二十六年間における諸問題を総点検し、返還協定をはじめ復帰関連国内法案を総括して①政府の行う対策の眼目は県民福祉を第一義とすべきこと②明治以来、自治が否定された過去を省みて地方自治は特に尊重されなければならないこと③第二次大戦で大きな犠牲を蒙り、異民族支配化の基地にがんじがらめにされた沖縄では、何よりも戦争を否定し、平和を希求することが優先されること④平和憲法下の人権の回復⑤県民主体の経済開発―の五つを柱に最終的な訴えの内容を盛り込みました。
 「非常に難事業だった。ぼう大な資料の中から、これまでの要請書や調整文書を取り出して法案といちいち照合、検討し、チームの審議とさらに県民会議の審議にかけて文章化したので時間はいくらあっても足りなかった」(『激動八年 ―屋良朝苗回想録―』p.179)と、屋良氏が述懐している通り、建議書作成は容易な作業ではありませんでした。
 同建議書の完成後、屋良主席は、1971年11月17日、これを持って上京しました。しかしながら、屋良主席の上京の前に、沖縄返還協定は衆院返還協定特別委で自民党により強行採決されてしまいました。東京・赤坂のホテルに着いた屋良主席は、その採決を知らぬまま、報道陣から「ついさきほど返還協定が衆院沖縄返還協定特別委員会で強行採決された。コメントを」と言われました。まさに青天の霹靂でした。屋良氏は、この時のことについて、「呆然自失、なにをいってよいかわからず、コメントを断ってホテルの部屋に逃げ込んだ」(『屋良朝苗回顧録』p.212)と、回想しています。
 その後、沖縄返還協定は11月24日衆院本会議で自民党の賛成多数によって可決され、12月22日には、参院本会議でも可決されました。また、復帰関連国内法案も、通常国会で三十日、自民党の単独採決で可決、成立しました。
屋良氏は、復帰については次のように特別の思いを持っていました。「軍事占領支配からの脱却、憲法で保障される日本国民としての諸権利の回復、そして沖縄県民としての自主主体性の確立、これらが私たち県民にとって、全面復帰のもっている内容です。もっと簡単明瞭にいいますと、”人間性の回復”を願望しているのです。きわめて当然な願望であり要求です」(『沖縄はだまっていられない』p.68)。それゆえに、11月17日の強行採決に対して屋良主席がいかに無念の思いをしたかは想像に難くありません。

<主な参照文献>
屋良朝苗1977年『屋良朝苗回顧録』朝日新聞社
屋良朝苗1985年『激動八年 ―屋良朝苗回想録―』沖縄タイムス社
屋良朝苗1969年『沖縄はだまっていられない』株式会社エール出版社
屋良朝苗1972年『沖縄 今この時』株式会社あゆみ出版社
2012年10月26日朝刊『琉球新報』(見出し:「一条の光 ―「屋良朝苗日記」に見る復帰―」)
【資料コード】
R00001217B(当館所蔵の紙資料の資料コード)
【文書の作成者】
琉球政府
【文書の作成時期】  1971年11月


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筆者からの一言

 「辺野古に新基地は造らせない」と日本政府と身を削って対峙してきた翁長雄志知事が急逝されて、いま激しく沖縄知事選がたたかわれています。オール沖縄の玉城デニーさんが翁長雄志知事の遺志を受け継ぎ、自らのアイデンティティ―を明らかにし、県民と共に誇りある平和な豊かな沖縄を造っていきましょうと訴え続けています。玉城デニーさんの訴えは心を強く打つものがあります。こういう人こそ沖縄の知事にふさわしいと思います。必ず勝利したいと思います。

 こうした時期に、「前衛」10月号で「琉球・沖縄から見た『明治150年』 ―― 「琉球処分」から続く自己決定権回復への願い」 西里喜行(にしざと・きこう)(琉球大学名誉教授)さんの小論を読みました。
 私の頭の隅には「琉球処分」という言葉はいつもありましたが、その内容についてほとんど勉強できておらず、不十分なままで、‶これは良い小論をみつけた〟と読みました。「琉球処分」の歴史的流れを把握することができ、納得できる内容に感謝しています。
 この中で、沖縄復帰をめぐって、1971年11月に主席公選制で主席になった屋良朝苗さん率いる琉球政府が日本政府に「復帰措置に関する建議書」を提出しようと上京しましたが、国会で返還協定が強行され、建議書を提出する機会が失われ幻の建議書となったというのです。
 そういうことを知らなかった私には驚きでした。
屋良朝苗主席が誕生した時期に、私の知人は誕生した二人の娘に「朝」「苗」と命名した人もいました。
 「復帰措置に関する建議書」は沖縄公文書館に所蔵されていて閲覧できるようになっていました。
 屋良朝苗主席のはじめにという文書を読んで、現在、「オール沖縄」が目指している方向の源流がこの「建議書」の中にあるように感じてなりませんでした。
 これは、知事選は最終盤になっていますが、一人でも多くの人に知ってほしいと掲載することにしました。

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2018年4月15日 (日)

火垂るの墓 で 高畑勲監督を追悼  4月13日

高畑勲監督追悼  火垂るの墓 放送
日本テレビ 金曜ロードSHOW 2018年4月13日

 高畑勲映画監督が4月5日に亡くなられました。
スタジオジブリでの高畑勲さん宮崎駿さん鈴木敏夫さんの活動に関心を持ってきました。憲法についても真摯な論議と発言がされてきました。
 私は高畑勲監督の映画を映画館でみたことはなくテレビでみているだけですが、訃報の報道にすごく悲しい残念な気持ちになりました。
 日本テレビで高畑勲監督の追悼番組が組まれたことを知り、火垂るの墓(ほたるのはか)を初めてみました。

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 プロローグで
「昭和20年9月21日夜、ぼくは死んだ」=清太(14歳)
とのはじまりに驚きでした。「え、戦争が終わってから少年が死んだの」と。そして、駅構内とおもわれる場所に横たわった少年の亡骸に清太少年が入り込んで行くように私には思えました。

「戦争孤児の姿だ」と思いました。日本では政府が戦争責任をあいまいにしたまま、戦争孤児がどれだけいたのかさえ真剣に調べていませんが、わかった限りでも12万3千人を超える戦争孤児がいるのです。「戦争孤児は国から捨てられた」これがまぎれもない事実だと思います。
 駅員が清太少年が息絶えていることを確かめ所持品を調べ、ふところからドロップの缶を取り出し草むらに投げ出しました。缶のフタがあき、白いものがこぼれだしました(映画の最後の方で亡くなった妹、節子(4歳)の遺骨であることがわかります)。兄妹の思い出の中での大切なドロップと蛍の群れが舞い映画が展開されました。
 息をのむ圧巻で私は涙が溢れてとまりませんでした。

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Ghibli

 高畑監督は近年、「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言するようになっていたそうです。
神奈川新聞(15年1月1日付)のインタビューで、高畑監督は「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」 「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」
 「『戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う』とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」
 15年7月、東京都武蔵野市にて行われた講演会で高畑監督は「政府が戦争のできる国にしようというときに“ズルズル体質”があったら、ズルズルといっちゃう。戦争のできる国になったとたんに、戦争をしないでいいのに、つい、しちゃったりするんです」「日本は島国で、みんな仲良くやっていきたい。『空気を読み』ながら。そういう人間たちはですね、国が戦争に向かい始めたら、『もう勝ってもらうしかないじゃないか!』となるんです。わかりますか? 負けちゃったら大変ですよ。敗戦国としてひどい目にあう。だから『前は勝てっこないなんて言っていたけれど、もう勝ってもらうしかない』となるんです」とも話していました。

今回の追悼番組の中で高畑勲監督は映画演出で目指したものとして次のように述べていました。
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「作るものが結局現実的なものが多いんで、しかも現実で生きていることの延長に映画もあるし映画の延長に現実もあると思っている。風が吹いたとしたら、現実で吹いている風が、そのまま作品の中にバーと吹き込んできても、おかしくないようなつもりで作っているんで、そういうものを調べたりすることは、大事だと思っていますね」


 happy02 私の憲法9条に対する思い  高畑勲

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2018年1月28日 (日)

沖縄の人たちを踏みにじった 松本副大臣の許しがたい暴言

〝それで何人死んだんだよ〟 
サンデーモーニングが冒頭で大きく報道

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 28日のサンデーモーニングの冒頭から志位和夫委員長の代表質問の映像なので驚きでした。
松本文明内閣府副大臣の野次発言は沖縄県民の思いを踏みにじるもので許されませんがサンモニが詳しく報道したことはメディアとしての姿を示したと思いました。

「憲法改正、働き方改革など重要な課題が審議されるこの国会なんですが幕開け早々、またも問題発言が飛び出しました」 と橋谷能理子さん。

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1月25日(木)衆議院で日本共産党の志位和夫委員長が代表質問で沖縄の基地問題を取り上げましたが、質問の最中に自民党の松本文明内閣府副大臣が〝それで何人死んだんだよ〟と野次を飛ばしました。

 しんぶん赤旗記者が松本文明氏に確認。本人も認め、26日付のしんぶん赤旗でその事が伝えられました。
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 26日(金)共産党の小池書記局長が記者会見で「死者が出なかったから良かったようなそう受け取られる発言をすることは、これは沖縄県民の感情を逆なでする重大な発言」と抗議。

 同じ26日(金)官邸を訪れた松本文明内閣府副大臣は辞表を提出し受理されました。

番組の中で

谷口真由美さん
大阪国際大学准教授は

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「許しがたいのは、今回の内閣副大臣の、やめられましたけど〝何人死んだんだ〟発言ですよね。死なないと検討しないというか考えもしないということなのか、許しがたい発言でこの方もともと沖縄・北方副大臣やってたんですよね。その時にこんな意識でやっていたのかと思うとこういう方が私たちのリーダーだと思うだけで、国会にそういう人ばかりとは思いたくないですけど、沖縄の事なんだと思っているんだとすごく腹が立って。その上、たぶん会見で「誤解を招く発言をした。ご迷惑をかけた。だから総理に辞表を提出した」って言ったんですよね。違いますよ、沖縄の人たちを踏みにじっていたからですよということが全くわかってらっしゃらない。自民党に迷惑をかけた、ひいては多分名護市長選挙に影響が出るからってことでしょう。選挙だけですかということを本当に腹が立ってしかたがないというのが今回の1週間でした」と事の本質を突いていました。

名護市長選が今日告示されることも番組で紹介されました。

佐高 信
経済評論家

「誤解をまねく」というのが一番腹がたちますよね。誤解のしょうがないだろうという感じ。

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2018年1月 7日 (日)

国民が望んでいない憲法9条改憲発議は許さない

NHK 日曜討論 2018年政治はどう動く
2018年1月7日

 
2018年新春に各党首に聞く、討論会が行われ、日本共産党志位和夫委員長の憲法めぐっての論議を紹介します。

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《問い 島田敏男解説員》

 衆議院では与党、憲法改正に前向きの勢力を合わせますと8割近く。今後の議論共産党はどういう姿勢で臨みます。


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《答え 志位和夫委員長》
 
 国会の中では改憲派が多数ですけれども国民の中ではどうかと。この前、日本世論調査会が世論調査やっていますが、9条改憲に反対という方が53%、急ぐべきでないという方が67%なんですね。ですから急いでいるのは安倍さん一人で国民が望んでいないものを安倍さんの都合で期限を決めて押し付けることは許されないというこの一致点をしっかり作っていく。9条改憲の発議は許さない、この一点で揺るぎない国民的多数派を作って安倍さんの側が恐ろしくて発議できないという状況をつくる。今、3000万署名に取りくんでいますが是非これをやり切りたいと思っています。

《問い 島田敏男解説員》

 安倍総理が提起した9条に自衛隊の存在を明記する。安倍さんはただそれだけであって、9条の平和主義の精神はかわらないんですと、こうおっしゃるんですが、志位さんどうみます。

《答え 志位和夫委員長》

 そうなりませんね。法律の世界では後からつくった法律は前の法律に優先するというのが一般原則とされています。ですから仮にですね、9条2項残したとしても、後から自衛隊を明記する項目を作りますとこっちが優先して2項が死んでしまうと。9条を9条たらしめている一番の命は2項です。これがあったために一人の外国人も殺さず、一人の戦死者も出してこなかった。これを取り払ってしまう、あるいは死文化してしまうということになりますとね、無制限の海外での武力行使が可能になりますから、絶対これは反対ということでがんばりたいと思います。

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2017年11月 2日 (木)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ⑤

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2017年11月 1日 (水)

「赤狩り」の時代を劇的に生きたダルトン・トランボ

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NHK、BS歴史館 シリーズ ハリウッド100年(1)「ローマの休日」〝赤狩り〟の嵐の中で ―〝赤狩り〟と闘った男たちの知られざる物語 ― が2011年5月20日に放送され、私はその番組を視聴して衝撃を受けました。
 映画「ローマの休日」を見て「おもしろいな」とは思いましたが、それ以上ではありませんでした。その後、NHKで映画「ローマの休日」を見る機会があり、これまでとは全く違って(真面目に)視聴しました。またトランボが監督した映画「ジョニーは戦場へ行った」も見ました。
  それ以来、ダルトン・トランボとはどういう人?と関心を持ってきました。
 今年になって、ダルトン・トランボのことが映画化されたことを知り、映画の原本になった伝記「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を購入し、約3ヵ月かけて第1回目を読み切りました。

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 この本は451㌻の長い本で、すらすらと読み進められる本ではありませんでした。トランボの伝記で、歴史的時間の経過も前後して出てきて私にはわかりにくい面もありました。
 この本でトランボの生活を通じてアメリカ文化と庶民生活の一端も知ることがでました。そして、なによりもトランボの人間性について包み隠さずに触れられていてすばらしいと思いました。妻と長男、長女、次女と5人の生涯しっかり結びついた姿も読んでいて何度笑ってしまったかしれません。ダルトン・トランボという人はすばらしい能力を持った人で、その力が、脚本家、作家、監督として社会の不正義に立ち向かわせる大きな力になったのではないでしょうか。今を生きる者として示唆に富んだ名言をたくさん遺していて味わい深く読むことができました。

 私が印象深く読んだヶ所はたくさんありましたが、その中からいくつかのヶ所を紹介させていただきます。

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pen この記録は私が本を読んで列記したものです。

まえがき   この本との出会い  ジヨン・マクナマラ
                      2015年6月

  2008年の春、WGA(全米脚本家組合)のストライキが終わろうとしていた。アメリカのテレビ番組や映画の脚本家たちが、雇用主である大手スタジオを相手に戦った五か月にわたるストライキで、業界は疲弊していた。
 多くの同業者たちと同じように、私も失望と満足を味わい、そして仕事がないという現実的な問題を抱えていた。
私はこれまでの人生のほとんどを、テレビ番組の脚本執筆と制作に費やしてきた。そのほとんどが1時間もののドラマだ。私は仕事を求めて、友人や面識のない人、さらには敵とまで、手あたり次第に会う約束をした。仕事探しのためには、プライドなんていっていられない。
 ケヴィン・ケリー・ブラウンは長年の友人だ。腕利きのテレビ・プロデューサーとこだわり屋の私は、その日、私の仕事部屋で企画を考えていた。私か脚本を書き、ふたりでテレビシリーズの制作ができないかと相談していたのだ。話し合いは楽しかったものの、この日は何の収穫もなさそうだった。
 ケヴィッを外まで送ろうと、本棚の前を通り過ぎたとき、ケヴィンが一冊の本に目を留めた。
 「彼を知っているよ」ケヴィッはそう言って、太い書体でタイトルが印刷された本に手を伸ばした。1977年刊行の『ダルトン・トランボ』の初版ハードカバーだった。
 「ダルトン・トランボを知っているのか」
 「いや」と言って、彼は本を開いた。「ブルース・クックだよ。すごいやつさ。数年前に亡くなったんだ」彼は写真のページをパラパラとめくった。「ダルトン・トランボつて誰だい?」
 私の説明はおよそ15分かかった。その間もケヴィンはただ耳を傾け、トランボの人生が劇的な展開に差しかかると、そのたびに「まさか!」や「嘘だろ!」という言葉を差し挟んだ。何か面白い話を聞かせるのなら、・・・・

トランボとはいったい何者?  

 ブラックリストの時代が終わってからというもの、まさにそうした、気まずく、うしろめたい、ときにこそこそした鉢合わせがあちこちで起きた。パーティーでは何も知らない陽気な女主人が、裏切られた人を裏切り者に引き合わせた。エージェントは敵同士を同じ映画で組ませた。街角や郵便局で顔を合わせる可能性はもちろんのこと、ときには失業手当を受ける列でばったり出くわすこともあったかもしれない。

 私はずっと考え続けてきた。ブラックリストという苦難を乗り越え、マッカーシーの時代にハリウッドに踏みとどまり、映画の闇市場でかろうじて生計を立ててきた男-そんな男は、今すべてを振り返ってどのように感じているのだろうかと。苦々しく思っているのだろうか。できることなら復讐したいと思っているのだろうか。こうした疑問が私を必然的にダルトン・トランボヘと導いてきた。

ブラックリストとその影響についての記事を調べるうちに、数年前、初めてトランボと出会ったのだ。そのとき彼の魅力に取りつかれたといえば大げさに聞こえるだろうが、ある意味それは間違っていない。下手をすれば、この先私が語ろうとしている話の客観性を疑われる恐れもある。しかし、トランボの本質を伝える言葉として、やはりこのままにしておきたい。彼には超人的な何かがあるのだ。肉体的なことではなく ― 背丈はつま先立ちになっても170センチそこそこだ ― 人間としての本質に関わることだ(トランボについて語られ言葉で最も核心に迫っているのは、かつてインタビューをした女性ジャーナリストの「きわめて魅惑的な個性の持ち主」という表現ではないだろうか。もちろん性的な魅力という意味ではない)。トランボが何者で、どんな功績があるのかを知らない人でも感じずにはいられない、ある種のカリスマ性があるのだ。

 ではトラッボとはいったい何者で、何を成し遂げたのだろう? もちろん、作家であることは間違いない。だが、その文学性を語るうえで難しいのが、どんな作家なのかという点である。小説家だろうか? トラッボは四つの小説(さらに未完の小説がひとつ没後に出版されている)を書いている。そのひとつ『ジョニーは戦場へ行った』は1930年代のアメリカの小説の中でも最高傑作に挙げられる。残り三つの完成作のうち、ふたつはたいした出来ではなく、残りひとつはこの国で出版されてもいない。では劇作家としてはどうだろう? トランボが書いた唯一の戯曲、『町一番の大泥棒』はロンドンで連続公演されるほどの素晴らしい出来ではあるが、劇作家として評価されるほどの作品ではない。では、映画の脚本家としてはどうか? もちろん、この分野では大成功を収めている。アメリカ映画界において、おそらく誰よりも長いキャリアを持ち、休むことなく作品を生み出してきた。駆け出しのころには、クリストファー・モーリーの小説を映画化した『恋愛手帖』で、アカデミー賞にもノミネートされている。1947年にブラックリスト入りしたときには、すでにハリウッド一高いギャラを稼ぐ脚本家だった。ブラックリストの時代でさえ、いわゆる闇市場で仕事を続け、安いギャラで脚本を書き続けた。それでも、質を落とすことはなく、それどころか、闇市場時代の脚本のひとつである『黒い牡牛』は、偽名ではあるものの、アカデミー原案賞(この賞は1957年に廃止されている)を受賞している。トランボはブラックリストを破った男だった。1947年から1960年の間、何百人という脚本家や監督、プロデューサー、俳優たちが、映画界での仕事の機会を奪われていたが、その中で最初にスクリーンに名前を復活させた。その作品が『栄光への脱出』(1960年)で、この年の最高傑作に挙げられている。
(注 小山-1960年には「スパルタカス」にもトランボの名前がクレジットされた。「スパルタカス」の脚本契約は1959年5月に行われ、偽名のサム・ジャクソンを使ったりしている。監督はスタンリー・キューブリック。「栄光への脱出」の脚本は1959年12月に書くことになり、監督のオットー・プレミンジャーは1960年1月19日、トランボに電話で「君の名前が今晩の『ニューヨーク・タイムズ』の第一面に載るぞ。君を『栄光への脱出』の脚本家だと公表した」と伝えた。)

 その後は、必ずしも芸術性の高い作品ばかりではないものの、もっぱら大作のみを手がけ、高額のギャラを得ている。
 ところで、映画の脚本家は、他の作家とどこが違うのだろう? 最高の脚本家であっても、できるのは映画についての全体像を監督に提供することだけだ。トランボでさえ、脚本を職人仕事だととらえていた。そうなると、非凡な才能を持ち、数々の場面で真の芸術的才能を発揮してきた、この有能で多作な作家をどう評価すべきか、という問題が残る。それも、その生涯において、芸術的功績として挙げられるのはひとつの小説とほんの一握りの脚本しかないのだ。
 トランボはこのような未来を思い描いていたわけではない。1920年代や1930年代の他の若手作家たちのように、最初は小説家を目指していた。脚本の世界に足を踏み入れはしたが、一時的な仕事のつもりだった。ロサンゼルスといううってつけの場所にいなかったら、果たして映画業界に入り込んでいただろうか。おそらくそうではなかっただろう。しかし、映画の脚本を書くのをやめてフィクションに専念するかにみえたとき、歴史が邪魔をした。望むと望まざるとにかかわらず、タルトン・トラッボは政治にのめり込んでいった。率直に言って、トランボはそう望んでいたのだと思う。小説家として名を上げることに劣らず、政治の表舞台に立つことにも魅力を感じていたのだろう。一度は舞台に上って、その役を堂々と演じたのだから、政治の才能があったことは明らかだ。彼の経歴をたどれば、その芽はすでに高校時代にあったことがわかる。もともと闘争的で、議論に長けていた。共和党員、民主党員といった昔ながらの看板を掲げ、一般的なやり方で政治活動を始めていれば、おそらく大成功していただろう。
 しかし、トラッボは急速な社会変革を求める急進主義者だった。若いころに身をもって貧しさを味わってからというもの、その点は一貫している。コロラドから出てきたばかりの20代のころは、漠然とした大衆主義者だったが、その前途は個人的な経験によって変えられた。大恐慌が深刻化したころ、トラッボは映画の仕事にありつき、個人的な経済状況は好転する。しかし、撮影所のすぐ外で貧しさにあえぐ人々を見て見ないふりをするような、近視眼的な考え方に至ることはなかった。たしかにチャンスをほしいままにし、「ハリウッドを味わって」はいたが、自分が何者か、そして何者だったかを決して忘れはしなかった。迫りくる戦争の影にも心を乱された。そして戦争が始まったとき、限られた選択肢の中から、共産党員になる道を選んだのである。

 ハリウッドでは、脚本家、監督、俳優、そしてわずかながらプロデューサーまで、一世代がまるごと、トランボのようにどこまでも左に傾いていった。プールつきの豪邸に住んでいたことから、不名誉なことに、後に「スイミングプール・コミュニスト」と呼ばれた彼らは裕福だった。それは映画界で最も才能ある人々が含まれていたからで、ハリウッドでの評価はドル記号や数字で示されたからだ。注目すべきなのは、彼らの多くが急進主義者だったことではなく、その圧倒的多数が、そして後にブラックリスト入りする何百人という人々が、仲間を密告するよりも、進んでプールを手放したことだ。自分が手にしているものをそのまま持ち続けるほうがたやすかったはずだ。HUACが求めたのは数人の名前、そして善意と協力の意思表示だけだった。しかし、実際に協力した人はごくわずかで、公正を期すためにいえば、それも自分の持っているものを守りたいという自分勝手な欲望のためではなかった。HUACに密告した人の数だけ、理由の数もあるのだ。しかし、協力を拒み、自尊心以外のすべてを失った大たちにとって、正当だと認めることができたのは、道徳上の理由だけだった。

 協力を拒んだひとり、マイケル・ウィルソンと話すため、私は海岸沿いに車を走らせた。映画業界で最も優れた脚本家にしてアカデミー賞受賞者、大作を手がけ、失われた脚本の救世主でもあるウィルソンは、トランボと同列に語ることのできる数少ない作家のひとりだ。1951年9月20日、HUACの前に〝非友好的な〟証人として姿を現したウィルソンは、現在共産党員か、あるいは以前に共産党員だったことがあるかと尋ねられると、憲法修正第五条を盾に、自らの不利益になるとして答えを拒んだ。その後の長い年月、ウィルソンはトランボと同じように闇市場で仕事をすることによって生き延び、成功さえしている。また、トランボと同じように、ブラックリストの時代に偽名で脚本を書いた映画がアカデミー脚色賞を受賞している。ウィルソンはタフで逆境に強く、道徳的な立場を最後まで守り抜くことのできる力と知性を持ち合わせていた。


アメリカ共産党に 入 党

  1943年の12月後半、トランボは共産党に加わった。なぜ、どのような経過で人党したのだろう。まず、このころは戦時下にあったことを思い出してほしい。アメリカとソ連は同盟関係にあった。
アール・ブラウダーの指揮のもと、当時の共産党はアメリカと戦争を強く支持する路線を歩んでいた。カンザス生まれで、ロシア人の妻を持つブラウダーは、人種問題や労働紛争などに関する党の従来の姿勢を、時代の趨勢に合わせて軟化させ、マルクス主義をもっと広く受け入れられるものにしようとした。これはある程度成功し、トランボが入党したおよそ六か月後の1944年5月には、党員数は8万人という最高記録に達している。そして翌1945年には、地方選挙で多少の成功も収め、ニューヨーク市では共産党公認のふたりの候補者が市議会議員に当選している。ブラウダーは党名までも改め、共産主義政治協会とした。
 これが背景である ― 弁明ではない。トランボは共産党員になったことについてなんら弁明しなかった。かつては、そのことについて意見を交わすよりも刑務所へ行くことを選んだかもしれないが、この日、書斎に座ったトランボは、どんなことでも喜んで話したいといった様子だった。これまでのインタビューでは私かあまりにも慎重になり過ぎて、トランボには物足りなく感じたのかもしれない。ここ数日、まるでそれがふたりの間の暗黙のルールであるかのように、私はトランボが共産党員だったことについて尋ねることを何度となく避けてきた。煮えきらない態度といわれるかもしれない。だが、私の側には気まずさしかなかった。そんな折、トランボは自らその話題を取り上げたのだ。
 「さて」と彼は切り出した。「まだ話していないこと、それも絶対に話しておかなければならないことがひとつ残っているんだが」
 私は咳払いをしてから尋ねた。「というと?」
 「共産党員だったことだ」
 「そう。あなたは戦時中に入党したんですよね」
 「1943年だ」
「戦争などの影響が大きかったのですか」
 「いや、あまりないね。知っての通り、共産党員だとか、共産党員を自認する友人たちと一緒に仕事をしてきたんだよ。SWG(映画脚本家組合)が姿を変えつつあった1936年のころからね。ハリウッドの労働組織 ― 職能別組合や、特にリーダー組合など ― で、俺はかなり精力的に動いていたんだが、その仲間には共産党員もそうでない者もいた。リーダー組合は結成に至るまでは、もちろん秘密だったが、ホーリーリッジ大通りにあった俺の家で結成が発表された。結婚する少し前に、母と暮らしていた家だ。そこで基調講演者として挨拶したのがダシール・ハメットだった。俺もリーダーだったし、リーダー組合の結成を支援していたから、嬉しく思ったよ。この通り、こうしたひとつひとつの活動に関わってきたし、親友の幾人かは共産党員だった。誰かに無理に党に引き入れられたわけじゃない。そんな必要はなかった。彼らを信頼し、尊敬し、好きになっていたからね。それから戦争が始まり、戦争中は共産党員とも共産党員以外とも一緒に仕事をしたが、やがて自分が本心を偽っていると感じるようになったんだ。
 誰かの受け売りだと思われたくないが、共産党に対する反発が強まって、ハリウッドでMPAPAI(アメリカの理想を守るための映画同盟)が作られたこともあり、何か困った事態になるだろうという確信が強まった。もしそんな事態になるなら、共産党の一員になりたいと思ったんだ。長い間、友情の美味しいところだけ味わって、その代償を払わずに逃げるなんてできなかった。おかしな話だと思うかもしれないが、俺はまったくそう思わなかった。これが動機のひとつだ。あれが友人たちでなければ、入党はしていなかっただろう。公開集会に誘われたとき、それが何を意味するか十分承知したうえで参加した。そこで誰かに「入党しませんか?」と誘われたとき、俺は「入党すると決めていなければここには来なかったさ」と答えた。こうして党員になった。俺にとってはそんなに重大なことではなかった。自分の考えや人生ががらりと変わるわけでもなかった。党員証も持っていたよ。シャツのポケットに入れていたんだが、そのシャツを母の家に置いて帰ってしまってね。牧場で暮らしていたころは、母のところに洗濯物を置いていたから。党員証はシャツのポケットに入れたままで、それ以来見ていない。そんなわけで、共産党員になったことに特に深い意味はないんだ。一生忘れられないほどの出来事というわけでもない。結婚とは違って、正確な年も日付も思い出せない。実際、何も変わらなかったし、もう10年早く入党していてもよかったくらいだ。だが、入党を後悔したことはない。いや、入党しなければ後悔していただろう。それは俺にとって生きることそのもので、歴史上の重要な時期、今世紀で最も重要な時期、最も壊滅的な時期の一部になることだった」
 こう語る彼の口ぶりに、いつもの冗談めいたところはまったくなかった。単刀直入に、そしてざっくばらんに事実関係をはっきりさせた。「共産党にはどんな人たちがいたのですか」と私は尋ねた。
 「いいかい、1935年から1945年の間に、共産党に関わった人は100万人近くいるんだよ」トランボは言った。「知識人で何らかの影響を受けたのはごくわずかだが、その中にはすごくいい人たちがいた。1940年代以降、ありとあらゆる誹謗中傷が共産党に向けられたが、どれとして党にいる人たちについて正確に言い当てたものではなかった。党には利己主義なやつもヒステリーなやつもいたが、それはどこにでもあることだ。ただ、彼らが共産党員になったのは、人気取りのためじゃない。金儲けができるからでもない。党員であることがわかれば、職を失うことは重々わかっていた。共産党員になるのに利己的な理由なんてないんだ。革命が起こって努力が報われると期待したからでもない。俺の知るかぎり、共産党員の中にアメリカで革命が起こるなんて期待していたやつなんてひとりもいなかった。遠い将来でもなければね。そんな見返りはなかった。FBTI(連邦捜査局)に監視されるだろうということもわかっていた。パーマー・レイド(20世紀初頭に行われた左翼狩り)で出来上がったパターン通りに、騒ぎが始まった瞬間、最初に刑務所に行くことになるのは自分たちだとわかっていたのさ」
 「なるほど、ではどうして彼らは入党したんですか」私は尋ねた。
 「そうだな、ほとんどが人道的な理由だったと思う。大恐慌とアメリカ経済の崩壊が始まった時期、失業者は1400万人にもなり、それが瞬く間に世界中に広がった。そして世界では、ドイツやスペイン、イタリアでファシズムが台頭し、1940年代にはついに戦争が勃発して五千万人から一億人という人たちが死んだ。あちこちに地獄の炎が上がった。広島や長崎だけじゃなく、アウシュビッツやトレブリンカの強制収容所でも。そんな時代に、よりよい世界を作りたいと望むのは、決して狂気の沙汰ではない。それこそ、入党した人たちのほとんどが求めていたものだと思う」

 離 党

 上訴請求の手続きが長引くにつれて、ハリウッド・テンと弁護士たちは、この問題を世間に知ってもらい、支持を集めるべきだという思いを強めていた。1948年には、大きな支持を勝ち取ることができそうにみえた。この年、進歩党(セオドア・ローズベルトが結成した革新党でブル・ムース党とも呼ばれる)のヘンリー・A・ウォレスが大統領選に出馬したのだ。ウォレスの選挙運動へのトランボの関わりは最小限のものだった。トランボは一、二度演説をし、ウォレスを支持する手紙を書き、それがハリウッド・テンの他のメンバーの声明とともに選挙チラシに転載された。ハリウッド・テンの信念をヘンリー・A・ウォレスの信念と重ねるための ― そして、ウォレスの信念をハリウッド・テンの信念に重ねるための ― 努力がなされた。
ウォレスが大敗したときには、ハリウッド・テンも支持者たちもがっかりしたに違いない。
 そして、1948年はトランボが共産党を離党した年でもある。「レイジーTで暮らしていると、町へ行くにも車で85マイル走らなければならなかったし、ハリウッド・テンなどの問題などで、忙しかったんだ。それで、ただ何となく疎遠になってしまってね。信条を変えたわけじゃない。集まりに行くのをやめ、もう戻らなかった。共産党に入る前と同じくらいの距離を置くようになった」
 その翌年の1949年には、ハリウッド・テンの間にさらに失望が広がった。最高裁の裁判官、フランク・マーフィーとウィレイ・B・ラトリッジが続けざまにこの世を去り、議会侮辱罪についての上訴が審理される確率は、55パーセントから37パーセントに下がったのだ。何か手を打つ必要があった。そこでトランボは「ヒキガエルの時代」と題した政治パンフレットを書いた。強い党派心に基づいてはいるものの、そこにはこの件の論点がかなり明快に考察されている。
 トランボは「ヒキガエルの時代(この奇妙なタイトルはアルソレッド・ドレフェス=1894年にフランスで起きた冤罪事件でスパイ容疑をかけられた)のためにエミール・ゾラが書いた公開状の中で使われている修辞的な言い回しからとっている)」の前半で、HUACの前で議会侮辱罪の出廷命令が下されるまでの経緯を説明し、後半では、ハリウッド・テンの件で提起されたもっと大きな問題について詳細に論じている。この問題が、当時高まりつつあった冷戦の兆候が国内に現れたものだとする見方を示したのは、トランボが初めてだったかもしれない。「わが国の外交政策は反ソ連の立場をとっている。そして国内の問題においては社会主義や共産主義的性格を持つあらゆるものに反対している。こうした対立が、わが国の存在の根本要素となっているのだ」ここで焦点をあてているのは、やがて最も熱心に冷戦主義を打ち出すことになる反共産主義の猛者、ニュー・リベラリズムであり、最大の標的はアーサー・M・シュレジンジヤー・ジュニアだった。彼はすでに公開討論会で、現在もしくは過去に共産党員であった大学教員の学問の自由を、原則として否定するという見解を明らかにしていた(のちに『サタデー・レビュー・オブ・リテラチャー』に掲載された「共産党の世界」という記事の中で、ハリウッド・テンを正面から攻撃したシュレジンジャーは、仇敵となった。トランボはこの男を憎んでいたといってもいい過ぎではないだろう)。
 トランボは「ヒキガエルの時代」の中で、ハリウッド・テンの苦難を、HUACの前で10人が
とった態度の核心にある言論の自由と知的自由に突きつけられた脅威と結びつけ、警鐘を鳴らそうとした。ハリウッド・テンは、上訴請求期間中に国民の支持を得ようと、表立った活動を繰り広げた。全国を巡って演説し、大会や会合に姿を現し、「ヒキガエルの時代」を何度も読み上げた。カーネギー・ホールで行われたハリウッド・テンのための集会には、大勢の人が詰めがけ、トランボはそこで演説をした。


HUAC(下院非米活動委員会)
1947年10月28日のトランボの陳述から

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 ローソンに次いで、非協力的で、〝非友好的な〟証人として登場したのが、ダルトン・トランボだった。彼が証人台に立つたのは、1947年10月28日午前10時半で、ローソンが委員会室で起こした大騒動のちょうど一日後だった。J・パーネル・トーマス委員長の敵意に迎えられたトランボはそれに劣らぬ敵意で応酬した。
 まず、トランボが用意してきた冒頭陳述書を読み上げる許可を巡る前哨戦が始まった。トーマスは陳述書に目を通し、他のメンバーと協議した後、陳述書は「取り調べに関係」ないとして拒否した。
 驚いたことに、次に得点を上げたのはトランボだった。結局のところ、それが唯一の得点となるのだが。以下で「ストリップリンク氏」としているのは、HUACの調査官であるロバート・ストリップリングである。

  ストリップリング氏‥トランボ君、これからする質問に対し、すべて〝イエス〟か〝ノー〟で答えてほしい。答えた後で説明を加えたければ、HUACはそれに同意するだろう。しかし、聴聞会を円滑に進めるために、それぞれの質問には演説なしで回答しなければならない。
  トラッボ氏‥わかりました。あなたの役目は質問をすることで、私の役目は答えることです。     
  私がそうしたいと思ったときには〝イエス〟か〝ノー〟で答えます。そうでなければ、自分の
  言葉で答えます。たくさんの質問〝イエス〟か〝ノー〟で答えるのはばかか奴隷だけですから。
  委員長‥〝イエス〟か〝ノー〟で答える必要はないという点に同意する。
  トランボ氏・・ありがとうございます。

 トラッボが自分の書いた20本の脚本を調書に記載してほしいと求めたのはそのときだった。これはかなり突飛な発言に思えるかもしれないが、決してそうではなかった。J・パーネル・トーマスが聴聞会を開いたのは、ハリウッド映画-そして特に、〝非友好的な〟証人が手がけた映画―には共産党のプロパガンダ(HUACによってまだ証明されていなかったが)が盛り込まれているという罪を実証するためだと思われていたからだ。トランボの脚本も攻撃の的となっていた。これに抗弁するには、作品を見せる以外に方法はない。しかし、委員長は「脚本が長過ぎる」としてこの要求を却下した。
さらに、トランボが調書に残すために、戦時中の陸軍航空隊の最高責任者、H・A・アーノルド元帥など、(HUAC側から見ても)疑う余地のない有力者による自分の作品への賛辞を読み上げようとすると、それも阻まれた。
 ふたりは続いて、トランボがSWG(映画脚本家組合)のメンバーかという問題を巡って衝突した―これも単純な質問だが、トランボからすれば、言葉通りの単純な問題ではなかった。トーマス委員長が、その年の初めに情報収集のためにロサンゼルスを訪れた際、SWGは「共産党員だらけ」だと報道陣の前で話していたからだ。トーマスがこれを信じているとすれば、この話がどこに向かうかはトランボにもはっきりとわかった。

  トランボ氏・・委員長、この質問は特定の目的を意図したものです。まず―
  委員長(小槌を叩きながら)・・君は―
  トランボ氏・・第一には、私をSWGだと特定するため、第二には私を共産党と特定し、そ  れを理由にSWGを壊滅させようと―

 ふたりがこの点について言い争った後、ロバート・ストリップリングはトランボに決定打を浴びせた。「共産党員か、あるいは共産党員だったことがあるか?」トランボはこの質問にも答えなかった。
議論は、HUACの調査官が報道陣に公表した〝タルト・T〟の名で作られた〝共産党登録証〟に及び、トランボがそれを見ることが認められるかどうかを巡る口論へと発展した。それはトランボに開示されず、その数分後に証拠として提出された。証人席から連れ出される前に、トランボはHUACと委員長に向かって怒りを露わにしている。

  トランボ氏・・これはアメリカの ―
  委員長(小槌を叩きながら)・・ここまでとする ―
  トランボ氏・・制収容所の始まりだ。
  委員長 ・・典型的な共産主義者のやり方だ。

 「SWGのメンバーか?」と「共産党員か、あるいは共産党員だったことがあるか?」のふたつの質問に答えるのを拒んだトランボに対し、証言のすぐ後に、その場にいたHUACのメンバーによって「アメリカ合衆国下院の侮辱罪」が採決された。(SWG -映画脚本家組合)


WGAから功労賞を授与 そのスピーチで論争に 

 『ジョニーは戦場へ行った』の制作に乗り出そうとしていた時期の、1970年3月13日、トランボはWGA(全米脚本家組合)から功労賞を贈られた。「長年にわたって映画の脚本を発展させ、脚本家という職業に多大な貢献をした組合員」に毎年贈られる賞である。WGAが意図した通り、これは歴史的出来事となった。この年の功労賞は和解の証であり、あるいはそれ以上に、WGAがブラックリストに載せて不当に扱った多くの脚本家たちのうちのひとりに許しを請う象徴的出来事だった。ブラックリストはWGAが始めたわけではなかったが、進んで全面的な協力をしてきたのだ。この協力がなければ、ブラックリストは存在しなかったかもしれない。
 トランボはこの瞬闘のあらゆる微妙な意味合いや雰囲気を感じていた。このような状況では、賞を受け取る覚悟を決めて出席しただけでも十分だったろう。しかし、彼はそれだけではなく、その夜、その場に自分が出席することで生じる倫理的問題について触れるつもりだった。WGAの組合員を非難するつもりはなかった。そこにいる組合員の半分以上は、事実を深く心に刻むにはあまりに若過ぎた。そのことがわかっていたため、短い受賞スピーチの中で、トランボは彼らに向かって直接こう訴えた。

 「おそらく、組合員の半数以上は、ブラックリストの時代が始まった当時、まだ子どもだったか、生まれていなかったため、そのことを記憶していないのではないかと思います。そうした人たちのために、話しておきたいことがあります。ブラックリストの時代は悪の時代であり、どちらの側にいても、あの時代を生き抜いた人たちはみな、悪の影響を被ったのです。個人の力ではどうにもならない状況の中で、みなそれぞれ、自分の人間性、必要性、信念、個々の事情に従って対応せざるを得ませんでした。どちらの側にも、誠実と不誠実、正直と不正直、勇気と臆病、利己主義と日和見主義、知恵と愚かさ、そして善と悪があったのです。巻き込まれた人々のほとんどは、どんな立場にあっても、自分自身や行いの中にこのような正反対の要素を併せ持っていたのです。
 私は常々、40代やそれより若い世代の君たちは、あの暗黒の時代を振り返るべきだと思って  いるのですが、そうした場合に、悪漢やヒーロー、聖人や悪魔を探しても、何の役にも立ちませ  ん。そんなものはいないからです。いるのは犠牲者だけです。味わった苦しみの大きさは人それ  ぞれ違います。得をした人も損をした人もいるでしょう。しかし、最終的には、私たちはみんな  犠牲者なのです。ほとんどの人が例外なく、言いたくないことを言い、やりたくないことをやり、  意に反して傷を負わせたり負わされたりせざるを得なかったわけですから。だから、右派だろう  と左派だろうと中立だろうと、長い悪夢から目覚めた私たちの誰もが、罪の意識にさいなまれて  いるのです。」

 その場にふさわしいスピーチだった。ふさわしいどころか、雄弁で潔く、寛大なスピーチだった。
まさに司祭の力を与えられ、司祭として罪を許したのだ。
 しかし、寛大過ぎると感じる人もいた。トランボにとってかなり身近な人でさえもそう感じた。功労賞の夕食会の日はたまたま、トランボ夫妻の32回目の結婚記念日でもあった。トランボ夫妻の長年の友人である、弁護士のオーブリー・フィンとポーリーン・フィンも、この夕食会に出席していた。
「あのとき初めて聞いたんだよ」とフィンは言った。「彼が何を話すつもりか前もって知らされていなかった。帰りの車の中でクレオがそのスピーチに対して不満を漏らした。あまりにも寛大過ぎると感じたのだろう」
 そして、最初のハリウッド・テンの数人を含め、トランボが言ったことに異論を唱えた人たちもいた。レスター・コールもそのひとりだ。「トランボの『いるのは犠牲者だけ』というスピーチには賛成できなかった。あれは本当にショックだったよ。俺に言わせれば、フォードがニクソンを許すようなものだ」
 アルヴァ・ペッシーもこう語る。「そうだな、おれは悪漢もヒーローもいたと思っている。トランボも以前はそう考えていたと思うんだがね。悪漢はいた。そしてヒーローがいたとすれば、トランボはそのひとりだ」
 アルバート・マルツは、特にトランボの功労賞スピーチに対して、頑として手厳しい反対意見を述べている。不思議なことに、ふたりは数ブロック離れたところに住み、かなり親しい間柄であったが、二年以上もの間、マルツはこの件に関してトランボに自分の思いを明らかにしていない。そして、『ニューヨーク・タイムズ』のビクター・ナバスキーに語ることで、初めてこのスピーチに対する批判を公にしている。ナバスキーはこれをブラックリストに関する記事にまとめ、その記事はのちに『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された。一部ではあるが、マルツの言葉を紹介しよう。

  「最近、ダルトン・トランボによって、ブラックリストの時代を経験した人はみな、同じよう
  に犠牲者だという命題が初めて表明された。これは実にばかげた解釈であり、混乱を招くような道徳観を示している。
   極端な例を挙げれば、友人をゲシュタポの拷問部屋送りにした、フランスの地下組織の密告者も、同じように犠牲者ということになり、人生には善も悪もなくなってしまう……。
 〔トランボは〕自分がブラックリストに載っていたころも、「ヒキガエルの時代」という素晴
 らしい政治パンフレットを書いたときも、公私のいずれにおいても、この信条を掲げてはいな
かった。いったいどうしたら「ヒキガエルの時代」の再発行と同時に、「犠牲者しかいない」
という信条を表明することができるのか、私には理解できない。おそらく、これは私やその他仲間たちに向けた言葉ではないのだろう。しかし、これだけは述べておきたい。「みんな犠牲者」という彼の倫理観は、協力しなければ罰が下されるという状況下で、HUAC(下院非米活動委員会)に協力した人々すべてに熱狂的に受け入れられたのだ」

 ナバスキーはマルツのこの発言内容をトランボに見せて、コメントを求めた。トランボはかなり穏やかな意見を述べ、功労賞の際のスピーチで「誰もが……同じように犠牲者だ」とは言っていないとすら指摘しなかった。トランボはナバスキーに、マルツと公の場では議論したくないと伝えている。
しかし、ふたりの間で個人的な争いが起こるのを止めることはできなかった。ふたりの言葉を引用した記事が掲載されるずっと前から、マルツとトランボとの間では、怒りと激しい個人攻撃の手紙がやりとりされていた。
 マルツはトランボが見解を変えたことを、(実際にそうは言っていないが)敵に寝返ったとほのめかし、激しく非難している。また、少なくとも、トランボは彼らの裏切り行為を諸手を挙げて正当化したと指摘している。トランボも一歩も引かなかった。
「この国では、殺人犯や強姦犯であっても、更生して立派な市民になることができるという人道的な理論に立ち、しかるべき期間の罰を与えた後に社会復帰させている。そんな国にあって、私は25年前の憎しみの炎を煽り立てるつもりはない」
 これに対しマルツは、トランボが敵に手を差し伸べ、安心感を与えたと詳細に論じ、激しく応酬している。HUACの前で目分たちがとった態度は、トランボ自身が「ヒキガエルの時代」で論じたように、基本的に憲法に則ったもので、自分たちは修正第一条を救うために刑務所へ行ったのだと訴えた。また、ブラックリストの時代にはヒーローも悪漢もいたと主張している。刑務所に行った10人はヒーローで、密告者は悪漢だったと。しかし、トランボはこれを受け入れようとはしなかった。

 「私たちの一番の目的は密告者にならないことだった。私たちは憲法を盾に密告を拒んだことを擁護し、正当化した。その盾が必要だったから、そのために戦った。血を流すことを恐れずに、自らの意思で憲法の擁護に立ち上がっていれば、私たちの行為はもっと大胆で、気高いものになっていただろう……。自分たちが正しい側で名誉ある振る舞いをしたというだけで十分ではないか。それは当時受けた称賛、そして今再び受けている称賛に値するものだ。だからといって、私たちの行いが本質的に英雄的というわけではない……。
  ハリウッド・テンが英雄でなかったなら、いったい何だったのか? まさに、あの瞬間、あの
 状況で(必ずしも他のすべての瞬間や状況でそうだったとは限らないが)名誉ある行動を選んだ10人の男たちだ。激しい反発を受けながらも、人生のあの場面から今日に至るまで名誉を守る勇気があった男たちだ」

密告した人たちについても、トランボは断固とした態度で、そしてさらに雄弁に語っている。

 「罰を与えると脅されて証言を命じられた60人ほどがそれに屈した。つまり、密告者となった。
 彼らが密告者になることを望んでいたという証拠はほとんどないが、密告を嫌がっていたことを示す証拠はたくさんある。彼らはやむにやまれずそうしたのだ。恐怖(まったく根拠はない)と大きな圧力に耐えかねての行動だったのだと……。
 その誤りが何であれ、60人あまりの不本意な証人たちは、ふつうの良識ある人々なのに証言を迫られたのだ。それは永久に消すことのできない行いであり、違法であり、許すことはできないと私たちは力説してきた。彼らは圧力に屈し、情報提供者になった。証言を求められさえしなければ、密告することはなかっただろう。彼らは私たちと同じように、どんな人間にも強いるべきではない苦難の犠牲者であり、それを強いたHUACの犠牲者なのだ。歴史と悪漢の定義が正しく書き換えられるまで、彼らを悪漢と呼ぶことはできない。
  彼らが悪漢でなかったのなら、いったい何だったのか? まさに、あの瞬間、あの状況で(必ずしも他のすべての瞬間や状況でそうだったとは限らないが)名誉を捨てて密告者となることを選んだ人たちだ。それはもういいではないか。彼らは密告したという事実を抱えて20年以上生きてきたのだ。そしてもっと恐ろしいことに、その子どもたちも親が密告したという事実を抱えて生きてきたのだ」

 ここで長々と引用した手紙は41㌻にも及ぶ。しかし、それでもやりとりは終わらなかった。
どちらも前の手紙よりさらに辛辣な手紙を書いた。ついにトランボが手紙のやりとりを打ち切り ― 彼の最後の手紙は1973年2月9日付けになっている ― 『パピヨン』の残りの重要な撮影のために、ジャマイカへ向かった。

gawk トランボの偽名 
ドクター・ジョン・アボット
ロバート・リッチ  「黒い牝牛」でこの名前を使った
サム・ジャクソン  「スパルタカス」で

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《用語解説》

ハリウッド・テン
ブラックリストに載り、HUACによる聴聞会で証言を拒否したり、召喚に応じないことによって、議会侮辱罪で有罪判決を受けたハリウッドの映画関係者10人を指す。

アルヴア・ベッシー(脚本家)
ハーバート・ビーパーマン(映画監督・脚本家)
レスター・コール(脚本家)
エドワード・ドミトリク(映画監督)
リング・ラードナー・ジュニア(ジャーナリスト・脚本家)
ジョン・ハワード・ローソン(作家・脚本家)
アルバート・マルツ(作家・脚本家)
サミュエル・オーニッツ(脚本家)
エイドリアン・スコット(脚本家・プロデューサー)
ダルトン・トランボ(脚本家・映画監督)

赤狩り(マッカーシズム)
冷戦下の1940年代後半から1950年代前半にかけてのアメリカで、国家が国内・政府内の共産党や共産主義に関わりのある者を社会の中心から一掃しようとした動き。共和党上院議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーが煽動し、追及の中心となったことからマッカーシズムと呼ばれる。スパイ容疑や共産党との関連の疑いのある者を十分な証拠がないまま、喚問し追及した。追及は政治家、政府関係者、芸術家、そしてハリウッドの映画関係者にまで及び、嫌疑をかけられた人々の多くが仕事と社会的地位を失った。

HUAC(下院非米活動委員会)
冷戦の時代、国内の非アメリカ的な共産主義運動を監視し、ファシストを摘発する目的で1938年に米下院に発足した特別委員会。
赤狩りの中心的な舞台となり、形を変え存続し、1975年に廃止された。当時大統領であったトルーマンはのちに、委員会自体が「もっとも非米的であった」と回想した。

ブラックリスト
マッカーシーを中心に作成された共産主義者、あるいはその支持者と疑われる人々の取り調べを行う目的で作成された名簿。ハリウッドがその標的とされ、ハリウッド・ブラックリストと呼ばれる。映画監督、脚本家、俳優など共産主義に関わりがあるとされた者たちはみなブラックリストに載せられた。

修正第1条・修正第5条
米国憲法修正第1条は、政教分離の原則や信教・表現の自由を定め、言論の自由を保証している。修正第5条は、条文中で「何人も、刑事事件において、自己に不利な証人になることを強制されない。何人も、法の適正な手続によらずに、生命、自由または財産を奪われない」と黙秘権を認めている。HUACに嫌疑をかけられた人々はこれらを盾に争った。

修正1条(1791年)
連邦議会は、国教の樹立に関し、自由な宗教活動を禁止し、言論または出版の自由、平和的に集会し、苦情の救済を求めて政府に請願する人民の権利を縮減する法律を制定してはならない。

修正5条(1791年)
何人も、大陪審の告発または起訴によらなければ死刑を科される罪または懲役刑の科される破廉恥罪について責を負わされない。ただし、陸海軍内で生じた事件及び戦争または公共の危害に際して現に軍務についている民兵内で生じた事件は、この限りではない。何人も、同一の犯罪について生命または身体を2度の危険にさらされない。何人も、刑事事件において自己に不利な証人となることを強制されない。何人も、法のデュー・プロセスによらずして生命、自由もしくは財産を剥奪されない。何人も、正当な補償なしに私的財産を公共の用のために収用されない。

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一石投じたダルビッシュの冷静さ   鼓動より

米大リーグ機構のマンフレッド・コミッショナー

「この困難な状況の中で、彼(ダルビッシュ投手)の考えは模範となるほど素晴らしかった。・・・中でも特筆するべき点は、このネガティブな出来事を人々が学び、深く理解するための機会にしたいという意見だ」

bleah しんぶん赤旗の〝鼓動〟が10月31日付で伝え、11月1日付け「おはようニュース問答」で
さらに解説しています。これを読むと、なにかさわやかな気持ちになります。

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2017年10月30日 (月)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ④

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2017年10月29日 (日)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ③

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2017年10月28日 (土)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ②

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