世界に誇れる憲法9条を生かしたい   7月17日

六 戦争の放棄

みなさんの中には、こんどの戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

 もう一つは、よその國と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぽすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。

(あたらしい憲法のはなし六項から引用)

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happy02 「あたらしい憲法のはなし」は、
憲法が公布されてから10ヶ月後の1947年8月に文部省によって発行され、全国の中学生が1年生の教科書として学んだものです。
 しかし、この教科書は2~3年使われただけでした。1950年朝鮮戦争、1952年安保条約が結ばれ、警察予備隊が生れ自衛隊に変わってゆく時代の流れの中で、教室から姿をけしていってしまったのです。

bud 崇高な常備軍を持たないという理想実現に向けての呼びかけで、読み返すと感動します。
これだけすばらしい憲法を持っているのだから、それが実現しない限り、時間がかかるかもしれないけれど、諦めずに憲法を生かすために努力するのが私たちの責任だと思うのです。これが私の憲法と第9条に対する基本姿勢です。

angry 残念なことに、60年以上も続いた自民党政治のもとで、自衛隊が存在する中で、“自衛隊なしに日本の安全は守れない”という考えが広められました。
 国民が“自衛隊をなくしてもいいよ”という気持ちになるには、それだけの時間と手続きが必要になっています。ですから私は国民の合意で自衛隊をなくしていくことが必要と訴えたのです。
しかし、今回の大洗の自衛隊派遣は異常であり、こうしたことは見過ごしてはならないと考え申し入れをしました。

happy02 そこまで行き着くまでの時期に、大規模災害など、必要にせまられた場合には、国民の生命と安全を守るために自衛隊を活用するのは当然だと考えます。3.11東日本大震災で自衛隊はそうした役割を果たしたと思います。
消防や、警察も組織をあげて、その任務を全うするために全力を尽くしました。
 私が考えたのは、自衛隊をなくしていく過程で、地震災害が多い日本では特別の「災害救助隊」のようなものに変えていける可能性もあるのではないだろうかということです。これはみんなで考えて決めていけばいいのではないでしょうか。

angry 私の申し入れのブログに何通かの批判の書き込みがされました。
そのほとんどが、誹謗、中傷のマナーに欠けた物でしたので削除し、名前の書いてあるものは掲載しました。

 

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2017年11月 2日 (木)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ⑤

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2017年11月 1日 (水)

「赤狩り」の時代を劇的に生きたダルトン・トランボ

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NHK、BS歴史館 シリーズ ハリウッド100年(1)「ローマの休日」〝赤狩り〟の嵐の中で ―〝赤狩り〟と闘った男たちの知られざる物語 ― が2011年5月20日に放送され、私はその番組を視聴して衝撃を受けました。
 映画「ローマの休日」を見て「おもしろいな」とは思いましたが、それ以上ではありませんでした。その後、NHKで映画「ローマの休日」を見る機会があり、これまでとは全く違って(真面目に)視聴しました。またトランボが監督した映画「ジョニーは戦場へ行った」も見ました。
  それ以来、ダルトン・トランボとはどういう人?と関心を持ってきました。
 今年になって、ダルトン・トランボのことが映画化されたことを知り、映画の原本になった伝記「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を購入し、約3ヵ月かけて第1回目を読み切りました。

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 この本は451㌻の長い本で、すらすらと読み進められる本ではありませんでした。トランボの伝記で、歴史的時間の経過も前後して出てきて私にはわかりにくい面もありました。
 この本でトランボの生活を通じてアメリカ文化と庶民生活の一端も知ることがでました。そして、なによりもトランボの人間性について包み隠さずに触れられていてすばらしいと思いました。妻と長男、長女、次女と5人の生涯しっかり結びついた姿も読んでいて何度笑ってしまったかしれません。ダルトン・トランボという人はすばらしい能力を持った人で、その力が、脚本家、作家、監督として社会の不正義に立ち向かわせる大きな力になったのではないでしょうか。今を生きる者として示唆に富んだ名言をたくさん遺していて味わい深く読むことができました。

 私が印象深く読んだヶ所はたくさんありましたが、その中からいくつかのヶ所を紹介させていただきます。

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pen この記録は私が本を読んで列記したものです。

まえがき   この本との出会い  ジヨン・マクナマラ
                      2015年6月

  2008年の春、WGA(全米脚本家組合)のストライキが終わろうとしていた。アメリカのテレビ番組や映画の脚本家たちが、雇用主である大手スタジオを相手に戦った五か月にわたるストライキで、業界は疲弊していた。
 多くの同業者たちと同じように、私も失望と満足を味わい、そして仕事がないという現実的な問題を抱えていた。
私はこれまでの人生のほとんどを、テレビ番組の脚本執筆と制作に費やしてきた。そのほとんどが1時間もののドラマだ。私は仕事を求めて、友人や面識のない人、さらには敵とまで、手あたり次第に会う約束をした。仕事探しのためには、プライドなんていっていられない。
 ケヴィン・ケリー・ブラウンは長年の友人だ。腕利きのテレビ・プロデューサーとこだわり屋の私は、その日、私の仕事部屋で企画を考えていた。私か脚本を書き、ふたりでテレビシリーズの制作ができないかと相談していたのだ。話し合いは楽しかったものの、この日は何の収穫もなさそうだった。
 ケヴィッを外まで送ろうと、本棚の前を通り過ぎたとき、ケヴィンが一冊の本に目を留めた。
 「彼を知っているよ」ケヴィッはそう言って、太い書体でタイトルが印刷された本に手を伸ばした。1977年刊行の『ダルトン・トランボ』の初版ハードカバーだった。
 「ダルトン・トランボを知っているのか」
 「いや」と言って、彼は本を開いた。「ブルース・クックだよ。すごいやつさ。数年前に亡くなったんだ」彼は写真のページをパラパラとめくった。「ダルトン・トランボつて誰だい?」
 私の説明はおよそ15分かかった。その間もケヴィンはただ耳を傾け、トランボの人生が劇的な展開に差しかかると、そのたびに「まさか!」や「嘘だろ!」という言葉を差し挟んだ。何か面白い話を聞かせるのなら、・・・・

トランボとはいったい何者?  

 ブラックリストの時代が終わってからというもの、まさにそうした、気まずく、うしろめたい、ときにこそこそした鉢合わせがあちこちで起きた。パーティーでは何も知らない陽気な女主人が、裏切られた人を裏切り者に引き合わせた。エージェントは敵同士を同じ映画で組ませた。街角や郵便局で顔を合わせる可能性はもちろんのこと、ときには失業手当を受ける列でばったり出くわすこともあったかもしれない。

 私はずっと考え続けてきた。ブラックリストという苦難を乗り越え、マッカーシーの時代にハリウッドに踏みとどまり、映画の闇市場でかろうじて生計を立ててきた男-そんな男は、今すべてを振り返ってどのように感じているのだろうかと。苦々しく思っているのだろうか。できることなら復讐したいと思っているのだろうか。こうした疑問が私を必然的にダルトン・トランボヘと導いてきた。

ブラックリストとその影響についての記事を調べるうちに、数年前、初めてトランボと出会ったのだ。そのとき彼の魅力に取りつかれたといえば大げさに聞こえるだろうが、ある意味それは間違っていない。下手をすれば、この先私が語ろうとしている話の客観性を疑われる恐れもある。しかし、トランボの本質を伝える言葉として、やはりこのままにしておきたい。彼には超人的な何かがあるのだ。肉体的なことではなく ― 背丈はつま先立ちになっても170センチそこそこだ ― 人間としての本質に関わることだ(トランボについて語られ言葉で最も核心に迫っているのは、かつてインタビューをした女性ジャーナリストの「きわめて魅惑的な個性の持ち主」という表現ではないだろうか。もちろん性的な魅力という意味ではない)。トランボが何者で、どんな功績があるのかを知らない人でも感じずにはいられない、ある種のカリスマ性があるのだ。

 ではトラッボとはいったい何者で、何を成し遂げたのだろう? もちろん、作家であることは間違いない。だが、その文学性を語るうえで難しいのが、どんな作家なのかという点である。小説家だろうか? トラッボは四つの小説(さらに未完の小説がひとつ没後に出版されている)を書いている。そのひとつ『ジョニーは戦場へ行った』は1930年代のアメリカの小説の中でも最高傑作に挙げられる。残り三つの完成作のうち、ふたつはたいした出来ではなく、残りひとつはこの国で出版されてもいない。では劇作家としてはどうだろう? トランボが書いた唯一の戯曲、『町一番の大泥棒』はロンドンで連続公演されるほどの素晴らしい出来ではあるが、劇作家として評価されるほどの作品ではない。では、映画の脚本家としてはどうか? もちろん、この分野では大成功を収めている。アメリカ映画界において、おそらく誰よりも長いキャリアを持ち、休むことなく作品を生み出してきた。駆け出しのころには、クリストファー・モーリーの小説を映画化した『恋愛手帖』で、アカデミー賞にもノミネートされている。1947年にブラックリスト入りしたときには、すでにハリウッド一高いギャラを稼ぐ脚本家だった。ブラックリストの時代でさえ、いわゆる闇市場で仕事を続け、安いギャラで脚本を書き続けた。それでも、質を落とすことはなく、それどころか、闇市場時代の脚本のひとつである『黒い牡牛』は、偽名ではあるものの、アカデミー原案賞(この賞は1957年に廃止されている)を受賞している。トランボはブラックリストを破った男だった。1947年から1960年の間、何百人という脚本家や監督、プロデューサー、俳優たちが、映画界での仕事の機会を奪われていたが、その中で最初にスクリーンに名前を復活させた。その作品が『栄光への脱出』(1960年)で、この年の最高傑作に挙げられている。
(注 小山-1960年には「スパルタカス」にもトランボの名前がクレジットされた。「スパルタカス」の脚本契約は1959年5月に行われ、偽名のサム・ジャクソンを使ったりしている。監督はスタンリー・キューブリック。「栄光への脱出」の脚本は1959年12月に書くことになり、監督のオットー・プレミンジャーは1960年1月19日、トランボに電話で「君の名前が今晩の『ニューヨーク・タイムズ』の第一面に載るぞ。君を『栄光への脱出』の脚本家だと公表した」と伝えた。)

 その後は、必ずしも芸術性の高い作品ばかりではないものの、もっぱら大作のみを手がけ、高額のギャラを得ている。
 ところで、映画の脚本家は、他の作家とどこが違うのだろう? 最高の脚本家であっても、できるのは映画についての全体像を監督に提供することだけだ。トランボでさえ、脚本を職人仕事だととらえていた。そうなると、非凡な才能を持ち、数々の場面で真の芸術的才能を発揮してきた、この有能で多作な作家をどう評価すべきか、という問題が残る。それも、その生涯において、芸術的功績として挙げられるのはひとつの小説とほんの一握りの脚本しかないのだ。
 トランボはこのような未来を思い描いていたわけではない。1920年代や1930年代の他の若手作家たちのように、最初は小説家を目指していた。脚本の世界に足を踏み入れはしたが、一時的な仕事のつもりだった。ロサンゼルスといううってつけの場所にいなかったら、果たして映画業界に入り込んでいただろうか。おそらくそうではなかっただろう。しかし、映画の脚本を書くのをやめてフィクションに専念するかにみえたとき、歴史が邪魔をした。望むと望まざるとにかかわらず、タルトン・トラッボは政治にのめり込んでいった。率直に言って、トランボはそう望んでいたのだと思う。小説家として名を上げることに劣らず、政治の表舞台に立つことにも魅力を感じていたのだろう。一度は舞台に上って、その役を堂々と演じたのだから、政治の才能があったことは明らかだ。彼の経歴をたどれば、その芽はすでに高校時代にあったことがわかる。もともと闘争的で、議論に長けていた。共和党員、民主党員といった昔ながらの看板を掲げ、一般的なやり方で政治活動を始めていれば、おそらく大成功していただろう。
 しかし、トラッボは急速な社会変革を求める急進主義者だった。若いころに身をもって貧しさを味わってからというもの、その点は一貫している。コロラドから出てきたばかりの20代のころは、漠然とした大衆主義者だったが、その前途は個人的な経験によって変えられた。大恐慌が深刻化したころ、トラッボは映画の仕事にありつき、個人的な経済状況は好転する。しかし、撮影所のすぐ外で貧しさにあえぐ人々を見て見ないふりをするような、近視眼的な考え方に至ることはなかった。たしかにチャンスをほしいままにし、「ハリウッドを味わって」はいたが、自分が何者か、そして何者だったかを決して忘れはしなかった。迫りくる戦争の影にも心を乱された。そして戦争が始まったとき、限られた選択肢の中から、共産党員になる道を選んだのである。

 ハリウッドでは、脚本家、監督、俳優、そしてわずかながらプロデューサーまで、一世代がまるごと、トランボのようにどこまでも左に傾いていった。プールつきの豪邸に住んでいたことから、不名誉なことに、後に「スイミングプール・コミュニスト」と呼ばれた彼らは裕福だった。それは映画界で最も才能ある人々が含まれていたからで、ハリウッドでの評価はドル記号や数字で示されたからだ。注目すべきなのは、彼らの多くが急進主義者だったことではなく、その圧倒的多数が、そして後にブラックリスト入りする何百人という人々が、仲間を密告するよりも、進んでプールを手放したことだ。自分が手にしているものをそのまま持ち続けるほうがたやすかったはずだ。HUACが求めたのは数人の名前、そして善意と協力の意思表示だけだった。しかし、実際に協力した人はごくわずかで、公正を期すためにいえば、それも自分の持っているものを守りたいという自分勝手な欲望のためではなかった。HUACに密告した人の数だけ、理由の数もあるのだ。しかし、協力を拒み、自尊心以外のすべてを失った大たちにとって、正当だと認めることができたのは、道徳上の理由だけだった。

 協力を拒んだひとり、マイケル・ウィルソンと話すため、私は海岸沿いに車を走らせた。映画業界で最も優れた脚本家にしてアカデミー賞受賞者、大作を手がけ、失われた脚本の救世主でもあるウィルソンは、トランボと同列に語ることのできる数少ない作家のひとりだ。1951年9月20日、HUACの前に〝非友好的な〟証人として姿を現したウィルソンは、現在共産党員か、あるいは以前に共産党員だったことがあるかと尋ねられると、憲法修正第五条を盾に、自らの不利益になるとして答えを拒んだ。その後の長い年月、ウィルソンはトランボと同じように闇市場で仕事をすることによって生き延び、成功さえしている。また、トランボと同じように、ブラックリストの時代に偽名で脚本を書いた映画がアカデミー脚色賞を受賞している。ウィルソンはタフで逆境に強く、道徳的な立場を最後まで守り抜くことのできる力と知性を持ち合わせていた。


アメリカ共産党に 入 党

  1943年の12月後半、トランボは共産党に加わった。なぜ、どのような経過で人党したのだろう。まず、このころは戦時下にあったことを思い出してほしい。アメリカとソ連は同盟関係にあった。
アール・ブラウダーの指揮のもと、当時の共産党はアメリカと戦争を強く支持する路線を歩んでいた。カンザス生まれで、ロシア人の妻を持つブラウダーは、人種問題や労働紛争などに関する党の従来の姿勢を、時代の趨勢に合わせて軟化させ、マルクス主義をもっと広く受け入れられるものにしようとした。これはある程度成功し、トランボが入党したおよそ六か月後の1944年5月には、党員数は8万人という最高記録に達している。そして翌1945年には、地方選挙で多少の成功も収め、ニューヨーク市では共産党公認のふたりの候補者が市議会議員に当選している。ブラウダーは党名までも改め、共産主義政治協会とした。
 これが背景である ― 弁明ではない。トランボは共産党員になったことについてなんら弁明しなかった。かつては、そのことについて意見を交わすよりも刑務所へ行くことを選んだかもしれないが、この日、書斎に座ったトランボは、どんなことでも喜んで話したいといった様子だった。これまでのインタビューでは私かあまりにも慎重になり過ぎて、トランボには物足りなく感じたのかもしれない。ここ数日、まるでそれがふたりの間の暗黙のルールであるかのように、私はトランボが共産党員だったことについて尋ねることを何度となく避けてきた。煮えきらない態度といわれるかもしれない。だが、私の側には気まずさしかなかった。そんな折、トランボは自らその話題を取り上げたのだ。
 「さて」と彼は切り出した。「まだ話していないこと、それも絶対に話しておかなければならないことがひとつ残っているんだが」
 私は咳払いをしてから尋ねた。「というと?」
 「共産党員だったことだ」
 「そう。あなたは戦時中に入党したんですよね」
 「1943年だ」
「戦争などの影響が大きかったのですか」
 「いや、あまりないね。知っての通り、共産党員だとか、共産党員を自認する友人たちと一緒に仕事をしてきたんだよ。SWG(映画脚本家組合)が姿を変えつつあった1936年のころからね。ハリウッドの労働組織 ― 職能別組合や、特にリーダー組合など ― で、俺はかなり精力的に動いていたんだが、その仲間には共産党員もそうでない者もいた。リーダー組合は結成に至るまでは、もちろん秘密だったが、ホーリーリッジ大通りにあった俺の家で結成が発表された。結婚する少し前に、母と暮らしていた家だ。そこで基調講演者として挨拶したのがダシール・ハメットだった。俺もリーダーだったし、リーダー組合の結成を支援していたから、嬉しく思ったよ。この通り、こうしたひとつひとつの活動に関わってきたし、親友の幾人かは共産党員だった。誰かに無理に党に引き入れられたわけじゃない。そんな必要はなかった。彼らを信頼し、尊敬し、好きになっていたからね。それから戦争が始まり、戦争中は共産党員とも共産党員以外とも一緒に仕事をしたが、やがて自分が本心を偽っていると感じるようになったんだ。
 誰かの受け売りだと思われたくないが、共産党に対する反発が強まって、ハリウッドでMPAPAI(アメリカの理想を守るための映画同盟)が作られたこともあり、何か困った事態になるだろうという確信が強まった。もしそんな事態になるなら、共産党の一員になりたいと思ったんだ。長い間、友情の美味しいところだけ味わって、その代償を払わずに逃げるなんてできなかった。おかしな話だと思うかもしれないが、俺はまったくそう思わなかった。これが動機のひとつだ。あれが友人たちでなければ、入党はしていなかっただろう。公開集会に誘われたとき、それが何を意味するか十分承知したうえで参加した。そこで誰かに「入党しませんか?」と誘われたとき、俺は「入党すると決めていなければここには来なかったさ」と答えた。こうして党員になった。俺にとってはそんなに重大なことではなかった。自分の考えや人生ががらりと変わるわけでもなかった。党員証も持っていたよ。シャツのポケットに入れていたんだが、そのシャツを母の家に置いて帰ってしまってね。牧場で暮らしていたころは、母のところに洗濯物を置いていたから。党員証はシャツのポケットに入れたままで、それ以来見ていない。そんなわけで、共産党員になったことに特に深い意味はないんだ。一生忘れられないほどの出来事というわけでもない。結婚とは違って、正確な年も日付も思い出せない。実際、何も変わらなかったし、もう10年早く入党していてもよかったくらいだ。だが、入党を後悔したことはない。いや、入党しなければ後悔していただろう。それは俺にとって生きることそのもので、歴史上の重要な時期、今世紀で最も重要な時期、最も壊滅的な時期の一部になることだった」
 こう語る彼の口ぶりに、いつもの冗談めいたところはまったくなかった。単刀直入に、そしてざっくばらんに事実関係をはっきりさせた。「共産党にはどんな人たちがいたのですか」と私は尋ねた。
 「いいかい、1935年から1945年の間に、共産党に関わった人は100万人近くいるんだよ」トランボは言った。「知識人で何らかの影響を受けたのはごくわずかだが、その中にはすごくいい人たちがいた。1940年代以降、ありとあらゆる誹謗中傷が共産党に向けられたが、どれとして党にいる人たちについて正確に言い当てたものではなかった。党には利己主義なやつもヒステリーなやつもいたが、それはどこにでもあることだ。ただ、彼らが共産党員になったのは、人気取りのためじゃない。金儲けができるからでもない。党員であることがわかれば、職を失うことは重々わかっていた。共産党員になるのに利己的な理由なんてないんだ。革命が起こって努力が報われると期待したからでもない。俺の知るかぎり、共産党員の中にアメリカで革命が起こるなんて期待していたやつなんてひとりもいなかった。遠い将来でもなければね。そんな見返りはなかった。FBTI(連邦捜査局)に監視されるだろうということもわかっていた。パーマー・レイド(20世紀初頭に行われた左翼狩り)で出来上がったパターン通りに、騒ぎが始まった瞬間、最初に刑務所に行くことになるのは自分たちだとわかっていたのさ」
 「なるほど、ではどうして彼らは入党したんですか」私は尋ねた。
 「そうだな、ほとんどが人道的な理由だったと思う。大恐慌とアメリカ経済の崩壊が始まった時期、失業者は1400万人にもなり、それが瞬く間に世界中に広がった。そして世界では、ドイツやスペイン、イタリアでファシズムが台頭し、1940年代にはついに戦争が勃発して五千万人から一億人という人たちが死んだ。あちこちに地獄の炎が上がった。広島や長崎だけじゃなく、アウシュビッツやトレブリンカの強制収容所でも。そんな時代に、よりよい世界を作りたいと望むのは、決して狂気の沙汰ではない。それこそ、入党した人たちのほとんどが求めていたものだと思う」

 離 党

 上訴請求の手続きが長引くにつれて、ハリウッド・テンと弁護士たちは、この問題を世間に知ってもらい、支持を集めるべきだという思いを強めていた。1948年には、大きな支持を勝ち取ることができそうにみえた。この年、進歩党(セオドア・ローズベルトが結成した革新党でブル・ムース党とも呼ばれる)のヘンリー・A・ウォレスが大統領選に出馬したのだ。ウォレスの選挙運動へのトランボの関わりは最小限のものだった。トランボは一、二度演説をし、ウォレスを支持する手紙を書き、それがハリウッド・テンの他のメンバーの声明とともに選挙チラシに転載された。ハリウッド・テンの信念をヘンリー・A・ウォレスの信念と重ねるための ― そして、ウォレスの信念をハリウッド・テンの信念に重ねるための ― 努力がなされた。
ウォレスが大敗したときには、ハリウッド・テンも支持者たちもがっかりしたに違いない。
 そして、1948年はトランボが共産党を離党した年でもある。「レイジーTで暮らしていると、町へ行くにも車で85マイル走らなければならなかったし、ハリウッド・テンなどの問題などで、忙しかったんだ。それで、ただ何となく疎遠になってしまってね。信条を変えたわけじゃない。集まりに行くのをやめ、もう戻らなかった。共産党に入る前と同じくらいの距離を置くようになった」
 その翌年の1949年には、ハリウッド・テンの間にさらに失望が広がった。最高裁の裁判官、フランク・マーフィーとウィレイ・B・ラトリッジが続けざまにこの世を去り、議会侮辱罪についての上訴が審理される確率は、55パーセントから37パーセントに下がったのだ。何か手を打つ必要があった。そこでトランボは「ヒキガエルの時代」と題した政治パンフレットを書いた。強い党派心に基づいてはいるものの、そこにはこの件の論点がかなり明快に考察されている。
 トランボは「ヒキガエルの時代(この奇妙なタイトルはアルソレッド・ドレフェス=1894年にフランスで起きた冤罪事件でスパイ容疑をかけられた)のためにエミール・ゾラが書いた公開状の中で使われている修辞的な言い回しからとっている)」の前半で、HUACの前で議会侮辱罪の出廷命令が下されるまでの経緯を説明し、後半では、ハリウッド・テンの件で提起されたもっと大きな問題について詳細に論じている。この問題が、当時高まりつつあった冷戦の兆候が国内に現れたものだとする見方を示したのは、トランボが初めてだったかもしれない。「わが国の外交政策は反ソ連の立場をとっている。そして国内の問題においては社会主義や共産主義的性格を持つあらゆるものに反対している。こうした対立が、わが国の存在の根本要素となっているのだ」ここで焦点をあてているのは、やがて最も熱心に冷戦主義を打ち出すことになる反共産主義の猛者、ニュー・リベラリズムであり、最大の標的はアーサー・M・シュレジンジヤー・ジュニアだった。彼はすでに公開討論会で、現在もしくは過去に共産党員であった大学教員の学問の自由を、原則として否定するという見解を明らかにしていた(のちに『サタデー・レビュー・オブ・リテラチャー』に掲載された「共産党の世界」という記事の中で、ハリウッド・テンを正面から攻撃したシュレジンジャーは、仇敵となった。トランボはこの男を憎んでいたといってもいい過ぎではないだろう)。
 トランボは「ヒキガエルの時代」の中で、ハリウッド・テンの苦難を、HUACの前で10人が
とった態度の核心にある言論の自由と知的自由に突きつけられた脅威と結びつけ、警鐘を鳴らそうとした。ハリウッド・テンは、上訴請求期間中に国民の支持を得ようと、表立った活動を繰り広げた。全国を巡って演説し、大会や会合に姿を現し、「ヒキガエルの時代」を何度も読み上げた。カーネギー・ホールで行われたハリウッド・テンのための集会には、大勢の人が詰めがけ、トランボはそこで演説をした。


HUAC(下院非米活動委員会)
1947年10月28日のトランボの陳述から

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 ローソンに次いで、非協力的で、〝非友好的な〟証人として登場したのが、ダルトン・トランボだった。彼が証人台に立つたのは、1947年10月28日午前10時半で、ローソンが委員会室で起こした大騒動のちょうど一日後だった。J・パーネル・トーマス委員長の敵意に迎えられたトランボはそれに劣らぬ敵意で応酬した。
 まず、トランボが用意してきた冒頭陳述書を読み上げる許可を巡る前哨戦が始まった。トーマスは陳述書に目を通し、他のメンバーと協議した後、陳述書は「取り調べに関係」ないとして拒否した。
 驚いたことに、次に得点を上げたのはトランボだった。結局のところ、それが唯一の得点となるのだが。以下で「ストリップリンク氏」としているのは、HUACの調査官であるロバート・ストリップリングである。

  ストリップリング氏‥トランボ君、これからする質問に対し、すべて〝イエス〟か〝ノー〟で答えてほしい。答えた後で説明を加えたければ、HUACはそれに同意するだろう。しかし、聴聞会を円滑に進めるために、それぞれの質問には演説なしで回答しなければならない。
  トラッボ氏‥わかりました。あなたの役目は質問をすることで、私の役目は答えることです。     
  私がそうしたいと思ったときには〝イエス〟か〝ノー〟で答えます。そうでなければ、自分の
  言葉で答えます。たくさんの質問〝イエス〟か〝ノー〟で答えるのはばかか奴隷だけですから。
  委員長‥〝イエス〟か〝ノー〟で答える必要はないという点に同意する。
  トランボ氏・・ありがとうございます。

 トラッボが自分の書いた20本の脚本を調書に記載してほしいと求めたのはそのときだった。これはかなり突飛な発言に思えるかもしれないが、決してそうではなかった。J・パーネル・トーマスが聴聞会を開いたのは、ハリウッド映画-そして特に、〝非友好的な〟証人が手がけた映画―には共産党のプロパガンダ(HUACによってまだ証明されていなかったが)が盛り込まれているという罪を実証するためだと思われていたからだ。トランボの脚本も攻撃の的となっていた。これに抗弁するには、作品を見せる以外に方法はない。しかし、委員長は「脚本が長過ぎる」としてこの要求を却下した。
さらに、トランボが調書に残すために、戦時中の陸軍航空隊の最高責任者、H・A・アーノルド元帥など、(HUAC側から見ても)疑う余地のない有力者による自分の作品への賛辞を読み上げようとすると、それも阻まれた。
 ふたりは続いて、トランボがSWG(映画脚本家組合)のメンバーかという問題を巡って衝突した―これも単純な質問だが、トランボからすれば、言葉通りの単純な問題ではなかった。トーマス委員長が、その年の初めに情報収集のためにロサンゼルスを訪れた際、SWGは「共産党員だらけ」だと報道陣の前で話していたからだ。トーマスがこれを信じているとすれば、この話がどこに向かうかはトランボにもはっきりとわかった。

  トランボ氏・・委員長、この質問は特定の目的を意図したものです。まず―
  委員長(小槌を叩きながら)・・君は―
  トランボ氏・・第一には、私をSWGだと特定するため、第二には私を共産党と特定し、そ  れを理由にSWGを壊滅させようと―

 ふたりがこの点について言い争った後、ロバート・ストリップリングはトランボに決定打を浴びせた。「共産党員か、あるいは共産党員だったことがあるか?」トランボはこの質問にも答えなかった。
議論は、HUACの調査官が報道陣に公表した〝タルト・T〟の名で作られた〝共産党登録証〟に及び、トランボがそれを見ることが認められるかどうかを巡る口論へと発展した。それはトランボに開示されず、その数分後に証拠として提出された。証人席から連れ出される前に、トランボはHUACと委員長に向かって怒りを露わにしている。

  トランボ氏・・これはアメリカの ―
  委員長(小槌を叩きながら)・・ここまでとする ―
  トランボ氏・・制収容所の始まりだ。
  委員長 ・・典型的な共産主義者のやり方だ。

 「SWGのメンバーか?」と「共産党員か、あるいは共産党員だったことがあるか?」のふたつの質問に答えるのを拒んだトランボに対し、証言のすぐ後に、その場にいたHUACのメンバーによって「アメリカ合衆国下院の侮辱罪」が採決された。(SWG -映画脚本家組合)


WGAから功労賞を授与 そのスピーチで論争に 

 『ジョニーは戦場へ行った』の制作に乗り出そうとしていた時期の、1970年3月13日、トランボはWGA(全米脚本家組合)から功労賞を贈られた。「長年にわたって映画の脚本を発展させ、脚本家という職業に多大な貢献をした組合員」に毎年贈られる賞である。WGAが意図した通り、これは歴史的出来事となった。この年の功労賞は和解の証であり、あるいはそれ以上に、WGAがブラックリストに載せて不当に扱った多くの脚本家たちのうちのひとりに許しを請う象徴的出来事だった。ブラックリストはWGAが始めたわけではなかったが、進んで全面的な協力をしてきたのだ。この協力がなければ、ブラックリストは存在しなかったかもしれない。
 トランボはこの瞬闘のあらゆる微妙な意味合いや雰囲気を感じていた。このような状況では、賞を受け取る覚悟を決めて出席しただけでも十分だったろう。しかし、彼はそれだけではなく、その夜、その場に自分が出席することで生じる倫理的問題について触れるつもりだった。WGAの組合員を非難するつもりはなかった。そこにいる組合員の半分以上は、事実を深く心に刻むにはあまりに若過ぎた。そのことがわかっていたため、短い受賞スピーチの中で、トランボは彼らに向かって直接こう訴えた。

 「おそらく、組合員の半数以上は、ブラックリストの時代が始まった当時、まだ子どもだったか、生まれていなかったため、そのことを記憶していないのではないかと思います。そうした人たちのために、話しておきたいことがあります。ブラックリストの時代は悪の時代であり、どちらの側にいても、あの時代を生き抜いた人たちはみな、悪の影響を被ったのです。個人の力ではどうにもならない状況の中で、みなそれぞれ、自分の人間性、必要性、信念、個々の事情に従って対応せざるを得ませんでした。どちらの側にも、誠実と不誠実、正直と不正直、勇気と臆病、利己主義と日和見主義、知恵と愚かさ、そして善と悪があったのです。巻き込まれた人々のほとんどは、どんな立場にあっても、自分自身や行いの中にこのような正反対の要素を併せ持っていたのです。
 私は常々、40代やそれより若い世代の君たちは、あの暗黒の時代を振り返るべきだと思って  いるのですが、そうした場合に、悪漢やヒーロー、聖人や悪魔を探しても、何の役にも立ちませ  ん。そんなものはいないからです。いるのは犠牲者だけです。味わった苦しみの大きさは人それ  ぞれ違います。得をした人も損をした人もいるでしょう。しかし、最終的には、私たちはみんな  犠牲者なのです。ほとんどの人が例外なく、言いたくないことを言い、やりたくないことをやり、  意に反して傷を負わせたり負わされたりせざるを得なかったわけですから。だから、右派だろう  と左派だろうと中立だろうと、長い悪夢から目覚めた私たちの誰もが、罪の意識にさいなまれて  いるのです。」

 その場にふさわしいスピーチだった。ふさわしいどころか、雄弁で潔く、寛大なスピーチだった。
まさに司祭の力を与えられ、司祭として罪を許したのだ。
 しかし、寛大過ぎると感じる人もいた。トランボにとってかなり身近な人でさえもそう感じた。功労賞の夕食会の日はたまたま、トランボ夫妻の32回目の結婚記念日でもあった。トランボ夫妻の長年の友人である、弁護士のオーブリー・フィンとポーリーン・フィンも、この夕食会に出席していた。
「あのとき初めて聞いたんだよ」とフィンは言った。「彼が何を話すつもりか前もって知らされていなかった。帰りの車の中でクレオがそのスピーチに対して不満を漏らした。あまりにも寛大過ぎると感じたのだろう」
 そして、最初のハリウッド・テンの数人を含め、トランボが言ったことに異論を唱えた人たちもいた。レスター・コールもそのひとりだ。「トランボの『いるのは犠牲者だけ』というスピーチには賛成できなかった。あれは本当にショックだったよ。俺に言わせれば、フォードがニクソンを許すようなものだ」
 アルヴァ・ペッシーもこう語る。「そうだな、おれは悪漢もヒーローもいたと思っている。トランボも以前はそう考えていたと思うんだがね。悪漢はいた。そしてヒーローがいたとすれば、トランボはそのひとりだ」
 アルバート・マルツは、特にトランボの功労賞スピーチに対して、頑として手厳しい反対意見を述べている。不思議なことに、ふたりは数ブロック離れたところに住み、かなり親しい間柄であったが、二年以上もの間、マルツはこの件に関してトランボに自分の思いを明らかにしていない。そして、『ニューヨーク・タイムズ』のビクター・ナバスキーに語ることで、初めてこのスピーチに対する批判を公にしている。ナバスキーはこれをブラックリストに関する記事にまとめ、その記事はのちに『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された。一部ではあるが、マルツの言葉を紹介しよう。

  「最近、ダルトン・トランボによって、ブラックリストの時代を経験した人はみな、同じよう
  に犠牲者だという命題が初めて表明された。これは実にばかげた解釈であり、混乱を招くような道徳観を示している。
   極端な例を挙げれば、友人をゲシュタポの拷問部屋送りにした、フランスの地下組織の密告者も、同じように犠牲者ということになり、人生には善も悪もなくなってしまう……。
 〔トランボは〕自分がブラックリストに載っていたころも、「ヒキガエルの時代」という素晴
 らしい政治パンフレットを書いたときも、公私のいずれにおいても、この信条を掲げてはいな
かった。いったいどうしたら「ヒキガエルの時代」の再発行と同時に、「犠牲者しかいない」
という信条を表明することができるのか、私には理解できない。おそらく、これは私やその他仲間たちに向けた言葉ではないのだろう。しかし、これだけは述べておきたい。「みんな犠牲者」という彼の倫理観は、協力しなければ罰が下されるという状況下で、HUAC(下院非米活動委員会)に協力した人々すべてに熱狂的に受け入れられたのだ」

 ナバスキーはマルツのこの発言内容をトランボに見せて、コメントを求めた。トランボはかなり穏やかな意見を述べ、功労賞の際のスピーチで「誰もが……同じように犠牲者だ」とは言っていないとすら指摘しなかった。トランボはナバスキーに、マルツと公の場では議論したくないと伝えている。
しかし、ふたりの間で個人的な争いが起こるのを止めることはできなかった。ふたりの言葉を引用した記事が掲載されるずっと前から、マルツとトランボとの間では、怒りと激しい個人攻撃の手紙がやりとりされていた。
 マルツはトランボが見解を変えたことを、(実際にそうは言っていないが)敵に寝返ったとほのめかし、激しく非難している。また、少なくとも、トランボは彼らの裏切り行為を諸手を挙げて正当化したと指摘している。トランボも一歩も引かなかった。
「この国では、殺人犯や強姦犯であっても、更生して立派な市民になることができるという人道的な理論に立ち、しかるべき期間の罰を与えた後に社会復帰させている。そんな国にあって、私は25年前の憎しみの炎を煽り立てるつもりはない」
 これに対しマルツは、トランボが敵に手を差し伸べ、安心感を与えたと詳細に論じ、激しく応酬している。HUACの前で目分たちがとった態度は、トランボ自身が「ヒキガエルの時代」で論じたように、基本的に憲法に則ったもので、自分たちは修正第一条を救うために刑務所へ行ったのだと訴えた。また、ブラックリストの時代にはヒーローも悪漢もいたと主張している。刑務所に行った10人はヒーローで、密告者は悪漢だったと。しかし、トランボはこれを受け入れようとはしなかった。

 「私たちの一番の目的は密告者にならないことだった。私たちは憲法を盾に密告を拒んだことを擁護し、正当化した。その盾が必要だったから、そのために戦った。血を流すことを恐れずに、自らの意思で憲法の擁護に立ち上がっていれば、私たちの行為はもっと大胆で、気高いものになっていただろう……。自分たちが正しい側で名誉ある振る舞いをしたというだけで十分ではないか。それは当時受けた称賛、そして今再び受けている称賛に値するものだ。だからといって、私たちの行いが本質的に英雄的というわけではない……。
  ハリウッド・テンが英雄でなかったなら、いったい何だったのか? まさに、あの瞬間、あの
 状況で(必ずしも他のすべての瞬間や状況でそうだったとは限らないが)名誉ある行動を選んだ10人の男たちだ。激しい反発を受けながらも、人生のあの場面から今日に至るまで名誉を守る勇気があった男たちだ」

密告した人たちについても、トランボは断固とした態度で、そしてさらに雄弁に語っている。

 「罰を与えると脅されて証言を命じられた60人ほどがそれに屈した。つまり、密告者となった。
 彼らが密告者になることを望んでいたという証拠はほとんどないが、密告を嫌がっていたことを示す証拠はたくさんある。彼らはやむにやまれずそうしたのだ。恐怖(まったく根拠はない)と大きな圧力に耐えかねての行動だったのだと……。
 その誤りが何であれ、60人あまりの不本意な証人たちは、ふつうの良識ある人々なのに証言を迫られたのだ。それは永久に消すことのできない行いであり、違法であり、許すことはできないと私たちは力説してきた。彼らは圧力に屈し、情報提供者になった。証言を求められさえしなければ、密告することはなかっただろう。彼らは私たちと同じように、どんな人間にも強いるべきではない苦難の犠牲者であり、それを強いたHUACの犠牲者なのだ。歴史と悪漢の定義が正しく書き換えられるまで、彼らを悪漢と呼ぶことはできない。
  彼らが悪漢でなかったのなら、いったい何だったのか? まさに、あの瞬間、あの状況で(必ずしも他のすべての瞬間や状況でそうだったとは限らないが)名誉を捨てて密告者となることを選んだ人たちだ。それはもういいではないか。彼らは密告したという事実を抱えて20年以上生きてきたのだ。そしてもっと恐ろしいことに、その子どもたちも親が密告したという事実を抱えて生きてきたのだ」

 ここで長々と引用した手紙は41㌻にも及ぶ。しかし、それでもやりとりは終わらなかった。
どちらも前の手紙よりさらに辛辣な手紙を書いた。ついにトランボが手紙のやりとりを打ち切り ― 彼の最後の手紙は1973年2月9日付けになっている ― 『パピヨン』の残りの重要な撮影のために、ジャマイカへ向かった。

gawk トランボの偽名 
ドクター・ジョン・アボット
ロバート・リッチ  「黒い牝牛」でこの名前を使った
サム・ジャクソン  「スパルタカス」で

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《用語解説》

ハリウッド・テン
ブラックリストに載り、HUACによる聴聞会で証言を拒否したり、召喚に応じないことによって、議会侮辱罪で有罪判決を受けたハリウッドの映画関係者10人を指す。

アルヴア・ベッシー(脚本家)
ハーバート・ビーパーマン(映画監督・脚本家)
レスター・コール(脚本家)
エドワード・ドミトリク(映画監督)
リング・ラードナー・ジュニア(ジャーナリスト・脚本家)
ジョン・ハワード・ローソン(作家・脚本家)
アルバート・マルツ(作家・脚本家)
サミュエル・オーニッツ(脚本家)
エイドリアン・スコット(脚本家・プロデューサー)
ダルトン・トランボ(脚本家・映画監督)

赤狩り(マッカーシズム)
冷戦下の1940年代後半から1950年代前半にかけてのアメリカで、国家が国内・政府内の共産党や共産主義に関わりのある者を社会の中心から一掃しようとした動き。共和党上院議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーが煽動し、追及の中心となったことからマッカーシズムと呼ばれる。スパイ容疑や共産党との関連の疑いのある者を十分な証拠がないまま、喚問し追及した。追及は政治家、政府関係者、芸術家、そしてハリウッドの映画関係者にまで及び、嫌疑をかけられた人々の多くが仕事と社会的地位を失った。

HUAC(下院非米活動委員会)
冷戦の時代、国内の非アメリカ的な共産主義運動を監視し、ファシストを摘発する目的で1938年に米下院に発足した特別委員会。
赤狩りの中心的な舞台となり、形を変え存続し、1975年に廃止された。当時大統領であったトルーマンはのちに、委員会自体が「もっとも非米的であった」と回想した。

ブラックリスト
マッカーシーを中心に作成された共産主義者、あるいはその支持者と疑われる人々の取り調べを行う目的で作成された名簿。ハリウッドがその標的とされ、ハリウッド・ブラックリストと呼ばれる。映画監督、脚本家、俳優など共産主義に関わりがあるとされた者たちはみなブラックリストに載せられた。

修正第1条・修正第5条
米国憲法修正第1条は、政教分離の原則や信教・表現の自由を定め、言論の自由を保証している。修正第5条は、条文中で「何人も、刑事事件において、自己に不利な証人になることを強制されない。何人も、法の適正な手続によらずに、生命、自由または財産を奪われない」と黙秘権を認めている。HUACに嫌疑をかけられた人々はこれらを盾に争った。

修正1条(1791年)
連邦議会は、国教の樹立に関し、自由な宗教活動を禁止し、言論または出版の自由、平和的に集会し、苦情の救済を求めて政府に請願する人民の権利を縮減する法律を制定してはならない。

修正5条(1791年)
何人も、大陪審の告発または起訴によらなければ死刑を科される罪または懲役刑の科される破廉恥罪について責を負わされない。ただし、陸海軍内で生じた事件及び戦争または公共の危害に際して現に軍務についている民兵内で生じた事件は、この限りではない。何人も、同一の犯罪について生命または身体を2度の危険にさらされない。何人も、刑事事件において自己に不利な証人となることを強制されない。何人も、法のデュー・プロセスによらずして生命、自由もしくは財産を剥奪されない。何人も、正当な補償なしに私的財産を公共の用のために収用されない。

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一石投じたダルビッシュの冷静さ   鼓動より

米大リーグ機構のマンフレッド・コミッショナー

「この困難な状況の中で、彼(ダルビッシュ投手)の考えは模範となるほど素晴らしかった。・・・中でも特筆するべき点は、このネガティブな出来事を人々が学び、深く理解するための機会にしたいという意見だ」

bleah しんぶん赤旗の〝鼓動〟が10月31日付で伝え、11月1日付け「おはようニュース問答」で
さらに解説しています。これを読むと、なにかさわやかな気持ちになります。

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2017年10月30日 (月)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ④

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2017年10月29日 (日)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ③

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2017年10月28日 (土)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ②

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2017年10月25日 (水)

選挙結果を受けて共産党への暖かいエールに感動 ①

力強く誠実市民評価

善意は権力を脅かす

民主主義守る大英断

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25日付の「しんぶん赤旗」を開いて目に入って来たのが次の各氏の感想・意見でした。それを読んで「なるほど」と胸が熱くなりました。
紹介させていただきます。

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2017年10月21日 (土)

比例北関東選挙区 塩川、梅村 宝の2議席を守り抜いて

塩川鉄也さん、梅村さえこさん宝の2議席を守り抜いて

志 位 和 夫委員長が訴え

JR南越谷駅頭 10月20日

 みなさんどうか選挙はこれからが勝負です。
選挙は最後の最後までがんばった者が勝利を手にすることができます。この北関東ブロックもですね、比例代表で広いですから、なかなか見えずらいけど一票一票争う大激戦大接戦となっております。塩川さん、梅村さん、この宝の二議席をどんなことがあっても守り抜いて下さい。そして、もう一つ、この北関東で埼玉から共産党大躍進を勝ち取らせて下さい。

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訴える志位和夫委員長

 日本共産党への一票は市民と野党の共闘を前に進める確かな力になる一票です。

 私たちこの2年間、市民と野党の共闘によって日本の政治をよくする、日本の政治を変える、この取り組みに取りくんでまいりました。確かな成果を上げてきたと思いますよ。去年の参議院選挙では選挙区31の全てで野党統一候補を実現し11で勝ったじゃないですか、新潟の知事選挙でも勝ったじゃないですか、仙台の市長選挙でも勝ったじゃないですか。市民と野党が一つに力を合わせれば自民党を倒せる、証明済みのことではないでしょうか。

 私はこの成果をふまえて今度の総選挙でさらに共闘の流れを前に進めたいと決意しこの1年間取り組んできました。ところがですね、みなさん、総選挙の直前に、解散の日に民進党が希望の党に合流する、これを決定しました。希望の党といいますが、あまり希望内です。全然希望ないです。自民党と同じですから。安保法制は賛成、9条ふくむ憲法は改訂、再稼働も賛成と変わりないですね。この党に合流すること決めちゃった。私はそのニュース聞いたときに市民と野党の共闘に大変な逆流が持ち込まれたと考えました。しかし、私たち共産党は決して諦めることは致しませんでした。だって、みなさんこの2年間、共闘の絆は全国どこでも生まれてるじゃないですか。それは一部の逆流が起こったって決して無くなるものじゃありません。私たちは決してその時も諦めることはしませんでした。なにしろ、みなさん95年間、1回も諦めたことがない政党が日本共産党でございます。

 こういう状況の下でも、共闘を進め、安保法制廃止、立憲主義回復という大義に立ってがんばる政党、議員、候補者のみなさんには連携するとすぐに表明しました。その後新しい流れが起こってきました。私たちはもう時間がない、そういう下で共産党の候補者の方々を67名全部降ろしてでも共闘成功させようと決断いたしました。一人一人の候補者のみなさんみんな素晴らしい方です。一年も二年もがんばってきた方を候補者を取り下げるのは私どももつらいところでありますが、しかし、安倍政権を倒し日本の政治に民主主義を取り戻すという大義に立っての行動でございますので、どうかご理解いただきますと幸いです。

 そしてみなさん、そういうことをやったからには、全部で勝とうじゃないですか。全国249で3野党一本化ですよ。全部で勝って自民党に打ち勝って安倍政権さようならで、新しい日本の政治作るために力合わせようじゃございませんか。そしてみなさんこの共闘の流れをもっともっと前に進めたい。そのためにも、共産党の躍進がどうしても必要です。

 前回の選挙で8から21に大躍進させていただきました。この力があったからこそ、私たちは共闘の道に踏み出すことができたんです。みなさんのお力添えがあったからこそ我々今の市民と野党の共闘に取りくんでおります。この力がもっともっと躍進することが市民と野党の共闘を発展させ日本の政治をよくする一番の力になるんじゃないでしょうか。21に躍進させていただいたおかげで日本共産党議員団、議案提案権を衆参ともに持つことができました。たとえば、ブラック企業規制法案を提出しました。まだ、これ実ってませんがね、提出しただけで厚生労働省が動き出しました。全国のブラック企業の調査を始め400を超える事業所で是正をすでに勝ち取っております。みなさん、共産党がのびれば、そうやって一つ一つみなさんの願いが叶う方向で政治は動いてまいります。


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塩川鉄也さん

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梅村さえこさん

movie  クリックすると動画れます
https://www.youtube.com/watch?v=HVVNW_EG3mY&t=79s

比例北関東選挙区  定数 19(前回より1減数)
埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県で構成されている
埼玉13区の小選挙区では野党統一候補の社民党の池田まさよさんを日本共産党が推薦。日本共産党の候補者を降ろした。

比例北関東選挙区で
日本共産党は前回の総選挙で塩川鉄也さんと梅村さえこさんの2議席に前進。
今回の総選挙で安倍政権にさようならするため、塩川さん梅村さんの2議席を絶対確保し議席増を目指している。激しい接戦になっている。



 

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総選挙 2017 応援メッセージ 菅原 文子 赤旗から

共産党の努力無にしない

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2017年10月20日 (金)

総選挙 大激戦 比例は共産党  新潟・長岡市から

心意気にこたえねば

涙が出るくらいです


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«総選挙 2017 今言いたい が輝いている  赤旗から